2015年8月8日土曜日

広島・長崎「原爆の日」と吉永小百合朗読会の祈り

 この夏は、広島・長崎に原子爆弾が投下されて、70回目の夏です。

 2015(平成27)年8月6日に広島市で行われた「平和記念式典」には、過去最多の世界100ヶ国とEU(ヨーロッパ共同体)が参加しました。

 今回は、あまり知られていないエピソードも含めて、世界で初めて原子爆弾の被害を受けた広島と長崎の話をしたいと思います。


 1945(昭和20)年8月6日0時37分頃、マリアナ諸島テニアン島の飛行場を、運命を乗せて3機のB-29が飛び立ちました。
 3機は、原爆を投下する都市を最終的に決定するための「気象観測機」で、広島、小倉(北九州)、そして長崎の3都市に向かいました。

 続いて1時45分、Mk-1核爆弾「リトルボーイ」を搭載したエノラ・ゲイ(B-29)が、同じ飛行場を離陸しました。
 この日の「原爆投下作戦」に参加したのは、アメリカ軍の「B-29」6機で、戦闘機などは参加していませんでした。

 アメリカ軍は原爆投下の条件として「目視できること」と決めていたので、天候が良いことは、原爆投下都市決定の重要な要素でした。
 7時過ぎに3機の気象観測飛行機からの情報を得たアメリカ軍は、原爆投下都市を、第1目標で晴れていた「広島」に決定しました。
 「広島の良い天気」が、悲劇の都市の1番手に決定した要因というのは、皮肉です。

 その後、8時15分にエノラゲイが、広島市上空で原爆「リトルボーイ」を投下し、1945年12月までに、大半が民間人の約14万人が広島原爆で死亡しました。(その後も原爆の影響で、多くの犠牲者が出ています。)


<広島平和公園と世界遺産「原爆ドーム」>




 アメリカの「原爆投下計画」で目標になっていた都市は、広島、小倉、長崎、新潟の4都市です。このうち、2回目の標的となったのは、第1候補が小倉(現北九州市)、第2候補が長崎でした。

 広島への原爆投下から3日後の。1945年8月9日午前9時44分に原子爆弾を乗せたBー29「ボックスカー号」が、投下目標である「小倉」上空へ到達しました。
 小倉市上空には、前日の空襲の『煙』が立ち込め、さらに、八幡製鉄所の従業員が、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った。」とも言われています。

 アメリカ軍のB29は、3度、核爆弾を小倉に落とそうとしますが、結局、3度とも失敗し、10時30分に第2候補であった長崎市に向かいます。
 
 10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていました。目視が絶対条件の命令でしたので、小倉に続いて長崎も助かるはずでした。
 ところが、一瞬、長崎上空に晴れ間が見えてしまいました。

 11時01分、高度9,000mから「Mk-3核爆弾ファットマン」が投下され、11時02分に長崎上空約500mで世界2番目の核爆弾が爆発しました。

 1945年12月までに、多くの民間人を含む約7万4千人が長崎原爆で死亡しました。(広島と同じく、その後も原爆の影響で、多くの犠牲者が出ています。)


 広島に原爆が落ちて9日目、長崎に原爆が落ちて6日目の1945(昭和20)年8月15日、日本はボツダム宣言を受諾し、太平洋戦争、そして第2次世界大戦が終わりました。

 戦後、第一目標だった小倉市が原爆投下を免れ、第二目標の長崎市に落とされた事実がわかると、小倉市(現 北九州市)では、原爆が投下の目標とされていた「旧小倉陸軍造兵廠跡地の勝山公園」に祈念碑を立て、長崎市から贈られた「長崎の鐘」を設置しました。毎年8月9日には、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を行っています。


<北九州市にある長崎の鐘>




 広島・長崎の原爆被害については、戦後7年間は日本人による原爆被害の写真撮影を禁止するなど、戦後の日本を統治したGHQ(連合国最高司令官総司令部)が、厳しく報道統制しました。
 この事実は、65年経過した2010(平成22)年になって、NHKが報道しました。

 アメリカのトルーマン大統領は、原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆者を観察する組織「ABCC」(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置ました。
 「ABCC」 と「厚生省国立予防衛生研究所(予研)」を再編してできた「財団法人放射線影響研究所」は、 2007(平成19)に、「被爆二世への遺伝的な影響は、死産や奇形、染色体異常の頻度、生活習慣病を含め認められない」と発表しました。

 一方で、2012年に広島大学の鎌田七男名誉教授らによる研究結果発表では、広島大学グループの長期調査結果として、「被爆二世の白血病発症率が高く、特に両親ともに被爆者の場合に白血病発症率が高いことが、50年に渡る緻密な臨床統計結果より示され、少なくとも被爆二世については遺伝的な影響を否定できない。」と結論しました。

 また、広島の助産婦さんなどの病院関係者の証言では、昭和20年代を中心に広島では奇形児が多く生まれ、「兎唇」「口蓋裂」「単眼」「無脳症」などの例が見られたということです。
 しかし、GHQの方針や親の「公表したくない」との意思もあって隠され、実態は、今でも正確に把握できていません。

<吉永小百合朗読会ポスター>



 最後は、女優の吉永小百合さんの朗読会の話です。
 1945(昭和20)年、終戦の年に生まれた吉永さんは、「祈るように 語り続けたい。ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマ」と題する朗読会を続けています。

 吉永さんは、広島と長崎、沖縄、そして福島で起きたことを「忘れない、風化させない、なかったことにしない」と語りCDも発売しました。
 吉永小百合さんが朗読会で読んだ詩を二つ、紹介します。


・「にんげんをかえせ」(峠三吉 原爆詩集・序)

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
 
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
 
 
・「慟哭」(大平数子)

正義とは
つるぎをぬくことでないことを
正義とは“あい”だということを
正義とは
母さんをかなしまさないことだということを
みんな
母さんの子だから
子どもたちよ
あなたは知っているでしょう
 
 終戦と原爆投下から70年。時間が過ぎても、吉永小百合さんの言葉どおり、
「忘れさせない 風化させない なかったことにしない」ことが大切だと思います。  
 
<一句>
 
 8月の 祈りと風を 忘れない


 

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