キンキンという愛称でラジオDJ、やもめのジョナサン役(映画「トラック野郎」シリーズ)、ニャンコ先生の声(アニメ「いなっかぺ大将」)、「なるほど!ザワールド」や「出没!アド街ック天国」の司会者---など多方面で活躍された愛川欽也さんが、2015(平成27)年4月15日に肺がんのため亡くなられました。
80歳でした。
今回は、2014(平成26)年9月、『出没!アド街ック天国』の司会で、「世界最高齢の情報番組司会者」として、ギネス世界記録に認定された愛川欽也さんを偲んでご紹介します。
愛川欽也(あいかわ きんや)さんは、1934(昭和9)年6月25日に、東京都豊島区巣鴨に生まれました。本名は、井川敏明(いがわ としあき)さんです。
愛川さんは、結婚していない両親から生まれた「婚外子」だったそうで、お母さんと2人きりで、故郷の東京・巣鴨を皮切りに、茨城県や福島県、埼玉県などを転々としながら戦中戦後を苦労して生き抜きました。
埼玉県大宮市(現、さいたま市大宮区)に住んでいる時、愛川さんは、埼玉県随一の進学校である埼玉県立浦和高等学校に入学します。
しかし、高校在学中に映画や演劇にのめり込み、俳優を志すようになります。
1954(昭和29)年に浦和高校を中退し、俳優座養成所(3期生)に入所します。
その後、劇団三期会を経て、個人事務所「愛川企画室」を設立しました。
俳優座の同期の女性と結婚し、1858(昭和33)年に長男(俳優の井川晃一さん)、1960(昭和35)年に長女(佳村萠さん)が生まれています。
<愛川欽也さんが生まれた巣鴨>
はじめは、声優としての仕事が多く、1962(昭和37)年には、アメリカのテレビドラマ『ルート66』で、主役のマーチン・ミルナーの吹き替えをしました。
他にも、「ハクション大魔王」<1969(昭和44)年、フジテレビ系>の それからおじさん役や、「いなかっぺ大将」<1970(昭和45)年、フジテレビ系> のニャンコ先生役など、多くのアニメで声優をしました。、
また、外国映画の吹き替えで、ジャック・レモン(「お熱いのがお好き」等)やオーディ・マーフイ(「許されざる者」等)、ジーン・ケリー(「雨に唄えば」等)など有名俳優の声も担当しました。
1971(昭和46)年からは、ラジオの深夜番組『パックインミュージック』(東京放送=現TBS)のパーソナリティとなり、「キンキン」の愛称で若者を中心に人気が出ました。
さらに、テレビの深夜番組『11PM』の水曜日の司会を、1974(昭和49)年から担当し、全国的に知られるようになります。
1975(昭和50)年に、愛川さんが東映に持ち込んだ企画が採用され、菅原文太さんの主役で「トッラック野郎」シリーズが始まりました。
この映画は大ヒットし、1979(昭和54)年までの5年間で、10本の映画シリーズが製作され、キンキン自身も、やもめのジョナサン役で出演します。
<トラック>
私生活では、1978(昭和53)年に離婚し、離婚の翌日に、元子供番組「ロンパールーム」のお姉さんで、愛川さんと一緒にバラエティ番組の司会をしていたタレントのうつみ宮土理さんと再婚しました。
うつみさんとキンキンは、おしどり夫婦として有名ですが、この2人の間には子供はありません。
1981(昭和56)年からは、『なるほど!ザ・ワールド』(フジテレビ系)の司会者を、1996(平成8)年まで15年以上務めました。
さらに、1995(平成7)年から、2015(平成27)年3月までの20年1000回に渡って、『出没!アド街ッック天国』(テレビ東京系)の司会を続けました。
「街ってのは建物じゃない。人なんだ。」が、愛川さんの口癖だったそうです。
テレビ情報番組の世界最年長の司会者として、2014(平成26)年9月に愛川欽也さんが、ギネス記録に認定されたのも、この番組の司会が対象でした。
愛川欽也さんのカバンには、いつも日本国憲法の小冊子が入っていたそうです。
終戦後、復員兵だった社会科の先生から、中学2年で「民主主義の国で一番大切なもの」を教えられたといいます。
「国で一番大切な法律に、戦争をしないと書いてある。すごい憲法だ、と先生が言った。以来、ぼくの頭の中の座標は、この年齢まで一度もぶれたことがありません」
と、愛川さんの著書「泳ぎたくない川」の中に書いてあります。
2015(平成27)年3月、戦後70年にちなんで東京都墨田区が開いたイベントには、「反戦は憲法を守ることです」という、愛川欽也さんの自筆のメッセージが寄せられたそうです。
2014(平成26)年冬、突然、肺がんであることを医師から告知された愛川さんは、病名を公表せず入院もせずに、自宅療養を選択し仕事を続けます。
この点、喉頭がんの手術をしたつんく♂さんとは、対照的な、でも、どちらも勇気ある最後の決断をされたと思います。
愛川欽也さんは、息を引き取る直前まで、「仕事に行こう」と寝言のように言っていたそうです。
「仕事に行こう」が、最後の言葉なのかも知れません。
2015(平成27)年3月、いよいよガンが脊髄にまで移転した時、1000回を期に『出没!アド街ック天国』の降板を決意します。
その愛川欽也さんが、最後のテレビ出演で、言った言葉は、「じゃあね!」でした。
「さようなら」でも、「ごきげんよう」でもなく、「じゃあね!」で終わったのは、明るく軽くて、次の可能性を残す若者の言葉で挨拶したいという、愛川欽也さんの強いメッセージだったような気がします。
この「じゃあね」というタイトルの曲を最後に、解散したアイドルグループがあります。
今を時めく、「AKB48グループ」のプロデューサー秋元康さんが、昭和末期にプロデュースして、1986(昭和61)年に解散した「おニャン子クラブ」です。
最後にその曲の、歌詞の一節を紹介して、愛川欽也さんのご冥福を明るく祈りたいと思います。
🎵「じゃあね」 (作詞:秋元康、作曲:高橋研 歌:おニャン子クラブ)
春はお別れの季節です
みんな旅立って 行くんです
(中略)
じゃあね そっと手を振って
じゃあね じゃあね
だめよ 泣いたりしちゃ
ああいつまでも 私たちは
振り向けば ほら 友達
4月になれば 悲しみは
キラキラした思い出
じゃあね
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