文久2(1862)年3月24日、坂本龍馬は、満26歳で土佐藩(高知)を脱藩し、ふるさとと引き替えに、自由を手に入れました。
かつて、私が部屋に貼っていた坂本龍馬のポスターには、
「ぼくはフリーじゃきに」と書いてありました。 脱藩によって、龍馬は、身分上も思想上も、まさに「フリー」になりました。
坂本竜馬が脱藩した直後の文久2年4月8日、龍馬のいなくなった高知城下では、土佐藩全体を勤王に変えようとしていた龍馬の盟友・武市半平太(たけち・はんぺいた)の率いる土佐勤王党の浪士が、土佐藩の保守派を主導していた参政・吉田東洋を暗殺しました。
このことで、土佐藩の政治は、一時的に、「幕府寄り(佐幕)」から「朝廷寄り(尊王)」に転換しました。
一方、脱藩した坂本竜馬は、「幕府を慕う山内家と上士がいる限り、土佐は動かぬ」と考えていました。
脱藩直後の文久2年4月には、長州(山口県)の下関の豪商で、高杉晋作などの支援をしていた白石正一郎宅を訪れました。
その後の龍馬の行動の詳細は不明ですが、平尾道雄氏の「坂本龍馬全集の年表」によれば、下関から九州へ向かい、続いて大坂(大阪)・京都を訪問し、その年の8月には、自分が塾頭をしていた江戸の桶町千葉道場に、滞在しています。
長州、九州、大阪、京都、江戸と、脱藩後に竜馬が旅して志士たちと交流した5つの場所は、まさにこの後の日本の命運を担うことになる場所であったことは注目ですね。
当時、「脱藩」は死罪の可能性もあった重大な犯罪でした。
地位も身分も捨てた龍馬は、土佐藩から犯罪者として追われる立場になり、強烈な逆風(アゲンストの風)の中にありました。
そんな龍馬にあるのは「志(こころざし)」だけで、本当の意味の志士となりました。
坂本龍馬は、文久(1862)2年の暮れに、千葉道場の跡取りの千葉重太郎とともに、幕府の軍艦奉行並みで、2年前に「咸臨丸(かんりんまる)」で渡米した経験をもつ勝海舟(1823年~1899年、東京生まれ、幼名・通称:勝麟太郎)を斬るために、海舟の自宅のある赤坂(東京都港区赤坂)を訪れました。
この時、龍馬たちは、勝海舟が渡米経験に基づいて語る、「アメリカの大統領を決めるのは民主選挙であること」や、「今の日本に必要なのは、海軍と貿易であること」に感動し、暗殺者から一転、海舟の弟子になりました。
<写真 勝海舟と坂本龍馬の師弟象(東京都港区赤坂、2016年設置)>
翌文久3(1863)年、勝海舟の弟子となった龍馬は、海舟の悲願「神戸海軍操練所」の設立のために、福井藩に金策のために奔走したり、土佐出身の浪人たちを仲間に入れたりしました。
そして、海舟の私塾「神戸海軍塾」の塾頭になりました。
この頃の坂本龍馬は、得意満面で、勝海舟を「日本第一の人物」と持ち上げ、土佐の国元にいた姉・乙女にあてた手紙で、「少しエヘン顔して密かにおり申し候」(文久3年5月17日付け)と自慢しています。
この頃、京都では、長州藩(山口県)を中心とする「尊皇攘夷派」(天皇を尊敬し幕府を軽んじて、外国を討つという主張)と、それを後ろ盾にする三条実美らの公家が大きな力を持っていました。
これらの勢力に押されて、文久3年2月には、第14代将軍の徳川家茂は、朝廷に「5月10日に攘夷を実行する」ことを約束させられました。
これを受けて、文久3(1863)年5月10日から、長州藩が下関海峡で、アメリカ・イギリスなど4ケ国の船に砲撃を加え、攘夷を決行しました。
ところが、多くの藩は長州の攘夷に協力せず、幕府に至っては下関で砲弾を浴びた外国船を修理しました。
この頃、文久3(1863)年6月29日に、坂本龍馬がこの幕府の態度に腹を立てて、姉の坂本乙女に書いた手紙にあるのが、龍馬のあの名言です。
「あきれ果てたる事は、長州で戦いたる(外国の)船を江戸で修復し、又、長州で戦い申し候こと。
これ皆、(幕府の)姦吏(役人)が夷人と内通いたし申し候ものにて候。
(中略)
江戸の同志と心を合わせ、姦吏を撃ち殺し、『日本を今一度せんたくいたし申し候』ことにいたすべくとの神願にて候。」
<現代語訳>
「 あきれ果てるのは、長州と戦って壊れた外国船を、幕府の官吏が江戸でこそっと修理してやっていることだ。幕府の役人と外国人が裏で手を結んでいる。まったく、けしからん。
僕は、江戸の仲間と一緒に悪い役人を殺し、「日本を今一度、せんたくする」と、誓っている。」
坂本龍馬の「日本をせんたくいたし申し候」という勇ましい言葉とは裏腹に、このあと、志士たちにとっては、暗黒の時代に入ります。
龍馬の手紙のわずか1ヶ月半後、文久3年8月18日に、京都で政変が起き、長州藩と三条実美らの「尊皇攘夷派」の勢力は一層され、会津藩と薩摩藩を中心とした「公武合体派」が京都朝廷を牛耳り、その結果、江戸幕府の力も強まります。(8月18日の政変)
「8月18日の政変」で、土佐出身の吉村虎太郎らが大和の国(奈良県)で挙兵した「天誅組の乱」は失敗し、吉村は討ち死にします。
さらに9月には、土佐藩内でも、山内容堂らの佐幕派・公武合体派が勢力を盛り返し、龍馬の盟友・武市半平太らの土佐勤王党のメンバーの多くが投獄され、武市半平太は1年半後に切腹させられました。
坂本龍馬は、逆風の中でも、勝海舟のもとで学んだ操船技術を武器に、江戸、神戸、長崎などを船で駆け回ります。
しかし、元治元(1864)年6月5日に、長州などの浪人が京都の池田屋で新撰組の襲撃を受ける「池田屋事件」が起き、続いて7月19日には、長州が京都奪還を図りますが会津や薩摩の各藩に大敗した「禁門(蛤御門)の変」がおきます。
さらに、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヶ国が下関を攻撃する「下関戦争」でも長州は敗退します。
さらに、朝敵とされた長州に対し、幕府と諸藩による「第一次長州征伐」が元治元年7月に始まります。11月には、長州の4家老が切腹して降伏し、長州の尊皇攘夷派は、行方不明になっていた桂小五郎や高杉晋作などを除き、壊滅状態になります。
龍馬たちはというと、「池田屋事件」や「禁門の変」に、神戸海軍操練所のメンバーが参加していたため、元治元(1864)年10月22日に、勝海舟が謹慎を命じられ、翌慶応元(1865)年3月には、坂本龍馬が塾頭を務める神戸操練所も廃止になりました。
志士たちには「苦難の元治元年」でしたが、坂本龍馬には、この年、嬉しい出会いがありました。
5月に後に妻となる楢崎龍(お龍)と京都の寺田屋で知り合い、6月には下田で薩摩の西郷隆盛にも出逢っています。
<写真 京都の龍馬の定宿だった寺田屋(京都市伏見区)>
倒幕派は散々で、風前の灯火だった元治元(1864)年ですが、その年も押し迫った12月15日、長州の下関にある「功山寺」で、1人の青年と80人の仲間が、立ち上がります。
その青年の名は「高杉晋作」です。
高杉晋作と仲間たちは、わずか80人余りで、長州藩ばかりでなく、幕府や諸藩に反旗を翻し、見事、勝利します。
わずかに残った倒幕の灯火を、高杉晋作という一青年が再び燃え上がらせ、のちに坂本龍馬もバックアップすることになります。
この続きは、次回ということにします。
2017年の総選挙の直前、小池百合子東京都知事が言った「日本をリセットする」という言葉は、龍馬の「日本をせんたくする」という言葉をまねたものだと思います。
しかし、坂本龍馬は日本を洗濯することに成功したのに対し、小池知事の「希望の党」はリセットに失敗しました。
「なぜなのか?」これが、次回の「風の中の龍馬」のテーマかなと思っています。
ここで、「日本をせんたくする」という名言を書いた坂本龍馬の「姉・坂本乙女あての手紙」の後半部分を<現代語訳>で紹介します。
「私を、決して長生きできる人間だと思わないでください。
ただし、人並みのように、なかなか滅多なことでは死ぬつもりはありません。
私が死ぬ時は、天下大変で、私が生きていても役に立たないようになった時だと思っています。
『土佐の芋掘り』などと、いろいろ悪口を言われる「居候(いそうろう)」として生まれて、一人の力で天下を動かすようになったのは、これまた、天のなさる事です。」
<文久3(1864)年6月29日付け、坂本乙女(姉)あての坂本龍馬の手紙より>
司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」にも出てきますが、坂本龍馬をはじめ、幕末の多くの志士は、老荘の思想にある「天」や「天命」という考え方をし、「事を成すは天命にあり」と考えていました。
ただ、龍馬のおもしろいところは、手紙の最後で、「決してつけあがりはせず、頭にかぶりものをして砂の中に、潜っております。」と、自分で言っているところです。
ところで、龍馬が「日本を今一度せんたくする」という手紙を書いた文久3(1863)年は、坂本龍馬は満28歳ですが、「龍馬の手紙」の質・量ともにあたり年です。
多くの龍馬の手紙が残り、おもしろい内容もいくつも残っています。
そこで、最後に文久3年に坂本龍馬が書いた手紙の「名・迷言」をいくつか紹介します。(少し、現代語にします。)
「そもそも人間の一生はガテンのいかないものだ。
運の悪い者は、風呂から出ようとして、金〇を詰め割って死ぬ者もいる。
その点、私(龍馬)は運が強く、自分で死のうと思っても死ぬず、今では日本一の人物、勝麟太郎(勝海舟)という人の弟子になって、一生懸命に働いております。」
(文久3(1863)年3月20日、坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)
「小野小町が名歌を読んで雨が降ったという伝説があるが、日照りの時は歌を詠まず、北の山の方に、雲が沸いているのを見て、歌を詠んだのに違いありません。
同じように、天下に事を成すものは、腫物もよくよく腫れあがってから針を刺し、膿を出すのです。」
(文久3年6月28日 坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)
「なんの浮世は3文5厘よ。ブンと屁のなるほど、やって見よ。」
(文久3年6月29日 坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)
龍馬節、炸裂ですね。
この頃の龍馬の手紙には、自由で夢のある志士・坂本龍馬が活きのいいまま入っているような気がしますね。
このあと、「操船術」と「剣術」の二つを手に入れた坂本龍馬の活躍が始まります。
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