2015年3月20日金曜日

落語の神様逝く 桂米朝さんの名言

 2015(平成27)年3月19日、「落語の神様」と呼ばれた上方落語の重鎮、桂米朝さんが肺炎のため亡くなりました。89歳でした。

 桂米朝さんの名言(★印)をはさみながら、米朝さんの生涯を紹介します。

★「大きなことは望まない。
泣いたり笑ったりしながら、1日1日が無事に過ぎて、何とか子や孫が無事に育って、自分は年寄りになって、やがて死んでいく。
それでいいというような、芸です。」(桂米朝)★

 桂米朝(かつら べいちょう)、本名中川清さんは、1925(大正14)年11月6日、旧満州の大連の生まれです。

 戦後、10人以下になっていた上方落語(関西の落語)界を、復興し、現在は200人以上と言われる規模に復興しました。 

 満州から父の里・姫路に帰ってきたあと、東京の大東文化学院(現 大東文化大学)に入学します。

 1944(昭和19)年に軍隊に招集され、翌年には入隊します。その後、大学へは帰っていません。(中退ということですね。)

 終戦後、4代目桂米團治の弟子となり、1947(昭和22)年に3代目桂米朝を襲名しますが、食べてはいけず、姫路市で郵便局員をやっていた時期もありました。

 師匠:桂米團治の死亡後、落語だけで食べていく覚悟を決め、大阪千日前劇場を本拠に活動を本格化します。

<写真:現在の大阪・千日前付近>


★「この世界、20年演っても受けるとは限らない。
もしかしたら、21年目に売れるかもしれないし、一生、売れないかも知れない。
ただ、嫌な人間にだけはなるな。」(桂米朝)★

  消滅の危機にあった関西・上方落語界を復興するため、テレビやラジオに積極的に出演し、人気回復を図ります。

 のち、上方落語の四天王(ほかの3人は、6代目笑福亭松鶴、3代目桂春団治、3代目桂小文枝)の一人と言われるようになります。

 1996(平成8)年、落語界2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)になり、
2009(平成21)年には、演芸会初の文化勲章を受章しました。

★「芸人はどんなに偉くなっても、つまりは遊民なのです。世の中の余裕、お余りにで生きているのです。」(桂米朝)★

 現在、米朝一門は60人を超えています。主な弟子としては、天才と言われながら自殺した桂枝雀さんをはじめ、桂ざこば、月亭可朝などがいます。

 多くの個性的な弟子を育てた桂米朝さんの人柄を偲びながら、米朝さんのご冥福を祈りたいと思います。
 
★「ええか、やっぱり最後は人間やで、人柄や。
どんなに上手くなっても、どれだけ売れても、人間性やで。
そやさかい、人間を磨いていかなあかんのや」(桂米朝)★




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