2016年12月31日土曜日

「海の声」「フレフレ熊本!365歩のマーチ」~2016年流行歌ブログ(前)~

2016(平成28)年の最初に書いたブログは、AKB48の「365日の紙飛行機」についてでした。

「♪
朝の空を見上げて 今日と言う1日が 
笑顔でいられるように そっとお願いした
時には雨も降って 涙も溢れるけど
思い通りにならない日は 明日頑張ろう♪」
(♪「365日の紙飛行機」歌:AKB48 作詞:秋元康 作曲:角野寿和・青葉紘季) 

 あれから、1年。
「思い通りにならない日は 明日頑張ろう」が多かったのが、この1年だったと思います。(反省)


<空の月>


 実はうるう年だった2016年の「366日」を、世界の紙飛行機は、日本の紙飛行機は、どう飛んだのか、どこを飛んだのか。
 2016年に、(私の中で)流行った歌の歌詞の一部を紹介しながら、振り返ってみたいと思います。

 まず、1月から3月にかけてで記憶に残る出来事は、「SMAP解散騒動」「ゲス不倫」「北海道新幹線開通」などでした。

 続く、4月から6月には、「熊本地震」「伊勢志摩サミット」「オバマ米国大統領が広島訪問」「イギリスEU離脱」など、重要なニュースが相次ぎました。
 中でも、4月に発生した「熊本地震」は震度7が2回、直接死だけで50人が犠牲になるなど、大きな被害が出ました。

 この地震を受けて、熊本県出身の演歌歌手・水前寺清子さんが1968(昭和43)年に歌って100万枚を超える大ヒット曲になった「三百六十五歩のマーチ」を、熊本地震復興応援歌に替えた、「フレフレ熊本! 三百六十五歩のマーチ くまもとバージョン♪」が作られ、水前寺清子さんをはじめ、熊本出身のクリームシチューさん、スザンヌさん、髙良健吾さん、コロッケさんなどの有名人や、熊本県の熊本工業高校や国府高校などの生徒が歌う動画が話題になっています。

 それでは、その歌詞の一部を紹介します。

「♪フレフレ熊本! 三百六十五歩のマーチ くまもとバージョン」

「♪
くまもとの明日へつづく 道をあなたは歩いてく
三百六十五歩でダメでも さらに進もう一歩ずつ
人生は ワンツーパンチ くじけぬ姿は 美しい
思い出つまったふるさとが 再び輝くその日まで
腕をふって 足をあげて ワンツー ワンツー
うつむくな 笑え♪」

 ちなみに、2016年NHK紅白歌合戦の総合司会は、普段は「NHKニュース」の顔である熊本出身の武田真一アナウンサー(49歳)です。

<熊本市 水前寺公園>


2016年上半期のヒット曲は、CD売り上げではAKB48の「翼はいらない」が1位ですが、ダウンロード数のレコチョクやカラオケでは、浦島太郎(桐谷健太)の「海の声」がトップでした。

「海の声」は、携帯電話会社「au」のCM「三太郎シリーズ」のCMソングで、ちなみに上半期2位は「365日の紙飛行機」でした。

「海の声」は、作詞が三重県出身の電通社員の篠原誠さん、作曲が沖縄県出身の3人組バンド「BEGIN」さんです。
 歌っている桐谷健太さんは、大阪府大阪市出身の俳優で1980年生まれです・
 それでは。「海の声」の一番の歌詞を紹介します。


♪「海の声」(歌:浦島太郎(桐谷健太) 作詞:篠原誠 作曲:BEGIN)

「♪
空の声が 聞きたくて
風の声に 耳すませ
海の声が 知りたくて
君の声を 探してる

会えない そう思うほどに
会いたいが 大きくなってゆく
川のつぶやき 山のささやき
君の声のように 感じるんだ

目を閉じれば 聞こえてくるんだ
君のコロコロした 笑い声
声に出せば 届きそうで 今日も 歌ってる
海の声にのせて

空の声が 聞きたくて
風の声に 耳すませ
海の声が 知りたくて
君の声を 探してる♪」


 作詞をした篠原誠さんの話では、この歌「海の声」は、通信手段がなかった昔の人(浦島太郎の頃も含め)が、風や海に会えない人への思いを託した気持ちを詩に込めたそうです。

 この歌は、東日本大震災の被災地の人たちや、作曲者BEGINの地元・沖縄の人たちをはじめ、自然やふるさとを愛する全国の人たちの共感を呼び、2016年にもっとも歌われた歌になりました。

 震災復興や沖縄県の問題をはじめ、2016年の日本や世界の出来事は、必ずしもいい方向へ向かっているように見えないものも多かったです。

 けれど、「昔ばなし」、「紙飛行機」や「昭和の歌謡曲」、そして、日本の山や風、海や川などは、相変らずやさしく、人の心を癒してくれています。
 そのことを、歌に託しているものが、今の流行歌になっているのは、まだまだ、日本の未来に希望があるということだと、思いたいですね。

<海と空>



  次回は、2016年後半の流行歌の歌詞に乗せて、後半の出来ごとと流行歌、そして2017年の目標の話まで、したいなと思っています。

 では、2016年1年間、このブログをお読みいただき、本当にありがとうございました。
 そして、2017年もよろしくお願いします。    

2016年12月25日日曜日

ロンドンの冬に奇跡を起こした名作「クリスマス・キャロル」

クリスマスの時期になると、名作が読みたくなります。
 そこで今回は、現在の私たちのクリスマスの過ごし方の教訓にもなる、クリスマス小説の名作中の名作「クリスマス・キャロル」の話を紹介します。


 小説「クリスマス・キャロル」は、1843(天保14=江戸時代末期)年12月19日、チャールズ・ディケンズ(1812年~1870年)がイギリス・ロンドンで発表・出版しました。


<初版本「クリスマス・キャロル」>



 この小説の主人公エベネーダ・スクルージは、ロンドンの下町に「スクルージ&マーレイ商会」という店を構え、安い給料で書記のボブ・クラチットを雇っていますが、血も涙もない、ケチで強欲で「金儲け」一筋の、評判のよくない「初老の商人」でした。

 共同経営者だったマーレイが亡くなった時も、彼への香典を渋り、棺桶の上に供えてあった冥土にもっていくためのお金まで獲ってしまうほど強欲でした。

 また、書記のクラチットとは、「家族と暖かいクリスマス」を過ごせないほど薄給であったので、クラチット家のクリスマスは貧しく、末っ子のティム少年は病気になっていました。

 そんな人の不幸は気にもせず、強欲でケチなスクルージが、クリスマス・イヴに一人で暖炉の前でウトウトしていた時、亡くなったはずのマーレイが現れました。

 マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるかを、スクルージに話し、半信半疑のスクルージに、悲惨な結末を回避し新しい人生へと生き方を変えるため、3人の幽霊がこれから彼の前に出現すると伝えます。

 第1の「過去のクリスマスの幽霊」は、こびとのように小さな幽霊でした。
 その幽霊は、スクルージを彼の少年時代につれていきます。

 スクルージは、最初、裕福な家のお坊ちゃんでしたが家が没落し、いじめられ一人ぼっちになりました。それでも本を読み、ロビンソン・クルーソーに憧れ夢をもった少年でした。
 スクルージ自身も忘れていた、自分の少年時代の姿でした。

 さらに第1の幽霊は、スクルージが青春の頃、つきあっていた彼女が「お金や物にどん欲になるのはやめて。もう別れるわ。」と言って、スクルージとけんか別れをした場面を見せます。

 その後、元彼女は貧しくても子供たちに囲まれた明るい家庭を築き、スクルージはお金持ちになっても寂しい孤独な人生を送つことになりました。

 そんな姿を見せられたスクルージは「とても見ていられない」と叫びます。
 すると、第1の幽霊は消え、スクルージは1人、自宅のベットへ帰って寝ていました。


<ディケンズを肖像画に起用したイギリス紙幣(1992年~2003年発行)>



 ここでディケンズのプロフィールを紹介します。

 チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズは、1812(文化9=江戸後期)年2月7日、イギリス・イングランドのハンプシャー州ランドポートで生まれました。

 小さい頃は病弱ですが、読書の好きな男の子でした。
 お父さんは海軍の会計吏でしたが浪費家で、1824年、ディケンズが12歳の時に実家が破産し、親戚の靴墨工場へ働きに出されることになりました。ディケンスは、学校へは通算で4年間しか行っていません。

 1827年、15歳の時、ディケンズは法律事務所に勤めながら速記術を取得し、法廷の速記記者になりました。
 また、1834年、22歳の時には「モーニング・クロニクル」紙の報道記者になり、ジャーナリストとしての活動を本格化します。

 1836年、24歳の時に、ペンネーム「ボズ」で書いた「ボズのスケッチ集」が出版され、注目されました。この年、編集者の娘、キャサリン・ボガースと結婚し、10人の子供に恵まれます。

 翌年、1837年に発表した『ピクウイック・ペーパーズ』は、 初老の紳士ピックウィックが若い友人たちと気ままにイギリス中を旅し、様々な冒険や人々と出会う物語で、大人気となり、ディケンズは小説家として認められるおとになりました。

 1838年には、孤児オリバーが困難に立ち向かいながら成長する長編小説で、代表作の一つとなった『オリバー・ツイスト』を発表し、ディケンズの作家の地位を不動のものにします。

 その後も、1843年に発表した名作「クリスマス・キャロル」をはじめ、1859年に発表しフランス革命を背景にした作品「二都物語」や、1860年から1861年に発表された孤児のピップが少年・青年時代を回想する作品「大いなる遺産」など、多くの作品が、名作として残っていて、映画化されているものも多くあります。(特に、「クリスマス・キャロル」は映画化の多い作品です。)

 デイケンズの作品は、下層階級(孤児など)が主人公の作品が多く、弱者の視点から社会問題を書いた人物として、イギリスでは紙幣に肖像画が採用(1992年~2003年)されるほどの文豪として尊敬されています。

 ディケンズは、1870(明治3)年6月9日、イギリス・イングランドのケント州にある自宅で脳卒中のため、58歳で亡くなりました。


 さて、「クリスマス・キャロル」の話に戻りましょう。

 2番目にスクルージの前に現れたのは、大きく華やかな第2の「現在のクリスマスの幽霊」でした。
 第2の幽霊は、スクルージにロンドンの庶民の貧乏ながらも、明るく助け合っている家族のクリスマスを見せます。

 特に、スクルージの使用人ボブ・クラチットの家族は、貧乏ながらも明るい8人家族で、楽しそうにクリスマスを祝っています。
 しかし、末っ子のティムは足が悪く、今にも倒れそうです。
 「スクルージがケチで給料を上げてくれないから、うちは貧乏なのよ。」という家族に、ボブは「雇ってくれているスクルージさんの悪口を言ってはいけないよ。スクルージさんに、乾杯」と祝福します。

 スクルージと幽霊は、さらに世界中を旅します。
 それぞれの家族が悩みをもっていますが、現状に幸福を見つけて、みんな「クリスマス」の夜に笑顔で乾杯しています。

 でも、世界は人口が増え続けていて、やがて破滅を迎えそうです。
「どうすれば、いいんだね?」
 スクルージが第2の幽霊に聞くと、「余分な人口を減らす監獄はないのかね」と、いつかスクルージ自身が慈善の寄付集めに来た紳士に言った言葉を投げ返してきました。
 悲しい後悔の思いで、スクルージは第2の幽霊との旅を終えて、疲れきって再び眠りにつきます。


<チャールズ・ディケンズ博物館(イギリス・ロンドン)>




 
 
ここで、小説のタイトルの「クリスマス・キャロル」について、ミニ知識を紹介します。

 「クリスマス・キャロル」とは、キリスト教圏で、イエス・キリストの誕生に関係した歌のことで、教会のいわゆる賛美歌の中で、キリスト誕生に関係したものをさします。
 日本で最も知られているのは「きよしこの夜」で、日本のカトリック教会では、聖歌集111番「しずけき」として親しまれています。

 ただ、「赤鼻のトナカイ」や「ホワイトクリスマス」などの、いわゆる「クリスマス・ソング」全体がクリスマス・キャロルかというと、意見が分かれているのが現状です。

 ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」では、冒頭部分で、少年がスクルージに歌いかける部分として、「世の人忘るな」というクリスマス・キャロルが登場しています。



 それでは、最後となる3番目の「未来の幽霊」の登場です。
 最後の幽霊は、黒づくめで不気味で、スクルージと話すこともありません。

 幽霊につれられてスクルージが行った未来の世界では、街中である男の死が噂になっています。
「あのクソ爺がくたばった。」「参列するものもいないだろう。」「悪魔め。」
 スクルージは、最初、それが誰のことだかわかりませんでした。

 暗い家で、盗人に身ぐるみはがれた老人の死体は、誰も悲しんだり泣いたりする人がいないまま、墓地に運ばれます。
 第3の幽霊が、その老人が埋葬された墓碑銘についた埃を払うと、そこには「エベネーダ・スクルージ」という名前が浮かびあがります。

 スクルージは驚愕し、反省します。
 スクルージは第3の幽霊に、「お願いです。今までの生活を悔い改めて、善行をするから助けてください。」
 第3の幽霊は、返事をせず黙って姿を消します。

 「今までの醜い影を消せないことは無いのだ、消せるとも、きっと消せるとも!」。
 クリスマスの朝、目覚めたスクルージは、「未来」はまだ変えられると自分に言い聞かせます。

 それからの彼の生活は一変します。
 冷酷で無慈悲で、エゴイストで守銭奴であった彼は、3人の幽霊との出会いによって、人間の心の温かさ、愛情の尊さに気付きます。彼は善行に生きることを誓ったのです。

 彼は、ボブ・クラチットの給料を上げ、クリスマスのお祝いに、クラチット一家に匿名で七面鳥を送ります。また、テイムの病気の治療費も出すと約束します。

 何の儲けも与えないクリスマスなのに、晴れ着に身を包んだスクルージは外出します。
 そこで昨日、寄付を断った紳士に、多額の寄付を申し出て驚かせます。

 スクルージはそれ以来、彼の住む地域の、かつて無いほどの善き友となり、善き主人になり、素晴らしい人間に変身しました。
 彼の変身ぶりを笑う人がいても彼はそんなことなど気にもせず、ひたすら善行に努め、町の活性化のために尽くしました。

 その結果、「もしも生きている人間の中で、クリスマスの祝い方を一番よく知っているものがいるとすれば、それはスクルージ、その人だ」と云われるようになりました。

                    (完)

<日本某所のクリスマスツリー>



 ディケンズが「クリスマス・キャロル」を発表した19世紀前半のイギリス・ロンドンは、産業革命の直後で、工業化や都市化が進み、失業者の増加、病気の流行、貧富の格差の拡大とスラム街の出現、長時間労働など、多くの都市問題が噴出していました。

 街にクリスマスツリーはなく、プレゼントやカードを交換し、クリスマスを祝うこともありませんでした。
 そんな社会状況を見たディケンズは、人々に経済やお金、至上主義ではなく、人を思いやる心、やさしさをなくさないようにするため、せめてクリスマスには、自分の過去・現在・未来を見つめ直そうという気持ちを込めて、「クリスマス・キャロル」を発表しただと、私は思います。


 「クリスマス・キャロル」は、発売1週間で6000部を売り上げる、大ベストセラーになりました。
 街では、クリスマス・キャロルの中で使われた「メリークリスマス」という、クリスマスの挨拶が流行し、お金もちや有名人からの善意の寄付の申し出が相次ぎました。

 また、クリスマス・カードやクラッカーの発売、クリスマスツリーのドイツからイギリスへの輸入などは、「クリスマス・キャロル」が発売されて5年以内の1840年代に行われ、ロンドンのクリスマスは、「あったかく明るいもの」に一変しました。

 まさに、一つの小説が、イギリス社会を変え「ロンドンの冬をあったかくした」と言っても過言ではありません。


 21世紀の日本も、例外ではないと想います。
 せめてクリスマスからお正月にかけての間だけでも、「経済、金、競争」に明け暮れずに、一人一人が、自分の中のスクルージと向かい合って、過去、現在、未来を、考えてみてもいいのではないかと、思います。

 そう、「未来はまだ変えられる」のです。
 それでは、メリークリスマス!
 (12月25日が過ぎても、まだ、遅くはありませんよ。欧米では、12月25日のキリスト生誕祭から翌年1月6日のイエスが洗礼を受けた公現祭までをクリスマス休暇とするのが一般的ですから。)


 最後に、クリスマスの名曲の一つ、「すてきなホリディ♪」(ケンタッキーフライドチキンのCM曲)の歌詞の一部を紹介します。


♪「すてきなホリディ」♪
(作詞・作曲・歌 竹内まりや)


♪(前略)
クリスマスは 誰にもやってくる
もしひとりぼっちでも 淋しがらずに
心に住む サンタに呼びかけて
幼い頃の夢を 思い出してごらんよ

クリスマスが 今年もやってくる
悲しかった出来事を 消し去るように
さあ パジャマを脱いだら 出かけよう
少しずつ 白くなる 街路樹を駆け抜けて

Happy happy  holidays  ♪


2016年12月19日月曜日

アイドルの坂道(1)乃木坂46の1番人気は人見知りの関西女子・西野七瀬

長い間、「どうせアイドルだろ」みたいな気持ちで、興味なかったのですが、「貧乏な家計・家族を助けるためにアイドルになって、家族の生活のメドがたったので卒業、芸能界も引退」という、「家族想いアイドルの乃木坂46・橋本奈々未さん(愛称:ななみん)」のことを知って、急にアイドルの一部に興味が出てきました。

 そこで、不連続で「アイドルの坂道」というシリーズを作り、今までに2回紹介した「乃木坂46」はもちろん、AKB48やジャニーズ、地下アイドルや昭和のアイドルまで、いろいろな「アイドル」の青春・人生を紹介したいと思っています。


 今、「空前のアイドルブーム」で、1000組以上、1万人以上とも言われる、日本のアイドルたちは、坂道を登ったり、転んだり、転げ落ちたりしています。
 そんな「アイドル戦国時代」の中で、頂点に立っているグループの一つが「乃木坂46」です。

 「乃木坂46」の今の人気は「すごい」の一言に尽きます。
 2016(平成28)年12月に開催した、「武道館 クリスマス・コンサート」では、選抜メンバーの2日間はもちろん、アンダーメンバーの2日間も、そしてデビューしたばかりの3期生のライブまで、すべて完売し、5日間で6万人を動員しました。

 また、コンビニの雑誌コーナーを見てみると、「マガジン」「サンデー」「チャンピオン」「プレイボーイ」などの男性向けの漫画や雑誌の表紙を「乃木坂46」のメンバーが表紙を飾っているのをはじめ、女性向けファッション雑誌の専属モデルも5人以上いて、12月だけで「Sweet」、「non-no」、「Ray」、「cancam」など一流のファッション雑誌の写真を席巻しています。

 他にも、2年連続2度めの「NHK紅白歌合戦」の出場が決まっているのはもちろんですが、
コンピューターメーカーの「mouse」や「明治」の乳飲料、「パナソニック充電池」などの新CMも始まっています。

 乃木坂46を知らない人も、テレビ番組や雑誌、CM,ラジオなどで、知らないうちに、彼女たちを見たり、曲や声を聞いたりしていると思います。

 今回は、そんな飛ぶ鳥を落とす勢いの「乃木坂46」の中でも人気ナンバーワンで、人見知りで動物好きの関西女子・西野七瀬(にしの・ななせ)さんを中心に紹介したいと思います。

<写真:西野七瀬さんが大好きなハト>

 




 西野七瀬(本名)さんは、「阪神大震災」の前年、1994(平成6)年5月25日、大阪府大阪市平野区の出身で、愛称は「なぁちゃん」「ななせまる」などと言われています。

 七瀬さんは、「バリバリの関西女子」ですが、小さい頃からおとなしく、人見知りで団体行動が苦手な女の子でした。
 うどんと絵、プールでの潜水が好きで「潜水のナナ」と呼ばれていました。
 中学校ではバスケットボール部に入りますが、めんどくさい「女子とのつきあい」が苦手で、1年の夏休みで退部しました。

 高校は、看護士のお母さんの薦めもあって、「看護コース」のある大阪府立松原高等学校に入りました。七瀬さんは、相変わらず人見知りのおとなしい女の子でしたが、「家族旅行で東京・原宿へ行った時、1日で7人にスカウトされた」ほど、かわいい女子高校生になっていました。


 西野七瀬さんが高校2年の夏休み、2011年8月に「乃木坂46」の1期生のオーデションがあり、お母さんが応募しました。
 3万8934人の応募者から、1000倍以上の倍率で選ばれた36人の中に、17歳の西野七瀬さんの名前がありました。

 最初、七瀬さんは、レビュー前のレッスンでは大阪から東京へ「通っていましたが、他のメンバーにおいていかれないために自分で上京して寮に入ることを決意し、高校も東京都目黒区の日出高等学校の通信制に転学しました。
 七瀬さんの両親は、高校卒業までは自宅から通わせたかったのですが、七瀬さんは自分で退路を断ちました。

 乃木坂46に入るのも大変ですが、実は乃木坂46は、シングル曲ごとに「センター」や「福神(AKB48の「神セブン」に対応するフロント・ポジション)」、16人前後の「選抜」、そしてテレビ等に基本出られない「アンダー」などのポジションが変わる競争社会で、精神的にかなり大変です。

 西野七瀬さんは、1枚目、2枚目の曲では「選抜」で、3枚目で初めてフロントの「福神」になりました。
 ところが、2012年12月発売の4枚目のシングル「制服のマネキン」では、学業のため休業していた秋元真夏さんが復帰したことにより、押し出される形で「福神」から「選抜」に落ち、続く5枚目でも選抜のままで、悔しい思いをしました。
 しかし、ここで西野七瀬さんは、精神的に成長しました。

2013年7月発売の6枚目シングル「ガールズルール」で七瀬さんは半年ぶりに「福神」に復帰し、    2014年4月発売の8枚目シングル「気づいたら片想い」で初めてセンターに抜擢されました。

 その後は、9枚目の「夏のFree&Easy」(2014年7月」、11枚目の「命は美しい」(2015年3月」、13枚目の「今、話したい誰かがいる」(2015年10月)と、西野七瀬さんは4度のセンターを経験しました。これは、デビュー時から5作連続を含む6回のセンターを務めた生駒里奈さんに次ぐ記録で、ここ2年間では最多です。

 しかし、彼女は相変わらず「人見知りで泣き虫」で、特に標準語のトークは苦手です。
 お笑いコンビ「くりぃむしちゅーの上田晋也」さんがMCを務めるトーク番組では、「お焼香をしてるの?」と言われるほど暗い顔をしていました。

 しかし、関西弁を話すと、「日本一かわいい関西女子」と言われていて、テレビ番組でも大人気です。
 たとえば、上田晋也さんに対しても、
「あんなぁ、あたし上田さんのことが、好きになってしもうたんやけど、どうしたらいい?」と言って、秒殺してしまいました。


 また、動物好きとしても知られていて、犬やネコはもちろん、トカゲやヘビなどの「は虫類」や、フクロウなどの鳥類も平気で触ることができます。
 
 特に、鳥類が好きで、「ハトの講義」(?)も、熱く語っています。(以下、西野七瀬さんの言葉)

「私はハトが大好きアイドルです。
 まずは、ヤマバトの鳴き声が好きで、ホッホーホホ、ホッホーホホというようにリズム感をもっていて犬やネコのようにワンパターンではなく、新しいなあ(?)、と思います。
 次の魅力は色です。グレーの羽にピンクの足がアクセントで、首は紫か緑です。この色のバランスが絶妙で、駅でも住宅街でもどこにでも馴染める感じが好きです。
 いつかは、ハトをテーマにしたファッションにも挑戦したいと思っています。
 1番好きな鳥は雷鳥で、1番嫌いな鳥は羽がなくて肉みたいなヒヨコです(?)。」
(テレビ東京系「乃木坂ってどこ」より)

<乃木坂駅に張りだされた乃木坂46のポスター(1番手前が西野七瀬さん)>
 





 「乃木坂46」が、トップアイドルとして坂道を駆け上がる中でも、西野七瀬さんは握手会やグッズの売り上げが乃木坂ナンバーワンで、「風を着替えて」(2016年)という「ソロ写真集」の売り上げも87000冊以上を売り上げ、「オリコンの2016年写真集ランキング」で女優の広瀬すずさん(2位)を押さえてトップを記録しています。

 ちなみに、この写真集ランキングで、ベスト5のうち3つまでが「乃木坂46」関係で占められ、AKB48は5位に「AKB総選挙 水着サプライズ写真集」が入っているだけです。

 また、七瀬さんデザインの耳かきの梵天(ふわふわした部分)の神様「どいやさん」が、キディランドで2013年から発売され、「乃木坂グッズ」で売り上げ1番人気になりました。

 さらに、西野七瀬さんは、人気ファッション誌「non-no」の専属モデルも務め、「ピザハット」のCMでの単独出演をはじめ、「mouse」や「明治」など乃木坂46の多くのCMにも出演し、不動の1番人気となっています。

 デビュー曲のキャンペーン時のテッシュ配りでは、通行人にテッシュが配れずに泣き出すほど、「人見知り」で「泣き虫」の西野七瀬さんですが、自身が初センターを務めるCDのヒット祈願のためには、ギネス世界記録で233mの高さの「マカオタワー」からバンジージャンプを飛ぶなど、プロ意識も半端ではありません。

 西野七瀬さんのすごさは、ファンの人気が1番だけではなく、メンバーなどのまわりの女子にも人気がある点です。乃木坂46のメンバーに「彼女にしたいメンバー」のアンケートをとると、七瀬さんがダントツ1位になり、ライバルのはずのAKB48のメンバーにも「熱烈な西野ファン」がいるほどです。 

<西野七瀬さんがバンジージャンプしたマカオタワー>



 ここで、私自身も馴染みのないAKB48や乃木坂46の「握手会」について、少し説明します。
 「握手会」は、ライブコンサートとともに、「会いに行けるアイドル」の2大イベントです。

 乃木坂46の「全国握手会」(全握と呼ばれます)を例にとると、参加券は、特典付きCDなどに封入されており(通常版CDには入っていません)、そのことがCD売り上げにつながっていると言われています。

 握手会会場では、「荷物チェック→金属探知機チェック→荷物を置く→メンバーと握手→荷物を受け取る」の流れで、メンバー1人との握手またはミニライブ参加に、1枚ずつ参加券が必要です。
 1枚で握手できる時間は、3~5秒で時間がくると係員(はがしと呼ばれています)に押し出されます。  

 乃木坂46の「全国握手会」には、基本的に1レーンに2人のメンバーがいてファンがどこに並ぶか選択できますが、特に人気のメンバーは1レーン1人の「ソロレーン」があります。
 人気のメンバーは、数時間待ちもあるそうです。

 ちなみに、1番最近に首都圏で実施された「全国握手会」のレーンは次のとおりです。

<2016年11月23日 千葉・幕張メッセ>

△第1レーン  橋本奈々未(16枚目センター、卒業・引退)
△第2レーン  西野七瀬
△第3レーン  白石麻衣
△第4レーン  斉藤飛鳥
△第5レーン  衛藤美彩
△第6レーン  秋元真夏
△第7レーン  若月佑美
△第8~20レーン 各2人×13レーン
伊藤純奈、生田絵梨花、山崎怜奈は欠席

 この「ソロレーン」の7人と、欠席している生田絵梨花さんの8人が、「乃木坂46」で最も人気があるメンバーかなと、思います。


 最後に、「乃木坂46」と西野七瀬さんの人気を象徴する出来事を紹介します。 
 
  乃木坂46とMCのバナナマンが出演するテレビ東京系の番組「乃木坂工事中」(日曜深夜0時~)
 での話です。 

 乃木坂46の「お宝」を専門業者に鑑定してもらう番組でのエピソードです。

 橋本奈々未さんがもってきた7年前の雑誌「月刊バスケットボール」に、高校インターハイのバスケットボール出場チーム特集」として、マネージャーとして高校時代の橋本奈々未さんが写っているものが、通常10円の価値が、300円と鑑定されました。
 ところが、もし橋本奈々未さんのサインを入れると8000円に査定があがると鑑定され、乃木坂の今の人気を裏付けました。

 また、大リーグ「ヤンキーズ」の田中将大選手が、誕生日のお祝いをしてくれた乃木坂46のメンバーにお礼にくれたグローブのうち、西野七瀬さんのもの(なあちゃんの刺繍入り)が、10万円と鑑定されました。

 さらにすごいのが、持ち主の西野七瀬さんがグローブにサインを入れると、倍、つまり20万円になるという鑑定がされました。
 乃木坂46の1番人気の西野七瀬さんのサインは、10万円ってことなのかなあと思うと、今の「乃木坂46」の人気のすごさを示すエピソードですごいですね。


<西野七瀬さんデザインのグッズ どいやさん>


 一言にアイドルと言っても、年収数千万円のトップアイドルから、数百円の出演料の地下アイドルまで、いろいろいるようです。
 ただ、今をときめくトップアイドル「乃木坂46」が、過激・グラマー路線ではなく、ミニスカートやビキニ、マニキュア原則NGの正当派アイドルであるのは、嬉しいことだと思います。

 また、乃木坂46の中心メンバーには、「家族のための生活費と弟の学費を稼ぐためにアイドルになり、自宅を買って引退・卒業」する橋本奈々未さんや、「元ひきこもり・不登校」の白石麻衣さん、ミャンマー人と日本人のハーフの斉藤飛鳥さん、人見知りで動物好きの関西女子・西野七瀬さんらがいるということは、すごく嬉しいことだと思います。


 最後は、乃木坂46のドキュメンタリー映画の表題でテーマソングでもある「悲しみの忘れ方」の歌詞の一部を紹介します。


♪「悲しみの忘れ方」(歌:乃木坂46、作詞:秋元康 作曲:近藤圭一)♪

♪ 
爽やかな風が吹いて 
木々の枝 揺らしている
木漏れ日のその下を 歩きながら想う
どんな道も きっと どこかへ続く

あの頃の私たちは
今いる場所も わからずに
暗くて見えない道 星を探すように
胸の奥の夢を 手がかりにしてた

つらいことも いっぱいあった
いくつもの坂 登った

迷ってるのは 
私たちだけじゃないんだ
そばにいつだって 誰かいる
いいことひとつ 
今日の中に見つけて
悲しみをひとつ
忘れようとして来た

(中略)

思い通りに 
何も行かないけれど
それでも 誰もが前を向く
みんな同じだ
迷い悩み傷つく
悲しくなったら
もっともっと泣こうよ♪


<一句>
アイドルが 闇夜で探す 宵の明星


<写真 宵の明星>



2016年12月12日月曜日

なぜ安倍首相は「12月15日・山口」で日露首脳会談を開催するのか? 幕末・高杉晋作が起こした奇跡

2016(平成28)年12月15日、日本の安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領が、山口県で「日露首脳会議」を開催することが予定されています。
 日本国内での首脳会議が、東京などの大都市以外で開催されるのは、警護の問題などもあって、サミットを除けばきわめて異例です。
 今回の首脳会議の「12月15日・山口県」での開催は、安倍晋三首相のたっての希望だということです。

 では、なぜ、この日、この場所に、安倍首相はこだわったのでしょうか。

 私は、「晋三の晋は、高杉晋作の名前からとっている。」と公言する安倍首相が、幕末の長州(山口県)で高杉晋作が12月15日に起こした「歴史的奇跡」を念頭に、「2016年12月15日にも山口で奇跡を起こしたい」という思いで、決めたのではないかと思っています。

 そこで、今回は、幕末の長州(山口県)で、風雲児・高杉晋作(たかすぎ・しんさく)が12月15日
に起こした奇跡を中心に紹介します。


<長州(山口県)出身の幕末の英雄 高杉晋作>





 元治元(1864)年11月の時点では、実は、長州を中心とする尊皇攘夷派の倒幕運動の灯は、ほとんど消えかかり、「風前の灯火」の状態でした。
 この頃、高杉晋作が読んだ俳句にも、「ともし火の 影ほそく見ゆ 今宵かな」という心細いものがあります。


 それでは、歴史的な経緯を紹介します。 

 幕末の文久3(1863)年8月18日に京都で起きた政変で、それまで京都の朝廷・公家に強い影響力をもっていた長州藩を中心とする「尊皇攘夷派」が、会津藩(福島県)・薩摩藩(鹿児島県)など幕府に近い「公武合体派」に、京都政局から追放されました。

 さらに翌年、元治元(1864)年6月5日には、京都の治安維持をしていた会津藩おかかえの新撰組の近藤勇・沖田総司などが、京都市中の池田屋に集まっていた長州藩出身者を中心とした尊皇攘夷派の武士・浪人数十人を急襲し、多くの尊皇攘夷派が殺害・捕縛されました。(「池田屋事件」)

 これらの事件を受けて、元治元(1864)年7月19日、前年に京都を追放された長州藩が、藩の正式な兵士約2000人を京都へ上らせ、会津藩・薩摩藩を中心とする御所を守っていた公武合体派と戦闘になりました。
 この戦闘では公武合体派が勝利し、長州藩の来島又兵衛や久坂玄瑞など、約400人が戦死しました。
(「禁門の変」、または「蛤御門(はまぐりごもん)の変」といいます)
 この戦闘によって、京都御所に銃口を向けた長州藩は「朝敵」となりました。

 一方、長州(山口県)本土でも、「蛤御門の変」で京都で敗退した翌月の文久4(1864)年8月に、前年に長州藩の砲撃を受けたイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヶ国の艦隊が馬関(ばかん=山口県下関市)に砲撃を加え上陸して、一時、占領しました。(馬関戦争)

 窮地に立った長州藩は、「脱藩罪」で投獄していた高杉晋作を赦免し家老の息子に仕立て上げて、イギリスなど4ヶ国との和平交渉役に抜擢しました。

 高杉晋作は堂々と外国の代表と渡り合い、下関開港を認める代わりに、「賠償金は幕府に請求すること」「4ヶ国が要求した下関沖の島・彦島の租借は拒否する」という2点だけは、譲りませんでした。
 彦島を外国に渡さなかったのは、中国・上海に渡航経験があった高杉晋作が、香港の二の舞にならないようにとの強い決意があったからだと言われています。

 高杉晋作の登場で、長州と4ヶ国との和平は成立しましたが、京都の「蛤御門の変」によって朝敵(朝廷の敵)とされた長州藩を征伐するよう朝廷から江戸幕府に命令があり、11月には、幕府の命令を受けた全国35藩の15万人の兵が、長州(山口県)を取り囲む事態になりました。(第一次長州征伐)


 絶体絶命の長州藩は幕府の要求を飲み、藩主親子が謝罪し、「蛤御門の変」の首謀者として、尊皇攘夷派(正義派)の三家老が切腹、四参謀が斬首になりました。

 このあと、長州藩内では幕府寄りの保守派が実権を握り、幕府と対立し朝廷政権を目指した「正義派」は弾圧され、中心人物の一人、井上聞多が9月に襲撃され重症を負ったのをはじめ、身分に関係ない軍隊として高杉晋作が創設した「奇兵隊」にも解散命令が出されました。

 4ヶ国との和平を実現した高杉晋作にも追手が迫ったため、九州に逃亡しました。

 元治元年12月始めは、このような状況で「幕府から朝廷」への政権移譲を目指した反幕府勢力の中心的な役割を果たしてきた「長州藩(山口県)」も、幕末の志士たちも、壊滅寸前でした。
 
 四面楚歌、そのような状況の中で「勝ち目のない決起」を起こすために九州から帰ってきたのが、高杉晋作(たかすぎ・しんさく)でした。   

 11月下旬に長州に帰ってきた高杉晋作は、奇兵隊の諸隊を説得します。

「このままでは壊滅するのを待つだけだ。今は、決起こそが未来を開く唯一の道だ。
(以上は高杉晋作の意見を要約。以後は実際の高杉晋作の言葉の現代語訳)
 僕に一匹の馬を貸してくれ。僕はそれに乗って萩(当時、藩主がいた萩城)の君公(毛利の藩主親子)のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす。」

 この言葉を残して、高杉晋作は現在の下関市にある「功山寺(こうざんじ)」で、決起します。

 時に、元治元年12月15日(西暦1865年1月12日)、雪の功山寺で高杉晋作は、伊藤俊輔(のちの初代総理大臣伊藤博文)が率いる力士隊と遊撃隊のわずか84人で、長州藩正規軍(その裏には15万人の幕府軍もいます。)を相手に決起します。(「功山寺決起」)

 高杉晋作は、当時、功山寺に幽閉されていた三条実美など五卿に「これより長州男児の腕前をお目にかけます。」と挨拶して、出陣したという記録が残っています。

 本当は、12月14日、そうです「赤穂浪士の討ち入り」の日に晋作は決起したかったのですが、準備の関係で1日ずれてしまったのですが、雪の降ったのは、赤穂浪士の討ち入りと同じでした。


 高杉晋作ら84人が捨て身で起こした「功山寺決起」は、奇兵隊や長州の民衆の支持を得て成功し、大勢力となって、翌元治2年1月には、長州藩の正規軍とも激突しますが勝利します。
 2月には、萩に入った晋作率いる奇兵隊などの「正義派」が、長州藩を掌握します。

 その後、慶応2(1866)年1月には、長州藩と薩摩藩は「薩長同盟」を坂本龍馬の仲介で成立します。
 さらに、慶応2年6月から8月にかけての長州軍と「幕府軍+諸藩」が戦った第二次長州征伐でも、高杉晋作は長州軍の海軍総督として幕府軍を破り、倒幕・明治維新への流れを確かなものにしていきます。

 元治元年12月15日に高杉晋作が起こした「功山寺決起」は、幕末から明治に向かう流れの本当の導火線に火をつけた「日本史上の奇跡」だったのです。


<高杉晋作の功山寺挙兵の銅像(山口県下関市)>





 ここで、高杉晋作のプロフィールを、紹介します。

 高杉晋作(たかすぎ・しんさく)は、天保10年8月20日(西暦1839年9月27日)、長州藩士の長男として萩城下(山口県萩市)で生まれました。

 藩校の明倫館に通いながら、吉田松陰が萩郊外で主宰していた「松下村塾」にも通い、尊皇攘夷の志を学んで久坂玄瑞らと並ぶ「松下村塾の四天王」と言われました。
 剣術でも、「柳生新陰流」の免許皆伝の腕前でした。

 安政5(1858)年、19歳の時に江戸に藩名で遊学し、諸藩の志士と交流します。
 また、安政6(1859)年に師の吉田松陰が安政の大獄で捕らえられると、江戸の伝馬町獄を見舞って世話をします。
 しかし、藩名で萩へ帰国する途中に、吉田松陰の処刑を知ります。
 万延元(1860)年には、防長一の美人と呼ばれた「井上まさ」と結婚します。 
 
 文久2(1862)年には、(NHKの朝の連続ドラマ小説「あさが来た」でディーン・フジオカが演じてブレイクした)薩摩の五代友厚らと、幕府使節の随行員として中国の上海を訪れます。
 晋作は、ここで西洋列強の植民地となりつつある「清」を自分の目で見たことで、考えかたを大きく国際情勢重視に転換します。

 文久4(1864)年1月、晋作は脱藩の罪で捕まり、萩郊外の「野山獄」に投獄されます。
 しかし、結果的には、この投獄のおかげで晋作は、「池田屋事件」や「蛤御門の変」に巻き込まれず、命を延命することになります。

 この年の8月、イギリスなど4ヶ国艦隊に下関を占領されると、長州藩は、上海渡航の経験がある晋作を赦免し、4ヶ国との和議交渉にあたるように命令します。
 晋作は。見事にこの和平交渉を成立させます。

 しかし、「第一次長州征伐」で保守派が長州藩を牛耳ると、晋作は命の危険を察知して九州福岡へ逃亡します。
 九州諸藩の志士に決起を呼びかけますが応じるものはなく、長州藩の情勢悪化を知り、決死の覚悟で長州へ帰国して、12月15日に「功山寺決起」を敢行し、見事に成功させます。

 その後、晋作は三田尻(山口県防府市)の長州藩の海軍局を襲い、軍艦を奪って海軍を手に入れます。
 さらに、奇兵隊や商人、農民なども味方につけて、長州の正規軍を撃破して、藩の実権を握ります。
 
 慶応2(1866)年夏の「幕府・諸藩連合軍対長州軍」の「第二次長州征伐(四境戦争」でも、幕府軍15万人を敵に回して、長州軍4千人ほどを率いて戦い、見事に勝利します。
 このことで、幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3(1867)年の大政奉還、そして戊申戦争、明治維新へとつながっていきます。

 しかし、戦いに勝利した高杉晋作は、当時の不治の病「肺結核」にかかっており、明治維新の前年の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に、下関市内の桜山で満27歳で病死します。


 高杉晋作は、その生涯に多くの逸話を残しています。

 品川の「イギリス公使館」を焼き討ちしたり、天皇を護衛していた将軍に「よお、征夷大将軍」と声をかけたり、愛人の「おうの」と亡命中に讃岐(香川県)の金比羅さんを参拝したり、江戸時代としては、考えられないほど自由に生きています。
 そして、ついには、江戸幕府の終焉を決定づけたのも晋作でした。

 因(ちな)みに、東行庵の「東行(とうぎょう)」とは、平安時代のさすらいの詩人、「西行」の向こうを張って晋作が好んで使った名前です。
 「その生涯が1篇の詩になるものを英雄」という司馬遼太郎さんの言葉どおり、高杉晋作の生涯は、まさに1篇の詩であったと言えます。


<高杉晋作が眠る墓(山口県下関市)>





さて、平成28(2016)年の話に戻ります。
 
 安倍晋三首相は、高杉晋作の「功山寺挙兵」の記念すべき日、12月15日に、高杉晋作の功山寺挙兵の舞台であり、自らの選挙区でもある山口県に、ロシアのウラジミール・プーチン大統領を招待し、「日露首脳会談」を開催しようとしています。

 阿倍首相は自らのブログで、「私の名前の晋三の『晋』は、高杉晋作に由来します」と公表し、2014年には、高杉晋作の墓地(山口県下関市)を訪れ、「志が定まった」と話すほどの晋作ファンです。

 もしかすると、安倍晋三首相は、平成28年12月15日に山口県で行う「日露首脳会議」で、幕末の英雄・高杉晋作にあやかり、「歴史的ミラクル」を演出しようとしているのかも、知れませんね。


 私は、以前、高杉晋作が生まれた山口県萩市の生家を訪れたことがあります。
 藩の名家にしては、小さいなと思ったことが記憶に残っています。

 また、松下村塾(萩市)や、晋作が亡くなった東行庵(山口県下関市)、功山寺挙兵をした「功山寺」(同)にも行ったことがあります。

 その中でも、功山寺の隣にある「長府博物館」が特に印象に残っています。
 小さな博物館ですが、「牢獄にいて何もできない高杉晋作が、毎日のように握りしめていた愛玩石」が印象的でした。
 他にも、「支援してくれた豪商・白石正一郎への手紙」や「坂本龍馬の手紙」、さらには、あの乃木坂の起源となった長州藩の支藩・長府藩士の子である乃木希典陸軍大将の遺品も展示されていました。

<下関市立長府博物館>






 阿倍晋三首相が「12月15日・山口」の日露首脳会議で、ミラクル(奇跡)を起こすことができるかどうか、注目したいですね。
 そして、ぜひ、高杉晋作のように、志(こころざし)高く、みんなが自由でおもしろく生活できる平和な日本にしていただきたいものです。


「おもしろき こともなき世を おもしろく 棲(す)みなすものは 心なりけり」
(高杉晋作 辞世の句)


2016年12月4日日曜日

2016年「今年の漢字」大予想 ~大穴は「熊」、本命は?~

2016(平成28)年も、いよいよ12月ですね。
 流行語大賞に「神ってる」が選ばれ、次は「今年の漢字」ですね。

 去年、2015年の漢字を、「安」と見事に(?)本命で当てたので、その勢いで、今年も、予想してみようと思います。
 今年は、かなり難しそうですが-----今回も競馬風に、×△○◎の順に、予想をしてみます。

 まずは、大穴「×」の漢字を紹介します。
 私の予想は、「熊」です。

 「熊」は、訓読みで「くま」、音読みでは「ユウ」と読みますが、一般的には、ほぼ「くま」で使いますね。

 2016年の出来事の中で、「熊」の字に関係するニュースとして、一番大きいニュースは、「熊本地震」ですね。
 2016年4月に、気象庁が定める最大震度の「7」を2回記録し、地震による直接死だけで50人の方が犠牲になりました。
 その後、熊本県のキャラクター「くまもん」をはじめ、多くの芸能人・有名人が熊本復興に取り組んでおられます。

 「熊」のニュースでもう一つ話題になったのは、秋田県で4人が連続して犠牲になられたのをはじめ、全国で熊の被害が続出したことです。

 確かに「熊」という漢字は、2016年を代表する漢字の一つですが、明るいイメージがあまりないので「×」印です。

<くまもんの防虫ハンガー>



 
 
2016年の「今年の漢字」候補、2つめは△印の「驚」です。
「驚」は、音読みでキョウ(キャウ)、訓読みでは「おどろく・おどろかす」です。
 
 2016年は、「驚」のニュースが多かったと思います。
 おおかたのマスコミ予想に反してドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領に当選した「2016年最大の驚」。
 広島カープの「神っていた」25年ぶりのリーグ優勝や、日本ハムの大逆転日本一、大谷翔平選手の日本最速164kmの「驚」などもありました。
 他にも、リオ・オリンピックでバドミントンやレスリングなど、土壇場からの逆転での金メダルが多かったことも「驚」ですね。

 さらに、直前まで「消費税率を10%にする」ことを公約していた安倍政権が税率値上げを延期したこと、そして、ピコ太郎の「PPAP」が世界的ヒットになったのも「驚」ですね。
「驚」も、2016年の漢字の有力候補だと思います。


 ここで、「今年の漢字」の歴史と選出方法を紹介します。

 「今年の漢字」は、1995(平成7)年、阪神・淡路大震災の年に始まりまりました。
 ネットやはがきなどの一般投票で選ばれ、2016(平成28)年は12月5日が締め切りです。

 主催は、公益財団法人「日本漢字能力検定協会」で、その年の世相を反映する一文字「今年の漢字」を、日本を代表する名刹「京都・清水寺」の森清範貫主に書いていただき、清水寺のご本尊・「十一面千手観音像」に奉納する儀式を行います。
 この儀式により、「今年の漢字」に託された、その年の世相が清められ、これから迎える新年が明るい年になることを願って行う。ということになっています。

 ちなみに、2016年の「今年の漢字」の発表は、12月12日の「漢字の日」で、京都の「清水寺」で発表される予定です。
 この12月12日は、「いい日一字」の語呂合わせで「漢字の日」と言われています。

 これまでの「今年の漢字」の歴史を振り返ると、1995年、第1回の漢字は「震」で、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などの、自然・社会の「震」が漢字として選ばれました。
 その後も、アメリカ同時多発事件があった2001(平成13)年は「戦」、新潟県中越地震や台風の連続上陸があった2004(平成16)年は「災」など、全体的にはネガティブなイメージの漢字が、多く選ばれています。

 そんな中、特筆すべきは、2011(平成23)年の「絆」です。
 2011年は、2万人近い犠牲者が出た「東日本大震災」が発災して、日本中がどん底に打ちのめされた年でした。ところが、この年の漢字に選ばれたのは「絆(きずな)」でした。

 「今年の漢字」が始まって以来、最も大きな災害に見舞われた2011年の漢字が、「震」や「災」ではなく、最もポジティブな、助け合うという意味の「絆」であったことは、日本の誇りだと思っています。

 そして去年、2015年は、安保法制、安倍首相、「安心してください」の流行語などから、「安」が、このブログの予想どおり選ばれました。(エッヘン)


<「今年の漢字」の発表が行われる世界遺産・清水寺(京都市東山区)>



 では、2016年の「今年の漢字」大予想に戻りましょう。
 後半は、私が「対抗 ○」「本命 ◎」と思う、漢字を紹介します。

 まず「2016年 今年の漢字」の対抗(○)は、「異」です。
  音読みで「イ」、訓読みは「こと」「ことなる」などの読みがあります。

 2016年は「異常気象」が多く、観測史上はじめて「東北太平洋側から直接台風が上陸」のをはじめ、8月に3個の台風が北海道に上陸するなど、史上2番目に多い台風が上陸し、11月には東京で積雪が記録されるなど、全国各地でたくさんの「異常気象」がありました。

 他にも、「異次元」の金融緩和の日銀の「マイナス金利」や、外国人の訪日が史上最高を記録し「異文化」との交流も話題になりました。

 さらに、「異常、異なる」を感じさせるニュースも多く、「相模原障害施設の大量殺傷事件」をはじめ異常な事件も多かったと思います。


 いよいよ、「2016年 今年の漢字」の予想の本命「◎」です。

 私が考える今年の漢字の本命は「五」です。
 音読みで「ゴ」、訓読みで「いつ、いつつ」と読みます。

 この字を「今年の漢字」に選んだ最大の理由は「五輪」、つまりオリンピックの「五」です。
 リオデジャネイロ・オリンピックで日本選手団が過去最多のメダルをとり、日本中に感動を与えてくれました。
 ただ、金メダルの数は、2012年のロンドン・オリンピックの方が多かったので、2012年の今年の漢字「金」ではなく、今年は「五」を選びました。

 また、「東京オリンピック(五輪)」に関連した、会場選定や築地から豊洲への市場移転問題などが、2016年の後半はもめにもめたので、やっぱり「五」かなと思います。

 さらに言えば、年末に解散する「5人組のSMAP」や、話題の「ポケモン5(GO)?」にも、「5」はかかっているのではないかなと思います。(ポケモン5は苦しいですけど。笑)


  最後に、2016年の「今年の漢字」の私の予想を競馬風にまとめると、「◎五、〇異、△驚、×熊」です。
 この中に、今年の漢字は入っているでしょうか?
 今年は去年と違って、あまり自信がないのですが、12月12日を楽しみにしましょう。


<一首>

「熊・ポケモン 異常出没 日本で 五輪の名演 感動・驚き」

2016年11月28日月曜日

不登校・ハーフ・・個性的な35人の「乃木坂46」が300人のAKB48を超えた?

 先日、2016(平成28)年大晦日の「NHK紅白歌合戦」の出場歌手の発表がありました。 ここ数年、女性アイドルグループのトップを走ってきた「AKB48グループ」は、本体の「AKB48」1組だけの出場で、300人を超える全国のグループメンバーから投票で、紅白に出場する48人を決めることになりました。

 一方で、AKB48の公式ライバルとして5年前に発足した35人の「乃木坂(のぎざか)46」は、2年連続出場を決めた上、妹分の「欅坂(けやきざか)46」の初出場も決まりました。
 「46グループ」あるいは「坂道(グループ名に坂がつく乃木坂46や欅坂46などの総称)」が、AKB48の人気に追いつき、もしかした越えたのかも、知れませんね。

 前回は、「乃木坂46」のメンバー橋本奈々未(愛称「ななみん」)さんが「家計を助けるためにアイドルになり、乃木坂絶頂で卒業・芸能界引退を表明」という話を調べて紹介しました。

 いろいろ調べてみると、「乃木坂46」自体も、不登校だった子やハーフの子など個性的なメンバーがいて、結構おもしろいグループだということがわかりました。
 そこで、今回は「AKB48」の名実ともにライバルに成長した「乃木坂46」というグループと、推しメン(注目メンバー)について、紹介をしたいと思います。


<東京メトロ千代田線「乃木坂駅」>



以前紹介したように、「乃木坂46(のぎざかフォーティ・シックス)」は、2011年8月に「AKB48」の公式ライバルとして結成されたといえば聞こえはいいのですが、実は「AKB48」のシャドウー・キャビネット(影の内閣、組織)として結成されました。 「AKB48」がこれまで16回もオーデションをして、派生グループ(名古屋・栄町のSKE48、福岡市・博多のHKT48、大阪市・難波のNMB48など)を含めると、2016年11月現在で300人以上が在籍しています。
 一方、「乃木坂46」のメンバーは、2011年8月に1期生36名が1000倍を超える全国公募で選ばれましたが、その後は、「AKB48」のように毎年選ばれるのではなく、2013年5月に2期生13人(1000倍以上の倍率)が選ばれた以外は、2016年夏まで追加されませんでした。

 ですから、「乃木坂46」は「AKB48」に比べると、こじんまりとしたグループで、在籍者はこれまで「46人」を超えたことはありませんでした。
 ちなみに、2016年8月現在の「乃木坂46」の在籍者は35人です。

 その中でも、生駒里奈さん、生田絵梨花さん、橋本奈々未さんなど、センターを務めたことがある主要メンバー8人のうち7人は1期生で、現在も23人の1期生が正規メンバーとして活躍しています。

 彼女たちは、「乃木坂46」が「AKB48」の名前だけライバルと言われた時代から、苦労しながらも団結してきた5年間の経験がある原メンバーです。
 彼女たちがいることが、「乃木坂46」の強みなのかもしれませんね。


  そんな「乃木坂46」ですが、劇場をもたないので、2012(平成24)年1月に歌手レビューしたのは、なんと「AKB48グループ」200人以上とそのファンが集結していた会場(東京ドームシティホール)でした。

 「AKB48グループ」のメンバー200人以上が、コンサート開始前に団結を誓う掛け声をあげる片隅で、乃木坂46のメンバー30人余りは、遠慮がちに小さな声で掛け声をして、完全アウェイーの舞台で、「私たちには、AKB48さんという、越えなければならない坂道があります。」と宣言して歌いました。

 それからは、ミニ・コンサートや握手会、ラジオやテレビの深夜番組出演、雑誌などで地道に活動を続け、2012年のデビューの年に出した「ぐるぐるカーテン」など4曲は、いずれも20万枚を超えるヒットを記録し、その年のオリコンの「新人アーティスト部門」の1位になりました。

 続く2013(平成25)年も順調に売り上げをのばし、11月発売の7枚目シングル「バレッタ」は50万枚を超える大ヒットとなりました。そして、年末には「武道館ライブ」も実現しますが、ライバルの「AKB48」には遠く及ばない状態に変わりはありませんでした。

 2014(平成26)年も、CD売り上げは順調に伸び、10月に出した10枚目のシングル「何度目の青空か」は60万枚以上を売り上げます。
 しかし、この年、AKB48グループの派生グループSKE48の中心メンバーの一人・松井玲奈さんと、「乃木坂46」でデビュー曲から5枚目までセンターを務めた生駒里奈さんの交換留学が発表されると、「私たちの存在意義は、AKB48の公式ライバルじゃなかったの?」という疑問の声が、メンバーたちからあがり、グループ内がギスギスします。

 さらに、年末近くになって、メンバーの1人の「路上キスと不倫」が芸能ニュースになり、その影響もあって、有力視されていた「NHK紅白歌合戦」への初出場は叶いませんでした。


 挫折の多かった2014年が過ぎると、2015(平成27)年は文字通り「乃木坂46 飛躍の年」になりました。
 この年の10月に出した13枚目のCD「今、話したい誰かがいる」は70万枚を超えるヒットになり、年末には、ついに念願の「NHK紅白歌合戦」への初出場が実現し、「♪君の名は希望」をメンバー全員で歌いました。

 そして、2016(平成28)年11月発売の16枚目シングル「サヨナラの意味」が、乃木坂46初のミリオンを記録し、NHK紅白歌合戦への2年連続出場も決まりました。

 また、2016年夏には、3年ぶりのオーデションが行われ、乃木坂人気で集まった48,986人の応募者から、4000倍以上の難関を突破して、12人の3期生が選ばれ、2016年9月にメンバーとして加入しました。

 ここまでご紹介したように「AKB48の公式ライバル」と言いながら、紅白歌合戦の出場回数9回、レコード大賞受賞2回、CD総売り上げ3000万枚以上の「AKB48グループ」の実績には、遠く及びませんが、300人以上の「AKB48グループ」と、わずか35人の「乃木坂46」とを比べると、コストパフォーマンスでは、断然、「乃木坂46」が上ですね。

<紅白歌合戦の舞台NHKホール(東京都渋谷区)>



順調に見える「乃木坂46」ですが、もともと「AKB48」の影の存在として作られたこともあって、メンバーには、常に不安と苦しさがつきまとっていました。 特に、グループ発足時からいる1期生には、様々な逆境を乗り越えてきた注目メンバーがいますので、ここからは何人かの「推しメン(ファンは、自分の応援するメンバーをこう呼ぶそうです。)」について、乃木坂46のドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」(2015年7月10日公開、東宝)や、雑誌やブログ、ラジオやネットの情報などから紹介します。

 まず1人目は、乃木坂の御三家の一人「白石麻衣(しらいし・まい)」さんです。
 白石さんは、1992年8月20日、群馬県生まれで、愛称は「まいやん」です。
 乃木坂一ともいわれる色白美人で、雑誌「LARM」や「Ray」の専属モデルもしています。
 センターを2回務め、「福神」と呼ばれる前列のポジションを一度もはずしてないのは、彼女と卒業・引退する橋本茉奈未さんの2人だけです。

 この白石麻衣さんが、実は「不登校・ひきこもり」だったのです。
 中学2年の後半から、いじめが原因で不登校・ひきこもりになり、中学卒業後は地元・群馬の高校には進学せず、お母さんと2人で埼玉県に引っ越し女子高に通いました。
 白石麻衣さんの言葉です。
 「この辛かった時期に、寄り添ってくれた家族、特にお母さんに感謝しています。その時の辛さだったり、ありがたみが、今のお仕事につながっています。」

 不登校・ひきこもり問題を抱える私としては、白石麻衣さんが不登校・ひきこもりから立ち直って、乃木坂46の中心メンバーとしてキラキラと輝いくほど活躍しているのを見ると、心の支えになります。


 「推しメン」の2人目は、「斉藤飛鳥(さいとう・あすか)」さんです。1期のメンバーの中では最年少の18歳で、1998年8月10日、東京都生まれです。愛称は「あしゅ」です。
 アイドル界一の小顔と言われており、158cmながら八頭身で、雑誌「sweet」のレギュラーモデルも務めています。

 また、「神に選ばれし美少女」と呼ばれるほどかわいく、ほかのメンバーにも妹的な存在としてかわいがられています。
 特に、2016年夏の15枚目のシングル「裸足でSummer」では初センターも務め、乃木坂46の次世代エースの呼び声も高いです。

 この斉藤飛鳥さん、あしゅは、実はハーフなんです。
 お父さんが日本人、お母さんは、なんとミャンマー人です。
 ミャンマーと言えば(元のビルマ)、ノーベル平和賞を受賞した「不屈の女性」、アウンサン・スーチーさんに象徴されるように、「女性が働きもので理系女子も多い国」として、今、注目を集めています。

 斉藤飛鳥さん・あしゅは、18歳の今も「おかあさん」にご飯を食べさせてもらっているほど、「おかあさん」に対しては甘えん坊ですが、でも考えはしっかりしています。
 阿部公房や遠藤周作の小説を読み、「ハーフだから、嫌だと思ったことは1度もない。」と言い切る芯の強さと「神に選ばれし美少女」と言われる日本人離れした美貌が、これからの「乃木坂46」のエースとして期待されている所以かも、知れませんね。


 一つ、思うことは、白石麻衣さんも斉藤飛鳥さんも、最初からアイドルになることが目的ではなくて、「乃木坂46」の中に、自分の未来の「希望」を探すために、入ってきたような気がします。


<乃木坂駅に貼られた乃木坂46のポスター(手前が斉藤飛鳥さん)>




 今回の「乃木坂46」の話は、1回で終わるつもりだったのですが、ここまで、ずいぶん文字数を書いてしまったので、後半部分は次回に譲ります。(ごめんなさい) 後半は、「乃木坂46」で今、1番人気だけど人見知りのメンバーの話や「握手会の仕組み」、そして卒業・引退を表明した橋本奈々未(ななみん)さんの話の続編もしたいと思っています。

 今回のブログの最後は、2015(平成27)年に紅白に初出場した「乃木坂46」が、NHK紅白歌合戦で歌った曲「君の名は希望」の歌詞の一部を紹介します。

 この歌は、2013年3月に発売された「乃木坂46の5枚目シングル」で、31万9千枚を売り上げた名曲です。
 ちなみに、大ヒットアニメ「君の名は」の主題歌「♪前前前世」とは、関係ありません。(笑)



♪「君の名は希望」 (作詞:秋元康 作曲:杉山勝彦 歌:乃木坂46)

♪(前略)
何にもわかっていないんだ
自分のことなんて
真実の叫びを聞こう
さあ

こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかったこと
未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名は”希望”と 今知った

希望とは
明日の空
WOW WOW WOW




2016年11月23日水曜日

東北・関東で震度5弱の地震と津波が発生~津波への備えの再確認を~

2016(平成28)年11月22日5時59分頃、福島県沖を震源とするマグニチュード(M)7.4の地震が発生し、その後、最大1.4mの津波(宮城県仙台港)が発生しました。 みなさんの所は、大丈夫でしたか?

 気象庁は、この地震を「東日本大震災の余震と思われる」と発表しました。
 因みに、1.4mの津波は、2011年の東日本大震災以降で東北太平洋側で観測された最大の高さで、「津波警報」がこの地域に出たのは、2012年12月以来、4年ぶりということです。
 また震度5弱の揺れは、福島県、茨城県、栃木県で観測されました。
 幸い、死者の報告はありませんでした。


 ただ、この機会に「津波」への対応について、もう一度、考えておくことは大切だと思いますので、今回の問題点を検証してみます。

<2016年11月22日に発生した地震の震度分布(気象庁HP)>



 まず、私は地震直後、今回の地震の「津波の有無と大きさ」について、テレビとウェザーニュースの「メール情報」を見ながら、考えました。(緊急地震速報は、宮城県・福島県・茨城県とその周辺でしか発表されませんでした。)
 最初の情報は、ウェザーニュースの有料の防災メールで知りました。
 6時03分の「地震発生メール」で、「22日5時56分頃、東北地方で強い揺れを感じました。念のため津波に注意してください。<震度5弱 福島県浜通り>」という文面でした。

 
 それを受けてテレビをつけると、気象庁が震源は福島県沖(いわきの東北東60km付近)で、深さ10km、マグニチュード7.3と発表していて、「福島県沿岸に津波警報、青森県太平洋側~千葉県外房に津波注意報を発表」というニュースが流れていました。
(ウェザーニュースのメール情報は、6時05分に「津波警報発表」が来て、6時11分に「震源・震度情報」がきました。)

 この時点で、私は、以前、紹介した「気象庁予報官から聞いた津波発生の3条件」に、今回の地震情報をあてはめてみました。

<津波発生の3条件>
(1)震源が海 → 福島県沖なので○
(2)震源の深さが60kmより浅い → 深さ10kmなので○ 
(3)マグニチュード(地震の規模=M)が6.5以上 → M7.3なので○
 3つとも、あてはまりますので「津波発生の危険性」は高いと判断できました。(あとで、震源の深さは25km、マグニチュードは7.4に修正されましたが、結果は同じです。)

 次に津波の大きさを考えました。
 津波の大きさは、ほぼ「マグニチュード(地震エネルギー)の大きさ」で決まります。

 過去の経験から、「おおよそM7.5以上は大津波の可能性があり、M7.0以下は小さい津波」と考えられましたので、M7.3という今回の地震はその中間という判断をしました。(ただし、東日本大震災の時の最初の発表マグニチュードは7.6でその後、9.0まで大きく修正された例もありますので、続報に注意は必要です。)

 気象庁の発表も、3段階(津波注意報、津波警報、大津波警報)のうち、2番目の「津波警報(最大1m~3m)」でしたので、「東日本大震災級の大津波」ほどではないが、被害が出る可能性は十分ある津波という少し落ち着いた目で、各局テレビの朝6時台の報道を見ました。

 まず、一番、目を引いたのはNHKで、「今すぐ高い所へ逃げてください」とアナウンサーが連呼し、テロップも「にげて」でした。
 ただし、津波の実況中継はズームせずに海を写していたので、海面の異常はなかなかとらえられませんでした。


 一方、民報で目を引いたのは、日本テレビ系の「ZIP」枠で、冷静な報道のもと、映像も港をズームしていたので、引き波などの海面変化を見事にとらえていました。

 「大津波警報」ではなかったので、「ただちに、できるだけ高いところへ逃げて」と連呼するのには、少し違和感がありました。
 つまり、本当に大津波の時(大津波警報=3m以上)の報道と、どう区別するのかということが疑問です。

 それでも、NHKやフジテレビ系(めざましテレビ枠)の三宅アナなどが繰り返していた、「東日本大震災を思い出してください。」という言葉は、説得力があるなと思いました。

 現実には、「避難勧告・避難指示の対象者25万人に対し、実際に避難したのは6000人で、避難者が少なかった(2.4%)」とか、「車で避難する人が多く渋滞した」などの、以前と同じ課題は残りました。

 他にも、宮城県仙台港で、気象庁が想定した最大津波高1.0を超す1.4mの津波が観測され、気象庁はあわてて、津波発生2時間後に「津波注意報」を「津波警報」に切り替えるハプニングもありました。
 気象庁は事前にコンピューターで計算した10万パターンの津波のシミュレーションから、最も近い条件のものを選んで発表するそうですが、それでも「想定を超える津波」が発生したことになります。自然は、恐るべしですね。

 もう一つの問題は「デマ」です。
 今回の地震で、SNSを通じて「津波やべええええええ!!!!」という文字と、東日本大震災の時の写真を使って福島原発が津波に襲われているかのような、デマを流した人がいるそうですが、「正確な情報が命」の地震・津波の初期対応時に、このようなことをするのは、人命の危険も招きかねない危険な行為だと思います。

 福島原発といえば、「福島第二原発」の燃料プールの冷却浄化系の停電が1時間以上も続いたのに、マスコミ発表が遅くなったという問題も発生しています。
 東京電力は、22日7時頃には「異常は認められない」と発表していたのに、ショックでした。

 報道の仕方、避難方法、警報発表、デマ、そして原発、まだまだ課題は多いけど、でも地震や津波のたびに、反省し検証するのは大切だと思います。


<2016年11月22日 朝の空>


 ここで「津波警報・津波注意報」について、もう一度整理しておきます。
 現在、気象庁が発表する「津波の警報・注意報」は3つです。

(1)津波注意報(予想津波高 20cm以上1m以下)
  対応「海の中にいる人はただちに海から上がって、海岸から離れてください。」

(2)津波警報(予想津波高 1mを超え3m以下)
  対応「沿岸部や川沿いにいる人は、ただちに高台や避難ビルなど安全な場所に避難してください。
 標高の低いところでは津波が襲い、浸水被害が発生します。人は津波による流れに巻き込まれます。」

(3)大津波警報(予想津波高3mを超えるもの 5m、10m、10m以上の3段階に分けられ「巨大」と表現されます。)
  対応「木造家屋が全壊・流失し、人は津波による流れに巻き込まれます。沿岸部や川沿いにいる人は、ただちに高台や避難ビルなど安全な場所へ避難してください。」


 特に「大津波警報」が発表された場合は、ただちに「少しでも高い場所・建物」に逃げる必要がありま
す。


<津波警報・津波注意報の区分 (気象庁HPより)>


 最後に、津波避難の教訓である「津波てんでんこ」「命てんでんこ」と「釜石の奇跡」の話を紹介します。
 「津波てんでんこ」と「命てんでんこ」は、三陸地方の言い伝えです。
 「津波てんでんこ」は、津波の時は家族がばらばらになっても気にせず、高台へ避難せよという教訓で、「命てんでんこ」は、災害の時は自分で自分の命を守れということです。

 一方、「釜石の奇跡」は、東日本大震災の時、群馬大学の片田敏孝教授の教えを守って避難した「釜石東中学校」と隣接する小学校の児童・生徒562人全員が、助かったという実話です。
 その避難方法の三原則は、「(ハザードマップなどの)想定にとらわれるな」、「その状況下で最善をつくせ」、「率先避難者たれ」です。

 想定外の災害がくることを頭にいれて、あらかじめ決められた避難場所で満足せず、できるだけより安全な場所(高台やビルの高層階)へ逃げ続けろ。さらに、その時には、まわりの人にも「避難」を呼びかけながら、自分が率先して逃げろというものです。

 日ごろから訓練していた「釜石東中学校」の生徒は、全力で走りながら、小学生や大人にも「避難しましょう」と呼びかけ、指定された避難場所よりさらに高台に逃げて助かったというものです。


 ここで一つ、注意すべきことは、「津波てんでんこ」などの教訓は、あくまで「その時は自分だけで逃げろ」ということで、ほかの人を見捨てろということではありません。
 この教訓の裏には、あらかじめ家族と避難場所や方法を打ち合わせておいて、災害発生時にはお互いを信頼して、まずは各自で自分の命を守る行動をせよという意味が含まれているのです。

 津波や地震災害の怖いところは、「たくさんの人が同じ行動をしているから安全」ということにならないところです。
 東日本大震災では2万人近くが犠牲になり、インド洋大津波では十万人単位の犠牲者が出ています。

 地震・津波の発生時は、まずは、「自分の命を守る」ために、個人個人が「でんでんこ」に行動することが重要になるのです。


 次回は、たった35人で300人を超す「AKB48グループ」の名実ともにライバルになった「乃木坂46」の話の続編をしたいと思っています。

2016年11月14日月曜日

家計のためにアイドルになった「乃木坂46・橋本奈々未」さんがミリオン・センターで卒業・引退!

「SMAP解散」、「ベッキーとゲスの極み問題」、「地下アイドル刺傷事件」など、2016年はアイドルの話題が多い年でした。

 今、男性のアイドルの代表が「ジャニーズ」なら、女性アイドルの代表はAKB48グループですね。
 「綺麗な衣装を着て、スポットライトを浴びて、楽しく歌い踊る。」私の中のそんなアイドルのイメージが大きく変わった記事がありました。

 AKB48の公式ライバル「乃木坂(のぎざか)46」の中心メンバーの1人、橋本奈々未(はしもと・ななみ)さんが、「貧乏な家計を助けるためにアイドルになり、実家の生活や弟の学費のメドがたったので卒業し、芸能界を引退する。」という記事を読んで、大きな衝撃を受けました。

 今回は、そんな乃木坂46の橋本奈々未さん、愛称「ななみん」について紹介したいと思います。


<乃木坂46の名前の由来となった「SME乃木坂ビル」(東京都港区赤坂)>


 
まず、橋本奈々未さんがデビュー時から所属する「乃木坂46(のぎざか フォティーシックス)」について紹介します。

 「乃木坂46」のレーベル会社の「SME(ソニーミュージックエンタティンメント)」では、関連会社に所属していた「AKB48」が、キングレコードに移籍してから大ブレークしたため、「逃がした魚は大きかった」と担当者が悔やんでいました。

 そこで、SMEと、AKB48の総合プロデューサー秋元康さんがタックを組んで、AKB48の公式ライバルとして、2011(平成23)年8月11日に結成されたのが、新たな女性アイドルグループの「乃木坂46」です。

 「乃木坂」のグループ名は、最終オーデイションが行われた東京都港区赤坂の「SME乃木坂ビル」に由来し、「AKB48」より人数は少なくても負けるなという意味を込めて「乃木坂46」になりました。

 因(ちな)みに、「乃木坂(のぎざか)」は東京都港区赤坂の乃木神社から外苑東通りにかけての「坂道」の俗称で、学習院院長も務めた乃木希典(のぎまれすけ 1849年~1912年)元陸軍大将の自宅がこの付近にあったのことに由来します。

 この乃木希典元大将が、明治天皇の後を追って殉死した時から「乃木坂」と呼ばれるようになりました。
 ちなみにちなみに、住所表記上で「乃木坂」の地名はありませんが、東京メトロ・千代田線には「乃木坂駅」があります。


 「乃木坂46」の1期生は全国公募され、応募者3万8934人から合格した36名で構成されました。倍率は1081.5倍にもなります。
 その中には元ももクロメンバーやモデルなど、芸能活動の経験者も多くいましたが、橋本奈々未さんは東京にある武蔵野美術大学の1年生(18歳)で、まったく芸能活動の経験はありませんでしたが、見事、合格しました。

 しかし、乃木坂46は、あくまで影の存在でした。
 当初から「乃木坂46」のコードネームは「シャドウ(影)」で、AKB48のシャドウキャビネット(shadow cabinet=影の内閣)としての扱いでした。
 たとえば、2012年に発売された乃木坂46のデビュー曲「ぐるぐるカーテン」のカップリング曲の「会いたかったかもしれない」は、AKB48のヒット曲「会いたかった」をトレースしたものです。

 私自身、乃木坂46という名前は知っていましたが、説明できるほど詳しく知ったのは、橋本奈々未さんの「卒業・引退」に興味をもってからです。(ごめんなさい。)

 それでも、「おしゃれなリセエンヌ(フランス語で女子高校生)」をコンセプトとした衣装や、メンバー一人一人の個性とがんばりが、「お嬢様的美少女集団」のイメージで、男性はもちろん、女性にも人気となって、次第に、越えなければならない坂道である「AKB48グループ」にも負けない存在となっていきました。
 2015年には、♪「君の名は希望」で、NHK紅白歌合戦にも初出場しています。
 
<橋本奈々未さんたち乃木坂46メンバーが成人式を迎えた乃木坂神社(東京都港区赤坂)>





  橋本奈々未(はしもと・ななみ)さんは、1993(平成5)年2月20日、北海道旭川市で生まれました。
 小学生の頃から頭がよく、4年生の時には全国模試で1番になったこともあるそうです。
 中学校に進むと、バスケットボール部の選手として活躍しました。

 中学卒業後の橋本奈々未さんは、北海道立の「北海道旭川西高等学校」に進学し、バスケットボール部のマネージャーになりました。
 実家が「水道止まる、ガス止まる」(本人談)ほど貧乏だったので、高三の時には、居酒屋や焼き肉屋のアルバイトをしていました。正直、高校時代の写真を見ると、「普通のかわいい子」レベルだったと思います。
 高三の奈々未さんは、家族の反対を押し切って、上京して自力で美大へ進学することを決意します。

 2011(平成23)年4月、ちょうど「東日本大震災」の直後、橋本菜々美さんは高校を卒業して上京して、武蔵野美術大学に入学しました。
 実家が経済的に大変なのがわかっていたので、親には頼らず、奨学金を学費につぎ込み、生活費はアルバイトをして稼ぎました。

 東日本大震災の余震が連発する東京のひとり暮らしで、橋本奈々未さんの食事は、おにぎり1個が続き、美容院の値段が高かったので「カットモデル」をして節約したりしましたが、それでも、生活は苦しかったそうです。

 そんな2011年、大学1年の夏、インターネットで「乃木坂46」の公募を知り、「ロケ弁で空腹から救われるかも」という動機で応募しました。 
 その結果、見事、1000倍のオーデションに合格し、「乃木坂46」の第1期メンバーになりました。
 お金はなかったけれど、橋本奈々未さんは「おにぎりダイエット」のおかげで、自分でも気づかないうちに、高校時代とは見違えるほど、スレンダー美人になっていました。
 結果的に、「おにぎり1個」の生活が、乃木坂46への道を開いたのではないかと思います。

 余談ですが、橋本奈々未さんの「おにぎり1個生活」の話を知って、私もおにぎり1個の「ななみんダイエット」に挑戦中ですが、どうしても「お菓子」などの間食をしてしまいがちです。(意志が弱いですね。(笑) でも、もう少しがんばろう。)


 美少女揃いの「乃木坂46」の中でも、橋本奈々未さんは「福神」(七福神のち、八福神、十福神)と呼ばれる前列の位置を、デビュー曲「ぐるぐるカーテン」から、2016年夏の15枚目シングル「裸足でSummer」までずっと守っている、「乃木坂の御三家」と言われるほどの人気者になります。

 歌手活動の他にも、日本テレビの「ZIP」の川柳女子シリーズや、フジテレビの月9(月曜午後9時)枠のドラマ『SUMMER NUDE」などにも出演し、女優の活動も軌道に乗っています。

 さらに、人気ファッション雑誌「CANCAM」の専属モデルにも抜擢され、まさに「現代のシンデレラ・ストーリー」を地で行く、人気者になりつつあります。

 でも、橋本奈々未さん「ななみん」のすごいのは、「シンデレラ・ストーリー」と自分で決別したところです。


<橋本奈々未さんが卒業した「北海道旭川西高等学校」(北海道旭川市)>


 
実は、橋本奈々未さんの小学校の時の希望は「公務員になること」でした。
 芸能界に入って人気者になっていっても、「自分は裏方の方があっているのではないか」と悩みました。
 忙しくて大学も中退しなくてはならなくなり、体も重度のアレルギー反応の一つ「アナフィラキシー」と診断されて入院して、身長163cmの彼女が体重が30km台まで落ちた時もありました。
 次第に「乃木坂46」の活動に、疑問と限界を感じるようになりました。

 そんな2015年のある日、北海道のお母さんから奈々未さんに手紙が届きます。
「あなたの弟も頑張ってくれて、大学へ授業料免除の特待生として入学できることになったのよ。家の方の生活も、もう大丈夫だから、これからは、奈々未は無理せず、自分の好きなことをやりなさい。」と書いてありました。

 橋本奈々未さんが溺愛し心配していた4つ下の弟に大学へ行けるメドがつき、実家も落ち着いたことを知って、奈々未さんは、「乃木坂46」の卒業と、芸能界引退を本気で考えるようになります。
 事務所に水面下で希望を伝え、卒業・引退することを決めます。

 そして、2016(平成28)年11月9日発売の「乃木坂46」の16枚目のシングル「♪さよならの意味」で、初めてセンターに立つことになった橋本奈々未さん「ななみん」は、CD発売直前の10月にラジオで、「歌うのはこの曲を最後にして、2017年2月20日の誕生日をメドに乃木坂46を卒業し、芸能界からも引退します。」と発表しました。

 11月9日に発売された乃木坂46のCD「♪さよならの意味」は、ななみんの卒業・引退のニュースが背中を押したこともあって、同日に発売されたレコード大賞受賞経験がある「三代目 J Soul  Brothers from EXILE TRIBE」 の「♪Welcome to TOKYO」を押さえてオリコン・トップになりました。

 さらに、出荷枚数で100万枚を超え、「AKB48」以外のアーティストでは、2007年に秋山雅史さんが「♪千の風になって」でミリオンに認定されて以来、9年ぶりのミリオン認定が確実になりました。

 このことは、「乃木坂46」がAKB48の影(シャドウ)的な存在から、ついに表舞台になった瞬間だと思います。
 「乃木坂46がミリオンを達成」した絶頂期に、センターを務める「ななみん」が歌手だけでなく芸能界引退も発表するなんて、黒田選手の男気と同じほど、「ななみんの女気」はすごいと思います。
 本当に「生き方がロック」ですね。


<橋本奈々未さんがセンターを務める乃木坂46の16枚目シングル「♪さよならの意味」>




親孝行で弟思いの橋本奈々未さんのやさしさに感動して、私は、今年初めて、CDを買いました。(それも種類の違うCDを、複数、買いました。)

 他にも橋本奈々未さんが載っている「少年チャンピオン」や「AKBグループ新聞」、「ザ・テレビジョン」などを買って読んでみたり、ネットで情報を探したりして、「ななみんの卒業・引退・今後」について、いろいろ情報収集してみました。

 卒業・引退の理由についての真相の噂はいろいろありますが、でも、結局、本人のラジオ・テレビでの発言が一番確かだし、感動しますので、その一部を紹介します。


<ラジオでの引退表明>

「乃木坂46を卒業するとともに、芸能界も引退します。来年、24歳になってからは、一般社会で普通の女性として生きていこうと思っています。乃木坂で芸能界にデビューしたから、乃木坂卒業と同時に芸能界も引退しようと決めていました。(正直、卒業しても女優やタレントとして十分やっていけると思います。)」(2016年10月19日 ニッポン放送ラジオ オールナイトニッポン)


<卒業・引退表明を受けてのテレビインタビュー>

「自分は表に立つより、裏で誰かをサポートする方が合っているのかなと思っています。
 元々、(芸能界に)入ったのが、お金のためだったんです。実家がメチャ貧乏だったんです。
 水道止まる、ガス止まるみたいな。それでも、私は1人めだから親がいろいろしてくれた。

 でも、弟まで(お金が)まわる余裕があるのかと思った時に、弟は男の子だし、自分のせいで(進学)できなかったらと思って、何とかしなきゃと考えました。
 いろいろ模索した結果、ここ(乃木坂46)に来たんです。

 弟も大学へ進学し学費免除になった。弟も自立できるし、母からも『もう生活できるから自分の好きなことをしなさい。ありがとう。』という手紙が来ました。
 アイドルをやっている時も、私がちゃんとしないと困る人がいるという気持ちはずっとありました。 

 引退することで、ここまで応援してくれたファンの皆様には申し訳ない気持ちもありますが、でも、これからも、私はずっとファンに感謝しながら生きていきます。
 結婚は、相手もいないし、よほどいい人がいない限り、当分、ないです。でも、したいです。
 北海道には帰らず東京に残り、普通の社会人として生きていきます。」
(2016年10月30日放送「乃木坂工事中」 テレビ東京系 MCのバナナマンのインタビュー)


 自分のことしか考えない人が多い中で、橋本奈々未さんの話は本当にすばらしく感動しますね。

 乃木坂46の中で、橋本奈々未さんは、「頼りになるお姉さん」的な存在で、次世代エースの呼び声高い斉藤飛鳥さん(18歳)が『ななみんはオレの嫁』と公言しているのをはじめ、多くのメンバーたちにも慕われています。

 また、番組収録で大きなカエルでみんなが遊んだあと、カメラが止まってからカエルを抱いて「ごめんね。ごめんね。」と言っていたという逸話があるほど、人にも動物にもやさしい橋本奈々未さんです。  

 今回の橋本奈々未さんの家計のためにアイドルに就職・引退の話には、「子供の貧困」の問題が、アイドルの世界まで影を落としていることも浮き彫りにするきっかけにもなり、いろいろ考えさせられますね。


<橋本奈々未さんのふるさと「北海道旭川市」>



最後に、橋本奈々未さんが「最初で最後のセンター」になり、見事、ミリオンセールスを記録した、新曲「さよならの意味」の歌詞の一部と、「ななみん」のブログを紹介します。


♪「さよならの意味」(作詞:秋元康 作曲:杉山勝彦 歌:乃木坂46)

(中略)

大切なもの 遠ざかっても
新しい出会いがまた いつかはきっとやって来る
 
サヨナラを振り向くな 追いかけてもしょうがない
思い出は 今いる場所に置いて行こうよ

終わること ためらって 人は皆 立ち止まるけど
僕たちは 抱き合ってた腕を離して もっと強くなる

躊躇してた間に 陽は沈む
遠くに見える鉄塔 ぼやけてく

君が好きだけど
ちゃんと言わなくちゃ いけない
見つめあった瞳が 星空になる♪



<橋本奈々未さん「ななみん」のブログから。>

「さよならの意味、発売しました。みんな、ありがとう! 初のミリオン! 
 うれしいです! わーい!

 『♪さよならの意味』、そしてソロの『♪ないものねだり』。この2曲は、今後の私の人生にとっても宝物になる曲だと思います。
 これが人生、最後のレコーディングだったんよ。  

 すごく素敵な曲になりました。ありがとう。
 みんなもわたしの宝物を共有してください。」
(2016年11月11日 橋本奈々未さんのブログ「ありがとうだらけだな」より)


  しっかりもので優しい「ななみん」が、幸せになってほしいと心から祈りたいです。
  でも、少しだけ「芸能界復帰」にも期待したいと思っています。
  そして、自分も、ななみんみたいに、がんばらないといけないと、勇気づけられます。


<一句>
「ななみんは 優しきアイドル 永遠に」 

<一首>
「アイドルが シンデレラの靴 脱ぎ捨てて さよならの意味 噛みしめ旅立つ」

2016年11月9日水曜日

20億円より広島カープ復帰を選んだ黒田博樹選手の男気と座右の銘

2016(平成28)年のプロ野球・日本シリーズ「日本ハム対広島」は、見応えのある「世紀の日本シリーズ」だったと思います。

 中でも、大リーグでエース級の活躍をし、今期限りで引退を表明した広島カープの黒田博樹選手と、日本最速のストレートを投げ将来のメジャー行きが確実と言われている日本ハムファイターズの二刀流エース大谷翔平選手の対決は、プロ野球史上に残る名場面でした。

 今回は、大リーグで5年連続二桁勝利していた現役バリバリの年に、20億円以上のメジャーの年俸を蹴って、2015年に古巣・広島カープに戻り、今年の広島カープの25年ぶりのセリーグ優勝に貢献した黒田博樹選手の生きざまと、彼の座右の銘である西郷隆盛の言葉について紹介します。

<黒田博樹さんの著書「決めて断つ」>


 黒田博樹(くろだ・ひろき)さんは、1975(昭和50)年2月10日、大阪府大阪市で生まれました。
 お父さんの黒田一博さんは、元プロ野球選手で南海ホークスなどで活躍しました。引退後、ボーイズリーグの「オール住之江」の監督となり、黒田博樹さんも少年の頃、チームに所属しました。

 お母さんの黒田靖子さんは、高校の体育の先生で、砲丸投げの選手で、1964年の東京オリンピックの選手候補にもなりました。
 兄弟はお兄さんが一人います。

 高校は、大阪の野球の名門校・上宮(うえのみや)高校に進学しました。
 上宮高校野球部は、甲子園に夏1回、春8回(うち優勝1回)出場している強豪校です。(2016年現在)
 卒業生には、多くのプロ野球選手のほか、作家の司馬遼太郎さんなどもいます。

 上宮高校では、黒田さんは三番手の控え投手で、公式戦では1球も投げさせてもらえませんでした。
 野球部の練習は厳しく、一晩中、走らされることも度々ありましたが、黒田さんは律儀に監督の命令を守って。走り続けました。

   ある時、チームメイトの家族が、夜中に走っていたチームメイトと黒田さんをこっそり自宅に連れて帰り、風呂にいれたり食事を与えたりしました。
 その後、チームメイトの親から知らせを聞いた黒田さんのお母さんの靖子さんは、「今すぐタクシーで、学校のグランドへ返して、走り続けさせてください。」と言い放ったそうです。
 お母さんの黒田博樹さんへの、「困難に立ち向かえ」というメッセージだったと思います。

 上宮高校の当時の監督は、黒田選手に会う度に「補欠だったおまえがメジャーリーガーか。」と言われると、黒田さんは語っています。

 大学進学の時、地元関西の大学を希望する黒田さんに、お母さんの靖子さんは、「家を出て関東へ行け!」とあえて、突き放しました。「かわいい子には旅をさせろ」ということでしょうか。

 結局、黒田博樹さんは、関東の専修大学へ進学します。
 専修大学野球部は、東都大学リーグの一部と二部を往復していましたが、投手が少なく、黒田選手の登板機会が増え、広島カープのスカウトの目にとまります。
 黒田選手は、東都大学リーグで通算6勝を上げ、1996年、ドラフト逆指名2位で、広島東洋カープに入団します。


<広島カープのホーム「マツダスタジアム」>


1997(平成9)年、広島へ入団した黒田選手は、初登板の2軍戦で1イニング10点を取られます。しかし、4月に1軍で巨人から初勝利をあげると、この年6勝9敗で、規定投球回数を投げきります。

 その後、年間1勝の年もありましたが、2001年から2003年までと、2005年から2007年まで二桁勝利をあげるなど、広島カープのエースとなります。

 この間、2006(平成18)年にはFA(フリーエージェント)権を取得します。
 広島カープは親会社をもたず、資金的に余裕がないため、実績を積み年俸が高くなると他球団へ移籍する選手が多い「選手を育てる球団」として有名で、黒田選手にも2006年にFA権行使の噂が流れます。

 ところが、その年の10月、黒田選手の登板の時に、当時の広島市民球場の外野に、ファンが大きな横断幕を吊します。
我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹
 このファンの気持ちもあって、黒田選手は、結局、この年はFA権を行使せず広島に残ります。そして「国内の他球団には行かない」と表明します。

 翌年の2007年まで、黒田博樹選手は11年間広島カープに在籍し、通算103勝をあげ、最多勝1回、最優秀防御率1回のタイトルを取り、2008(平成20)年にアメリカ大リーグのナショナルリーグ、ロサンジェルス・ドジャースに移籍しました。

 大リーグではドジャースで4年間(41勝)活躍し、2012年からは大リーグを代表する人気球団アメリカンリーグのニューヨークヤンキースに移籍し、3年間で38勝をあげます。
 両チーム在籍中、2010年から2014年まで、5年連続で二桁勝利を挙げています。

 大リーグでも、黒田博樹選手の真摯な態度は共感を呼びました。
 特にドジャースのエース・カーショーとは、「ヒロは僕のともだち」というほど仲よくなりました。
 2016年のリーグ優勝決定戦シリーズでは、投球数にうるさい大リーグで、カーショーは中1日で志願登板しましたが、この男気は、黒田選手の影響かも知れませんね。  

 また、ドジャースの練習場では、見学にきていた明治大学の野村祐輔選手(のち広島カープへ入団)に激励の握手をし、「広島で会おう」と言いました。


 2014(平成26)年、黒田選手の30代最後のオフには、パドレスが20億円以上の提示するなど、複数のメジャー球団から提示がありましたが、黒田博樹選手はこれらのメジャーからのオファーを蹴って、広島カープへの復帰を表明します。(広島カープでの年俸は4億円と言われています。)
 
 今、黒田選手の著書「決めて断つ」(KKベストセラーズ発行 ワニ文庫)が、私の手元にあります。

 この中で、黒田選手は、契約期限がきたオフごとに次の進路に迷い「1日、1時間、いや最後は数分ごとに気持ちが変わり、迷いに迷った。」と書いています。
 さらに、「僕だってお金は欲しい。でも、自分がプロフェショナルとしてどういう思いでプレーできるかの気持ちの方が大切だった。」と明かしています。

 そして、2015年、「帰るならカープで」という言葉のとおり、黒田博樹選手は広島カープのマウンドに再び断ちます。
 この黒田選手の広島復帰は、野村祐輔選手との約束を果たしたことにもなりました。

 日本プロ野球の広島カープに復帰した黒田選手は、2015年は11勝、2016年も10勝をあげ、日米通算で7年連続二桁勝利を記録し、通算203勝に達します。
 そして、2016年の、広島カープ25年ぶりにリーグ優勝に貢献し、黒田博樹投手は引退しました。

 最後の登板となった日本シリーズで、最後に対戦したのは日本ハムの最速165kmを投げる二刀流の若手でメジャー注目の大谷翔平選手でした。

「黒田さんは、最後に持ち球全部を、僕に見せてくれました。」
 黒田選手から大リーグのバトンを渡された大谷選手は、感激してそう話しました。

<西郷隆盛像(東京都台東区上野)>


黒田博樹さんが、万年補欠だった上宮高校時代から座右の銘としている言葉があります。
「耐雪梅花麗(雪に耐えて、梅花(ばいか)麗(うるわ)し」という言葉で、冬の雪に耐えてこそ梅の花は麗しく咲くという意味です。

 これは、明治維新の英雄、西郷隆盛(1828年~1877年、鹿児島県出身)が作った漢詩「偶成(ぐうせい=たまたまできたという意味)」の一節で、何度も島流しに合いながらも明治維新を成し遂げた西郷の言葉が、黒田博樹さんの座右の銘になっています。

 この漢詩「偶成」は、五言律詩(5文字の句が八行)でできていて、「耐雪梅花麗」はその五行目にあたります。
「偶成」の後半部分(五行目以降)が特にいいので、紹介します。


耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し)
経霜楓葉丹(霜を経て楓の葉丹し)
如能識天意(如し能く天意を識らば)
豈敢自謀安(豈に敢て自ら安きを謀らんや)


(マイ現代語訳)
雪に耐えてこそ 梅の花は麗しく咲き
霜を経験してこそ 楓(かえで)の葉は赤くなる
もしも このようにして試練を与える天の意志を知っていたら
決して自分の身の安全を図ろうなどとはしないものだ

 黒田博樹選手の「男気」は、この西郷隆盛の志(こころざし)を実践している「平成のサムライ」ですね。

<黒田博樹選手の切手>



最後に、黒田選手の著書「決めて断つ」から、もう一つ名言を紹介します。(一部、抜粋します。)
 
~~~
僕の母親は、僕の二桁勝利を1度しかしらない。
父親は、僕がカープで投げているときしか知らない。
改めて両親に感謝しないといけないと、感じている。(お二人ともガンで亡くなられています。)

「苦しみ」や「恐怖心」「責任」という言葉たち。
それらすべては「一瞬の喜び」の為のエネルギーだと僕は思っている。
「苦しまずして栄光なし」
苦しみの先に必ず、栄光があると信じているからこそ、前に進めるのだ。
~~~

 2016(平成28)年11月5日、「広島カープ優勝パレード」の最後に行われた「黒田博樹選手引退セレモニー」で、黒田選手はこう挨拶しました。

「20年間、なんとか野球を続けてこられました。
 最後に、世界一のカープファンの前で、ユニホームを脱ぐことができます。本当に最高の引き際だと思っています。
 20年間、本当にありがとうございました。」

 広島カープで黒田博樹選手がつけた「背番号15」は、永久欠番になりました。
 いつかの垂れ幕の「黒田選手と広島ファンの涙」は、歴史となりました。

 これから、黒田博樹さんは「しばらく野球から離れて休む」ために、奥さんと2人の娘さんが待つ、アメリカ・ロサンジェルスの自宅へと「一旦帰る」予定だそうです。

「今後は、アメリカで暮らすかも知れないし、広島に帰ってくるかもしれない。家族と相談して決めます。」
 黒田博樹さんの今回の男気は、ニューヨーク以来、単身赴任の続いていた家族への愛情ですね。
 

2016年11月4日金曜日

♪「小さい秋 みつけた」と作詞家サトウハチローのやんちゃ時代

びっくりするようなニュースや、オリンピックやノーベル賞、ピコ太郎などに驚いているうちに、季節はすっかり秋になりましたね。(北日本では雪の便りが届いてますね。)

 そこで今回は、久々に季節と名曲の話をします。
 秋を象徴する懐かしい童謡の一つ「小さい秋みつけた」の歌詞を味わいながら、2016年秋の写真をいくつか紹介します。
 まず、1番の歌詞を紹介します。


♪「小さい秋みつけた」(作詞 サトウハチロー、作曲 中田喜直)

♪(1番)
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

めかくし鬼さん 手のなる方へ 
澄ましたお耳に かすかにしみた
呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた ♪

 
<写真 秋の夕暮れ>




 日暮れの時間が早くなって、「つるべ落とし」の秋の勇暮れや、人影が長くなっていくようすが、「ちいさい秋」を感じる一つかも、知れませんね。

 他にも、和菓子屋さんのメニューに「月」や「柿」が入ったり、最近ではコンビニやスーパーで「ハロウィン」コーナーができたり、テーマパークのハロウィンCMなどを見ると、「ちいさい秋 見つけた」となりますね。
 ハロウィンが終わり、ハロウィン仕様のお菓子が安売りされ、店員さんが「クリスマス」の飾り付けをしているのを見ると、季節の移り変わりを感じますね。


 童謡「小さい秋 みつけた」は、1955(昭和30)年に、NHKの「秋の祭典」という特別番組で、童謡歌手の伴久美子さん(当時は13歳、東京都荒川区出身 1942年~1986年)が歌ったのが最初でした。(タイトルだけ「小さい秋」で歌詞は「ちいさい秋」です。)

 作詞は、「かわいいかくれんぼ」などの童謡や、戦後復興を象徴する歌謡曲「リンゴの唄」などを作詞したサトウハチローさんです。
 一方、作曲は、「夏の思い出」や「めだかのがっこう」などを作曲した中田喜直さんです。

 では、2番の歌詞をごらんください。

♪「小さい秋みつけた」

♪(2番)
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかな すきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた ♪


<写真 秋の和菓子>




 この歌を作詞した頃、サトウハチローさんが住んでいたのは東京都文京区弥生の自宅だと言われています。庭の「はぜ」の木が色づくのをみて作ったと、自分で話されたことがあるそうです。  
 私も近くで住んだことがありますが、「なつかしい昭和の東京」が残るいい町です。 

 2番の歌詞に出てくる「お部屋は北向き くもりのガラス」というのは、病人がいる部屋のイメージだとも言われています。

 作詞のサトウハチローさんは、昭和を代表する詩人・童謡作家ですが、若い頃は実は「大変なやんちゃ少年」でした。

 学校の塀に大きな穴を開けて生徒の出入り自由にしたり、巡査の帽子をひったくって川に捨ててケンカをふっかけたりで、東京各区の警察署の留置場が30余りあった時代に、2つの留置場を除いて、ほとんどの留置場に入れられたほどの不良少年でした。

 また、東京大学や東京芸術大学にニセ学生として潜入し、新入生に本を売ったりして稼ぎました。
 転校11回、落第3回、そして父親から勘当されたのは17回に及びました。
 結局、旧制早稲田中学を中退しました。

 「小さい秋みつけた」をはじめ、「うれしいひなまつり」「かわいいかくれんぼ」、「リンゴの唄」、「悲しくてやりきれない」など、やさしくあたたかい歌詞を書いた詩人・サトウハチローの青春時代が「やんちゃ」だったのは驚きですね。


<写真 紅葉する木々>




 それでは、3番の歌詞です。

♪「小さい秋みつけた」

♪(3番)
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
 
昔の昔の 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉 赤くて入日色
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた ♪


<写真 夕暮れの中を散歩する少年とおじいさんとわんこ>




 平安時代に清少納言が書いたように、秋は1日で言うと「夕暮れ」が似合う季節ですね。
 彼女が見つけた「ちいさい秋」は、夕暮れの他に、「烏(からす)が飛んで帰っていく様子」や、「雁の群れ」、「風の音」、「虫の音(ね)」などです。

 もう北国では雪も降っていますが、あなたも「平成のちいさな秋」を、探してみませんか。


 最後に、サトウハチローさんが1954(昭和29)年、つまり「小さい秋 みつけた」の前年に発表した、心にしみる童謡「秋の子」の歌詞を紹介します。


♪「秋の子」 (作詞:サトウハチロー 作曲:末広恭雄)


すすきの中の子 一、二、の三人
はぜつりしてる子 三、四、の五人
どこかで やきぐり やいている
つばきを のむ子は 何人だろな


かきの実みてる子 一、二、の三人
さよならしてる子 三、四、の五人
ごはんに なるまで おもりするおんぶを する子は 何人だろな



ひぐれに走る子 一、二、の三人
ふろたきしてる子 三、四、の五人
こおろぎ あちこち なきだした
さみしく 聞く子は 何人だろな♪

 
 まるで、映画「「三丁目の夕日」の世界ですね。
 残り少ない秋の向こうには、どんな冬が来るのでしょう?

2016年10月30日日曜日

PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)とTPP

友達と参加できるイベントとして、日本で年々盛んになっているのが「ハロウィン」です。
 ところが、今年、2016年後半は、ハロウインの主役とも言われ、すごい勢いで、日本はもちろん世界中で流行っているものがあります。
 そう、「PPAP」です。

 ピコ太郎という自称シンガーソングライターが「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」を歌って踊る動画が、「週間動画再生回数」で2週連続で世界一になり、総再生回数は4億回を超えています。

 さらに、アメリカのビルボードチャートで77位になり、「ビルボードトップ100に入った世界一短い歌」ということで「ギネスブック」から認定されました。ちなみに。歌の時間は45秒です。

 それでは、歌詞を紹介します。


♪「ペンパイナッポーアッポーペン(Pen-Pineapple-Apple-Pen)」♪
(作詞・作曲・歌 ピコ太郎)
 
PPAP

I have a pen
I have an apple
Ah! Apple-pen!

I have a pen
I have a pineapple
Ah! Pineapple-pen!

Apple-pen, Pineapple-pen
Ah! Pen-pineapple-Apple-Pen!
Pen-pineapple-Apple-Pen!

<写真 ペン>


   ペンとアップル(りんご)とパイナップルが出てくるだけの歌と動画ですが、これが世界中で受けています。

 本人のホームページによると、ピコ太郎さんは、1963(昭和38)年7月17日千葉県生まれの53歳。血液型はA型で、工業高校を卒業しているそうです。

 リスペクト(尊敬する)シンガーは、スティービーワンダー、クラフトワーク、M.I.A、杏里、石川さゆり、マライヤキャリー、八神純子、そしてアリアナグランデです。

 また、ツイッターやFacebookで「僕の大好きな動画」として「PPAP」を世界に広めてくれたジャスティン・ビーバーを、恩人シンガーとしてあげています。

 ピコ太郎の目標は、NHK紅白歌合戦とサマソニ(毎年8月に千葉と大阪で開催されるロックコンサート「サマ-ソニック」)への出演だそうです。
 時期的に「サマソニ」は一発だけでは難しいでしょうが、紅白は出演できるかも知れませんね?

 ピコ太郎さんの話では、「PPAP」は、ピコ太郎さんが青森出身のプロデューサーの古坂大魔王さんの家に遊びに行った時に、青森リンゴとペンがあったので、リンゴにペンを刺しているうちにできた歌だということです。
 ちなみに、パイナップルは、アップル(りんご)と語感が似ているので、追加したそうです。


<写真 りんご>


 ここからは、突然、PPAPと語感が似ている「TPP」の話をします。 

 TPPは「環太平洋戦略的経済連携協定」の略で、2006年に、シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4ヶ国で始まった「環太平洋地域の国々による経済の自由化を目的とした多角的な経済連携協定」のことです。
 その後、アメリカ、日本、オーストラリア、ベトナムなど8ヶ国が参加を表明して、計12ヶ国に拡大することが協議されています。

 加盟国の間の規制を撤廃・緩和するものなので、産業によって有利・不利が顕著で、日本では医療(医師会など)や農業分野などで、根強い反対があります。
 しかし、日本政府や自民党は、TPP批准に積極的です。

 ところが、アメリカでは、民主党大統領候補のヒラリー・クリントンさんと、共和党大統領候補のドナルド・トランプさんの2人ともが、TPPに反対しています。


 この「TPP」のことを、ピコ太郎さんの「PPAP」は歌っているのではないかという噂が、一部のネットでささやかれています。

 その噂とは、歌の中の「アップル」は日本の農産物の代表「りんご」を象徴していて、「パイナップル」はアメリカの農産物を象徴している。
 そして、「アップル」と「パイナップル」にペンを刺すのは、協定の署名を表している。
 というものです。

 歌の解釈は自由ですが、一つ、間違いを指摘させてもうと、「パイナップル」の生産量ベスト3(2011年)は、タイ(11.9%)、ブラジル(10.8%)、コスタリカ(10.4%)で、これらの国はTPPの参加国ではありません。
 ちなみに、アメリカの生産量は、世界の2%にすぎません。

 私は「PPSP」は「TPP」より、10月25日に日本で始まった携帯のお財布機能「アッブル・ペイ」と、歌の「アッポーペン」が近いのかなと思っています。(笑)

<写真 パイナップル>


 最後は、ピコ太郎さんのプロデューサーの古坂大魔王さんの話です。

 古坂大魔王(こさか・だいまおう)さんは、本名・古坂和仁(こさか・かずひと)さんで、1973(昭和48)年7月17日生まれの43歳です。あれ、ピコ太郎さんと同じ誕生日で、ちょうど10歳若いですね。
 青森県青森市生まれのA型で、青森県立青森東高等学校を卒業しています。
 
 3人兄弟の真ん中で、兄は青森銀行に勤務し、弟は東京大学大学院を修了し国士舘大学の専任教員をしています。
 3人でお金を出し合い、テレビ朝日系で放送されている「大改造!!劇的ビフォーアフター」で、「父が雪下ろしで屋根から転落しないよう、実家をリフォームをして欲しい」と応募し、老朽化した豪雪地帯の青森市にある実家をリフォームしました。

 古坂大魔王さんは、上京して日本映画学校に入り、1992年、19歳の時にお笑いグループ「底抜けAIRーLINE」を、小島忍さん、村島亮さんと結成します。

 「タモリのボキャボラ天国」や「爆笑オンエアバトル」などに出演しますが、2003年9月にお笑い活動を休止します。
 その後、音楽芸人として、NBR(NEW BUSHIDOU RAVERS)を結成して活動しています。
 
 音楽では「mihimaru GT」のライブツアーに参加したり、鈴木亜美の楽曲リミックスなどをしたりしています。

 ピコ太郎さんについては、親しい芸能人たちは、口を揃えて「同一人物」だと証言しています。
 だとすると、「PPAP」で、ペンをアップルに刺すときに「AH!」と言うのは、青森市観光大使でもある古坂大魔王さんが、「Ah!」とりんごの将来を悲観して「TPP署名」に、痛みを訴えているとも思えますね。

 古坂大魔王さんは、くりぃーむしちゅーの上田晋也さんや、爆笑問題の田中裕二さんと仲がよく、楽屋では爆笑をさらう、「楽屋真打」と言われています。
 言い換えれば、本番ではおもしろくないということですね。

<写真 花の中に潜む「虫の古坂大魔王?」カマキリ>




 古坂大魔王さんは、以前、「マネーの虎」に出演し、「自分のバンドをロンドンでデビューさせたい」との夢を語っていたそうです。

 今回、ピコ太郎さんの動画は世界中に広がり、CNNやBBC、「タイム誌」、ビルボードなど、一流メディアで話題となって、「プロデューサー・古坂大魔王」さんの夢を実現させた形になりました。

 「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」だけで終わることなく、「I have a pen」から「I have a  dream」へチェンジして、ピコ太郎さんと古坂大魔王さんが、世界的に活躍することを期待したいと思います。


2016年10月25日火曜日

やさしさをあきらめないで(3)いじめで自殺した少女の想いを蘇らせた家族愛

2016(平成28)年8月25日10時5分ころ、青森県藤崎町の奥羽線北常盤駅で、中学2年の少女が自殺しました。
 少女は、最初の報道では匿名でしたが、家族が少女のスマホに残されたいじめを苦に自殺するという内容の「遺書」とともに、実名を公表しました。
 少女は、青森県青森市にある浪岡中学校2年生だった葛西(かさい)りまさん、13歳でした。

 葛西りまさんのスマホのメモアプリには、次のような内容の「遺書」が自殺する1時間30分前に、残されていました。(りまさんの家族が公表したものです。)


「遺書」
突然でごめんなさい。ストレスでもう生きていけそうにないです。

●が弱いのは自分自身でも分かってるし、●が悪い所もあったのは知ってるけど、流石にもう耐えられません。
東京いって全国でまた皆で優勝したかったけど、行けなくてごめんなさい。だから7人で、優勝してください。●も頑張ってね。

学校生活も散々だし、それでストレスたまってたのに、仮病とかいう人が沢山いて、説明しても、あまり信じてくれなかった。

1、2年の時に●の噂流したりそれを信じたりいじめてきたやつら、自分でわかると思います。もう、二度といじめたりしないでください。

(中略)

家族へ。先立つ不幸を許してください。もう無理です。特別虐待があったわけでもない(中略)
文章めちゃくちゃでごめんなさい。

みんなに迷惑かけるし、悲しむ人も居ないかもしれないくらい生きる価値本当にないし、綺麗な死に方すらできないけど、楽しい時もありました。
本当に13年間ありがとうございました。いつか、来世ででも●が幸せな生活をおくれる人になれるまで、さようなら。

また、会おうね。
2016年8月25日木曜日」


<葛西りまさんが自殺したJR北常盤駅>
 


 葛西りまさんが鉄道自殺をした8月25日は、新学期が始まった翌日でした。
 夏休みが終わって始業式に行って、「とても、明日から学校に行けない」と思い詰めた13歳の少女の気持ちは、自分の中学時代(私もいじめられていました)を思い出すとよくわかります。
 本当に、かわいそうです。

 でも、りまさんの家族は、こうおっしゃっています。
「りまは、手踊りが好きで、仲間と幸せな時間を過ごしてきました。写真のような笑顔が本来の表情です。決してかわいそうなだけの子供ではありません。」

 手踊りとは、青森県黒石市の「黒石よされ」と呼ばれる踊りで、葛西りまさんは全国優秀したこともある「黒石よされ」の踊りの名手でした。
 遺書にあるように、葛西りまさんが入っていたグループは、事件のあった2日後、りまさんの死を知らされないまま上京し、全国大会に参加し見事、優勝しました。

 おそらく、葛西りまさんの大きな誇りが「黒石よされ」だったのだと思います。
 実は、葛西さんが自殺した「JR奥羽本線北常磐駅」も、青森市から黒石市に行く途中にあります。

 次の写真は、葛西りまさんが黒石よされを踊る様子です。


<黒石よされを踊る葛西りまさん(葛西さんの家族が公表)>



 この写真は、2016年8月15日、つまり葛西りまさんが亡くなる10日前の写真で、一度は「2016年黒石よされ写真コンテスト」で最高賞の黒石市長賞を受賞することが内定していました。

 ところが、写真に写っている葛西りまさんが自殺したことがわかると、実行委員会は「賞にふさわしくない。」と言って、家族の了解も得ずに一方的に賞を取り消しました。

 葛西さんのお父さんは、「受賞内定を家族で喜んでいたのに、取り消しでどん底に突き落とされたような気持ちです。」と、がっかりした気持ちを話されました。
 そして、このまま娘の存在を消されたくないという想いで、りまさんの写真と氏名を公表しました。


 私は、このニュースを初めて聞いた時、本当に激しい憤りを感じました。
 もし、このまま受賞が取り消されたら、「もう二度といじめはやめてください。」という、葛西りまさんの意に反して、死んでからまで、今度は大人にいじめられたことになる。そんな想いでした。

 私と同じ想いのやさしい人が、全国にたくさんいたようで、黒石市には千通を超える抗議のメール・電話が殺到しました。

 それを受けて、黒石市長は「受賞の取り消しを取り消す」と発表して、葛西りまさんの笑顔の写真が、再び脚光を浴びることになりました。
 その後、りまさんの家族と黒石市は和解したそうです。

 りまさんの家族、特にお父さんの勇気が、社会に抹殺されかけた自殺したりまさんの「いじめを無くしてほしい」という想いを復活させたのだと思います。

<黒石よされのポスター>


 青森県黒石市の「黒石よされ」は、毎年8月に開催される盆おどりで、徳島の「阿波おどり」、岐阜の「郡上おどり」と並び、「日本三大流し踊り」の一つと言われています。

 「よされ節」は、東北地方に伝わる民謡で、「よされ」は「貧困や凶作の世は去れ」という意味で、「世去れ節」と書かれることもあります。
  因(ちな)みに、2016年の踊り子は、1日2100人、観客は2日間で76,000人余りでした。


 今回のニュースは、「学校」のいじめはもちろんですが、「社会的ないじめ」についても、いろいろ考えさせられます。
 ネットの一部では、葛西りまさんをいじめた生徒の実名も出ていますが、「葛西さんはいじめを無くしたかった」だけで、「生徒の実名を公表するいじめ」を決して望んではいないと思いますので、このブログでは、もちろん氏名の公表はしません。

 だけど、これだけは、いじめた人たちにわかってほしいです。
 私の経験では、いじめる方は軽い気持ちでも、いじめられる方は「死」を意識する、あるいは決断するほど深刻な問題です。
「相手が笑えないジョーク」は、いじめなのです。

 最後に、もう一つ思うことがあります。
 それは、葛西りまさんの家族の「やさしさをあきらめなかった」愛情の深さです。

 もし、家族が黙っていたら、りまさんの存在そのものを消されかねない状況でした。
 そこで、お父さんが声をあげ、葛西りまさんの遺書と実名と、「いじめに負けないで踊っている写真」を公表した勇気は、りまさんへの愛情の現れだと思います。

 家族の勇気と愛情が、亡くなったりまさんの想いと笑顔を、復活させたのだと信じたいです。
 きっと天国で、りまさんは「黒石よされ」を踊っていることでしょう。


♪「黒石よされ唄」


黒石よされ節どこにもないよ
サァーアンヨ
歌って見しゃんせ 味がある
ヨサレサァーアンヨ

見たか黒石聞いたかよされ
ヨサレサァーアンヨ
盆の踊りは日本一
ヨサレサァーアンヨ♪


<一句>
 りまの夢 いじめの世去れ 永遠に


2016年10月22日土曜日

鳥取県で震度6弱の地震「熊本→鳥取→?」は要注意パターン ~緊急地震速報とは~

2016(平成28)年10月21日、西日本各地で「緊急地震速報」が発表されて、鳥取県中部の倉吉市などで最大震度6弱の強い揺れが観測されました。
 マグニチュード(M)は6.6で、震源は鳥取県中部、深さは11kmでした。

 幸い津波はなく、死者も出ませんでしたが、熊本地震と同じく余震が続いています。
 これで2016年になって、「4月の熊本地震で震度7が2回」に始まり、「6月に北海道函館市で震度6弱」、そして「10月に鳥取県倉吉市などで震度6弱」と、震度6以上の地震が続いています。
 ここで、気になることがあります。

 このブログで、「巨大地震と前後の出来事」を紹介してきましたが、その中で70年あまり前の地震の起こり方のパターンと、今年の「熊本→北海道→鳥取」と似ているのです。


 1941(昭和16)年11月19日、九州東岸の日向灘を震源とするM(マグニチュード)7.2の地震が起こり、熊本県と宮崎県で震度5を記録して死者2人が出ました。

 続いて1943(昭和18)年6月13日に、青森県東方沖でM7.1の地震が発生し、北海道苫小牧市や浦河町などで最大震度4の地震がありました。

 そのあと、1943(昭和18)年9月10日、鳥取県鳥取市でM7.2の地震が発生し、震度6を記録し、1083人が亡くなりました。

 震源地と規模は微妙に違いますが、「熊本県→北海道→鳥取県」という地震発生のパターンは、1941年から1943年の地震と、2016年がよく似ていると思いませんか?


<2016年10月21日の鳥取地震の各地の震度  気象庁HPより>



 地震の予知は現在のところできませんが、過去の歴史で地震の発生パターンを調べて、地震への「備え」をすることはできます。

 それでは、1943年9月の「鳥取地震」のあと、何が起こったのかを紹介します。

 「鳥取地震」から1年3か月後の1944(昭和19)年12月7日、三重県沖を震源とするM7.9の「昭和東南海地震」が発生し、静岡県御前崎市と三重県津市で最大震度6を記録しました。この地震で、伊豆諸島・関東から紀伊半島までの広い範囲の太平洋側で津波が発生し、死者・行方不明者1223人を出しました。

 その翌年、終戦の年である1945(昭和20)年の1月13日には、三重県津市で最大震度5を記録するM6.8の「三河地震」が発生し、津波も伴い、死者・行方不明者2306人の被害が出ました。

 さらに翌年の、1946(昭和21)年12月21日には、和歌山県沖から四国沖を震源とするM8.0の津波を伴う「昭和南海地震」が発生し、東海~九州の広い範囲で最大震度5を記録し、関東から九州までの地域で、1443人が亡くなりました。

 戦中から終戦直後の混乱期ということもありますが、1943年の「鳥取地震」から1946年の「昭和南海地震」まで、わずか3年間で、1000人以上の死者を出す地震災害が4回も起こっています。

「ちょっと待った。2016年の鳥取地震は、1943年の鳥取地震のような大きな被害は出てないから、違うのでは。」
 という疑問の声が聞こえそうです。

 確かに、1943年の鳥取地震はM7.2で死者が1083人なのに対して、2016年の鳥取地震はM6.6で幸い犠牲者は、今のところ報告されていません。
 ところが、それで「まったく別の地震」とは、言い切れません。

 犠牲者の数は、震源の場所によって大きく変わります。1943年の鳥取地震は「鳥取市街地の直下型地震」なのに対し、2016年の鳥取地震は中国山地の中だったので被害が小さかったとも言えます。

 さらにもう一つ言うと、過去の歴史を調べてみると、鳥取県での地震は、揺れの大きな地震が複数回起きる傾向があります。

 実は、1943年9月10日の大きな被害を出した「鳥取地震」の半年前の1943年3月4日と3月5日に、いずれもM6.2の地震が続けて発生し、軽傷者11人を出しています。

 つまり、1943年の例のように、2016年の10月21日の地震は実は「前震」で、この後、さらに規模の大きい「本震」が発生する可能性もあるのです。

 必要以上に恐れることはないと思いますが、「もしも」に備えて、鳥取県在住の方はもちろん、ほかの地域のみなさんも、もう一度、地震・津波への「備え」をしておく必要はあると思います。


<1943年の鳥取地震>




 ここからは「災害から命を守るマメ知識」として、今回は「緊急地震速報」について紹介したいと思います。

「緊急地震速報」は、2007年10月1日から気象庁が中心となって発表しているものです。
 緊急地震速報には、「一般向け」と「高度利用者向け」がありますが、ここではテレビや携帯・スマホでも受信できる「一般向け」の緊急地震速報について、ご紹介します。

  全国220か所にある気象庁の地上地震計と、東海沖にある15か所の海底地震計などの観測データのうち複数で地震の揺れをとらえた場合、瞬時に衛星で受信しコンピューターで解析して発表するものです。
 この緊急地震速報は、地震波が揺れは小さいがスピードの速い初期微動と呼ばれる縦波・P波(秒速6~7km)と、揺れが大きくスピードの遅い主要動と呼ばれる横波・S波(秒速3.5km)の到着時間の差を活用して、地震波の到着前に、揺れの大きさや震度4以上の発生する地域などを速報するものです。

 「緊急地震速報の警報」は、最大震度が5弱以上と推定される場合に、震度4以上の揺れがあると予測されている地域に発表されます。
 さらに、「緊急地震速報の特別警報」は、推定最大震度が6弱以上の場合に発表されます。

<2016年鳥取地震で震度6弱を記録した倉吉市の名所「打吹玉川(うつぶきたまがわ)」の町並み> 



 
 
次に、「緊急地震速報」が発表された時の具体的な対応を紹介します。

 詳しくは、下の図をご覧いただければと思いますが、テレビ・ラジオや携帯・スマホなどで「緊急地震速報」の発表を聞いたら数秒から数十秒しかないので、「周囲の状況に応じて、あわてずに、まず身の安全を確保する」ことを最大の基本とします。

 学校・会社・自宅などの室内では、落下する恐れがあるなどの危険な場所から離れて、机の下に隠れるなど、頭を保護するのが一番です。
 周辺に人がいたら、周りの人にも「頭を守れ、机の下に隠れろ」などの声掛けもしたいものです。
 特に、子供や障害者などには、手伝って守ってください。

 外でいる場合は、ブロックや塀、落下物の近くからは離れて安全なところでしゃがみます。また、車の運転中は、ゆっくりブレーキをかけ、ハザードランプをつけて道路の左側に車を寄せて停車します。
 
 ある場所で実際に緊急地震速報が出たとき、お互いに顔を見合わせて呆然と立ち尽くしていたというシーンも見たことがあります。
 やっぱり普段からの訓練と、シミュレーションが大切だと思います。




最後に、地震の後、津波のある・なしで、避難行動は大きく変わりますので、改めて、「地震の発表」から、津波の有無を判断する3つの要素を紹介します。

(1)地震の震源が海であること(今回の鳥取地震のように、陸が震源の場合は津波は起こりません。)

(2)地震の大きさを示すマグニチュード(M)が、6.5以上であること。(ただし、最初の気象庁の発表は実際より小さい場合もあります。例えば、東日本大震災の時の1回目のマグニチュードは7.6でした。)

(3)地震の震源が60kmより浅いこと。

 この3つの条件がそろえば、「津波の恐れあり」と判断し、津波警報等が出ていなくても、できる限り高い場所へ避難することが大切です。

 みんなで、「いつかは必ず来る次の大地震」に備えておきたいですね。





2016年10月20日木曜日

ボブ・ディランとノーベル文学賞 ~風に吹かれて・答えは風の中~

  2016(平成28)年のノーベル文学賞に、アメリカのミュージシャン「ボブ・ディラン」さんが選ばれました。
 村上春樹さんの受賞を毎年、待ちわびているハルキストには、申し訳ないけれど、私はスウェーデンアカデミーが、ボブ・ディランさんの「歌詞」の芸術性を高く評価したことに、賛辞を贈りたいと思います。

 村上春樹さんが嫌いということではなく、「小説」や「詩」と「(歌詞の)作詞」を同列に扱ったところが、革命的だと思います。

 考えてみれば、「詩」や「小説」のもとは、欧米では「吟遊詩人」や叙事詩、日本では「万葉集」などの抑揚をつけた和歌だったとも言えるので、本当は自然なことかも知れませんね。

 今後、世界の作詞家やシンガーソングライター、日本でも、さだまさしさんや中島みゆきさん、秋元康さんなども対象にならないかなと、少し期待してしまいます。


 ボブ・ディラン (Bob Dylan)さんは、アメリカ合衆国の中北部のカナダ国境にあるミネソタ州のダルースで、1941(昭和16)年5月24日にユダヤ系の両親の元で生まれました。

 生まれた時の本名は、「ロバート・アレン・ツィンマーマン(Robert Allen Zimmerman)」さんですが、後には芸名の「ボブ・ディラン」を法律上の名前にしています。
 彼の生まれた1941年は、アメリカと日本が太平洋戦争を始めた年です。

 ボブ・ディランさんの故郷ダルースは、五大湖の一つスペリオル湖の西岸にある港のある町で、人口は2010年現在で86,000人余りです。

<ボブ・ディランさんが生まれたアメリカ・ミネソタ州のダルース>


 ボブ・ディランさんは、小さい頃からピアノやギターを独学し、ハイスクール時代にはエルビス・プレスリーなどの影響で、バンドを組んで演奏しました。

 1959(昭和34)年9月、18歳のボブ・ディランさんはミネソタ大学に入学しますが、半年で授業に出なくなります。
 ミネソタ州最大の都市ミネアポリス(人口約40万人)を中心に、フォーク・シンガーとして活動をはじめます。

 この頃から、「ボブ・ディラン」を名乗り始めます。
 「ボブ」は本名「ロバート」のニックネームから取り、「ディラン」はイギリスの詩人「デイラン・マーレイス・トーマス(1914年~1953年)」から取っています。

 1961(昭和36)年、20歳になった年に、大学を中退してニューヨークに出ます。
 ニューヨークのクラブやコーヒーハウスなどで、フォークソングをギターで弾き語りをする活動をし、それがレコード会社の関係者の目にとまります。

 1962(昭和37)年3月に「ボブ・ディラン」というアルバムでレコードデビューしますが、5000枚しか売れませんでした。

 1963(昭和38)年に、2枚目のアルバム「フリーホーリン・ボブ・ディラン」を発売します。
 このアルバムは全英アルバムチャートで1位、アメリカ・ビルボードで22位になります。

 特に、このアルバムの中に収められていた「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」は、人気グループのピーター・ポール&マリーがカバーしてビルボード2位になり、ボブ・ディランの出世作であり代表作となります。

 「Blowin' in the Wind」は、「風に吹かれて」と日本後で訳されています。
 でも、英語の「Blowin」には「ひょっこり現れる」のような意味もあるので、もしかしたら「風の中からひょっこり現れる」を意訳して、「答えは風の中」と訳してもいいのかなとも思っています。

 では、「Blowin' in the Wind」」の1番の歌詞と、私なりの日本語訳を紹介します。


♪「Blowin' in the Wind(風に吹かれて ~答えは風の中~)」♪


How many roads must a man walk down
Before you call him a man? 
(いくつの道を 歩ききれば 人と呼ばれるようになるのだろう。)

How many seas must a white dove sail 
Before she sleeps in the sand? 
(いくつの海を 渡りきれば 白い鳩は 安心して眠ることができる砂浜にたどり着くのだろう) 

How many times must the cannon bolls fly 
Betore they’re forever banned? 
(どれぐぐらいの時間 砲弾が飛び交えば 永久の平和が訪れるのだろう)

The answer, my friend, is blowin’ in the wind 
The answer is blowin’ in the wind  
(友よ 答えは風の中にあるんだ 答えは風に吹かれている)


<「フリーホーリン・ボブ。ディラン」のレコードジャケット>




このあと、ボブ・ディランさんは、1963年8月の「ワシントン大行進」で演奏したり、ビートルズやローリングストーンズと交流したりしながら、50年以上にわたって、多くの楽曲を歌い・作詞・作曲し、グラミー賞を11回、アカデミー賞を1回受賞しています。(活動がたくさんありすぎて、詳細は今回は紹介しきれません。ごめんなさい。)

 日本にも、1978年の初来日から、2016年まで8回来日し、武道館やBunkamuraオーチャードホール、東京国際フォーラム、ライブハウスの「Zepp東京」(以上東京)などに加えて、大阪・名古屋・札幌・福岡・秋田・倉敷など、全国各地でコンサートを開催しています。
 また、奈良の東大寺でのコンサートにも参加しています。


 ボブ・ディランさんは、ビートルズやローリング・ストーンズをはじめ、多くの歌手・シンガーに影響を与えています。
 2016年のノーベル文学賞の受賞理由は、「米国の歌の伝統における新たな詩的表現を創造した」ということですが、ボブ・ディランの影響は「世界中」と言ってもいいと思います。

   日本でも「風に吹かれて」をカバーした歌手として、南沙織(みなみ・さおり 1976年)さんをはじめ、RCサクセッション(1988年)、BEGIN(2003年)などがいます。

 また「風に吹かれて」という同名の曲は、オフコース(1976年)、THE ALFEE(1986年)、森高千里さん(1995年)、エレファント・カシマシ(1997年)、JUDY AND MARY(1997年)、などの歌手が歌っています。

 さらに、ボブ・ディランの名前が歌詞に出てくる歌も、ガロの「学生街の喫茶店」(1972年)や吉田拓郎さんの「親切」(1972年)など、たくさんあります。
 主に、1970年代~1980年代が多いようですが、もちろんその後も、日本の音楽会に影響を与え続けています。


 それではこれらの中から、ボブ・ディランの日本への影響の大きさがよくわかる、ガロの1972年のヒット曲「学生街の喫茶店」と、森高千里さんの「風に吹かれて」の歌詞の一部を紹介します。



♪「学生街の喫茶店」(歌・ガロ、作詞・山上路夫、作曲・すぎやまこういち 1972年)♪



君とよくこの店に 来たものさ
訳もなく お茶を飲み 話したよ
学生で賑やかな この店の
片隅で 聴いていた ボブ・ディラン

あの時に歌は聴こえない
人の姿も変わったよ 時は流れた♪


<ガロ「学生街の喫茶店」のレコード・ジャケット>


♪「風に吹かれて」(歌・森高千里、作詞・森高千里、作曲・斉藤英夫 1995年)♪

遠いところへ行きたい どこか遠い所へ
あの空の彼方へ 行きたいな
名前も知らない街と 名前も知らない人
あの空の彼方の どこかまで 行ってみたいな

きのうの夜はごめんなさい 別れることが辛くて
泣いても泣いても 涙 止まらなかった
きのうの夜は あなたのこと 許せなかった私は
本当に本当に 今は忘れたいだけ
どこか 遠いところへ 行きたいな ♪


 ボブ・ディランさんは、75歳の今も、「ネバー・エンディング・ツアー」と題して年間に100回ものツアーを、世界中で続けています。

 いまでも、1963年発表の彼の曲「ライク・ア・ローリング・ストーン(転がる石のように)」、のタイトルのとおり、歌いながら旅をしているなんて、すごいですね。

 ノーベル文学賞の主催者からボブ・ディランへの連絡は、2016年10月19日現在、とれていないそうです。
 それでも、彼のノーベル文学書受賞は動かないので、授賞式への欠席で取り消されることはないそうです。

 世界中の「シンガー・ソング・ライター」の代表として、ぜひノーベル文学賞の授賞式に出席して、歌ってほしいものです。
 でも本当のところどうなるか、「答えは風の中」ですね。


<写真 台風一過で風に吹かれている雲?>


 最後に、あまりヒットしていませんが、ボブ・ディランへの思いがすごくよく表れている元アリスの谷村新司さんの「夢の世代♪」という歌の歌詞の一部を紹介します。
 けだし、名曲だと思います。
 ぜひ、ネットで検索してみて、お聞きください。


♪「夢の世代」(歌・谷村新司、作詞・谷村新司、作曲・佐藤隆 1983年)♪

夢の中で泣いたような 不思議なさわやかさを
残して流れ過ぎてゆく 俺たちの時代

今は何も語らないで 空を見つめているだけ
君は気づいているだろうか 風は吹いてる

ディランを聞いて こぶしを握り うなずいてた日
ビートルズを聞き乍(なが)ら 泣いてた

夢の中で泣いたような 不思議なさわやかさを 
残して流れ過ぎてゆく 俺たちの時代

FROM THESE DAYS
FROM THESE DAYS
今日も 風は 吹いてる ♪