2016年11月9日水曜日

20億円より広島カープ復帰を選んだ黒田博樹選手の男気と座右の銘

2016(平成28)年のプロ野球・日本シリーズ「日本ハム対広島」は、見応えのある「世紀の日本シリーズ」だったと思います。

 中でも、大リーグでエース級の活躍をし、今期限りで引退を表明した広島カープの黒田博樹選手と、日本最速のストレートを投げ将来のメジャー行きが確実と言われている日本ハムファイターズの二刀流エース大谷翔平選手の対決は、プロ野球史上に残る名場面でした。

 今回は、大リーグで5年連続二桁勝利していた現役バリバリの年に、20億円以上のメジャーの年俸を蹴って、2015年に古巣・広島カープに戻り、今年の広島カープの25年ぶりのセリーグ優勝に貢献した黒田博樹選手の生きざまと、彼の座右の銘である西郷隆盛の言葉について紹介します。

<黒田博樹さんの著書「決めて断つ」>


 黒田博樹(くろだ・ひろき)さんは、1975(昭和50)年2月10日、大阪府大阪市で生まれました。
 お父さんの黒田一博さんは、元プロ野球選手で南海ホークスなどで活躍しました。引退後、ボーイズリーグの「オール住之江」の監督となり、黒田博樹さんも少年の頃、チームに所属しました。

 お母さんの黒田靖子さんは、高校の体育の先生で、砲丸投げの選手で、1964年の東京オリンピックの選手候補にもなりました。
 兄弟はお兄さんが一人います。

 高校は、大阪の野球の名門校・上宮(うえのみや)高校に進学しました。
 上宮高校野球部は、甲子園に夏1回、春8回(うち優勝1回)出場している強豪校です。(2016年現在)
 卒業生には、多くのプロ野球選手のほか、作家の司馬遼太郎さんなどもいます。

 上宮高校では、黒田さんは三番手の控え投手で、公式戦では1球も投げさせてもらえませんでした。
 野球部の練習は厳しく、一晩中、走らされることも度々ありましたが、黒田さんは律儀に監督の命令を守って。走り続けました。

   ある時、チームメイトの家族が、夜中に走っていたチームメイトと黒田さんをこっそり自宅に連れて帰り、風呂にいれたり食事を与えたりしました。
 その後、チームメイトの親から知らせを聞いた黒田さんのお母さんの靖子さんは、「今すぐタクシーで、学校のグランドへ返して、走り続けさせてください。」と言い放ったそうです。
 お母さんの黒田博樹さんへの、「困難に立ち向かえ」というメッセージだったと思います。

 上宮高校の当時の監督は、黒田選手に会う度に「補欠だったおまえがメジャーリーガーか。」と言われると、黒田さんは語っています。

 大学進学の時、地元関西の大学を希望する黒田さんに、お母さんの靖子さんは、「家を出て関東へ行け!」とあえて、突き放しました。「かわいい子には旅をさせろ」ということでしょうか。

 結局、黒田博樹さんは、関東の専修大学へ進学します。
 専修大学野球部は、東都大学リーグの一部と二部を往復していましたが、投手が少なく、黒田選手の登板機会が増え、広島カープのスカウトの目にとまります。
 黒田選手は、東都大学リーグで通算6勝を上げ、1996年、ドラフト逆指名2位で、広島東洋カープに入団します。


<広島カープのホーム「マツダスタジアム」>


1997(平成9)年、広島へ入団した黒田選手は、初登板の2軍戦で1イニング10点を取られます。しかし、4月に1軍で巨人から初勝利をあげると、この年6勝9敗で、規定投球回数を投げきります。

 その後、年間1勝の年もありましたが、2001年から2003年までと、2005年から2007年まで二桁勝利をあげるなど、広島カープのエースとなります。

 この間、2006(平成18)年にはFA(フリーエージェント)権を取得します。
 広島カープは親会社をもたず、資金的に余裕がないため、実績を積み年俸が高くなると他球団へ移籍する選手が多い「選手を育てる球団」として有名で、黒田選手にも2006年にFA権行使の噂が流れます。

 ところが、その年の10月、黒田選手の登板の時に、当時の広島市民球場の外野に、ファンが大きな横断幕を吊します。
我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹
 このファンの気持ちもあって、黒田選手は、結局、この年はFA権を行使せず広島に残ります。そして「国内の他球団には行かない」と表明します。

 翌年の2007年まで、黒田博樹選手は11年間広島カープに在籍し、通算103勝をあげ、最多勝1回、最優秀防御率1回のタイトルを取り、2008(平成20)年にアメリカ大リーグのナショナルリーグ、ロサンジェルス・ドジャースに移籍しました。

 大リーグではドジャースで4年間(41勝)活躍し、2012年からは大リーグを代表する人気球団アメリカンリーグのニューヨークヤンキースに移籍し、3年間で38勝をあげます。
 両チーム在籍中、2010年から2014年まで、5年連続で二桁勝利を挙げています。

 大リーグでも、黒田博樹選手の真摯な態度は共感を呼びました。
 特にドジャースのエース・カーショーとは、「ヒロは僕のともだち」というほど仲よくなりました。
 2016年のリーグ優勝決定戦シリーズでは、投球数にうるさい大リーグで、カーショーは中1日で志願登板しましたが、この男気は、黒田選手の影響かも知れませんね。  

 また、ドジャースの練習場では、見学にきていた明治大学の野村祐輔選手(のち広島カープへ入団)に激励の握手をし、「広島で会おう」と言いました。


 2014(平成26)年、黒田選手の30代最後のオフには、パドレスが20億円以上の提示するなど、複数のメジャー球団から提示がありましたが、黒田博樹選手はこれらのメジャーからのオファーを蹴って、広島カープへの復帰を表明します。(広島カープでの年俸は4億円と言われています。)
 
 今、黒田選手の著書「決めて断つ」(KKベストセラーズ発行 ワニ文庫)が、私の手元にあります。

 この中で、黒田選手は、契約期限がきたオフごとに次の進路に迷い「1日、1時間、いや最後は数分ごとに気持ちが変わり、迷いに迷った。」と書いています。
 さらに、「僕だってお金は欲しい。でも、自分がプロフェショナルとしてどういう思いでプレーできるかの気持ちの方が大切だった。」と明かしています。

 そして、2015年、「帰るならカープで」という言葉のとおり、黒田博樹選手は広島カープのマウンドに再び断ちます。
 この黒田選手の広島復帰は、野村祐輔選手との約束を果たしたことにもなりました。

 日本プロ野球の広島カープに復帰した黒田選手は、2015年は11勝、2016年も10勝をあげ、日米通算で7年連続二桁勝利を記録し、通算203勝に達します。
 そして、2016年の、広島カープ25年ぶりにリーグ優勝に貢献し、黒田博樹投手は引退しました。

 最後の登板となった日本シリーズで、最後に対戦したのは日本ハムの最速165kmを投げる二刀流の若手でメジャー注目の大谷翔平選手でした。

「黒田さんは、最後に持ち球全部を、僕に見せてくれました。」
 黒田選手から大リーグのバトンを渡された大谷選手は、感激してそう話しました。

<西郷隆盛像(東京都台東区上野)>


黒田博樹さんが、万年補欠だった上宮高校時代から座右の銘としている言葉があります。
「耐雪梅花麗(雪に耐えて、梅花(ばいか)麗(うるわ)し」という言葉で、冬の雪に耐えてこそ梅の花は麗しく咲くという意味です。

 これは、明治維新の英雄、西郷隆盛(1828年~1877年、鹿児島県出身)が作った漢詩「偶成(ぐうせい=たまたまできたという意味)」の一節で、何度も島流しに合いながらも明治維新を成し遂げた西郷の言葉が、黒田博樹さんの座右の銘になっています。

 この漢詩「偶成」は、五言律詩(5文字の句が八行)でできていて、「耐雪梅花麗」はその五行目にあたります。
「偶成」の後半部分(五行目以降)が特にいいので、紹介します。


耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し)
経霜楓葉丹(霜を経て楓の葉丹し)
如能識天意(如し能く天意を識らば)
豈敢自謀安(豈に敢て自ら安きを謀らんや)


(マイ現代語訳)
雪に耐えてこそ 梅の花は麗しく咲き
霜を経験してこそ 楓(かえで)の葉は赤くなる
もしも このようにして試練を与える天の意志を知っていたら
決して自分の身の安全を図ろうなどとはしないものだ

 黒田博樹選手の「男気」は、この西郷隆盛の志(こころざし)を実践している「平成のサムライ」ですね。

<黒田博樹選手の切手>



最後に、黒田選手の著書「決めて断つ」から、もう一つ名言を紹介します。(一部、抜粋します。)
 
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僕の母親は、僕の二桁勝利を1度しかしらない。
父親は、僕がカープで投げているときしか知らない。
改めて両親に感謝しないといけないと、感じている。(お二人ともガンで亡くなられています。)

「苦しみ」や「恐怖心」「責任」という言葉たち。
それらすべては「一瞬の喜び」の為のエネルギーだと僕は思っている。
「苦しまずして栄光なし」
苦しみの先に必ず、栄光があると信じているからこそ、前に進めるのだ。
~~~

 2016(平成28)年11月5日、「広島カープ優勝パレード」の最後に行われた「黒田博樹選手引退セレモニー」で、黒田選手はこう挨拶しました。

「20年間、なんとか野球を続けてこられました。
 最後に、世界一のカープファンの前で、ユニホームを脱ぐことができます。本当に最高の引き際だと思っています。
 20年間、本当にありがとうございました。」

 広島カープで黒田博樹選手がつけた「背番号15」は、永久欠番になりました。
 いつかの垂れ幕の「黒田選手と広島ファンの涙」は、歴史となりました。

 これから、黒田博樹さんは「しばらく野球から離れて休む」ために、奥さんと2人の娘さんが待つ、アメリカ・ロサンジェルスの自宅へと「一旦帰る」予定だそうです。

「今後は、アメリカで暮らすかも知れないし、広島に帰ってくるかもしれない。家族と相談して決めます。」
 黒田博樹さんの今回の男気は、ニューヨーク以来、単身赴任の続いていた家族への愛情ですね。
 

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