「戦後70年」となる今年、2015年は、「戦争と平和」について、日本中で考えてみることが必要な年だと思います。
とりわけ「安保法案」については、学生や若者はもちろん、ノーベル賞受賞者や憲法の専門家を含む多くの学者や弁護士、サラリーマンや高齢者、女性たちまでが、反対を表明したりデモに参加したりしています。
これだけ市民運動が盛り上がるのは、日本ではおそらく、1970年の「70年安保」以来だと思います。
このような時代に必要なことの一つとして、過去の歴史を振り返り、そこから「教訓」を得て、未来の日本を作る指針にすることがあります。
そこで「歴史の分かれ道」となった場面を、何回かに分けて(飛び飛びになるとは思いますが)、探検してみたいと思います。
1回目のテーマは、第2次世界大戦の原因にもつながる疑問、「なぜ、ナチスとヒトラーは、ドイツ民主憲法(ワイマール憲法)を死文化できたのか?」です。
安倍内閣の麻生太郎副総理は、一昨年、平成25年7月29日の東京での演説で、「ドイツのワイマール憲法は、いつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね。」と述べました。
これは、どういう意味なのでしょう?
20世紀前半のドイツへ「歴史探検」してみましょう。
アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年、オーストリア・ハンガリー帝国生まれ)とナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、暴力で政権を奪取したイメージがありますが、実は、少なくても表面的には、合法的に権力を掌握しました。
1919(大正8)年、第1次世界大戦(1914年~1918年)に敗れたドイツは、イギリス・フランスなどの連合国との間に、莫大な賠償金を支払うことや領土分割の規定を含む「ヴェルサイユ講和条約」を締結させられました。
また、同じ1919年、ドイツでは終戦処理の締めくくりとして「ワイマール(ヴァイマル)憲法」が成立しました。
この憲法は、「主権在民」、「男女平等の普通選挙」、「生存権、社会権を世界ではじめて認める」など、当時の世界最先端の民主的な憲法でした。
一方で「ワイマール憲法」では、直接選挙で選ばれた大統領が、首相の指名と法律に拘束されない「大統領令」を発令する権利も認めていました。
このワイマール憲法下のドイツでは、膨大な賠償金によって天文学的なインフレが進行し、国民の生活が困窮しました。
また、政治的には「完全比例代表制」の選挙制度であったため、少数政党が乱立し不安定な連立政権が続きました。
<ドイツ ワイマールの劇場広場とゲーテ、シラー像>
このような不安定な社会情勢の中で、「強いドイツ」を訴え、選挙の度に次第に勢力を拡大していったのが、1921(大正10)年にヒトラーが党首になった「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチス)でした。
ヒトラーは語っています。
「弱者に従って行くよりも、強者に引っ張って行ってもらいたい…大衆とはそのように怠惰で無責任な存在である。」
ナチスは、1928(昭和3)年には得票率2.6%で、国会議員当選者は12人に過ぎませんでした。しかし、1930年には得票率18.3%で102人に躍進し、1932年7月には230議席(得票率37.3%)を獲得し、ついに第1党になりました。
ヒトラーのやり方は、気に入らないことがあると画策して、大統領令や内閣不信任で議会を解散させ、度々、選挙をして、ナチスの議席を増やしていきました。(1930年に1回、1932年に2回、1933年に2回と、4年間で5回の国会選挙を実施しています。)
1933(昭和8)年1月にヒトラーが首相に就任すると、2月には集会・デモなどを制限する「ドイツ民族保護のための大統領令」を発布させ、2月末に起こった「国会議事堂放火事件」の責任を、勢力を拡大していた共産党に押し付け、共産党議員たちを逮捕させます。
1933年3月には、再び議会を解散し、選挙をして、初めてナチスが過半数の288議席(得票率43.9%)を獲得します。
選挙後、ヒトラーは、閣議で「選挙結果は革命であった」と宣言し、国会や憲法に政府が拘束されない包括的授権法である「全権委任法」を成立させ、行政権と立法権を手に入れました。
この時、「憲法改正的な法律」を通過させるためには、国会議員の定数の3分の2以上が出席し、その3分の2以上の賛成が必要でした。
ナチスは、過半数の議席をもっていましたが、3分の2には足りませんでした。
そこで、「議長は、許可を得ず欠席した議員を排除することができ、自己の責任によらず欠席したり排除された議員は出席したものとみなされる。(棄権あつかい)」という、議院運営規則の修正案を可決し、逮捕されて出席できない共産党の議員たちを「出席・棄権扱い」と都合よく解釈して、「全権委任法」を可決しました。
1934(昭和9)年8月に、病気だった反ナチスのヒンデンブルク大統領が死亡すると、ヒトラーは大統領と首相を兼ねる「総統」に就任し、ドイツの全権を掌握します。
こうして、ドイツはナチス独裁政権となり、1934年以降は国会選挙も実施せず、軍拡・他国への侵攻・ユダヤ人迫害などを行い、戦争への道を突っ走り、やがて第二次世界大戦(1939年~1945年)を起こすことになるのは、みなさんのご存じのとおりです。
<ドイツ・ボンの街>
ここで注目していただきたいのは、ヒトラーは「ワイマール憲法」の改正を行わないまま、憲法解釈を都合よく変更するだけで、「全権委任法」を合憲とし、ワイマール憲法の民主主義・三権分立の理念を「有名無実化」して、死文化してしまったことです。
「自己をあらゆる武器で守ろうとしない制度は、事実上自己を放棄している」
(ヒトラーの言葉)
どんなにすばらしい憲法をもっていても、国民全体で憲法を守る意識がなければ、独裁政権が生まれる可能性があるという「歴史の教訓」です。
この反省に立って、第2次世界大戦後の1949(昭和24)年に西ドイツで制定された「ドイツ連邦共和国基本法」(ボン憲法=統一ドイツにも継承)では、国民に「自由主義と民主主義を維持する義務」(いわゆる「戦う民主主義」)を負わせています。
自由も民主主義も平和も、憲法があるからと言って権利の上に眠らず、国民一人一人が維持するために、「戦う民主主義の活動を続けていかなければならない」という現在のドイツの考え方は、今の日本にも当てはまるのではないかと思います。
私の通勤している道で、ほとんど毎日、数人のおじいさん・おばあさんたちが、「平和 憲法9条」と書かれた旗を掲げて、道行く人たちに、「戦争反対」を呼びかけています。
選挙運動以外で、こんなことをする高齢者の人たちを見たのは、初めてです。
「子や孫の時代の平和」を願う、おじいさん、おばあさんたちの行動は、「戦う民主主義」の一つと言えるのではないかと思います。
<平和のぼり>
最後に、日本国憲法が出来た昭和22年に文部省が出し、昭和25年頃まで中学1年社会の教科書として使われていた「あたらしい憲法のはなし」の一節を紹介します。
「 こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。
その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これを「戰力の放棄」といいます。
しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその国と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。
なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。これを「戰爭の放棄」というのです。
世界中の国がよい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。」
(「あたらしい憲法のはなし」(昭和22年 文部省発行)より抜粋)
この「あたらしい憲法のはなし」は数年で学校教材から消えましたが、この言葉どおり、戦後70年、日本国憲法のもとで日本は平和を保ち、1度も戦争をしていません。少なくてもこれは、歴史的事実です。
皇后美智子妃殿下は、この「あたらしい憲法のはなし」について、「この本を憲法記念日のたびに、家族で読んでいました。」と語られたそうです。
<一句>
誰だって 平和を願う 子や孫の
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