あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを🎵
これは、NHKの連続テレビ小説「マッサン」のエリー役で有名になったシャーロット・ケイト・フォックスさんが、4月に発売したカバー曲「ゴンドラの唄」の1番です。
「ゴンドラの唄」は、ちょうど今から100年前の1915(大正4)年に作られた歌です。
もともとは、芸術座公演の劇中歌でしたが、この歌を有名にしたのは、黒澤明監督が、1952(昭和27)年に作った名作映画「生きる」です。
映画「生きる」のあらすじを紹介します。
主人公の渡辺勘冶(志村喬)」は、30年間、平平凡凡と勤務を続けてきた市役所の市民課長です。
主婦の団体が、「近所に下水溜めがあって衛生に悪く子供たちが病気になる恐れがある。公園にしてほしい。」との陳情も、他課へのたらい回しで対応します。
情熱も消えて、「お日様、西西」で1日が終わればいいと思っていました。
ところが、ある日突然、病院で「余命、数か月の癌」であることがわかります。
ここから、渡辺勘冶の本当に「生きる」人生が始まります。
30年間で初めて市役所を無断欠勤し、酒場で出会った小説家(伊藤雄之助)と、キャバレー、ストリップ劇場、バーなどを遊び歩きます。
翌朝、部下の若い市役所職員・小田切とよ(小田切みき)が、「退職しておもちゃ工場で働くので、渡辺課長の承諾印がほしい。」とやってきます。
渡辺は承諾の判を押してやると、自分が癌で余命いくばくもないことを知らせ、喫茶店や遊園地、パチンコ、スケートリンクなどを2人で訪れます。
疲れて茫然としている渡辺に、小田切とよは、再就職先のおもちゃ工場で作っている「うさぎ」のおもちゃを見せます。
「日本中のこどもと友達になれる気がするのよ。課長さんも、何かやってみたら。」
「もう、遅いよ。」
そう言った渡辺ですが、翌日から人が変わったように、公園づくりのため、市役所の中を精力的に駆けずり回ります。
上司や同僚の中傷も気にせず、公園設置に尽力します。
そして、5か月後、完成した公園のブランコで、雪降る中、渡辺勘冶は一人で、「ゴンドラの唄」を歌いながら死んでいきました。
「🎵いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを🎵」
<映画「生きる」のポスター>
このブログでも、いろんな人の「生き方」と「死に方」を取り上げましたが、人が「生きる」っていうことは、どう生きるかであるとともに、どう死ぬかということであるような気がしています。
生きているうちから、有名でレジェンドだった人たちもいますが、非業の死によって、人々の記憶に深く刻まれた人たちもいます。
このブログで取り上げた中では、IS(イスラム国)に殺害された後藤健二さんをはじめ、鉄道自殺をした「二十歳の原点」の高野悦子さん、白血病でなくなったN先生など----です。
映画「生きる」は、どんな退屈な人生も、数か月あれば変えることができる。
何歳になっても、余命が少なくなっても、人は変われる。
そのことを教えてくれていると思います。
私の友人だったN先生も、白血病になってからの数か月で人々の心に残る先生になりました。
歴史上の人物で言えば、吉田松陰がそうだと思います。
堂々と幕府の非を述べて斬首になることで、彼の弟子たち、高杉晋作や伊藤博文たちが、倒幕・明治維新へと突き進む勇気を残したのだと思います。
映画「生きる」は、「1953(昭和28)年キネマ旬報ベストテン」の第1位で、1953年の毎日映画コンクール 「日本映画大賞」、1954(昭和29)年の第4回ベルリン国際映画祭「市政府特別賞」を受賞しています。
しかし、この映画がすごいところは、20年後、30年後でも高い評価を得ている点です。
・ 1989(平成元)年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第3位
まさに、人々の心に長く「生きる」名作映画です。
そして、今年(2015年)、映画のテーマ曲「ゴンドラの唄」が、NHK連続テレビ小説「マッサン」の中で歌われ、主役のシャーロット・ケイト・フォックスさんがCDを発売し、テレビの歌番組でも歌っています。
「ゴンドラの唄」の歌詞全文を紹介します。
「🎵ゴンドラの唄」 作詞:吉井勇、作曲:中山晋平
いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
いのち短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて かの舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰れも 来ぬものを
いのち短し 恋せよ乙女
波にただよう 舟のよに
君が柔わ手を 我が肩に
ここには人目も 無いものを
いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
この曲を作曲をした中山晋平さん<長野県出身 1887(明治20)年~1952(昭和27)年>は、童謡「シャボン玉」から各地の校歌まで、わかっているだけで1770曲を作曲した天才です。
この中山晋平さんが、お母さんの死の直後、悲しみに暮れる帰りの汽車の中で「『ゴンドラの唄』の歌詞が語りかけて」きて、「汽車の揺れとともに、自然と旋律がわいてきた」という逸話が残っています。
確かに、悲しく淋しい、それでいて懐かしく暖かい「癒しの曲」です。
「ゴンドラの唄」ができて100年、映画「生きる」が世に出て63年が経ちますが、どちらも、それぞれの人の心の中で「生きる」、名曲ですね。
私も、映画「生きる」の渡辺勘冶のように、これからの残りの人生は、本当の意味で自分らしく、最高の自分を「生きる」ことを、目標にしたいと思っています。
<一句>
今日からが 未来・青春 人生の
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