2017年11月19日日曜日

風の中の龍馬(1)青春を賭けた脱藩 ~坂本龍馬没後150年~

 平成29年11月15日(西暦で正確に数えると、2017年12月10日)、幕末の英雄・坂本龍馬が凶刃に倒れて、ちょうど150年になります。
一方で、「歴史の教科書から龍馬が消えるかも?」というニュースも出ています。

 そこで、龍馬が人生のアゲンスト(逆風)に、どう立ち向かっていったかを中心に、坂本龍馬の生き方を何回かにわけて紹介したいと思います。
1回目は、少年時代から26歳で脱藩するまでの龍馬を紹介します。



 坂本龍馬(さかもとりょうま)は、天保6年11月15日(西暦1836年1月3日)、江戸末期の土佐藩の高知城下(現在の高知県高知市)で生まれました。

龍馬が生まれる前日、お母さんの幸さんが龍が空を飛ぶ夢を見たので、「龍馬」と名付けられたと言われています。

 坂本家は郷士(ごうし)と呼ばれる戦国時代の長曾我部氏の流れを汲む下級武士で、龍馬は、その坂本家第5子・次男として生まれ、兄1人、姉3人の兄弟がいました。

 坂本家の本家は商家で、土佐では豪商として知られていて、龍馬の生まれた下級武士の坂本家も裕福でした。
 龍馬の本家が商人であったことと実家が裕福であったことが、龍馬が制度や武士の形式にとらわれず自由を謳歌できた大きな理由でした。

 子供の頃の龍馬は、楠山塾という漢学の塾に入っていましたが、勉強ができないだけでなく、いじめられっこで、英雄とはほど遠い少年でした。
さらに、塾でいじめられて怒り、刀を抜いて仕返ししょうとしたという疑いをかけられ、塾は退学になりました。

 少年龍馬は、「馬鹿で気の弱い子供」という世間の評判が立ち、人生の逆風を、いきなり全身に受けました。その上、おねしょを12歳までするなど、気が弱く神経質な「ひきこもり」の子供でした。


<写真:ふるさと高知市の桂浜に建つ坂本龍馬像 ~期間限定で龍馬と同じ目線で太平洋を見ることができる展望台が仮設されており「心はいつも太平洋ぜよ」と書かれています~ (高知県高知市)>



 10歳で母・幸さんを亡くした少年龍馬を、「ひきこもりの愚童」という逆風から救ったのは、剣道でした。
 その剣道を最初に龍馬に教えたのは、3番目の姉・坂本乙女(さかもとおとめ)であると言われています。

 乙女姉さんは男勝りで、男なら激動の幕末を自分で暴れまわれるのに、女であるばかりに何もできない自分が不満で、その気持ちを弟の龍馬に託し、学問と剣道を厳しく教えました。

 そのお陰で、龍馬の剣道の腕はめきめき上達し、1848(嘉永元)年、龍馬が12歳の時に入門した、小栗流の日根野道場でも、頭角を現しました。
 当時を知る土居楠五郎という人の記憶では、
「龍馬は、剣道をはじめて、おねしょも泣き虫も一変し、朝から晩まで剣道の稽古に励むようになった。」そうです。

 剣術を始めて5年が経った18歳の時、龍馬は「小栗流の目録」を得るまでになり、1853(嘉永6)年、剣術修行のため、江戸へ行く許可を土佐藩からもらいました。
 江戸時代の藩は閉鎖性が強く、今で言えば一つの「国」のようなもので、藩の許可がなければ藩の外に行くのは許されず、脱藩は犯罪でした。

 そんな時代でしたが、「剣術修行」は、りっぱな江戸へ行く名目でした。
 つまり、剣道が龍馬をりっぱな青年に育て、剣道が「土佐から江戸へ」の道を開いたのでした。

 ただし、江戸時代に高知から江戸に行くのは、命がけのことでした。
 ですから、司馬遼太郎さんの名作「竜馬がゆく」の中では、高知城下から北にある阿波藩(現在の徳島県)との国境に向かって江戸へ旅立つ坂本龍馬に対して、父の八平はこんな歌を贈ったことになっています。

「男児 志をたてて 郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」

(現代語訳: 男子が志(こころざし)を立ててふるさとを出る以上、目的(学問や剣道)を達成できなければ、死んでも帰って来るべきではない。)

 当時、江戸修行は、それほど重く大変なことだったのです。

 江戸に着いた坂本龍馬は、築地にあった土佐藩中屋敷の片隅で寝起きし、千葉周作で有名な北辰一刀流の「桶町千葉道場」(現在の東京都中央区八重洲にあり、千葉周作の弟の千葉定吉が道場主)に通いました。

 龍馬は、「桶町千葉道場」でも剣術の腕を上げ、千葉道場の娘で、後年。自ら龍馬の妻と称した「千葉さな子」とも出逢いました。
 剣道の腕が、若き坂本龍馬の未来と恋を作っていったとも言えると思います。

 また、龍馬が江戸留学を始めたこの1853(嘉永6)年は、アメリカのペリー提督率いる黒船4隻が浦賀に来航した日本史上の大事件が起きた年で、江戸は大騒ぎになりました。

 坂本龍馬も、土佐藩の命令で、品川で異国船から日本を守る警備に駆り出され、「黒船来航」のまっただ中に身を置くことになりました。
 当時の龍馬は単純な攘夷主義者で、「戦(いくさ)になれば、異国(人)の首を討ち取ります」という内容の手紙を、実家に送っています。

 また、この頃の江戸は、剣術や学問を学びに全国の藩から有望な若者が集って来ていて、その中には、高杉晋作や桂小五郎などの後の幕末・維新の英雄たちもいました。
 坂本龍馬は、剣術を通じて彼らとの人脈を作り、江戸で新しい思想や知識を得ることもでき、のちの活躍の礎を築きました。

 一方、長州の吉田松陰は、嘉永7(1854)年3月に、下田で黒船に密航してアメリカへ行こうとしますが失敗し、幕府に捕まってしまい、安政の大獄で処刑されます。


<写真 ペリー来航の絵>



 嘉永7(1854)年6月、龍馬は剣術修行を終えて土佐に帰り、高知の日根野道場の師範代になり、ジョン万次郎からアメリカの話を聞いた河田小龍から、外国の話を聞いたりしています。

 この年、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に東海地方沖を震源とする「安政東海地震」(M8.4と推定)が起き、そのわずか32時間後の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)には、四国沖を震源とする「安政南海地震」(M8.4と推定)が起きました。

 これらは、時間差で起きた「南海トラフを震源とする巨大地震」として有名で、それぞれ数千人の死者が出ています。
 坂本龍馬のいた「高知」でも、推定震度5から6の揺れがあり、津波に襲われました。

 余談ですが、この2つの地震は、「安政の東海地震」、「安政の南海地震」と呼ばれていますが、実際に起きた時の年号は「嘉永」で、この地震の22日後の11月27日に「安政」に改元されています。

 余談の余談ですが、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」では、安政大地震が起きた時、龍馬は江戸にいたことになっていますが、手元にある坂本龍馬研究の1級資料の一つ「坂本龍馬全集」(監修・平尾道雄、編集・解説・宮地佐一郎)によれば、嘉永7(1854)年6月23日に、龍馬は高知に帰って来ています。
 

 地震の起きた翌年、安政2(1855)年12月、父の坂本八平が亡くなり、兄の権平が坂本家を継ぎます。

 兄が坂本家を継いで安心した龍馬は、安政3(1856)年に、再び江戸での剣術修行を藩に申し出て許可され、上京します。

 その後、龍馬は江戸で再び「桶町千葉道場」に入り、今度は塾頭にまでなり、安政5(1858)年には「北辰一刀流」の免許皆伝を伝授されました。

 安政5(1858)年9月、坂本龍馬は2度目の江戸修行を終えて、高知に帰りました。
 この安政5年の4月には、井伊直弼が幕府の大老になり、開国を強行し、反対派を弾圧する「安政の大獄」が始まっています。

 龍馬は、江戸剣道の三大流派の一つ、「北辰一刀流」の塾頭で免許皆伝という腕をもって帰り、高知ではかなり有名な剣術家になりました。

 もし、龍馬が普通の武士なら、ふるさと高知で、剣術の腕をもとに、平和な家族を作り、田舎での普通の幸せをもとめただろうと思います。

 しかし、ここで江戸を見てきた坂本龍馬は、「武士同士の身分差別」という、新しい「逆風(アゲンスト)」を、感じてしまいます。

 この頃の土佐藩は、藩主(のちに家督を子供に譲る)の山内容堂と、参政の吉田東洋が実権を握って、「公武合体」を主張していました。

 土佐藩では、戦国時代に土佐を治めていた長宗我部(ちょうそかべ)家の元家来で郷士(ごうし)と呼ばれる下級武士と、関ヶ原の合戦の勝者として土佐に入った山内(やまのうち)家の家来の上士と呼ばれる上級武士との差別がありました。
 役職はもちろん、着物や履き物、傘をさすことの可否、さらには上士は郷士を「無礼打ち」にできるなどの、差別的な厳しい藩法がありました。

 坂本龍馬は郷士の出身ですが、江戸の新しい風に吹かれてきた龍馬の目には、土佐の差別がこっけいでつまらないものに映りました

 
 龍馬が土佐で矛盾を感じていた安政7(1960)年3月3日、幕府の大老として権力をふるってきた井伊直弼が、江戸城の桜田門の外で、水戸の脱藩浪士らの手で暗殺されるという、幕府の権威を失墜させる大事件が起こります。(桜田門外の変)

 これをきっかけに、江戸幕府の権勢にかげりが見え始め、全国に「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」という、朝廷を敬い(ということは幕府を軽視し)外国人たちを排斥するという思想が広まります。

 土佐でも、龍馬の親戚筋にあたる武市半平太(たけちはんぺいた)らが、文久元(1861)年8月に「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷を土佐藩に広めようとします。

 坂本龍馬も、武市の薦めで「土佐勤王党」の血判書に署名します。
 しかし、「参政の吉田東洋を暗殺して、土佐藩全体の藩論を尊皇攘夷にする。」という武市の過激な思想に対し、「土佐藩にこだわっていては、何も動かんぜよ。人殺しもいかんぜよ。」と考えた坂本龍馬は、藩を抜け出して自由になって日本のために生きる、「脱藩」という道を選びます。

 当時の「脱藩(だっぱん)」は、現在でいう国外逃亡で、江戸時代には多くの人が死罪になったほどの重罪です。
 しかし、坂本龍馬はそれを承知で「脱藩」を決行します。

 文久2(1862)年3月24日、満26歳の坂本龍馬は、沢村惣之丞(さわむら・そうのじょう 1843年~1868年、土佐の浪人の子)とともに、青春のすべてを賭けて、土佐の檮原(ゆすはら 現高知県高岡郡檮原町)から、四万十川沿いの「宮野乃関」の近くを抜け、伊予の国(愛媛県)へ脱藩しました。


<写真 坂本龍馬脱藩の道(高知県高岡郡檮原町)>




 脱藩により、坂本龍馬は「土佐」という、ふるさとを捨てました。
 そのかわり、「日本人として藩に囚われずに生きる」という自由を手に入れました。

 最初の江戸修行の時、お父さんの坂本八平さんが龍馬に贈ってくれた歌を、龍馬は思い出し、くちずさみながら、四国山脈を超えたのだと思います。

「男児 志をたてて 郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」

 
 最後は、坂本龍馬の本物の手紙から、「脱藩をした時の気持ち」を表したのではないかと思われる名言を紹介します。


○「じつに おくにのよふな所にて、何の志ざしもなき所に、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿ものなり。」(慶応元(1865)年9月9日、坂本乙女<姉>、乳母おやべあて 龍馬の手紙より)

○現代語訳:
「お国(土佐)のような所で、何の志(こころざし)もなく、ぐずぐず日を送る者は、本当に大馬鹿者だ。」


 次回(連続かどうかはわかりませんが?)、「風の中の龍馬」の2回目は、脱藩して身分的にも思想的にも自由になった坂本龍馬が、「幕府や権力」という逆風(アゲンスト)に、どう立ち向かったかを紹介します。

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