2017年12月31日日曜日

2017年の名言集と「今年のマイ漢字」~夢?、病?~

 いよいよ2017(平成29)年も、終わりますね。 「風の中の龍馬」も「アイドルの坂道」も、来年に続くとして、今回の前半はブログで紹介した「2017年の名言」を振り返り、後半は「2017年のマイ漢字」を発表します。


 まず、2017年1月のブログで紹介した、トランプ大統領の言葉を紹介します。
 2017年の国際情勢は、アメリカのトランプ大統領に振り回されましたが、大統領就任時には、こんな名言も言っていました。

Now arrives the hour of action.
Do not allow anyone to tell you that it cannot be done. No challenge can match the heart and fight and spirit of America.
(行動の時が、やってきた。不可能だと誰かに言われても、決して信じてはいけない。
アメリカの心とファイトとスピリットに勝る挑戦などありえない。)

Finally, we must think big and dream even bigger.
(最後に、私たちはビッグに考え、さらに大きな夢を見なくてはなりません。)

 この言葉だけを見ると「けだし名言」ですが、イスラエルの首都をエルサレムと認めるなど、心配の種は尽きませんね。アメリカの自制機能が働き、間違った方向に行かないでほしいですね。
 確実に言えるのは、2018年も、トランプ政権のアメリカがどう動くが世界に大きな影響を与えることになると思います。

(2017.1.22「アメリカ・トランプ大統領(2)就任演説・名言・迷言とプロフィール」より)



 次に、2017年3月11日、東京都千代田区の国立劇場で行われた6年目の「政府主催の東日本大震災追悼式」で、岩手県の遺族代表の千葉陽さんが話された内容を紹介します。

「あの時(東日本大震災)から、もう6年でもあり、まだ6年でもあります。
(中略)
その災害から、何とか生き残った者として、精いっぱいに生きることを全うすること。
そして、様々なことで起きる「つらさ」を「幸せ」に変えられるように、
いまの自分が持てる力が役立つのならば、少しでもできることをしていきたいと思います。」

もうすぐ7回目の3月11日が来ます。
「つらさを幸せに変える」のは簡単ではありませんが、
 震災犠牲者の命を無駄にしないように、忘れないようにしたいですね。

(2017.3.11「崖っぷちの日本に奇跡の花は咲く?」より)



<写真: 桜の花>



 2017年6月には。加計問題で、前文部科学省次官の前川喜平(まえかわ・きへい)さんが、安倍政権に敢然と反旗を翻して、こう話しました。

「あったことを、なかったことにはできない。
 我々は志をもって、公務員になった国民全体の奉仕者である。
 しかし、最近は、ともすれば一部の権力者の下僕になっている者がいる。私は、志を忘れたくない。」

 今も真実は霧の中ですが、前川さんの行動は、映画「生きる」を思い出させてくれました。

(2017.6.11 「本当に生きるとは~前川喜平・前文科次官と名画『生きる』」より)



 同じ6月17日に開催された「第9回AKB48選抜総選挙」では、バイトAKBの経験者でNGT(新潟)48の荻野由佳(おぎの・ゆか)さんが、速報1位、最終結果でも5位に入って、旋風を巻き起こしました。

荻野さんのスピーチです。
「小学校6年からAKB48に憧れ続けて、4年間ずっと落ち続けてきました。
 速報1位は、本当にビックリしたし、誰もが「なんで?」って思っただろうし、私が総選挙を壊してしまったのかな? と思ったこともありました。
 それでも、皆さんの愛だと受け取って、頑張ってきました。
 こんなにステキな順位(5位)をいただけるなんて夢のようです。私をアイドルにしてくれてありがとうございました。」

 AKB48選抜総選挙のスピーチから、もう1人、紹介します。
 9位に入った岡田奈々(おかだなな AKB48・STU48兼任、19歳、神奈川県出身)さんです。
「今のままでは、AKB48グループの明るい未来は作れないと思います。
 スキャンダルだったり問題を起こして、それをネタにして這い上がるメンバーが多いです。
 まっすぐに頑張っている人が報われるように、変えていきたいです。
 これからは、48グループの風紀委員長を目指して全力で頑張っていきたいです。」

 「まじめすぎるぐらいまじめ」と定評のある、岡田奈々さんらしいコメントですね。彼女は、2017年、新しく誕生したSTU(瀬戸内)48のキャプテンもしています。
 岡田奈々さんの「まっすぐな一生懸命さ」が、新しい48グループを造ってくれるかも知れませんね。

 荻野さんのNGT48、岡田奈々さんのSTU48、そして47都道府県代表で構成されているチーム8が、2018年AKB48グループの注目かなと私は思っています。(もちろん、坂道グループもです。)

(2017.6.25 「アイドルの坂道(7) さあ、革命の時間だ」より)


 
<写真 天国に咲くと言われている「蓮の花」)>




 続いて、紹介したいのは、2017年6月22日に、34歳の若さで癌のために永眠した小林真央さんです。彼女の1年前のブログを紹介します。

「2016年が過ぎていきますね!

どんな夜を、お過ごしですか??
『2016年』
描いていた形では終われなかったけれど、幸せを感じています。

年越しそばを食べているときに、
私の人生で、一番幸せな年越しそばに感じていました。
今年は色々ありすぎましたが、「kokoro.(ブログ)」で、皆様と繋がり、
たくさんの励ましを頂いたことに心から感謝致します。
感謝。
本当に、感謝、感謝、感謝。
そばにいてくれた人、離れて見守ってくれた方、
皆に感謝でいっぱいです。」
 ~2016年12月31日「ありがとうございました」小林麻央さんブログ~

(2017.7.3 「追悼 小林真央さん なりたい自分になる」より)


 次に紹介するのは7月18日に、105歳で亡くなった現役ドクターの日野原重明さんの言葉です。

「鳥は飛び方を変えることはできない。動物は走り方を変えることはできない。
しかし、人間は生き方を変えることができる。」

「私たちは運命を生きるのではなく、運命を作っていくのです。
 かつて自分ができなかったことを、思い切ってやることが、「夢を叶える」ということです。」

「50代、あるいは60代に向かおうとする時は、いよいよ自分がやりたいように、自分が自分を開発できる時期です。そうして開発した自分を、社会に還元するのが、第2の使命だと思っています。」

「やりたいことは、まだまだたくさんあります。私はどれもできると信じています。
 信じてね。ゴーですよ。」


 34歳で亡くなった小林真央さんも、105歳で亡くなった日野原重明さんも、長短に関係なく人生を一生懸命に生きたことに、違いはないですね。
 私も、2017年に病気で1カ月も入院したので、この2人の生き方を見習いたい気持ちでいっぱいです。

(2017.7.30 「追悼!105歳まで現役医師だった日野原重明さん」より)


<写真 ひまわり畑>
 


 後半は、2017年の「マイ漢字」を紹介します。
 2017年の我が家の大事件と言えば、「連鎖入院」です。
 5月8日に母が、車のブレーキとアクセルを踏み間違えて自損事故で入院しました。
 続いて、母の看病のために、100km近く離れた実家と自宅の間を、高速道路で往復していた私の左手が麻痺して、脳梗塞の疑いで1ヵ月の緊急入院をしました。

 私は、1週間で退院するつもりでしたが、医者と子供に止められました。
 特に子供に、「お父さん、あと3週間、休みなよ。」
  突然、そう言われて、リハビリ入院を決意しました。
 結局、退院後も5ヵ月、リハビリに通い、結果的に左手はほぼ回復しました。

 あとから思えば、1歩間違えば、半身不随、いや命もなかったかも知れない状態でした。
 滅多に意見を言わない子供の一言で、私は何も言えなくなり、リハビリのために入院継続することを決めました。

 そのあとも、父が介護支援施設に入居し、わんこのチワまで心臓疾患になり、本当に異常事態が続きました。
 と、いうことで私(我が家)の今年の漢字は、文句なく「病」でした。


 最後に、1つ朗報を報告します。
 
 私は、2017年は1カ月も職場を休職し、その後も半年近く、毎週リハビリに通いました。
 にもかかわらず、年末に職場で1人だけ「特別表彰」を受け、冬のボーナスと給料が、少しアップしました。

「病気が再発しないよう、がんばり過ぎないこと」を目標にしているだけに、半分驚きで、半分は、休職
中に頑張ってくれた他の人に申し訳ない気持ちでした。
 でも、病気と戦った日々を、認めてもらえたのは嬉しかったです。

<写真 愛犬 チワワのチワ>




 最後になりましたが、2017年、1年間、このブログを読んでいただき、本当にありがとうございました。
 実は、入院中は外出許可をもらって自宅で書くなど、ブログ更新の危機もありましたが、最後まで書けて本当によかったなと思っています。

 2018年は、健康の「健(けん)」と、いぬ年の「犬(けん)」が、今年の「マイ漢字」になるよう、焦らず無理せずコツコツと生きていき、ブログも更新してゆくつもりです。

 2018(平成30)年もよろしく、お願いします。
 皆さん、よいお年を!

2017年12月24日日曜日

クリスマス・年末の名作「最後の一葉(The Last Leaf)」~O・ヘンリー~ 

 クリスマス・年末の頃になると、街のイルミネーションのように華やかではないけれど、ひとりぼっちでも心が温まる名作を紹介したくなります。 そこで今回は、誰もが国語の教科書で読んだ(見た?)ことがある名作「最後の一葉」を紹介します。

「最後の一葉(原題 The Last Leaf)」は、アメリカの短編小説家O・ヘンリーが1905(明治38)年に発表した作品です。
 O・ヘンリーについては、2年前(2015年12月23日)の本ブログで「賢者の贈り物」を紹介しましたが、今回の「最後の一葉」も彼の代表作の一つです。


 まず、前半の部分の「あらすじ」を紹介します。


 ワシントンスクエア(アメリカ、ニューヨーク市の下町)に、芸術家たちが集まる「グリニッジ・ヴィレッジ」という迷路のような小さな町があります。
 この町にある、煉瓦造りの3階経てのアパートの最上階に、スーとジョンシー(ジョアンナの愛称)という2人の若い女性の画家の卵が共同でアトリエを持っています。

 彼女ら2人が出会ったのは5月でしたが、11月には<ミスター肺炎>がこの町を襲い、何十人という犠牲者を出しました。
 そしてミスター肺炎は、ジョンシーに襲いかかりました。

 ジョンシーは、鉄のベッドの上で動けなくなり、小さな窓から見える煉瓦造りの隣の建物の壁を、見ているだけになりました。

 ある朝、ジョンシーを見た医者は、スーを廊下に呼び出して言いました。
「助かる見込みは、十に一つと言っていい。その見込みも、あの娘が生きたいと思うかどうかにかかっている。」

 医者が帰って、スーは部屋に戻りました。
「12、11、10」
 ジョンシーが窓を見ながら、何かを数えています。
「9、8、7」
 スーは心配そうに窓の外を見て、ジョンシーに尋ねました。
「ジョンシー、何を数えているの。」

「6つ。蔦に残っている葉っぱの数を数えているの。
3日前には100枚もあったのに、だんだん落ちるのが早くなっていくの。
あっ、また落ちた。あと5つ。
あの葉っぱが全部落ちたら、私もこの世から、さよならするのに違いないわ。」

スーは、無理矢理、大声で笑いました。
「そんな馬鹿げたこと、聞いたことないわ。」
ジョンシーは首を振って答えました。
「ほらまた落ちた。これであと4枚だわ。
もうすぐ最後の1枚が落ちるわ。それを見たいの。
そしたら、私もさようならするわ。」

「ジョンシー、お願い。
私が絵を描き終わるまで目をつむってて。それまで窓の外を見ないと約束して。」

「じゃあ、明日の朝、一番にあの蔦を必ず見せてね。」
そう言うと、ジョンシーは目を閉じ眠りました。

(後半につづく)



<「最後の一葉」の舞台、ニューヨーク市のグリニッジ・ヴィレッジ>




 
 O・ヘンリー(本名 ウイリアム・シドニー・ポーター)は、1862(文久2=幕末)年9月11日に、医者の子として、アメリカ・ノースカロライナ州グリーンズポロに生まれました。
 二十歳頃からはテキサスに住み、薬剤師、銀行員、ジャーナリストなどの職を転々としました。

 1896年、34歳の時に以前務めていた銀行についての「横領の疑い」で起訴され、1898年に懲役8年の有罪判決を受けます。
 この服役中から、彼は、多くの作品を書きます。

 1901年に出所し、1902年にニューヨークに移り住み、新聞社と毎週1本のペースで掲載小説の契約をしました。
 「最後の一葉」は、1905年に書かれたものです。

 ちなみに、ペンネームの「O・ヘンリー」は、かわいがっていたネコのヘンリーを呼ぶときの「おーいヘンリー」から、名付けられたとも言われています。(諸説あり)

 1910年6月5日、O・ヘンリーは、肝硬変になり47歳で亡くなりました。彼の生涯で381作品が掛かれ、その多くが短編です。
 代表作は、「最後の一葉」のほか、2年前に紹介した「賢者の贈り物」、「二十年後」などです。



 それでは、「最後の一葉」の後半を紹介します。


 病気のジョンシーが眠るのを見届けたスーは、階下の部屋の老画家のベールマン老人のところへ行って、彼に絵のモデルになってもらいました。
 ベールマンは「いつか傑作を描く」と言っているうちに、老齢になってしまった売れない画家でした。
 スーは絵を描きながら、ベールマン老人に、ジョンシーの話をしました。

 ベールマン老人は、叫びました。
「蔦の葉が落ちたら自分も死ぬなんて、なんて馬鹿げた考えだ。
 ああ、ここは、ジョンシーのような善良な娘が病気で寝るようなアパートじゃない。
 いつか私が傑作を描いたら、みんなでもっといい所へ引っ越そう。」

 その夜、3人が住むアパートを、雪交じりの雨と暴風が襲いました。
 スーは、「暴風雨であの蔦の葉が全部落ちるだろう」と思うと、眠れませんでした。

朝が来ました。

「スー、窓のカーテンを明けて。葉っぱが全部落ちているのを確認したいの。
 そして、私はさよならするの。」
 ジョンシーに言われて、スーは、カーテンをおそるおそる開けました。

「あっ。」
 スーとジョンシーは、思わず顔を見合わせました。
 なんと、あの暴風雨の中で、蔦の葉が1枚だけ散らずに残っていたのです。

 それから何日たっても、最後の一葉は散らずに残っていました。
 やがて、ジョンシーは、最後の一葉を心の支えに、次第に回復していきました。

 何日かして、医者はスーに言いました。
「もうジョンシーの病気の危機は脱したよ。君の勝ちだ。
 ただ、このアパートの下の階のベールマンという老人が、今日、同じ肺炎で亡くなっよ。」

「えっ、突然ですね。この間まで、ベールマンさんは元気でしたのに。」
スーが驚いて聞くと、医者は答えました。
「この間のひどい嵐の夜、
ベールマンさんはずぶ濡れになって、部屋に帰ったきたそうだ。
そのあと、急に肺炎になって、高齢だから亡くなったんだよ。」

スーは、あわてて隣の建物の壁の「最後の一葉」を見に行きました。
やっぱり、スーの思ったとおりでした。

スーは部屋に戻って、ジョンシーに静かに言いました。

「ジョンシー。窓から、あの壁の最後の一葉を見てみて。
 風が吹いているのに、ひらひらもしなければ、動きもしないのは不思議だと思わない。
 あれは、ベールマンさんの傑作なのよ。」
「えっ。そういえば。」
 ジョンシーは驚いて、起き上がりました。

 スーは続けました。
「この前の嵐の夜、ベールマンさんは、あなたを助けるために、葉っぱの絵を描いたのよ。
 最後の一葉という、傑作を描いたのよ。
 おかげで、ベールマンさんは肺炎になり、今朝、亡くなったわ。
 でも、ジェンシーがよくなって、ベールマンさんは本望だと思うわ。」



<写真 紅くなった葉っぱ>





 クリスマス・年末に紹介したい名作として、今回は「最後の一葉」を紹介させていただきました。
 もちろん、この小説は、「クリスマス」をテーマにした作品ではありません。

 でも、ベールマン老人は命がけで、若い女性画家ジョンシーに、「生きる気力」というプレゼントを贈ったのですから、まさにクリスマス・プレゼントだと思います。

 クリスマスの時期は、キラキラしたイルミネーションに隠れて、本物を見失いがちです。
 本当に大切なものは何か、今夜、静かな静かな冬の夜に考えてみませんか。

 最後に「じゅんくう詩集」から、1詩、紹介します。




詩「最後の一葉 ~クリスマス・イブの奇跡~」

ヒューヒュー
ブルブル 
ピュー ピュー
ブルブル

木枯らしが唸る 
クリスマス・イブの夜に
O・ヘンリーの「最後の一葉」を読んでいた

生きる気力を失った 
病身の若い画家の女の子は
「あの葉っぱが全部散ったら 私の命もさようなら」
と窓の枯れ枝の葉に命を預けた

あと10枚
あと7枚
あと5枚

残り少ない 葉っぱがヒラヒラと落ちてゆく

その夜 
嵐のような雨と風が
葉っぱたちを襲った

翌朝
「きっともう散っている」
そう思って開けた窓から見た枝に
1枚だけ 葉っぱが残っていた

いく日たっても散らない 
希望の葉っぱに
女の子は 
勇気と元気を取り戻していった

でも
その影で
嵐の中で 生涯最高の傑作
「最後の一葉」を描いた
老画家は
肺炎になり 
ひっそりと命を散らしていった


<クリスマスのLEDイルミネーション>





100年前の小説「最後の一葉」をポケットに
ぼくは 華やいだ イブの街を彷徨う

時間が過ぎても
人の心は 変わらない

人に勇気と元気を与えられるのは
言葉ではなく 行動
一生懸命の背中を

子供に見せていこう
そう誓う
メリー クリスマス


(じゅんくう詩集より 2017年12月24日)

2017年12月17日日曜日

アイドルの坂道(12)地方の力(チーム8全員本社兼任)に賭けた13年目のAKB48新組閣

 2017年12月8日、東京・秋葉原で行われた「AKB48劇場12周年記念公演」で、3年ぶりにAKB48の新組閣がサプライズ発表されました。
 今回はその内容と、組閣の目玉になった「チーム8」の注目メンバーたちの紹介をしたいと思います。


 最初に、サプライズ組閣発表直後のAKB48・二代目総監督・横山由依(よこやま・ゆい、京都府出身、25歳)さんのメンバーを前にした発言を紹介します。

「12周年目にもらったこれ(新組閣発表)を、試練なのかチャンスなのかわからないけど、13年目に繋げられるように、必死に乗り越えていきましょう。
 ここにいるメンバーで、もう1回東京ドームに立ちたいって、本当に本当に思うので、そう思えるメンバーと、その夢を一緒に追いかけてくれるファンの皆さんと、13年目もがんばっていきたいと思います。」

 坂道グループ(乃木坂46、欅坂46など)の人気が急上昇し、11月には乃木坂46の「東京ドーム2daysコンサート」が大成功したばかりの中で、まじめな横山総監督の危機感が、ひしひしと感じられますね。


<写真:12周年を迎えた「AKB48劇場」が入っているビル(東京都千代田区・秋葉原電気街)>






 13年目を迎えるAKB48の新組閣の特徴を一言でいえば、「地方の力に賭けたAKB48」です。

 まず、宮脇咲良(HKT48=福岡市博多)さん、北川綾巴(SKE48=名古屋市栄)さん、白間美瑠(NMB48=大阪市難波)さんなど、東京本社(正式名称ではありませんが、ファンは東京秋葉原を拠点とするAKB48グループ本体をこう呼んでいるので今回はその呼び方を書きます)と兼任をしていた、姉妹グループの有力メンバーのほとんどが兼任を解除され、姉妹グループ専任となりました。
 これは、地方にある姉妹グループの体制強化が目的だと思います。

 一方、空いた東京本社のメンバーには、2014(平成26)年に、全国47都道府県で1人づつが選ばれ、ローカルを中心に地道に活動し、やっと人気が出てきた「チーム8」のメンバー45人全員(卒業発表をしている福島県と高知県の2人を除く)が本社兼任となりました。

 会社で言えば、「地方の各出張所で1人きりで地道に活躍してきた社員たちに、本社の花形部署を兼務させるという形ですね。
 チーム8のメンバーが作りあげてきた人気と実績に、渡辺麻友さんや北原里英さんなどの人気メンバーが卒業する「13年目のAKB48」の命運を賭けたとも言えますね。
 これは、結構、ステキな運営だと思います。

 
 ここからは、AKB48本社の、「チームA」「チームK」「チームB」「チーム4」の4つのグループごとに、2018(平成30)年春から活動開始予定の新チームの主なメンバーを紹介します。

 まず「チームA」は、横山由依総監督をはじめ、正規メンバー22名で構成されています。
 この中には、「チーム8」から初めてキャプテンに抜擢された岡部麟(茨城県代表、21歳)さんや、チーム8のセンターで人気ナンバーワンの小栗有以(東京都代表、15歳)さんなど、半分近い10人がチーム8から兼任で入っています。

 次に「チームK」は、キャプテン込山榛香(19歳、千葉県出身)さんをはじめ、25名の正規メンバーで構成されています。
 そのうちチーム8からは、小栗さんと並ぶ人気ビッグ3の1人の・倉野尾成美(熊本県代表、17歳)さんなど、12人が兼任しています。

 続いて「チームB」には、キャプテン高橋朱里(20歳、茨城県出身)さんをはじめ、25人の正規メンバーが所属していますが、チーム8からは、最年長の太田奈緒(京都府代表、23歳)など10人が兼任しています。

 最後に「チーム4」には、キャプテンの村山彩希(20歳、神奈川県出身)さんをはじめ、25人の正規メンバーが所属し、そのうちチーム8からは、ビッグ3の最後の一人の坂口渚沙(北海道代表、16歳)さんや、このブログで紹介した毎朝5時30分に1年以上動画配信をしている大西桃香(奈良県代表、20歳)さんなど、13人が兼任しています。

 まとめると、AKB48本社の4グループで、97人の正規メンバーのうち46%の45人が「チーム8」の兼任メンバーということなります。
 まさに、チーム8旋風が吹き荒れた新組閣と言えると思います。


<写真 2017年1月の「チーム8ソロコンサートのDVD」(上から小栗有以さん、倉野尾成美さん、坂口渚沙さん)>






 後半は、2018年に活躍が期待されるチーム8の注目メンバーを、独断で選んで紹介します。
 まず、さきほども紹介した、2017年1月の東京ドームシティホールで「ソロコンサート」を開催した3人を紹介します。


 まず、小栗有以(おぐり・ゆい、東京都代表、15歳、SHOWROOMフォロワー数⦅以下「SR」と略します⦆1位)さんは、まだ15歳(高1)ですが、「2万人に一人の美少女」と言われ、チーム8の人気ナンバー1のエースです。
 さらに、AKB48グループ全体の選抜にも、最新曲「11月のアンクレット」を含め4回も選ばれていて、AKB48本社の次期センター候補No.1とも言われています。愛称は「ゆいゆい」です。

 ファンの動員力はメンバー随一で、2017年1月の初ソロコンサート「小栗有以の乱」も満員でした。
 また、無料動画配信サービス「SHOWROOM」のフォロワー数も、チーム8でただ一人3万人を超えています。さらに、2017年「AKB48選抜総選挙」では51位となっています。

 2016年開催の演技力を競う「れなっち総選挙」では、168名の立候補者の中で1位となりました。他にも、雑誌「ラブモ」の専属モデルも務めています。
 自己紹介のキャッチフレーズは、「みーんなのハートを(とっちゃう、とっちゃう) 東京から来ました“ゆいゆい”こと小栗有以です。」


 2人目の倉野尾成美(くらのお・なるみ、熊本県代表、17歳、SR4位)さんも、2017年1月に東京ドームシテイホールでソロコンサート「倉野尾成美の乱」を開催し、AKB選抜総選挙では、2016年が34位、2017年が30位と2年連続ランクインしています。
 ところが、AKB48選抜には、1度も選ばれていません。

 キャッチフレーズは、「みんなと一緒に笑顔に(なるなる)。熊本県から来ました"なるちゃん"こと倉野尾成美、17歳です」


 3人目の坂口渚沙(さかぐち・なぎさ、北海道代表、16歳、SR8位)さんは、2017年1月の東京ドームシテイホールの3番目にソロコンサート「坂口渚沙の乱」を開催しました。
 3人の中では唯一、2015年から本社のチームBを兼任しています。
 AKB選抜総選挙の順位は、2016年70位、2017年69位と、チーム8では倉野尾さんと2人だけが、2年連続ランクインしています。また、AKB48選抜に2回、選ばれています。

 自己紹介のキャッチフレーズは、「皆さん、磁石のS極は?(さかぐちー!)磁石のN極は?(なぎさー!)2つ合わせて?(さかぐちなぎさー!)どうも、北海道から来ました、なぎこと坂口渚沙 16歳です。」


 ここまで挙げた3人以外で、紹介しなければならないとすれば、最初はやはり、チームAのキャプテンに就任する岡部麟(おかべ・りん、茨城県代表、21歳、SR2位)さんですね。
 キャッチフレーズは、「おー!壁!りんりんりん♪ もしもーし、茨城県から来ました、"りんりん"こと岡部麟です。」  

 チーム8では、数少ない20歳を超えるお姉さんメンバーの一人で、50枚目シングル「11月のアンクレット」では、AKB48の初選抜にもなりました。
 そして、今回の組閣で、チーム8出身者では初めて、本社のチームのキャプテンに就任します。
 美人でMCなども務めるしっかり者ですが、チーム8内では、「上から目線」「おしゃべりで小うるさい」との評判もあります。
 2017年12月31日のNHK紅白歌合戦に、「紅白選抜」に選ばれたチーム8のメンバーは3人ですが、そのうちの1人が岡部麟さんです。


 2017年の「AKB紅白選抜」に選ばれた、2人めは、チーム8最年長の太田奈緒(おおた・なお、京都府代表 23歳、SR7位)さんです。

 太田奈緒さんは、テレビのバラエティ番組で男装すると、「おおた・なお」から「たなお」になります。
  キャッチフレーズは、「行きますよ! everybody??!(なおー!)」です。

 太田さんは、最年長らしく、しっかりものでメンバーの信頼は厚いです。

 AKB選抜の経験はありませんが、2017年選抜総選挙で65位に初ランクインし、SHOWROOM配信もほとんど毎日、行っていて、2017年のショールーム選抜でも13位に入っています。
 最年長で、どうしても卒業がちらついていましたが、2017年の紅白選抜に入ったことで、「来年も選抜総選挙に出る」と、決意を語る京女です。


 3人めの紅白選抜メンバーは、「アイドルの坂道(10)」で紹介した、あの大西桃香(おおにし・ももか、奈良県代表、20歳、SR6位)さんです。
 キャッチフレーズは、「いきなりですが質問です。みなさんの好きな色は何ですか?(様々な色をファンが言う)でもでも、やっぱりそこは?(桃色) 奈良県から来ました大西桃香です」

 毎朝5時30分に無料動画配信をして、愚痴も言わずに笑顔でがんばる努力は、1年以上、現在進行形で続いていて「5時半の天使」「SHOWROOM女王」などと呼ばれています。
 選抜総選挙の入賞はありませんが、2017年の「SHOWROOM」イベントのポイント1位になり、SHOWROOM選抜のセンターとなりました。
 また、5時半配信1周年記念配信で、チーム8初のソロ写真集発売のオファーをもらい、発売も決まっています。さらに、奈良市の観光大使にも就任しています。

 なんの褒美も賞のあてもなかったのに、毎日5時30分配信を継続する努力は、ファンはもちろん、細井隆宏チーム8支配人や秋元康総合プロデューサー、SHOWROOMの前田裕二社長、堀江貴文氏らにも高く評価されています。


 以上の岡部麟さん、太田奈緒さん、大西桃香さんの3人が、2017年の「AKB紅白選抜」の48人の中に選ばれた「チーム8」メンバーです。

 前半で紹介した「ビッグ3」は17歳以下ですが、後半の3人は20歳以上です。どうも2017年の紅白では、AKB48選抜は遅い時間の出演のようですね?。


<写真 チーム8のコンサートポスター>






 ファンの間では、「チーム8は埋もれているアイドルの宝庫」と言われています。
 確かに、ここまで紹介した6人以外にも、「チーム8の注目メンバー」は多くいます。
 そこで、もう3人、紹介します。


 まず1人目は,テニスウェアを着て配信するスポーツ万能女子の佐藤朱(さとう・あかり、宮城県代表、21歳、SR21位)さんです。
 170cmの長身で、テニスでは高校時代にインターハイ(全国大会)に出場していますし、ハーフマラソンでは1時間55分40秒で完走しています。

 佐藤さんの動画配信で見せる素顔は、笑顔でやさいい「きれいなお姉さん」で、非常に温厚です。
 キャチフレーズは、「宮城県から来ました、佐藤朱 21歳です。今日も48グループイチのテニス少女がみんなのハートに(スマッシュ!)します。」


 続いて、超美人で性格もいいのに何故か不遇で埋もれている左伴彩香(ひだりとも・あやか、山梨県代表、19歳、SR24位)さんです。

 演劇志望のやさしいお嬢さんタイプで、チーム8の中でも屈指の美人で性格もいいと思います。
 キャッチフレーズは、「上かな?下かな?右かな?左かな? うーん。そこは、やっぱり(ひだりとも) 山梨県から来ました"ひだあや"こと左伴彩佳、19歳です」

 
 最後の注目メンバーは、初期メンバーでなく2016年からチーム8に入った寺田美咲(てらだ・みさき、長崎県代表、17歳、SR32位)さんです。
 一部のファンたちには、長崎の同じ中学で1つ上だった、欅坂(けやきざか)46の人気メンバーの長濱ねるさん(デビュー前に面識があるそうです。)と並ぶぐらいの長崎出身の美人アイドルだと言われています。

 動画配信などを見ていると、素直で気取らない高校3年生ですが、もしかすると近い将来、大化けするのではと、私は密かに期待しています。
 ちなみに、チーム8の先輩の大西桃香さんが大好きで、雑誌のグラビア人気投票では2人が組んで参加しました。(結果は、残念ながら4位でした。)
 キャッチフレーズは、「Youが先~? Meが先? みさっきー!」です。


 以上、チーム8の9人のメンバーを紹介しました。
 紹介していない他のメンバーも含め、来春、本社兼任として、「地方から全国」へ、進出してほしいと期待しています。

 おしまいに、2017年11月発売のAKB48の50枚目シングル「11月のアンクレット」に収録されている、チーム8の新曲「生きることに熱狂を」の歌詞を紹介します。
 この曲は、地方で1人1人バラバラに苦労しているチーム8の応援ソングにふさわしい歌詞で、センターは、小栗有以さんです。



♪「生きることに 熱狂を!」(作詞:秋元康、作曲:HiBiKi 歌:Team8)♪


Yes!  夢を見て 
全力でぶつかってみよう
AH   汗かいて
生きることに 熱狂を!

君は何かに
燃えているかい?
たったひとつだけ
目指す情熱

夢中になれるって
なんて幸せなんだ
叶っても 叶わなくても
願いがあればいい

Yes  がむしゃらに 
最後まで やりきってみよう
AH   負けないで
生きることに 熱狂を!


今日も明日も
燃えていたいよ
それが人生の
原動力だ

誰かと競い合い
共に成長しよう
勝っても敗れても
ゴールはまだ先だ

興奮できるって
なんて素晴らしいんだ
喜びもそう悲しみも
命の脈動さ

Yes!  夢を見て 
全力でぶつかってみよう
AH   汗かいて
生きることに 熱狂を!

Yes!  楽しもう! 
プロセスが思い出になるよ
AH   噛みしめて
今 この瞬間(とき) 熱狂を!

生きることに熱狂を!

2017年12月8日金曜日

風の中の龍馬(2)日本を今一度せんたくいたし申し候 ~坂本龍馬没後150年~

 文久2(1862)年3月24日、坂本龍馬は、満26歳で土佐藩(高知)を脱藩し、ふるさとと引き替えに、自由を手に入れました。
 かつて、私が部屋に貼っていた坂本龍馬のポスターには、
「ぼくはフリーじゃきに」と書いてありました。 脱藩によって、龍馬は、身分上も思想上も、まさに「フリー」になりました。

 坂本竜馬が脱藩した直後の文久2年4月8日、龍馬のいなくなった高知城下では、土佐藩全体を勤王に変えようとしていた龍馬の盟友・武市半平太(たけち・はんぺいた)の率いる土佐勤王党の浪士が、土佐藩の保守派を主導していた参政・吉田東洋を暗殺しました。
 このことで、土佐藩の政治は、一時的に、「幕府寄り(佐幕)」から「朝廷寄り(尊王)」に転換しました。

 一方、脱藩した坂本竜馬は、「幕府を慕う山内家と上士がいる限り、土佐は動かぬ」と考えていました。
 脱藩直後の文久2年4月には、長州(山口県)の下関の豪商で、高杉晋作などの支援をしていた白石正一郎宅を訪れました。
 その後の龍馬の行動の詳細は不明ですが、平尾道雄氏の「坂本龍馬全集の年表」によれば、下関から九州へ向かい、続いて大坂(大阪)・京都を訪問し、その年の8月には、自分が塾頭をしていた江戸の桶町千葉道場に、滞在しています。

 長州、九州、大阪、京都、江戸と、脱藩後に竜馬が旅して志士たちと交流した5つの場所は、まさにこの後の日本の命運を担うことになる場所であったことは注目ですね。

 当時、「脱藩」は死罪の可能性もあった重大な犯罪でした。
 地位も身分も捨てた龍馬は、土佐藩から犯罪者として追われる立場になり、強烈な逆風(アゲンストの風)の中にありました。
 そんな龍馬にあるのは「志(こころざし)」だけで、本当の意味の志士となりました。

 坂本龍馬は、文久(1862)2年の暮れに、千葉道場の跡取りの千葉重太郎とともに、幕府の軍艦奉行並みで、2年前に「咸臨丸(かんりんまる)」で渡米した経験をもつ勝海舟(1823年~1899年、東京生まれ、幼名・通称:勝麟太郎)を斬るために、海舟の自宅のある赤坂(東京都港区赤坂)を訪れました。

 この時、龍馬たちは、勝海舟が渡米経験に基づいて語る、「アメリカの大統領を決めるのは民主選挙であること」や、「今の日本に必要なのは、海軍と貿易であること」に感動し、暗殺者から一転、海舟の弟子になりました。


<写真 勝海舟と坂本龍馬の師弟象(東京都港区赤坂、2016年設置)>



 翌文久3(1863)年、勝海舟の弟子となった龍馬は、海舟の悲願「神戸海軍操練所」の設立のために、福井藩に金策のために奔走したり、土佐出身の浪人たちを仲間に入れたりしました。
 そして、海舟の私塾「神戸海軍塾」の塾頭になりました。

 この頃の坂本龍馬は、得意満面で、勝海舟を「日本第一の人物」と持ち上げ、土佐の国元にいた姉・乙女にあてた手紙で、「少しエヘン顔して密かにおり申し候」(文久3年5月17日付け)と自慢しています。
 
 この頃、京都では、長州藩(山口県)を中心とする「尊皇攘夷派」(天皇を尊敬し幕府を軽んじて、外国を討つという主張)と、それを後ろ盾にする三条実美らの公家が大きな力を持っていました。
 これらの勢力に押されて、文久3年2月には、第14代将軍の徳川家茂は、朝廷に「5月10日に攘夷を実行する」ことを約束させられました。

 これを受けて、文久3(1863)年5月10日から、長州藩が下関海峡で、アメリカ・イギリスなど4ケ国の船に砲撃を加え、攘夷を決行しました。
 ところが、多くの藩は長州の攘夷に協力せず、幕府に至っては下関で砲弾を浴びた外国船を修理しました。

 この頃、文久3(1863)年6月29日に、坂本龍馬がこの幕府の態度に腹を立てて、姉の坂本乙女に書いた手紙にあるのが、龍馬のあの名言です。

「あきれ果てたる事は、長州で戦いたる(外国の)船を江戸で修復し、又、長州で戦い申し候こと。
 これ皆、(幕府の)姦吏(役人)が夷人と内通いたし申し候ものにて候。
 (中略)
 江戸の同志と心を合わせ、姦吏を撃ち殺し、『日本を今一度せんたくいたし申し候』ことにいたすべくとの神願にて候。」

<現代語訳>
「 あきれ果てるのは、長州と戦って壊れた外国船を、幕府の官吏が江戸でこそっと修理してやっていることだ。幕府の役人と外国人が裏で手を結んでいる。まったく、けしからん。
 僕は、江戸の仲間と一緒に悪い役人を殺し、「日本を今一度、せんたくする」と、誓っている。」


 坂本龍馬の「日本をせんたくいたし申し候」という勇ましい言葉とは裏腹に、このあと、志士たちにとっては、暗黒の時代に入ります。

 龍馬の手紙のわずか1ヶ月半後、文久3年8月18日に、京都で政変が起き、長州藩と三条実美らの「尊皇攘夷派」の勢力は一層され、会津藩と薩摩藩を中心とした「公武合体派」が京都朝廷を牛耳り、その結果、江戸幕府の力も強まります。(8月18日の政変)

「8月18日の政変」で、土佐出身の吉村虎太郎らが大和の国(奈良県)で挙兵した「天誅組の乱」は失敗し、吉村は討ち死にします。
 さらに9月には、土佐藩内でも、山内容堂らの佐幕派・公武合体派が勢力を盛り返し、龍馬の盟友・武市半平太らの土佐勤王党のメンバーの多くが投獄され、武市半平太は1年半後に切腹させられました。

 坂本龍馬は、逆風の中でも、勝海舟のもとで学んだ操船技術を武器に、江戸、神戸、長崎などを船で駆け回ります。

 しかし、元治元(1864)年6月5日に、長州などの浪人が京都の池田屋で新撰組の襲撃を受ける「池田屋事件」が起き、続いて7月19日には、長州が京都奪還を図りますが会津や薩摩の各藩に大敗した「禁門(蛤御門)の変」がおきます。
 さらに、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヶ国が下関を攻撃する「下関戦争」でも長州は敗退します。

 さらに、朝敵とされた長州に対し、幕府と諸藩による「第一次長州征伐」が元治元年7月に始まります。11月には、長州の4家老が切腹して降伏し、長州の尊皇攘夷派は、行方不明になっていた桂小五郎や高杉晋作などを除き、壊滅状態になります。

 龍馬たちはというと、「池田屋事件」や「禁門の変」に、神戸海軍操練所のメンバーが参加していたため、元治元(1864)年10月22日に、勝海舟が謹慎を命じられ、翌慶応元(1865)年3月には、坂本龍馬が塾頭を務める神戸操練所も廃止になりました。


 志士たちには「苦難の元治元年」でしたが、坂本龍馬には、この年、嬉しい出会いがありました。
 5月に後に妻となる楢崎龍(お龍)と京都の寺田屋で知り合い、6月には下田で薩摩の西郷隆盛にも出逢っています。


<写真 京都の龍馬の定宿だった寺田屋(京都市伏見区)>





 倒幕派は散々で、風前の灯火だった元治元(1864)年ですが、その年も押し迫った12月15日、長州の下関にある「功山寺」で、1人の青年と80人の仲間が、立ち上がります。
 その青年の名は「高杉晋作」です。
 高杉晋作と仲間たちは、わずか80人余りで、長州藩ばかりでなく、幕府や諸藩に反旗を翻し、見事、勝利します。

 わずかに残った倒幕の灯火を、高杉晋作という一青年が再び燃え上がらせ、のちに坂本龍馬もバックアップすることになります。
 この続きは、次回ということにします。


 2017年の総選挙の直前、小池百合子東京都知事が言った「日本をリセットする」という言葉は、龍馬の「日本をせんたくする」という言葉をまねたものだと思います。
 しかし、坂本龍馬は日本を洗濯することに成功したのに対し、小池知事の「希望の党」はリセットに失敗しました。
 「なぜなのか?」これが、次回の「風の中の龍馬」のテーマかなと思っています。

 
 ここで、「日本をせんたくする」という名言を書いた坂本龍馬の「姉・坂本乙女あての手紙」の後半部分を<現代語訳>で紹介します。

「私を、決して長生きできる人間だと思わないでください。
 ただし、人並みのように、なかなか滅多なことでは死ぬつもりはありません。
 私が死ぬ時は、天下大変で、私が生きていても役に立たないようになった時だと思っています。
 『土佐の芋掘り』などと、いろいろ悪口を言われる「居候(いそうろう)」として生まれて、一人の力で天下を動かすようになったのは、これまた、天のなさる事です。」
<文久3(1864)年6月29日付け、坂本乙女(姉)あての坂本龍馬の手紙より>


 司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」にも出てきますが、坂本龍馬をはじめ、幕末の多くの志士は、老荘の思想にある「天」や「天命」という考え方をし、「事を成すは天命にあり」と考えていました。

 ただ、龍馬のおもしろいところは、手紙の最後で、「決してつけあがりはせず、頭にかぶりものをして砂の中に、潜っております。」と、自分で言っているところです。


 ところで、龍馬が「日本を今一度せんたくする」という手紙を書いた文久3(1863)年は、坂本龍馬は満28歳ですが、「龍馬の手紙」の質・量ともにあたり年です。
 多くの龍馬の手紙が残り、おもしろい内容もいくつも残っています。

 そこで、最後に文久3年に坂本龍馬が書いた手紙の「名・迷言」をいくつか紹介します。(少し、現代語にします。)


「そもそも人間の一生はガテンのいかないものだ。
運の悪い者は、風呂から出ようとして、金〇を詰め割って死ぬ者もいる。
その点、私(龍馬)は運が強く、自分で死のうと思っても死ぬず、今では日本一の人物、勝麟太郎(勝海舟)という人の弟子になって、一生懸命に働いております。」
(文久3(1863)年3月20日、坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)


「小野小町が名歌を読んで雨が降ったという伝説があるが、日照りの時は歌を詠まず、北の山の方に、雲が沸いているのを見て、歌を詠んだのに違いありません。
 同じように、天下に事を成すものは、腫物もよくよく腫れあがってから針を刺し、膿を出すのです。」
(文久3年6月28日 坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)


「なんの浮世は3文5厘よ。ブンと屁のなるほど、やって見よ。」
(文久3年6月29日  坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)


 龍馬節、炸裂ですね。
 この頃の龍馬の手紙には、自由で夢のある志士・坂本龍馬が活きのいいまま入っているような気がしますね。

 このあと、「操船術」と「剣術」の二つを手に入れた坂本龍馬の活躍が始まります。

2017年11月29日水曜日

季節の歳時記2「秋の終わりに」~秋の色は「赤」それとも「白秋」?~

 木々の紅葉が進み、木枯らしの冷たさが身に沁みる季節で、秋も終わりですね。 そこで、今回は過ぎゆく秋を、ちょっとセンチメンタルに振り返ります。

 まず、突然ですが質問です。
 「秋」は、色に例えると何色だと思いますか?


 私が、秋の色と聞かれて、一番先に思いつくのは、「赤色」です。
 そうです。
 夕焼け、赤とんぼ、紅葉、みんな「赤」ですよね。
 ここで、「まっかな秋♪」という童謡の一番を、紹介します。


♪「まっかな秋」(作詞:薩摩 忠、作曲:小林秀雄)♪


まっかだな まっかだな 
つたの葉っぱが まっかだな
もみじの葉っぱも まっかだな
沈む夕日に照らされて 
まっかなほっぺたの 君と僕
まっかな秋に 囲まれている♪


 季節だけじゃなく、友達のほっぺまで赤いというのが、この曲のいいところですね。
 子供の頃、その部分に感動した覚えがあります。

 この曲は、1963(昭和38)年にNHKテレビの「たのしいうた」で紹介された曲で、作詞の薩摩忠(さつま ただし 1931年~2000年、東京都出身)さんは、詩人で海外児童文学の翻訳もされています。 

<写真 秋の夕暮れ>



 秋の色は「赤」で決まりと言いたいところです。
 でもね、「白秋」という言葉が、どうしても気になりませんか。

 名曲「この道」や「ゆりかごのうた」、「雨降り」などの多くの童謡を作詞したあの北原白秋(きたはら・はくしゅう 1885年~1942年 熊本県生まれ)さんに代表されるように、論語の時代から「陰陽五行説」では、秋の色は「白」、つまり「白秋」と言われています。

 ちなみに他の季節の色はというと、春は「青春」で有名な「青」、夏は「朱夏」と呼ばれて「赤(朱)」、冬は「玄冬」で「黒」です。
 ちなみにちなみに「五行説」なのに4つの季節なのはなぜという問いについては、「木・火・土・金・水」の五行に対応する季節は、「春・夏・土用・秋・冬」で、色は「青・赤・黄色・白・黒」となります。
 そう、四季に加えて、土用が入るのです。


 まあそれは、ともかく「秋の色は白」というのは、実感としては、ありませんね。
 それでは、なぜ、秋が白なんでしょう。
 それには、こんな説があります。

 古来、白は何色にでも染まる色なので、「色なき色」とも呼ばれ、秋も「何色にも染まる色なき色=白=白秋」と呼ばれたという説があり、もう一方で、秋は「すべての色に染まる彩(いろどり)の季節」とも呼ばれています。
 「白秋」と「彩の秋」は。矛盾しないというのですが、あなたはどう思いますか???


 後半は、「じゅんくう詩集」から、晩秋の詩と、秋を象徴する言葉を言い換えた「新・ルナールの言葉」を紹介します。

 まず、「秋の終わりに」という詩です。



詩「秋の終わりに」(じゅんくう)

秋の終わりの 黄昏の中
ハラハラと散る 枯葉を見てる
恋も 命も みんな散りそう

あの人の笑顔が 飛び跳ねていた
テニスコートも 夕焼けの中
青春も 情熱も 木枯らしに消えてゆく

白い吐息と くしゃみが知らせる
秋の終わりと 冬のおとずれ
夢も 笑顔も みんな凍って

あの頃のドリーム すまして見ていた
キンモクセイも 北風に震える
憧れも ときめきも 静かに溶けてゆく

秋の終わりに  公園で一人
ホットコーヒー  心に沁みる
あの頃も あの人も 風に吹かれてる

さよならの心が 一番星と揺れて
それでも生きている  ポプラの思い出
街の灯りが 遠くでチラチラ

秋の終わりに 歩き出す もう一度
コスモスの咲く 細くまっすぐな道を
あの日から 未来へ
  

<写真 キンモクセイ(金木犀)の花>





 おしまいは、秋の言葉を、じゅんくうが別の言葉に変換した「新・ルナールの言葉」です。
(ジュール・ルナール(1864年~1910年)は、フランスの詩人・作家で、小説「にんじん」や博物誌などが代表作です。感性あふれる短い言葉は、「ルナールの言葉」として有名です。)



○新ルナールの言葉(2)
「秋と夕焼けと金木製」


<コオロギ> 
秋限定のオーケストラ。
どこか淋しい? 
朱夏のリグレット(後悔)


<秋分の日>
暦の上では 暑さもここまで
ここから先は
夕焼けも 急ぎ足


<コスモス(秋桜)>
パステルカラーの花は
草原の星座のように 
やさしく 曖昧で 純情
秋色の風に 揺れている 


<〇〇の秋>
読書 スポーツ 芸術 食欲 ---
秋は 人間たちに つかの間の 
やる気を与えてくれる?
でも 本当の主役は
夏の暑さと 冬の寒さの間の
サンドイッチのような 気候 


<台風>
嫌われ者で 暴れん坊
だけど 通り過ぎたあとに
青空と 澄んだ空気を 残しくれる 


<赤トンボ>
秋は「白秋」というけれど
赤トンボが 秋を連れて来て
紅葉が  秋を彩り
夕焼けが 秋を消してゆく
秋は「紅秋」かもね?


<枯葉>
緑から 黄色や 赤や からし色に
高齢化社会の 縮図
そんな枯葉たちも一瞬だけ 
空に溶け込み スカイダイビング


<金木犀(きんもくせい)>
君が咲くのは ほんの数日だけど
君のやさしい匂いは 心の中で永遠になる
キンモクセイの咲く 通学路こそ青春


<木枯らしと小春日和>
木枯らしが 街を吹き抜けると
人々は 厳しさと淋しさを 思い出す
束の間の 小春日和は
人々に やさしさと暖かさを 思い出させる
だけど もうすぐ クリスマスと年末だよ 
たぶん? 


(もっと「じゅんくう詩集」を読んでみたい皆さんは、ネット検索「じゅんくう詩集」で検索してみてください。)



2017年11月19日日曜日

風の中の龍馬(1)青春を賭けた脱藩 ~坂本龍馬没後150年~

 平成29年11月15日(西暦で正確に数えると、2017年12月10日)、幕末の英雄・坂本龍馬が凶刃に倒れて、ちょうど150年になります。
一方で、「歴史の教科書から龍馬が消えるかも?」というニュースも出ています。

 そこで、龍馬が人生のアゲンスト(逆風)に、どう立ち向かっていったかを中心に、坂本龍馬の生き方を何回かにわけて紹介したいと思います。
1回目は、少年時代から26歳で脱藩するまでの龍馬を紹介します。



 坂本龍馬(さかもとりょうま)は、天保6年11月15日(西暦1836年1月3日)、江戸末期の土佐藩の高知城下(現在の高知県高知市)で生まれました。

龍馬が生まれる前日、お母さんの幸さんが龍が空を飛ぶ夢を見たので、「龍馬」と名付けられたと言われています。

 坂本家は郷士(ごうし)と呼ばれる戦国時代の長曾我部氏の流れを汲む下級武士で、龍馬は、その坂本家第5子・次男として生まれ、兄1人、姉3人の兄弟がいました。

 坂本家の本家は商家で、土佐では豪商として知られていて、龍馬の生まれた下級武士の坂本家も裕福でした。
 龍馬の本家が商人であったことと実家が裕福であったことが、龍馬が制度や武士の形式にとらわれず自由を謳歌できた大きな理由でした。

 子供の頃の龍馬は、楠山塾という漢学の塾に入っていましたが、勉強ができないだけでなく、いじめられっこで、英雄とはほど遠い少年でした。
さらに、塾でいじめられて怒り、刀を抜いて仕返ししょうとしたという疑いをかけられ、塾は退学になりました。

 少年龍馬は、「馬鹿で気の弱い子供」という世間の評判が立ち、人生の逆風を、いきなり全身に受けました。その上、おねしょを12歳までするなど、気が弱く神経質な「ひきこもり」の子供でした。


<写真:ふるさと高知市の桂浜に建つ坂本龍馬像 ~期間限定で龍馬と同じ目線で太平洋を見ることができる展望台が仮設されており「心はいつも太平洋ぜよ」と書かれています~ (高知県高知市)>



 10歳で母・幸さんを亡くした少年龍馬を、「ひきこもりの愚童」という逆風から救ったのは、剣道でした。
 その剣道を最初に龍馬に教えたのは、3番目の姉・坂本乙女(さかもとおとめ)であると言われています。

 乙女姉さんは男勝りで、男なら激動の幕末を自分で暴れまわれるのに、女であるばかりに何もできない自分が不満で、その気持ちを弟の龍馬に託し、学問と剣道を厳しく教えました。

 そのお陰で、龍馬の剣道の腕はめきめき上達し、1848(嘉永元)年、龍馬が12歳の時に入門した、小栗流の日根野道場でも、頭角を現しました。
 当時を知る土居楠五郎という人の記憶では、
「龍馬は、剣道をはじめて、おねしょも泣き虫も一変し、朝から晩まで剣道の稽古に励むようになった。」そうです。

 剣術を始めて5年が経った18歳の時、龍馬は「小栗流の目録」を得るまでになり、1853(嘉永6)年、剣術修行のため、江戸へ行く許可を土佐藩からもらいました。
 江戸時代の藩は閉鎖性が強く、今で言えば一つの「国」のようなもので、藩の許可がなければ藩の外に行くのは許されず、脱藩は犯罪でした。

 そんな時代でしたが、「剣術修行」は、りっぱな江戸へ行く名目でした。
 つまり、剣道が龍馬をりっぱな青年に育て、剣道が「土佐から江戸へ」の道を開いたのでした。

 ただし、江戸時代に高知から江戸に行くのは、命がけのことでした。
 ですから、司馬遼太郎さんの名作「竜馬がゆく」の中では、高知城下から北にある阿波藩(現在の徳島県)との国境に向かって江戸へ旅立つ坂本龍馬に対して、父の八平はこんな歌を贈ったことになっています。

「男児 志をたてて 郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」

(現代語訳: 男子が志(こころざし)を立ててふるさとを出る以上、目的(学問や剣道)を達成できなければ、死んでも帰って来るべきではない。)

 当時、江戸修行は、それほど重く大変なことだったのです。

 江戸に着いた坂本龍馬は、築地にあった土佐藩中屋敷の片隅で寝起きし、千葉周作で有名な北辰一刀流の「桶町千葉道場」(現在の東京都中央区八重洲にあり、千葉周作の弟の千葉定吉が道場主)に通いました。

 龍馬は、「桶町千葉道場」でも剣術の腕を上げ、千葉道場の娘で、後年。自ら龍馬の妻と称した「千葉さな子」とも出逢いました。
 剣道の腕が、若き坂本龍馬の未来と恋を作っていったとも言えると思います。

 また、龍馬が江戸留学を始めたこの1853(嘉永6)年は、アメリカのペリー提督率いる黒船4隻が浦賀に来航した日本史上の大事件が起きた年で、江戸は大騒ぎになりました。

 坂本龍馬も、土佐藩の命令で、品川で異国船から日本を守る警備に駆り出され、「黒船来航」のまっただ中に身を置くことになりました。
 当時の龍馬は単純な攘夷主義者で、「戦(いくさ)になれば、異国(人)の首を討ち取ります」という内容の手紙を、実家に送っています。

 また、この頃の江戸は、剣術や学問を学びに全国の藩から有望な若者が集って来ていて、その中には、高杉晋作や桂小五郎などの後の幕末・維新の英雄たちもいました。
 坂本龍馬は、剣術を通じて彼らとの人脈を作り、江戸で新しい思想や知識を得ることもでき、のちの活躍の礎を築きました。

 一方、長州の吉田松陰は、嘉永7(1854)年3月に、下田で黒船に密航してアメリカへ行こうとしますが失敗し、幕府に捕まってしまい、安政の大獄で処刑されます。


<写真 ペリー来航の絵>



 嘉永7(1854)年6月、龍馬は剣術修行を終えて土佐に帰り、高知の日根野道場の師範代になり、ジョン万次郎からアメリカの話を聞いた河田小龍から、外国の話を聞いたりしています。

 この年、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に東海地方沖を震源とする「安政東海地震」(M8.4と推定)が起き、そのわずか32時間後の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)には、四国沖を震源とする「安政南海地震」(M8.4と推定)が起きました。

 これらは、時間差で起きた「南海トラフを震源とする巨大地震」として有名で、それぞれ数千人の死者が出ています。
 坂本龍馬のいた「高知」でも、推定震度5から6の揺れがあり、津波に襲われました。

 余談ですが、この2つの地震は、「安政の東海地震」、「安政の南海地震」と呼ばれていますが、実際に起きた時の年号は「嘉永」で、この地震の22日後の11月27日に「安政」に改元されています。

 余談の余談ですが、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」では、安政大地震が起きた時、龍馬は江戸にいたことになっていますが、手元にある坂本龍馬研究の1級資料の一つ「坂本龍馬全集」(監修・平尾道雄、編集・解説・宮地佐一郎)によれば、嘉永7(1854)年6月23日に、龍馬は高知に帰って来ています。
 

 地震の起きた翌年、安政2(1855)年12月、父の坂本八平が亡くなり、兄の権平が坂本家を継ぎます。

 兄が坂本家を継いで安心した龍馬は、安政3(1856)年に、再び江戸での剣術修行を藩に申し出て許可され、上京します。

 その後、龍馬は江戸で再び「桶町千葉道場」に入り、今度は塾頭にまでなり、安政5(1858)年には「北辰一刀流」の免許皆伝を伝授されました。

 安政5(1858)年9月、坂本龍馬は2度目の江戸修行を終えて、高知に帰りました。
 この安政5年の4月には、井伊直弼が幕府の大老になり、開国を強行し、反対派を弾圧する「安政の大獄」が始まっています。

 龍馬は、江戸剣道の三大流派の一つ、「北辰一刀流」の塾頭で免許皆伝という腕をもって帰り、高知ではかなり有名な剣術家になりました。

 もし、龍馬が普通の武士なら、ふるさと高知で、剣術の腕をもとに、平和な家族を作り、田舎での普通の幸せをもとめただろうと思います。

 しかし、ここで江戸を見てきた坂本龍馬は、「武士同士の身分差別」という、新しい「逆風(アゲンスト)」を、感じてしまいます。

 この頃の土佐藩は、藩主(のちに家督を子供に譲る)の山内容堂と、参政の吉田東洋が実権を握って、「公武合体」を主張していました。

 土佐藩では、戦国時代に土佐を治めていた長宗我部(ちょうそかべ)家の元家来で郷士(ごうし)と呼ばれる下級武士と、関ヶ原の合戦の勝者として土佐に入った山内(やまのうち)家の家来の上士と呼ばれる上級武士との差別がありました。
 役職はもちろん、着物や履き物、傘をさすことの可否、さらには上士は郷士を「無礼打ち」にできるなどの、差別的な厳しい藩法がありました。

 坂本龍馬は郷士の出身ですが、江戸の新しい風に吹かれてきた龍馬の目には、土佐の差別がこっけいでつまらないものに映りました

 
 龍馬が土佐で矛盾を感じていた安政7(1960)年3月3日、幕府の大老として権力をふるってきた井伊直弼が、江戸城の桜田門の外で、水戸の脱藩浪士らの手で暗殺されるという、幕府の権威を失墜させる大事件が起こります。(桜田門外の変)

 これをきっかけに、江戸幕府の権勢にかげりが見え始め、全国に「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」という、朝廷を敬い(ということは幕府を軽視し)外国人たちを排斥するという思想が広まります。

 土佐でも、龍馬の親戚筋にあたる武市半平太(たけちはんぺいた)らが、文久元(1861)年8月に「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷を土佐藩に広めようとします。

 坂本龍馬も、武市の薦めで「土佐勤王党」の血判書に署名します。
 しかし、「参政の吉田東洋を暗殺して、土佐藩全体の藩論を尊皇攘夷にする。」という武市の過激な思想に対し、「土佐藩にこだわっていては、何も動かんぜよ。人殺しもいかんぜよ。」と考えた坂本龍馬は、藩を抜け出して自由になって日本のために生きる、「脱藩」という道を選びます。

 当時の「脱藩(だっぱん)」は、現在でいう国外逃亡で、江戸時代には多くの人が死罪になったほどの重罪です。
 しかし、坂本龍馬はそれを承知で「脱藩」を決行します。

 文久2(1862)年3月24日、満26歳の坂本龍馬は、沢村惣之丞(さわむら・そうのじょう 1843年~1868年、土佐の浪人の子)とともに、青春のすべてを賭けて、土佐の檮原(ゆすはら 現高知県高岡郡檮原町)から、四万十川沿いの「宮野乃関」の近くを抜け、伊予の国(愛媛県)へ脱藩しました。


<写真 坂本龍馬脱藩の道(高知県高岡郡檮原町)>




 脱藩により、坂本龍馬は「土佐」という、ふるさとを捨てました。
 そのかわり、「日本人として藩に囚われずに生きる」という自由を手に入れました。

 最初の江戸修行の時、お父さんの坂本八平さんが龍馬に贈ってくれた歌を、龍馬は思い出し、くちずさみながら、四国山脈を超えたのだと思います。

「男児 志をたてて 郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」

 
 最後は、坂本龍馬の本物の手紙から、「脱藩をした時の気持ち」を表したのではないかと思われる名言を紹介します。


○「じつに おくにのよふな所にて、何の志ざしもなき所に、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿ものなり。」(慶応元(1865)年9月9日、坂本乙女<姉>、乳母おやべあて 龍馬の手紙より)

○現代語訳:
「お国(土佐)のような所で、何の志(こころざし)もなく、ぐずぐず日を送る者は、本当に大馬鹿者だ。」


 次回(連続かどうかはわかりませんが?)、「風の中の龍馬」の2回目は、脱藩して身分的にも思想的にも自由になった坂本龍馬が、「幕府や権力」という逆風(アゲンスト)に、どう立ち向かったかを紹介します。

2017年11月5日日曜日

平尾昌晃さんを名曲で偲ぶ ~ミヨちゃん、瀬戸の花嫁、走れ風のように~ 

 2017(平成29)年7月21日、作曲家で歌手でもある平尾昌晃さんが、肺炎のため亡くなられました。 今回は、多くの名曲を残された平尾昌晃さんの人生を、歌とともに振り返りたいと思います。


 平尾昌晃(ひらお・まさあき)さんは、太平洋戦争開戦直前の1937(昭和12)年12月24日、東京市牛込(現在の東京都新宿区)で生まれました。
 
 終戦直後の小学3年生の時、平尾少年は、アメリカ軍将校からもらったジャズのLPレコードをもらって衝撃を受け、西洋音楽に興味をもつようになりました。

 11歳の時には、海岸で行われた「のど自慢大会」に飛び入り出場し、ジャズの名曲「奥様お手をどうぞ」を英語で歌って、鐘三つ(合格?)をもらい、賞品としてスイカをもって帰ったというエピソードが残っています。


  若き日の平尾昌晃さんは神奈川県茅ケ崎市に住み、「慶応義塾高校(神奈川県横浜市)」に入学し、歌手の加山雄三さんや俳優の川口浩さん(テレビ朝日系の「水曜スペシャル」の探検隊の川口隊長として有名でした)などと知り合いました。

 また、高校在学中に「日本ジャズ学校」に入り、アメリカ軍キャンプのジャズ・ボーカルの試験にも合格しました。
 その後、高校を中退し、アメリカ軍キャンプやジャズ喫茶を舞台にバンドで活躍しました。

 1957(昭和32)年、平尾さんが19歳の時、ジャズ喫茶「テネシー」で歌っていた昌晃さんは、渡辺プロの渡辺美佐社長と映画監督の井上梅次監督にスカウトされました。

 その後、1957(昭和32)年公開の大ヒット映画「嵐を呼ぶ男」(主演・石原裕次郎さん)に出演し、翌1958(昭和33)年には、キングレコードから「リトル・ダーリン」でソロ・デビューしました。

 まもなく平尾昌晃さんは、ミッキー・カーチスさんや山下敬次郎さんと「ロカビリー三人男」として人気者になりました。

 平尾昌晃さんが歌った曲の中でも特に、1958年発売の「星は何でも知っている」♪(作詞:水島哲、作曲:津々美洋)と、1960年発売の「ミヨちゃん」♪(作詞・作曲 平尾昌晃)は、100万枚を超える大ヒットとなりました。

 そして、1960(昭和35)年暮れの「NHK紅白歌合戦」に、平尾昌晃さんは「ミヨちゃん♪」で初出場し、以後、3年連続で紅白出場を果たしました。

 それでは、平尾昌晃さんが作詞・作曲をし、自ら歌った「ミヨちゃん」の歌詞を紹介します。


♪「ミヨちゃん」(歌・作詞・作曲 平尾昌晃)♪

僕のかわいい ミヨちゃんは
色が白くて ちっちゃくて
前髪たらした かわいい娘
あの娘は 高校二年生

ちっとも美人じゃないけれど
なぜか僕をひきつける
つぶらなひとみに 出会う時
なんにもいえない 僕なのさ

(中略)

いまにみていろ 僕だって
すてきなかわいい恋人を
きっと見つけて みせるから
ミヨちゃん それまでサヨウナラ
サヨウナラ♪


<写真 えぼし岩と富士山(神奈川県茅ケ崎市)>






 1962(昭和37)年頃には、「ロカビリーブーム」が下火になり、平尾昌晃さんは歌手以外にも、俳優をするようになりました。
 しかし、それまでの無理がたたり、肺を悪くしたため、1963(昭和38)年には、慶応病院に入院しました。
 ところが、無断外泊をしたり、東京オリンピック(1964年開催)を見にいったりしたので、病気はよくなりませんでした。


 さらに、1965(昭和40)年2月、平尾昌晃さんは、ハワイから拳銃を不法で持ちかえった罪で逮捕され、22日間、拘留されました。
 このあと、平尾昌晃さんは、茅ケ崎にこもり、皿洗いをしたり、東京オリンピックの売れ残ったグッズを売ったりして生計をたてました。

 運よくその頃から、5年ほど前に平尾さんが作った曲「おもいで♪」が、北海道からブレークしました。それを受けて、本人も歌手にカンバックするつもりになっていました。
 ところが、肺の病気の悪化もあって、結局、平尾さんは自分で歌うことを断念し、布施明さんに「おもいで」を譲りました。

 1966(昭和41)年に、平尾昌晃さっが作曲した「霧の摩周湖」は、布施明さんが歌ってヒットし、1967(昭和42)年の「日本レコード大賞作曲賞」を受賞しました。

 ここから、平尾さんは、本格的に作曲家の道を歩もうとします。

 ところがそんな折も折、1968(昭和43)年3月に、平尾昌晃さんの肺の病気が悪化して結核になり、長野県岡谷市の「岡谷塩嶺(おかや・えんれい)病院」に入院しました。
 そこでは、肋骨6本を取るなど、2回の手術を行いました。

 結局、1969(昭和44)年の暮れまで、2年近く、平尾さんは療養生活を余儀なくされました。
 しかし、平尾昌晃さんは、「この経験が、その後の音楽活動の原点となった」と語っています。


 その言葉どおり、1970年代に入ると、平尾昌晃さんの作曲活動は充実の一途をたどります。
 1971年から1973年に作曲した、主な作品を紹介します。

・1971(昭和46)年 五木ひろしさん「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子さん「私の城下町」
・1972(昭和47)年 小柳ルミ子さん「瀬戸の花嫁」<日本歌謡大賞を受賞>
             天地真理さん「二人の日曜日」
・1973(昭和48)年 アグネス・チャンさん「草原の輝き」
             五木ひろしさん「夜空」<日本レコード大賞受賞>

 平尾さんはほかにも、伊東ゆかりさん、沢田研二さんなど、多くの人気歌手の歌を作曲しました。

 それでは、これらの中から、日本歌謡大賞を受賞し、2017年10月30日の平尾昌晃さんの葬儀でも歌われた、「瀬戸の花嫁♪」の歌詞を紹介します。

 この曲は、「私は嫁にいかずに、歌と結婚します。」という小柳ルミ子さんの言葉に、「それなら、歌の中で嫁に行かせてあげるよ。」と平尾昌晃さんが応え、広島県尾道市から四国へ行く「フェリーの風景」をイメージして、作った曲だと言われています。


♪「瀬戸の花嫁」(作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃、歌・小柳ルミ子)


瀬戸は日暮れて 夕波小波
あなたの島へ お嫁にゆくの
若いと誰もが 心配するけれど
愛があるから 大丈夫なの

だんだん畑と さよならするのよ
幼い弟 行くなと泣いた
男だったら 泣いたりせずに
父さん母さん 大事にしてね♪

<写真:瀬戸内海の夕焼け(広島県尾道市)>




 1974(昭和49)年、平尾昌晃さんは、「平尾昌晃音楽学校(のちの「平尾昌晃ミュージックスクール<HMS>)」を設立し、東京本校のほか、札幌、名古屋、大阪、福岡などにも地方校をおき、若手歌手の育成に力を入れました。
 
 HMSからは、狩人、石野真子、松田聖子、森口博子、倖田來未、後藤真希など、多くの若い人材が育っています。

 また、この学校の生徒の一人だった畑中葉子さんと平尾昌晃さんがデュエットした「カナダからの手紙」が、1978(昭和53)年に大ヒットし、この年の紅白歌合戦に、平尾昌晃さんは16年ぶり4回目の出場を決めています。

 1980年代には、平尾昌晃さんは、NHKの若者向け歌番組「レッツゴーヤング」の司会も務めています。

 ほかにも、香港の歌手だったアグネス・チャンさんが日本デビューをするきっかけを作ったり、テレビドラマの「必殺シリーズ」や「熱中時代」、アニメ「銀河鉄道999」などのテーマ曲も、作曲しています。

 2006(平成18)年から2016(平成28)年までは、NHK紅白歌合戦の最後に歌われる「蛍の光」の指揮も担当されました。

 それでは、1974年以降の主な作曲した作品を紹介します。

・1974(昭和49)年 中条きよしさん「うそ」
             アン・ルイスさん「グッドバイ・マイ・ラブ」
・1977(昭和52)年 山口百恵さん「赤い絆」(ドラマ「赤い」シリーズのテーマ)
             木ノ内みどりさん「走れ風のように」(刑事犬カールのテーマ)
・1978(昭和53)年 平尾昌晃さん・畑中葉子さん「カナダからの手紙」
             原田潤さん「ぼくの先生はフィーバー」(熱中時代のテーマ)
                                      ささきいさおさん「銀河鉄道999」
・1979(昭和54)年 水谷豊さん「カリフォルニア・コネクション」
            (熱中時代・刑事編のテーマ)
・1980(昭和55)年 松田聖子さん「Eighteen」


 1970年代の有名歌手がずらりと並んでいますね。
 この中から、私は、テレビドラマの「刑事犬カール」のテーマ曲「走れ風のように」を紹介したいと思います。

 この曲は、オリコンの最高順位は71位で売れていませんが、松本隆さんの詞と平尾昌晃さんの曲が絶妙で、「生涯青春」と話されていた平尾昌晃さんに、ピッタリの勇気の出る名曲だと思います。
 

♪「走れ風のように」(作詞:松本隆、作曲:平尾昌晃、歌:木之内みどり)♪


朝陽を追って 旅立つ君は何故
石ころの道を選ぶの
かかとがすりきれるまで
走って ゆきなさい
心の奥で何かきっと 弾けるわ
立ち止まる時 青春も終わるの
だからカール 走れ風のように

埃(ほこり)だらけの 坂道を見上げて
君は何故 やすまないの
どうして唇かんで 青空見るのよ
何処へと続く道か 誰も知らないわ
額の汗が 生きてるしるしなの
だからカール 走れ風のように

昨日はもう昔だし 明日はまだ先
大事なことは 今日が二度と来ないこと
立ち止まる時 青春も終わるの
だからカール 走れ風のように
走れ風のように♪


<写真 平尾昌晃さんが療養していた長野県岡谷市と諏訪湖>






 最後は、平尾昌晃さんが、1968(昭和43)年~1969(昭和44)年まで、2年近く、結核の療養のために入院していた長野県岡谷市の「岡谷塩嶺(おかや・えんれい)病院」があった岡谷市と、岡谷市民に、お礼をした話です。

 2014(平成26)年9月、平尾昌晃さんは、岡谷市立岡谷病院の「病院祭」での講演会の講師を引き受け、「私の作曲家人生の原点となった岡谷に恩返しをしたい。」と話しました。

 さらに、翌2015(平成27)年には、「岡谷市看護専門学校」の校歌を、自分で作詞・作曲してプレゼントしました。

 平尾昌晃さんが、思いを込めて作った校歌を、おしまいに紹介します。


♪岡谷市看護専門学校校歌「未来に向かって」(作詞・作曲 平尾昌晃)♪


晴れ渡る青空と 緑あふれる山々
諏訪湖見下ろす ここに集いし友たち
けわしい道も 夢にあふれて
希望の光 看護の道を歩き出す
心ひとつ みんなのために 未来のために
岡谷市看護専門学校

こだまする丘の上 さえずる小鳥のやさしさ
塩嶺の風 命を守る誓いを
水面に浮かぶ 青い輝き
看護のほこり 友と手をとり しなやかに
心ひとつ みんなのために 笑顔のために
岡谷市看護専門学校

凍てつく朝も 芽吹き信じて
学びし我ら 看護の夢に飛び立とう
心ひとつ みんなのために 未来のために
岡谷市看護専門学校♪



2017年10月24日火曜日

アイドルの坂道(11)坂道・AKBのフォロワー数比較 ~病気で卒業する乃木坂・中元日芽香と努力で夢をつかんだ5時半の天使~

 2017(平成29)年10月11日に、乃木坂46の19枚目シングル♪「いつかできるから今日できる」が発売され、85万枚を売り上げ、オリコン初登場1位になりました。

 これで乃木坂46のシングル1位は、2作目から18曲連続1位となりました。
 また1位獲得数18曲は、女性グループでは「モーニング娘」と並ぶ2位、18曲連続1位は単独2位となり、1位の「AKB48」に次ぐ記録となりました。

 では、AKB48グループと坂道(乃木坂46・欅坂46)グループのメンバーの今の人気(人気ナウ)を比較すると、どうなのでしょうか。
 今回の前半は、この比較をやってみます。


 本当は、インスタグラムやブログのフォローワー数で比較したいのですが、実は、乃木坂46・欅坂46などの坂道グループは、グループが運営するブログ以外は、インスタや個人ブログをやっていないので、AKB48グループとの比較は難しいです。

 ところが、前回紹介した無料動画視聴アプリ「ショールーム(SHOWROOM)」には、AKB48グループも坂道グループも、両方が登録していますので比較可能です。
 そこで、「ショールーム」のフォロワー数(平成29年10月22日現在)で、両グループの人気を比較してみたいと思います。


 まず、AKB48グループの上位を紹介します。(兼任の場合の所属は主のグループ)

1位  山本 彩さん (大阪府出身、NMB、総選挙不出馬) 59,010人
2位 指原莉乃さん(大分県出身、HKT、総選挙1位)   57,490人
3位 宮脇咲良さん(鹿児島県出身、HKT、総選挙4位)  56,114人
4位 中井りかさん(富山県出身、NGT[、総選挙23位) 41,026人
5位 柏木由紀さん(鹿児島県出身、AKB、総選挙不出馬)39,878人

 以下10位までは、6位向井地美音さん(AKB)、7位矢吹奈子さん(HKT)、8位渡辺麻友さん(AKB)、9位松井珠理奈さん(SKE)、10位田中美久さん(HKT)の順です。

 2017年選抜総選挙と同じく「AKB本体(東京)」の所属は、兼任を除くと3人だけで、HKT(福岡)が4人、NMB(大阪)、NGT(新潟)、SKE(愛知)が各1人と、AKB48グループの人気は、地方に分散しているのがわかります。
 ちなみに、10位の田中美久さんのフォロワー数は35,185人です。


 続いて、「坂道グループ」の上位を紹介します。
1位   白石麻衣さん(群馬県出身、乃木坂46 1期生)  97,830人
2位 齋藤飛鳥さん(東京都出身、乃木坂46 1期生)  92,439人
3位 西野七瀬さん(大阪f府出身  乃木坂46 1期生)    91,065人
4位 菅井友香さん(東京都出身、欅坂46)       81,244人
5位 与田祐季さん(福岡県出身、乃木坂46 3期生)  80,045人


 以下10位までは、6位平手友梨奈さん(欅坂46)、7位志田愛佳さん(欅坂46)、8位山下美月さん(乃木坂46、3期生)、9位渡邊理佐さん(欅坂46)、10位渡辺梨加さん(欅坂46)となっています。

 坂道グループでは、上位3人は乃木坂46の1期生ですが、上位10人を見ると、乃木坂46が5人(1期生3人、3期生2人)に対し、欅坂46も5人で、乃木坂と欅坂の人気は伯仲しています。
 ちなみに、10位のフォロワー数は、75,462人です。


 両グループのフォロワー数上位10人を見て、何かお気づきになられましたか?

 そう、なんです。
 実は、坂道グループの10位の渡辺梨加さんより、AKB48グループ1位の山本彩さんのフォロワー数の方が、少ないのです。

 2つのグループを併せて、上位から並べてみると、ベスト30位は全部坂道グループ(乃木坂が16人、欅坂が14人)です。
 AKBグループのトップの山本彩さんは全体の33位で、AKBグループ2位で選抜総選挙3連覇の指原莉乃さんは、全体の40位になります。
 しかも、坂道グループの多くのメンバーが、ショールーム配信を1度もしていないか、数回だけの配信です。
 
 これだけを見ると、全体としては、「77人の坂道(46)グループ」が、「333人のAKB48グループ」に、人気で圧勝しているように見えます。

 でもね、一人一人のアイドルは「何の資格もなく人気が頼り」なので、いつも厳しい崖っぷちにあり、それぞれ下り坂(挫折)と上り坂(希望)が交差して、アイドルの坂道は、やさしくもあり、厳しくもあります。

 後半はそんな中から、絶好調「乃木坂46」にいながら病気で夢を諦めたアイドルと、努力で夢をつかんだ「AKB48チーム8のアイドル」の2人を紹介します。

 
<写真 広島の平和公園(夜)>





 写真集やCM、雑誌の表紙にもメンバーが溢れて、今、まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」の乃木坂46ですが、そんな中、2017年8月6日の「広島原爆の日」に、「乃木坂46をまもなく卒業します」と表明したメンバーがいます。

 彼女の名は、広島県出身の乃木坂1期生、中元日芽香(なかもと・ひめか)さん<愛称:ひめたん>です。
 まず、2017(平成29)年10月20日の宮崎市で行われた「乃木坂46 アンダーライブ」での、中元日芽香さんの言葉を紹介します。

「私は病気(病名は公表されていません)で、3年半病院に通いました。
今年の初めには、長期休暇もいただきました。
でも、もう無理だなと思ったから、卒業を決めました。
誰にも相談しませんでした。
『健康より、乃木坂が大事でした。』
必要としてくれる人もたくさんいました。

正直、辛いこともたくさんあったし、この1年は泣きました。
これからの人生は笑っていたいです。
みなさん心配しないでください。ひきとめないでください。
ここにいるメンバーは、体調、学問、恋愛禁止、いろいろ犠牲にしているし、特にアンダーの悩みは尽きません。
そんなメンバーに、みなさんの愛を伝えてあげてください。
応援してくれたみなさん、ありがとうございました。」


中元日芽香さんは、1996(平成8)年4月13日に広島県生まれの21歳です。
小学4年の時、Perfumeの3人やモーニング娘の鮹師里保さんなどの卒業生を生んだ「アクターズスクール広島」に入学しました。

中学では地元アイドルグループで活躍し、2011年8月、中学3年生で乃木坂46の1期生に合格し、上京しました。
乃木坂46では、アンダーメンバーとしての活動が多かったのですが、2016年に初めて2回連続で選抜に選ばれ「これから」という時に、病気で長期休養となり、2017年1月~3月まで活動を休止しました。

その後、2017年3月末に活動を再開しましたが体調は戻らず、8月6日にMCを務めるNHKラジオ「らじらーサンデー」で卒業・引退を発表しました。
卒業の期日は発表されていませんが、この秋のアンダーライブが最後だろうと言われています。

今年の正月に成人式を迎えた時、TV番組「乃木坂工事中」で「成人式の2次会」をやっていた時、他のメンバーに、中元さんが「十代の方が、私は輝いていた気がする。」と言っていたのを、私は鮮明に覚えています。
アイドルとはいえ、21歳は若すぎるし、絶好調・乃木坂の中では淋しすぎる引退ですね。

中元日芽香さん自身が、ブログで「青春のすべてを乃木坂にかけてきた」と書いているように、本当に残念な悲しすぎる引退・卒業だと思います。
その思いを、広島出身の中元日芽香さんが、8月6日の原爆の日の卒業表明に託したような気がしています。

乃木坂ファンの中では超有名ですが、中元日芽香さんには、アピールする武器があります。
「いきますよ。ひめたんビーム。」と言って、顔の前で、両手でVサインを横向きにして、光線を出すようなポーズです。

このポーズの元祖は中元日芽香さんですが、他の乃木坂メンバーやいろんなグループのアイドルたちも「○○ビーム」と言って、まねをしています。

中元日芽香さんの卒業で、「乃木坂46」は文字通りの46人から1人減り45人になってしまいます。
でも、中元日芽香さんは引退しても、「ひめたんビーム」は、アイドル界で「○○ビーム」として、長く語り継いでいってほしいと思います。


もう一つ、中元家の希望の灯を紹介すると、ひめたんには1つ年下の妹がいます。
彼女の名は、中元すす香さんです。
すす香さんは、「BABYMETAL」というアイドルグループのボーカルとして、日本はもちろん、海外でも大活躍しています。

「BABYMETAL」は、アメリカ・イギリス・ドイツなど欧米でワールド・ツアーを行ったり、レディ・ガガやレッド・ホット・チリペッパーズのコンサートに同行・出演したりして海外で大人気です。
全米ヒットチャートで、坂本九さん以来のランクインを果たし、日本でも武道館公演を成功させ、今年の紅白初出場の有力候補ともいわれています。

中元日芽香さんの無念を、妹のすす香さんが、もっともっと大きな花にして、晴らしてほしいものです。


<中元日芽香さんが表紙の「漫画アクション」>






 最後に、前回の「アイドルの坂道(10)」で紹介した<5時半の天使・大西桃香さん>の朗報を紹介します。
 昨年10月から、無料動画配信アプリ「SHOWROOM(シュールーム)」で、毎朝5時半配信を続けているAKB48グループ・チーム8(都道府県代表で構成)の奈良県代表の大西桃香さんが、2017年10月17日に「5時半配信1周年」を向かえ、東京のショールーム・スタジオから記念配信を行いました。

 ファンをスタジオに呼び、大西桃香さんが朝食の「たこ焼き」を作ったりして和気あいあいの雰囲気の中で進みました。
 最後にサプライズがあり、幻冬舎から大西桃香さんの夢だった「ソロ写真集」のオファーがありました。

 大西桃香さんは、
「口に出すのもおこがましかった『写真集』を出していただけるなんて、夢みたいで吐きそうです。」
と、涙ぐんでコメントしていました。

 乃木坂46や欅坂46でも、人気メンバーしか出せない「ソロ写真集」を、チーム8では初めて大西桃香さんが、毎朝の早朝配信の努力で勝ち取ったのは、本当にすばらしいと思います。
 
 このことは、他の埋もれているメンバーにも「努力は報われる」可能性を与えてくれたようで、チーム8のメンバーの中では、「たこ焼き配信」をしたり、待ち受けに大西桃香さんの写真を使ったりして、「大西桃香ブーム」が起きています。
 私も「人生初のアイドル写真集」を。購入しようと思っています。
 大西桃香さん、本当におめでとうございます。


2017年10月21日土曜日

超大型台風21号が選挙列島直撃の恐れ ~台風の備えも投票も早めに~

 台風21号(1721「ラン(LAN)」=アメリカの提案名でマーシャル語で「嵐」の意味)が、超大型で非常に強い勢力で、本州の南海上を北上していて、10月22日から23日にかけて、西日本~東日本に接近し、上陸する恐れもあります。十分な備えをして厳戒してください。


 気象庁の発表では、2017(平成29)年10月21日午後3時現在、台風21号は南大東島の南400kmの北緯20度20分、東経132度00分にあって、時速20kmで北東に進んでいます。
 中心気圧は925ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は50m/sで、「超大型で非常に強い勢力」を保っています。

 22日(日)の午後3時には、高知県室戸岬の南約400kmに達し、22日(日)の夜から23日(月)にかけて、西日本(関西)から東日本(関東)に接近し、上陸する恐れもあります。
 さらに、その後、東北・北海道にも接近・上陸する可能性があります。
 厳重に警戒してください。


 今度の台風は、「超大型で非常に強く」、広い範囲で強い風と大雨が降る恐れがあります。

 台風の大きさは、15m以上の風が吹く強風域の範囲で決まります。
 強風域が500km~800kmのものが「大型の台風」、800km以上のものを「超大型の台風」と呼びます。
 今回の台風21号の強風域は、10月21日午後3時現在、中心から半径950kmの範囲で、超大型です。
 ちなみに、21世紀(2001年~)に発生した台風404個のうち、「超大型の台風」は今回で8個目ですので、「超大型」になる台風は、わずか2%ということになります。

 一方、台風の強さは、中心付近の最大風速(10分間の平均)で決まります。
 風速33m以上44m未満が「強い台風」で、風速44m以上54m未満が「非常に強い台風」、風速54m以上が「猛烈な台風」になります。
 台風21号は、21日午後3時現在、中心付近の最大風速が50mですので、「非常に強い台風」ということになります。

 さらに、日本本土の南の「台風21号」との間の太平洋上には、前線が東西にありますので台風から離れていても大雨が降る可能性があります。

 まとめると、強い風雨が、広い範囲(台風から離れていても)で、吹いたり降ったりする可能性が高いので、できるだけ早くから、台風に対する備えが必要です。


<台風21号(10月21日15時現在) 気象庁HPより>




 ここからは、以前紹介した「大雨・洪水・避難の情報」を、台風接近前に、もう1度、わかりやすく紹介します。

 まず、大雨についての気象情報には、基本的には「大雨注意報」「大雨警報」、そして「大雨特別警報」の3つがあります。
 大雨注意報は、「大雨による災害(浸水や土砂災害など)が起こる可能性があることを知らせ、災害への準備や情報取得などに注意するよう呼びかけるもの」です。

 一方、「大雨警報」は、「重大な災害が起こることを警告するもの」で、自治体の避難情報に合わせての避難や、住宅でとどまる場合でもより安全な場所(2階や崖から離れた部屋)でいるなど、大雨災害への警戒を呼びかけるものです。

 「大雨注意報」や「大雨警報」の発表基準は、浸水災害については「その場所及び流域の1時間または3時間の雨量」、土砂災害については「地面にどれぐらいの雨量が含まれているか(土壌雨量指数)」です。

 ちょっと難しい数値ですので、東京都千代田区を例にして思い切って簡単に言うと、「大雨警報」は、1時間34mm以上の大雨が予想される時か、「累積雨量-時間数(h)×2」が180mmを超えた時に発表されます。

 この「大雨警報」より、さらに危険度が高まり、数十年に1度の大雨が予想される時に出されるのが「大雨特別警報」です。
 これは、その地域にいる人に、ただちに命を守る行動をとるように呼びかけるものです。


<「大雨関係の気象情報の活用例」気象庁HPより>



 「大雨注意報」「大雨警報」「大雨特別警報」を補完する情報として、気象庁が発表するのが、1時間100mm以上の猛烈な雨が降った場合(雨量計のない所ではレーダー解析などで推定)に出されるのが、「記録的短時間大雨情報」です。

 最近は、この情報が非常に多くなっていて、豪雨の頻度が増えています。十分な注意が必要です。

 また、ある地域の「土砂災害(がけ崩れなど)」の危険性が増し、ただちに避難する必要がある場合に、気象庁と都道府県などから共同で出されるのが「土砂災害警戒情報」です。


 ここまでをまとめると、大雨情報の危険度ランクでは、低い方から高い方へ「(1)大雨注意報→(2)大雨警報→(3)記録的短時間大雨情報・土砂災害警戒情報→(4)大雨特別警報」ということになります。

 特に、(3)及び(4)は「スーパー警報」と言ってもいい情報で、この場合は、全力で身を守る行動(避難が基本ですが、浸水などがあれば自宅の安全な場所でいることも選択枝です)が必要です。


 もう一つ、「竜巻注意情報」は、雷雨警報が出ている時に、竜巻の恐れが高まった時に出されるもので、有効期間はおよそ1時間で、その後も継続される場合は、何度も出されます。


 
一方、気象庁が単独で発表する「洪水警報」とは別に、川の増水やはん濫などに対する水防活動や住民の避難行動の参考となるように、「気象庁と、国土交通省または都道府県の機関」とが共同して、「あらかじめ指定した河川」について、洪水の予報を行うのが、「指定河川洪水予報」です。

  危険度の高い方から順に、
・「レベル5 はん濫発生情報(洪水が発生している状態)」、
・「レベル4 はん濫危険情報(はん濫が発生する危険が差し迫っている状態)、
・「レベル3 はん濫警戒情報」、
・「レベル2 はん濫注意情報」、
・「レベル1 水防団待機水位」
があります。

 ここでも、レベル4になると「ただちに避難が必要」ですが、すでにはん濫しているレベル5の場合には、避難ルートが浸水しているかどうかを見て、より安全な行動をとることが必要です。(自宅の2階以上にいる方が安全な場合もあります。)


 さらに、避難の必要性を、市区町村などの自治体が住民に呼びかけるのが、「避難情報」で3種類あります。

 まず、「避難準備情報」は、文字通り避難準備をするようにとの情報ですが、お年寄りや子供など自分だけで避難出来ない人がいる場合は、この段階での避難が必要です。(2016年、岩手県のグループホームで避難が遅れ多くの犠牲者が出たことを思い出してください。)

 次に「避難勧告」は、危険が迫っているので避難をするように呼びかけるものです。
 さらに、明白な危機が迫ったときに出されるのが「避難指示」です。

 ただし、避難情報は市区町村長の判断で出すので、最近は、行政の出し遅れの責任回避のために「○○市全域に避難指示」という場合も多く、自分のいる場所がどのようになったら避難するのかは、普段から各家庭や職場で、ハザードマップや過去の水害の例などを参考に、考えておき自主避難の基準を考えることも重要です。


 気象庁は、最近発生した多くの重大災害や、競争相手である民間気象会社が出来た危機感から、たくさんの気象情報を出してくれています。
 しかし、問題は、これらの情報を適切私たちが取得し、その情報をうまく活用できるかどうかです。


 防災気象情報を、スマホやテレビ・ラジオ、防災無線などで収集し、台風21号の接近に厳戒してください。
 また、3日分の水や食糧、懐中電灯なども事前に用意して「台風に備え」てください。
 

<衆議院総選挙のポスター>
 



 最後に、10月22日は「衆議院議員総選挙」です。 選挙結果は「無風か嵐か」は、わかりませんが、その前に本物の台風の嵐が、日本列島を直撃しそうですね。

 選挙に行くのは大切ですが、台風の進路や風雨の強まる時間帯を調べて、「期日前投票」の活用も含め、安全な投票に努めましょう。
(本土の人は、22日なら午前中が午後よりも、比較的安全かも?)

2017年10月9日月曜日

奇跡の運動会と悲劇の体育祭 ~フォークダンスは夢の中~

小学校の運動会
君は1等 僕はびり
泣きたい気持ちでゴール・イン
そのまま家まで 駆けたっけ♪
(♪「おさななじみ」♪より 作詞:永六輔、作曲:中村八大)

 運動会というと、私はこの歌を思い出します。
 本当によくできていますね。

 この歌詞に共感できるほど、私の小学校低学年の頃は、かけっこ(ランニング)が苦手で、運動会の
練習から、ずっーと最下位でした。

 今回は、本当にあった「奇跡の運動会」と「悲劇の体育祭」を中心に、秋の風物詩「運動会・体育祭」の話をします。


<運動会の定番 万国旗>


 まず、小学校で本当にあった「奇跡の運動会」の話です。

 今はほとんどなくなったそうですが、その頃の小学校では、運動会のかけっこの上位入賞者に賞品がありました。3位は鉛筆1本、2位はノート1冊、そして1位は鉛筆とノートでした。

 しかし、予行練習も含め、万年ビリの私には、そんな賞品は夢のまた夢でした。
だから、私はかけっこが大嫌いでした。

そんな私が向かえた、小学校2年生の秋の運動会でした。
私のかけっこの番がきました。

「よーい・ドン」
ピストルの音で、6人が一斉にスタートしました。

シャア シャア シャア シャア
予想通り、上位の児童たちがすごい速さで走り出していきます。

ドカ ドカ ドカ ドカ
私はスタート直後から、どんどん離されていきました。
前5人、ずーと後ろに私1人の、隊形でした。

家族や親戚などの大観衆の中、恥ずかしくて
私は、「このまま家まで、帰りたい」気持ちでした。
前もむけず、うつむいて走りました。

その時です。
「おおぅ、キャッー。」
運動場全体が、どよめきに包まれました。

異様な雰囲気を感じて、私は顔を上げました。
「あっ。」
私も驚きました。

なんと、はるか前を走っていた5人が、
激しいデットヒートでからんで、全員が転んでいたのです。

「チャンスだ」
とっさにそう感じた私は、
ありったけのスピードで走りました。

5人から遠く離れていたのが幸いし、
私は、クルリと5人が倒れていた場所を迂回し、
ゴールを目指しました。

会場が笑いにつつまれました。
でも、かまわず私は白いテープをめざします。

その時、ワッーという歓声とともに、
ドッドッドッドッという音がして、
優勝候補の生徒Aが、起き上がり、猛然と私に迫ってきました。

「逃げろ。逃げるんだ。」
私は、全力でゴールを目指しました。
生徒Aも、まるでチーターのように、迫ってきました。

オウー、どちらも頑張れ。
そんな歓声の中、
二人はほとんど差なく、ゴールに到着しました。

一瞬の沈黙のあと、
「はい、1等。」
と、先生は私のところに、「1等」と書いたカードを渡してくれました。

「ヤッター。」
私が見上げた秋の青空は、涙でにぼやけていました。
パチパチパチ
会場は「運動会の奇跡」に、大きな拍手でつつまれていました。

この出来事で自信がつき、体が大きくなった私は、小学校の高学年では、リレーでごぼう抜きするほど、早くなりました。


<かけっこ(ランニング)のゴール>





「運動会・体育祭」は、かつては「秋の行事」の代表格でしたが、最近は春に開催することが多くなっています。(2016年のNHK調査では66%の学校が春開催です。) それでも、今も「体育の日」は10月第2月曜日だし、まだまだ秋に開催される「運動会・体育祭」も多いようです。

 「体育の日」は、1964(昭和39)年10月10日に「東京オリンピック」の開会式が行われたことに由来し、「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」ことを目的に、1966(昭和41)年に定められました。

「体育の日」が決められた1966年から1999年までは、「10月10日」が体育の日でした。
ところが、2000(平成12)年に「ハッピーマンデー制度」が出来て、10月の第2月曜日が「体育の日」になりました。(2017年の「体育の日」は、10月9日です。)


 日本初の「運動会・体育祭」は、今から143年前の1874(明治7)年3月21日、広島県呉市の江田島にある「海軍兵学寮」で開催された「熱闘遊戯会」であるといわれています。

 「国威発揚」「富国強兵」「健康増進」などを目的に、明治時代から昭和にかけて全国に普及した「体育祭・運動会」は、近代日本独特の体育行事と言われています。

 戦後の高度成長期までは、学校以外の「地域」や「職場」でも、「コミュニケーションの醸成」や「団結」などを目的に、運動会・体育祭が多く開催されていましたが、地域や職場の一体感が崩壊しつつある現在では、学校以外の運動会・体育祭は激減しています。(ちなみに、アイドルグループのAKB48グループでは、大運動会を開催しています。)


 ここからは、「悲劇の体育祭」の話をします。

 それは、学校を卒業して、職場で行われていた「体育祭」での話です。

 出場予定のなかった私のところへ、日ごろからお世話になった先輩が来て、言いました。
「実は800m走に出る予定の人が、突然、出られなくなったんだ。代わりに出てくれませんか。」

(エッー)、私は内心そう思いましたが、先輩の依頼を断り切れず、仕方なく出ることにしました。
 
 中距離は走ったことはありませんでしたが、小学校の高学年から中学ぐらいまでは早かったので、少しは自信もありました。

パーン。
ピストルの音で、中距離らしく、ゆるーくスタートしたレースは、1周目は私が2位でした。
「がんばれ」
「まかせて」
観客席にいた好きな人に、手を振る余裕すらありました。

ところが、2周目に入った頃、突然、私の体に衝撃が走りました。
ガクッ。
体の中で、そんな音が聞こえ、何かが壊れ、足が重く動かなくなりました。

2位だった私は、必死で走りましたが、どんどん、ほかの人に抜かれ、とうとう最下位になりました。
それでも、私は必死で走り(といってもほとんど歩いたような状態で)、なんとかゴール・インしました。

ゴールしても、すごく、しんどい状態が続きました。
「しばらく、休めば大丈夫。(でも、無様な姿を見せてしまって、恋は終わりだ。)」
私は、そう思ってベンチで休んでいましたが、なかなか回復しませんでした。

結局、友人の車で、私は病院の救急に運ばれました。
「大丈夫です。」
と、私は言いましたが、点滴を受け血液検査をし、熱が39度もあったので、念のため、入院することになりました。

その後、ドクターは深刻な顔で言いました。
「肝機能の数値を示す、GOT、GPTが、500、1000もあります。急性肝炎で命の危険もありますよ。絶対安静。最低、半年は入院です。」

 私は、目の前が真っ暗になりました。
 それほどしんどくはなかったので、大丈夫と言いましたが、誰もきいてくれず、内科の肝臓ガンなどの重症患者がいる4人部屋に入院しました。
 まさに、「悲劇の体育祭」になりました。

 幸い、1週間で肝機能のGOT、GPTの値は、平常の二ケタになりました。
 先生は、
「ごめん。私の誤診でした。『横紋筋融解(おうもんきんゆうかい)』という、大事故の時などにある筋肉が溶ける状態だったようね。」

 あとで考えれば、前日は徹夜で、ダイエットの怪しい薬を飲んでいた上、中距離走の配分ができずに、
無理してゴールまで走ったことが原因だったようです。

 その後、私は2週間で退院しました。
 同じ病室にいた3人のうち、2人は2か月以内に亡くなったことを考えると、九死に一生を得たようです。


<高校体育祭のフォークダンス>





 最後は、高校体育祭の甘酸っぱい思い出、「フォークダンス」と、名曲「オクラホマミクサー」の話です。

 高校の時、他のクラスに憧れの人がいました。
 もちろん、話すこともできず、朝夕の通学時間に遠くから見ているだけでしたが、高校3年の体育祭のフォークダンスで、手をつなげるチャンスに期待していました。

 グランドの隅で順番を待っていると、フォークダンスの定番曲、「オクラホマミクサー♪」が流れてきました。1年生が踊っています。

♪タラ ララララ タラララ タッタ タララ タッタッタ タラッタッタ タラッタ♪

 私は、ワクワクとドキドキが止まらない状態で、次の2年生のダンスを見ていました。


 「オクラホマミクサー (Oklahoma Mixer)」 は、日本で広く知られてフォークダンスですが、曲のタイトルではなく、本当はダンスの名前です。
 「ミクサー」とは、複数の男女が相手を変えながら踊るスタイルで、このことがドキドキ・ワクワクの原因ですね。

 このダンスで使われる本当の曲名は「♪藁の中の七面鳥」(Turkey in the Straw)です。

 日本には、終戦の翌年、1946(昭和21)年にアメリカ軍の長崎軍政府教官だったウインフィールド・ニプロが、初めて伝えたと言われています。

 その後、多くの学校やテレビなどで使われ、最近も携帯電話会社の人気CMで、「みんながみんな英雄」という曲として紹介され、人気になりました。


 結局、私の「オクラホマ・ミクサー」は、憧れの人と踊る順番が来ることなく終わってしまいました。
 でも、この曲を聞くと、「青春の甘酸っぱい恋」を思い出して、今でも胸の奥が熱くなります。


 おしまいに、「オクラホマミクサー」の曲に乗せて青春時代の思い出を回想して作った詩を紹介します。


~詩「フォークダンスは夢の中」~


あの頃の風 あの人の声
今も心は 震えてる

桜散る春 紅葉舞う秋
フォークダンスは 夢の中

ため息と 憧れ
ときめきと 青空

ステップ 踏むグランド
君の香りが 残ってた


思い出の風 未来への声
今日も  命は震えてる

汗光る夏 小雪降る冬
フォークダンスは 夢の中

友情と ライバル
情熱と 諦め

クロスする 手と手に
君のぬくもり 残ってた


セピア色した 遠いあの頃
時は 止まったままだけど

桜舞う春 紅葉散る秋
フォークダンスは 夢の中

一瞬と 永遠
どん底と 坂道

握手した手 おじぎした髪
君の記憶は 夢の中

(「じゅんくう詩集」より)

2017年10月4日水曜日

名月や やがて淋しき 虫の声 4Kテレビ 夢のまた夢

 2017(平成29)年の「中秋の名月」は、10月4日(水)です。
 しかし、国立天文台によると、本当の満月は、10月6日(金)の3時40分だそうです。

 中秋の名月の夜は、秋の美しい月を見ながら、収穫に感謝し、お団子やすすき、お芋などを供えたいですね。(できれば、月見酒も)
 今年は、お団子を自分で作れないので、「平成のお月見」らしく、コンビニで「お月様とうさぎ」(写真)の和菓子を買って食べます。(笑)


 ここで、名月の名句をいくつか紹介します。月を見ながら、声に出してみてください。

「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」 
 松尾芭蕉(1644年~1694年 江戸初期・現在の三重県生まれ)

「名月や 今宵に死ぬる 秋の蚊か」
 正岡子規(1867年~1902年 明治時代・現在の愛媛県生まれ)

「なかなかに ひとりあればぞ 月を友」
 与謝蕪村(1716年~1784年 江戸中期・現在の大阪府生まれ)

「おとなりも 寝たらしい月 澄むほどに」
 種田山頭火(1882年~1940年 明治~昭和・山口県防府市生まれ)


<和菓子「お月様とうさぎ」(セブン・イレブン)>





 名月は美しいけれど、その寿命は1日か、せいぜい2日ですね、
 そこで、少し儚い(?)実話を紹介します。

 この前の日曜日、中学生の男の子とお父さんが、一緒に大型テレビを見に、家電店に行きました。

 実は、この親子の家のテレビは、「世界の亀山モデル」と書かれた、かつては最先端の32型テレビでしたが、今は、作ったシャープの勢いがなくなり、購入から10年も経ってすっかり老朽化しています。

 子供は「もっと大きなテレビでないと恥ずかしい。」と言い、テレビ自体も6チャンネルと8チャンネルが映りにくくなっていました。

 このお父さんは一人で働いていて、しかもこの夏は、1ケ月も入院したこともあり、家族、特に中学生の将来に不安を感じて、ぜいたく品はなかなか買いたくありませんでした。

 でも、子供の「恥ずかしい」という言葉に負け、「フルハイビジョンから4Kへ流行が移り、フルハイビジョンなら買い時」と自分に言い聞かせて、大型家電店に中学生を連れて行きました。

「40型のハイビジョンなら、大きくてお得だ。」と、お父さんは息子に胸を張って、「これを買おう」と言いました。

 ところが、喜んでくれると思った子供は、急に暗い顔になって、何やら自宅にいるお母さんに電話をしました。
「お父さん、4Kのもっと大きなテレビじゃなきゃ、ダメだって、お母さんが言っているよ。」

 そう言うと、中学生は、一桁値段の違う、4Kの大きなテレビの前から動かなくなりました。
「安い方でいいじゃないか。」
とお父さんは言いますが、中学生は首を縦にふりません。

「これは、高いからやめようか。」
 そう言えば、高いテレビはあきらめて、ハイビジョンテレビにしてくれると思ったお父さんでした。

 ところが、子供はもう一度、母親に電話して言いました。
「この安いのなら、やめて帰って来いと、お母さんが言ってるよ。」

お父さんは、後にはひけず、
「じゃあ、やめよう。」
と言って、肩を落として帰宅するしかありませんでした。

 自宅に帰って、お父さんは、「世界の亀山モデル」のロゴのある古いテレビを撫でながら、独り言を言いました。
「マイホームも、大手住宅会社の高い家を買って、まだローンが残っているのに。
4Kテレビは欲しいけど、夢のまた夢だ。
少しは、病気をおして一人で働いている俺の気持ちもわかってくれよ。」

 実は、今回のお父さんのテレビの購入資金は、自分が入院したことで、最近下りた保険金を充てるつもりでした。
 お父さんは、一人、淋しく窓際でため息をつきました。


<「世界の亀山モデル」と書かれた古いテレビ>




 この話を聞いた私は、なんかお父さんがあわれで、庭へ出て月を見上げながら、まぶたが熱くなりました。
 その時、草むらから虫の声がしてきました。

 リーン、リーン、
 リーン、リーン。

 突然ですが、ここで問題です。
 この鳴き声の主は、何の虫でしょうか??

 一番、多い答えはスズムシだと思います。
 確かにスズムシは、リーンリーンと鳴きますが、私の聴覚では、コオロギもリンリンと鳴くと感じています。


 最近のテレビやネット放送で、出演者の二十歳前後の若者たちが、真剣に
「コオロギは鳴かないよ。」とか、
「コロコロと鳴くんだよ。」とか言っていましたが、
 実はコオロギは、左右の羽をこすりあわせて音を出します。(鳴きます)

 何と聞こえるかは諸説ありますが、私はリンリンが一番近いと思います。

 もう少しコオロギの話をすると、暑くなるとコオロギの羽の動きは活発になり、音が高くなります。
 逆に気温が低くなると羽の動きが鈍くなり、音が低くなります。

 気温がどんどん低くなり、15 度を下回るとほとんど鳴かなくなってしまいます。
 ですから、秋が深くなると、コオロギは夜は鳴かなくなり昼間だけ鳴くようになります。
 しかも、なんと、コオロギが鳴く回数で気温がわかるという説もあります。

 その計算式は、
 <(コオロギが15秒間で鳴く回数+8)×5÷9=気温> だそうです。
 1度、やってみたいですね。

 ちなみに、日本とポリネシア以外のほとんどの国では、虫の声は「雑音」とされているそうです。
 その理由は、日本人は、虫の声を右脳で「言語」として認識するのに対して、欧米などの外国人は、虫の声を左脳で認識し、雑音としてとらえるそうです。


<コオロギの写真>





 最後は、小学校の頃に習った、なつかしい文部省唱歌「虫のこえ♪」を紹介します。

 ちなみにちなみに、この歌の2番の歌い出しで「キリキリ キリキリ キリギリス」という歌詞がありますが、キリギリスは、日本の古文では、コオロギのことをさします。
 ですから、最近は、2番の歌い出しは、「キリキリ キリキリ コオロギや」が多いそうです。

 でも、私的には、コオロギは「キリキリ」とは鳴かないと思っていますし、キリギリスの方が韻を踏んでいていいと思います。

 それでは、唱歌「虫のこえ♪」の歌詞を紹介します。
 鳴き声に注目してみてください。


♪「虫のこえ」(文部省唱歌 1910年)♪


あれ マツムシが鳴いている
チンチロ チンチロ チンチロリン
あれ スズムシも鳴き出した
リンリン リンリン リインリン
秋の夜長を 鳴きとおす
ああおもしろい 虫の声

きりきりきりきり キリギリス(コオロギや)
がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
あとからウマオイ 追いついて
ちょんちょん ちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を 鳴きとおす
ああおもしろい 虫の声



名月や やがて淋しき 虫の声 4Kテレビ 夢のまた夢(自作)

2017年9月26日火曜日

北朝鮮のミサイル危機から命を守る備えと「平和への名言」  

 2017(平成29)年8月29日と9月15日、北朝鮮のミサイルが2回に渡って、北海道上空を通過しました。「もし、日本にミサイルが落ちてきたらどうすればいいのか。」
 日本中で聞かれる「不安な声」、危機感があります。

 一方で、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が、「ロケットマン」とか「老いぼれじじい」などと、互いに誹謗中傷合戦をしています。
 日本で「空襲、戦争」という文字が、太平洋戦争が終わった1945(昭和20)年以来、72年ぶりに現実味を帯びています。

 今回は、北朝鮮のミサイル危機から命を守る方法について、考えてみたいと思います。

<写真 Jアラートなどの情報を住民に知らせる防災無線>





 まず、弾道ミサイルが日本に飛来する可能性のあることを、政府が国民に知らせる「全国瞬時警報システム(Jアラート)」や、テレビ・ラジオ・携帯電話・スマホなどを活用した避難方法について考えてみたいと思います。

 政府や危機管理の専門家などが示す、「Jアラート等を通じて弾道ミサイル発射に係る緊急情報が発信された場合」の対応については、3つの場合に分けて説明すると次のとおりです。


(1)児童・生徒等が登校前、会社員等の出社前、自営業や主婦が自宅にいる場合
→<自宅待機>が原則

(2)児童・生徒等が登下校中、会社員や自営業・主婦などが外出中の場合
→<近くの建物等に避難>が原則

(3)児童・生徒等や会社員などが学校・職場等にいる場合
→<学校や職場に待機>が原則
とされています。


 次に、Jアラート・テレビ・ラジオ・携帯電話・スマホ等を活用した緊急情報が発信された場合の行動例は次のとおりです。

(ア)屋外にいる場合は、建物や地下街などに避難する。
(イ)建物がない場合は、物陰に身を隠すか、地面に伏せて頭部を守る。
(ウ)屋内では、窓から離れるか、窓のない部屋に移動する。


 何だか、太平洋戦争中の「空襲警報」と同じで、頼りないですね。 でも、北朝鮮からロケットが発射されて十数分で日本上空に飛来するし、Jアラート等で発信されてからは数分でミサイルが来るとしたら、これぐらいが精一杯だと思います。
(防空壕があっただけ、太平洋戦争中の方がまだましかもわかりませんね。)


 もう少し国の情報を追加します。

 文部科学省は、北朝鮮のミサイルが今年2度目に日本上空を通過した平成29年9月15日に、全国の学校や教育委員会などに、Jアラートの文言の一部を変更したことを通知しました。

 その主な内容は、日本の領土・領海に落下する可能性があると判断した時は、
「頑丈な建物や地下に避難してください」を、「建物の中、又は地下に避難してください。」に変更したことが1点です。

 もう1点は、日本の領土・領海の上空を通過した場合は、
「ミサイル通過。ミサイル通過。先程、この地域の上空を通過した模様です。」を、
「ミサイル通過。ミサイル通過。先程のミサイルは、○○地方から○○へ通過した模様です。」に
変更したことです。

 この変更点って、「頑丈でなくても、とにかく建物に避難しろ。」と、「どこを飛んだか、後で情報を追加する。」ということですよね。

 ミサイル攻撃(核兵器を含む)等の場合についての避難の有効性については、1977(昭和52)年に、アメリカ国防省とエネルギー省がまとめた「広島への原爆投下(1945年8月6日)、20日後の平均半数生存距離」という資料があります。

 ケース別に、爆心地からどれだけ離れたところにいれば「20日後に半数の人が生存していたか」という距離を数字化したものです。

 それによると、全体では1.2kmですが、コンクリートのビルではわずか0.19km(つまり190m)離れていれば半数が生存しています。
 また、学校の校舎内では、0.72km(720m)離れれば半数が20日以上生存したのに対し、校舎外(野外)にいた人たちは、2.08km離れていないと半数が生存していません。

 これらのデータは、ミサイル攻撃(核を含む?)に対して、「野外より室内が安全、できればコンクリートの建物がより安全」という根拠にはなると思います。
 避難場所の参考にはなりますね。

 ただし、「比較的安全」ということだけで、ミサイルの直接攻撃を避けることはできませんし、広島原爆の例も、あくまで20日間の生存が半数できたというだけで、それ以降の保証があるわけではありません。


<日本のミサイル防衛体制(「防衛白書」より)>





 前半では、「野外より室内が生存率は高いけれど、ミサイルが日本に着弾する時、あるいは着弾したあとに国民が身を守るのは、相当難しい。」という説明をしました。

 それでは、着弾する前に打ち落とすことは可能でしょうか?。
 ここからは、日本のミサイル防衛能力を中心に考えてみましょう。


 日本のミサイル防衛態勢は、上記の絵図のように、基本的に2段構えです。

 まず、北朝鮮からのミサイル発射を、レーダー等で捉えると瞬時に軌道を計算し、日本に着弾する恐れが高い時は、まず「イージス艦から迎撃ミサイル」を発射します。

 これが失敗、または間に合わない場合には、第2段として陸上のパトリオット(PAC-3)から迎撃ミサイルを発射します。

 しかし、これで100%防衛できるかというと、疑問があります。
 
 北朝鮮から日本へ届くミサイルの数については、諸説ありますが、アメリカや韓国の軍事研究機関の資料では、最近、問題になっている大陸間弾道ミサイル(ICBM、火星12号や14号)を別にしても、射程1000km前後の「スカッドミサイル」が約800基、射程1300km前後の「ノドンミサイル」も約300基と、この両者だけで1,100基もあります。

 対する日本の第1次ミサイル防衛を担う「イージス艦」は、海上自衛隊が保有するものは6隻で、アメリカ軍の所有する9隻を含めても、わずか15隻です。

 一方、第2次ミサイル防衛(最後の砦)を担う陸上のパトリオット(PACー3)も32基しかない上、2基がペアで動くため、事実上は16カ所しか配備できません。
 しかも、パトリオットの守備範囲は、わずか15km~20kmの範囲と言われています。

 そもそも「ミサイルをミサイルで迎撃できるのかどうか」については、軍事評論家の間でも意見の分かれるところです。

 そのことは別にしても、<1100基VS(15隻《6隻》+16カ所)>という数字を見ると、ミサイル攻撃を完全に防ぐことは、非常に難しいと言わざるを得ないと思います。



<日本の平和の象徴の1っ「広島平和公園」>






 ここまで、現状では「日本は完全に北朝鮮のミサイル攻撃を防げない」ということを説明しましたが、
私は「日本のミサイル防衛態勢が不十分である。もっと防衛予算を。」と言っているのではありません。

 今の日本の防衛費は5兆円以上と言われていますが、防衛費をいくら増やしても「完璧な防衛」にはならないし、戦争を防ぐこともできません。

 ある国のトップが、「対話よりも圧力」と言いましたが、戦争を防ぐのは「軍備」や「圧力」ではなく、平和を願う「対話」と「外交」でなければならないと思います。


 戦前の日本が、外国からの圧力(アメリカ、イギリス、中国、オランダのいわゆるABCD包囲網による経済制裁・経済封鎖)によって、太平洋戦争開戦に踏み切ったことを思い出してください。

 そして、もう1度、日本国憲法の前文を読み返してください。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
(日本国憲法前文より)


 最後に、「平和への名言」をいくつか紹介します。

○「中国や韓国と共に北東アジアの安定化の将来について話し合い、いま何をしなければならないか考えなければ、北朝鮮問題は解決しない。(この時期の)解散については、理解できない。」
<元衆議院議長・外務大臣・自民党総裁 河野洋平氏(1937年~ 神奈川県生まれ)>


○「
戦争とヘイトスピーチは切り離すことのできない要素です。トランプ大統領は本当に危ない。
建国以来、戦争にまみれてきたアメリカから見れば、日本の憲法9条は希望の光。
70年以上も戦争をしていない記録を、みなさんで守り抜いてほしいです。」
<元アメリカ海兵隊員 ロリー・ファニングさん>

○「平和は力では保たれない。平和はただ分かりあうことで、達成できるのだ。」
Peace cannot be kept by force; it can only be achieved by understanding.
<ノーベル物理学賞受賞者 アルベルト・アインシュタイン (1879年~1955年 ドイツ生まれ)>


○「みんな平和について語るけど、誰もそれを平和的な方法でやっていない。」
Everybody’s talking about peace, but nobody does anything about it in a peaceful way.
<歌手(ビートルズのメンバー) ジョン・レノン(1940年~1980年 イギリス生まれ)>



 戦後72年間がそうであったように、国民の「安全と財産」を平和的に守る日本で、あり続けてほしいと思います。


 

2017年9月20日水曜日

アイドルの坂道(10)チーム8と、父の死を胸に毎朝5時半発信するショールーム女王・大西桃香さん

 まず、47都道府県の代表で作られた「AKB48・チーム8」のアイドルの一人で、奈良県代表の大西桃香さんのスピーチを紹介します。
「私は母子家庭です。
(AKB48)チーム8に入った年の私の誕生日が、父の葬式になりました。
 正直、AKBを辞めようと思いました。
 でも、父の携帯から、私がテレビに出ていた時の写真やムービーが出てきて『むちゃかわいい』と言って応援してくれていたことを知り、続けることにしました。」

 今回は、ただでさえ不安定なアイドルという仕事を選んだ大西桃香さんの努力と、大西さんが所属する「チーム8」について紹介します。


<大西桃香さんがモデルの甲子園奈良県代表の応援ポスター>





 大西桃香(おおにし・ももか)さんは、1997(平成9)年9月20日に奈良県で生まれました。
 AKB48にチーム8ができた2014年4月3日から、現在まで在籍している初期メンバーの1人です。

 冒頭の紹介した彼女のスピーチのとおり、2014年9月20日、彼女の17歳の誕生日が、お父さんの告別式になりました。本当に辛かったでしょうね。

 チーム8の中で、最初の頃は、大西桃香さんは、あまり注目されないメンバーでした。

 ところが、「ショールーム(SHOWROOM)」という(株)ディー・エヌ・エー(DeNA)が運営する視聴無料のネットやスマホの動画配信サービスを使い、2016年10月13日から毎日、早朝(基本5時30分スタート)に、心温まる配信をして、話題になりました。

 彼女の人柄の良さを、彼女の「ショールム配信」から少し紹介します。

(1)朝の定例の5時30分に起きられなかった時は、涙を流して謝りました。

(2)実は、朝が苦手であることをカミングアウトした大西桃香さんは、自分のスマホのめざまし機能を、5分おきに数十回セットしていることを視聴者に見せました。(早起きは努力なのですね。)

(3)握手会の握手券は安くないから、ファンの名前を間違うと失礼にあたるので、絶対、当てづっぽうで名前を呼べない。できれば、名札をつけてきて欲しいとお願いしていました。

(4)メンバーの誕生日プレゼントを忘れた時に、「忘れてしまってゴメン。次に会うときに買って来るので許して。」と正直に告白しました。


 早朝はすっぴんで出る容姿も、結構かわいいけれど、それ以上に、心にしみるような「やさしい話」と「素直な性格」に感動し、ファンが増えています。

 あるファンのコメントです。
「大西桃香ちゃんは、毎朝、発信してるから人気があるのじゃなくて、性格がいいから人気があるんだよ。」

 ちなみに、大西桃香さんのキャッチフレーズは、、
「いきなりですが質問です。みなさんの好きな色は何ですか?(ファンが好きな色を言う)
でもでも、やっぱりそこは?『桃色』。 奈良県代表の大西桃香です。」

 この遠慮気味のキャッチフレーズも、大西桃香さんのやさしい人柄を反映していますね。 


 大西さんの努力が認められて、2017年2月発売のAKB48のシングルCD「シュートサイン♪」では、初めて選抜に選ばれました。

 また、2017年6月の「AKB48選抜総選挙」投票期間中にポイント制で争われた、「AKB48選抜総選挙×SHOWROOM」では、NGT48のセンター・中井りかさんを押さえて、見事、1位になりました。

 さらに、このご褒美として、AKB48の49枚目シングル「#好きなんだ」♪のCD・DVDの中に、大西桃香さんが初センターを務め、ポイント上位の16人が「SHOWROOM選抜」として歌う曲「プライベートサマー♪」のCDとDVDが発売されました。

 ちなみに、2017年9月18日現在も、大西桃香さんの毎朝のショウルーム配信は続いており、配信回数は665回(1日2回もあります)、配信時間は817時間、視聴者数の合計は658万人を超えています。
 まさに「努力は人を裏切らない」ですね。


<AKB48 チーム8のポスター>






 後半は大西桃香さんが所属する「AKB48 チーム8」について紹介します。

 「チーム8(エイト)」は、2014年4月に、47都道府県のオーデションを勝ち抜いた代表47人によって結成されました。
 トヨタ自動車が、活動の全面サポートをしています。1社が行っているのは、AKB48グループでは「チーム8」だけです。

 「チーム8」は、他のグループのように拠点とする都市をもたず、メンバー1人1人が地元の都道府県を活動の拠点にしています。このため、他グループのように「会いに行けるアイドル」ではなく、「会いに行くアイドル」をコンセプトにしています。

 地元以外の活動として、全国ツアー「47の素敵な街へ」や東京・秋葉原の「AKB劇場」での公演もあります。
 しかし、
(1)拠点となる大都市をもたない、
(2)AKB選抜総選挙で上位16人に入ったことがあるメンバーがいない、
(3)オリジナル曲は10曲あるが単独のCD発売によるメジャー・レビューをしていない、
など、他のグループよりかなり不利な部分も多く、全国的な人気は、今一つです。

 AKB選抜総選挙では、第6回(2014年)、第7回(2015年)では、80位以内に入ったメンバーはいませんでした。
 しかし、第8回選抜総選挙(2016年)では、熊本県代表の倉野尾成美(くらのお・なるみ)さんが34位、北海道代表の坂口渚沙(さかぐち・なぎさ)さんが70位と、初めて2人がランクインしました。

 そして、今年(2017年)の第9回選抜総選挙では、熊本県代表の倉野尾さんが30位に入ったのをはじめ、51位に東京都代表の小栗有似(おぐり・ゆい)さん、65位に京都府代表の大田奈緒(おおた・なお)さん、67位に大阪府代表の永野芹佳(ながの・せりか)さん、69位に北海道代表の坂口さんと、5人がランクインしました。

 さらに、9月に発表されたAKB48グループ50枚目シングルの選抜メンバー28人には、チーム8の茨城県代表の岡部麟(おかべ・りん)さんが選ばれました。

 徐々に人気が出つつある「チーム8」ですが、前回紹介した後発で24人のNGT48が、デビューシングルがオリコン1位になり、第9回選抜総選挙で10人がランクインし、50枚目シングルでも3人が選抜されたのに比べれば、まだまだ苦しい状況です。

 大西桃香さんをはじめ、47都道府県代表にも、がんばって欲しいですね。


<奈良県の名所 奈良公園とシカ>




 最後に、大西桃香さんがセンターを務める機関限定ユニット「SHOWROOM選抜」について、紹介します。

 16人のメンバーを見てみると、「チーム8」が1位の大西桃香さんをはじめ5人、NGT48も2位の中井りかさんをはじめ、5人です。
 他に、2017年に結成された「STU(瀬戸内)48」のメンバーが3人、SKE48、NMB48、AKB48の研究生が各1人でした。

 こうして見ると、AKB48の中でも、発展途上でテレビや雑誌で取り上げられることが少ない、恵まれないメンバーが、自己アピールの場としてSHOWROOMを活用しているようです。

 確かに、SHOWROOMは、メンバー自身の努力だけで無料で全国にアピールでき、ファンはアイドルの「素」を見られる貴重なツールだと思います。
 秋元康AKBグループ総合プロヂューサーも、時々、見ているようです。

 配信を見るのは無料ですが、一部に有料アイテム(最高額はタワーの1万円)があるので、そこだけは、気をつけてください。


 おしまいに、チーム8の最初のオリジナル曲「47の素敵な街へ♪」(2015年のAKB48シングル「心のプラカード」に収録)の歌詞を紹介します。



♪「47の素敵な街へ」(作詞:秋元康、作曲:Sungho、歌:AKB48チーム8)♪


真っ青な空を見上げて
誰かのこと 思ってますか?
今すぐに 会いたくなった
誰かいるって いいね

しあわせなこと 見つけた時は
君に分けてあげたい

47の素敵なあの街へ
歌を歌いながら
会いに行こう
大好きな車に乗って
わくわくする分
近くなる

会いたいと思ってるのに
ここのところ ご無沙汰でした
目を閉じて 顔が浮かぶ
大事な人 君だ

悲しい時があった時には
話を聞いてほしい

47の素敵なあの街へ
何を話そうかと考えながら
のんびりと景色を眺め
ドキドキするのが
楽しくて

47の素敵なあの街へ
歌を歌いながら会いに行こう
大好きな車に乗って
わくわくする分
近くなる

47は行きたい街の数
ずっと私のこと
待ってくれてる
いつの日か全部回って
日本全国の友達と
笑顔の輪 ♪

2017年9月17日日曜日

台風18号が日本縦断の恐れ! 台風には時系列別の備えを 

北朝鮮のミサイルが飛ぶ2017年の日本の空に、今度は「台風18号」が接近・上陸する可能性が高まっています。 ミサイルの備えは別の回にして、今回は、台風に対する「備え」について、紹介します。


 まず台風に対する備えです。

 台風18号(1718、タリム《Talim》=フイリピンの言葉で「鋭い刃先」の意味)は、2017年9月16日20時現在、北緯29度20分、東経127度25分の東シン海にあって、東北東にゆっくり(時速10km未満)進んでいます。

 中心付近の気圧は965ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は35m/sで、「大型で強い」勢力を保っています。

 台風が、気象庁の進路予想の中心を通ると、17日の朝に九州南部へ上陸し、午後は四国を通り、17日の夜に瀬戸内海を北東へ進み、岡山県から兵庫県の付近を北東に横切り、日本海へ出る予想です。
 18日には、北陸・東北の沿岸の日本海を通り、18日の夕方には北海道へ再上陸する予想です。

 しかし、まだまだ台風の進路は変わることもあり、17日は、九州、中国・四国、近畿で暴風雨になる恐れがあります。
 また、18日は、北陸・東海から、関東・東北・北海道までの広い範囲で、風雨が強くなりそうです。
 日本の広い範囲で、暴風雨はもちろん、川のはん濫や海の高波、瀬戸内海沿岸などの高潮にも十分な注意が必要です。


<台風18号の予想進路(気象庁HP)>



 ここからは、台風の「備え」を時点別に、日本気象協会ホームページなどを参考に紹介します。

<1> 台風が遠いうちに行う備え
(1)屋根、壁、排水路、塀などの点検と整備
(2)防災用品の確認・備蓄(3日分の食糧・飲み水、ライト、充電器、ラジオ、薬品、現金など)
(3)家族で避難場所や経路を確認・話し合う
(4)洪水・浸水のハザードマップを市区町村のホームページなどから入手

<2> 接近する恐れが高まった時
(1) 最新の台風情報を入手(テレビ、ラジオ、ネット、スマホなど)
(2) 窓や雨戸の補強
(3) 外にある飛びやすいもの、危険なものを固定するか室内に入れる
(4) トイレなどに使う生活用水を貯める(お風呂に水をためるなど)
(5) 子供、老人、障害者などの1人で避難できない要援護者を事前に避難(避難所だけでなく安全なら2階も含む)



<避難情報の種類>


<3> 台風接近時
(1)不要不急の外出は避ける
(2)テレビやラジオ、ネットの情報だけでなく、スマホ(エリアメール等)や防災無線で、自治体などの避難情報(避難指示、避難勧告など)も小まめにチェック
(3)自宅のより安全な場所(2階など)にいて、浸水の恐れが出てきたら火を消し、漏電防止のために1階のコンセントにさしている電化製品のコードは抜く。
(4)避難は浸水する前に。浸水してからの避難は、自宅とどちらが安全か検討する。


 災害の備えと避難は、速さと冷静さが大切です。
 上記の表やこのブログの過去の記事などで、もう一度、警報や避難情報の種類と意味を確認してください。

 台風は、地震と違って、事前に来ることがわかります。
 早めに、しっかっり「備え」ましょう。


2017年9月6日水曜日

9月の憂鬱(ゆううつ)に負けないで ~頑張れより「ファイト」(中島みゆき♪)~

 9月になりましたね。 まだまだ暑い日々もありますが、少しずつ秋になったようです。

「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」

 という、平安時代中期の歌人・藤原敏行《生年不明~907年》の「古今和歌集」の和歌がびったりの季節ですね。
 夏休みが終わるこの時期は、18歳以下の自殺といじめが多い「憂鬱(ゆううつ)な季節」でもあります。
 2015(平成27)年に内閣府が発表した「自殺対策白書」では、18歳以下の自殺が日別で1番多いのは9月1日で、続いて9月2日が4位、8月31日が5位となっています。

 最近は、この時期、「死なないで逃げて」という声が多く聞こえます。

 2015(平成27)年8月26日に、鎌倉市中央図書館の司書・河合真帆(当時44歳)さんが、Twitterの公式アカウントから呼びかけた投稿「死にたくなったら図書館へ」が9万RT(リツート)を超え、「お気に入り」の登録も7万件を超え、大きな話題になりました。

「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。     マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。
  9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。」
 河合司書さんは、次のように語っています。 「実は、私も小学生のころ、いじめに遭い、学校に行くのがつらかったんです。 子どもの自殺が最も多いのは、夏休み明けの9月1日という報道を読みこのツイートを書きました。    
 また、米国の図書館にあった<自殺したくなったら図書館へ>というポスターを思い出したのも、きっかけになりました。」


<写真 「24時間子供SOSダイヤルのポスター」(モデル・乃木坂46)>
 
 
 
  昨年、ブログで取り上げさせてもらいましたが、2016(平成28)年8月25日10時5分ころ、青森県藤崎町の奥羽線北常盤駅で、中学2年の少女が自殺しました。
 8月25日は、少女の通っていた中学の始業式の翌日でした。(9月1日が始業式の地域にあてはめると、9月2日の夏休み明けということになります。)

 少女は、最初の報道では匿名でしたが、家族が少女のスマホに残されたいじめを苦に自殺するという内容の「遺書」とともに、実名を公表しました。
 少女の名前は、青森県青森市にある浪岡中学校2年生だった葛西(かさい)りまさん、13歳でした。
 葛西りまさんのスマホのメモアプリには、次のような内容の「遺書」が自殺する1時間30分前に、残されていました。(りまさんの家族が公表したものです。)

「遺書 葛西りま 
 突然でごめんなさい。ストレスでもう生きていけそうにないです。
 弱いのは自分自身でも分かってるし、悪い所もあったのは知ってるけど、流石にもう耐えられません。 
 学校生活も散々だし、それでストレスたまってたのに、仮病とかいう人が沢山いて、説明しても、あまり信じてくれなかった。
 1、2年の時に噂流したりそれを信じたりいじめてきたやつら、自分でわかると思います。もう、二度といじめたりしないでください。

(中略)
 家族へ。先立つ不幸を許してください。もう無理です。特別虐待があったわけでもない。
 みんなに迷惑かけるし、悲しむ人も居ないかもしれないくらい生きる価値本当にないし、綺麗な死に方すらできないけど、楽しい時もありました。
 本当に13年間ありがとうございました。いつか、来世ででも、幸せな生活をおくれる人になれるまで、さようなら。
 また、会おうね。 2016年8月25日木曜日」


 残念ながら、今年(2017年)も、9月1日前後に、東京や埼玉・千葉をはじめ、全国各地で、多くの若者が自殺してしました。

 また、「特にいじめを受けた月」も、実は9月が1番となっています。

 私も中学で、いじめられましたが。うちの身内にも、不登校になっている中学生がいます。
 確かに、死ぬよりは、一時的には「学校を休んでもいいし、図書館などに避難するのもいい。」
と思います。

 でも、「いじめ問題」の根本的な解決は、私の経験でも、自分を信じること(自信)と、話を聞いてくれる味方がいること、そして忍耐(頑張れではなく、頑張ること)と戦う勇気(ファイト)を持つことだと思います。
 一時的に逃げてもいいから、今の自分を乗り越えられたら、それは一生の宝物になります。
 
 そこでここからは、「頑張れ」と「ファイト」いう2つの言葉を中心に、9月の憂鬱に負けない気持ちについて考えたと思います。


<写真 夏を乗り越え「実をつけた稲穂」>
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 「頑張(がんば)る」の語源には、2つの説があります。
 1つは「眼張る」が転じて「頑張る」になったという説で、「見張り」とか、「一定の場所から動かない」という意味になります。
 もう1つは、「我を張る」が「頑張る」になったという説で、「自分の考えを押し通す」という意味になります。
 あれー?、どちらもポジティブじゃ、ありませんね。

 さらに、「頑張れ」は「頑張る」の命令形で、国語辞典には2つの意味が記載してあります。
 1つは、「言葉をかけて元気づける」という意味。もう1つは、「強い口調で責め立てる」という意味です。
 この2つの意味が、ともすれば混在し、「頑張れ」は命令形だということもあって、「自分のことではなく、他人ごととして責め立てる。=頑張れ」という意味になり、言われた人にプレッシャーになり、自殺の原因にすらなることがあります。

 ただ、これはあくまで「頑張れ」のことで、「頑張る」は自分自身の決意と行為ですから、他人からのプレーシャーにはなりません。


 一方、英語の「ファイト(Fight)」は、ボクシングの「ドッグ・ファイト」に代表されるように、拳などを具体的に出して「戦え、ケンカしろ」が、本来の意味です。

 ただ、日本語の「ファイト」は「言葉をかけて元気づける」という意味で使われることが多く、命令形ではないので、ポジティブになります。

 この「日本語のファイト」を、もう1度英語になおす(?)と、元の「Fight」ではなく、

・「Good luck.」(幸運を祈ります)

・「
You can do it.」(大丈夫、君ならできるよ)
・「Never give up.」(あきらめないで) 

など、命令形ではない「やさしいボジティブ語」になります。

こういう意味で頑張っている人・子供たちには、「頑張れ」ではなく、「ファイト」と声をかけたいですね。

 この意味の「ファイト」がタイトルになっている曲で私が思い浮かぶのは、森高千里さんの「ファイト」と中島みゆきさんの「ファイト」です。

 そのうち今回は、中島みゆきさんの名曲「ファイト」♪(1983年)の歌詞の一部を紹介します。


 この歌は、中島みゆきさんがラジオの深夜放送のDJをしていた時に届いた、1通の少女の手紙がもとになってます。その内容を紹介します。

「私は中学を出てすぐに働いて2年になる17歳の女の子です。
この間、私の勤めている店で、店の人が私のことを
『あの子は中卒だから事務は任せられない』と言っているのを聞いてしまいました。

私、悔しかった。悔しくて、悔しくて、泣きたかった。
中卒のどこが悪い!と、言いたかった。
私だって高校行きたかった。
だけど家のこと考えたら、私立に行くなんて言えなかったし、高校に入る自信もなかった。
なのに、こんなふうに言われるなんて酷い。」
(ペンネーム 私だって高校行きたかったさん)


 この手紙を元にできた曲「ファイト♪」は、1983(昭和58)年のアルバム「予感」に収録され、1994(平成6)年に「空と君のあいだに/ファイト」で、シングルカットされています。
 
 さらに、槇原敬之さん、福山雅治さん、吉田拓郎さん、満島ひかりさん、竹原ピストルさんなど、蒼々たるメンバーが、この曲をカバーしている名曲です。

それでは、「ファイト」の歌詞の一部を紹介します。

​​♪「ファイト!」(作詞・作曲・歌 中島みゆき)


あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている
ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる
悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる

私、本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
私、驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です


ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ


暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく
光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
やせこけて そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく


勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく闘いの
出場通知を抱きしめて あいつは海になりました

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ ♪



 私はつらい時、生きるのが嫌になった時、よくこの曲を聴きます。
 人生は、勝つか負けるかわかりませんが、挑戦する勇気とファイト、
そして、たとえ破れても、何度でもやり直せます。
 このことを、9月に悩む子供たちにも伝えたいですね。