2017年11月5日日曜日

平尾昌晃さんを名曲で偲ぶ ~ミヨちゃん、瀬戸の花嫁、走れ風のように~ 

 2017(平成29)年7月21日、作曲家で歌手でもある平尾昌晃さんが、肺炎のため亡くなられました。 今回は、多くの名曲を残された平尾昌晃さんの人生を、歌とともに振り返りたいと思います。


 平尾昌晃(ひらお・まさあき)さんは、太平洋戦争開戦直前の1937(昭和12)年12月24日、東京市牛込(現在の東京都新宿区)で生まれました。
 
 終戦直後の小学3年生の時、平尾少年は、アメリカ軍将校からもらったジャズのLPレコードをもらって衝撃を受け、西洋音楽に興味をもつようになりました。

 11歳の時には、海岸で行われた「のど自慢大会」に飛び入り出場し、ジャズの名曲「奥様お手をどうぞ」を英語で歌って、鐘三つ(合格?)をもらい、賞品としてスイカをもって帰ったというエピソードが残っています。


  若き日の平尾昌晃さんは神奈川県茅ケ崎市に住み、「慶応義塾高校(神奈川県横浜市)」に入学し、歌手の加山雄三さんや俳優の川口浩さん(テレビ朝日系の「水曜スペシャル」の探検隊の川口隊長として有名でした)などと知り合いました。

 また、高校在学中に「日本ジャズ学校」に入り、アメリカ軍キャンプのジャズ・ボーカルの試験にも合格しました。
 その後、高校を中退し、アメリカ軍キャンプやジャズ喫茶を舞台にバンドで活躍しました。

 1957(昭和32)年、平尾さんが19歳の時、ジャズ喫茶「テネシー」で歌っていた昌晃さんは、渡辺プロの渡辺美佐社長と映画監督の井上梅次監督にスカウトされました。

 その後、1957(昭和32)年公開の大ヒット映画「嵐を呼ぶ男」(主演・石原裕次郎さん)に出演し、翌1958(昭和33)年には、キングレコードから「リトル・ダーリン」でソロ・デビューしました。

 まもなく平尾昌晃さんは、ミッキー・カーチスさんや山下敬次郎さんと「ロカビリー三人男」として人気者になりました。

 平尾昌晃さんが歌った曲の中でも特に、1958年発売の「星は何でも知っている」♪(作詞:水島哲、作曲:津々美洋)と、1960年発売の「ミヨちゃん」♪(作詞・作曲 平尾昌晃)は、100万枚を超える大ヒットとなりました。

 そして、1960(昭和35)年暮れの「NHK紅白歌合戦」に、平尾昌晃さんは「ミヨちゃん♪」で初出場し、以後、3年連続で紅白出場を果たしました。

 それでは、平尾昌晃さんが作詞・作曲をし、自ら歌った「ミヨちゃん」の歌詞を紹介します。


♪「ミヨちゃん」(歌・作詞・作曲 平尾昌晃)♪

僕のかわいい ミヨちゃんは
色が白くて ちっちゃくて
前髪たらした かわいい娘
あの娘は 高校二年生

ちっとも美人じゃないけれど
なぜか僕をひきつける
つぶらなひとみに 出会う時
なんにもいえない 僕なのさ

(中略)

いまにみていろ 僕だって
すてきなかわいい恋人を
きっと見つけて みせるから
ミヨちゃん それまでサヨウナラ
サヨウナラ♪


<写真 えぼし岩と富士山(神奈川県茅ケ崎市)>






 1962(昭和37)年頃には、「ロカビリーブーム」が下火になり、平尾昌晃さんは歌手以外にも、俳優をするようになりました。
 しかし、それまでの無理がたたり、肺を悪くしたため、1963(昭和38)年には、慶応病院に入院しました。
 ところが、無断外泊をしたり、東京オリンピック(1964年開催)を見にいったりしたので、病気はよくなりませんでした。


 さらに、1965(昭和40)年2月、平尾昌晃さんは、ハワイから拳銃を不法で持ちかえった罪で逮捕され、22日間、拘留されました。
 このあと、平尾昌晃さんは、茅ケ崎にこもり、皿洗いをしたり、東京オリンピックの売れ残ったグッズを売ったりして生計をたてました。

 運よくその頃から、5年ほど前に平尾さんが作った曲「おもいで♪」が、北海道からブレークしました。それを受けて、本人も歌手にカンバックするつもりになっていました。
 ところが、肺の病気の悪化もあって、結局、平尾さんは自分で歌うことを断念し、布施明さんに「おもいで」を譲りました。

 1966(昭和41)年に、平尾昌晃さっが作曲した「霧の摩周湖」は、布施明さんが歌ってヒットし、1967(昭和42)年の「日本レコード大賞作曲賞」を受賞しました。

 ここから、平尾さんは、本格的に作曲家の道を歩もうとします。

 ところがそんな折も折、1968(昭和43)年3月に、平尾昌晃さんの肺の病気が悪化して結核になり、長野県岡谷市の「岡谷塩嶺(おかや・えんれい)病院」に入院しました。
 そこでは、肋骨6本を取るなど、2回の手術を行いました。

 結局、1969(昭和44)年の暮れまで、2年近く、平尾さんは療養生活を余儀なくされました。
 しかし、平尾昌晃さんは、「この経験が、その後の音楽活動の原点となった」と語っています。


 その言葉どおり、1970年代に入ると、平尾昌晃さんの作曲活動は充実の一途をたどります。
 1971年から1973年に作曲した、主な作品を紹介します。

・1971(昭和46)年 五木ひろしさん「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子さん「私の城下町」
・1972(昭和47)年 小柳ルミ子さん「瀬戸の花嫁」<日本歌謡大賞を受賞>
             天地真理さん「二人の日曜日」
・1973(昭和48)年 アグネス・チャンさん「草原の輝き」
             五木ひろしさん「夜空」<日本レコード大賞受賞>

 平尾さんはほかにも、伊東ゆかりさん、沢田研二さんなど、多くの人気歌手の歌を作曲しました。

 それでは、これらの中から、日本歌謡大賞を受賞し、2017年10月30日の平尾昌晃さんの葬儀でも歌われた、「瀬戸の花嫁♪」の歌詞を紹介します。

 この曲は、「私は嫁にいかずに、歌と結婚します。」という小柳ルミ子さんの言葉に、「それなら、歌の中で嫁に行かせてあげるよ。」と平尾昌晃さんが応え、広島県尾道市から四国へ行く「フェリーの風景」をイメージして、作った曲だと言われています。


♪「瀬戸の花嫁」(作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃、歌・小柳ルミ子)


瀬戸は日暮れて 夕波小波
あなたの島へ お嫁にゆくの
若いと誰もが 心配するけれど
愛があるから 大丈夫なの

だんだん畑と さよならするのよ
幼い弟 行くなと泣いた
男だったら 泣いたりせずに
父さん母さん 大事にしてね♪

<写真:瀬戸内海の夕焼け(広島県尾道市)>




 1974(昭和49)年、平尾昌晃さんは、「平尾昌晃音楽学校(のちの「平尾昌晃ミュージックスクール<HMS>)」を設立し、東京本校のほか、札幌、名古屋、大阪、福岡などにも地方校をおき、若手歌手の育成に力を入れました。
 
 HMSからは、狩人、石野真子、松田聖子、森口博子、倖田來未、後藤真希など、多くの若い人材が育っています。

 また、この学校の生徒の一人だった畑中葉子さんと平尾昌晃さんがデュエットした「カナダからの手紙」が、1978(昭和53)年に大ヒットし、この年の紅白歌合戦に、平尾昌晃さんは16年ぶり4回目の出場を決めています。

 1980年代には、平尾昌晃さんは、NHKの若者向け歌番組「レッツゴーヤング」の司会も務めています。

 ほかにも、香港の歌手だったアグネス・チャンさんが日本デビューをするきっかけを作ったり、テレビドラマの「必殺シリーズ」や「熱中時代」、アニメ「銀河鉄道999」などのテーマ曲も、作曲しています。

 2006(平成18)年から2016(平成28)年までは、NHK紅白歌合戦の最後に歌われる「蛍の光」の指揮も担当されました。

 それでは、1974年以降の主な作曲した作品を紹介します。

・1974(昭和49)年 中条きよしさん「うそ」
             アン・ルイスさん「グッドバイ・マイ・ラブ」
・1977(昭和52)年 山口百恵さん「赤い絆」(ドラマ「赤い」シリーズのテーマ)
             木ノ内みどりさん「走れ風のように」(刑事犬カールのテーマ)
・1978(昭和53)年 平尾昌晃さん・畑中葉子さん「カナダからの手紙」
             原田潤さん「ぼくの先生はフィーバー」(熱中時代のテーマ)
                                      ささきいさおさん「銀河鉄道999」
・1979(昭和54)年 水谷豊さん「カリフォルニア・コネクション」
            (熱中時代・刑事編のテーマ)
・1980(昭和55)年 松田聖子さん「Eighteen」


 1970年代の有名歌手がずらりと並んでいますね。
 この中から、私は、テレビドラマの「刑事犬カール」のテーマ曲「走れ風のように」を紹介したいと思います。

 この曲は、オリコンの最高順位は71位で売れていませんが、松本隆さんの詞と平尾昌晃さんの曲が絶妙で、「生涯青春」と話されていた平尾昌晃さんに、ピッタリの勇気の出る名曲だと思います。
 

♪「走れ風のように」(作詞:松本隆、作曲:平尾昌晃、歌:木之内みどり)♪


朝陽を追って 旅立つ君は何故
石ころの道を選ぶの
かかとがすりきれるまで
走って ゆきなさい
心の奥で何かきっと 弾けるわ
立ち止まる時 青春も終わるの
だからカール 走れ風のように

埃(ほこり)だらけの 坂道を見上げて
君は何故 やすまないの
どうして唇かんで 青空見るのよ
何処へと続く道か 誰も知らないわ
額の汗が 生きてるしるしなの
だからカール 走れ風のように

昨日はもう昔だし 明日はまだ先
大事なことは 今日が二度と来ないこと
立ち止まる時 青春も終わるの
だからカール 走れ風のように
走れ風のように♪


<写真 平尾昌晃さんが療養していた長野県岡谷市と諏訪湖>






 最後は、平尾昌晃さんが、1968(昭和43)年~1969(昭和44)年まで、2年近く、結核の療養のために入院していた長野県岡谷市の「岡谷塩嶺(おかや・えんれい)病院」があった岡谷市と、岡谷市民に、お礼をした話です。

 2014(平成26)年9月、平尾昌晃さんは、岡谷市立岡谷病院の「病院祭」での講演会の講師を引き受け、「私の作曲家人生の原点となった岡谷に恩返しをしたい。」と話しました。

 さらに、翌2015(平成27)年には、「岡谷市看護専門学校」の校歌を、自分で作詞・作曲してプレゼントしました。

 平尾昌晃さんが、思いを込めて作った校歌を、おしまいに紹介します。


♪岡谷市看護専門学校校歌「未来に向かって」(作詞・作曲 平尾昌晃)♪


晴れ渡る青空と 緑あふれる山々
諏訪湖見下ろす ここに集いし友たち
けわしい道も 夢にあふれて
希望の光 看護の道を歩き出す
心ひとつ みんなのために 未来のために
岡谷市看護専門学校

こだまする丘の上 さえずる小鳥のやさしさ
塩嶺の風 命を守る誓いを
水面に浮かぶ 青い輝き
看護のほこり 友と手をとり しなやかに
心ひとつ みんなのために 笑顔のために
岡谷市看護専門学校

凍てつく朝も 芽吹き信じて
学びし我ら 看護の夢に飛び立とう
心ひとつ みんなのために 未来のために
岡谷市看護専門学校♪



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