2015年8月30日日曜日

「死にたくなったら図書館へ」感動ツイートと「自殺特異日9月1日」

 「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。      マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。
   9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。」

 これは、8月26日に鎌倉市中央図書館の司書河合真帆(44歳)さんが、Twitterの公式アカウントから呼びかけた投稿で、8月29日22時現在で9万RT(リツート)を超え、「お気に入り」の登録も7万件を超えています。

 マスコミでも「優しさあふれる感動のツイート」として、大きく取り上げられましたので、ご存じの方も多いと思います。

 河合司書さんは、次のように語っています。
 「実は、私も小学生のころ、いじめに遭い、学校に行くのがつらかったんです。
 子どもの自殺が最も多いのは、夏休み明けの9月1日という報道を読みこのツイートを書きました。
 また、米国の図書館にあった<自殺したくなったら図書館へ>というポスターを思い出したのも、きっかけになりました。」

 この感動のメッセージに、「五体不満足」の著者乙武洋匡さんは、「すごくいいね。うちの妻も子供の頃は、友達がいなくて休み時間はずっと図書館にいたと言っていました。」というコメントをよせています。
 また、堀江貴文(ホリエモン)さんも、「いいね」のコメントを寄せています。

<鎌倉市立中央図書館 (神奈川県)>



 ここからは、河合真帆司書さんが話していた「夏休み明けの9月1日が、子供の自殺者が一番多い。」という事実について、考えてみたいと思います。

 内閣府の平成26年度版「自殺対策白書」は、過去40年間の「累計日別自殺者数」を独自集計し、18歳以下の子どもの自殺は、4月や9月など「長期の休み明け」に突出していることを明らかにしました。
 これまで自殺者数は、月別、年次などに区切って出されていたため「日別」に、18歳以下に限って発表されたのは初めてでした。
 
 それによると、40年間の1日平均が50人ほどであるのに対して、9月1日が突出して多く、131人で、8月31日が92人、9月2日は94人となっています。
 
 
 自分の経験でも、楽しかった夏休みが終わる8月31日と9月1日は、宿題と学校のことで、本当にブルーで、押しつぶされそうになった記憶があります。
 
 1997(平成9)年8月31日には、中学生による焼身自殺・体育館放火事件がありましたし、2012(平成24)年9月1日には、群馬県の高校1年の男子が鉄道自殺しています。
 
 最近では、8月下旬に2学期を始める学校も多く、今年(2015年)の8月25日には、同じ群馬県の中学2年男子が、始業式の日に登校する途中で、鉄道自殺しています。
 
 不登校経験者の女性(20歳)は、「夏休み明けの9月1日は何度も死にたいと思った日でした。新学期からのいじめが、また続くかと思うと怖くてたまらなかった。」と話しています。
 
<1975年~2014年までの18歳以下の日別自殺者数 (内閣府「自殺対策白書」)
 
 
 
 山梨県立大学の清水恵子教授は、「いつも見ているテレビに興味を示さない」とか、「食欲がない」、「眠れていない」、「宿題ができていない」などの兆候に気づいたら、家族が声をかけてほしいと話され、時には、「学校を休んでもいいよ。」と言ってあげることも考えてほしいとアドバイスしています。
 
また、心理カウンセラーの内田良子さんも、こう話しています。
 「休み明けの自殺が多いのは現場の実感です。とくに9月1日、夏休み明けは親が気を付ける日です。
 1学期、登校しぶりのあった子が、宿題ができていないとか、身体の具合が悪いと訴えたら赤信号です。
 「休ませる勇気」こそ、親の愛情表現です。
 いじめや孤立で学校に居場所のない子どもは追い詰められれば自ら命を絶ちます。
 安心して休む場所があれば、子どもは命を絶たずにすむのです。」

<図書館>



 専門家のみなさんは、「がんばれ」とか「我慢して学校へ行きなさい」はNGと言いますが、我が家の子供のように、不登校になってしまうと、本当は「がんばれ」「我慢しろ」と言いたいです。
 学校に行かない(行けない)子供の将来を考えると、不安で仕方ありません。

 一方で、河合真帆司書さんがおしゃったように、「自殺するより、図書館へ逃げておいで」というのは真実だと思いますし、死ぬぐらいなら本の海で心を癒してほしいと思います。

  もう一つ、私は図書館の本やマンガから、自分で立ち向かう「勇気」やテレビドラマ「ど根性ガエル」のような「ど根性」を見つけてほしいと願っています。

 思えば私自身、学生時代から今までずっと、嫌なことがあったり人生に疲れると、知らぬ間に本屋に寄って立ち読みして、「癒しと元気」をもらっていました。

 もしかしたら、本には、知識を得るだけでなく、ヒーリング効果や「勇気・元気(ファイト)の種」もあるのかも知れません。
 死にたい子は、一旦は図書館に避難していいから、図書館の本の中から、「試練に立ち向かう、勇気・元気を見つけて」生きていってほしいと、心から思います。
 

<一句>

・本たちは 知識と勇気 癒しアイテム

・死ぬ前に 図書館シェルター 1冊の本


  

2015年8月28日金曜日

歴史探検1「ナチスが民主憲法を死文化した手口」と戦う民主主義

 「戦後70年」となる今年、2015年は、「戦争と平和」について、日本中で考えてみることが必要な年だと思います。

 とりわけ「安保法案」については、学生や若者はもちろん、ノーベル賞受賞者や憲法の専門家を含む多くの学者や弁護士、サラリーマンや高齢者、女性たちまでが、反対を表明したりデモに参加したりしています。
 これだけ市民運動が盛り上がるのは、日本ではおそらく、1970年の「70年安保」以来だと思います。

 このような時代に必要なことの一つとして、過去の歴史を振り返り、そこから「教訓」を得て、未来の日本を作る指針にすることがあります

 そこで「歴史の分かれ道」となった場面を、何回かに分けて(飛び飛びになるとは思いますが)、探検してみたいと思います。


 1回目のテーマは、第2次世界大戦の原因にもつながる疑問、「なぜ、ナチスとヒトラーは、ドイツ民主憲法(ワイマール憲法)を死文化できたのか?」です。

 安倍内閣の麻生太郎副総理は、一昨年、平成25年7月29日の東京での演説で、「ドイツのワイマール憲法は、いつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね。」と述べました。

 これは、どういう意味なのでしょう?
 20世紀前半のドイツへ「歴史探検」してみましょう。


 アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年、オーストリア・ハンガリー帝国生まれ)とナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、暴力で政権を奪取したイメージがありますが、実は、少なくても表面的には、合法的に権力を掌握しました。

 1919(大正8)年、第1次世界大戦(1914年~1918年)に敗れたドイツは、イギリス・フランスなどの連合国との間に、莫大な賠償金を支払うことや領土分割の規定を含む「ヴェルサイユ講和条約」を締結させられました。

 また、同じ1919年、ドイツでは終戦処理の締めくくりとして「ワイマール(ヴァイマル)憲法」が成立しました。

 この憲法は、「主権在民」、「男女平等の普通選挙」、「生存権、社会権を世界ではじめて認める」など、当時の世界最先端の民主的な憲法でした。

 一方で「ワイマール憲法」では、直接選挙で選ばれた大統領が、首相の指名と法律に拘束されない「大統領令」を発令する権利も認めていました。

 このワイマール憲法下のドイツでは、膨大な賠償金によって天文学的なインフレが進行し、国民の生活が困窮しました。
 また、政治的には「完全比例代表制」の選挙制度であったため、少数政党が乱立し不安定な連立政権が続きました。

<ドイツ ワイマールの劇場広場とゲーテ、シラー像>




 このような不安定な社会情勢の中で、「強いドイツ」を訴え、選挙の度に次第に勢力を拡大していったのが、1921(大正10)年にヒトラーが党首になった「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチス)でした。

 ヒトラーは語っています。
「弱者に従って行くよりも、強者に引っ張って行ってもらいたい…大衆とはそのように怠惰で無責任な存在である。」

 ナチスは、1928(昭和3)年には得票率2.6%で、国会議員当選者は12人に過ぎませんでした。しかし、1930年には得票率18.3%で102人に躍進し、1932年7月には230議席(得票率37.3%)を獲得し、ついに第1党になりました。

 ヒトラーのやり方は、気に入らないことがあると画策して、大統領令や内閣不信任で議会を解散させ、度々、選挙をして、ナチスの議席を増やしていきました。(1930年に1回、1932年に2回、1933年に2回と、4年間で5回の国会選挙を実施しています。)

 1933(昭和8)年1月にヒトラーが首相に就任すると、2月には集会・デモなどを制限する「ドイツ民族保護のための大統領令」を発布させ、2月末に起こった「国会議事堂放火事件」の責任を、勢力を拡大していた共産党に押し付け、共産党議員たちを逮捕させます。

 1933年3月には、再び議会を解散し、選挙をして、初めてナチスが過半数の288議席(得票率43.9%)を獲得します。

 選挙後、ヒトラーは、閣議で「選挙結果は革命であった」と宣言し、国会や憲法に政府が拘束されない包括的授権法である「全権委任法」を成立させ、行政権と立法権を手に入れました。

 この時、「憲法改正的な法律」を通過させるためには、国会議員の定数の3分の2以上が出席し、その3分の2以上の賛成が必要でした。
 ナチスは、過半数の議席をもっていましたが、3分の2には足りませんでした。

 そこで、「議長は、許可を得ず欠席した議員を排除することができ、自己の責任によらず欠席したり排除された議員は出席したものとみなされる。(棄権あつかい)」という、議院運営規則の修正案を可決し、逮捕されて出席できない共産党の議員たちを「出席・棄権扱い」と都合よく解釈して、「全権委任法」を可決しました。

 1934(昭和9)年8月に、病気だった反ナチスのヒンデンブルク大統領が死亡すると、ヒトラーは大統領と首相を兼ねる「総統」に就任し、ドイツの全権を掌握します。

 こうして、ドイツはナチス独裁政権となり、1934年以降は国会選挙も実施せず、軍拡・他国への侵攻・ユダヤ人迫害などを行い、戦争への道を突っ走り、やがて第二次世界大戦(1939年~1945年)を起こすことになるのは、みなさんのご存じのとおりです。


<ドイツ・ボンの街>




 
 ここで注目していただきたいのは、ヒトラーは「ワイマール憲法」の改正を行わないまま、憲法解釈を都合よく変更するだけで、「全権委任法」を合憲とし、ワイマール憲法の民主主義・三権分立の理念を「有名無実化」して、死文化してしまったことです。

「自己をあらゆる武器で守ろうとしない制度は、事実上自己を放棄している」
(ヒトラーの言葉)

 どんなにすばらしい憲法をもっていても、国民全体で憲法を守る意識がなければ、独裁政権が生まれる可能性があるという「歴史の教訓」です。


 この反省に立って、第2次世界大戦後の1949(昭和24)年に西ドイツで制定された「ドイツ連邦共和国基本法」(ボン憲法=統一ドイツにも継承)では、国民に「自由主義と民主主義を維持する義務」(いわゆる「戦う民主主義」)を負わせています。

  自由も民主主義も平和も、憲法があるからと言って権利の上に眠らず、国民一人一人が維持するために、「戦う民主主義の活動を続けていかなければならない」という現在のドイツの考え方は、今の日本にも当てはまるのではないかと思います。


 私の通勤している道で、ほとんど毎日、数人のおじいさん・おばあさんたちが、「平和 憲法9条」と書かれた旗を掲げて、道行く人たちに、「戦争反対」を呼びかけています。

 選挙運動以外で、こんなことをする高齢者の人たちを見たのは、初めてです。
 「子や孫の時代の平和」を願う、おじいさん、おばあさんたちの行動は、「戦う民主主義」の一つと言えるのではないかと思います。

<平和のぼり>




  最後に、日本国憲法が出来た昭和22年に文部省が出し、昭和25年頃まで中学1年社会の教科書として使われていた「あたらしい憲法のはなし」の一節を紹介します。

「 こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。

 その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これを「戰力の放棄」といいます。

 しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

  もう一つは、よその国と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。

  なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。これを「戰爭の放棄」というのです。

 世界中の国がよい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。」

(「あたらしい憲法のはなし」(昭和22年 文部省発行)より抜粋)


 この「あたらしい憲法のはなし」は数年で学校教材から消えましたが、この言葉どおり、戦後70年、日本国憲法のもとで日本は平和を保ち、1度も戦争をしていません。少なくてもこれは、歴史的事実です。

 皇后美智子妃殿下は、この「あたらしい憲法のはなし」について、「この本を憲法記念日のたびに、家族で読んでいました。」と語られたそうです。

  
<一句>

誰だって 平和を願う 子や孫の

   
 
  

2015年8月26日水曜日

夏の終わりに ~秋来ぬと目にはさやかに見えねども~

「秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」

 この歌は、平安時代の歌人・藤原敏行(?~901年)の短歌で、「古今和歌集」に収められています。
 夏の終わり、秋の初めになると、思い出される歌ですが、この歌の前には「秋立つ日よめる」と書かれていて、「立秋」に詠まれた歌です。

 今年の立秋は8月8日でしたが、8月の下旬になって、やっと秋の訪れを感じるようになりました。
 「立秋の日から風は吹き増さる」という平安時代の言葉を受けた、「風の音にぞ おどろかれぬる」という歌だそうですが、2015年の秋の訪れを告げたのも、台風15号の大きな「風の音」でした。
 そんな季節のことをテーマに最近作った、自作の詩を書きます。

<写真 イワシ雲>




詩 「夏から秋へ ~目にはさやかに見えねども~」
 
暑い眩しい夏の風
いつしか涼しい風の音

空に浮かんだ入道雲が
知らぬ間に イワシ雲に変わった

幽霊・怖い話が減って
ハロウィンのかぼちゃが 増えていく 

夏から秋へ 目にはさやかに見えねども
微かに季節は動いてる

長い長い夏の夕暮れ
真っ赤な夕焼け 揺れている

少しずつ でも確実に 夕暮れは 
早く短くなってゆく

黄昏 誰そ彼 たそがれ それは淋しい色

シュワシュワ シュワシュワ クマゼミが消え
ツクツク ツクツク ツクツクボウシの悲鳴

夏から秋へ 目にはさやかに見えねども
秘かに季節は動いてる
  
シオカラトンボが アカトンボに変身し
緑の稲穂が 金色に変わる

カブトムシが卵に変わり
ススキの草むら 虫の声

宿題たまった子供の悲鳴
「夏休み日記」も ラストページへ

夏から秋へ 目にはさやかに見えねども
確かに季節は動いてる

<写真 金色の稲穂>


  
 台風15号の風雨、みなさんの所は大丈夫でしたか?

 「安保法案」、「世界同時株安」そして「新学期」
 いろいろな意味で正念場の秋ですね

 問題山積の秋ですが ボジテイブに前向きにがんばろうと思っています。
 「ファイト! 私そしてみなさん」


<一句>

・秋立ちて 夜空に 虫のシンフォニー
 

2015年8月24日月曜日

台風15号西日本に接近? ~台風豆知識、強さ・名前など~

 やっと夏の暑さが少しやわらいだと思ったら、台風15号「コーニー」が西日本へ近づきつつあります。

 気象庁が発表では、8月24日18時現在、台風15号は奄美市の西北西140km(北緯28度50分、東経128度05分)にあって、北東へ40km/hの速さで進んでいます。
 中心の気圧は940hp(ヘクトパスカル)、中心付近の最大風速は50mで「非常に強い勢力」を維持しています。
 また、中心から南東側150km、北西側90km以内では、風速25m以上の暴風圏となっています。



 
 今回は、台風の豆知識を紹介します。
 まず、「台風の強さ」の話です。

 そもそも台風とは、熱帯の海上で発生する低気圧(熱帯低気圧)のうち、北西太平洋(赤道より北で東経180度より西の領域)または南シナ海に存在し、かつ低気圧域内の最大風速(10分間平均)がおよそ17m/s(34ノット、風力8)以上のものを言います。

 つまり、台風と熱帯低気圧は、「最大風速約17m/s」で分かれるのですが、台風の強さも中心気圧ではなく最大風速で区分されます。
  17m/s~32m/sまでは「強さの表現はつけません」が、33m/s以上44m/s未満は「強い台風」、 44m/s以上54m/s未満を「非常に強い台風」と呼びます。54m/s以上は「猛烈な台風」に
なります。
 台風15号は最大風速50m/sですから、「非常に強い台風」ということになります。
 以前は「並」や「弱い」などのランクもありましたが、台風の表現としてふさわしくないとの理由で、最近は呼ばれません。

 次に、「台風の大きさ」は、風速15m/s以上の強風域の大きさで区分され、半径500km未満は表示されず、半径500km以上800km未満を「大きい台風」、800km以上を「非常に大きい台風」と呼びます。
 台風15号は、強風半径500km未満ですので、大きさの表示はありません。
 
 ちなみに、台風の回転は半時計回りですので、進行方向の右半分では進む方向と風向きが一致し「より強くなる」傾向があります。これを、危険半径と呼んでいます。
 
 最後に、台風の名前です。
 日本では、その年の1月1日から発生順に、台風1号、2号とつけていきます。また、過去の台風には、西暦の下2ケタと合わせ「1201」(2012年の1号台風)などの番号をつけています。
 今年の台風15号は「1515」ということになります。

 また、台風には、かつて「ジェーン台風」のように、アメリカが英語の人名をつけていましたが、
平成12(2000)年の1号からは、日本を含む14ヶ国で組織する「台風委員会」が、命名するようになりました。
 14ヶ国から10個ずつ、計140個の名前をつけるのが原則ですが、特に被害の大きかった台風の名前は以降使いませんし、東経180度より東で発生した台風には、別の名前をつけることもあります。

 ちなみに、現在発生中の台風15号は「コーニー」(韓国の言葉で「白鳥」)、台風16号は「アッサニー」(タイの言葉で「雷」)です。日本の言葉では、「テンビン」「ウサギ」「コップ」「クジラ」などの星座の名前がつけられます。
  気象庁のホームページには、台風15号(コーニー)のように記載されていますので、興味のある方はご覧ください。

<台風被害の写真>




 「台風15号」の話に戻ります。
 台風の強さは「最大風速」で表現すると紹介しましたが、石垣島では、23日21時過ぎに観測史上1位の71.0mの瞬間最大風速を記録しています。
 また、畳が風で浮き上がったり、自動車が横転したりもしているそうです。
 「非常に強い台風」であることは、間違いないようです。


 台風への備えを、改めて紹介しますので、もう1度、確認してください。

(1) 家の外の備え(風雨が激しくなる前)
  水害に備え、側溝や排水溝の掃除をし、水はけをよくする。また、屋根、塀、壁などの点検、補強も台風が来る前に行っておく。

(2) 非常用品を備蓄
 ライフライン(水道・電気など)が途絶えたときの事を想定して、非常用品を備えましょう。食料・水・電池等は、救助・復旧に必要な、概ね3日分程度が必要と言われています。

<備蓄推奨品>
・ 懐中電灯(LEDライト)やマッチ・ライター
・ 情報取得・通信手段(携帯・スマホやラジオと電池・充電器など)
・ 非常用食料と飲料水(3日分)
・ 貴重品(小銭を含むお金など)
・ 薬(特に病気の人)やおむつ(幼児がいる家庭)
・ 生活用水(お風呂に水をためておくと、水洗トイレや洗い物等に使えます)

(3)家族で話し合っておく
 避難場所やルート・方法、落ち合う場所・連絡方法などを、家族で話し合い確認しておきましょう。
 できれば、地元自治体(区・市町村等)のホームページなどで、「ハザードマップ」を確認・取得しておきたいものです。
 

 南西諸島では8月24日、本土(特に九州)では25日~26日にかけて、「台風15号」が接近・上陸する恐れがあります。
 台風への備えと非難は、早めにしっかりと余裕をもって行い、厳重に警戒してください。

 

2015年8月22日土曜日

甲子園2015夏 ヒーローたちの名言 ~小笠原・清宮・オコエ、そして~

 2015年夏の甲子園は、「東海大相模(神奈川代表)」の45年ぶり2回目の優勝で幕を閉じました。
 今回は、甲子園のヒーローたちの名言を中心に、100年目の夏の大会を振り返ってみたいと思います。

 高校野球100年目の夏は、一言で言えば「東高西低」でした。準々決勝に残ったのは、関東4校、東北2校、九州2校で、ベスト4に残ったのは関東3校、東北1校でした。

 みごと全国制覇した「東海大相模高校」には、MAX150km越えの2人の剛速球投手がいました。
 左のエース小笠原慎之介投手が、「吉田に追いつけ追い越せで切磋琢磨してきました。」と話せば、右のエース吉田凌投手も、「同じチームに小笠原がいることは、自分にとって間違いなくプラスです。」と語りました。

 「二人で日本一」を合言葉にして激戦を勝ち抜き、見事、優勝しました。
 小笠原投手が優勝後のインタビューで言った、「日本一になるために練習をしてきました。苦しい思い出しかありません。」という言葉は、東海大相模の練習の厳しさを象徴しています。

 優勝した「東海大学付属相模高等学校(東海大相模)」は、1963(昭和38)年に神奈川県相模原市に誕生した東海大学の付属高校で、甲子園へは今回を含め夏10回、春9回の出場し、うち春夏2回ずつの全国制覇を果たしました。
 OBには、巨人の原辰徳監督をはじめ、巨人の菅野智之投手や国民栄誉賞を受賞した柔道の山下泰裕選手など、多くの有名人がいます。

<阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)>

 



 次に、今大会の入場者数が、地元関西勢がベストエイトに残れなかったのに、入場者が昨年より9000人多い86万2000人となったことからもわかるように、例年以上に大会を盛り上げた、注目の二人の言葉を紹介します。

 まず、「和製ベイブルース」と言われ、出場試合は満員、臨時列車まで出た早稲田実業(西東京代表)の清宮幸太郎選手が、準決勝で、仙台育英高校の佐藤世那投手に完封されたあとの言葉です。
 「ああいうピッチャーを倒していかないと、全国制覇なんてできないと、今日、痛感しました。もっともっと成長したい。甲子園の土は持って帰りません。(1年生なので)また、ここへ戻ってくるので、いらないです。」

 もう一人、注目されたのが関東一高(東東京代表)のオコエ瑠偉選手です。
 オコエも、準決勝で東海大相模に10-3で敗れ、その後、3年生らしくこう語りました。
 「悔いはないです。一生忘れられない甲子園でした。今後は、プロに行きます。今までの日本にいなかった、すべてトップレベルの選手になりたいと思います。」

 

 ここまで、野球エリート高校の選手の話を紹介しました。
 続いては、昨年の覇者「大阪桐蔭高校」を予選で撃破し甲子園に初出場し、甲子園でも1勝を挙げた、雑草集団「大阪偕成学園高校」を紹介します。

 まず、2回戦でホームランを甲子園スタンドへ叩き込んだ大阪偕成高校の姫野優也選手は、中学卒業後、一度は天理高校(奈良県)に進学しましたが、1年春に高校をやめ、工事現場などで働きながらひと夏遊びつくしました。
 1年の9月に、山本皙監督(47歳)に見いだされ、大阪偕星学園に編入学しました。

 エースの光田悠哉投手も、進路に悩み中3で一時は野球を辞めていましたが、山本監督に声をかけられ、高校で野球を再開し、甲子園への道をつかみました。

 大阪偕成高校の他の選手も、多かれ少なかれ苦労してきた生徒ばかりで、まさに「雑草野球部」です。
 山本監督自身も、前任の高校で逮捕(不起訴)された経験がある苦労人で、本当にどん底からの復活です。

 山本監督は、こう語ります。「スポーツってね、国籍、肌の色、お金持ち、貧乏とか関係ないんですよ。野球がうまい奴が勝つ。貧乏でもお金持ちに勝てるんです。野球をしてるときくらいは、子供たちにそういう夢を見させてあげたい。」

 練習量は、「大阪桐蔭にも負けない」と豪語しますが、野球部の財政は苦しく、練習用のユニホームは上下500円、スパイクは980円で、宿泊は1泊2500円のところに泊まったそうです。

 この雑草集団が、激戦区大阪を勝ち抜き、前年全国制覇の大阪桐蔭高校に勝ち、甲子園に出場できたのは、まさに奇跡だと思います。

 姫野優也選手は、「高校野球は人生で1度しかない。遊んでいたときより今の方が楽しかった」と語り、光田投手も「最初は辞めたいと思ったけど、続けてきてよかった。悔いはありません。」
とインタビューに答えました。

 山本監督も、「自分の子供たちを甲子園のグラウンドに立たせられて感無量です。」と涙ながらに語りました。
 こういうドラマがあるから、甲子園には「夢と魅力」があるのだと思います。

 ちなみに、大阪偕成高校(旧 此花商業高校)は、1929年に創立された歴史ある学校で、
出身者には、俳優の鶴田浩二さんや、吉本新喜劇のお笑い芸人・坂田利夫さん、タレントの彦摩呂さんなど、多彩なメンバーがいます。

<阪神甲子園球場 外観>




 最後は、高校野球らしい「さわやか」な話を二つ。

 一つ目は、決勝戦で一度は追いつきながら「東海大相模」に10対6で敗れ、惜しくも東北勢初の全国制覇を逃した「仙台育英高校(宮城県代表)」のキャプテン佐々木柊野選手の言葉です。

 「僕はこれで野球をやめます。母子家庭で私学に行かせてもらって、母には苦労をかけました。卒業したら消防士になります。
 野球で、ひとりではなにもできないと学びました。周りの人と協力して、人のためになる仕事がしたいと思います。」

 甲子園の出場選手には、ドラフト候補や大学や社会人で野球を続ける者が多い中、準優勝チームのキャプテンのこの言葉は、本来の高校野球スピリットを思い出させてくれる「さわやかな名言」だと思います。

  もう一つは、準々決勝で敗退した秋田商業高校(秋田県代表)の選手たちが、宿泊したホテルの連絡用掲示板に残した「寄せ書き」の話です。
  仙台育英高校に敗れ、帰ることになった翌日の朝、ホワイトボードにタイトル「ホテルの皆様」、テーマ「感謝」という、秋田商業の選手たちの寄せ書きが残されていました。

 「おいしすぎるごはん、ベットメイク、ありがとうございました。」 「来年もまた戻ってきます。」など、選手たちの暖かい感謝のメッセージが、ホワイトボードいっぱいに書かれていました。
 秋田商業ナインは、ホテルの従業員たちに、さわやかな風を残して、東北へ帰って行きました。

<秋田商業ナインが残した「感謝」の寄せ書き>

 


  甲子園の勝者や敗者はもちろん、出場できなかった全国の高校の選手たちも、甲子園の「夢と思い出」を胸に刻んで、新たな人生への1歩を、踏み出してくれることを祈りたいと思います。


<一句>

・ 甲子園 勝ち負け越えて 人生へ 

 
 

2015年8月18日火曜日

噴火警戒レベル4「桜島の噴火の歴史」と「川内原発」への影響?

 気象庁が8月に入って、噴火警戒レベルを「4(避難準備)」に引き上た「桜島(鹿児島県鹿児島市)」は、火山性地震が起き、マグマの上昇に伴って山体膨張の状態も続いています。
 気象庁は「火山活動は活発なままで、いつ噴火してもおかしくない状態」として、大きな噴石の飛散や火砕流の発生などに厳重な警戒を呼びかけています。


 観測データが豊富な「桜島」についての今回の発表は、気象庁がよほど警戒しているのだと思います。
 そこで、今回は「桜島の噴火の歴史」について、紹介します。


 「桜島(さくらじま)」は、九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)、北緯31度35分19秒、東経130度39分17秒にある標高1117mの成層火山です。
 かつては、文字通り「島」でしたが、1914(大正3)年の噴火で、東側の大隅半島と陸続きになっています。

 錦江湾に浮かぶ桜島は、鹿児島のシンボルといわれています。
 面積は約80km²、周囲約52km、人口は約4600人です。山は、北岳・南岳の2つの主峰から成る複合火山で「霧島錦江湾国立公園」に指定されています。

 「桜島」は 毎日のように小規模な噴火を繰り返す島として有名です。
 鹿児島地方気象台によりますと、1982年から2009年までの噴火回数は、17回~755回の間で推移していましたが、2010年に1026回と千回を超えると、2011年が1355回、2012年が1107回、2013年が1097回と4年連続で千回を超えて、明らかに活動が活発化しています。
 2014年は656回と減りましたが、2015年は8月10日現在で1152回と過去30年間で、最速のペースで噴火を繰り返しています。

<桜 島 (鹿児島県)>




 それでは、過去の噴火の歴史を調べてみましょう。
 桜島は約26,000年前に誕生し、十数回の大噴火を繰り返してきたと言われています。

  桜島の活動は、「1古期北岳」、「2新期北岳」、「3南岳」の3つのステージに区分できます。
  「古期北岳」の活動(約2万6千年から2万4千年前)の後、休止期間を挟み、「新期北岳」の活動が1万3千年前から始まり、少なくとも10回の軽石噴火を繰り返し、約5千年前には活動を停止しました。
  その後、「南岳」の活動へ移り、有史以来、4回の大規模噴火の発生が記録されています。

  1回目は、奈良時代の764(天平宝字8)年から766年に、南岳東山腹からマグマ噴火がありました。「続日本紀」の764年の記述によれば、鹿児島湾海上において大音響や火焔とともに3つの島が生成したとされています。

 2回目は、室町時代の1471~76(文明3~8)年に起きた「文明大噴火」です。
 1471(文明3)年9月12日に大噴火が起こり、「北岳」の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録があります。
 2年後の1473年にも噴火があり、さらに2年後の1475(文明7)年8月15日には、「南岳南西山腹」で噴火が起こり、溶岩(南側の文明溶岩)が流出しました。
 翌1476(文明8)年9月12日には、南岳南西山腹で再び噴火が起こり、死者多数を出し、沖小島と烏島が形成されたと伝えられています。
 

 3回目は、江戸時代の1779~82(安永8~天明元)年に起きた「安永大噴火」で、南岳山頂をはじめ、南岳南山腹、北岳の北東山腹から北東沖合の海底でも、噴火がありました。

 1779年11月7日(安永8年9月29日)の夕方から地震が頻発し、翌11月8日(10月1日)の昼過ぎに「桜島南岳」から大噴火が始まり、その後、北岳北東山腹からも噴火がありました。
 さらに、南岳火口付近から「火砕流(かさいりゅう)」が流れ下り、夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸や長崎でも降灰があったことが記録されています。
 11月9日(10月2日)には、北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出があり、海岸にまで達しました(安永溶岩)。

 翌年1780年8月6日(安永9年7月6日)から1781年4月にかけて、「桜島北東海上」で海底噴火が発生し、1781年4月11日の海底噴火では「津波」が発生し、被害が報告されています。
 薩摩藩の記録では、安永噴火の死者は153人に達しました。


 4回目の最も最近の大噴火は、1914年(大正3年)1月12日から1月末にかけてで、「大正大噴火」と呼ばれています。

 噴火場所は、「南岳西および東山腹」で、噴火の1~2ヶ月前から桜島の一部集落で井戸水の水位が低下しました。 1月10日から地震が発生し、11日には有感地震も含め頻発、12日朝には島の南海岸から熱湯が出て、8時頃には南岳の山頂と中腹から白煙が昇りました。

 1月12日10時5分頃、「西側中腹(標高約350m)」から噴火し、約10分後には「南東側中腹(標高約400m)」からも噴火しました。

 1月 13日20時頃からは、「溶岩流出」が始まり、西方の溶岩は、海に達して沖合の烏島を飲み込み、約2週間後には流出が止まりました。

 一方,南東方の溶岩は、脇、有村、瀬戸などの集落を飲み込み、1月29日には水深72mあった瀬戸海峡を埋めて、桜島が大隅半島と陸続きになりました。この時の海水温は49度にも達したそうです。
 噴煙は上空1万メートルに達し、火山灰は関東や東北地方(仙台)でも記録されています。

 また、この噴火が始まった1月12日18時29分には、「マグニチュード7.1」の強震が発生し、鹿児島市を中心に被害が出ました。小規模な津波も発生しています。
 「大正噴火」の地震、噴火による被害は死者58名、負傷者112名、噴火による埋没・全焼家屋約2140戸,農作物大被害、地震による全壊家屋約120戸と記録されています。

 この「大正大噴火」で、桜島の地盤は最大1.5m沈降しましたが、2015年には、ほぼ回復したと言われています。これは、大正噴火前の水準まで、地下の溶岩が溜まったということを意味しているのかも知れません。

<大正大噴火で溶岩に埋まった鳥居>



  ところで、桜島と聞いて気になるのは、2015年8月11日に再稼働した川内(せんだい)原子力発電所との関係です。
 九州電力は、「仮に桜島が噴火したとしても、影響はないと考えていて、特別な態勢などは取ってはいない。」とコメントしていますが、本当に大丈夫なのでしょうか?
 
 桜島と川内原発は、直線距離で50km離れています。このことからいうと、先ほど紹介した4回の大噴火と同じ規模の噴火なら、それほど大きな影響はないと思われます。
 それでは、100%大丈夫かと言われると、その問いには「?マーク」がつきます。

  桜島ができる3000年前の、今から約2万9000年前、現在の錦江湾(きんこうわん)北部で超巨大噴火が起こり、「姶良(あいら)カルデラ」と「シラス台地」が形成されました。

 この噴火により、地下にあった大量のマグマが地表に噴出され、大きな陥没地形(=カルデラ)が生まれました。これが「姶良カルデラ」です。
 姶良カルデラの大きさは、南北約23km、東西約24kmにもおよび、阿蘇カルデラにも匹敵します。そこへ海水が流れこみ、現在の錦江湾奥が形作られました。
   一方、地表に噴出したマグマは、「火砕流(かさいりゅう)」となり,半径70km以上の範囲を埋めつくし、火砕流台地を形成しました。この火砕流台地が「シラス台地」です。


 この規模の超巨大噴火が起これば、桜島から50kmにある川内原発も、当然、火砕流の直撃を受けることになります。
 桜島の川内原発への影響の有無の判断基準は、この規模の巨大噴火が起きる可能性を、どう考えるかということだと思います。


 最後に、「科学不信の碑」のエピソードを紹介します。

 桜島の「大正大噴火」の時、噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1914(大正3)年1月10日夜から、住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が「鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)」に問い合わせました。
 測候所からは、「地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり。白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はない。」との回答がありました。
 これを信じた鹿児島市民は逃げ遅れ、パニックになったと伝えられています。

 この教訓を生かすために、、鹿児島市立東桜島小学校にある「桜島爆発記念碑」には、「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら、未然に避難の用意をすることが肝要である。」との記載されており、「科学不信の碑」と呼ばれています。

 科学的な判断は重要ですが、災害避難では「過信」してはいけないという教訓だと思います。
 思えば、東日本大震災でも、想定を超える「巨大津波」で多くの犠牲者が出ました。
 地元の方は、用心の上にも用心して、今回の「桜島」の噴火に備えていただきたいと思います。


<一句>

「安全は  安心よりも  疑問から」


<桜島爆発記念碑(科学不信の碑)>


2015年8月15日土曜日

二つの玉音放送 ~昭和と平成の天皇陛下のメッセージ~

 今回は8月15日の「終戦記念日70年」に因んで、昭和と平成の2回の「玉音放送(ぎょくおんほうそう)」を中心に、昭和と平成の2人の天皇陛下の国民へのメッセージについて紹介したいと思います。

 まず、「昭和の玉音放送」です。
 1945(昭和20)年8月15日正午、「日本放送協会(現NHK)」のラジオから、昭和天皇の肉声(玉音)による「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)」が放送されました。

 この中で、昭和天皇は、「朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ」という言葉を述べられました。
 これを口語訳すると、「私は、大日本帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連(連合国)に対して、共同宣言(ボツダム宣言)を受諾することを通告させた。」という内容で、日本が連合国へ降伏し、太平洋戦争を終結することを国民に伝えました。

 日本国民の多くは、「玉音放送」を聞いて、最初は意味がわかりませんでしたが、降伏したとわかると泣き崩れたと伝えられています。

 事実上の無条件降伏ですが、これが決定されるまでには、映画「日本のいちばん長い日」などでも描かれているように、阿南惟幾陸軍大臣をはじめとする軍部が反対し、8月14日から15日にかけては軍部の青年将校によるクーデターが画策されました。(「宮城(きゅうじょう)事件」)
 最終的には、昭和天皇が御前会議で戦争終結を、自ら決断されたと言われています。

 確かに、敗戦に継ぐ敗戦で、東京をはじめ全国各地への空襲、広島・長崎への原爆投下、そして仲介を頼もうとしていたソビエト連邦の参戦と、まさに、四面楚歌の中での苦渋の決断でした。

 「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」という有名な言葉のとおり、「耐えがたくても耐え、忍びがたくても忍び、日本の未来のために平和を築くために決心をした。(口語訳)」という、天皇陛下の気持ちが込められた「玉音放送」です。

<皇居前広場で玉音放送を聞く国民>

 



 しかし、このような状況の中でも、「玉音放送」の中には、なお、前向きな昭和天皇の国民へのメッセージも込められています。

 「神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ 國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」

 「(口語訳)日本の不滅を信じ、責任は重く復興への道のりは険しくても、覚悟を決め総力を挙げて、未来への国づくりを推進し、道義を忘れず、志を高く持って、国のあるべき姿を追求して、世界の流れに遅れを取らぬよう頑張ってください。
 あなたがた国民は、こんな私(天皇)の気持ちをよく理解し行動してほしいと思います。


 敗戦に際しての「玉音放送」でも、昭和天皇が、日本の将来への国づくりについて、しっかりと国民に呼びかけているのは、注目に値します。
 また、未来志向で、終戦の意志をはっきりしめしたことで、日本軍や日本人の敗戦後の抵抗を最小限に抑えたことも、その後の奇跡の復興には大きかったと思います。


 それでは、アメリカは日本の降伏をどう受け止めていたのでしょうか?
 日本が ポツダム宣言を受諾した直後の ニューヨーク ・ タイムス紙は、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月 14 日 ( 日本よりも 1 日、日付が遅くなる ) 付の紙面で、「 太平洋の覇権を我が 手に 」 という大見出しの下に、 次のように書かれていました。

 「我々は初めてペリー(提督)以来の願望を達成した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで アジア大陸のマーケットは、我々のものになった。」
 アメリカの目的が、アジア経済であったことが、よくわかる記事だと思います。

 次に、日本とアメリカの教科書で、「終戦」の記述を比較してみましょう。
 
 まず、日本の教科書の記述です。
「 8月15日、天皇はラジオ放送で戦争終結を国民に知らせた。
 9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で、日本政府及び軍代表が降伏文書に署名し、4年に渡った太平洋戦争は終了した。」(山川出版 日本史A)

 一方、アメリカの教科書の記述です。
「正式な終戦は劇的な力で訪れた。降伏調印式が東京湾に停泊するミズーリ号上で、マッカーサー元帥によって執り行われた。こうして史上最も恐ろしい戦争が、原爆のきのこ雲で終わったのだった。
 アメリカ人たちはV-J・DAY(Victory in Japan Day)を熱狂的に祝っていた。」
(The American Pageant)

 日本の教科書が事実を淡々と書いているのに対して、アメリカの教科書は小説風に劇的に書かれ、原爆が戦争終結の決め手であったことを強調しています。
 ちなみに、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどでは、今でも9月2日をを「V-J Day」と呼び、「対日戦勝記念日」として、記念行事が行われています。

<東日本大震災(2011年)>


 
 


  1945(昭和20)年に「昭和の玉音放送」から66年後の2011(平成23)年3月16日、「東日本大震災」の直後に、天皇がテレビで国民に対して直接放送を行う、「平成の玉音放送」が実施されました。

 その中で、今上天皇(きんじょうてんのう=現在の天皇のこと)は、国民に次のようなメッセージを贈られました。
 「被災者が決して希望を捨てることなく、国民一人ひとりが、被災した各地域の上に、これからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。」

 平成の今上天皇陛下は、「大震災の困難を国民と分かちあいたい」と皇居を自主停電されたり、太平洋戦争の激戦地の沖縄、サイパン、パラオなどを訪問されるなど、心あたたまる優しい平和的行動を、何度もとられています。


 最後に、女優で司会者の黒柳徹子(1933年~ 東京都出身)さんの「玉音放送の思い出」を、紹介します。

 黒柳徹子さんは、小学校の高学年のときに、疎開先の青森で終戦を迎えました。疎開していた家の近くの駅前にある商店で、近所の人たちと一緒にラジオで玉音放送を聞きました。
「 ラジオの音声が悪く、聞いたことがないことばが多かったので、当時は、内容はよく分かりませんでした。でも、その夏の暑さやセミの鳴き声は、よく覚えています。
 あとで、戦争が終わったと聞いたときの安心感やほっとした気持ちは、人生の中でいちばんうれしく、安心した瞬間だと思います。」

<クマゼミ>




 さらに、2015年に「玉音放送」の音源が公開されたことについて、黒柳さんは次のように話されています。

「初めて鮮明な音で、お言葉を聞いて、戦争で家を失った人や仕事を失った人、命を落とした人たちに対して、昭和天皇が本当につらい思いをしておられたことを具体的に話されていることが分かり、驚きました。

 若い人たちは戦争について想像でしか分からないと思いますが、本当の戦争は想像するよりも
もっとひどく、つらいものだということを、戦後70年の節目によく分かってほしいと、(平成の)天皇皇后両陛下は考えられたのではないでしょうか。

 この音声がどんな意味を持つかを知ってもらって、平和が続くようにみんなが祈ることを、私は願っています。」
 二つの「玉音放送」のメッセージが、日本人と日本の未来の礎として、長く記憶され活かされることを、2015年8月、戦後70年目に祈りたいと思います。


<一句>
 セミの声 玉音放送と シンクロす

2015年8月11日火曜日

「日本三大阿波おどり」とバナナのたたき売りから成功した男


踊る阿呆に見る阿呆 
同じ阿呆なら 踊らにゃ損々
ハア エラヤッチャ エラヤッチャ
ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ ♪


 この歌「よしこの」で知られる「阿波踊り」は、日本三大盆踊りの一つで、四国・徳島で生まれ、東京・関東地方を中心に、全国で踊られています。 

 発祥の地「徳島の阿波おどり」は、毎年8月12日~15日の4日間、徳島市を中心に行われます。
 4日間の人出は130万人以上、踊り手は延べ10万人、「連(れん)」と呼ばれる踊りのグループ数は1000連とも言われています。

 前回、紹介した「よさこい踊り」と大きく違うのは、早いリズムで激しく踊る「よさこい」が若者中心であるのに対して、伝統芸能「阿波おどり」は、子供から年寄りまで、老若男女を問わず参加している点です。
 平成20(2008)年に亡くなった「よしこの」の歌と三味線の名手「お鯉さん」(本名:多田小餘綾=ただ・こゆるぎ 1907年~2008年 徳島県出身) は、100歳を超えていました。

 「高知のよさこい踊り」は、今年で62回目と紹介しましたが、「阿波おどり」の歴史は400年以上、江戸時代初期かそれ以前と言われており、回数をカウントすることはしていませんし、できません。

 起源には、「盆踊り起源説」 「(蜂須賀家の徳島城の)築城起源説」などがありますが、定説はありません。
 「阿波(あわ)おどり」の名前は、日本画家・林鼓浪(はやし・こどう 1887年~1965年、徳島市出身)が提案したものとされています。

 阿波おどりの連は、大きく分けて「男踊り」・「女踊り」・「鳴り物(三味線・鐘・太鼓など)」に分かれ、浴衣を着て踊ります。
 有名連と呼ばれる名人級の「連」がある一方で、「企業連」、「学生連」、「にわか連(客も参加できる)」など、誰でも参加できるのも阿波おどりです。「手を上げて、足を運べば阿波おどり」と言われています。

<写真 阿波おどり2015ポスター 徳島県>



 「よさこいおどり」が、札幌・名古屋など全国展開しているのに対して、「阿波おどり」は本場の四国・徳島を除くと、東京・関東を中心に広まっているのが特徴です。

 東京で「阿波おどり」と言えば、「東京高円寺(こうえんじ)阿波おどり」が有名です。
 1957(昭和32)年に第1回が開催され、地元の商店街と木場(きば)の徳島県出身者などが中心となって、次第に盛んになっていきました。

 現在は、毎年8月の最終の土日に行われ、150連、1万人が踊りに参加し、観客は120万人にも達し、「浅草サンバカーニバル」と並ぶ、東京の代表的な夏祭りになっています。


 「徳島」と「高円寺」と並んで、「日本三大阿波おどり」の一つに数えられるのが、埼玉県越谷市の「南越谷(みなみこしがや)阿波踊り」です。(「阿波おどり」ではなく「阿波踊り」です)

 1985(昭和60)年に、徳島出身の中内俊三社長が率いる住宅会社が中心となって始められた踊りが、次第に地域に浸透し、現在は8月の第4土曜と日曜に、南越谷の街全体で開催されています。
 2014年の人出は70万人に達し、連の数も延べ100連を超えています。

 この他にも、神奈川県大和市や東京都内の初台、神楽坂、三鷹、大塚などなど、30年以上の歴史を誇る「阿波おどり」が首都圏に目白押しです。

 「阿波おどり」のもう一つの特徴が、二拍子の軽快なリズムで、外国人も参加しやすく人気があります。

 徳島市の「あわおどり会館」で行っている「毎日踊る阿波おどり」には、ツアー客を含む多くの外国人観光客が訪れています。
 また、東京・新宿にオープンした「新宿阿波おどり」という店は、「阿波尾鶏(あわおどり=地鶏)」などの徳島料理や酒を楽しめ、店内で行われる「阿波おどり」にも参加でき、連日、外国人で満員です。

 さらに、来年、2016年5月には、フランスの首都パリで、徳島や高円寺の踊り子、数百人が公演をする計画が進んでいます。本当は、今年の予定でしたが「テロ問題」で1年延期されました。
 「Awa Odori Paris 2016」と題し、パリ市庁舎やノートルダム大聖堂がある「パリ4区」を舞台に、阿波おどりが「花の都」で、乱舞する予定です。
 まさに「世界へ進撃の阿波おどり」ですね。

<東京高円寺阿波おどり 2015年ポスター>



 ここで、阿波おどりの囃子歌である「よしこの」の歌詞を紹介します。


「よしこの」

♪ 
ハア エライヤッチャ エライヤッチャ
ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ
阿波の殿様 蜂須賀(はちすか)公が
今に残せし 阿波踊り

ハア エライヤッチャ エライヤッチャ
ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ
笹山通れば 笹ばかり
猪 豆喰て ホウイ ホイ ホイ
  

笛や太鼓の よしこのばやし
踊りつきせぬ 阿波の夜


ハア エライヤッチャ エライヤッチャ
ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ
踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら
踊らにゃ損々
 

ハア エライヤッチャ エライヤッチャ
ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ ♪ 



また最近では、こんな歌もよく歌われます。

「1かけ2かけ3かけて、しかけた踊りはやめられない。
 5かけ6かけ7かけて、やっぱり踊りはやめられない。」


 最後に、「南越谷阿波踊り」を創設した、中央住宅(現 ポラスグループ)の創業者・中内俊三さんの「バナナのたたき売り」からの立志伝を紹介します。

 中内俊三さんは、1938(昭和13)年徳島県板野郡の豪農の家に生まれました。
 地元の高校をトップで卒業し、農業を継ぎ、結婚もします。

 しかし、1964(昭和39)年、26歳の時に突然、身重の妻を残して上京します。
 「大都会で己の力量を試してみたかった。」一心だったそうです。

 東京はオリンピックの都市でした。
 「バナナのたたき売り」から始めて、苦労して住宅会社を起こし、ついには年商1000億円の「ポラスグループ」を築き上げ、埼玉県内トップの建設会社を作り上げます。

 その中内俊三さんが、「本社のある越谷への恩返し」として、1985(昭和60)年に南越谷の本社近くで始めたのが、「ふるさと・徳島」の阿波踊りでした。

<南越谷阿波踊り 2015年ポスター>



 中内俊三さんは、2005(平成17)年に67歳で亡くなりましたが、徳島と埼玉への感謝の気持ちを込めて始めた「南越谷阿波踊り」は年々盛んになり、徳島からも多くの連が参加しています。
 今年も、「踊る阿呆に 見る阿呆 どうせ阿呆なら 踊らにゃ そんそん」という「よしこの」のリズムにのせて、賑やかに開催されることでしょう。


<一句>

 阿波おどり 越谷・パリも 燃えている

2015年8月10日月曜日

「高知のよさこい」から「日本のYOSAKOI」へ そして「龍馬よさこい」も

  8月9日~12日まで高知県高知市で行われる「よさこい祭り」は、全国に広がった「よさこい、YOSAKOI」の元祖とも言える祭りです。
 2015(平成27)年は、参加206チーム、踊り子19000人で、人出は100万人以上と言われています。

 今年で第62回目を向かえた「よさこい祭り」は、1954(昭和29)年8月に隣りの徳島県の「阿波おどり」に対抗して、不況を吹き飛ばし市民の健康を祈願し夏枯れの商店街振興を促すため「高知商工会議所」が中心となり、第1回目を開催し、参加人数は750人、参加団体は21団体でした。

 ルールは、
(1)チームあたりの参加人数は150人以下
(2)鳴子を持って前進する振り付け。
(3)曲のアレンジは自由だが、「よさこい鳴子踊り」のメロディーを必ず入れる。
(4)地方車(じかたしゃ)と呼ばれるトラックが先導
などが決まっていますが、比較的自由なおどりです。

<高知 よさこい祭り ポスター 2015年>



 高知で「よさこい祭り」を見た北海道大学の学生長谷川岳さん(1971年~ 愛知県出身 現・参議院議員)が、「ソーラン節」と「よさこい踊り」をミックスした「よさこいソーラン祭り」を企画し、1992(平成4)年、北海道札幌市で第1回「YOSAKOIソーラン祭り」が開催されました。
 さらに、TBSのテレビドラマ「3年B組金八先生」でクラスの団結の踊りとして、「よさこいソーラン節」が紹介されるなど、若者にも受け入れられていきます。

 以後、「よさこい」「YOSAKOI」は、サンバ、ロック、ヒップホップ、フラメンコ、フラダンスなど各々のチームのアレンジで、ダンスコンテスト的な要素を取り入れ、若者たちの支持を得て普及し全国各地に広がっていき、「高知のよさこい」から「日本のYOSAKOI」になりました。

 全国の主な「よさこい・YOSAKOI」祭りを、開催時期に沿って紹介します。

・6月上旬  「YOSAKOI ソーラン祭り」 (北海道札幌市 1992年~) 観客218万人
・7月下旬 「紀州よさこい祭り」 (和歌山県和歌山市 2004年~) 観客28万人
・8月上旬  「うらじゃ」 (岡山県岡山市 1994年~) 観客50万人
・8月9~12日 「よさこい祭り」  (高知県高知市 1954年~) 観客100万人

・8月下旬 「にっぽんど真ん中祭り」 (愛知県名古屋市 1999年~) 観客153万人
・10月上旬 「みちのくYOSAKOIまつり」 (宮城県仙台市 1998年~) 観客 47万人
・10月上中旬 「ふくこいアジア祭り」 (福岡県福岡市 2000年~ )  観客 50万人
・11月上旬「ドリーム夜さ来い祭り」 (東京都お台場エリア 2002年~) 観客50万人


  「よさこい」は、「夜さり来い」という古語が変化したもので、「夜になったらおいで」という意味です。
  よさこい祭りのテーマソングとも言える「よさこい鳴子踊り」は、土佐の民謡「よさこい節」をもとに、武政英策(たけまさ・えいさく 1907年~1982年 愛媛県出身)さんが作詞・作曲し、「よさこい祭り」の発展に大きく貢献しました。
  ちなみに、この武政さんは、1959(昭和34)年にペギー葉山さんが歌い大ヒットした「南国土佐を後にして」も作詞しています。

 それでは、「よさこい・YOSAKOI」の歌詞をいくつか紹介します。
 まずは高知の「よさこい鳴子踊り」の1番を紹介します。


「よさこい鳴子踊り 」作詞・作曲/武政英策

ヨッチョレヨ ヨッチョレヨ 
ヨッチョレ ヨッチョレ ヨッチョレヨ
ヨッチョレ ヨッチョレ ヨッチョレヨ

高知の城下へ来てみいや(ソレ)
じんまも ばんばも よう踊る
鳴子両手に よう踊る よう踊る ]

土佐のー(ヨイヤサノ サノ サノ)
高知の はりまや橋で(ヨイヤサノ サノ サノ)
坊さん かんざし買うをみた(ソレ)
よさこい よさこい(ホイ ホイ)♪


<札幌 YOSAKOIソーラン 2015年ポスター>




 続いて、人出では全国1位になった、札幌の「YOSAKOIソーラン」節の一節を紹介します。


ドッコイショ ドッコイショ
ソーラン ソーラン
ドッコイショ ドッコイショ
ソーラン ソーラン

ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン
ソーラン ソーラン (ハイハイ)
声を嗄れよと 唄声上げて
腕もちぎれよ 舞姿 チョイ
ヤサエ エンヤ-
サーノドッコイショ



 「よさこい・YOSAKOI」は、フランス・ニースのカーニバルやマレーシアでも踊られたことがあり、世界進出も果たしています。
 また、アニメの世界でも、『ハナヤマタ』(作:浜弓場双)という「よさこい」に打ち込む女子中学生たちの物語が、2014年にTV東京で放送され人気を博しています。

 最後は、高知と言えば「英雄 坂本龍馬」ですが、その龍馬が眠る京都東山の「霊山護国神社」で、龍馬が生まれ亡くなった毎年11月(今年は7日、8日)に開催されている「龍馬よさこい」で、歌われる龍馬語録を入れた「おどるぜよ!」という曲の歌詞を紹介します。


「おどるぜよ!」


日本を今一度洗濯いたし申し候

花のお江戸の両国橋へ
按摩さんが眼鏡を買いにきた
お医者の頭へ雀が止まる
止まるはずだよ藪医者だ


私しゃ野に咲く一重の桜
八重に咲く気はさらにない


(中略)

貧すといえども浮雲の富を求むるなかれ
窮すといえども丈夫の志を屈するなかれ
矯々龍の如く 沈々虎の如し 身を潜め名を隠し
まさに一陽来復の時を待つべし


さらば土佐の海よ
ほいたらグッドバイ! ♪


 
<一句>

よさこいは フリーじゃ飛べよ 世界へと
   

2015年8月8日土曜日

広島・長崎「原爆の日」と吉永小百合朗読会の祈り

 この夏は、広島・長崎に原子爆弾が投下されて、70回目の夏です。

 2015(平成27)年8月6日に広島市で行われた「平和記念式典」には、過去最多の世界100ヶ国とEU(ヨーロッパ共同体)が参加しました。

 今回は、あまり知られていないエピソードも含めて、世界で初めて原子爆弾の被害を受けた広島と長崎の話をしたいと思います。


 1945(昭和20)年8月6日0時37分頃、マリアナ諸島テニアン島の飛行場を、運命を乗せて3機のB-29が飛び立ちました。
 3機は、原爆を投下する都市を最終的に決定するための「気象観測機」で、広島、小倉(北九州)、そして長崎の3都市に向かいました。

 続いて1時45分、Mk-1核爆弾「リトルボーイ」を搭載したエノラ・ゲイ(B-29)が、同じ飛行場を離陸しました。
 この日の「原爆投下作戦」に参加したのは、アメリカ軍の「B-29」6機で、戦闘機などは参加していませんでした。

 アメリカ軍は原爆投下の条件として「目視できること」と決めていたので、天候が良いことは、原爆投下都市決定の重要な要素でした。
 7時過ぎに3機の気象観測飛行機からの情報を得たアメリカ軍は、原爆投下都市を、第1目標で晴れていた「広島」に決定しました。
 「広島の良い天気」が、悲劇の都市の1番手に決定した要因というのは、皮肉です。

 その後、8時15分にエノラゲイが、広島市上空で原爆「リトルボーイ」を投下し、1945年12月までに、大半が民間人の約14万人が広島原爆で死亡しました。(その後も原爆の影響で、多くの犠牲者が出ています。)


<広島平和公園と世界遺産「原爆ドーム」>




 アメリカの「原爆投下計画」で目標になっていた都市は、広島、小倉、長崎、新潟の4都市です。このうち、2回目の標的となったのは、第1候補が小倉(現北九州市)、第2候補が長崎でした。

 広島への原爆投下から3日後の。1945年8月9日午前9時44分に原子爆弾を乗せたBー29「ボックスカー号」が、投下目標である「小倉」上空へ到達しました。
 小倉市上空には、前日の空襲の『煙』が立ち込め、さらに、八幡製鉄所の従業員が、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った。」とも言われています。

 アメリカ軍のB29は、3度、核爆弾を小倉に落とそうとしますが、結局、3度とも失敗し、10時30分に第2候補であった長崎市に向かいます。
 
 10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていました。目視が絶対条件の命令でしたので、小倉に続いて長崎も助かるはずでした。
 ところが、一瞬、長崎上空に晴れ間が見えてしまいました。

 11時01分、高度9,000mから「Mk-3核爆弾ファットマン」が投下され、11時02分に長崎上空約500mで世界2番目の核爆弾が爆発しました。

 1945年12月までに、多くの民間人を含む約7万4千人が長崎原爆で死亡しました。(広島と同じく、その後も原爆の影響で、多くの犠牲者が出ています。)


 広島に原爆が落ちて9日目、長崎に原爆が落ちて6日目の1945(昭和20)年8月15日、日本はボツダム宣言を受諾し、太平洋戦争、そして第2次世界大戦が終わりました。

 戦後、第一目標だった小倉市が原爆投下を免れ、第二目標の長崎市に落とされた事実がわかると、小倉市(現 北九州市)では、原爆が投下の目標とされていた「旧小倉陸軍造兵廠跡地の勝山公園」に祈念碑を立て、長崎市から贈られた「長崎の鐘」を設置しました。毎年8月9日には、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を行っています。


<北九州市にある長崎の鐘>




 広島・長崎の原爆被害については、戦後7年間は日本人による原爆被害の写真撮影を禁止するなど、戦後の日本を統治したGHQ(連合国最高司令官総司令部)が、厳しく報道統制しました。
 この事実は、65年経過した2010(平成22)年になって、NHKが報道しました。

 アメリカのトルーマン大統領は、原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆者を観察する組織「ABCC」(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置ました。
 「ABCC」 と「厚生省国立予防衛生研究所(予研)」を再編してできた「財団法人放射線影響研究所」は、 2007(平成19)に、「被爆二世への遺伝的な影響は、死産や奇形、染色体異常の頻度、生活習慣病を含め認められない」と発表しました。

 一方で、2012年に広島大学の鎌田七男名誉教授らによる研究結果発表では、広島大学グループの長期調査結果として、「被爆二世の白血病発症率が高く、特に両親ともに被爆者の場合に白血病発症率が高いことが、50年に渡る緻密な臨床統計結果より示され、少なくとも被爆二世については遺伝的な影響を否定できない。」と結論しました。

 また、広島の助産婦さんなどの病院関係者の証言では、昭和20年代を中心に広島では奇形児が多く生まれ、「兎唇」「口蓋裂」「単眼」「無脳症」などの例が見られたということです。
 しかし、GHQの方針や親の「公表したくない」との意思もあって隠され、実態は、今でも正確に把握できていません。

<吉永小百合朗読会ポスター>



 最後は、女優の吉永小百合さんの朗読会の話です。
 1945(昭和20)年、終戦の年に生まれた吉永さんは、「祈るように 語り続けたい。ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマ」と題する朗読会を続けています。

 吉永さんは、広島と長崎、沖縄、そして福島で起きたことを「忘れない、風化させない、なかったことにしない」と語りCDも発売しました。
 吉永小百合さんが朗読会で読んだ詩を二つ、紹介します。


・「にんげんをかえせ」(峠三吉 原爆詩集・序)

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
 
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
 
 
・「慟哭」(大平数子)

正義とは
つるぎをぬくことでないことを
正義とは“あい”だということを
正義とは
母さんをかなしまさないことだということを
みんな
母さんの子だから
子どもたちよ
あなたは知っているでしょう
 
 終戦と原爆投下から70年。時間が過ぎても、吉永小百合さんの言葉どおり、
「忘れさせない 風化させない なかったことにしない」ことが大切だと思います。  
 
<一句>
 
 8月の 祈りと風を 忘れない


 

2015年8月4日火曜日

「東北三大祭り」~あるいは四大祭り・六魂祭~

 8月に入って、東北各県の夏祭りが始まりました。

 「東北三大祭り」?、いや「東北四大祭り」?、それとも「東北五大祭り」?、いやいや「東北六魂祭」?

 いろいろな言い方があり、一つには決められませんが、東北の代表的な夏祭りの総称であることは、間違いないと思います。
 今回は、「東北三大祭り」を中心に、東北の夏祭りを紹介します。


 「東北三大祭り」とは、「青森ねぶた祭」(青森県青森市)と、「秋田竿燈まつり」(秋田県秋田市)、そして「仙台七夕まつり」(宮城県仙台市)の3つを言うのが一般的です。

 三大祭りと呼ばれるようになった時期は明確ではありませんが、1958(昭和33)年に、旧国鉄が「東北三大祭り」の周遊券を発売しています。


<青森ねぶた祭り 切手>




 次に、それぞれの祭りを紹介します。

 まず、「青森ねぶた祭り」は、毎年8月2日~7日に青森県青森市で行われるもので、2014年の人出は延べ259万人です。

  「風神・雷神」や戦国武将、三国志、平将門などを題材とする、「ねぶた」と呼ばれる大型の灯籠を乗せた大迫力の山車と、「ラッセーラ」の掛け声と共に、祭囃子の音にのって威勢よく踊る「はねと」がお祭り最大の見所です。

 征夷大将軍・坂上田村麻呂や豊臣秀吉を、祭りの起源とする説もありますが、有力なのは、津軽地方で古くから行われていた「精霊送り」などの風習と、「七夕祭」が融合したとする説で、眠気に宿る悪魔を払う、「眠気流し」→「ねむた」→「ねぶた」となったとも言われています。

 最初は、灯籠を川や海に流し「無病息災」を祈る行事でしたが、次第に灯籠が大型化し、江戸時代中頃には、「七夕祭」などと書かれた角型の灯籠を10人前後で担ぐようになりました。

 明治に入るとねぶたは一層大型化が進み、高さ20mを超えるものも登場しましたが、現在は、幅約9m、高さ約5m、奥行き約8mの規定ができています。

 針金を用いて複雑な造形を作る技術が生まれ、内部の明かりがロウソクから蛍光灯へ変わった昭和の中ごろから、観光行事として全国から注目されるようになり、一大イベントになりました。

 ちなみに、2015年に町を練り歩く「大型ねぶた」は22台ですが、他に、今年12月に最新作が公開される予定の、米国映画「スター・ウォーズ」のキャラクターを題材にしたねぶた4台(「ドロイドねぶた」「ジェダイねぶた」「シスねぶた」、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒ねぶた」)も、作られ展示されています。
 

 次に、「秋田竿燈(かんとう)祭り」は、毎年8月3日から6日に、秋田県秋田市で行われる祭りで、2014年の人出は延べ126万人です。

 竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈ります。
 「大若」と呼ばれる最大の竿燈は、長さ12m、重さ50kgで、提灯の数は46個にもなります。

 元々、江戸時代以前から秋田周辺に伝えられている「ねぶり流し」は、笹竹などに願い事を書いた短冊を飾り、町を練り歩き、最後に川に流す七夕の行事でした。

 それが、江戸時代中期の宝暦年間(1751年~1763年)の蝋燭の普及、お盆に門前に掲げた高灯籠などが組み合わされて、独自の行事に発展したものと言われています。


<秋田竿燈まつりポスター>



 最後の「仙台七夕まつり」は、東北最大の都市、宮城県仙台市で毎年、七夕の月遅れの8月6日~8日に行われ、2014年の人出は延べ204万人でした。地元では「たなばたさん」とも呼ばれています。

 祭りの起源は、江戸時代初期、仙台藩祖の伊達政宗(1567年~1636年)が、婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したため、年中行事の1つになったともされていますが、詳細は不明のままです。

 「七夕まつり」は、時代の影響を大きく受けました。

 たとえば、江戸時代中期の1783(天明3)年には、世俗の世直しのために盛大に行われました。

 また、第1次世界大戦後の不景気以降、まつりは衰退しましたが、商店街の有志により七夕が飾られ賑わいました。

 太平洋戦争終戦の翌年の1946(昭和21)年には、空襲で焼け野原となった仙台の街に52本の竹飾りが飾られ、「七夕まつり」が復活しました。

 さらに、東日本大震災が起こった2011(平成23)年には、「復興と鎮魂」をテーマに「七夕まつり」が開催され、初めて京都・祇園まつりのお囃子も参加しました。


 以上が「東北三大祭り」ですが、これに「山形花笠まつり」(山形県山形市、8月5日~7日)を加えると、「東北四大祭り」と呼びます。

 さらに、「盛岡さんさ踊り」(岩手県盛岡市 8月1日~4日)を加えて、「東北五大祭り」とも呼びます。

  ここまでくれば、東北は6県ですから、「福島わらじまつり」(福島県福島市 8月第1金・土)も加えて、東日本大震災後には、「東北六魂祭」とも呼ぶようにもなりました。

<仙台七夕まつりポスター>




 おしまいに、「東北三大祭り」だけでなく「東北六魂祭」の中でも、最も静かで最も人出が多い、「仙台七夕まつり」を歌った名曲の歌詞を紹介します。


♪「青葉城恋唄」 (作詞 星間船一  作曲・歌 さとう宗幸  1978年) 

<2番>

七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず
夜空 輝く星に 願いを込めた君の囁き
時はめぐり また夏が来て あの日と同じ七夕祭り
葉擦れさやけき 杜の都
あの人は もう いない
 

<一句>

六県の 魂祭る 夏の夜
    

 

2015年8月1日土曜日

2015年猛暑ランキングと熱中症対策

 暑中お見舞い申し上げます。

 全国的に梅雨明けして、いよいよ8月、本当に暑いですね。(今、朝9時ですがエアコンを切っている部屋の気温は、32度を超えています。)

 今回は、「2015年夏(7月末まで)の猛暑ランキング」と「熱中症対策」について、取り上げたいと思います。

 昨日のお昼頃、山道を車で運転していると、道路の気温板が「40度」を表示していました。

 「うそだろ。」
 信じがたい気温に、ショックを受けました。
 もちろん、これは温度計の設置場所の関係もあり正式な気温ではありませんが、国道なので一定の基準で観測さているはずです。
 ちなみに、3時間後の帰り道でも、「38度」ありました。(写真)

<写真 7月31日の道路表示板(某所)>



 それでは、今年、日本で最も暑い場所は、どこなのでしょう?
 2015年夏の「猛暑ランキング」を紹介します。(2015年1月1日~7月31日、アメダス観測)

 まず、「日最高気温」のベスト5を見てみましょう。
・1位 群馬県館林  39.3度
2位 福島県梁川 39.1度
・3位 福島県福島 39.0度
・4位 千葉県牛久 38.6度
・5位 新潟県高田 38.5度

 こう見てみると、西日本や沖縄ではなく、意外にも東日本(関東・東北・新潟)がベスト5になっています。
 東日本の夏の方が、西日本より暑いのでしょうか?

 因みに、これまでの日本観測史上の日最高気温ベスト5を紹介してみます。

1高知県江川崎 41.0度2013年8月12日
2埼玉県熊谷 40.9度2007年8月16日
 
2岐阜県多治見40.9度2007年8月16日
 
4山形県山形 40.8度1933年7月25日
5山梨県甲府 40.7度2013年8月10日
 

  ここでも、1位の高知県を除くと東日本が優勢ですね。もう1つ言えるのは、ベスト5のうち4回は8月になってから記録された気温です。

 これからが、夏本番ということでしょうか。

 次に、「猛暑日(最高気温が35度以上)」の日数を見てみましょう。
・1位 17日 (群馬県館林)
・2位 12日 (群馬県桐生、群馬県伊勢崎、埼玉県熊谷の3か所)
・5位 11日 (茨城県古河、栃木県佐野、栃木県小山、群馬県前橋、埼玉県鳩山、岐阜県多治見の6か所)
      
 関東が上位独占です。それにしても、館林の「猛暑日17日」は断トツです。
 やっぱり、東日本が暑いみたいです。
 
 ところが、「真夏日(最高気温30度以上)」と「熱帯夜(最低気温が25度以上)」になると、状況は一変します。

 まず、「2015年真夏日」の日数ベスト5です。
・1位 74日 (沖縄県石垣島)
・2位  73日 (沖縄県波照間、沖縄県志多阿原)
・4位  72日 (沖縄県下山、沖縄県仲筋、沖縄県所野、沖縄県西表島)

次に「2015年熱帯夜」の日数ベスト5です。
・1位 75日 (沖縄県仲筋)
2位 74日 (沖縄県石垣島、沖縄県志多阿原)
・4位 72日 (沖縄県所野、沖縄県与那国島、沖縄県波照間)

 みごとに、沖縄県が上位を独占しています。
 因みに、島しょ部を除く本土(北海道、本州、四国、九州)での最上位は、「真夏日」が30位(42日)の群馬県館林で、「熱帯夜」は38位(18日)の千葉県千葉です。

 まとめると、「日本の暑さ」全体として言えるのは、「真夏日」や「熱帯夜」は南国・沖縄県が多いですが、「35度以上の猛暑日」や「最高気温」は東日本を中心とした本土の方が多く、真夏に限れば、東日本の方が沖縄よりも暑いということになりますね。






 後半は、暑さ対策、特に熱中症対策を中心に紹介します。

 消防庁の発表では、7月20日~26日の1週間の「全国熱中症患者搬送数」は7392人で、前週より1162人も増加しました。
 さらに、今年初めからの「熱中症搬送患者」は、2万人を超えているそうです。
 
 熱中症を起こすのには、次の3つの要因だと言われています。

(1)「環境要因」=気温が高い、湿度が高い、風が弱いなど

(2)「からだの要因」=幼児、高齢、病弱、肥満、二日酔いなど

(3)「行動要因」=激しい労働や運動、長時間の屋外作業、水分補給ができないなど

 これらの要因によって、体内の水分や塩分(ナトリウム)などのバランスが崩れ、体温の調節機能が働かなくなり、様々な障害をおこす症状を、「熱中症」と呼びます。

 主な症状と対処方法は、3段階に分けられます。

<1段階> めまい・立ちくらみ・手足のしびれなどの症状 
→(対処) 涼しい場所へ移動・安静・水分補給など

<2段階> 頭痛・吐き気・体に力が入らないなどの症状
→(対処) 涼しい場所へ移動・体を冷やす・安静・十分な水分と塩分の補給、病院受診

<3段階> けいれん・運動障害・意識障害などの症状
→(対処) 涼しい場所へ移動・安静・体が熱ければ保冷剤などを使い、迷わず「119」番通報し救急車を呼ぶ


 特に重要な「水分補給」の話をします。

 人間の60%は水分、0.9%は塩分でできています。
 人が生命を維持するためには、必ずこの二つが、体内で一定基準を保っていなければいけないのです。

 そこで、この水分量と塩分濃度を保つのに必要なのが、「水分と塩分の補給」です。これらには、「水」と「スポーツドリンク」が有効です。

 ただし、ビール、お茶、コーヒーなどは、利尿作用があるので期待できず、それどころか逆効果になることもあります。

  小まめな水分補給、とりわけ起床時と就寝前に、コップ1杯を飲むことが重要です。


<高校野球の応援>




 最後に、熱中症のちょといい話を紹介します。

 ある高校野球の地方大会で、高校2年生のサクラちゃんは、憧れの先輩Aさんの試合をスタンドで、応援していました。
 A先輩とは、ほとんど話したこともないサクラちゃんでしたが、この時ばかりは、堂々とAさんを応援できます。

「A先輩、がんばれ!」
 サクラちゃんは、一生懸命に応援しました。
 この日は、35度を超える「猛暑日」で、スタンドの応援も最高潮に達していました。
 
 ところが、真夏の日差しを浴びて、さくらちゃんは少し頭痛がしましたが、「暑いなんて、言っている場合じゃないわ。」と気にもしていませんでした。

 異変に気づいたのは、最終回になった頃のことです。
 体の汗が止まらず、次第に意識が遠くなっていきました。


 気がつくと、サクラちゃんは病院のベットで、点滴を受けていました。
 その枕元に、なんとA先輩がユニフォームのままで、いてくれたのです。
 「やあ、大丈夫かい。急に倒れてびっくりしたよ。」
 A先輩が、笑って言いました。

「気がついたの。Aさんが、ここまであなたを運んでくれたのよ。」

 看護師さんの声を聞いて、サクラちゃんは思わず布団にもぐりこみました。
 そして、小さな声で「真夏の太陽さん、ありがとう。」とつぶやきました。


<一句>

応援に 熱中し倒れる 熱中症

 

2015年7月29日水曜日

名曲紹介「夏の思い出」 ~中学音楽の授業の独唱結果?~

「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空」

 この一節で始まる美しいメロディーの「夏の思い出」は、文字通り「夏になると思い出す」名曲です。今回は、この曲をテーマにしたいと思います。

 まず、1番の歌詞を書きます。


♪「夏の思い出」(江間章子作詞、中田喜直作曲)♪

<1番>
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬
(おぜ)
 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
(こみち)
水芭蕉(みずばしょう)
の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花
(しゃくなげ)
色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空


<写真:尾瀬>





 私がこの歌を聞いて思い出すのは、中学の音楽の授業です。
 「いじめ」や「けんか」が日常茶飯事だった、荒れた当時の中学校では、教室棟の端にあった音楽室での中年女性教師の「音楽」の授業は、絶好の「さぼりのターゲット」でした。

 クラスの男子生徒の半分近くは、音楽室を抜け出して遊んでいました。
 私はというと教室にはいましたが、ノートに落書きをしたり、瞑想に耽ったりしていました。

 そんな中で、先生の弾くピアノから聞こえてきた「夏の思い出」は、歌詞とメロディーがすばらしかったので、すごく気に入って珍しく一生懸命に歌い覚えました。

 ある日の音楽の授業で、先生がおっしゃいました。
「これから歌の試験をします。1人ずつ、自分の好きな歌を歌ってください。」

「えー。なんだよ。ふざけるなよ。」という声が上がりましたが、先生は気にせず試験を始めました。
 やがて、私の番になりました。

 私は、「夏の思い出」を選び歌いました。
(どうせ、音痴の音楽だ。自分の好きな歌を好きなように歌おう。)
 そう開き直ってリラックスして歌った「夏の思い出」は、自分でも不思議なほど、うまく歌えたような気がしました。

 後日、渡された成績表を見て、私はびっくりしました。
 「音楽」の成績が、10段階評価で最高の「10」だったのです。
 それは、まさに「夢見て咲いている」ようでした。

 音痴家系の母親に見せると、ひっくり返るほど驚いて言いました。
「うちの子の音楽が、10のはずはないわ。何かの間違いよ。」(笑)
 それから「夏の思い出」は、私の好きな曲の1つになりました。


 「夏の思い出」は、1949(昭和24)年6月13日に、NHKラジオの番組『ラジオ歌謡』で、発表されました。
 「ラジオ歌謡」は、敗戦で憔悴していた国民を元気づけるために、「夢と希望のある親しみやすい曲」を、ラジオで紹介する企画でした。

 石井好子さんの歌で、初めてラジオ放送された「夏の思い出」は、瞬く間に多くの日本人の心を捕えました。曲中に現れる「尾瀬」の人気も、飛躍的に高まりました。

 1962(昭和37)年8月~9月には、NHK『みんなのうた』でも紹介されました。
 さらに、「音楽の教科書」にも掲載されることが多くなり、幅広い世代に親しまれています。

 作詞の江間章子(えま・しょうこ 1913年~2005年)さんは、新潟県上越市出身の作詞家・詩人で、「おかあさん」や「花の街」なども作詞しています。
 「夏の思い出」の詞は、小さい頃母の実家があった「岩手県岩手山麓」で見て親しみがあった「ミズバショウ」の花と、1944(昭和19)年に訪れた尾瀬の美しい風景の中で見た「ミズバショウ」が重なって感動したのを元に作られたそうです。

 一方、作曲者の中田喜直(なかだ・よしなお 1923年~2000年)さんは、東京都渋谷区の出身で、日本童謡協会会長やフェリス女学院大学教授を歴任し、「雪の降るまちを」や「めだかの学校」、「ちいさい秋みつけた」など、たくさんの名曲を作曲しています。

 「夏の思い出」が出来た当時、中田さんと江間さんは面識がなく、中田さんは尾瀬にも行ったことがなかったそうです。
 ちなみに、中田さんが初めて尾瀬を訪れたのは、作曲から40年以上経った1990(平成2)年でした。

 中田喜直さんが最初に書いた「夏の思い出」の曲は、中田さんのお母さんに「ちょっと、これは少々お粗末ではないですか。こんなものをNHKさんにお持ちすることはなりません。すぐ作り直しなさい。書き直しなさい」と言われて、楽譜を破り書き直しました。
 そのあとで出来たのが、今の曲です。
 そんなことがあったので、中田喜直さんは「夏の思い出」の印税を、ずっとお母さんに渡していました。

 江間さんと中田さんは、「夏の思い出」を作る時に初めて会ったと紹介しましたが、実は、この二人には、不思議な縁があります。
 江間章子さんのお父さんの家系は会津藩士でしたが、実は、中田喜直さんのお祖父さんも、会津藩士だったのです。
 
 会津藩士を先祖にもつ初対面の二人が、福島県(南会津郡檜枝岐村)・新潟県(魚沼市)・群馬県(利根郡片品村)の3県にまたがる「尾瀬」を題材にした名曲を作りました。
 不思議な縁を感じませんか。
 「夏の思い出」の曲が、美しくも哀愁ただようメロディであるのは、「会津」の悲しい歴史のせいかも知れませんね。


 ここで、「夏の思い出」の2番を紹介します。

<2番>
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
水芭蕉の花が 匂っている
夢みて匂っている水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空



<写真 ミズバショウ>




 最後に、中田さんと戦争のエピソードを紹介します。

 終戦の直前、1945(昭和20)年に、佐賀県・鳥栖小学校を2人の特攻隊員が訪ねてきました。
 2人は、学校のピアノを借りると、ベートーヴェンの「月光のソナタ」を、それはそれは上手に悲哀を込めて弾きました。
 実は、この時の特攻隊員の一人が中田喜直さんだったのです。
 

 中田喜直さんは、1940(昭和15)年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)ピアノ科に入学し、戦時(太平洋戦争)のために、繰り上げ卒業しました。
 その後、見習士官となって「宇都宮陸軍飛行学校」に入校し、帝国陸軍航空部隊のパイロットになりました。
 陸軍少尉に任官し、フィリピンやインドネシアの戦線に赴き、その後、本土で特攻隊要員として終戦を迎えました。

 あの戦争がもう少し長引いていたら、中田さんは特攻で戦死してしまい、「夏の思い出」も「めだかの学校」も「雪の降るまちを」も、生まれなかったかも知れませんね。
 そう考えると、平和の尊さと戦争の怖さを、再認識させられます。


<一句>

・夏くれば 平和の祈り 思い出す  

2015年7月26日日曜日

打上花火と線香花火 ~空に国境はない・花火は魂~

♪どんとなった花火だ きれいだな
 空いっぱいに 広がった
 しだれ花火が ひろがった♪

 これは童謡「花火」(作詞:井上赳 作曲:下総皖一)の1番です。
 いろんな花火の歌がありますが、幼い頃に歌ったこの曲が原点で、打上花火を見るとこのメロディーが思い出されます。

 7月25日には、東京では「隅田川花火大会」、大阪では「天神祭奉納花火」があり、いよいよ花火シーズン本番ですね。
 今回は、夏の風物詩「花火」をテーマにしたいと思います。

 花火には、大きく分けて2種類あります。「打上花火(法令上の用語は煙火)」と、「おもちゃ花火(同:玩具花火)に分けられます。

 打上花火は、火薬を球状に成形した「星」と呼ばれるものを詰めた、紙製の球体「玉」を打ち上げる花火で、取扱いや打ち上げには許可が必要です。

 打上花火には、「割物(球状に飛散)」、「ポカ物(ランダムな方向に飛ぶ)」、「型物(ハート型等)」などの分類がありますが、花火大会の主役は、球状に広がる「割物」です。

 様々な大きさ・色に変わる花火は、多くの人出を集める夏の大イベントになっています。
 では、花火大会の「人出ベスト10大会」を紹介します。

・1位「江戸川花火大会」(東京都) 8月1日 前年人出139万人
・2位「天神祭奉納花火」(大阪府) 7月25日 前年人出130万人
・3位「関門海峡花火大会」(山口県) 8月13日 前年人出120万人
・4位「おたる潮まつり・道新納涼花火大会」(北海道) 7月24日、26日 前年人出108万人
・5位「長岡まつり 大花火大会」(新潟県) 8月2日、3日 前年人出103万人

・6位「神宮外苑花火大会」(東京都) 8月11日 前年人出100万人
・7位「隅田川花火大会」(東京都) 7月25日 前年人出95万人
・8位「高崎まつり大花火大会」(群馬県) 8月1日 前年人出77万人
・8位「わっしょい百万夏まつり 花火」(福岡県) 8月2日 前年人出77万人
・10位「全国花火競技大会 大曲の花火」(秋田県) 8月22日 前年人出72万人

 ちなみに、5位の「長岡まつり 大花火」、10位の「大曲の花火」、そして11位にあたる70万人の人出の「土浦全国花火競技大会(茨城県、10月3日)」が、「平成の日本三大花火大会」と言われています。

 上位10大会は、いずれも夏休み(7月下旬から8月)に開催されます。やっぱり、「花火=夏休みのイベント」というイメージで、日本には根付いていますね。

  花火1発の値段は、開花したときの直径が100mとなる3号玉で4000円、5号玉で1万円、7号玉で3万円程度だそうです。
 しかし、10号玉(1尺玉)では10万円で、開花すると450mにもなる2尺玉は60万円と一気に値段が跳ね上がります。
 世界一大きいと言われている4尺玉は、直径800mで1発260万円です。この4尺玉は、日本の新潟県で打ち上げられているそうです。

 そう言えば、先日、芥川賞をとった又吉直樹さんの「火花」の中にも、主人公と先輩の出会いのシーンとして、「熱海の花火大会」が選ばれています。
 
 ただ、夜とは言っても暑い毎日が続きますので、花火見物に行かれる方は、水分補給を忘れないでください。

<写真:江戸川花火大会>



 
花火の歴史をひもとくと、世界最初の花火は6世紀、中国で火薬が使われるようになるのとほぼ同時期に作られはじめたと言われています。
 
 日本では、室町時代中期の公家・万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』の1447年5月5日(文安4年3月21日)の記載に、「浄華院における法事の後に境内にて、唐人(中国人)が風流事(花火)を行った。」という記事があり、これが最初と考えられています。

 戦国時代には、1582年4月14日(天正10年3月22日)にポルトガル人の「イエズス会宣教師」が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録があります。
 また、1581年に織田信長が安土城で、1589年には伊達政宗が米沢城で、花火を見たという説があります。

 江戸時代になると、1613(慶長18)年に、徳川家康が駿府城内で、外国人の行った花火を見物したという記事あり、その後は各地で花火が盛んに行われました。
 1648年には、江戸幕府が「隅田川以外の花火禁止令」を出しています。

 江戸の花火と言えば、「たまやー」「かぎやー」の両国川開きの掛け声が有名ですが、こんな悲しい話があります。

 「鍵屋」が、1659年創業から現在まで15代続いている花火師なのに対し、「玉屋」は鍵屋で番頭を務めていた腕のよい職人・清七が独立し、のれん分けしてもらった分家で、一時は鍵屋を上回る人気を誇りました。
 「玉やだと  又またぬかすわと  鍵や云ひ」という川柳も残っています。

 しかし、1843(天保14)年に出してしまった火事が原因で、玉屋は「江戸お構い(追放)」になり、一代限りで終わってしまいました。「たまやー」の掛け声だけが残ることになりました。


<天神祭奉納花火(大阪)>



 時代は流れて、20世紀末、1987(昭和62)年のドイツでのエピソードを紹介します。

 この頃、ドイツは東西に分断されていて、ベルリンには東西に分断する「ベルリンの壁」がありました。
 この年、西ベルリンで7000発の花火が上がりました。花火を上げたのは、日本の花火師・佐藤勲さんでした。
 佐藤さんは、マスコミのインタビューに答えてこう話しました。
「ベルリンは地上に壁がありますが、空には国境はありません。日本の花火は、東西どちらから見ても同じに見えます。」

 翌日、ベルリンの新聞は1面で、「空に国境はない」と報じました。
 その2年後の1989(平成元)年、ベルリンの壁は崩壊し、地上にも国境がなくなりました。

<写真:線香花火>

 



 ここまで、「打上花火」の話をしてきましたが、最後は「おもちゃ花火(玩具花火)」のエピソードを紹介します。

 「おもちゃ花火」は、子供でもできるので、夏の夜の遊びにはピッタリです。
 その代表格が「線香花火」で、こよりや細い竹ひごの先端に火薬を付けた花火です。

 太平洋戦争が終わってすぐの頃の、「裸の大将放浪記」で有名な放浪の画家・山下清さん(1922年~1971年 東京都台東区出身)のお話です。
 山下清さんの花火好きは有名で、熱海や長岡の花火大会を題材にした作品を残していますが、実は線香花火も大好きでした。

 子供たちが、線香花火をしているのを見て、山下清さんは目を細めてこう言ったそうです。
「きれいだな。これは魂なんだな。」

 か細い火花ながら長時間楽しめる「線香花火」は、確かに魂という言葉がぴったりですね。

♪どんとなった何百 赤い星
 いちどに かわって 青い星
 もいちど かわって 金の星♪
(童謡「花火」 2番)

 今夜は、久しぶりに線香花火でも、やりたいですね。


<一句>
 空に解け 魂しみる 花火花