2015年5月30日土曜日

1本のペンで世界を変えられる! ~ノーベル平和賞・マララの言葉

 「無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。
  1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。(One child, one teacher, one book, one pen can change the world.)
 教育こそがただ一つの解決策です。」

 これは、2014年に、史上最年少(17歳)でノーベル平和賞を受賞した、パキスタン人の少女マララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai)さんが、前年の2013年7月にニューヨークの国連本部で演説した内容の一部です。

 中東、ウクライナ、南シナ海、アフリカ、朝鮮半島、そして東シナ海。世界には、相変わらず戦争の匂いが漂っています。そして、日本周辺も例外ではありません。

 今、本当に大切なものは何なのかを考えるため、勇気ある少女・マララのことを紹介したいと思います。

<1本のペンが世界を変える>




 マララ・ユスフザイさんは、1997(平成9)年7月12日にパキスタンのミンゴラで生まれました。

  父親のジアウデイ・ユスフザイさんは、私立の女学校を経営していました。マララは、父親の影響を受けて、学校に通い医者を目指していました。

 2007(平成19)年、パキスタン・タリバン運動(TTP)が、ユスフザイ一家が住むスワート県の行政を掌握して、恐怖政府を始めました。
 TPPは、「女性に教育は必要ない」と主張し、女性が教育を受けたり、女性教育を推進するものの命を狙うようになりました。

 2009(平成21)年、マララ(11歳)は、TPPの恐怖政治の下で生きる人々のようすを、BBC(イギリス公共放送)の依頼で、ペンネームで「グル・マカイの日記」というブログを書くようになりました。

 パキスタン初の女性首相であり暗殺されたベーナズィール・ブット氏(1953年~2007年)の影響を受けていたマララは、ブログで、TPPによる女子校の破壊活動を批判し、女性教育の必要性や平和を訴え、メディアに注目されるようになります。
 
 「過激派は本とペンを恐れます。教育の力は彼らをおびえさせます。彼らは女性が怖いのです。女性の声の力が彼らをおびえさせるのです」
(マララの言葉)

 2009(平成21)年、TTPがパキスタン軍の大規模な軍事作戦によって追放された後、パキスタン政府は彼女の本名を公表しました。

 マララは「勇気ある少女」として表彰され、その後、パキスタン政府主催の講演会にも出席し、女性の権利などについて語りました。
 しかし、このことでTPP(タリバン)に命を狙われることになります。

 2012(平成24)年10月9日、マララが15歳の時に、中学校のスクールバスで帰る途中に、TPPに襲撃され、頭と首に計2発の銃弾を受け重傷を負いました。一緒にいた2人の女学生も負傷しました。

 15歳の少女を襲撃したTPPの行為は、パキスタン国内だけでなく、世界各国から批判を受けますが、TPP(タリバン)は、「女が教育を受ける事は許し難い罪であり、死に値する」と正当性を主張して、徹底抗戦の構えを示しました。

 マララは、治療と安全を図るために、家族とともにイギリス・バーミンガムへ移送され、手術を受けました。

 2013(平成25)年、国際連合はマララの誕生日の7月12日を、「マララの日」とし、同日、ニューヨーク国連本部でマララは演説し、最初に紹介した「1本のペンで世界を変えられる」と訴えました。

 この時のマララの演説を紹介します。

 2012年10月9日、タリバンは私の額の左側を銃で撃ちました。私の友人も撃たれました。彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。
 でも、彼らは失敗しました。私たちが(負傷して)沈黙したそのとき、数えきれないほどの声が上がったのです。

 テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えました。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。 私の中で、弱さ、恐怖、絶望が死に、強さと力、そして勇気が生まれました。

  私はこれまでと変わらず<マララ>のままです。そして、私の志もまったく変わりません。私の希望も、夢もまったく変わっていないのです。」
 (2013年7月 マララの国連演説より)

<国連本部(アメリカ・ニューヨーク>

 

 
 
 一方で、マララは、アメリカのパキスタンに対する軍事干渉には批判的な見解を示し、国連演説の後の2013年10月に、アメリカのオバマ大統領と面会した際には、無人機を使ったアメリカのテロ掃討作戦をやめるよう求めました。

 さらに、本の収益や寄付金などをもとに、2013年に「マララ基金」を設立し、紛争地の子供たちや少女たちの就学支援などを、積極的に行っています。

 そして2014(平成26)年、マララは17歳という史上最年少の若さでノーベル平和賞を受賞しました。

 マララのノーベル平和賞の受賞演説から、紹介します。

 「なぜ、強いといわれる国々は、戦争を生み出す力があるのに、平和をもたらすことには弱いのでしょうか。
 なぜ、銃を与えることは、とても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。
 なぜ戦車をつくることは、とても簡単で、学校を建てることはとても難しいのでしょうか。

 この21世紀には、全ての子供たちに質の高い教育を与えられなければなりません。私たちは動くべきです。待っていてはいけない。動くべきなんです。

 みなさん、これで終わりにしましょう。
 誰もいない教室も、失われた子供時代も、無駄にされた可能性も。

 戦争で子供の命が失われることも、子供が学校に通えないことも、これで終わりにしましょう。私たちで終わらせましょう。」 
(2014年12月10日 ノルウェーでのマララのノーベル平和賞受賞演説より抜粋)

 マララは、TPPの暗殺予告によりパキスタンに帰れずに、外国で活動しています。
 彼女は、ノーベル平和賞の賞金をマララ基金に寄付し、子供たちや少女を救済する活動を続けています。いわば、「マララの平和のための戦い」は続いています。

 マララの言葉の中には、たくさんのダイアモンドが詰まっていると思います。その輝きのうち、3つを紹介します。

 まず1つめは、私の身内を含む、不登校や学校に行きたくない子供たちに聞いてほしい言葉です。

「 私たちは学校が大好きでした。しかしタリバンに邪魔されるまで、教育の大切さに気づくことができませんでした。
 学校に通って、本を読み、宿題をすることは、ただの時間つぶしではありません。それは私たちの未来だったのです。」

 私にも経験がありますが、学校は、弱い子供にとっては「牢獄」であり「地獄」です。
 でも、そこは本当は、「忍耐」と「自分の未来」を学ぶ場所なのです。気づいてほしいと思います。


 2つ目の言葉のダイアモンドは、マララの「本とペンの非暴力の戦い」についてです。彼女は国連演説の中で、こう言っています。

「 私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼の前に立ったとしても、私は彼を撃たないでしょう。
 これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。
 これは、キング牧師、ネルソン・マンデラ南アフリカ元大統領、そしてムハンマドから受け継がれた変革という財産なのです。
 これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。
 そして、これは私の父と母から学んだ「許しの心」です。

 私の魂が私に訴えてきます。
 『穏やかでいなさい、すべての人を愛しなさい』と。」

 日本は戦後70年、平和憲法のもとに「戦争を放棄」して、このマララと同じ方法で、世界で活動してきたのではないのでしょうか?。
 日本も私たちも、マララのように、これからも非暴力で、本とペンを武器に、がんばりたいものです。


 3つ目の言葉のダイアモンドは、私たち一人ひとりの「勇気」についてです。

「 私は(TPPの襲撃で)すでに死に直面しました。これからは、私、マララの第二の人生です。恐れてはなりません。臆病になれば、前に進むことができなくなってしまいます。
 本を取り、ペンを手に取りましょう。それが私たちの最も強力な武器です。
(Let us pick up our books and our pens, they are the most powerful weapons.)」


 おしまいに、「マララ」という名前について、紹介します。

 マララとい名前は、西アジアのジャンヌ・ダルクともいわれる「マイワンドのマラライ」(19世紀のイギリス・アフガニスタン戦争の英雄)にちなんで名付けらと、本人が語っています。

 「マララ」という言葉は、「悲しみにうちひしがれた」とか「悲しい」という意味です。
 しかし、マララとその家族は、そこに「幸福」の意味を加えようとしています。
 マララの祖父は、いつもマララのことを、「世界で最も幸せな少女」と呼んでいるそうです。

 1人の少女のブログが、勇気が、世界を変えつつあります。
 このブログを読んでくださっているあなたも、書いている私も、この21世紀のジャンヌ・ダルクの生き方と言葉に、勇気をもらい「少しづつでもチェンジ」して、夢を現実にしていきましょう。

 最後に、もう1つ、マララの言葉を紹介します。

 今日の夢が、「明日の現実」になると信じています。
 私たちの夢を、「明日の現実」にしましょう。
(I believe that today’s dreams become tomorrow’s reality. And let us make our dreams become tomorrow’s reality.)」

<マララ箸「わたしはマララ」(学研)>

2015年5月26日火曜日

「ふまれたたんぽぽ 夢と飛べ」 いじめられても不登校でもキラキラと


 「春老いて たんぽぽの花 吹けば散る」
 これは、正岡子規の歌で、春が終わろうとするちょうど今頃の句かなと思います。

 今年は、4月の途中まで寒かったのに、5月になると台風が来て、あっという間に夏のような暑さになりましたね。

 冬から夏に、一足飛びに季節が進んで、春がほとんどなかったようにも思えますが、公園や道端をよく見てみると、しっかりと春の花「蒲公英(たんぽぽ)」が咲いていて、黄色い花と綿帽子(わたぼうし)が並んで咲いていました。

 踏まれても踏まれても、負けずに咲いて、最後は空に飛んでいく、たんぽぽって逞しいですね。

<たんぽぽの花>


 蒲公英(たんぽぽ)は、キク科タンポポ属の多年草で、日本では「フジナ」とか「タナ」とか呼ばれていました。

 「たんぽぽ」とは、和楽器の鼓(つづみ)を意味する幼児言葉で、江戸時代には、「つづみぐさ」と呼ばれていました。
 これは、たんぽぽの茎を鼓のように反り返らせる遊びがあることから来ています。転じて、花も「たんぽぽ」と呼ばれるようになったというのが通説です。

 英語では、たんぽぽを「ダンディライオン(dandelion)」といいますが、これは、フランス語で「ライオンの歯」を意味する「ダン=ド=リオン(dent-de-lion)」に由来します。ギザギザした葉がライオンの牙を連想させるからだと言われています。

 たんぽぽの花言葉は、「真心の愛」「神のお告げ」「別離」などです。

 ところで、タンポポの綿帽子(種)の飛行距離を、考えてみたことがありますか?
 個体や条件によって異なりますが、最低は0mで間違いないですが、最長はわかりません。ただ10kmも飛ぶとの説もあるそうです。

 踏まれ続けたタンポポが、最後には花を咲かせ、綿帽子となって大空を自由に飛ぶ。たんぽぽって、なんかいいですね。


 「ふまれてたんぽぽ ひらいてたんぽぽ」

 これは、漂泊の詩人 種田山頭火(たねだ さんとうか)の句です。
 種田山頭火(本名 種田正一 1882(明治15)年~1940(昭和15)年 山口県生まれ)については、1度、別に紹介したいと思っていますが、他にも、こんなタンポポの句を作っています。

「もう転ぶまい 道のたんぽぽ」

「今日の道の たんぽぽ咲いた」

 自由に生き、俳句も自由律だった種田山頭火とたんぽぽは、相性がよかったようですね。

<たんぽぽの綿帽子>



 もう一つ、たんぽぽで紹介したいのは、ユーミン(松任谷由実)の「ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ」(1983年)という歌です。
 ひとりぼっちの黄昏時には、ぴったりの歌です。

 1番の歌詞だけ書きますね。


🎵「ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ」(作詞・作曲・歌 松任谷由実)

夕焼けに小さくなる くせのある歩き方
ずっと 手を振り続けていたい人
風に乗り飛んできた はかない種のような
愛はやがて来る 冬を越えてゆく
君はダンデライオン
傷ついた日々は 彼に出会うための
大切なレッスン
今 すてきなレデイになる


 なんか、癒されませんか?

 
 最後に、たんぽぽのことわざを紹介します。
 「 踏まれても 踏まれても なお咲く たんぽぽの笑顔かな」

 最近、子供を見ながら思うことは、たんぽぽのようにたくましくなって、不登校でもいじめられっこでも、負けないでキラキラ笑顔で輝いてほしいということです。 

 もちろん、自分もどんな逆境になっても、がんばらないといけないとの気持ちです。


<私も子規と山頭火からとって(パクリ?)1句>

・春老いて ふまれたタンポポ 夢と飛べ


 

2015年5月23日土曜日

イルカ いないか? 水族館

 日本の水族館の花形、イルカショーのイルカ調達がピンチです。
 「水族館のイルカがいなくなるかも?」と言われています。

 「世界動物園水族館協会(WAZA)」が、日本の伝統的な追い込み漁が残酷で、この方法により捕獲したイルカを購入するのは倫理規定に違反するとして、日本の水族館・動物園が購入することの中止を求め、除名勧告をしていました。

 この問題で、2015年5月20日に、「日本動物園水族館協会(JAZA)」は、渋々WAZAの勧告を受け入れて、追い込み漁で捕獲したイルカの購入を中止すると発表しました。
 
 JAZA加盟の施設は、動物園が89施設、水族館が63施設の152施設ですが、このうち142施設が、今回の投票し、残留99、離脱43で、WAZAへの残留を決定し、追い込み漁のイルカ購入を中止することになりました。

 WAZAに残留しないと、トラやサイなど、他の動物の「世界の動物園・水族館」との取引・貸し借りができなくなるので、イルカを犠牲にした形の苦渋の選択です。


<イルカショー>



 現在、日本でイルカのいる水族館は34施設、イルカの数は287頭と言われています。(とうことは、ほとんどのイルカのいる水族館が反対(離脱)に投票したようですね。)

 日本の34水族館のうち、イルカ繁殖の経験のある施設は12施設で、少なくても18施設の168頭は、和歌山県太地町から「追い込み漁」で捕獲したものを購入したそうです。
 公表していない施設もありますが、日本の水族館にいるイルカ全体の90%近くが、和歌山の「追い込み漁」で捕獲したもので、繁殖は12~13%にすぎないそうです。

 一方、アメリカ合衆国のイルカ416頭のほとんどが繁殖によるもので、この20年間、野生のイルカを捕獲したものを水族館に入れた例はないそうです。

 では、なぜ日本の水族館で繁殖をあまりしないのかというと、イルカの繁殖には大規模な施設が必要で、その2年後の生存者率は10%程度と難しいそうです。
 さらに、イルカショーのイルカの大半は、調教しやすいメスで、オスが少ないことも原因です。

 一方、日本の伝統漁法の「追い込み漁」でとったイルカは、1頭100万円程度で購入でき、比較的容易に手に入れることができるそうです。(イルカの年間の飼育料も、1頭あたり年間100万円だそうです。

 もちろん、根本には、イルカ・クジラに関する価値観・文化の違いがあります。
 日本では、古来より、イルカ・クジラを食用や油・肥料とする漁が、伝統漁法として行われています。

 その一つが「追い込み漁」で、数十隻から百隻の船で、沖合から魚・イルカ・クジラ等を、音や振動で入江や湾に追い詰めて捕獲する方法で、昔は全国各地で行われていましたが、今は和歌山県太地町だけで行われています。

 2013(平成25)年の記録では、日本のイルカ捕獲量2832頭のうち、1239頭が和歌山県太地町の「追い込み漁」で捕獲されました。
 このうち172頭(13.9%)が、日本国内や中国(WAZA未加入)の水族館・動物園に、1頭100万円前後で売られました。

 欧米では、イルカやクジラを食する習慣がなく、油をとるためだけに殺害されていましたが、油が油田などから大量に取れるようになって、保護運動が盛んになりました。
 特に、和歌山県太地町の「追い込み漁」を撮影した映画「ザ・コーブ」が、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞してからは、批判の的にされるようになりました。

<野生のイルカ>



 生命の大切さは共感できますが、人間が生きていく以上、他の命を食べていかなければならないのも、悲しい現実です。
 西欧でよく食される、牛や豚、羊などは殺害してもよくて、イルカやクジラはダメというのは、違うような気がします。

 ちなみに、イスラム教徒はコーランの教えに従い不潔・不純な「ブタ」を食べませんし、ヒンズー教徒は「牛」を聖獣と考え食べません。
 日本でも、江戸時代は仏教の影響で、獣(けもの)を食べない習慣があり、ウサギは鳥(それで1羽、2羽と数えます)、イノシシは魚(山鯨)と、無理やり呼んで、ごまかして食したそうです。

 そうは言っても、「追い込み漁」によって捕獲されたイルカを、水族館で購入してはいけないことになった以上は、多くの水族館が共同で「繁殖施設」を整えるなどの方法をとらないと、数年後には水族館からイルカが消えて、本当に「イルカいないか水族館」になってしまいそうです。

 イルカの平均寿命は30年とも50年とも言われていますが、水族館での寿命は4年~7年程度だそうです。
 大切に飼って、平均寿命を伸ばして、日本の水族館の「イルカの灯」を、消さないでほしいと思います。

 イルカには、「溺れていた人間を助けてくれた」とか、「サメの襲撃から人間を守ってくれた」など、人間のパートナーとしての逸話が多く残されています。
 ぜひ、大切にしたい友達だと思います。



<おまけ イルカの豆知識>

(1) イルカとクジラは、生物学的には同じ種で、区別はないそうです。一般的には、4m以上を「クジラ」、4m未満を「イルカ」と呼んでいます。
 英語でもほぼ同じ大きさで区分し、大きいものを「Whale」、小さいものを「Dolphin」
と呼びます。

(2) 「なごり雪」などで有名な歌手の「イルカ」(本名 神部としえ)さんは、学生時代に、ギターケースを抱えて帰宅する後姿が、イルカに似ているとつけられたニックネーム「イルカ」を、芸名にしたそうです。

(3) 飛鳥時代の645(大化元)年に、「大化の改新」で中大兄王子(のちの天智天皇)に斬首された蘇我入鹿(そがの いるか)の名前は、藤原氏が後世につけた蔑名だという説があります。
 一方で、超人間的な能力をもった「イルカ」への畏敬の念を込められた名前だという説もあります。



<一句>

・イルカまで 紛争のネタ ふん・そうか

・水族館 命運握る イルカショー 

・入ろうか イルカいないか? 水族館 

 

2015年5月19日火曜日

黒澤映画「生きる」とシャーロットが歌う「ゴンドラの唄」

🎵いのち短し 恋せよ乙女
 あかき唇 あせぬ間に
 熱き血潮の 冷えぬ間に
 明日の月日は ないものを🎵
 

 これは、NHKの連続テレビ小説「マッサン」のエリー役で有名になったシャーロット・ケイト・フォックスさんが、4月に発売したカバー曲「ゴンドラの唄」の1番です。

 「ゴンドラの唄」は、ちょうど今から100年前の1915(大正4)年に作られた歌です。
 もともとは、芸術座公演の劇中歌でしたが、この歌を有名にしたのは、黒澤明監督が、1952(昭和27)年に作った名作映画「生きる」です。

  映画「生きる」のあらすじを紹介します。


  主人公の渡辺勘冶(志村喬)」は、30年間、平平凡凡と勤務を続けてきた市役所の市民課長です。

 主婦の団体が、「近所に下水溜めがあって衛生に悪く子供たちが病気になる恐れがある。公園にしてほしい。」との陳情も、他課へのたらい回しで対応します。
 情熱も消えて、「お日様、西西」で1日が終わればいいと思っていました。

 ところが、ある日突然、病院で「余命、数か月の癌」であることがわかります。
 ここから、渡辺勘冶の本当に「生きる」人生が始まります。

 30年間で初めて市役所を無断欠勤し、酒場で出会った小説家(伊藤雄之助)と、キャバレー、ストリップ劇場、バーなどを遊び歩きます。

 翌朝、部下の若い市役所職員・小田切とよ(小田切みき)が、「退職しておもちゃ工場で働くので、渡辺課長の承諾印がほしい。」とやってきます。

 渡辺は承諾の判を押してやると、自分が癌で余命いくばくもないことを知らせ、喫茶店や遊園地、パチンコ、スケートリンクなどを2人で訪れます。

 疲れて茫然としている渡辺に、小田切とよは、再就職先のおもちゃ工場で作っている「うさぎ」のおもちゃを見せます。
 「日本中のこどもと友達になれる気がするのよ。課長さんも、何かやってみたら。」

「もう、遅いよ。」
 そう言った渡辺ですが、翌日から人が変わったように、公園づくりのため、市役所の中を精力的に駆けずり回ります。
 上司や同僚の中傷も気にせず、公園設置に尽力します。

 そして、5か月後、完成した公園のブランコで、雪降る中、渡辺勘冶は一人で、「ゴンドラの唄」を歌いながら死んでいきました。

「🎵いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを🎵」


<映画「生きる」のポスター>




  このブログでも、いろんな人の「生き方」と「死に方」を取り上げましたが、人が「生きる」っていうことは、どう生きるかであるとともに、どう死ぬかということであるような気がしています。

 生きているうちから、有名でレジェンドだった人たちもいますが、非業の死によって、人々の記憶に深く刻まれた人たちもいます。

 このブログで取り上げた中では、IS(イスラム国)に殺害された後藤健二さんをはじめ、鉄道自殺をした「二十歳の原点」の高野悦子さん、白血病でなくなったN先生など----です。

 映画「生きる」は、どんな退屈な人生も、数か月あれば変えることができる。
 何歳になっても、余命が少なくなっても、人は変われる。
 そのことを教えてくれていると思います。

 私の友人だったN先生も、白血病になってからの数か月で人々の心に残る先生になりました。

 歴史上の人物で言えば、吉田松陰がそうだと思います。
 堂々と幕府の非を述べて斬首になることで、彼の弟子たち、高杉晋作や伊藤博文たちが、倒幕・明治維新へと突き進む勇気を残したのだと思います。


 映画「生きる」は、「1953(昭和28)年キネマ旬報ベストテン」の第1位で、1953年の毎日映画コンクール 「日本映画大賞」、1954(昭和29)年の第4回ベルリン国際映画祭「市政府特別賞」を受賞しています。

 しかし、この映画がすごいところは、20年後、30年後でも高い評価を得ている点です。
  • 1979(昭和54)年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネ旬発表)第2位

  • ・ 1989(平成元)年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第3位

  • 1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第3位

  •  まさに、人々の心に長く「生きる」名作映画です。


     そして、今年(2015年)、映画のテーマ曲「ゴンドラの唄」が、NHK連続テレビ小説「マッサン」の中で歌われ、主役のシャーロット・ケイト・フォックスさんがCDを発売し、テレビの歌番組でも歌っています。





     「ゴンドラの唄」の歌詞全文を紹介します。


    「🎵ゴンドラの唄」  作詞:吉井勇、作曲:中山晋平

    いのち短し 恋せよ乙女
    あかき唇 あせぬ間に
    熱き血潮の 冷えぬ間に
    明日の月日は ないものを

    いのち短し 恋せよ乙女
    いざ手をとりて かの舟に
    いざ燃ゆる頬を 君が頬に
    ここには誰れも 来ぬものを

    いのち短し 恋せよ乙女
    波にただよう 舟のよに
    君が柔わ手を 我が肩に
    ここには人目も 無いものを

    いのち短し 恋せよ乙女
    黒髪の色 褪せぬ間に
    心のほのお 消えぬ間に
    今日はふたたび 来ぬものを


     この曲を作曲をした中山晋平さん<長野県出身 1887(明治20)年~1952(昭和27)年>は、童謡「シャボン玉」から各地の校歌まで、わかっているだけで1770曲を作曲した天才です。

     この中山晋平さんが、お母さんの死の直後、悲しみに暮れる帰りの汽車の中で「『ゴンドラの唄』の歌詞が語りかけて」きて、「汽車の揺れとともに、自然と旋律がわいてきた」という逸話が残っています。

     確かに、悲しく淋しい、それでいて懐かしく暖かい「癒しの曲」です。

     「ゴンドラの唄」ができて100年、映画「生きる」が世に出て63年が経ちますが、どちらも、それぞれの人の心の中で「生きる」、名曲ですね。

     私も、映画「生きる」の渡辺勘冶のように、これからの残りの人生は、本当の意味で自分らしく、最高の自分を「生きる」ことを、目標にしたいと思っています。


    <一句>

    今日からが 未来・青春  人生の 

    2015年5月17日日曜日

    「巨大地震と火山噴火」の連動の歴史<日本編> 富士山・箱根山は?


     前回は、1950(昭和25)年以降の60年間で、世界で起こったM(マグニチュード)9.0以上の「超巨大地震」が6回起こり、そのうち、「東日本大震災」以外の5回は、近くの火山が大噴火を起こしたこと(連動噴火)を紹介しました。

     連動噴火の確率は、東日本大震災を除くと5/5で100%、東日本大震災を入れると(今のところ)5/6で83%ということになります。

     問題は、今後、「東日本大震災」後の日本でも、連動噴火が起こるかどうかです。

     前回は、20世紀後半以降の、世界の「超巨大地震と火山噴火」の関係を見ました。
     今回は、有史以来の日本で起こった「巨大地震と火山噴火」の関係を歴史的に調べてみたいと思います。


    <桜島の噴火 (夜間)>




     日本でM9.0以上か同規模と推定できる地震は、記録が残っている7世紀(601年~700年)以降、2015年4月までで、4回起こっています。

     最も古い超巨大地震は「白鳳(はくほう)地震」と呼ばれ、飛鳥時代の684(白雉35)年11月26日に起こった「南海トラフ巨大地震」と推定されるものです。
     「日本書記」に記録があり、四国の土佐(高知県)や伊予(愛媛県)などで大きな被害があったことが記録に残されています。

     地震当日に「伊豆大島(東京都)」が噴火し、地震の5ヶ月後には、「浅間山(長野県・群馬県)」や「焼岳(長野県・岐阜県)」も噴火したと伝えられています。


     日本で起きた2度目の超巨大地震は、「貞観(じょうがん)地震」で、平安時代初期の869(貞観11)年7月9日に、東日本大震災とほぼ同じ、東北地方の太平洋沖を震源とした地震が発生し、大規模な津波が発生しました。「日本三代実録」に記載があります。

     貞観地震の1年11ヶ月後の871年に、「鳥海山(秋田県・山形県)」で溶岩流を伴う大噴火がありました。


     3度目の超巨大地震は、「宝永(ほうえい)地震」で、江戸時代中期の1707(宝永年4)年10月28日に、南海トラフ全域(東海~九州の南海上)を震源とする日本史上最大級の地震とされ、M9.1~M9.3と推定されます。

     西日本から東海までの太平洋岸全域に、最大25mを超える巨大津波が押し寄せたと推定され、最大震度7で、5000人~2万人の死者を出す甚大な被害が出ました。

     宝永地震の49日後に、「富士山(山梨県・静岡県)」の大噴火(宝永大噴火)が起こりました。
     また、1年2ヶ月後に「浅間山(長野県・群馬県)」が噴火し、その2ヶ月後には「阿蘇山(熊本県)」が、さらに2ヶ月後には「岩木山(青森県)」と「三宅島(東京都)」が、それぞれ噴火しました。

     地震からわずか1年半で、富士山を含む5つの火山が噴火したことになります。


     最後の4回目は、もちろん、2011(平成23)年3月11日に、東北の太平洋沖を震源として起きた「東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)」です。

     この地震の規模は、M9.0と推定され、東北から関東の太平洋岸にかけて巨大な津波が押し寄せ、最大津波高40m、最大震度7、死者・行方不明者は18470人にもなりました。

     また、この地震・津波により、「東京電力福島第一原子力発電所」の1号炉・2号炉・3号炉が「炉心融解(メルトダウン)」して、大量の放射性物質が漏洩しました。     4年たった今でも、炉心の被害状況の把握さえ、できていません。

     この事故は、「国際原子力事象評価尺度」で最悪のレベル7(チェルノブイリ原子力発電所事故と同等)に位置付けられています。

     東日本大震災のあとの人的被害が出た火山噴火としては、2014(平成26)年9月27日の「御嶽山(長野県・岐阜県)」が水蒸気爆発して、噴石で死者・行方不明者63人が出たものがありますが、これは火山噴火としては小規模なものです。

    <御嶽山の2014年の噴火>



     まとめると、日本の過去4回の「超巨大地震」のうち、2回は「東北地方太平洋岸沖」が震源で、残りの2回が「南海トラフ」を震源とするものです。

     これら4回の超巨大地震のうち、「東日本大震災」を除く過去3回の地震では、震災後、2年以内に大きな火山噴火が起きています。

     前回、調べた世界の巨大地震と合わせると、9回の超巨大地震のうち、東日本大震災を除く8回の超巨大地震のあと3年以内に、大きな火山噴火が起こったことになります。

     その確率は8/9で、89%になります。
     例外の1回は、「東日本大震災」だけです。

     この連動噴火が、3年以内ではなく、5年以内(~2016年)、10年以内(~2020年)になっても、何百年、何千年単位で活動する「火山活動」からすれば、少しも不思議ではありません。

     昔は、富士山などの活動していない火山を、「休火山」とか「死火山」とか言っいましたが、今は「1万年以内に噴火したことがある火山」は、すべて活火山と呼ぶ」そうです。
     つまり、富士山も箱根山も「活火山」なのです。


     日本には110の火山があると言われていますが、2011年の「東日本大震災」以降、御嶽山や箱根山の他にも、阿蘇山・蔵王・桜島など、全国各地の火山の活動が活発化しています。

     ちなみに、今、箱根山で起こっている地震は「火山性地震」と言われていますが、
    これは水蒸気の動きなどで起こるものが多いそうです。
     一方、マグマが上がってくると、「火山性微動」という、小刻みな揺れが多くなるそうです。

     火山の噴火の前兆は、ある場合もない場合もありますので一概には言えませんが、一つの目安としては、「火山性地震」が「火山性微動」に変わると危ないそうです。

     他にも、「地面が膨らんだり」(国土地理院が5月16日に最大12cm隆起と発表)、「揺れや蒸気噴出が一時的に減る」のも危険信号だそうです。


    <浮世絵版画 「凱風快晴(赤富士)」 葛飾北斎作>



     最後に、これから起こることの参考になるかも知れないので、2011年の「東日本大震災」と同じ「東北太平洋岸沖」を震源として1100年以上前に起こった、869年の超巨大地震「貞観地震」の前後の地震・火山の動きを紹介します。

    ・864(貞観6 貞観地震の5年前)年6月  
     富士山で大量の溶岩流出を伴う記録上最大の「貞観大噴火」が発生。この時の噴火で、「青木ヶ原樹海」や「富士五湖の一部」が生成された。

    ・864年 阿蘇山噴火

    ・868(貞観10 貞観地震の1年前)年7月 播磨国(兵庫県)地震でM7台の地震 (*阪神大震災と同震源・同規模?)

    ・869(貞観11)年7月9日 東北太平洋岸沖を震源とする「貞観地震」発生。

    ・871(貞観13 貞観地震の2年後)年に、「鳥海山(秋田県・山形県)」で溶岩流を伴う大噴火発生。

    ・878(元慶2 貞観地震の9年後)年10月28日 M7.4の「相模・武蔵地震」が発生(場所的には首都直下型地震?)。

    ・886(仁和2 貞観地震の17年後)5月24日 伊豆諸島で噴火(房総で降灰)

    ・887(仁和3 貞観地震の18年後)8月22日 M[8.0~M8.5で南海トラフが震源と推定される「仁和地震」が発生。津波と揺れで死者多数。
    この地震で、「八ヶ岳(山梨県・長野県)」が山体崩壊。


    「富士山(貞観)大噴火→兵庫県地震→東北大震災(貞観地震)→関東南部地震→南海トラフ大地震」

     1100年前のこの流れを見ると、不気味ですね。

     必要以上に心配する必要はありませんが、東日本大震災からわずかに4年しか経っていない今は、火山活動にも地震活動にも、要注意の「黄色信号」の時期であることは、間違いないようです。

     もしものことも考えて、備えをしながら、地震国・火山国の日本で生きていくのが、日本人の宿命のようですね。


    <教訓>

    ・「天災は 忘れた頃に やってくる」
    (昔から日本で語り継がれる教訓)

    もうひとつ、過去の歴史から言えるとしたら、次の教訓です。
    ・「震災と 火山噴火は 連動注意」


     

    2015年5月16日土曜日

    「超巨大地震と火山噴火」の連動の歴史<世界編> 箱根山は?


     箱根山の活動が、ますます活発になっています。
     2015年5月15日の火山性地震は471回とこれまでで最多になりました。

     御嶽山が水蒸気噴火を起こした、2014年9月27日の火山性地震は313回でしたので、それと比べても多いですね。

     大涌谷の噴煙は、見た目にも増していますし、有感地震も増えています。
     震源も、大涌谷周辺だけでなく、芦ノ湖周辺まで広がっているそうです。
     これって、噴火の前兆現象ではないのでしょうか?

     箱根山は、以前紹介したとおり、マグマ噴火は3200年前、大規模な水蒸気爆発は800年前を最後に起こっていない火山です。

     ということは噴火する確率は低いとも言えそうですが、一方で、噴火の前兆現象も記録に残っていないので、「はっきりとはわからない」ということにもなります。
     
    <箱根山 大涌谷>



     参考にするため、ここで、世界の「巨大地震と火山噴火」の連動の歴史を見てみましょう。

     1951(昭和26)年から「東日本大震災」が起こった2011(平成23)年までの60年間に、世界では、「超巨大地震」と呼ばれるM(マグニチュード)9.0以上の地震が6回起きています。

     これらの超巨大地震と火山噴火の関係を、順に見てみましょう。


     まず1952(昭和27)年11月4日に、ロシア東部で起こったM9.0の「カムチャッカ地震」は、カムチャッカ半島と千島列島で15mを超える津波を発生させ、人口の少ない地域にもかかわらず2336人が死亡しました。

     この地震の翌日、11月5日に千島列島にあるカルピンスキ山が噴火しました。
     さらに、3年後の1955(昭和30)年10月22日、同じカムチャッカ半島にあるベズイミアニ火山が有史以来初めて(1000年ぶり?)噴火しました。
     翌1956(昭和31)年3月30日には、ベズイミアニ火山で「山体崩壊」を伴う大噴火が発生し、標高がそれまでの3058mから2882mに、176mも低くなりました。

      2つめの超巨大地震は、1957(昭和32)年3月9日に、アメリカ・アラスカ州で起こったM9.1の「アリーシャン地震(アンドレアノフ大地震)」です。
     この地震の2日後に、アリーシャン列島にある「ヴィゼヴェドフ山 」が噴火し、1年5ヶ月後には、同じアリーシャン列島のオクモク山が大噴火しました。

     3つめは、世界最大の巨大地震と言われ、1960(昭和35)年5月2日に南米チリで発生したM9.5の「チリ地震」です。
     この地震では、地球の裏側、太平洋の対岸の日本でも6mの津波が押し寄せ142名が亡くなっています。
     この地震では、2日後にコルドン・カウジェ火山が噴火するなど、1年以内に4つの火山で噴火が起きました。

    <チリ地震のあと大噴火したコルドン・カウジャ火山>



     4つめの超巨大地震は、1964(昭和39)年3月27日に起きたM9.2の「アラスカ地震」です。地震の64日後に「トライデント山」 が噴火し、1年10ヶ月後にはリダウト山が噴火しています。

     5つめの地震は、2004(平成16)年12月26日に、インドネシアで起こったM9.0の「スマトラ島沖地震」です。この地震では、インド洋で大津波が発生し、20万人とも、30万人とも言われる犠牲者を出しました。
     この地震のあと、105日後にタラン山が噴火し、その後3年以内に、 メラピ山 、バレン山 、ケルート山、アナク・クラカタウ山の各火山が噴火しました。

     6つめが、2011年(平成23)年3月11日のM9.0の「東日本大震災」で、この地震だけが今のところ、大きな火山噴火が起こっていません。
     (2014年9月27日の御岳山の噴火は、死者・行方不明者63名の大きな被害が出ましたが、火山噴火としてはマグマを伴わない水蒸気噴火で、小規模なものです。)

    <スマトラ島沖地震で起こったインド洋大津波>




     まとめると、この60年間に世界で起こったM9以上の世界の「超巨大地震」6回のうち、東日本大震災を除く5回の地震では、3年以内に近くの火山で大規模な噴火が起こっています。
     その確率は、5/5で100%です。(東日本大震災を入れると83%です。)

     この確率をどう考えますか?

     恐れる必要はないと思いますが、過去の世界の巨大地震の歴史から言うと、「東日本大震災」後、4年が過ぎた日本の火山で大噴火が起こっても不思議ではありません。十分な警戒が必要です。


     ちなみに、この巨大地震と火山噴火に相関関係があるという学説は、大学等の研究者たちの論文で指摘されているもので、権威のあるものです。

     もちろん、ロシアのベズイミアニ火山が超巨大地震の3年後に有史以来初(1000年ぶり?)の噴火をしたことからもわかるように、草津白根山、阿蘇山、桜島と言った活火山だけではなく、箱根山や富士山など、長い間噴火していない火山も、安心はできません。


     それでは、日本の歴史上の巨大地震と火山の関係はどうでしょうか。
     次回は、日本国内の歴史を見てみたいと思っています。

    2015年5月14日木曜日

    「大阪都構想」記念 東京VS大阪 2都の違い

     大阪では、橋下徹市長(1969年生~)を中心とする「大阪維新の会」のメンバーを中心に「大阪都構想」が叫ばれ、5月17日に「大阪市を廃止して5つの特別区に移行することについての住民投票」が行われます。

    (大阪府が大阪都になるには、この住民投票で賛成が反対を上回り、その後国会での法律改正が必要です。)

     この住民投票の有権者は、大阪府民ではなく大阪市民の20歳以上なので、約220万人です。
     
     今回は、「大阪都構想」自体ではなく、東京と大阪を比較してみたいと思います。

     まず人口を比較してみましょう。

     東京都は、23区26市1郡(1町3村)4支庁(9村)で、1339万人(2015年2月
    現在)です。うち、23区の人口は908万人で都全体の68%になります。

     一方、大阪府は、33市9町1村で、885万人です。今回、住民投票の対象になっている大阪市は、33の市の1つで、人口は269万人で大阪府全体の33%になります。

     「東京VS大阪」の東京は、東京都でも東京23区でも大丈夫ですが、これに対抗できる大阪は、大阪市ではなく大阪府でないとバランスが取れないような気がします。

    <大阪環状線>



     次に、東京と大阪の違いの主なものを見てみましょう。

    ・エレベータでの並び方 止まる人は東京は左側、大阪は右側に並びます

    ・寿司や刺身の醤油   東京では普通の醤油、大阪ではたまり醤油

    ・畳の大きさ        東京は江戸間(85cm×176cm)、
                    大阪は京間(95.5cm×191cm)で大阪が大きい

    ・マクドナルドの呼称   これは有名ですね。東京はマック、大阪はマクド。

    ・バスの乗り方       東京は前ドアから乗る 大阪は後ろドアから乗る

    ・ホテルの支払い     東京は後払い 大阪は前払い 
                   (最近は、東京でも前払いが増えています)

    ・言葉            東京は標準語+各地方の言葉も可
                    大阪は基本は関西弁
                    (ただし、「でんがな」「まんがな」は明石家さんまの誇張)

    ・日本橋          東京は「三越デパート」などがある東海道の起点
                    大阪は電気街

    ・信号の意味?     東京では「黄色は停止」  大阪では「まだ大丈夫渡れ」?    

    ・ゴミの処分       東京では「捨てる」  大阪では「ほかす」

    ・大学の学年      東京では「1年生 2年生」 大阪では「1回生 2回生」


     他にもいろいろありますが、最後に「循環鉄道」について、紹介します。


    <山手線>



     東京では「山手線(やまのてせん)」と言い、34.5kmで29駅あります。

     ただし、正確には、「品川駅~渋谷・新宿・池袋等経由~田端駅」が本来の山手線です。
     「田端駅~上野・秋葉原等経由~東京駅」は東北線の一部、「東京駅~新橋・浜松町等経由~品川駅」は東海道線の一部で、合わせて「丸いミドリの山手線♪」です。

     一方、「大阪環状線(かんじょうせん)」は、21.7kmで19駅あり、基本は1つの路線です。

     東京と大阪は、関東と関西を代表する大都市ですが、「それぞれ違って、みんないい。」と思います。

     関西は、東京の人たちが唯一、「地方」という言葉で一括りにしない場所でもあると思います。
     大阪維新の成否に関係なく、大阪の個性は残してほしいですね。


     おまけで、山手線と大阪環状線のユニークな「発車メロディ」を紹介します。 
     
    ・山手線品川駅------鉄道唱歌(汽笛一声 新橋を♪)
    ・山手線高田馬場駅----鉄腕アトム(手塚治虫アニメの主題歌)
    ・山手線恵比寿駅-----第3の男(エビスビールのCMソング)

    ・環状線大阪駅------やっぱ好きやねん(やしきたかじんの歌)
    ・環状線新今宮駅-----ドヴォルザーク作曲交響曲第9番「新世界より」
                       (近くに「新世界」があります)
    ・環状線天王寺駅-----あの鐘を鳴らすのはあなた
                      (天王寺出身の芸能界のドン 和田アキ子のヒット曲)
    ・環状線森ノ宮駅-----童謡・森のくまさん
                       (駅名のコテコテのだじゃれ さすが大阪。)


    <一句>

    東京も 大阪もいい 府・都(ふと)思う

     
     

    2015年5月13日水曜日

    「台風一過 春は過ぎて」 東北で震度5強

     台風6号が走るように 過ぎ去り、あっというまに、季節は春から夏に変わってしまったようです。
     短かったけど、暴風雨でした。大丈夫でしたか?

     5月13日6時13分、東北で最大震度5強(岩手県花巻市)の地震があったみたいですが、大丈夫ですか?
     以前にも、台風通過の翌日、平成19年7月16日に「中越沖地震」が起きた記憶があります。台風と地震って、関係あるのでしょうか。

     空は、真っ青。風は夏色ですね。
     詩を作ります。




    詩:「台風一過 春は過ぎて」

     台風一過 春は過ぎて
     桜の木々に みどりの風

     思いは春か 遥か遠く
     ああ 夢はまだまだ
     空の彼方


     五月の嵐 土のにおい
     ざわめく 街を クリーニング
     
     思いは夏に 恋 サマーざま
     ああ 夢はまだまだ
     風に揺れる



     


    2015年5月12日火曜日

    台風6号に備えを 12日から沖縄・九州~東日本で雨・暴風に警戒!


     5月としては珍しい台風6号が、5月12日から13日にかけて、沖縄の南西海上から、沖縄・九州・四国・本州の南岸沿いに北東に進んでいくと、気象庁が予想しています。
     
     今回は台風だけでなく、前線も一緒に西から東へ移動するため、台風から離れた北側でも、激しい雨が降る可能性があります。
     また、台風の近くでは、大雨に加えて暴風や高波にも注意が必要です。
     
     台風6号の影響による大雨・暴風は、12日から13日にかけて、各地で注意が必要です。
     12日の朝から、沖縄だけでなく西日本でも風雨が強くなり、12日夕方から13日にかけては、東日本や北日本でも警戒が必要です。
     
     日本本土(関東~四国地方)に接近・上陸する可能性もあります。
     大雨と暴風、土砂災害にも十分注意し、水、ラジオ、携帯電話、懐中電灯などを、1早いうちに用意しておきたいものです。
     
    <台風6号予想進路 12日1時現在>


     では、台風6号の情報です。

     気象庁の5月12日1時45分の発表では、台風6号(ノウル)は、5月12日1時現在、宮古島の西北西40kmの北緯24度55分、東経124度55分にあって、北東に毎時45kmとスピードを上げて進んでいます、
     中心付近は35mで、強い勢力を保っています。最大風速25m以上の暴風圏は、中心から80km以内です。

     台風の予報円の中心は、12日12時には奄美大島の北東40kn付近、13日0時には御前崎の南南西約130kmと予想されています。


    (以下、「気象庁ホームページ」を参考に、台風に対する「備え」を紹介します)

     「台風は事前に来ることが予想できる災害」です。
     台風が接近してから対策をしようとして、被害にあう方も多くいます。
     台風が近づいているというニュースを見たり聞いたりしたら、早めに対策をとってください。        

    1) 最新の「台風情報」を確認する
    • テレビ・ラジオやネットなどで、最新の台風情報を入手しましょう。また、大雨や暴風など「警報・注意報」や、天気予報、雨雲の動きなど、こまめに気象情報をチェックしてください。
    2)   家の周りの再点検をする
    • 庭木に支柱をたてたり、塀を補強する。
    • 強風などによって飛ばされる可能性のあるものは、室内にしまう。しまうことが出来ない場合は、飛ばされないようにしっかり固定する。        
    • 窓や雨戸を補強する。
    • ガラスのひび割れや窓枠のガタつきがないか調べ、窓にテープを貼るなどして補強する。
    • 万が一、窓ガラスが割れた時のために、カーテン等を閉めておく。
            
       接近する前に(画像)
     
    3)床上の浸水対策をする
    • 家財や家電などは浸水の被害を受けないように、高所や二階に移動させましょう。 電気のコンセントは漏電、ショート、感電などが発生する可能性があります。コンセントは抜いておきましょう。
    • 浸水の恐れのある家屋などにいる方は、早めに避難しましょう。        
    4)水道・電気等のライフライン断絶に備える
    • 断水に備えて飲料水を確保しましょう。浴槽に水を張るなどしてトイレ等の生活用水を確保しましょう。
    • 避難に備え、非常持ち出し品を準備しておきましょう。 停電に備え、懐中電灯や携帯・スマホの電池式yあ手回し充電器を用意。
     
     
      「台風」は、事前に備えることができる「災害」です。
     
      備えあれば、憂いなしです。
      
      もちろん、台風通過時の外出は、極力避けましょう。
     

    2015年5月11日月曜日

    「3人のシャーロット」と高崎山の珍名サルたち

     2015(平成27)年の流行語大賞の有力候補は、5月現在、「シャーロット」です。

     昨年の10月から今年3月まで、高視聴率を記録したNHK連続テレビ小説「マッサン」で、ヒロインのエリーを演じた女優が、「シャーロット・ケイト・フォックス」さん(1985年アメリカ合衆国生まれ 29歳)です。

     一方、2015年5月2日に誕生し、世界中の注目を集めたイギリス王室のウィリアム王子とキャサリン妃ご夫妻の間に生まれた王女の名前も、「シャーロット」と命名されたことが発表されました。

     この王女のフルネームは「シャーロット・エリザベス・ダイアナ」で、称号は「プリンセス・シャーロット・オブ・ケンブリッジ」です。
     今の女王エリザベス2世の曾孫で、あのダイアナ妃の孫にあたられるプリンセスは、今後、「シャーロット王女」と呼ばれるそうです。

     そして、3人目(?)のシャーロットが、大分県大分市にある高崎山自然動物園で5月6日に誕生した、今年最初の赤ちゃんザル(雌)です。
     この「高崎山のシャーロット」は、公募で最多(853通中59通)だったので、名付けられたそうです。

     英国で誕生したシャーロット王女にちなんだこの命名には、「王女の名をサルに付けるとはイギリス王室に失礼だ」等々の苦情の電話や電子メールが多数よせられました。

     一時は、取り消しかと思われましたが、「名前をつけるのは所有者の自由です。」という、イギリス王室の大人な対応で、「高崎山のシャーロット」は、名前を守ることができました。

     考えてみれば、エリザベスという犬も、ダイアナという猫も、たくさんいますが、誰からも非難されませんよね。
     イギリス王室のコメントは、さすが紳士の国のコメントですね。

    <高崎山のシャーロットとお母さん>



     サルのシャーロットがいる「高崎山自然動物園」は、毎年、最初に生まれた子ザルに、その年に関係する名前を、公募または動物園で命名しています。

     その名前には、「シャーロット」も真っ青のユニークなものがたくさんあります。
     いくつか、高崎山のシャーロットの仲間の「珍名サル」を紹介します。

    ・1984(昭和59)年 コータロー = この年生まれた山口百恵さんと三浦友和さんの長男・三浦祐太朗君にちなんで命名。

    ・1985(昭和60)年 ユキチ  = 前年11月に発行された1万円札の新図柄「福沢諭吉」から命名。

    ・1986(昭和61)年 ハレー  = この年、地球に最接近したハレー彗星から。

    ・1997(平成9)年 ファイブ = この年4月に消費税が3%から5%になった。

    ・2002(平成14)年 ワールド = 日本・韓国共同開催のワールドカップから。

    ・2010(平成22)年 クロマグロ = ワシントン条約の国際会議でクロマグロ禁漁が提案される。

    ・2011(平成23)年 キズナ = この年起きた東日本大震災からの復興を願って命名。

    ・2014(平成26)年 ソチ = 同年開催のソチオリンピックから命名。


     まるで、清水寺の今年の漢字ならぬ、「今年のサル」ですね。

     でも、シャーロットとキズナのカップルなんて、いいですね。
     「クロマグロ」と付けられたサルの気持ちには、少し同情しますけどね。

      ちなみに、その年の初めてのサルではないのですが、2012(平成24)年に高崎山に、大分市出身で大分市観光大使・AKB48の指原莉乃が訪問した際に、子ザルに「さしこちゃん」という名前がつけられたそうです。

    <高崎山 (大分県大分市)>

     



     「高崎山自然動物園」は、1953(昭和28)年にサル220頭で開園しました。
     2014年現在、2つのグループがあって、1516頭のサルがいます。

     グループのボスの名前は、815頭率いる大きい方のボスが「ゾロメ」、701頭の小さい方のボスが「ナンチュウ」(大分市立南大分中学校の生徒が命名)です。


     最後は、「シャーロット」の名前の話に戻りましょう。

     シャーロットのスペルは、女優と王女の2人は「Charlotte」です。(高崎山のシャーロットのスペルはわかりませんが---?)

     フランス語では、シャルロット。ドイツ語ではシャルロッテと言い、愛称はチャーリーです。

     薄々気づかれている方もいるかも知れませんが、イギリスのシャーロット王女の名前は、実は「家族への思いやりのかたまり」です。

     まず、ミドルネームの「エリザベス」は曾祖母のエリザベス女王の名前です。
     もう一つのミドルネーム「ダイアナ」は祖母の故ダイアナ妃の名前です。

     シャーロットは、祖父チャールド皇太子の「チャールズ」の女性読みで、愛称は同じ「チャーリー」です。

     そして、称号の「プリンセス・シャーロット・オブ・ケンブリッジ」は、お父さんのウイリアム皇子の「ケンブリッジ公」からとっています。

     さすが、大人の国「イギリス」の王室ですね。


    ・一首
    「シャーロット 今年流行(はやり)の キラキラネーム 眠れる美女は プリンセス」   


     

    2015年5月9日土曜日

    5月10日は「母の日」 カーネーションの色とあったかいい話

     5月の第2日曜日が、日本では「母の日」と呼ばれています。

     祝日でもなければ、公式行事があるわけでもないのですが、小学生の頃、母の日には「肩たたき券」や「お手伝い券」を発行した記憶がある人は、多いと思います。

     最近は、コンビニやデパート、ネット・ショッピングでも「母の日」特集を組んでいます。
     少し懐かしくて、少し親不幸を反省する「母の日」です。

     では、「母の日」は、いつから、誰が、どんなきっかで始めたのでしょう。
     まず、母の日の歴史を紹介します。


     5月の第2日曜日を、「母の日」としている国は、日本の他、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ドイツ。イタリア、中国など30ヶ国になります。

     この起源は、20世紀初頭のアメリカにあると言われています。

     1907(明治40)年5月12日に、アメリカ・ヴァージニア州の教会で、女性運動家で南北戦争の時、敵味方の区別なく負傷兵の手当をしたアン・ジャービスさんという人の娘、アンナ・ジャービスさんが、2年前に亡くなった母親アンさんを偲んで、アンさんが教師をしていた日曜学校がある教会で「記念会」を行い、出席した人に母の好きだった白いカーネーションを配りましした。

     これが、日本やアメリカなどの「母の日」の起源と言われていて、翌年、1908年5月10日、アンナの母への想いに感動した人々は、前年と同じ教会で、日曜学校の470人の生徒と母親達が集まり、最初の「母の日」を祝いました。

     この時も、アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡しました。このことから、「白いカーネーション」が母の日のシンボルとなりました。

     アンナ・ジャービスさんと友人たちは、「母の日」を作って国中で祝うことを提案し、1914(大正3)年に、「母の日」はアメリカ合衆国の記念日(祝日)となり、5月の第2日曜日と定められました。

     日本では、第2次世界大戦後の1949(昭和24)年ごろから、アメリカにならって、5月の第2日曜日に「母の日」の行事が行われるようになりました。

    <白いカーネーション>

     
     



     次に、母の日に贈る カーネーションの色の話です。

     アンナさんの例から、「白のカーネーション」は亡くなったお母さんに、「赤いカーネーション」は存命しているお母さんに贈るのが一般的とされています。

     ところが、この区別を厳密にすると、お母さんのいない子だけが「白いカーネーション」になってしまい、子供たちの気持ちを傷つけることになります。

     そこで、日本では1960(昭和35)年に、「お母さんの生死に関係なく赤いカーネーションを贈る」ことに統一しようということになったそうです。


     ちなみに、カーネーションの色による主な花言葉は、次のとおりです。

    ・「赤」 = 母への愛。愛を信じる。熱烈な愛。

    ・「ピンク」 = 感謝。気品。

    ・「白」 = あなたへの愛は生きている。尊敬。亡き母を偲ぶ。

    ・「オレンジ」 = 純粋な愛情。清らかな慕情。感動。

    ・「黄色」 = 軽蔑。嫉妬。

    ・「青」 = 永遠の幸せ


     黄色を贈るのは、やめた方がよさそうですね。

     ところで、「ちょっと待って ちょっと待って お兄さん。(笑) 青いカーネーションってあります?」という質問が聞こえそうです。

     実は、あるんです。

     世界で初めて、日本のサントリーが、「ムーンダスト」という名の「青いカーネーション」を開発しました。2004(平成16)年度のグッドデザイン賞(金賞)を受賞
    しています。

    <青いカーネーション ムーンダウト>


     

     最後に、母の日の「あたっかいい話」を紹介します。

     ネットとか本を見ていると、さすが「お母さん」ですね。
     迷うほど、多くのあたかいい話があります。

     その中で、1つだけ特に印象に残った「母の日のあたっかいい話」を、抜粋して紹介します。


     2歳の子供のいる重病のお母さんがいました。
     死期を悟ったお母さんは、3本のビデオを「指定した3つの時期に、子供にビデオを見せてほしい」と、お父さんに頼んで逝ってしまいました。

     1本めのビデオは、子供が3歳になった誕生日に見せるように頼んでいました。
    「誕生日おめでとう。ママはテレビの中に引っ越したから、度々は会えないの。でも、おりこうにしていたら、また会いに来るからね。」

     2本めのビデオは、小学校の入学の時です。
    「入学おめでとう。ママもうれしいわ。ママの住んでいる所は天国なの。
     だから、度々は会えないけど。パパの手伝いをして、おりこうにしていたら、もう1度だけ、会いに来るからね。お手伝いをする魔法をかけるよ。えい。」

     3本目のビデオは、いつ見せほしいと頼んだと思いますか。
     卒業、結婚、それとも----?。

     実は、「パパが再婚する日」です。

    「おうちの仕事、がんばったね。えらかったね。
     でも、もう大丈夫。新しいママが来たから。
     ……
     今日で本当にお別れよ。
     今、身長はどれくらい?ママには見えない。
     ママ、もっと生きたかった。おいしいものをいっぱいつくってあげたかった。
     ……
     じゃあ、これがママの最後の魔法です。
     えい、『ママを忘れる魔法』です。
     パパと、新しいママと、幸せにね。」

     この魔法は、子供には効かなかったそうです。


     これが実話かどうか、3本目のビデオを見たかどうかは、わかりません。
     でも、そんなことは、どうでもいいぐらい「あったかいい話」ですね。
     
     この話を含め、たくさんのいい話が、「kokoro堂」というホームページに載っています。興味のある方は、ぜひ、ご覧ください。


     今年は、奇しくも、1908年に初めて「母の日」を祝ったのと同じ日。5月10日が母の日です。

     最後に、母の日の詩を作ります。


    詩:「母の日」(自作)

    お母さんが家にいる人は、
    「ありがとう」の一言を言いませんか。

    お母さんと離れて住んでいる人は、
    「元気? ありがとう」の一言を電話かメールで贈りましょう。

    お母さんがいない人は
    窓に「白いカーネーション」を1本飾って
    空に向かって 雲に向かって
    「ありがとう」を 
    つぶやいてみませんか。

    1年に せめて1度ぐらいは
    お母さんに 「ありがとう」を言いましょう

    あなたが 生まれてきたのも
    私が 生まれてきたのも
    お母さんのおかげ なのですから

    ありがとう お母さん
    スターダスト 
    いいえ
    ムーンダスト
    青いカーネーションを心で贈ります

    いつもでも 
    しあわせで 
    輝いていて

    お母さん


    <赤いカーネーション>


    2015年5月6日水曜日

    ニュースな国5 ネパール ~釈迦(ブッダ)とエベレストの国~


     知っているようであまりよく知らない話題の国を紹介する「ニュースな国」。
     5回目は、2015(平成27)年4月25日にM(マグニュ-ド)7.8の大地震に襲われた、ネパールを紹介します。

     ネパールは、正式名称を「ネパール連邦民主共和国」と言います。
     インドと中国という大国に挟まれた国で、人口は2649万人(2011年)、面積は147,181㎢で、日本の北海道・四国・九州を合わせた大きさとほぼ同じです。
     首都はカトマンズで、人口は約80万人です。

     ネパールでは、古代からインドと中国の影響が強く、小国が乱立していました。
     このネパールで、世界3大宗教の1つの教祖が誕生しています。

     紀元前7世紀から紀元前5世紀頃(諸説あり)、仏教の教祖・釈迦(ブッダ)が現在のネパールのルンビニで誕生したのです。

     「お釈迦様はインド出身じゃないの?」と思われる方も多いと思います。
     たしかに、釈迦(ブッダ)の布教の主な舞台も、悟りの地も、臨終の地も、インドです。しかし、実はネパール出身です。
     誕生の地ルンビニは、仏教の4大聖地の1つと言われ、世界遺産にも登録されています。

    <ネパールの地図>



     歴史はずっと下って、1769年(日本では江戸時代中期)、 第10代ゴルカ王のプリトビ・ナラヤン・シャハという人がネパールを統一し、カトマンズを首都とするネパール王国を作りました。

     ネパール王国は、第1次世界大戦、第2次世界大戦とも、連合国として参戦し、日本軍と戦ったこともありました。

     そして、2008(平成20)年、王制を廃止して共和制を敷きました。初代大統領には、ラムバラン・ヤーダブ氏が就任しました。

     ネパールの主な産業は、農業であり、絨毯や衣料品・穀物などを輸出しています。輸出入量の多い貿易相手国は、インドです。
     
     他に、観光業も盛んで、4つの世界遺産や世界最高峰エベレスト(現地名サガルマタ、標高8844m)をはじめとするヒマラヤ山脈などもあります。

     ただし、今回の地震で、多くの観光資源が被害を受けたという情報があり、心配です。

     さらに、もう一つ、「グルカ兵」と呼ばれる傭兵を、世界中に派遣する世界有数の民間軍事コントラクター派遣国でもあり、重要な資金源にもなっています。

     ネパールは多民族国家で、宗教はヒンドゥー教徒が81%、ついで仏教徒11%などと続きます。公用語はネパール語です。

     国旗は、三角形を縦に2つ組み合わせた特徴的なもので、赤はネパールの国の色、周縁の青は「海と空」を表します。
     また、中に描かれた月は「平和」を、太陽は「光」を意味するそうです。

    <ネパール国旗>



     ネパールは、インド(の大地)が、ユーラシア大陸を北へ押す造山運動で出来た世界一の「ヒマラヤ山脈」がある場所に位置し、今も造山運動が継続しているため、大地震が起こりやすいことで知られています。

     1934(昭和9)年1月15日に起きた、マグニチュード8.1の「ビハール・ネパール地震」では、死者・行方不明者1万人以上を出しました。

     それから81年後の今回、2015年4月に起きた「ネパール大地震」は、5月5日現在で、死者7500人以上、被災者は800万人以上とも言われています。
     学校の被害も、わかっているだけで、全壊校舎が575棟、半壊校舎は969棟に達しています。

     救いは、ネパールの被災者が、大きな暴動や略奪を起こさず、配給の順番を守るなど、日本の「東日本大震災」の時と同じように、礼儀正しく助け合っているというニュースです。

     また、1週間以上経って、101歳の老人や子供・女性が救出される奇跡も起きました。
     さすが、お釈迦様のふるさとだなと思います。

     そう言えば、東日本大震災の時、震災の起こった2011年3月中に、ネパールから5000枚の毛布が日本の被災地に贈られたそうです。
     今こそ、恩返しをする時だと思います。


    <ネパール側から見たヒマラヤ山脈>



     おしまいに釈迦(ブッダ)の生まれたルンビニの「おもてなし」の話を紹介します。

     世界遺産に登録されているルンビニにはホテルもありますが、「日本寺」や「中国寺」、「インド寺」、「ヴェトナム寺」などなど、アジアの国々の名前をつけたお寺がたくさんあって、誰でも無料で宿泊できるそうです。

     部屋には、ベット、シュワー、水洗トイレ、蛍光灯などが完備され、夕食も無料です。中には、取れたてのジャガイモが山積みされていて、取り放題のところもあるそうです。

     暗黙のルールで、朝、100ネパール・ルピー(日本円で約180円)のチップを置いていく旅行者が多いそうですが、誰でも無料で宿泊できる寺が釈迦のふるさとにあるというのは、すばらしいネパールの「おもてなし」だと思いませんか。

    <ブッダが生まれたと伝えられる菩提樹(ルンビニ)>



    <釈迦(ブッダ)の最後(臨終)の言葉>

     「諸々の事柄は過ぎ去って行く(諸行無常)。怠ることなく、修行を完成せよ。」


     合掌ですね。がんばろう。

    箱根山で火山性地震が続く 噴火の歴史と黒タマゴへの願い?

     2015(平成27)年4月26日から箱根山で火山性地震が頻発し、5月4日と5日は100回を超えています。
     また、大涌谷の水蒸気の噴出も多くなり、 5月4日からは、観光名所の「大涌谷の遊歩道」が閉鎖されました。

     さらに、5月5日には複数回の有感地震が、静岡県と神奈川県を震源に起こっています。
     
     「富士山との関係は?」
     「大噴火の可能性は?」
     「黒タマゴが買えないから、寿命が延ばせない(笑)」

     いろんな意見が出ています。
     自然が相手ですので、予想はできません。
     でも、過去を知ることで、これからに備えることはできます。

     そこで、「箱根山」のこれまでの歴史を、振り返ってみることにしましょう。

     箱根山(はこねやま)は、神奈川県箱根町を中心に、神奈川県と静岡県にまたがる山々の総称で、「富士箱根伊豆国立公園」に指定されています。

     二重の外輪山で囲まれているカルデラ地形で、東西8km、南北12kmの大きさがあります。最高峰は神山(1438m)です。

     周辺には、箱根湯本をはじめとする多くの温泉や芦ノ湖、大湧谷などの観光地が目白押しで、江戸時代には東海道の「箱根関所」がおかれました。

     その後、新幹線や東名高速のルートからは外れましたが、旧東海道が国道1号線となり、ホテル、鉄道、バス、ロープーウェイ、遊覧船などが整備されるなど、首都圏に近い観光・リゾート地として、年間2000万人が訪れます。

    <箱根山の地図>



     箱根山の火山活動は、約40万年前に始まり、噴火を繰り返しながら、約25万年前には「古箱根火山」と呼ばれる、標高3000m近い 富士山型の成層火山が形成されました。

     その後も噴火を繰り返し、約18万年前には、山の中心部が陥没してカルデラが生成され、丸岳、三国山などの「古期外輪山」ができました。

     約5万年前、カルデラ内の楯状火山が「破局的な大噴火」を起こし、再び陥没しました。この時、東部から南部に半月形に取り残されたのが、浅間山、鷹巣山などの「新期外輪山」です。

     この噴火では、西は富士川から東は横浜市郊外にまで、火砕流が達したと言われています。
     降り積もった火山灰は、東京で20cm、横浜40cm、平塚1m、小田原では4mに達したそうです。

     1万年前以降のマグマ噴火としては、8000年前(神山山頂)、5700年前(二子山溶岩ドーム)、3200年前(神山)があります。この3200年前がマグマ噴火としては、最後であると言われています。

     一方、約3000年前には、神山の北西斜面で山体崩壊を伴う「水蒸気爆発」が発生し、大涌谷が生まれ、この爆発によって引き起こされた土石流により仙石原湖の半分以上が埋没して仙石原となり、早川がせき止められて芦ノ湖が誕生したと言われています。

     この他、2000年前と、12世紀後半(平安末期)~13世紀(鎌倉時代)にかけて、水蒸気爆発がありました。後者は、3回あったことが記録に残っています。

     20世紀以降の記録に残る死者としては、1933(昭和8)年5月10日に、大涌谷の噴気孔から大音量とともに水蒸気が噴出し、1人が亡くなっています。

     また、火山活動とは無関係だと思われますが、1953(昭和28)年7月に早雲地獄で山崩れが発生し、10人が亡くなっています。

     まとめると、マグマ噴火は3200年前、大規模な水蒸気爆発は800年前を最後に起こっていないということになります。

    <富士山と箱根山>



      しかし、箱根山は、もともとカルデラを伴う大きな火山であり、一度、大噴火を起こすと、富士山と同規模、あるいはそれ以上の大きな被害をもたらすと言われています。

     ちなみに、富士山と箱根山は、地下では同じ富士火山帯のマグマで繋がっている「兄弟火山」と言われており、どの程度、相互が影響しあうかは不明ですが、まったく関係ないとは言えません。

     この2つの火山が、9万年~2万年前に大噴火を繰り返し、関東平野の「関東ローム層」を作ったと言われています。


     東日本大震災が発生した直後、2011(平成23)年3月11日午後3時8分に、箱根山付近でも震度5弱の揺れを記録しました。
     その後、箱根山の活動も徐々に活発化しています。

     同じ富士火山帯に属する小笠原諸島では、西ノ島で海底火山が噴火して陸地になり、この近海では、今年5月3日に通常津波の起きないマグニチュード5.9の地震で津波が起き、「マグマの隆起」の可能性もあると言われています。
     不気味ですね。

     また、昨年、噴火して大きな被害を出した御嶽山(岐阜県・長野県)をはじめ、蔵王山(宮城県・山形県)、草津白根山(群馬県)、阿蘇山(熊本県)、桜島(鹿児島県)など、全国各地の火山で活動が活発になっています。

     さらに言えば、マグニチュード9以上の巨大地震が起こったあとには、必ず火山噴火が起こるとの学説もあります。(詳しくは、別の機会に紹介したいと思っています。)
     日本は、マグニチュード9.0の東日本大震災が起こったばかりです。


    <大湧谷の黒タマゴ>



      1個食べると、寿命が7年延びるという伝説がある大湧谷の黒タマゴ、この伝説
    は、箱根山で最後に水蒸気爆発が起こった鎌倉時代の「延命地蔵尊」の話に由来するそうです。

     私が、最後に「黒タマゴ」を食べたのは3年前です。
     また、食べられるようになればいいなあとは思いますが、でも、安全面・防災面を考えると、今回、箱根町が大湧谷付近の遊歩道を進入禁止にしたのは、勇気ある決断だと思います。

     地震・火山国を宿命づけられた日本は、地震や火山と上手につきあっていくしかないようです。


    <最後に2首>
     
    ・ 箱根山 大湧谷の 水蒸気
               タマゴゆであげ 地面ゆらすな 

    ・ 富士山と 兄弟姉妹の 箱根山
               どっしり ゆったり 動くな名山

               
     

    2015年5月4日月曜日

    5月5日の「こどもの日」 本当の主役は女子?

     5月5日は「こどもの日」ですね。

     「こどもの日」は国民の祝日の1つで、「こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに母に感謝する日」とうい趣旨で、1948(昭和23)年に定められました。

     えっ、「こどもの人格や幸福」はわかりますが、「母に感謝する日」がついているんですね。
     じゃあ、お父さんは、どこへ行ったのでしょう(かわいそう)?

     「こどもの日」は、ひらがな表記が正式です。これは、子供の「供」の漢字が、「大人の手下」という印象を与えるからという理由で、ひらがなになったそうです。

     「こどもの日」の祝日候補は、5月5日以外にも、3月3日や4月1日があったそうです。
     3月3日はまだ寒く、4月1日は「エイプリルフール」であったことから、昔から「端午の節句」と言われていた5月5日が選ばれたそうです。


    <世界こどもの日の制定記念切手(1956年)>




     「端午の節句」(たんごのせっく)の端午は、もともと「月のはじめ(端)の午(うま)の日」を意味していましたが、「午」は「五」と同じ「ご」という音であることから、数字が重なる「5月5日」を端午の節句と言うようになりました。

     5月5日を端午とする風習は、紀元前3世紀の中国「」の国で始まったと言われています。

     楚の国王の側近の「屈原」という人がいました。
     屈原は人望を集めた政治家でしたが、無実の罪で失脚し失意のうちに川に身を投げてしまいました。

     それを知った楚の国の人たちは、ちまきを川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べないようにしました。
     端午の節句にちまきを食べる風習は、ここから来ていると言われています。


     日本では田植えの時期(5月頃)に、男性を戸外に出して、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に汚れを払い身を清める儀式、「五月忌み(さつきいみ)」という風習がありました。

     これが、中国から伝わった端午と結びきました。
     5月4日の夜から5月5日にかけてを、「女天下」と言い、家の畳の半畳分ずつあるいは家全体を、女性が取り仕切る日とする慣習がありました。

     なんと、5月5日の端午の節句はもともとは、「女子の節句」だったのです。
     おもしろいですね。
     今でも、5月5日を「女の家(おんなのいえ)」と言う風習が、一部の地域に残っているそうです。

     江戸時代になると、徳川幕府は5月5日の端午の節句を、「江戸城で将軍を祝う日」と定め、男の子(お世継ぎ)が生まれると、武士の象徴である兜や幟(のぼり)を飾って祝いました。

     この風習が江戸の庶民に伝わり、「幟」の代わりに、龍になるという伝説があって縁起のいい「鯉」に似せた「鯉のぼり」を立てるようになりました。
     こんな理由で、鯉のぼりは東日本から西日本に広がったそうです。



    <江戸時代の鯉のぼり 歌川広重の浮世絵>


     
     現在では、たくさんの鯉のぼりを、川などに上げるイベントが全国各地で行われています。この発祥の地は、高知県四万十川と言われていますが、群馬県館林市では5000匹以上の鯉のぼりを上げて、ギネス世界記録に認定されています。

     また、鯉の代わりに、カツオのぼり(高知県)やマグロのぼり(青森県)、クジラのぼり(宮崎県)を上げるところもあります。


     最後に、こどもの日の歌」で、有名な3曲の、それぞれ1番だけを紹介します。


    ♪「背くらべ」 (作詞:海野 厚、作曲:中山晋平)
     
    柱の傷は おととしの
    五月五日の 背くらべ
    ちまきたべたべ 兄さんが
    計ってくれた 背のたけ
    昨日くらべりゃ 何(なん)のこと
    やっと羽織の 紐(ひも)のたけ


    ♪「鯉のぼり」 (作詞:不詳、作曲:中山龍太郎)

    甍(いらか)の波と雲の波、
    重なる波の中空(なかぞら)を、
    橘(たちばな)かおる朝風に、
    高く泳ぐや、鯉のぼり。、


    ♪「こいのぼり」 (作詞:近藤宮子、作曲:不詳)

    やねより たかい こいのぼり
    おおきい まごいは おとうさん
    ちいさい ひごいは こどもたち
    おもしろそうに およいでる
     

    <平成のこいのぼり>



     やっぱり、こどもの日の象徴は「こいのぼり」ですね。家族の鯉が泳いでいるしね。最近は、大きなこいのぼりを上げられる環境が少なくなってきました。

     それでも、ベランダや室内、お菓子でもいいから、男子も女子も主役の鯉のぼりで、「こどもの日」を祝いたいものです。
     
     今年(2015年)は、東京国際空港(羽田空港)の国際線のエントランスに、近くの羽田小学校の小学生などが作った52匹の「鯉のぼり」が上がり、外国から来た人たちにも好評だそうです。

     また、イタリアの合唱コンクールでは、鯉のぼりを「夢のような凧(たこ)」という名前で紹介したそうです。

     11月20日が「世界こどもの日」だそうですが、日本の5月5日の「こどもの日」が男女の枠や国境を越えて国際的に広がり、「夢のような凧=鯉(恋)のぼり」が、平和のシンボルとして、世界中の平和な空を泳ぐようになってほしいものです。


    <食べられる「こいのぼり」>




    2015年5月2日土曜日

    5月3日は「憲法記念日」 イマジンと日本国憲法

     昔は、4月から5月にかけての休みを、「飛石連休」と言っていました。
     飛び飛びだった休みが、1985(昭和60)年の「国民の祝日に関する法律」の改正で、5月4日が「国民の休日」となって最低3連休となり、「ゴールデンウィーク」という言葉が定着しました。

     今年、2015(平成27)年のゴールデンウィークは、4月29日を除いても、土日が休みの人には、5月2日(土)から6日(水・振替休日)まで5連休となり、結構、長期休暇になっています。

     しかし、フランスでは、5月の休みが17日あるとフランスのテレビ局が言っていました。土日を全部休みと数えても、13日の日本は、まだまだかも知れませんね。

     私も、長期休暇は大好きです。何より「不登校」を心配しなくていいですからね。(ちなみに、我が家の小学生はこの2週間は、学校へ行っています。その話は、別の機会に報告させてください。)

     1つ心配なことは、本来の祝日の意味が、ゴールデンウイークで忘れられることです。
     特に、5月3日の「憲法記念日」が心配ですので、今回、取り上げます。

     憲法記念日は、1947年(昭和22年)5月3日に、「日本国憲法」が施行されたことを記念して、翌1948年(昭和23年)に祝日法によって制定された国民の祝日です。
     「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」ことを趣旨としています。

     憲法改正の是非が言われていますが、賛成・反対の議論はともかくとして、現行の最高法規である憲法を知ることは、大切なことだと思います。

     残念ながら、5月3日には、憲法改正の「賛成派」と「反対派」の集会だけが、目立っているような気がしますので、中立の視点から日本国憲法について考えてみたいと思います。


    <日本国憲法施行 記念切手>



     日本国憲法は、1946(昭和21)年11月3日に公布され、翌1947(昭和22)年5月3日に施行されました。

     当時の閣議の議論では、施行の日が5月1日では、「メーデー」で当時占領していたGHQ(アメリカ軍)の了解が取りにくく、5月5日では「端午の節句」で男の子の日であり男女平等の憲法趣旨に反するので、間の5月3日にしたそうです。
     ちょっと、安易な決め方かも。

     もちろん、以前紹介したように、施行の日のちょうど半年前の「公布の日」を、11月3日の明治天皇の誕生日だった「明治節」(現在の文化の日)にしたかったことも、5月3日になった大きな要因のような気がします。


     「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」の3つが、日本国憲法の三大要素と呼ばれ、その特徴であると言われています。

     日本国憲法については、1946(昭和21)年11月3日の憲法公布の日に、昭和天皇が出された勅語に、わかりやすくまとめられていますので紹介します。

    「本日、日本国憲法を公布せしめた。 
     この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。   


      即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。

     朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思う。」

      — 昭和天皇による日本国憲法公布の勅語、1946年(昭和21年)11月3日
     
     
    <日本国憲法>



     前回のテーマの「ビートルズ」つながりで、日本国憲法のエピソードを1つ紹介します。

     ある日、日本国憲法の小冊子を、妻のオノ・ヨーコさんからもらった元ビートルズのジョン・レノンさんは、それから数日後に、あの名曲「イマジン」を作詞したそうです。

     このエピソ-ドを聞いてから、「イマジン」の歌詞を見てみると、なるほどと思いませんか。


    🎵「イマジン」 (歌・作詞・作曲 ジョン・レノン)

    (前略)

    Imagine there's no countries     想像してごらん  国境のない世界を
    It isn't hard to do             そんなに 難しいことじゃないはず
    Nothing to kill or die for         殺人も 死もない
    And no religion too           宗教だってない
    Imagine all the people         想像してごらん  すべての人々が 
    Living life in peace          平和の中で生きることができる世界を

     ジョン・レノンさんの作ったこの名曲「イマジン」が、日本国憲法の前文や9条の平和主義を参考に作られていると思うと、少し誇らしいような気がします。


     憲法と言えば、一つ、紹介したい憲法前文があります。
     永世中立国「スイス」の憲法の前文の一節です。

    「自由を行使する者のみが自由であるということ 及び国民の強さは弱者の幸福によって測られるということを確信し、憲法を制定する。」(スイス憲法 前文)

     特に後半部分、「国民の強さは弱者の幸福によって測られる」って言葉が、憲法に記載されているって重いですね。

     経済優先で格差が広がり、生活保護世帯が史上最多になった今の日本は、スイス憲法的には、どうなんでしょうね。

     もちろん、日本国憲法も、世界に誇れる内容だと思います。
     改正の必要があるかどうかも含めて、5月3日の憲法記念日に「日本国憲法」を1度読んでみるのも、いいのでは、ないでしょうか。



    <おまけ>
     5月3日は、憲法記念日以外に、こんな日です。

    ・リカちゃん人形の誕生日  (1967(昭和42)年に発売)

    ・「世界報道自由デー」 (1993(平成5)年 国連が制定)

    ・三冠馬「ナリタブライアン」誕生日 (1991(平成3)年生まれ)

    作曲家:中田喜直さん死去 (1923年- 2000年5月3日)
      「夏の思い出」「雪の降る街を」「めだかの学校」などを作曲

    ・元日本弁護士連合会会長 中坊公平さん命日(1929年- 2013年5月3日)
      正義の弁護士と言われた

    2015年5月1日金曜日

    ビートルズとポール・マッカートニー 影武者説も?

     「帰ってきたよ。トーキョー。帰ってきたよ、武道館。」

     2015(平成27)年4月28日、東京・武道館のステージに、49年ぶりにポール・マッカートニーさんが立ったことが大きな話題になりました。

     49年前の1966(昭和41)年に、伝説のバンド「ビートルズ」のメンバーの1人として、武道館のステージに立ったポール・マッカートニーさんが、この武道館に帰ってきたことで、1万人のファンは騒然となりました。

     武道館が「音楽の聖地」として、多くの日本のミュージシャンの憧れとなったのは、実は、この1966年の「ビートルズ公演」があったからでした。

    <ビートルズ公演で音楽の聖地となった武道館>



     
     
     ところが、ビートルズの名前は知っていても、リアルタイムでビートルズを知っているのは、1960年代までに青春期を迎えていた人たちだけです。

     私も含め多くの人たちは、「ビートルズ」という名前と曲を聞いたことはあっても、ビートルズの詳しい話は知らないと思います。
     そこで、今回はビートルズとポール・マッカトニーについて紹介します。

     「ザ・ビートルズ(The Beatles)」は、イギリス・リヴァプール出身の男性4人組のバンドで、ギネスブックで、「最も成功したグループ・アーティスト」として認定されています。

     「ビートルズ」の名前は、英語の「カブトムシ(甲虫)」と「乱暴者」の2つの意味をもつ造語だと言われています。

     メンバーは、ジョン・レノン(愛称ジョン 1940年~1980年)、ポール・マッカートニー(愛称ポール 1942年~)、ジョージ・ハリスン(愛称ジョージ 1943~2001年)、リンゴ・スター(愛称リンゴ 1940年~)の4人です。

     1962(昭和37)年10月5日にイギリスで、「ラヴ・ミー・ドゥ」という曲でデビューし、1970(昭和45)年に解散するまでに、ビートルズは世界で10億枚以上の
    レコードを売り上げ、数々の伝説が語りつがれています。

     1963(昭和38)年5月から翌年にかけて、イギリスのアルバムチャートは、ビートルズが、2枚のアルバムによって、51週間連続1位となりました。

     アメリカでは、1964(昭和39)年1月に「抱きしめたい」が初めてチャート1位になり、渡米した1964年4月4日の全米チャートでは、5位までを独占しました。

     その後、レコード、ラジオ、テレビ、コンサートなどで世界を席巻し、その音楽は、若者たちに絶大な影響を与えました。

     日本でも、1966年に来日して実施した「武道館コンサート」をはじめとして、その楽曲が多くのファンを魅了し、日本のミュージシャンや若者に大きな影響を残しました。

     1966年の日本公演のあとに訪れたフィリピンでは、当時の大統領夫人のイメルダ・マルコスの招待を断ったことから、大きな暴動が起きる「フィリピン事件」も起こりました。(イメルダ夫人は、市民革命で後に失脚しました。)

     レコードの方は、「抱きしめたい」が世界で1200万枚以上を売り上げたのをはじめ、「ヘイジュード」や「イエスタディ」、「レット・イット・ビー」など、今も語り継がれる名曲の数々があります。

    <ビートルズのレコードジャケット>



     解散後も、ジョン・レノンやポール・マカットニーを中心に、元ビートルズメンバーの個々の活動が注目され続け、ジョン・レノンの「イマジン」などは、不朽の名作となっています。
     ちなみに、ジョン・レノンの奥さんは、日本人のオノ・ヨーコさんです。

     解散後、再結成を望む声が絶えませんでしたが、1980(昭和55)年11月8日、ジョン・レノンが、ニュヨークで銃弾に倒れ、ビートルズは2度と再結成されることのない、「伝説のバンド」となりました。

     2001(平成13)年には、ジョージ・ハリスンが亡くなり、生存しているメンバーはポール・マッカートニーとリンゴスターの2人になってしまいました。

     さて、ポールの話をしましょう、
     先日、武道館公演を49年ぶりに成功させたポール・マッカートニーですが、ビートルズ解散後、1975(昭和50)年と1980(昭和55)年の2回、来日を試みますが、2度とも薬物検査で引っかかり、入国できませんでした。

     それでも、1990(平成2)年に、1966年の「ビートルズ公演」以来の日本公演を行ってからは、1993(平成5)年、2002(平成14)年、そして2013(平成25)年と、日本公演を精力的に行いました。

     昨年、2014(平成26)年の日本公演は体調不良で中止しましたが、今年、2015(平成27)年、73歳で見事にリベンジ公演を成功させ、ついに49年ぶりの武道館公演も開催しました。

     このポール・マッカートニーについては、「本物は死亡していて、今のポールは影武者」という都市伝説が、まことしやかに語り継がれています。

     古くは、1969(昭和44)年に、アメリカ合衆国イリノイ州立大学の学生新聞「ノーザン・スター」(同年9月23日付)に掲載された記事で、「ポールは1967年1月(1966年11月9日水曜日朝5時 という詳しい説もある)に、自動車事故で死亡した。」というものがあります。

     この説は、その後も根強く語られていて、今年、2015年3月にも、「ザ・ビートルズ」の元メンバー、リンゴ・スターさん(74歳)が、ある出版社のインタビューに「本物のポール・マッカートニーは、1966年11月9日に交通事故で死亡した」。と明かしたと、ロシアのラジオ局が報道しました。

     さらに、「本物のポールさんが死亡してからは、(ポールの)そっくりさんコンテストで優勝したミュージシャン、ウイリアム・ビリー・キャンベルさんが、今日まで49年間、影武者を務めている」とまで、リンゴ・スターが語ったという報道されました。

      ポールさんの死亡説は、これまでも何回もありましたが、本人(?)が強く否定しているので、信憑性はほとんどゼロに近いと言われています。
     今回のニュースを伝えたロシアのラジオ局も、相当怪しいという、もっぱらの噂です。


     ビートルズが日本のミュージシャンに影響を与えた例として、アリスの谷村新司さんの歌の一節を紹介します。


    ♪「夢の世代」 (歌・作詞 谷村新司  作曲 佐藤 隆  1983年)


    (前略)

    ディランを聞いて こぶしを握り うなずいてた日
    ビートルズを聞き乍ら 泣いてた

    夢の中で泣いたような 不思議な さわやかさを
    残して流れ過ぎてゆく  俺たちの時代 

    FROM THESE DAYS  FROM THESE DAYS 
    今日も風は吹いている

    あの頃の俺たちは 遠い目をしていた
    あの頃の俺たちは 遠くを見ていた

    嵐の夜に レノンは死んだ 愛を残して
    それさえも 今はすでに 忘れて

    (後略)


    <CAVERN CLUB (イギリス・リバプール)>

     


     最後に、「CAVERN CLUB (キャバーン クラブ)」というビートルズが拠点としていた、イギリス・リヴァプールにあった店と同名の日本のライブハウスの話をします。

     数年前まで、東京・六本木に「CAVERN CLUB」という名のライブハウスがあって、毎晩、ビートルズのコピーバンドが「ビートルズナンバー」を演奏し、老若男女でにぎわっていました。私も、数回、行ったことがあります。

     残念ながら、六本木の「CAVERN CLUB」は無くなったそうですが、大阪北区や札幌、神戸、熊本などに、ビートルズナンバーを聞かせる「CAVERN CLUB」 という店があるそうです。

      私は、リアルタイムのビートルズは知りませんが、ビートルズは永遠に不滅だと思います。