2015年8月15日土曜日

二つの玉音放送 ~昭和と平成の天皇陛下のメッセージ~

 今回は8月15日の「終戦記念日70年」に因んで、昭和と平成の2回の「玉音放送(ぎょくおんほうそう)」を中心に、昭和と平成の2人の天皇陛下の国民へのメッセージについて紹介したいと思います。

 まず、「昭和の玉音放送」です。
 1945(昭和20)年8月15日正午、「日本放送協会(現NHK)」のラジオから、昭和天皇の肉声(玉音)による「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)」が放送されました。

 この中で、昭和天皇は、「朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ」という言葉を述べられました。
 これを口語訳すると、「私は、大日本帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連(連合国)に対して、共同宣言(ボツダム宣言)を受諾することを通告させた。」という内容で、日本が連合国へ降伏し、太平洋戦争を終結することを国民に伝えました。

 日本国民の多くは、「玉音放送」を聞いて、最初は意味がわかりませんでしたが、降伏したとわかると泣き崩れたと伝えられています。

 事実上の無条件降伏ですが、これが決定されるまでには、映画「日本のいちばん長い日」などでも描かれているように、阿南惟幾陸軍大臣をはじめとする軍部が反対し、8月14日から15日にかけては軍部の青年将校によるクーデターが画策されました。(「宮城(きゅうじょう)事件」)
 最終的には、昭和天皇が御前会議で戦争終結を、自ら決断されたと言われています。

 確かに、敗戦に継ぐ敗戦で、東京をはじめ全国各地への空襲、広島・長崎への原爆投下、そして仲介を頼もうとしていたソビエト連邦の参戦と、まさに、四面楚歌の中での苦渋の決断でした。

 「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」という有名な言葉のとおり、「耐えがたくても耐え、忍びがたくても忍び、日本の未来のために平和を築くために決心をした。(口語訳)」という、天皇陛下の気持ちが込められた「玉音放送」です。

<皇居前広場で玉音放送を聞く国民>

 



 しかし、このような状況の中でも、「玉音放送」の中には、なお、前向きな昭和天皇の国民へのメッセージも込められています。

 「神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ 國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」

 「(口語訳)日本の不滅を信じ、責任は重く復興への道のりは険しくても、覚悟を決め総力を挙げて、未来への国づくりを推進し、道義を忘れず、志を高く持って、国のあるべき姿を追求して、世界の流れに遅れを取らぬよう頑張ってください。
 あなたがた国民は、こんな私(天皇)の気持ちをよく理解し行動してほしいと思います。


 敗戦に際しての「玉音放送」でも、昭和天皇が、日本の将来への国づくりについて、しっかりと国民に呼びかけているのは、注目に値します。
 また、未来志向で、終戦の意志をはっきりしめしたことで、日本軍や日本人の敗戦後の抵抗を最小限に抑えたことも、その後の奇跡の復興には大きかったと思います。


 それでは、アメリカは日本の降伏をどう受け止めていたのでしょうか?
 日本が ポツダム宣言を受諾した直後の ニューヨーク ・ タイムス紙は、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月 14 日 ( 日本よりも 1 日、日付が遅くなる ) 付の紙面で、「 太平洋の覇権を我が 手に 」 という大見出しの下に、 次のように書かれていました。

 「我々は初めてペリー(提督)以来の願望を達成した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで アジア大陸のマーケットは、我々のものになった。」
 アメリカの目的が、アジア経済であったことが、よくわかる記事だと思います。

 次に、日本とアメリカの教科書で、「終戦」の記述を比較してみましょう。
 
 まず、日本の教科書の記述です。
「 8月15日、天皇はラジオ放送で戦争終結を国民に知らせた。
 9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で、日本政府及び軍代表が降伏文書に署名し、4年に渡った太平洋戦争は終了した。」(山川出版 日本史A)

 一方、アメリカの教科書の記述です。
「正式な終戦は劇的な力で訪れた。降伏調印式が東京湾に停泊するミズーリ号上で、マッカーサー元帥によって執り行われた。こうして史上最も恐ろしい戦争が、原爆のきのこ雲で終わったのだった。
 アメリカ人たちはV-J・DAY(Victory in Japan Day)を熱狂的に祝っていた。」
(The American Pageant)

 日本の教科書が事実を淡々と書いているのに対して、アメリカの教科書は小説風に劇的に書かれ、原爆が戦争終結の決め手であったことを強調しています。
 ちなみに、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどでは、今でも9月2日をを「V-J Day」と呼び、「対日戦勝記念日」として、記念行事が行われています。

<東日本大震災(2011年)>


 
 


  1945(昭和20)年に「昭和の玉音放送」から66年後の2011(平成23)年3月16日、「東日本大震災」の直後に、天皇がテレビで国民に対して直接放送を行う、「平成の玉音放送」が実施されました。

 その中で、今上天皇(きんじょうてんのう=現在の天皇のこと)は、国民に次のようなメッセージを贈られました。
 「被災者が決して希望を捨てることなく、国民一人ひとりが、被災した各地域の上に、これからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。」

 平成の今上天皇陛下は、「大震災の困難を国民と分かちあいたい」と皇居を自主停電されたり、太平洋戦争の激戦地の沖縄、サイパン、パラオなどを訪問されるなど、心あたたまる優しい平和的行動を、何度もとられています。


 最後に、女優で司会者の黒柳徹子(1933年~ 東京都出身)さんの「玉音放送の思い出」を、紹介します。

 黒柳徹子さんは、小学校の高学年のときに、疎開先の青森で終戦を迎えました。疎開していた家の近くの駅前にある商店で、近所の人たちと一緒にラジオで玉音放送を聞きました。
「 ラジオの音声が悪く、聞いたことがないことばが多かったので、当時は、内容はよく分かりませんでした。でも、その夏の暑さやセミの鳴き声は、よく覚えています。
 あとで、戦争が終わったと聞いたときの安心感やほっとした気持ちは、人生の中でいちばんうれしく、安心した瞬間だと思います。」

<クマゼミ>




 さらに、2015年に「玉音放送」の音源が公開されたことについて、黒柳さんは次のように話されています。

「初めて鮮明な音で、お言葉を聞いて、戦争で家を失った人や仕事を失った人、命を落とした人たちに対して、昭和天皇が本当につらい思いをしておられたことを具体的に話されていることが分かり、驚きました。

 若い人たちは戦争について想像でしか分からないと思いますが、本当の戦争は想像するよりも
もっとひどく、つらいものだということを、戦後70年の節目によく分かってほしいと、(平成の)天皇皇后両陛下は考えられたのではないでしょうか。

 この音声がどんな意味を持つかを知ってもらって、平和が続くようにみんなが祈ることを、私は願っています。」
 二つの「玉音放送」のメッセージが、日本人と日本の未来の礎として、長く記憶され活かされることを、2015年8月、戦後70年目に祈りたいと思います。


<一句>
 セミの声 玉音放送と シンクロす

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