2016年12月12日月曜日

なぜ安倍首相は「12月15日・山口」で日露首脳会談を開催するのか? 幕末・高杉晋作が起こした奇跡

2016(平成28)年12月15日、日本の安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領が、山口県で「日露首脳会議」を開催することが予定されています。
 日本国内での首脳会議が、東京などの大都市以外で開催されるのは、警護の問題などもあって、サミットを除けばきわめて異例です。
 今回の首脳会議の「12月15日・山口県」での開催は、安倍晋三首相のたっての希望だということです。

 では、なぜ、この日、この場所に、安倍首相はこだわったのでしょうか。

 私は、「晋三の晋は、高杉晋作の名前からとっている。」と公言する安倍首相が、幕末の長州(山口県)で高杉晋作が12月15日に起こした「歴史的奇跡」を念頭に、「2016年12月15日にも山口で奇跡を起こしたい」という思いで、決めたのではないかと思っています。

 そこで、今回は、幕末の長州(山口県)で、風雲児・高杉晋作(たかすぎ・しんさく)が12月15日
に起こした奇跡を中心に紹介します。


<長州(山口県)出身の幕末の英雄 高杉晋作>





 元治元(1864)年11月の時点では、実は、長州を中心とする尊皇攘夷派の倒幕運動の灯は、ほとんど消えかかり、「風前の灯火」の状態でした。
 この頃、高杉晋作が読んだ俳句にも、「ともし火の 影ほそく見ゆ 今宵かな」という心細いものがあります。


 それでは、歴史的な経緯を紹介します。 

 幕末の文久3(1863)年8月18日に京都で起きた政変で、それまで京都の朝廷・公家に強い影響力をもっていた長州藩を中心とする「尊皇攘夷派」が、会津藩(福島県)・薩摩藩(鹿児島県)など幕府に近い「公武合体派」に、京都政局から追放されました。

 さらに翌年、元治元(1864)年6月5日には、京都の治安維持をしていた会津藩おかかえの新撰組の近藤勇・沖田総司などが、京都市中の池田屋に集まっていた長州藩出身者を中心とした尊皇攘夷派の武士・浪人数十人を急襲し、多くの尊皇攘夷派が殺害・捕縛されました。(「池田屋事件」)

 これらの事件を受けて、元治元(1864)年7月19日、前年に京都を追放された長州藩が、藩の正式な兵士約2000人を京都へ上らせ、会津藩・薩摩藩を中心とする御所を守っていた公武合体派と戦闘になりました。
 この戦闘では公武合体派が勝利し、長州藩の来島又兵衛や久坂玄瑞など、約400人が戦死しました。
(「禁門の変」、または「蛤御門(はまぐりごもん)の変」といいます)
 この戦闘によって、京都御所に銃口を向けた長州藩は「朝敵」となりました。

 一方、長州(山口県)本土でも、「蛤御門の変」で京都で敗退した翌月の文久4(1864)年8月に、前年に長州藩の砲撃を受けたイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヶ国の艦隊が馬関(ばかん=山口県下関市)に砲撃を加え上陸して、一時、占領しました。(馬関戦争)

 窮地に立った長州藩は、「脱藩罪」で投獄していた高杉晋作を赦免し家老の息子に仕立て上げて、イギリスなど4ヶ国との和平交渉役に抜擢しました。

 高杉晋作は堂々と外国の代表と渡り合い、下関開港を認める代わりに、「賠償金は幕府に請求すること」「4ヶ国が要求した下関沖の島・彦島の租借は拒否する」という2点だけは、譲りませんでした。
 彦島を外国に渡さなかったのは、中国・上海に渡航経験があった高杉晋作が、香港の二の舞にならないようにとの強い決意があったからだと言われています。

 高杉晋作の登場で、長州と4ヶ国との和平は成立しましたが、京都の「蛤御門の変」によって朝敵(朝廷の敵)とされた長州藩を征伐するよう朝廷から江戸幕府に命令があり、11月には、幕府の命令を受けた全国35藩の15万人の兵が、長州(山口県)を取り囲む事態になりました。(第一次長州征伐)


 絶体絶命の長州藩は幕府の要求を飲み、藩主親子が謝罪し、「蛤御門の変」の首謀者として、尊皇攘夷派(正義派)の三家老が切腹、四参謀が斬首になりました。

 このあと、長州藩内では幕府寄りの保守派が実権を握り、幕府と対立し朝廷政権を目指した「正義派」は弾圧され、中心人物の一人、井上聞多が9月に襲撃され重症を負ったのをはじめ、身分に関係ない軍隊として高杉晋作が創設した「奇兵隊」にも解散命令が出されました。

 4ヶ国との和平を実現した高杉晋作にも追手が迫ったため、九州に逃亡しました。

 元治元年12月始めは、このような状況で「幕府から朝廷」への政権移譲を目指した反幕府勢力の中心的な役割を果たしてきた「長州藩(山口県)」も、幕末の志士たちも、壊滅寸前でした。
 
 四面楚歌、そのような状況の中で「勝ち目のない決起」を起こすために九州から帰ってきたのが、高杉晋作(たかすぎ・しんさく)でした。   

 11月下旬に長州に帰ってきた高杉晋作は、奇兵隊の諸隊を説得します。

「このままでは壊滅するのを待つだけだ。今は、決起こそが未来を開く唯一の道だ。
(以上は高杉晋作の意見を要約。以後は実際の高杉晋作の言葉の現代語訳)
 僕に一匹の馬を貸してくれ。僕はそれに乗って萩(当時、藩主がいた萩城)の君公(毛利の藩主親子)のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす。」

 この言葉を残して、高杉晋作は現在の下関市にある「功山寺(こうざんじ)」で、決起します。

 時に、元治元年12月15日(西暦1865年1月12日)、雪の功山寺で高杉晋作は、伊藤俊輔(のちの初代総理大臣伊藤博文)が率いる力士隊と遊撃隊のわずか84人で、長州藩正規軍(その裏には15万人の幕府軍もいます。)を相手に決起します。(「功山寺決起」)

 高杉晋作は、当時、功山寺に幽閉されていた三条実美など五卿に「これより長州男児の腕前をお目にかけます。」と挨拶して、出陣したという記録が残っています。

 本当は、12月14日、そうです「赤穂浪士の討ち入り」の日に晋作は決起したかったのですが、準備の関係で1日ずれてしまったのですが、雪の降ったのは、赤穂浪士の討ち入りと同じでした。


 高杉晋作ら84人が捨て身で起こした「功山寺決起」は、奇兵隊や長州の民衆の支持を得て成功し、大勢力となって、翌元治2年1月には、長州藩の正規軍とも激突しますが勝利します。
 2月には、萩に入った晋作率いる奇兵隊などの「正義派」が、長州藩を掌握します。

 その後、慶応2(1866)年1月には、長州藩と薩摩藩は「薩長同盟」を坂本龍馬の仲介で成立します。
 さらに、慶応2年6月から8月にかけての長州軍と「幕府軍+諸藩」が戦った第二次長州征伐でも、高杉晋作は長州軍の海軍総督として幕府軍を破り、倒幕・明治維新への流れを確かなものにしていきます。

 元治元年12月15日に高杉晋作が起こした「功山寺決起」は、幕末から明治に向かう流れの本当の導火線に火をつけた「日本史上の奇跡」だったのです。


<高杉晋作の功山寺挙兵の銅像(山口県下関市)>





 ここで、高杉晋作のプロフィールを、紹介します。

 高杉晋作(たかすぎ・しんさく)は、天保10年8月20日(西暦1839年9月27日)、長州藩士の長男として萩城下(山口県萩市)で生まれました。

 藩校の明倫館に通いながら、吉田松陰が萩郊外で主宰していた「松下村塾」にも通い、尊皇攘夷の志を学んで久坂玄瑞らと並ぶ「松下村塾の四天王」と言われました。
 剣術でも、「柳生新陰流」の免許皆伝の腕前でした。

 安政5(1858)年、19歳の時に江戸に藩名で遊学し、諸藩の志士と交流します。
 また、安政6(1859)年に師の吉田松陰が安政の大獄で捕らえられると、江戸の伝馬町獄を見舞って世話をします。
 しかし、藩名で萩へ帰国する途中に、吉田松陰の処刑を知ります。
 万延元(1860)年には、防長一の美人と呼ばれた「井上まさ」と結婚します。 
 
 文久2(1862)年には、(NHKの朝の連続ドラマ小説「あさが来た」でディーン・フジオカが演じてブレイクした)薩摩の五代友厚らと、幕府使節の随行員として中国の上海を訪れます。
 晋作は、ここで西洋列強の植民地となりつつある「清」を自分の目で見たことで、考えかたを大きく国際情勢重視に転換します。

 文久4(1864)年1月、晋作は脱藩の罪で捕まり、萩郊外の「野山獄」に投獄されます。
 しかし、結果的には、この投獄のおかげで晋作は、「池田屋事件」や「蛤御門の変」に巻き込まれず、命を延命することになります。

 この年の8月、イギリスなど4ヶ国艦隊に下関を占領されると、長州藩は、上海渡航の経験がある晋作を赦免し、4ヶ国との和議交渉にあたるように命令します。
 晋作は。見事にこの和平交渉を成立させます。

 しかし、「第一次長州征伐」で保守派が長州藩を牛耳ると、晋作は命の危険を察知して九州福岡へ逃亡します。
 九州諸藩の志士に決起を呼びかけますが応じるものはなく、長州藩の情勢悪化を知り、決死の覚悟で長州へ帰国して、12月15日に「功山寺決起」を敢行し、見事に成功させます。

 その後、晋作は三田尻(山口県防府市)の長州藩の海軍局を襲い、軍艦を奪って海軍を手に入れます。
 さらに、奇兵隊や商人、農民なども味方につけて、長州の正規軍を撃破して、藩の実権を握ります。
 
 慶応2(1866)年夏の「幕府・諸藩連合軍対長州軍」の「第二次長州征伐(四境戦争」でも、幕府軍15万人を敵に回して、長州軍4千人ほどを率いて戦い、見事に勝利します。
 このことで、幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3(1867)年の大政奉還、そして戊申戦争、明治維新へとつながっていきます。

 しかし、戦いに勝利した高杉晋作は、当時の不治の病「肺結核」にかかっており、明治維新の前年の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に、下関市内の桜山で満27歳で病死します。


 高杉晋作は、その生涯に多くの逸話を残しています。

 品川の「イギリス公使館」を焼き討ちしたり、天皇を護衛していた将軍に「よお、征夷大将軍」と声をかけたり、愛人の「おうの」と亡命中に讃岐(香川県)の金比羅さんを参拝したり、江戸時代としては、考えられないほど自由に生きています。
 そして、ついには、江戸幕府の終焉を決定づけたのも晋作でした。

 因(ちな)みに、東行庵の「東行(とうぎょう)」とは、平安時代のさすらいの詩人、「西行」の向こうを張って晋作が好んで使った名前です。
 「その生涯が1篇の詩になるものを英雄」という司馬遼太郎さんの言葉どおり、高杉晋作の生涯は、まさに1篇の詩であったと言えます。


<高杉晋作が眠る墓(山口県下関市)>





さて、平成28(2016)年の話に戻ります。
 
 安倍晋三首相は、高杉晋作の「功山寺挙兵」の記念すべき日、12月15日に、高杉晋作の功山寺挙兵の舞台であり、自らの選挙区でもある山口県に、ロシアのウラジミール・プーチン大統領を招待し、「日露首脳会談」を開催しようとしています。

 阿倍首相は自らのブログで、「私の名前の晋三の『晋』は、高杉晋作に由来します」と公表し、2014年には、高杉晋作の墓地(山口県下関市)を訪れ、「志が定まった」と話すほどの晋作ファンです。

 もしかすると、安倍晋三首相は、平成28年12月15日に山口県で行う「日露首脳会議」で、幕末の英雄・高杉晋作にあやかり、「歴史的ミラクル」を演出しようとしているのかも、知れませんね。


 私は、以前、高杉晋作が生まれた山口県萩市の生家を訪れたことがあります。
 藩の名家にしては、小さいなと思ったことが記憶に残っています。

 また、松下村塾(萩市)や、晋作が亡くなった東行庵(山口県下関市)、功山寺挙兵をした「功山寺」(同)にも行ったことがあります。

 その中でも、功山寺の隣にある「長府博物館」が特に印象に残っています。
 小さな博物館ですが、「牢獄にいて何もできない高杉晋作が、毎日のように握りしめていた愛玩石」が印象的でした。
 他にも、「支援してくれた豪商・白石正一郎への手紙」や「坂本龍馬の手紙」、さらには、あの乃木坂の起源となった長州藩の支藩・長府藩士の子である乃木希典陸軍大将の遺品も展示されていました。

<下関市立長府博物館>






 阿倍晋三首相が「12月15日・山口」の日露首脳会議で、ミラクル(奇跡)を起こすことができるかどうか、注目したいですね。
 そして、ぜひ、高杉晋作のように、志(こころざし)高く、みんなが自由でおもしろく生活できる平和な日本にしていただきたいものです。


「おもしろき こともなき世を おもしろく 棲(す)みなすものは 心なりけり」
(高杉晋作 辞世の句)


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