2015年3月30日月曜日

東京ディズニーランドの「魔法の詩」 リピーター誕生の秘密

 1年ぶりに、東京ディズニーランドへ行きました。
 「ディズニーリゾート(ディズニー・シーも含めて)」へ行く度に、やっぱりここは、夢と魔法の国だなと思います。

 ディズニーの魔法は、特に子供と女性に効くようです。
 人生の試練の時を向かえている私を含むすべての人、特に不登校の子供の心にも勇気と魔法がほしいと願っています。

 ディズニーランドの中で、おもてなしの秘密を探しながら、魔法をテーマに詩を作ってみました。

<写真>






『ディズニーの魔法の詩(うた)』


東京デイズニーランドの キラキラとした光の中で
子供たちを待っている間 魔法の世界を覗いて見る

ラララ ラン ラン ラララ ラン ラン

目の前を歩く人たち みんなが魔法にかかっている
スキップしながら 夢見るように歩いている

頭の上には ミッキーやミニィーの耳が生え
ドナルドのくちばしや1つ目マイクのキャップを被る人たちもいる

ここは 夢の国だから 誰もが照れずに 大変身
ここは 魔法の国だから みんなが大胆にドレスアップ

ラララ ラン ラン ラララ ラン ラン

ほうきを持ったスタッフが 黙って歩いてきた
小さなゴミを さっさっさっと 掃除した

「何してるの?」
小さな女の子が聞くと

「星くずを集めているんだよ。」
スタッフは笑って 
雨上がりの水たまりに ほうきをつけた

地面に ほうきで サッサッ と書いた
「あっ ミッキーだ」
あっという間に 女の子は笑顔の魔法にかかったみたい



ラララ ラン ラン ラララ ラン ラン

マークトウェインが 蒸気船で旅をして 
トムソーヤは いかだで大冒険  
カリブの海賊が みんなで乾杯!

あれれ あれれ
夢の国に夢中になっていた 男の子が迷子になっちゃた
「うぇーん ママがいないよぉー」

近くにいたドナルドがやって来て 
男の子を抱っこして やさしく言った
「大丈夫だよ。すぐに見つかるよ。」

しばらくして 男の子は無事にママに会えた
大喜びでママに抱っこしてもらった よかったね

ラララ ラン ラン ラララ ラン ラン

ミッキーが現れるのは この瞬間は 
世界中でここだけなんだよ

ピータパンが飛び回り
プーさんは ハニーハント(蜂蜜取り)に出かけてる

ところで ディズニーじゃ 「迷子の呼び出し」 聞いたことないよ
どうやって 男の子のママを探したの

「もちろん 魔法だよ」
笑いながら  ダンボが小さな声で教えてくれた

本当はね セキリュティースタッフという
秘密のスタッフさんが たくさんいてね
迷子や病人を助け 防犯もやってるんだよ
 (おっと これは ナイショだよ)

ラララ ラン ラン ラララ ラン ラン

まだまだあるよ ディズニーの魔法

モンスターインクで3時間待つと
隣りに並んでいた AKBみたいにかわいい女子高生たちと
笑顔で「じゃあね」と挨拶できた

ビッグサンダーマウンテンで 大冒険すると
さっきまで 喧嘩していた家族が
ニコニコ ニコニコ 仲直り

あっ スプラッシュマウンテンで
お母さんの形見の 指輪を失くした人が
ベソ かいているよ

でも大丈夫
きっときっと ディズニーの30人のダイバーたちが
見つけてくれるよ

ラララ ラン ラン ラララ ラン ラン

エレクトリカルパレードで 大盛り上がり
花火で ちょっと しんみりすると
いよいよ 「夢と魔法の国」とも お別れ

寂しがる必要はないよ
ディズニーの魔法には
有効期限は ないからね

夢の魔法にかかったままで
明日からまた
学校や 仕事で がんばって

もしも 魔法が解けそうになったら
もしも 寂しく 笑顔を忘れたら
遠慮なく 夢と魔法の国に 帰ってきてね

ミッキーたちが まっているよ
イッツ・ア・スモ-ルワールドでね!


<写真:夜のディズニーランド>




 ウォールト・ディズニという1人の男と、ミッキー・マウスという1匹のネズミが作った「夢と魔法の国」は、今では世界中に広がり、日本の「東京ディズニーリゾート」の入場者数だけで、30年で6億人を超えたそうです。

 リピーター作りに苦しむ各地のテーマパークをしり目に、ディズニーは本当に「夢と魔法の国」を続けていますね。


2015年3月29日日曜日

東京ファンタジー「渋谷ハチ公像」 再開発でどうなる?  

 東京・渋谷のシンボル的存在の「ハチ公像」。
 日本人には待ち合わせ場所の定番として、外国人には「日本観光の目玉」として愛されているこの像についてのお話です。

 最近のニュースでは、渋谷再開発で、東急百貨店東横店やスクランブル交差点が無くなるという話題が紹介されています。

 それでは、再開発地域のまん中にある「ハチ公像」の運命は、どうなるのでしょうか。

 心配になって、久しぶりに渋谷のハチ公に会いに行ってみました。
 ハチ公は、依然と同じで人混みの中に黙って座っていました。
 周りの桜の木では、花が咲き誇っていました。

 ただ、以前と違うのは、ハチ公像と記念写真を撮る人の多さです。
 みんなが、ハチ公に別れを惜しんでいるのかなと思ったのですが、よく見ているとそうではなく、観光スポットとして記念写真を撮っているようでした。

 次々に、入れ替わり立ち替わりで、ハチ公と記念写真を撮る人たちの多くは、外国人でした。

<ハチ公像と記念写真を撮る人たち>


 そう言えば「若者の街」と言われた渋谷にも、外国人の姿が目立ち、外国語が飛び交っていました。
 ハチ公像も渋谷も、国際化が進んでいるようでした。

 次に、ハチ公像の歴史を紹介します。
 
 ハチ公像のモデルとなった秋田犬の「忠犬ハチ」は、1923(大正12)年11月10日に秋田県二井田村(現:大館市)で生まれました。

 翌年、東京・渋谷に自宅のあった東京大学農学部の上野英三郎博士に、当時のお金で30円でもらわれ、汽車で20時間揺られて上京し、渋谷生活が始まりました。

 ハチは、ポインター犬のジョンとエス(S)の二頭と一緒に飼われ、ハチは上野博士になつき、毎日、玄関前まで見送り、時には渋谷駅まで出迎えました。

 ところが、1925(大正14)年5月、大好きだった上野博士が病死します。
 ハチは、上野博士の死を知らず、毎日のように渋谷駅へ出迎えにいったそうです。

 これが定番の話ですが、実は、ハチはいたずら好きで、畑を荒らしたり、人にじゃれついたりしたそうです。(それでも、人に噛みつくことはなかったと伝えられています。)

 ハチは、その後、9年間も博士を待ち続けて、渋谷駅に毎日のように現れました。
 そのことが評判になり、1934(昭和9)年4月21日、渋谷駅の改札口の近くに、「忠犬ハチ公像」が建てられました。
 この時の除幕式には、著名人ら300人とともに、ハチ公自身も出席しました。どんな気持ちで、ハチ公は出席したのでしょうね。

<ハチ公像と桜>



 像が出来た翌年、1935(昭和10)年3月8日、ハチ公は11歳(人間の歳では60歳ぐらい)で亡くなりました。死因は、フィラリアと癌だったそうです。
 ハチ公のお墓は、青山霊園にある上野博士の墓の隣に建てられました。

 ハチ公の銅像は、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年に、金属供出のため壊されることが決まり、1945(昭和20)年8月14日、つまり終戦の前日に、溶かされて、東海道線を走る鉄道の部品の一部に、作り直されました。

 悲しい話だけど、駅で待ち続けたハチ公が、もし「犬鉄」だったとしたら、本望かも知れませんね。

 戦後、1948(昭和23)年8月に再建されました。
 再建直後には、あのヘレン・ケラーがハチ公像を触ったという記録があります。

 その後は、1日5万人とも言われる多くの人が「忠犬ハチ公像」の周りに集まり、渋谷のシンボル的存在となりました。
 私自身も、渋谷で友人と待ち合わせる時には、よく使わせてもらいました。

 さまざまな出会いや別れを見守ってきたハチ公は、今では「日本を代表する銅像」として、世界的にも有名になりました。

 それでは、渋谷再開発でハチ公像は、なくなるのでしょうか?

 ネットで検索して見つけた渋谷区役所の話では、「ハチ公像は、世界的に有名な渋谷の財産だと思っています。場所は移動することはあるかも知れませんが、なくなることはないと思います。」

 ちょと、ほっとしました。
「ハチ公は永遠に、東京・渋谷のシンボルであってほしい」と思います。

 最後に、心温まる話を一つ紹介します。

 2015(平成27)年3月8日。
 ハチ公が亡くなって80年目にあたるこの日、ハチ公が大好きだった上野英三郎博士に再会できました。

<ハチ公と上野英三郎博士の再会像>

 ハチ公と上野英三郎博士が再会するシーンのブロンズ像が出来たのは、上野博士が生前に勤務していた東京大学農学部のキャンパス(東京都文京区弥生)です。

 ハチ公と上野博士がしっかりと抱き合っているシーンは、銅像とはいえ、ジーンとしてきますね。
 まさに、東京ファンタジーかな。
「よかったね。ハチ公。」

 

2015年3月26日木曜日

桜開花!「2人の花の詩人」 西行と東行(高杉晋作)

 いよいよ、西日本から東日本の各地で「桜の花の便り」が聞かれるようになりましたね。

 桜の季節になると思い出されるのが、2人の「花の詩人」です。
 今回は、西行と東行という2人の詩人について、紹介します。

 まず、西行法師(さいぎょうほうし)について紹介します。

「春風の 花を散らすと 見る夢の さめても胸の さわぐなりけり」
 
 比較的わかり易い花の句を多く読んでいる西行は、平安時代末期から鎌倉時代はじめ、いわゆる「源平盛衰期」を生きた歌人です。生まれは元永(1118)年で、亡くなったのは文冶(1190)年です。

 西行は、もともとは武士で、俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)といいます。今でもいそうな名前ですね。
 23歳で出家し、初め「円位」と称し、のち「西行」に改名します。

 後鳥羽天皇から、「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたき」と評され、「新古今集」には最も多い94首が載せられるなど、当時から高い評価を受けています。
 

<西行法師の銅像(和歌山県紀の川市)>



 西行が読んだ短歌の中でも、最も有名な歌の一つが次の歌です。

「願わくば 花の下にて 春死なむ 
 そのきさらぎ(如月)の 望月(もちづき)のころ」


 満月の桜の下で死にたいという西行の願いは、ロマンチックですね。 
 西行は、この歌の願いどおり、旧暦2月(如月)の16日(望月=満月のころ)、満開の桜の季節に、河内国弘川寺(現在の大阪府河南町)で、73歳で亡くなりました。

 ちなみに、旧暦2月16日を2015年にあてはめると、4月4日ということになります。

 この短歌は、辞世の歌だとも言われていますが、実際には死の数年前の作だとする説が有力です。

<桜の花>


 桜をはじめとする自然を愛し、人間の心を愛し、全国を旅して名歌を残した西行の生き方とその短歌は、後世の多くの人に愛され、現在に至っています。
 
 幕末の動乱の時代にも、西行に憧れ「東行」と称した若者が、長州(山口県)にいました。彼の名は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)。あの有名な幕末の志士です。

 彼は、26歳の時に、次のような短歌を作り、「東行」と称します。

「西へ行く 人を慕いて 東行く 我が心をば 神や知るらん」

 高杉晋作は、天保10(1839)年8月20日に長州藩の城下町萩(現在:山口県萩市)で、長州藩の名門の家の長男として生まれました。

 彼は、幼い頃から奇才として知られ、吉田松陰の松下村塾で学び、江戸や上海へも留学しています。

 彼は、24歳の時に、身分を問わない軍隊「奇兵隊」を創設します。

 また、ほとんど壊滅しかけた討幕運動を、元治元(1864)年12月に伊藤博文ら80人と起こした「功山寺決起」で復活させ、長州軍のリーダーとして小倉の幕府軍に勝利し、討幕に続く戦いを指導しました。

 しかし、慶應3(1867)年4月14日に下関で、肺結核のため、27歳で亡くなりました。
 この時の辞世の歌と言われているのが、次の歌です。

「おもしろき こともなき世を おもしろく 棲みなすものは 心なりけり」 


<高杉晋作像 山口県下関市功山寺>



 作家の司馬遼太郎さんは、吉田松陰と高杉晋作の生涯を描いた小説「世に棲む日々」の中でこう言っています。

「幕末ではなく、平和な時代に生まれていたら、高杉晋作は高名な詩人になっていただろう。」

 高杉晋作、あるいは「東行」という人物は、残した詩歌はそれほど多くありませんが、司馬遼太郎さんが書かれているように「その短い生涯そのものが詩」である英雄だと思います。

 高杉晋作のことは、いずれ詳しくご紹介したいと思っていますが、私は、日本の歴史上、最も「おもしろく生きた人物」の一人が、この若者であると思っています。

 さて、山口県下関市にある高杉晋作の墓地には、「東行記念館」という晋作の遺品を集めた博物館があり、墓地のまわりには桜が多く植えられています。


 最後に、高杉晋作が読んだ「おもしろい作品」と、桜の歌を紹介します。

・三千世界の 鳥(からす)を殺し 主(ぬし)と朝寝が してみたい 

死んだなら 釈迦や孔子に 追いつきて 道の奥義を 尋ねんとこそ思へ

・いまさらに 何をか言はむ 遅桜 故郷の風に 散るぞうれしき


  西行法師と東行(高杉晋作)の2人は、いずれも春に亡くなった「花の詩人」です。
  まもなく満開に咲く、今年の桜を見て、この2人に想いを馳せるのも
「おもしろい」かも、知れません。



2015年3月25日水曜日

あったカフェの話3 伝説の喫茶「しぁんくれーる」 ~二十歳の原点の舞台~

 「あったカフェ」の3回目は、京都の伝説のジャズ喫茶「しぁんくれーる」です。

 「しぁんくれーる」は、星野玲子さんという方が、1956(昭和31)年に京都市上京区河原町に開店させた学生街にある喫茶店です。

 店の名前は、フランス語の「Champ Clair」(明るい田舎)に由来しているそうですが、日本語の「思案に暮れる」に通じる響きが、何とも癒されます。

 外観は赤レンガで、1階はクラッシック、2階はジャズをレコードで流す店です。京都を代表するジャズ喫茶というより、「伝説のジャズ喫茶」です。

 有名な来店者としては、歌手の浜田省吾さんが、まだ売れていなかった若い頃によく通っていたのをはじめ、「ジャズの帝王」と呼ばれるマイルス・ディヴィス(アメリカ、1926年~1991年)や、「この素晴らしき世界 What a Wonderful World」で世界的に有名なルイ・アームストング(アメリカ 1901年~1971年)も来日時に来店しました。

<京都の「喫茶「しぁんくれーる」



  しかし、「しぁんくれーる」を、ジャズ好き以外の人に有名にしたのは、何といっても、高野悦子(たかの・えつこ)さんという立命館大学の女子学生です。

 高野悦子さんは、1949(昭和24)年1月2日に、栃木県西那須野町(現:那須塩原市)で生まれました。
 高校卒業後、京都にある立命館大学文学部に入学します。

 1960年代末の大学は、学生運動が激しい時代で、高野さんは運動から1歩引いていましたが、友達が学生運動に参加したり。授業が休講になるなど、徐々に巻き込まれていきました。

 この高野悦子さんが、二十歳になった時に、書き始めたノートが「二十歳の原点」(1971年新潮社刊 タイトルは「にじゅっさいのげんてん」と読みます。私はずっと「はたちのげんてん」だと思っていました。)です。

 「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。」で始まる、二十歳の女子大生の青春の記録は、6月に鉄道自殺という悲劇的な結末で終わります。

 しかし、2年後に「二十歳の原点」の名で出版された彼女の日記は、多くの共感と感動を生み、「二十歳の原点」、その前の高3~大2までの記録「同 序章」、中2~高3までの「同 ノート」の3部作で、350万部を売る大ベストセラーになりました。

 この彼女が、恋愛や学生運動に疲れて、唯一のやすらぎの場所として、入り浸った喫茶店が、「しぁんくれーる」でした。

 私自身も二十歳前後の頃は、何度も「二十歳の原点」を読んで、喫茶「しぁんくれーる」に憧れました。

<「二十歳の原点」の表紙と高野悦子さん>



 かつて、坂本龍馬などの幕末の英雄が活躍した京都の街の真ん中で、ジャズやクラッシクを聞きながら、コーヒーを飲み「思案に暮れる」って、すごくいいと思いませんか。
 この店を、「あったカフェ」でご紹介した所以です。

 実は、残念なことに、この店は、今はありません。

 私は、閉店する直前に、1度だけ、京都の「しぁんくれーる」に行ったことがあります。
 高野悦子さんに想いを馳せながら、その時に作った詩を書きます。


詩 「しぁんくれーる in Kyoto」

都会の流れに逆らう勇気
ふと忘れかけ 足どり止める
いつもの喫茶 シァンクレール
いつものドアを そっと開くと
「Tomorrow Never Knows」が流れてきた
明日は知らない
今日も知らない
一人で 思案に暮れる in  Kyoto

南の隅の指定席で
窓辺にもたれ コーヒーを飲む
白いミルクとコーヒーが カップの中で溶け合えば
心の色と重なって
乾いた古都の シァンクレール
擦れた夢の オアシスなんだ
ガラス張りの窓からじっと
シナリオのないドラマを見つめる
シァンクレール in  Kyoto

横断歩道で立ち止まる老人
ちょっぴりはにかみ 笑いあう少女たち
車に乗った男女のカップル

それぞれの人が
それぞれの人生
持て余しながら歩いている
ついさっきまで 私もそんな一人だった
でも 今は
思案に暮れる in  Kyoto

かつて ここへ来たはずの 
一人の女学生に想いを馳せる
カチカチカチ----古時計の音が
あの頃を呼んでいる

あの頃は あの頃は
みんなが頭で生きていた
あの頃は あの頃は
みんなが体で生きていた
勿論 彼女もそうだった

今は-------

ガラス越しなら
これほど いじけた心さえ
カップル見ても僻まない
美人見ても 血が上らない

自分が読める 都会の図書館
しぁんくれーる in  Kyoto



<高野悦子さんが通った立命館大学>



 最後に、ネット検索でヒットした、全国のカフェ・喫茶「しあんくれーる」や「シアンクレール」を紹介します。

 それぞれのお店が、京都の「しぁんくれーる」の雰囲気を引き継いでいる「あったカフェ」かどうかは、近くの方が実際に行ってみて教えてください。

 私も、機会があれば、行ってみようと思っています。



▲ カフェ「しあんくれーる」 (北海道釧路市愛国東)
    TEL   0154-36-6742

▲ 洋菓子・喫茶「シアンクレール丸井溝口店」 (神奈川県川崎市高津区)
    TEL   044-814-0101

▲ 喫茶・イベントスペース「シアンクレール」 (山梨県富士吉田市下吉田)
    TEL   0555-24-2938

 カフェ「しあんくれーる」(高知県香南市野市町)
    TEL  0887-55-5188


2015年3月23日月曜日

スザンヌがんばれ! おバカでも「賢母」で

 芸能人の結婚・離婚の話には、いつもは、あまり興味ありません。

 でも、今回のスザンヌ(28歳)と斎藤和巳元プロ野球投手(37歳)との離婚では、1歳になったばかりの幼児を抱えたスザンヌがかわいそうで、りっぱで、エールを贈りたくなりました。

 また、今回の離婚には、一般人の家庭問題としても、考えさせられることが多いので、ブログのテーマとして取り上げます。


 特に感心したのは、3月18日の「離婚記者会見」と、3月22日にアップしたスザンヌの公式ブログで、「夫ではなくなっても、子供のお父さんではある」斎藤和巳さんの悪口を、スザンヌが一切言わなかったことです。

 3月18日に都内で、スザンヌ一人が行った記者会見では、「夫は一生懸命に、子供をかわいがってくれた」「私に余裕がなかった」と言って、夫を責めずに自分の反省を述べ、「夫婦にはなれたけど、家族にはなれなかった」と、結婚生活を振り返りました。

 さらに、斎藤和巳さんの不倫疑惑に対しても、「そんなことは、なかったと信じたい。」と話して、スザンヌの女としての株を上げたと思います。

 一方、3月22日に更新したスザンヌの公式ブログではこう書いています。

「たくさんのあたたかいコメント、ほんとに、ほんとに、ありがとうございました。
(中略)

大好きだったけど、それだけでは上手くいかないってことを学んだ
結婚生活。勉強になりました。
(中略)

彼には、感謝の気持ちでいっぱいです。」

 夫婦のどちら側にも言えることですが、子供の前で相手の悪口を言うことは厳禁だと思います。子供はじっと聞いていて、そのうち、相手はもちろん言った親のことも、馬鹿にするようになります。

 1歳になったばかりの子供と産後まもないスザンヌを置いて、一方的に離婚の道を選んだ元夫に言いたいことは、腐るほどあったと思います。
 でも、子供のために、ぐっと我慢したスザンヌは、すばらしいと思いました。

<スザンヌの故郷・熊本市の熊本城と桜>



 ここで、スザンヌのプロフィールを紹介します。

 スザンヌは、1986(昭和61)年10月28日、熊本県熊本市(生まれた時には植木町)生まれの28歳。本名は山本紗衣(やまもと さえ)さんです。

 母は、熊本市内で「キャサリン’s BAR」という飲食店を営む清美さんで、継父の
藤本博文さんは元・競輪選手、妹はマーガリン(本名 真央)さんです。
 名前はスザンヌですが、2世ではありません。

 地元中学に在学中の14歳の時に、芸能界にスカウトされ、最初は九州ローカルで活躍し、福岡の第1経済大学付属高校に進学しますが中退してしまいます。

 2006(平成18)年に、上京してタレント・女優・歌手として全国的に活躍します。
 テレビ番組「クイズ! ヘキサゴン」のおバカキャラとして、人気が出て、他のテレビ番組やCMにも多数出演しています。

 また、同じ「おバカキャラ」の里田まい(現:田中将大夫人)や、木下優樹奈と歌手グループ「Pabo」を結成しました。

 2011(平成23)年12月に、元福岡ソフトバンクホークスの投手・斎藤和巳さんと人気絶頂で結婚し、2014(平成26)年1月に長男を出産します。
 そして、2015(平成27)年3月16日に、斎藤和巳さんと離婚しました。

 「ヘキサンゴン」で6回連続最低点をとったり、熊本県宣伝部長就任式で知事本人の前で「知事の仕事をがんばります」と知事交代宣言をしたりして、おバカキャラでブレークしたスザンヌですが、 しかし、自分より子供のことを考えた今回の離婚対応では、すごく賢い「賢母」になったような気がします。


 最後にもう一度、スザンヌ自身が書いた公式ブログの3月22日の終わりの部分と、スザンヌを歌ったTheイナズマ戦隊の応援歌「Oh! スザンヌ」から一部の歌詞を紹介します。

「変わらず、でも新しい気持ちで頑張って行きますので、
これからもよろしくお願いします。

今日は息子にお仕事お付き合いしてもらうので、
お天気がいいこんな日は、
公園に寄り道してから、出発‼︎
息子の笑顔にたくさん救われてます( ´ ▽ ` ) 」
 
(スザンヌ オフィシャルブログ 2015年3月22日より)
 
 
🎵
待ち合わせの場所は 必ず間違える
言い訳はいつでも ネコがいたからと言う

(中略)

Oh!  スザンヌ 切ない夜でも
Oh!  スザンヌ 笑えばいいのさ
Oh!  スザンヌ それがいいのさ
Oh!  スザンヌ そのままがいいのさ🎵

 <♪「Oh! スザンヌ」より  THEイナズマ戦隊(歌・作曲) 上中丈弥(作詞)>


 ファンではなかったけど、「おバカでも、賢母でがんばれ」と、スザンヌを心から応援したいです。



 

2015年3月22日日曜日

不登校でも いじめでも「ラヴ・ユー・フォーエバー」

 3月21日の夜、NHK教育テレビで「いじめをノックアウト」という番組を放送していました。

 「いじめは戦争」「いじめは犯罪」と言うゲストもいて、「いじめノックアウト行動宣言」を、全国の先生や子供たちに呼びかけていました。

 また、番組司会をしていたAKB48総監督の高橋みなみ(たかみな)さんが、「相手のことをよく知ろう」 という授業を小学校でやっていました。
 隣同士の子に、相手のことを互いに知るために会話する授業をしていました。
 相手をよく知ることから、いじめをなくそうという訳です。

 すばらしい番組だと思いました。ホームページもありますので、興味のある方はご覧ください。

 さて、「いじめと不登校」の話です。

 文部科学省の「2014年学校基本調査」では、2013年度の不登校(年間30日以上、病気等の理由以外で欠席)の小中学生は約12万人で、前年より7000人増加しています。

  このうち、小学生は2万4175人で、前年比2932人増で、全体の0.36%です。小学生の278人に1人ということになります。

  文部科学省も言っているように、「不登校は、特定の子供に特有の問題ではなく、どの子供にも起こること」だと思います。

  身近にも、学校へほとんど行かなくなった小学生がいます。
  あまり、はっきりとは理由を言わないのですが、どうやら「いじめ」が原因のようです。
  川崎中一生殺人事件の、加害者も被害者もいじめが原因で、不登校になっていました。



  ところが、先の文部科学省の調査では、「不登校のきっかけがいじめ」というのは、中学生で2.1%、小学生で1.9%だということです。
  本当に、こんなに少ないのでしょうか。

  以前ほどではありませんが、文部科学省や学校は、依然として「いじめ」の存在を認めたがらない傾向が強いです。
 でも、原因をしっかり把握しないと、解決は難しいのではないでしょうか。

 もちろん、不登校の問題は、学校だけではなく、家庭にも問題があるのだと思います。
 
 不登校の一例を紹介します。

 子供は、「学校に行かないといけない」という気持ちはどこかで持っていても、いじめが怖くて、学校へ行けない。
 先生もがんばって、向かえに来たり、電話をくれたりしている。

 一方で、学校やカウンセリングや心療内科に無理に行かせようとすると、イスラム国などのネットやテレビの影響か、刃物を持ち出す。
 学校に行くのを先延ばしにして、結果的に「行く」という約束を破ってしまう。

 最初に紹介した番組の中では、「いったん逃げる」という選択肢もあると言った、ゲストもいました。
 でも、子供の将来の苦労を考えると、親としては、中々、「行かない」「転校」の選択に踏み切れないのも事実です。

 みなさんのご意見があれば、ぜひコメントでお寄せください。


 最後に、「ラヴ・ユー・フォーエバー」(ロバート・マンチ作 乃木りか訳 梅田俊作絵 岩崎書店)という絵本を紹介します。

 この絵本は、おかあさんが生まれたばかりの赤ちゃんを、だっこしながら、子守歌を歌うところから始まります。

「アイ・ラヴ・ユー いつまでも
 アイ・ラヴ・ユー どんなときも
 わたしが いきているかぎり
 あなたは ずっと わたしのあかちゃん」

 赤ちゃんは、男の子になり、ティーンエンジャーになり、おとなになります。
 その時々に、おかあさんは、「アイ・ラヴ・ユー」の子守歌をうたいます。

 やがて、おかあさんが年をとって歌えなくなると、今度は息子がおかあさんに、
歌ってくれます。

「アイ・ラヴ・ユー いつまでも
 アイ・ラヴ・ユー どんなときも
 わたしが いきているかぎり
 あなたは ずっと わたしのおかあさん」

 そして、大人になった男の子は、今度は自分のあかちゃんに、子守歌を歌います。

<絵本「ラヴ・ユー・フォーエバー」>



 この本は、親と子供の深い深い愛情を、絵本の形で描いた名作だと思います。
 子供のいる方も、これからの方も、ぜひ、読んでみてください。

 「大人になって 初めてわかる 親心」
 
  今、一つだけ、不登校やいじめられている子供に言えることは、次の言葉かも知れません。

「君のおとうさんやおかあさんは、どんな時も君の味方だよ。
 君ができる精一杯のやり方でいいから、がんばれ。」


  
 

2015年3月21日土曜日

人生、敗者復活戦! 甲子園の選手宣誓と監督の名言

 春の甲子園。選抜高校野球大会が今年も始まりました。
 感動と勇気を与えてくれるさわやかな高校生球児たちと、彼らを指導する名監督の言葉を、いくつか紹介します。
 
 開会式の選手宣誓で始まる「春の甲子園」ですが、今でも忘れられないのは、4年前、2011(平成23)年3月の東日本大震災直後に行われた第83回選抜大会での選手宣誓です。

 開催自体が危ぶまれたこの大会は、大震災が起きた、わずか12日後の3月23日に開幕しました。

 通常は、各チームのキャプテンが対戦チームを決める抽選をし、選手宣誓をするチームも決まります(1番のクジを引いたチーム)が、この年は東北のチームの出場ができるかどうかわからない中で、少しでも選手の招集を遅らせるため、異例の大会会長による抽選になりました。

 その抽選で選ばれ選手宣誓を行ったのは、岡山県の初出場校、創志学園の野山慎介主将でした。
 野山主将の選手宣誓の全文を紹介します。

「 私たちは16年前、阪神淡路大震災の年に生まれました。
今 東日本大震災で多くの貴い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。
被災地ではすべての方が一丸となり、仲間とともにがんばっておられます。


人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。
私たちに今できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。

がんばろう 日本。
生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。」

 この野山主将の選手宣誓は、「阪神大震災」を乗り越えた経験を思い出させ、目の前で起こったばかりの「東日本大震災」に立ち向かう勇気を、日本中に与えてくれた、逑史に残る選手宣誓だったと思います。

<高校野球の聖地・甲子園>



 この翌年、2012(平成24)年3月には、前年の選手宣誓に応える形で、被災地である宮城県の石巻工業高校の阿部翔人キャプテンが、次のような選手宣誓をしました。

 東日本大震災から1年、(中略)人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。しかし、日本がひとつになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。見せましょう、日本の底力、絆を。

 被災地の高校生が、日本の底力と絆を信じ、その先の大きな幸せを信じるメッセージを発信してくれたことは、大きな意味があることだと思います。

 今年、2015年3月に開幕した第87回センバツでは、福井県の敦賀気比高校の篠原涼主将が、短歌入りの選手宣誓をしました。

「グランドに チームメイトの 笑顔あり 夢を追いかけ 命輝く」


 甲子園では、数々の名監督が誕生し、厳しい練習と勝利の栄光に裏打ちされた名言を残しています。
 それらは、家庭での子育てや恋愛、私たち自身の生き方にも教訓となる名言だと思いますので、いくつかを紹介します。

・「苦しい思いを経験した人間だけが、逆境をチャンスに変える。」
 (和歌山県 智弁和歌山高校 高崎仁監督)

・「凡人は週間で一日を送る。天才はその一日が生涯である。毎日が本番。」
 (東京都 慶應義塾高校 上田誠監督)

・「行く言葉が美しければ、返る言葉も美しい。
人生のキャチボールのようなもの。
いい球を投げれば、いい球が返る。
優しさを投げれば、優しさが返る。
思いやりを投げれば、絶好球が返ってくる。」
(北海道 駒大苫小牧高校 香田誉士史監督)

・「心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。」
(石川県 星陵高校 山下智茂監督)

・「失敗したこと自体は不名誉なことではない。
失敗してダメになったら、それが不名誉なことだ。
わしの人生は負けから始まった。敗者復活戦じゃ。」
(徳島県立池田高校 蔦文也監督)


<写真:池田高校 蔦文也監督の直筆色紙>



 さすがに、甲子園を沸かした教育者であり名監督である皆さんの言葉は、勇気とやる気が出ますね。

 中でも、「毎日が本番」という上田監督の言葉や、「思いやりを投げれば絶好球が返ってくる。」というヤンキーズの田中将大選手(マー君)を育てた香田監督の言葉には重みがあります。
 自信はないけど、がんばろうという気持ちになります。

 最後の池田高校の蔦監督は、監督就任後20年以上も甲子園に行けなかった田舎の県立高校を、「11人で選抜準優勝」に導いたり、「夏春連覇」を甲子園で成し遂げた社会科の先生であり、名将です。

 人生敗者復活戦。
 春の甲子園を見て、元気をもらい、お互いに「逆境をチャンスに変えて」がんばりましょう。
 
 たかが野球。されど野球です。
「がんばれ日本、がんばれみんな。そして、がんばれ自分!」

2015年3月20日金曜日

落語の神様逝く 桂米朝さんの名言

 2015(平成27)年3月19日、「落語の神様」と呼ばれた上方落語の重鎮、桂米朝さんが肺炎のため亡くなりました。89歳でした。

 桂米朝さんの名言(★印)をはさみながら、米朝さんの生涯を紹介します。

★「大きなことは望まない。
泣いたり笑ったりしながら、1日1日が無事に過ぎて、何とか子や孫が無事に育って、自分は年寄りになって、やがて死んでいく。
それでいいというような、芸です。」(桂米朝)★

 桂米朝(かつら べいちょう)、本名中川清さんは、1925(大正14)年11月6日、旧満州の大連の生まれです。

 戦後、10人以下になっていた上方落語(関西の落語)界を、復興し、現在は200人以上と言われる規模に復興しました。 

 満州から父の里・姫路に帰ってきたあと、東京の大東文化学院(現 大東文化大学)に入学します。

 1944(昭和19)年に軍隊に招集され、翌年には入隊します。その後、大学へは帰っていません。(中退ということですね。)

 終戦後、4代目桂米團治の弟子となり、1947(昭和22)年に3代目桂米朝を襲名しますが、食べてはいけず、姫路市で郵便局員をやっていた時期もありました。

 師匠:桂米團治の死亡後、落語だけで食べていく覚悟を決め、大阪千日前劇場を本拠に活動を本格化します。

<写真:現在の大阪・千日前付近>


★「この世界、20年演っても受けるとは限らない。
もしかしたら、21年目に売れるかもしれないし、一生、売れないかも知れない。
ただ、嫌な人間にだけはなるな。」(桂米朝)★

  消滅の危機にあった関西・上方落語界を復興するため、テレビやラジオに積極的に出演し、人気回復を図ります。

 のち、上方落語の四天王(ほかの3人は、6代目笑福亭松鶴、3代目桂春団治、3代目桂小文枝)の一人と言われるようになります。

 1996(平成8)年、落語界2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)になり、
2009(平成21)年には、演芸会初の文化勲章を受章しました。

★「芸人はどんなに偉くなっても、つまりは遊民なのです。世の中の余裕、お余りにで生きているのです。」(桂米朝)★

 現在、米朝一門は60人を超えています。主な弟子としては、天才と言われながら自殺した桂枝雀さんをはじめ、桂ざこば、月亭可朝などがいます。

 多くの個性的な弟子を育てた桂米朝さんの人柄を偲びながら、米朝さんのご冥福を祈りたいと思います。
 
★「ええか、やっぱり最後は人間やで、人柄や。
どんなに上手くなっても、どれだけ売れても、人間性やで。
そやさかい、人間を磨いていかなあかんのや」(桂米朝)★




2015年3月19日木曜日

高校野球「甲子園の土」の物語

 「春は選抜から」
 今年も、選抜高校野球が3月21日に開幕します。
 今回は高校野球の聖地、「甲子園の土」の話です。

 甲子園の土は、試合に負けたチームが、涙ながらに記念に持ち帰るのが一般的です。
 いつから、こんな風習が、できたのでしょうか?

 夏の甲子園(選手権)の第1回大会は、今から100年前の1915(大正4)年に始まり、春の甲子園(選抜)の第1回大会は、1924(大正13)年に開催されました。
 しかし、初期には、グランドの土を持ち帰った記録はありません。

 高校野球で、グランドの土を持ち帰った記事が、最初に新聞に載ったのは1946(昭和21)年と言われています。
 
 この年の夏の第28回大会で、東京高等師範附属中学(現:筑波大学付属高校)の佐々木迫夫監督が、最上級生以外にグランドの土を持ち帰るように指示しました。
 ただし、この時は「来年、土を返しに来るため」に、持ち帰らせました。

 いわゆる「記念」に持ち帰ったのではないので、最上級生は入っていません。
 また、この大会は終戦直後で、甲子園が使えなかったため、持ち帰ったのは「甲子園の土」ではなく、「西宮球場の土」でした。

<高校野球の聖地・甲子園(バックスクリーンより)>


 では、甲子園の土を最初に持ち帰ったのは誰かというと、いくつかの説があります。

 有名なのは、1937(昭和12)年の夏の大会で準優勝した熊本工業の川上哲治選手(のち巨人の選手、V9時代の監督)だという説で、ユニフォームのポケットに入れて持ち帰り、母校のグランドにまいたと言われていますが、本人の証言はありません。

 もう1つの有力説は、1949(昭和24)年の夏の大会で、夏3連覇を逃した小倉中学のエース福島一雄選手が、最後の夏の準々決勝の延長戦で敗れたあと、無意識にポケットに入れて持ち帰ったという説です。

 どちらの説が正しいかはわかりませんが、川上哲治選手も福島一雄選手も、後に野球殿堂入りを果たしています。(もちろん「甲子園の土」が理由ではありません。)

 甲子園の土は、黒土と砂をブレンドしてできています。
 黒土は、鹿児島県鹿屋市をはじめ、大分県三重町、三重県鈴鹿市、岡山県日本原などから取り寄せています。

 一方、砂は、甲子園の近くの甲子園浜や瀬戸内海、中国福建省などの砂を使っているそうです。
 春は砂6対土4、夏は砂4対土6の割合であるため、夏の方が、甲子園のグランドが黒く見えるのは、土の割合が多いのが原因です。

<甲子園の土を持ち帰る選手>


  この甲子園の土を持ち帰れなかった選手たちがいます。
 
  1958(昭和33)年、本土復帰前の沖縄から初めて夏の甲子園に参加した首里高校の選手たちは、甲子園の土を持ち帰りフェリーに乗りました。

 しかし、当時、沖縄を統治していたアメリカの検疫で、土を没収され沖縄に持ち帰る
ことはできませんでした。

 後日、この話を、気の毒に思った日本航空の客室乗務員(当時、スチュアーデスと言っていました)たちが、甲子園近くの浜の小石を首里高校に贈りました。

 この小石は今も、首里高校の甲子園出場記念碑の中に飾られているそうです。

<首里高校の甲子園出場記念碑>

  最後に、昭和24年の夏、3連覇を逃して甲子園の土を持ち帰ったとされる小倉中学の福島一雄選手に、当時の大会の副審判長の長浜俊三さんが贈った言葉を紹介します。

「この甲子園で学んだことは、学校教育では学べないことだ。君のポケットに入った土を糧に、これからの人生を、正しく大切に生きてほしい。」

 甲子園の土は、今年も選手たちの汗と涙を吹い、輝くことでしょう。


 

2015年3月18日水曜日

「龍の子太郎」「怪談レストラン」の作家 松谷みよ子さんの死

 「龍の子太郎」や「いないいないばあ」、「モモちゃんとアカネちゃんの本」シリーズや「怪談レストラン」など、多くの作品を残した童話作家・松谷みよ子さんが、2015(平成27)年2月28日に老衰のため、亡くなられました。

 今回は、松谷みよ子さんについて、紹介します。

 生前、松谷さんは、こんなことをおしゃっていたそうです。
 「語りは心の母乳。どうぞ子供たちに本を読んでやってください。戦争の話をしてください。耳をすませば、戦争のことを話してくれる人はたくさんいます。」

 松谷みよ子(本名 松谷美代子)さんは、1926(昭和元)年2月15日、東京都(当時の神田区)生まれです。
 西巣鴨第5尋常小学校から東洋高等女学校へ進み、大学へは行かず、旧日本勧業銀行に就職し、JTBの編集もしていたそうです。
 17歳(1943年)に初めての童話「とかげのぼうや」を書きます。

 1945(昭和20)年に、空襲の激しくなった東京から長野県に疎開します。
 童話作家を志し、1951(昭和26)年に童話集「貝になった子供」で第1回児童文学者協会新人賞を受賞します。

 1955(昭和30)年、人形劇活動で知り合った瀬川拓男さんと結婚します。(1女、
たくみさんを設けますが、後、離婚)

 1960(昭和35)年、代表作の1つとなる「龍の子太郎」を発表し、第1回講談社児童文学賞を受賞。

 以降、620万部のロングセラーとなった「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズや「いないいないばあ」などの幼児向け絵本や、アニメにもなった「怪談レストラン」(共著)など、200冊以上の作品を発表しました。

 次に、代表作品の1つ「龍の子太郎」について、紹介します。
 松谷みよ子さんは夫の瀬川さんと、長野県や秋田県などで民話を収集し、それをもとにして、1960(昭和35)年に創作童話「龍の子太郎」を発表します。

 いわなを食べて「龍」になったお母さんを、龍の子太郎が探しに行く物語で、最後には、村人たちを水不足から救うため、太郎と龍になったお母さんが命を賭けるという、勇ましくもちょっと悲しいお話です。
 私も、子供の頃に読んだ「龍の子太郎」の思い出が強烈に残っています。

 この作品は、生後間もない我が子に、乳を飲ませながら書いたそうで、まえがきには、松谷みよ子さん自身の字でこんなことが書かれています。

「きみたち いつか山を歩くことがあったら思ってね。このへんを龍の子が、どしどし どしどしと、歩いていったんだなって。 松谷みよ子」

<「龍の子太郎」>

  松谷みよ子さんは、民話の研究や発掘の他にも、「いないいないばあ」や「モモちゃんとアカネちゃんの本」シリーズなど、600万部以上とも言われる幼児向け絵本を出版しています。

 幼児のブックスタートの代表作である「いないいないばあ」では、ネコの「にゅあにゃ」やくまちゃん、ねずみやきつねなどが、やさしく「いないいないばあ」と登場します。この本を幼い頃に見て育った人も多いのでは、ないでしょうか。
 
 「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズでは、娘さんに「どうして家にパパがいないの」と、離婚して母子家庭であったことを尋ねられて、パパのくつだけが帰ってくるファンタジーを創作しました。

 他にも、松谷みよ子さんは、「戦争と平和」や「いじめの問題」を、積極的に作品に取り上げています。

 「戦争と平和」では、原爆をテーマにした「ふたりのイーダ」や「ミサコの被爆ピアノ」、さらには「私のアンネフランク」などの作品があります。

 一方、いじめの問題でも、小学校などで授業の教材として活用されている「わたしのいもうと」(1987(昭和62)年)などの本があります。

 「わたしのいもうと」は、小学校のいじめが原因で、無口になり、不登校になった妹のことを書いた童話です。

 妹をいじめたクラスメートたちは、中学生になり、高校生になり、楽しそうに家の前を登校します。
 ところが妹は、引きこもりになり、黙々とツルを折り、やがて死んでしまいます。

 不登校の問題をかかえる私としては、身につまされる悲しい作品です。

<「わたしのいもうと」>


 最後に、松谷みよ子さん自身が書いた「龍の子太郎」のあとがきの一部を紹介します。

「(東京生まれで)ふるさとをもたない私は、どうにかして日本の土というものにじかに触れてみたい。そういう気持ちから、民話採集の旅に出るようになりました。
 そこで、私ははじめて、自分が日本の国に生まれたんだ。ここに、ふるさとがあるんだと感じたのです。」

 子供たちに対してははもちろん、大人のみなさんも、松谷さんの童話を読んで「心の母乳」を、体感しませんか。

 松谷みよ子さんの「お別れ会」は、東京・南青山の青山葬儀場で、平成27年4月4日の11時から開催される予定です。
 遺族代表は、長女の瀬川たくみさんです。





 







 




  







2015年3月17日火曜日

風に立つライオン 歌、小説、そして映画

 さだまさしさんが、1987(昭和62)年に発表した歌が「風に立つライオン」です。
 このタイトルだけでもワクワクしませんか。

 今回は、「風に立つライオン」という歌と、これをもとにして、さだまさしさんが書いた同名の小説、そして平成27年3月14日に、東宝から全国ロードショーされた映画「風に立つライオン」(監督 三池崇史、出演 :大沢たかお・石原さとみ他)を紹介します。
 
 まず、「風に立つライオン」という歌は、アフリカのケニアで、青年海外協力隊として国際医療活動をした実在の日本人医師・柴田鉱一郎さん(1940<昭和15>年~
、元宮崎県立日南病院院長 宮崎県出身)をモデルに作られた曲です。

 柴田先生は、さだまさしさんの故郷にある長崎大学医学部卒業で、二人は旧知の仲で、飲み友達だそうです。

  その柴田先生のケニアでの話をもとに、日本に残した恋人に充てた手紙という形式にして、雄大なケニアの情景をバックに、自分の生き方、生きる決意を、さだまさしさんが歌にした名曲です。

  ただし、この曲には、実名は出てきません。
(以下、歌詞の部分を「♪ ♪」の形で紹介します。)

「♪ 
この偉大な自然の中で 病いと向かい会えば
神様について ヒトについて 考えるものですね

やはり 僕たちの国は残念だけれど
何か 大切な処で 道を間違えたようですね♪」
(「風に立つライオン」 作詞・作曲・歌 さだまさし より)

 
この曲に惚れ込んだ、俳優の大沢たかおさんが、さだまさしさんに、小説化・映画化を熱望しました。

 大沢さんの願いを受けて、さだまさしが、小説「風に立つライオン」を発表したのは2013(平成25)年のことです。この小説では、主役の名前を豊田航一郎としています。

  航一郎は、長崎の大学病院からケニアの研究施設・熱帯医学研究所に派遣された日本人医師です。
 周辺で戦闘が続くこのアフリカの地で、心に傷を負った元少年兵ンドゥングと出会った彼は、医師としての生き方を見つめ直します。

 銃や地雷で負傷した人々が、次々に運び込まれてくる医療現場で仕事をし、アフリカの大地に向かって「ガンバレッ」と叫びながら、自分を鼓舞し前向きに生きる航一郎でしたす。

 航一郎は、「ガンバレ」と時々叫びます。それは、人に言うのではなく、自分が悲しいとき、悔しいとき、迷ったときには、いつも広大なケニアの夜空に向かって叫ぶ言葉でした。

 そして、航一郎が診察した中の1人のケニアの少年ンドゥガは、航一郎から「志という心のバトン」を受け継ぎ、苦労して医者になります。

 そして、2011(平成23)年。大震災に襲われた日本の被災地を、医師となったンドゥングは、恩返しのために訪れ、ボランティアで診療します。

 震災の地で、危険を顧みず診療ボランティアをするンドゥングの「心のバトン」は、被災者たちに受け継がれていったのです。



<小説:「風に立つライオン」(作:さだまさし1 幻冬舎刊)>



 そして、2015(平成27)年に、映画「風に立つライオン」が誕生しました。

 長崎の大学病院からケニアの研究施設・熱帯医学研究所に派遣された日本人医師・航一郎の役を、大沢たかおさんが演じます。

 銃や地雷で負傷した人々が次々に運ばれてくる医療現場で仕事をし、アフリカの大地に向かって「ガンバレッ」と叫びながら、自分を鼓舞し前向きに生きる航一郎を、大沢さんが熱演しています。

  航一郎と共に、ケニアで働く看護師・和歌子に石原さとみさん、日本に残した恋人の貴子役に真木よう子さん、さらに、萩原聖人さん、鈴木亮平さん、石橋蓮司なども出演します。

 現地ロケを長期に渡って敢行したケニアの美しい自然をバックに、希望と奇跡のドラマが、スクリーンに展開されていきます。

「♪ 
診療所に集まる人々は 病気だけれど
少なくても 心は我々より 健康なのですよ

僕はやはり 来てよかったと 思っています
辛くないと言えば嘘になるけど 幸せです♪」
(「風に立つライオン」 作詞・作曲・歌 さだまさし より)



 「風に立つライオン」は、歌も小説も映画も、それぞれに、私たちの胸に突き刺さり、そして、自分に「ガンバレ」と大声で言いたくなります。

 いじめ、不登校、殺人、ネット流出、大震災、原発事故、高齢者問題---、
 確かに日本は、どこか大切な処で道を間違えたのかも知れません。
 そして、日本人の心は、ケニアの人たちより病気なのかも知れません。
 
 この「風に立つライオン」は、ケニアの話のようで、実は日本の話にもなっているのです。

 アフリカの草原で、強い風をタテガミに受けながらも、堂々と立ち上がる。そんなライオンの生き方に憧れるのは、私だけではないと思います。

 蛇足ですが、中央競馬の馬に「カゼニタツライオン」という馬がいます。名前が好きで何度か買って、「ガンバレ」と応援してみましたが、見事に負けてしまいました。<笑>)

 最後に、次の歌詞を紹介します。

「🎵
僕は よどみない生命を 生きたい
キリマンジャロの白い雪
それを支える紺碧の空
僕は 風に向かって立つ ライオンでありたい🎵」
(「風に立つライオン」 作詞・作曲・歌 さだまさし より)

<アフリカ最高峰 キリマンジャロ>


2015年3月15日日曜日

新幹線の「ちょっといい裏話」2~祝・北陸新幹線開業~

 3月14日に開業した北陸新幹線がブームとなっています。
 テレビ各局やネットに「新幹線」の文字が躍っています。前回の「新幹線のちょっといい裏話」のブログを見ていただいた方も多かったみたいです。
 
 そこで、前回に続き、新幹線の「ちょといい裏話」の続編を紹介します。今回は、主に国内の話をさせていただきます。

 まず1つ目は、2011(平成23)年3月11日、そう「東日本大震災」の日の新幹線にまつわる話です。

 東日本大震災の発生により、新幹線の「安全装置」が働いて、近くにいた上下2本の新幹線車両が、栃木県の那須塩原駅に緊急停車しました。

 地震発生後は。東北新幹線が不通になり、乗客たちはJR東日本と那須塩原市の配慮で。那須塩原温泉の複数のホテルに無料で宿泊し、ほっとする夜を過ごすことができました。

 後日、JR東日本から震災の時のホテル代を請求するように言われた那須塩原の各ホテルは、請求を辞退しました。

 その年の暮れ、那須町観光協会が、JR東日本の各駅に観光PRポスターを出すことになりました。
 JR東日本は、震災の時のお礼に、ポスターを「業務用扱い」として、無料で首都圏の各駅に貼りだしたそうです。
  大震災時の、「ちょっといい裏話」です。

<写真:那須塩原温泉>


 2番目は、埼玉県の川角(かわかど)中学校の2年生たちが、修学旅行で京都へ行き、新幹線を利用した時の話です。

 後日、新幹線の清掃員の女性から「みなさんが降りられたあと、通路や座席がきれいに片付けられてあって、感動しました。ありがとう。」という手紙と、ドクターイエローの写真が届きました。
 
 この中学の生徒たちは、新幹線を降りるときにみんなでゴミ袋を用意し、きれいに掃除をしたのでした。
 「あたりまえのことを、ばかにせず、一所懸命にやる」
 川角中学の生徒たちは、そんな教育を受けていました。
 新幹線のゴミをもち帰るのは、あたり前だけど、難しいことかもしれませんね。
 
 ちなみに、清掃員の女性から送られてきた写真「ドクターイエロー」は、見ると幸せになれるという都市伝説がある「黄色い点検用新幹線車両」です。

<写真:ドクターイエロー>
 

 
  3つめの話は、新幹線が舞台の映画「新幹線大爆破」<1975(昭和50)年、東映、監督・佐藤純弥>についてです。

  この映画の主演は、はじめ菅原文太さんに依頼したのですが断られました。        
 その後、脚本を見て「おもしろい」と感じた、名優・高倉健さんが引き受けました。

 高倉健さんは、この映画を気に入り「タワーリング・インフェルノより、おもしろい。」と言っていたそうです。その言葉どおり、この映画は、海外の評価が高いそうです。


 最後は、「新幹線」という名前にまつわる話です。

 新幹線は、戦前、「弾丸列車構想」といわれ、1941(昭和16)年に、東京~下関間で密かに工事が始まっていました。
 その工事現場の一つが、静岡県函南町(かんなみちょう)にありました。

 この町に、「弾丸列車」工事に携わる職員住宅があり、戦後は分譲住宅地となりました。この町の地名として、弾丸列車を改名して現実のものになった「新幹線」がつけられました。

 現在も、静岡県四方郡函南町新幹線という地名が残っています。

<写真:「新幹線地区」の案内板>


 新幹線の「ちょっといい裏話」をいろいろ紹介してきましたが、今回、開業した「北陸新幹線」にも、きっといい話があるでしょうし、誕生するはずです。
  
 北陸新幹線では、糸魚川で北に日本海を望み、富山では南に立山連峰を眺めることができるそうです。
 すばらしい眺望と、あったかい北陸の人情が、新しい「新幹線のいい話」を生み出してくれることを期待して、今回のブログを終わります。


短歌: 日本海 待ち続けていた 新幹線 春の立山 夢が木霊す




 
 

2015年3月14日土曜日

新幹線の「ちょといい裏話」 ~祝・北陸新幹線開業~

 平成27(2015)年3月14日、北陸新幹線が開業しました。
 これまで、裏日本と呼ばれ、4時間以上かかった「東京~金沢」が、最速2時間27分で結ばれました。
 これで、金沢から東京へ行く方が、金沢から大阪へ行くより、早くなりました。

 北陸新幹線の話は、ちょっと落ち着くまでマスコミにお任せしておいて、今回は新幹線の「ちょといい裏話」をいくつか紹介します。

 1つ目は、新幹線の英語表現の話です。
 まず、問題です。新幹線を英語で言うと、何と言うのかご存じですか?

 実は「Shinkansen」と、日本語と同じ読み「シンカンセン」なのです。

 これは1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催される直前に、世界で初めて開通した東海道新幹線(東京~大阪)が、当時の世界最高速度200kmを記録し、しかも正確・安全に走ったことに、世界中が驚き敬意を払ったことに由来します。
 日本語の新幹線が、そのまま「世界のShinkansen」として定着しました。

 2つ目は、この東海道新幹線に、1975(昭和50)年に、イギリスのエリザベス女王が乗られた時の話です。

 エリザベス女王は、「新幹線は、時計より正確だそうですね。楽しみにしていました。」と言われて、名古屋から東京行きに乗車されました。

 ところが、この日は大雨で2分ほど遅れて名古屋に到着し、女王の172個の荷物の積み込みに要した時間などで、静岡駅付近では4分も遅れてしまいました。

 女王の期待に応えたい運転手は、自動制御がかかる当時の最高速度210kmより1kmだけ遅い時速209kmで、残りの区間を走り、見事、定時に東京駅に滑り込みました。
 エリザベス女王が、感心されたのは言うまでもありません。

<写真:北陸新幹線>

 3つ目は、エリザベス女王の国イギリスとフランスを海底トンネルで結ぶドーバー海峡トンネルでの話です。

 2009(平成21)年12月、ヨーロッパが大寒波に襲われ、ドーバー海峡トンネルを通る鉄道の主役だったフランス製の高速鉄道TGVが、寒さのためトンネル内で次々と故障し、最大6両が停止し、乗客が16時間も閉じ込められました。

 この危機を救ったのが、その月にイギリスでデビューしたばかりの日本製の新幹線「ジャベリ」でした。
 寒さをもろともせず、閉じ込められた乗客を救出した日本製の新幹線のイギリスの評価は、超特急で上がりました。

 
 「世界で活躍する新幹線」と言いたいところですが、実は中国をはじめ、タイやメキシコなどでの受注には苦戦しています。

  しかし、今回の「北陸新幹線」を含め、日本国内では、早く、遠く、正確で安全な運行が続いています。

 来日外国人が増加する中、エリザベス女王のように、日本の新幹線に乗っていただく外国人が増えれば、新幹線が世界に羽ばたく日も近いと期待しています。

 最後に、「北陸新幹線」のCMソング、谷村新司さんの「北陸ロマン」の歌詞の一部を紹介します。

🎵
初めての旅は 遥かな夢の先
蜃気楼さがしの 憧憬をたどる旅
(中略)
大人に変わる時 日本海に逢いに行こう
唐紅に染まる 夕陽の あの場所へ 🎵

(「北陸ロマン」 歌:仲間由紀恵・谷村新司、作詞:作曲 谷村新司)


<写真: 金沢駅>




一句: 新幹線 裏から表に 北陸返す 
 

 





 

2015年3月13日金曜日

おすすめ本 後藤健二箸「もしも学校に行けたら」

 
 今回は、IS(イスラム国)によって殺害されたジャーナリスト・後藤健二さんの書いた「もしも学校に行けたら」(汐文社 2009年刊)を紹介します。

 
 この本は、タリバン政権崩壊直後のアフガニスタンへ向かう、後藤健二さんの取材旅行の形で始まります。

 後藤さんは、「本当の現地の姿を伝えたい」という一念で、取材のために危険を顧みず、治安の極めて悪いアフガニスタンへ入ります。

 この本を読んでいて特に感じるのは、後藤健二さんの「視線」が、単に戦闘の模様を取材する戦地レポートではなく、戦争で犠牲になった一般市民の生活に向いているという点です。
 後藤さんの「やさしさ」がにじみ出ています。

<アフガニスタンの地図>

 長年の戦闘で廃墟となったアフガニスタンの首都カブールに入った彼は、一つの家族、ダルマカイさん一家を取材します。

 この家族は大黒柱のお父さんを8年前に病気で亡くし、戦争終結直前には、働き手であった長男を、アメリカ軍の誤爆によって失い途方に暮れています。

 残されたお母さんと、幼い弟を抱いた10歳の少女マリアムは、「もしも学校に行けたら---」と夢を語ります。
 彼女の話を聞くうちに、後藤さんはマリアムを学校に行かせたいと思うようになります。

 彼は、「バック・トゥ・スクール(学校に戻ろう)」キャンペーンを展開する、国連児童基金(ユニセフ)の友人の助けを得て、マリアムを学校に通わすために、校長先生に直談判にいきます。

 この時点で、後藤健二さんは、現状のままを取材する「戦争ジャーナリスト」ではなく、一歩踏み込んで悲惨な現状を変えようとする一人の人間に戻っているように思えます。

 彼はこう書いています。

「 テロとの戦いと、わたしたちがまるで記号のように使う言葉の裏側で、こんなにたくさんの生活がズタズタに破壊されていることを知らないでいたのです。あるいは知らせずにいたのです。
 自分は、いかに盲目的だったかと激しく自分を責めました。」

<写真:アフガニスタンの首都カブール>


 後藤さんの言葉を読んで、私は70年前の日本の空襲のことを思い出しました。
 もちろん、空襲の直接の経験はありませんが、空襲を地上で経験した人たちの話や映像は生々しく、生きるために必死だったと聞いています。

 後藤健二さんは、アフガニスタンの「市民生活」の中に、70年前の日本と同じ景色を見たのではないかと思います。
 

 彼は、廃墟のアフガニスタンで、「唯一の希望は子供である」ことに気づきます。
 そして、何度も挫折しながらも、少女マリアムを学校に通わすことに成功します。
 その時の喜びを、彼はこう綴っています。

「 夕焼けのゆるい光にて照らされたゴミ野原の中で、女の子が本を読む姿はまぶしいほど輝いていました。
 (神さま、どうぞ彼女を導いてあげてください!)
 わたしは、そう願って眼を閉じました。」

 アフガニスタンでは、400万人の子供が学校に行けず、「もしも学校に行けたら」とう夢をもっていると後藤さんは書いています。

 一方、日本では「不登校」が、大きな問題となっています。
 不登校の小中学生は、12万人(2013年度 文部科学省調査)にも達しています。
 
 
 
 

 「川崎中1生殺害事件」の加害者も、被害者の上村遼太君も「不登校」の経験者であったそうです。
 前にも書いたように、私の身内にも不登校がいます。

 後藤健二さんは、この矛盾をどう思っていたのか。
 ぜひ、お聞きしたいと思いますが、もう後藤さんに直接、お聞きすることはできません。

 正義とは何か。
 平和とは何か。
 そして人間の幸せとは何か。

 他の後藤健二さんの本を含む、様々な人たちの意見をはじめ、戦争や不登校の現状を紹介しながら、このテーマについて、このブログの中で、みなさんとともに考えていきたいと思っています。

 最後に一首

・ 学校は 夢と勇気を 学ぶ場所 楽しくもあり 楽しくもなし   


<写真:後藤健二箸「もしも学校に行けたら」(汐文社)>



 

2015年3月12日木曜日

勇気を出して津波から逃げる ~釜石の奇跡の3原則~

 2011年3月の東日本大震災では、18、000人を越える犠牲者が出ましたが、その多くの人命が「大津波」で奪われました。

 そんな中、ほとんどの小中学生が助かった「釜石の軌跡」が、岩手県釜石市で起こりました。
 今回は、この釜石の奇跡を生んだ「津波避難3原則」を紹介します。

 
 人間には「正常化の偏見」という、危機になっても自分だけは大丈夫だという偏見があるそうです。

 普段は、この偏見が自分を信じる「自信」となり、心に勇気を与えてくれるものかも知れません。

 ところが、大災害、特に津波の時には、「自分だけは大丈夫。だから、まだ避難しなくても大丈夫。」
 あるいは、「ここまで、避難すれば大丈夫。」という正常化の偏見をもってしまい、最悪の場合、逃げ遅れ、津波の犠牲になってしまいます。

 そこで、東日本大震災で「釜石の奇跡」を起こした群馬大学の片田敏孝教授は、「津波避難3原則」を、東日本大震災前から提唱していました。

 第1は、「想定にとらわれるな。」です。

 東日本大震災では、従来想定されていた津波高をはるかに超える大津波がやってきました。
 ハザードマップなどの想定にとらわれ、自分の場所は大丈夫と判断した人々は津波の犠牲になりました。
 ハザードマップは目安であって、絶対に安全というものではありません。

 第2は「最善を尽くせ」です。
 

 想定にとらわれず、少しでも安全な、できる限り高い場所へ避難する、その時できる最善を尽くせという教えです。

 最後の3番目は、「率先避難者たれ!」です。

 自分が1番最初に逃げ出せ。それも、できるだけ周りの人に「逃げろ」と呼びかけながら逃げろという教えです。
 人間の心は弱く、「自分だけは大丈夫」「最初に逃げたら恥ずかしい」と思いがちです。それを打破するのは、避難者のリーダー、率先避難者だとい教えなのです。

 片田先生の教えを守った釜石の小中学生は、想定にとらわれず少しでも高いところへ、自分のできる最善を尽くして逃げました。
 しかも、まわりの子供たちや大人たちにも避難を呼びかけながら、率先して逃げました。

 約3000人の釜石の小中学生が助かり、まわりの大人たちの多くの命も救われました。
 「勇気を出して津波から逃げる」という、釜石市の防災アドバイザーとして震災前に教えていた片田先生の教えを守った小中学生が、「釜石の奇跡」を起こしたのです。

<写真:東日本大震災で津波から避難する釜石市の子供たち>


 東日本大震災以降、気象庁では次の基準で、津波警報や津波注意報を発表しています。

 
  • 第1報(約3分以内)
  • 大津波警報高さは「巨大」と表現し、「直ちに高台に避難」と呼びかける。
    津波警報高さは「高い」と表現し、「直ちに高台に避難」と呼びかける。

    ・ 第2報(約15分後)
    発表される高さ発表基準
    大津波警報10m超10m < (予想高)
    10m5m < (予想高) ≦ 10m
    5m3m < (予想高) ≦ 5m
    津波警報3m1m < (予想高) ≦ 3m
    津波注意報1m0.2m ≦ (予想高) ≦ 1m

     

     以前にも紹介しましたが、地震情報から、津波の発生の有無を判断できる基準があります。

    気象庁の予報官の話によると、「おおまかに言うと、津波が発生する恐れがある地震は、震源が海で、震源の深さが60kmより浅く、マグニチュード(地震の規模=M)が6.5以上の地震」だそうです。

     つまり、津波の有無は、震源の位置・深さと、マグニチュードの3つの要素で決まり、揺れの強さを表す震度の大きさは関係ないのです。

     2011年3月11日の東日本大震災は、震源は三陸沖(海)で震源の深さは24km、マグニチュードは9.0と、津波の3要素をすべて満たしており、特にマブニチュードが日本の観測史上最大であったことで、大津波が発生し甚大な被害が発生しました。この地震の最大震度は7(宮城県)です。

     一方、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災は、震源が野島断層(六甲から淡路島にかけての断層でほとんどが陸)で、震源の深さは16km、マグニチュードは7.3で、最大震度は7(兵庫県神戸市)です。この地震の揺れは、非常に大きかったのですが、震源がほとんど陸地だったため津波の発生はありませんでした。

     
     
     震源の位置、深さ、マグニチュードが、津波発生の有無を決めるのは、ほぼ確実です。
     ただし、個人個人が判断する場合、いくつかの注意点があります。

    (1) 情報が確実に入るかどうかわからないので、津波の恐れがある沿岸部などで
      地震を感じたら、まずは、「釜石の軌跡」の津波避難3原則を守って、少しでも高 
      いところへ逃げるのが安全です。

    (2) テレビ・ラジオや防災メールなどで情報が入っても、最初の段階の情報はあく
      まで「推定」なので、鵜呑みにせず、念のため安全側の行動をとることが大切で
      す。
       ちなみに、東日本大震災の最初の発表のマグニチュードは7.6でしたが、最終   
      的にはM9.0になりました。

    (3) 1960年のチリ津波(南米チリで発生した地震で、数十時間後、国内で大津波
      を観測)のように、まったく揺れのない外国の地震でも津波が発生することがあり
      ます。これを、遠地津波と呼んでいます。

      津波や地震について、普段からよく学び、きっちり備え、十分に訓練しておくこと。そして、「勇気を出して逃げること」が、いざという時に、あなたにも「奇跡」を起こすことになるはずです。

     東日本大震災が起こったこの時期に、もう1度、津波避難について、チェックしましょう。

    2015年3月11日水曜日

    レクイエム「4年目の3.11は雪の中」

     あれから4年。今年の3月11日は雪と風の中です。
     今の気持ちをレクイエム(鎮魂歌)にします。


    「3.11は雪の中」

     海は
     あの日 大津波を運んできた海は
     今は静かに 寄せては返すだけ

     ザヴーン シュルシュルル
     ザヴーン シュルシュルル

     
     たった1日 たった一瞬で
     2万人近い 人たちの命を奪い去った
     あの海は この海なのに

     今は沈黙が残るだけ
     粉雪が舞う 被災地に
     復興の槌音と
     沈黙の風が聞こえる

     ザヴーン シュルシュルル
     ザヴーン シュルシュルル

     人は 被災地の人たちは
     涙を勇気にかえて
     合掌を 笑顔に変えて
     立ち上がり 1歩ずつ 1歩ずつ 
     歩き出す

     津波の想定を信じた人たちは逝き
     想定を信じずに 上を目指し続けた人たちが生きた

     ザヴーン シュルシュルル
     ザヴーン シュルシュルル

     誰もいない海に 何もない街の跡に
     沈黙と ため息が木霊し
     
     粉雪の舞う 寒い3月11日
     あの日の光景が フラッシュバックする
     

     鎮魂を願い慰霊碑に手をあわせ
     復興を願う 黄色いハンカチに 会釈する

     ザヴーン シュルシュルル
     ザヴーン シュルシュルル

     すべてを奪った海 人命さえも奪った海
     それでも 海に憧れ
     それでも 海を越えて行く

     雪と風と青い海の狭間で
     今は沈黙 あとは沈黙
     The rest is silence.





     

    2015年3月10日火曜日

    3.11 東日本大震災から4年「復興の奇跡を信じて」

     忘れることができない「3月11日」、東日本大震災から4年目のあの日がやってきます。

     マグニチュード9.0という日本の歴史上最大規模の地震が発生し、最大震度7、津波の高さは各地で10mを超え、最大遡上高は40.1mにも達しました。
     死者・行方不明者は、18,483人(2015年1月現在)で、昭和以降では最大の犠牲者を出した自然災害です。

     さらに、この地震が他と違うのは、「東京電力福島第1原子力発電所」で、3つの原子炉がメルトダウンを起こし、国際原子事業評価尺度でレベル7の「最悪」の原子力事故が発生したことです。

     大震災から4年たった今の現状と課題を、考えてみたいと思います。

    <写真:東日本大震災の被災地で祈る>
     


     
     

     

     交通インフラについては、比較的順調に回復しています。
     

     計画された復興道路と復興支援道路(計画済み延長約570キロ)のうち、工事に着手、完工したのが全体の80%で、うち供用が開始された道路も37%の約209キロあります。常磐道も、2015年3月1日に全線開通しました。

     鉄道網では、岩手、宮城、福島各県の旅客鉄道で被災した路線は2330・1キロで、89%の2079・7キロで運行を再開しており、大被害を受けた「JR山田線(岩手県)」
    についても、2015年3月7日に工事に着手しました。

     一方で、大津波で壊滅的な被害を出した地域の復興は、あまり進んでいません。

     避難生活をしている人は、いまだに23万4千人もいます。仮設住宅の入居者も8万9千人にのぼり、高齢化が進んでいます。
     先日も、仮設住宅エリアで、誰にも気づかれずに凍死した避難者が出たというニュースが報道されていました。
     

     被災地の人口減少も止まらず、この4年間で岩手・宮城・福島の3県の被災地で9万2千人(6.7%)の人口が減り、3県から県外へ移住した人も5万4千人に上ります。

     先日、あるテレビ番組で「復興のトップランナー」と紹介された宮城県女川町ですが、実際の復興はスタートラインについたばかりで、人口は、この4年間で31.5%
    も減っています。

    <写真:仮説住宅>

     最も深刻なのは、「東京電力福島第1原子量発電所」の事故処理です。

     毎日、300トンから400トンの汚染水が増加していて、事故から4年間の汚染水の量は、少なく見積もっても43万8千トンにのぼります。
     これらの貯蔵タンクは990基にもなりますが、浄化処理しても取り除けない放射性物質があり、海への放出には地元漁協が反対しています。

      周辺の除染は進んでいるとのことですが、しかし、素朴な疑問を言わせてもらうと、放射性物質の発生源である「メルトダウンした3つの炉心」の廃炉の手段が確立されなければ、根本的な解決にはならないと思います。

     
     まだまだ、東日本大震災からの復興は、始まったばかりなのかも知れません。

     
     先日、被災地の一つである東北の駅のおみやげ店で、「奇跡の1本松」(岩手県陸前高田市)のクリアファイルを見つけて買いました。

     「まじめで粘り強い」東北の気質が、1本松のように奇跡を起こし、大震災から復興できるよう、日本人みんなで応援していきたいものです。

     最後に、Yahoo!の「Search for 3.11」という被災地を支援する取り組みを紹介します。
     3月11日限定で、「3.11」と入力してヤフーで検索すると、1人10円の被災地支援金をヤフーが負担してくれるそうです。去年は250万人が協力し、2500万円が被災地へ寄付されたそうです。
     みんなで「3.11」で検索して、少しでも被災地支援をしましょう。

    <写真:奇跡の1本松(岩手県陸前高田市)>


     

    2015年3月8日日曜日

    川崎中1殺害事件の闇3 ~実名報道とネット私刑~

      「川崎中1殺害事件」の闇の部分を考えるブログの3回目のテーマは、「実名報道とネット私刑(流失)」です。

     先日、発売された「週間新潮」の3月12日号に、川崎中1殺害事件の主犯と思われる18歳の少年の氏名と写真が掲載されました。(一緒に逮捕された17歳の2人については、匿名で顔写真もぼかしを入れています。)

     少年法61条は、「少年または少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住所、容ぼう等により、その者が当該事件の本人であることを察知できるような記事又は写真を、新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。」と規定しています。
     しかし、この法律は、戦後すぐの1948(昭和23)年にできたもので、罰則規定もありません。

     13歳の少年を、17~18歳の3人の少年たちが殺害したのではないかと言われている今回の事件で、容疑者の氏名や顔写真を公表しないことに、疑問を感じる人も多いと思います。
     しかし、法律を1つの雑誌が勝手に解釈して破るのも、どうかなとも思います。

     一方で、現場検証に18歳の少年を立ち合わせるのに、ビニールシート製の箱やテント状のもので、18歳少年の体ごと覆って隠すような光景も奇妙に映りました。
     顔を隠すのはわかりますが、警察署に入る時にすでに映っていた全身まで隠す必要はないと思います。

     選挙権も、まもなく18歳から与えられそうなので、少年であっても18歳以上で、殺人などの凶悪事件で有罪が確定し(または起訴され)たら、顔や名前を公表するなどの法律改正をするのが、妥当ではないのかなと、私は思います。

    <写真:上村遼太君殺害現場の多くの献花と現場検証>


      実名報道は第1次的にはマスコミの問題ですが、「ネットによる情報流失とネット私刑」については、私たちネットを利用する者に、直結する問題です。

      ネット上に容疑者の顔写真や氏名があふれた一つの原因として、上村遼太君の友人たちが、「上村遼太君がかわいそうだ。何としても18歳の少年たちが犯人であることを知らせたい。」という、正義感のために顔写真や氏名を一斉にネット上に掲載したという噂があります。

     百歩譲って、容疑者情報をネットにアップするのは、「警察やマスコミへの情報提供だった」としても、それはネット上でむやみにするのではなく、直接、情報提供するべきだったと思います。

     しかも、今回ネットに出たのは、逮捕された3人の容疑者の顔写真や氏名だけではありません。

     未成年の兄弟・姉妹を含む3人の容疑者の家族の写真や氏名、住所、学校名、勤務先、18歳少年グループの逮捕されていないメンバーと思われる氏名や写真など、呆れるほどいろんな情報が出ています。
     中には、被害者家族の構成、氏名、仕事など、プラベートな情報まで流失しています。

      これらは、ネット流失を越えて、「ネット私刑」という言葉で言われています。
     上村君へのあまりに残酷な殺害方法は許せないとしても、それを家族やグループメンバーなどに拡大して、「私刑」を行うのは、やりすぎだと思います。

      さらに、一部のマスコミ報道やネット上で、18歳少年の母親がフィリピン出身であることが報じられたことで、「フィリピンへ帰りたい」との落書きが、少年の家の塀に赤ペンキで大きく書かれました。
      ネット上の「私刑」が、バーチャル世界にまで及んできています。

      殴られても蹴られても、警察や学校にちくりもせず、仲直りを信じて沈黙を守っていた上村遼太君は、きっと、ネット私刑を望んではいないと思います。

     自由な情報を各自が発信できる手段であるネットは、「私刑」の凶器にもなることを、みんなで再認識する必要があります。
     ネットが強制的に規制されて、「不自由なもの」にならないように、使用しなければ本当の自由は守れないのではないかと思います。

      
    <故・上村遼太君が小学校時代を過ごした「島根県隠岐諸島・西ノ島」の風景>


    「旅立ちの日に」を作った川嶋あいさん ~16歳で両親を2回も失う~

     全国各地で卒業式が行なわれる季節です。
     卒業ソングの定番の一つに、シンガーソングライターの川嶋あいさんが作った「旅立ちの日」にという歌があります。

      「🎵桜舞う 4月の教室で🎵」から始まる歌を作った川嶋あいさんは、実は2回も両親を失った、逆境のシンガーソングライターです。

     
     
      今回は、フジテレビ「あいのり」の主題歌として90万枚の大ヒットとなった「明日への扉」(この原曲が「旅立ちの日にです」)を歌った<I WISH>のヴォーカルとしても知られる川嶋あいさんの生き方と言葉を、歌や本、ホームページなどから紹介します。

     彼女の勇気あふれる生き方を、卒業されるみなさんに贈りたいと思います。(もちろん、卒業されないみなさんにも贈ります。)

     

     川嶋あい(本名:川島あい)さんは、1986(昭和61)年2月21日、福岡市の生まれです。
     実のお父さんは行方不明の状態で生まれ、実のお母さんはあいさんを生んだ時から体調不良で入院したため、生まれてすぐに乳児院に入りました。

     あいさんが3歳の時、お母さんは病気が回復しないまま、24歳の若さでこの世を去りました。その後は、児童養護施設で育ちます。

     やがて、あいさんは川島家の養女となります(川嶋姓はこの時からです)が、10歳の時に養父が亡くなり、16歳の時には、養母も命を閉じました。
     わずか16歳で、川嶋あいさんは、両親を2回も失くしたことになります。

     最愛の養母が話していた言葉が、「最後の言葉」という川嶋あいさんの書いた本に出ていますので紹介します。

    「母さんはいつも言っていた。『あなたは私の大切な子供だよ。宝物だよ。』って。
     いつも言っていた。『一緒に夢をかなえましょうね。』って。
     私は天文学的確率で母さんと出会えた。奇跡だと思う。」
    (川嶋あい著「最後の言葉」(ゴマブックス株式会社)より)


     養母が亡くなられた2ヶ月後に、「明日への扉」がTV番組「あいのり」の主題歌になり、4ヶ月後にCDが発売され大ヒットになりました。お母さんが、天国からあいさんにプレゼントしてくれたのかも知れません。

     卒業ソング「旅立ちの日に」は、「明日への扉」の原曲で、あいさんが1000回を超える路上ライブをしていた高校生の時から歌っていた曲です。2006(平成18)年に川嶋あいさんの8枚目のシングルとして発売されました。

     オリコン週間は9位、2006年2月の月間順位は21位でしたが、その歌手とメロディーが支持され、全国各地の学校で卒業ソングとして歌われるようになりました。

     川嶋あいさんの生い立ちを知ると、この曲の歌詞に重みが出てきますね。

     高校卒業時に、幼い頃に入所していた施設でライブを開催したのをはじめ、全国各地の学校の卒業式に出向き、川嶋あいさん自身が歌っています。
     歌詞の一部を紹介します。

    🎵いつのまにか 時は流れ もう今日は卒業の日
     人はいつか 旅立つ者だけど
     いつの日にか またどこかで 会える気がするからね
     輝く日々を忘れないで♪
    (川嶋あい「旅立ちの日に」より)

     川島あいさんは、シンガーソングライターとしての音楽活動を続ける一方で、社会貢献活動も積極的にやっています。

     スタッフとともに「NGO アイ ラブ ワゴン」を立ち上げ、私財を投じてエチオピアに児童養護施設を作ったのを皮切りに、アフリカのブルキナファソやリベリア、アジアのカンボジア・バングラデシュ・インド・東ティモールなどで、小学校建設などの教育支援活動を行っています。



     また、阪神大震災や東日本大震災の被災地でのライブ開催などの被災地支援も積極的に行っています。
     東日本大震災から4年目にあたる2015年3月11日に、福島県文化センターで開催される「ふくしまコンサート ~復興のひびき~」にも出演する予定です。

     川嶋あいさんは、まだ29歳なのに、自らの逆境に負けず、これほど積極的に活動しているのは、本当にすばらしいことだと思います。


     最後に、もう1つづつ珠玉の言葉を、川嶋あいさんの本と歌詞から紹介します。

    「わかったことがある。天命は変えられないけど、運命は変えられるんだって。
    (中略)
    人は夢があるから成長するし、人生楽しくなる。
    だから伝えたい。
    夢の前で立ち止まったりしていませんか?(中略)
    踏み出さなきゃ 絶対何も変わらないって、今も胸に刻んでいることだ。」
    (川嶋あい 著 「最後の言葉」より)

    「🎵
    今始まる 希望の道 今日までありがとうね
    思い出の校舎と別れを告げ 
    今 新たな扉開き はるかな年月経て
    つぼみから 花咲かせよう ♪」
    (川嶋あい 作詞 「旅立ちの日に」より)

    <写真:長崎県小値賀島 北松西高校の卒業式(卒業ライブを開催)>
     



    2015年3月7日土曜日

    川崎中1殺害事件の闇2 ~いじめ・不登校、川崎国~

     「川崎中1殺害事件」については、2月25日にブログテーマとして取り上げました。
     その後、容疑者の少年3人が逮捕され、捜査情報や事件の背景、加害者・被害者の情報等が、テレビや新聞、雑誌、そしてネットやツイッターなどで流れています。

     私なりに、(あまり報道されていない部分も含めて)情報を整理して紹介し、「事件の闇に潜む問題点」について、テーマ別に考えてみたいと思います。

     まず1番目は、「不登校・いじめ」の問題です。

      今回、殺害された上村遼太君(13歳)は、今年1月から通っていた中学校を不登校になっていました。

      遼太君本人は、学校では人気者で学校に行きたかったのですが、殺害した不良グループ(17歳~18歳)に、「学校へ行くな。」と脅されていたそうです。
      学校が、不登校というサインを見逃さず、遼太君を不良グループから救えなかったのでしょうか。

     担任の先生は、家庭訪問を5回、電話も34回かけたが、本人には会えず、電話で直接話せたものも1回だけだったそうです。

     一方、川崎市議会では、市議会議員の「放置していたのか?」との質問に、川崎市教育委員会は「不登校が続いている認識はなかった。甘かった。」と答えています。
     1ヶ月以上も学校を、病気やけがでなく休んでいる生徒について「不登校の認識はなかった」というのは、どういう認識なのでしょう。

    <写真: 上村遼太君の通夜に参列する中学校の同級生>

     いじめと不登校の問題は、実は容疑者側にもあります。
     不良グループのリーダーで、遼太君を殺害したと見られている18歳の容疑者Aも、中学校の時にいじめがきっかけで不登校になりました。

     Aは、中学校卒業後は定時制高校に通っていましたが、通りすがりの中年男性の頭を鉄パイプで殴った事件で、鑑別所送りとなり、高校を中退しています。

     Aと一緒に逮捕された、B(17歳)とC(17歳)をはじめ、Aがリーダの不良グループのメンバーの大半は、不登校またはその経験者で学校を退学した少年・少女だと伝えられています。

     
      いじめと不登校が、この事件の被害者・加害者双方にあったことは、不登校気味の身内がいる私自身にも、身につまされる問題です。
      文部科学省もこの問題を重視して、1週間以上の不登校の生徒・児童の全国一斉調査をしているそうですが、ぜひ解決策を示してほしいです。

    <写真:殺害現場となった多摩川河川敷(神奈川県川崎市)>
     

     2番目の問題は、「川崎国(疑似イスラム国)ごっこ)」です。
     
     

     Aがリーダーの不良グループでは、「川崎国」と言われていたとの噂があります。その真偽はともかくとしても、今回の川崎小1殺傷事件の加害者が、「イスラム国」のネット画像の影響を受けていることは明らかです。
     いくつか例をあげてみます。

    ・ 首をナイフ(カッター?)で殺傷
    ・ 遺体の膝に擦り傷があり、跪(ひざまづ)かせて殺した可能性がある
    ・ 「火」を使って服を焼却
    などに、イスラム国の影響が見られます。
     
      さらに、「Vine(ヴァイン)」と呼ばれる、高校生など若者に人気の「6秒動画投稿サイト」に、犯人グループが上村遼太君の殺害映像を投稿したのではないかと思われる痕跡もあります。
     これらは、ネット動画サイトの悪影響のような気がします。

     一方で、「川崎国」があれば、それに対抗する勢力もあったようです。

     今年1月、上村遼太君が5歳も年上のAに、横浜市内で顔がパンパンに腫れるまでボコボコに殴られたのを、遼太君の友達が知り、兄の友人に相談したそうです。
     

     この話を聞いたAと同学年の先輩を中心とするグループ(正義の味方?)の数人が、2月上旬頃、Aの家へ押しかけ謝罪するように求めました。
     しかし、Aには直接会えず、Aの家族が警察を呼んで追い返したそうです。

     この事件で、「カミソン(上村君のニックネーム)がちくった」と勘違いしたAが、上村遼太君を殺害したいうのが、もっとも有力と言われる動機です。

     ちなみに、あまり報道されていませんが、上村遼太君が殺害された前日(2月19日)に、横浜市西区の野毛山公園のトイレで、中学2年生(14歳)の男子が暴行され、意識不明の状態で発見されました。

     この男の子は、実は遼太君のバスケ部の先輩で、遼太君が相談した友達だという情報があります。
     この事件は、今回の上村遼太君殺害事件と、関係ないのでしょうか?

    <写真:日本の夕日百選「国賀海岸のローソク岩から見る夕日」(島根県西ノ島)>


     上村遼太君は、島根県隠岐諸島の西ノ島にある小学校で過ごし、お母さんと兄弟が川崎市へ引っ越す時、「この島に残りたい。」と希望したそうです。

     もし、西ノ島に遼太君が残っていたら、あるいは川崎市に引っ越してもAのグループに入らなかったら、と思うと残念でなりません。
     上村遼太君のご冥福を祈るばかりです。

    2015年3月6日金曜日

    「武蔵」をヨットで発見した大富豪ポール・アレン ~ビル・ゲイツとマイクロソフトを創業~

     フィリピン近海の海底1000mで、「所有するヨットで戦艦・武蔵を見つけた」と発表したポール・アレン氏。
     彼は、ビル・ゲイツと一緒にマイクロソフト社を創業した大富豪ですが、今も夢を追い続けているおもしろい人物ので、ぜひ、紹介したいと思います。

     そもそも、「ヨットで、海底1000mに沈んでいる戦艦・武蔵を発見」って、不思議なニュースだと思いませんか?
     ヨットが、どうやって海底1000mを探索し、映像を撮ったのでしょう。

     英語のヨット(Yacht)は、個人所有の娯楽用船舶を意味します。ですから、ヨットと言っても、私たちのイメージする「帆に風を受けて進む小型船」とは限らないのです。

      今回、武蔵を発見したポール・アレン氏のヨット「オクトバス(Octopus)」の写真をご覧ください。

    <写真:ポール・アレン氏のヨット「オクトパス」>


      すごい船ですね。
      この船の全長は126m、乗組員は60人です。

     ヘリコプター2機、スピードボート7艇、8人乗りの潜水艇、無人潜水艦などを搭載できます。これなら、1000mの海底探査もできますね。
     ちなみに、維持費は年間2000万ドル(約240億円)だということです。

     このヨットを使って、ポール・アレン氏は8年がかりで「武蔵」を探したそうです。
     夢があるというか、スケールが違いますね。

     ここからは、「夢追い人」、ポール・アレン氏について、紹介します。

     ポール・ガードナー・アレン(Paul Gardner Allen)氏は、1953(昭和28)年にアメリカ合衆国の西海岸、あのイチローがいた大リーグ「シアトル・マリナーズ」があるワシントン州シアトルで生まれました。
     お父さんは、ワシントン大学図書館の司書でした。

     アレン氏は、レイクサイド高校という名門私立高校に通い、そこで将来の共同創設者であるビル・ゲイツと出会います。
     この時、アレン氏は14歳、ゲイツ氏は12歳でした。

     高校卒業後、アレン氏はワシントン州立大学に進学しますが、2年後に中退してボストンでプログラマーとして勤務します。

     1975(昭和50)年、ハーバード大学に在籍していたビル・ゲイツ氏を説得し、マイクロソフト社を設立し、「BASICインタプリタ」の販売を開始します。
     マイクロソフト社が、その後、巨大企業となり、ビル・ゲイツ氏とともに大株主であるアレン氏は莫大な資産を手に入れます。

    <写真;ポールアレン氏(左)とビル・ゲイツ氏>


      
      1983(昭和58)年にホジキン病で余命数年と診断され、マイクロソフト社を退社し、数か月に渡る放射線治療と骨髄移植を行い病気を克服します。

     
      1990(平成2)年にマイクロソフトに復帰しますが、2000(平成12)年には再びマイクロソフトを退社し取締役を退任します。

      このあと、様々な事業や慈善活動を行い、夢を追う「愛すべき大富豪」になります。

     まず、1986(昭和61)年に、慈善団体の「ポール・G・アレン一族財団」を創設し、毎年3,000万米ドル(36億円)を、太平洋岸北西地域の民間非営利組織に分配しています。

     2003(平成15)年には、私財1億ドルを投じてアレン脳科学研究所を設立し、マウスや人の「遺伝子発現マップ」を作成し、世界中の研究者のために、遺伝子マップをインターネットで無料公開しています。

     2004(平成16)年に 、世界で初めて「民間企業による有人宇宙飛行」に成功したスペースシップワン( Space Ship One) にも出資しています。

    <写真:民間による民間有人飛行船 スペースシップワン>


      また、SFファンとしても知られ、 SF博物館を2004年に郷土シアトルに設立しました。

      地球外生命(宇宙人?)の発見を目的とした非営利団体「SETI協会」にも多額の寄付を行っており、アレンの名を冠した電波望遠鏡アレン・テレスコープ・アレイの建造も進められています。

     また、スティーブン・スピルバーグらが設立した、大手アニメーション制作会社である「ドリームワークスアニメーション」にも出資したり、ロック博物館とも言える音楽博物館の「エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト」にも出資するなど、エンターティメント活動への貢献も大きいものがあります。

     変わったところでは、ハナアブの一種である「ポールアレンハナアブ」には、双翅目学に対する貢献から、彼の名がつけられています。

     最後に、ポールアレン氏は、スポーツ界にも大きな貢献をしています。
     

     1988(昭和63)年に、NBA(アメリカ・プロバスケットリーグ)のポートランド・トレイルブレイザーズのオーナーになり、1997(平成9)年には、NFL(アメリカンフットボールプロリーグ)のシアトル・シーホークスのオーナーになりました。

     さらに、アメリカ・メジャーリーグサッカーの「シアトル・サウンダーズFC」のオーナーにもなっています。


     夢と情熱をもった大富豪ボール・アレン氏って本当にすごいですね。
     彼のすごいのは、ビジネスと社会貢献を分けて、すべてに「営業」を持ち込まわけではないことだと思います。

     最初に紹介した戦艦「武蔵」についてもポール・アレン氏は、
    「(発見の)責任を果たすため、日本政府と協力して伝統を残すための丁寧な対応にあたる。」
    と謙虚なコメントを残しています。

     ポール・アレン氏のような資産家が、増えてほしいものです。