2015年3月19日木曜日

高校野球「甲子園の土」の物語

 「春は選抜から」
 今年も、選抜高校野球が3月21日に開幕します。
 今回は高校野球の聖地、「甲子園の土」の話です。

 甲子園の土は、試合に負けたチームが、涙ながらに記念に持ち帰るのが一般的です。
 いつから、こんな風習が、できたのでしょうか?

 夏の甲子園(選手権)の第1回大会は、今から100年前の1915(大正4)年に始まり、春の甲子園(選抜)の第1回大会は、1924(大正13)年に開催されました。
 しかし、初期には、グランドの土を持ち帰った記録はありません。

 高校野球で、グランドの土を持ち帰った記事が、最初に新聞に載ったのは1946(昭和21)年と言われています。
 
 この年の夏の第28回大会で、東京高等師範附属中学(現:筑波大学付属高校)の佐々木迫夫監督が、最上級生以外にグランドの土を持ち帰るように指示しました。
 ただし、この時は「来年、土を返しに来るため」に、持ち帰らせました。

 いわゆる「記念」に持ち帰ったのではないので、最上級生は入っていません。
 また、この大会は終戦直後で、甲子園が使えなかったため、持ち帰ったのは「甲子園の土」ではなく、「西宮球場の土」でした。

<高校野球の聖地・甲子園(バックスクリーンより)>


 では、甲子園の土を最初に持ち帰ったのは誰かというと、いくつかの説があります。

 有名なのは、1937(昭和12)年の夏の大会で準優勝した熊本工業の川上哲治選手(のち巨人の選手、V9時代の監督)だという説で、ユニフォームのポケットに入れて持ち帰り、母校のグランドにまいたと言われていますが、本人の証言はありません。

 もう1つの有力説は、1949(昭和24)年の夏の大会で、夏3連覇を逃した小倉中学のエース福島一雄選手が、最後の夏の準々決勝の延長戦で敗れたあと、無意識にポケットに入れて持ち帰ったという説です。

 どちらの説が正しいかはわかりませんが、川上哲治選手も福島一雄選手も、後に野球殿堂入りを果たしています。(もちろん「甲子園の土」が理由ではありません。)

 甲子園の土は、黒土と砂をブレンドしてできています。
 黒土は、鹿児島県鹿屋市をはじめ、大分県三重町、三重県鈴鹿市、岡山県日本原などから取り寄せています。

 一方、砂は、甲子園の近くの甲子園浜や瀬戸内海、中国福建省などの砂を使っているそうです。
 春は砂6対土4、夏は砂4対土6の割合であるため、夏の方が、甲子園のグランドが黒く見えるのは、土の割合が多いのが原因です。

<甲子園の土を持ち帰る選手>


  この甲子園の土を持ち帰れなかった選手たちがいます。
 
  1958(昭和33)年、本土復帰前の沖縄から初めて夏の甲子園に参加した首里高校の選手たちは、甲子園の土を持ち帰りフェリーに乗りました。

 しかし、当時、沖縄を統治していたアメリカの検疫で、土を没収され沖縄に持ち帰る
ことはできませんでした。

 後日、この話を、気の毒に思った日本航空の客室乗務員(当時、スチュアーデスと言っていました)たちが、甲子園近くの浜の小石を首里高校に贈りました。

 この小石は今も、首里高校の甲子園出場記念碑の中に飾られているそうです。

<首里高校の甲子園出場記念碑>

  最後に、昭和24年の夏、3連覇を逃して甲子園の土を持ち帰ったとされる小倉中学の福島一雄選手に、当時の大会の副審判長の長浜俊三さんが贈った言葉を紹介します。

「この甲子園で学んだことは、学校教育では学べないことだ。君のポケットに入った土を糧に、これからの人生を、正しく大切に生きてほしい。」

 甲子園の土は、今年も選手たちの汗と涙を吹い、輝くことでしょう。


 

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