2015年8月18日火曜日

噴火警戒レベル4「桜島の噴火の歴史」と「川内原発」への影響?

 気象庁が8月に入って、噴火警戒レベルを「4(避難準備)」に引き上た「桜島(鹿児島県鹿児島市)」は、火山性地震が起き、マグマの上昇に伴って山体膨張の状態も続いています。
 気象庁は「火山活動は活発なままで、いつ噴火してもおかしくない状態」として、大きな噴石の飛散や火砕流の発生などに厳重な警戒を呼びかけています。


 観測データが豊富な「桜島」についての今回の発表は、気象庁がよほど警戒しているのだと思います。
 そこで、今回は「桜島の噴火の歴史」について、紹介します。


 「桜島(さくらじま)」は、九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)、北緯31度35分19秒、東経130度39分17秒にある標高1117mの成層火山です。
 かつては、文字通り「島」でしたが、1914(大正3)年の噴火で、東側の大隅半島と陸続きになっています。

 錦江湾に浮かぶ桜島は、鹿児島のシンボルといわれています。
 面積は約80km²、周囲約52km、人口は約4600人です。山は、北岳・南岳の2つの主峰から成る複合火山で「霧島錦江湾国立公園」に指定されています。

 「桜島」は 毎日のように小規模な噴火を繰り返す島として有名です。
 鹿児島地方気象台によりますと、1982年から2009年までの噴火回数は、17回~755回の間で推移していましたが、2010年に1026回と千回を超えると、2011年が1355回、2012年が1107回、2013年が1097回と4年連続で千回を超えて、明らかに活動が活発化しています。
 2014年は656回と減りましたが、2015年は8月10日現在で1152回と過去30年間で、最速のペースで噴火を繰り返しています。

<桜 島 (鹿児島県)>




 それでは、過去の噴火の歴史を調べてみましょう。
 桜島は約26,000年前に誕生し、十数回の大噴火を繰り返してきたと言われています。

  桜島の活動は、「1古期北岳」、「2新期北岳」、「3南岳」の3つのステージに区分できます。
  「古期北岳」の活動(約2万6千年から2万4千年前)の後、休止期間を挟み、「新期北岳」の活動が1万3千年前から始まり、少なくとも10回の軽石噴火を繰り返し、約5千年前には活動を停止しました。
  その後、「南岳」の活動へ移り、有史以来、4回の大規模噴火の発生が記録されています。

  1回目は、奈良時代の764(天平宝字8)年から766年に、南岳東山腹からマグマ噴火がありました。「続日本紀」の764年の記述によれば、鹿児島湾海上において大音響や火焔とともに3つの島が生成したとされています。

 2回目は、室町時代の1471~76(文明3~8)年に起きた「文明大噴火」です。
 1471(文明3)年9月12日に大噴火が起こり、「北岳」の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録があります。
 2年後の1473年にも噴火があり、さらに2年後の1475(文明7)年8月15日には、「南岳南西山腹」で噴火が起こり、溶岩(南側の文明溶岩)が流出しました。
 翌1476(文明8)年9月12日には、南岳南西山腹で再び噴火が起こり、死者多数を出し、沖小島と烏島が形成されたと伝えられています。
 

 3回目は、江戸時代の1779~82(安永8~天明元)年に起きた「安永大噴火」で、南岳山頂をはじめ、南岳南山腹、北岳の北東山腹から北東沖合の海底でも、噴火がありました。

 1779年11月7日(安永8年9月29日)の夕方から地震が頻発し、翌11月8日(10月1日)の昼過ぎに「桜島南岳」から大噴火が始まり、その後、北岳北東山腹からも噴火がありました。
 さらに、南岳火口付近から「火砕流(かさいりゅう)」が流れ下り、夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸や長崎でも降灰があったことが記録されています。
 11月9日(10月2日)には、北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出があり、海岸にまで達しました(安永溶岩)。

 翌年1780年8月6日(安永9年7月6日)から1781年4月にかけて、「桜島北東海上」で海底噴火が発生し、1781年4月11日の海底噴火では「津波」が発生し、被害が報告されています。
 薩摩藩の記録では、安永噴火の死者は153人に達しました。


 4回目の最も最近の大噴火は、1914年(大正3年)1月12日から1月末にかけてで、「大正大噴火」と呼ばれています。

 噴火場所は、「南岳西および東山腹」で、噴火の1~2ヶ月前から桜島の一部集落で井戸水の水位が低下しました。 1月10日から地震が発生し、11日には有感地震も含め頻発、12日朝には島の南海岸から熱湯が出て、8時頃には南岳の山頂と中腹から白煙が昇りました。

 1月12日10時5分頃、「西側中腹(標高約350m)」から噴火し、約10分後には「南東側中腹(標高約400m)」からも噴火しました。

 1月 13日20時頃からは、「溶岩流出」が始まり、西方の溶岩は、海に達して沖合の烏島を飲み込み、約2週間後には流出が止まりました。

 一方,南東方の溶岩は、脇、有村、瀬戸などの集落を飲み込み、1月29日には水深72mあった瀬戸海峡を埋めて、桜島が大隅半島と陸続きになりました。この時の海水温は49度にも達したそうです。
 噴煙は上空1万メートルに達し、火山灰は関東や東北地方(仙台)でも記録されています。

 また、この噴火が始まった1月12日18時29分には、「マグニチュード7.1」の強震が発生し、鹿児島市を中心に被害が出ました。小規模な津波も発生しています。
 「大正噴火」の地震、噴火による被害は死者58名、負傷者112名、噴火による埋没・全焼家屋約2140戸,農作物大被害、地震による全壊家屋約120戸と記録されています。

 この「大正大噴火」で、桜島の地盤は最大1.5m沈降しましたが、2015年には、ほぼ回復したと言われています。これは、大正噴火前の水準まで、地下の溶岩が溜まったということを意味しているのかも知れません。

<大正大噴火で溶岩に埋まった鳥居>



  ところで、桜島と聞いて気になるのは、2015年8月11日に再稼働した川内(せんだい)原子力発電所との関係です。
 九州電力は、「仮に桜島が噴火したとしても、影響はないと考えていて、特別な態勢などは取ってはいない。」とコメントしていますが、本当に大丈夫なのでしょうか?
 
 桜島と川内原発は、直線距離で50km離れています。このことからいうと、先ほど紹介した4回の大噴火と同じ規模の噴火なら、それほど大きな影響はないと思われます。
 それでは、100%大丈夫かと言われると、その問いには「?マーク」がつきます。

  桜島ができる3000年前の、今から約2万9000年前、現在の錦江湾(きんこうわん)北部で超巨大噴火が起こり、「姶良(あいら)カルデラ」と「シラス台地」が形成されました。

 この噴火により、地下にあった大量のマグマが地表に噴出され、大きな陥没地形(=カルデラ)が生まれました。これが「姶良カルデラ」です。
 姶良カルデラの大きさは、南北約23km、東西約24kmにもおよび、阿蘇カルデラにも匹敵します。そこへ海水が流れこみ、現在の錦江湾奥が形作られました。
   一方、地表に噴出したマグマは、「火砕流(かさいりゅう)」となり,半径70km以上の範囲を埋めつくし、火砕流台地を形成しました。この火砕流台地が「シラス台地」です。


 この規模の超巨大噴火が起これば、桜島から50kmにある川内原発も、当然、火砕流の直撃を受けることになります。
 桜島の川内原発への影響の有無の判断基準は、この規模の巨大噴火が起きる可能性を、どう考えるかということだと思います。


 最後に、「科学不信の碑」のエピソードを紹介します。

 桜島の「大正大噴火」の時、噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1914(大正3)年1月10日夜から、住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が「鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)」に問い合わせました。
 測候所からは、「地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり。白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はない。」との回答がありました。
 これを信じた鹿児島市民は逃げ遅れ、パニックになったと伝えられています。

 この教訓を生かすために、、鹿児島市立東桜島小学校にある「桜島爆発記念碑」には、「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら、未然に避難の用意をすることが肝要である。」との記載されており、「科学不信の碑」と呼ばれています。

 科学的な判断は重要ですが、災害避難では「過信」してはいけないという教訓だと思います。
 思えば、東日本大震災でも、想定を超える「巨大津波」で多くの犠牲者が出ました。
 地元の方は、用心の上にも用心して、今回の「桜島」の噴火に備えていただきたいと思います。


<一句>

「安全は  安心よりも  疑問から」


<桜島爆発記念碑(科学不信の碑)>


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