いよいよ、西日本から東日本の各地で「桜の花の便り」が聞かれるようになりましたね。
桜の季節になると思い出されるのが、2人の「花の詩人」です。
今回は、西行と東行という2人の詩人について、紹介します。
まず、西行法師(さいぎょうほうし)について紹介します。
「春風の 花を散らすと 見る夢の さめても胸の さわぐなりけり」
比較的わかり易い花の句を多く読んでいる西行は、平安時代末期から鎌倉時代はじめ、いわゆる「源平盛衰期」を生きた歌人です。生まれは元永(1118)年で、亡くなったのは文冶(1190)年です。
西行は、もともとは武士で、俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)といいます。今でもいそうな名前ですね。
23歳で出家し、初め「円位」と称し、のち「西行」に改名します。
後鳥羽天皇から、「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたき」と評され、「新古今集」には最も多い94首が載せられるなど、当時から高い評価を受けています。
<西行法師の銅像(和歌山県紀の川市)>
西行が読んだ短歌の中でも、最も有名な歌の一つが次の歌です。
「願わくば 花の下にて 春死なむ
そのきさらぎ(如月)の 望月(もちづき)のころ」
満月の桜の下で死にたいという西行の願いは、ロマンチックですね。
西行は、この歌の願いどおり、旧暦2月(如月)の16日(望月=満月のころ)、満開の桜の季節に、河内国弘川寺(現在の大阪府河南町)で、73歳で亡くなりました。
ちなみに、旧暦2月16日を2015年にあてはめると、4月4日ということになります。
この短歌は、辞世の歌だとも言われていますが、実際には死の数年前の作だとする説が有力です。
<桜の花>
桜をはじめとする自然を愛し、人間の心を愛し、全国を旅して名歌を残した西行の生き方とその短歌は、後世の多くの人に愛され、現在に至っています。
幕末の動乱の時代にも、西行に憧れ「東行」と称した若者が、長州(山口県)にいました。彼の名は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)。あの有名な幕末の志士です。
彼は、26歳の時に、次のような短歌を作り、「東行」と称します。
「西へ行く 人を慕いて 東行く 我が心をば 神や知るらん」
高杉晋作は、天保10(1839)年8月20日に長州藩の城下町萩(現在:山口県萩市)で、長州藩の名門の家の長男として生まれました。
彼は、幼い頃から奇才として知られ、吉田松陰の松下村塾で学び、江戸や上海へも留学しています。
彼は、24歳の時に、身分を問わない軍隊「奇兵隊」を創設します。
また、ほとんど壊滅しかけた討幕運動を、元治元(1864)年12月に伊藤博文ら80人と起こした「功山寺決起」で復活させ、長州軍のリーダーとして小倉の幕府軍に勝利し、討幕に続く戦いを指導しました。
しかし、慶應3(1867)年4月14日に下関で、肺結核のため、27歳で亡くなりました。
この時の辞世の歌と言われているのが、次の歌です。
「おもしろき こともなき世を おもしろく 棲みなすものは 心なりけり」
<高杉晋作像 山口県下関市功山寺>
作家の司馬遼太郎さんは、吉田松陰と高杉晋作の生涯を描いた小説「世に棲む日々」の中でこう言っています。
「幕末ではなく、平和な時代に生まれていたら、高杉晋作は高名な詩人になっていただろう。」
高杉晋作、あるいは「東行」という人物は、残した詩歌はそれほど多くありませんが、司馬遼太郎さんが書かれているように「その短い生涯そのものが詩」である英雄だと思います。
高杉晋作のことは、いずれ詳しくご紹介したいと思っていますが、私は、日本の歴史上、最も「おもしろく生きた人物」の一人が、この若者であると思っています。
さて、山口県下関市にある高杉晋作の墓地には、「東行記念館」という晋作の遺品を集めた博物館があり、墓地のまわりには桜が多く植えられています。
最後に、高杉晋作が読んだ「おもしろい作品」と、桜の歌を紹介します。
・三千世界の 鳥(からす)を殺し 主(ぬし)と朝寝が してみたい
・死んだなら 釈迦や孔子に 追いつきて 道の奥義を 尋ねんとこそ思へ
・いまさらに 何をか言はむ 遅桜 故郷の風に 散るぞうれしき
西行法師と東行(高杉晋作)の2人は、いずれも春に亡くなった「花の詩人」です。
まもなく満開に咲く、今年の桜を見て、この2人に想いを馳せるのも
「おもしろい」かも、知れません。
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