2015年7月29日水曜日

名曲紹介「夏の思い出」 ~中学音楽の授業の独唱結果?~

「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空」

 この一節で始まる美しいメロディーの「夏の思い出」は、文字通り「夏になると思い出す」名曲です。今回は、この曲をテーマにしたいと思います。

 まず、1番の歌詞を書きます。


♪「夏の思い出」(江間章子作詞、中田喜直作曲)♪

<1番>
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬
(おぜ)
 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
(こみち)
水芭蕉(みずばしょう)
の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花
(しゃくなげ)
色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空


<写真:尾瀬>





 私がこの歌を聞いて思い出すのは、中学の音楽の授業です。
 「いじめ」や「けんか」が日常茶飯事だった、荒れた当時の中学校では、教室棟の端にあった音楽室での中年女性教師の「音楽」の授業は、絶好の「さぼりのターゲット」でした。

 クラスの男子生徒の半分近くは、音楽室を抜け出して遊んでいました。
 私はというと教室にはいましたが、ノートに落書きをしたり、瞑想に耽ったりしていました。

 そんな中で、先生の弾くピアノから聞こえてきた「夏の思い出」は、歌詞とメロディーがすばらしかったので、すごく気に入って珍しく一生懸命に歌い覚えました。

 ある日の音楽の授業で、先生がおっしゃいました。
「これから歌の試験をします。1人ずつ、自分の好きな歌を歌ってください。」

「えー。なんだよ。ふざけるなよ。」という声が上がりましたが、先生は気にせず試験を始めました。
 やがて、私の番になりました。

 私は、「夏の思い出」を選び歌いました。
(どうせ、音痴の音楽だ。自分の好きな歌を好きなように歌おう。)
 そう開き直ってリラックスして歌った「夏の思い出」は、自分でも不思議なほど、うまく歌えたような気がしました。

 後日、渡された成績表を見て、私はびっくりしました。
 「音楽」の成績が、10段階評価で最高の「10」だったのです。
 それは、まさに「夢見て咲いている」ようでした。

 音痴家系の母親に見せると、ひっくり返るほど驚いて言いました。
「うちの子の音楽が、10のはずはないわ。何かの間違いよ。」(笑)
 それから「夏の思い出」は、私の好きな曲の1つになりました。


 「夏の思い出」は、1949(昭和24)年6月13日に、NHKラジオの番組『ラジオ歌謡』で、発表されました。
 「ラジオ歌謡」は、敗戦で憔悴していた国民を元気づけるために、「夢と希望のある親しみやすい曲」を、ラジオで紹介する企画でした。

 石井好子さんの歌で、初めてラジオ放送された「夏の思い出」は、瞬く間に多くの日本人の心を捕えました。曲中に現れる「尾瀬」の人気も、飛躍的に高まりました。

 1962(昭和37)年8月~9月には、NHK『みんなのうた』でも紹介されました。
 さらに、「音楽の教科書」にも掲載されることが多くなり、幅広い世代に親しまれています。

 作詞の江間章子(えま・しょうこ 1913年~2005年)さんは、新潟県上越市出身の作詞家・詩人で、「おかあさん」や「花の街」なども作詞しています。
 「夏の思い出」の詞は、小さい頃母の実家があった「岩手県岩手山麓」で見て親しみがあった「ミズバショウ」の花と、1944(昭和19)年に訪れた尾瀬の美しい風景の中で見た「ミズバショウ」が重なって感動したのを元に作られたそうです。

 一方、作曲者の中田喜直(なかだ・よしなお 1923年~2000年)さんは、東京都渋谷区の出身で、日本童謡協会会長やフェリス女学院大学教授を歴任し、「雪の降るまちを」や「めだかの学校」、「ちいさい秋みつけた」など、たくさんの名曲を作曲しています。

 「夏の思い出」が出来た当時、中田さんと江間さんは面識がなく、中田さんは尾瀬にも行ったことがなかったそうです。
 ちなみに、中田さんが初めて尾瀬を訪れたのは、作曲から40年以上経った1990(平成2)年でした。

 中田喜直さんが最初に書いた「夏の思い出」の曲は、中田さんのお母さんに「ちょっと、これは少々お粗末ではないですか。こんなものをNHKさんにお持ちすることはなりません。すぐ作り直しなさい。書き直しなさい」と言われて、楽譜を破り書き直しました。
 そのあとで出来たのが、今の曲です。
 そんなことがあったので、中田喜直さんは「夏の思い出」の印税を、ずっとお母さんに渡していました。

 江間さんと中田さんは、「夏の思い出」を作る時に初めて会ったと紹介しましたが、実は、この二人には、不思議な縁があります。
 江間章子さんのお父さんの家系は会津藩士でしたが、実は、中田喜直さんのお祖父さんも、会津藩士だったのです。
 
 会津藩士を先祖にもつ初対面の二人が、福島県(南会津郡檜枝岐村)・新潟県(魚沼市)・群馬県(利根郡片品村)の3県にまたがる「尾瀬」を題材にした名曲を作りました。
 不思議な縁を感じませんか。
 「夏の思い出」の曲が、美しくも哀愁ただようメロディであるのは、「会津」の悲しい歴史のせいかも知れませんね。


 ここで、「夏の思い出」の2番を紹介します。

<2番>
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
水芭蕉の花が 匂っている
夢みて匂っている水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空



<写真 ミズバショウ>




 最後に、中田さんと戦争のエピソードを紹介します。

 終戦の直前、1945(昭和20)年に、佐賀県・鳥栖小学校を2人の特攻隊員が訪ねてきました。
 2人は、学校のピアノを借りると、ベートーヴェンの「月光のソナタ」を、それはそれは上手に悲哀を込めて弾きました。
 実は、この時の特攻隊員の一人が中田喜直さんだったのです。
 

 中田喜直さんは、1940(昭和15)年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)ピアノ科に入学し、戦時(太平洋戦争)のために、繰り上げ卒業しました。
 その後、見習士官となって「宇都宮陸軍飛行学校」に入校し、帝国陸軍航空部隊のパイロットになりました。
 陸軍少尉に任官し、フィリピンやインドネシアの戦線に赴き、その後、本土で特攻隊要員として終戦を迎えました。

 あの戦争がもう少し長引いていたら、中田さんは特攻で戦死してしまい、「夏の思い出」も「めだかの学校」も「雪の降るまちを」も、生まれなかったかも知れませんね。
 そう考えると、平和の尊さと戦争の怖さを、再認識させられます。


<一句>

・夏くれば 平和の祈り 思い出す  

2015年7月26日日曜日

打上花火と線香花火 ~空に国境はない・花火は魂~

♪どんとなった花火だ きれいだな
 空いっぱいに 広がった
 しだれ花火が ひろがった♪

 これは童謡「花火」(作詞:井上赳 作曲:下総皖一)の1番です。
 いろんな花火の歌がありますが、幼い頃に歌ったこの曲が原点で、打上花火を見るとこのメロディーが思い出されます。

 7月25日には、東京では「隅田川花火大会」、大阪では「天神祭奉納花火」があり、いよいよ花火シーズン本番ですね。
 今回は、夏の風物詩「花火」をテーマにしたいと思います。

 花火には、大きく分けて2種類あります。「打上花火(法令上の用語は煙火)」と、「おもちゃ花火(同:玩具花火)に分けられます。

 打上花火は、火薬を球状に成形した「星」と呼ばれるものを詰めた、紙製の球体「玉」を打ち上げる花火で、取扱いや打ち上げには許可が必要です。

 打上花火には、「割物(球状に飛散)」、「ポカ物(ランダムな方向に飛ぶ)」、「型物(ハート型等)」などの分類がありますが、花火大会の主役は、球状に広がる「割物」です。

 様々な大きさ・色に変わる花火は、多くの人出を集める夏の大イベントになっています。
 では、花火大会の「人出ベスト10大会」を紹介します。

・1位「江戸川花火大会」(東京都) 8月1日 前年人出139万人
・2位「天神祭奉納花火」(大阪府) 7月25日 前年人出130万人
・3位「関門海峡花火大会」(山口県) 8月13日 前年人出120万人
・4位「おたる潮まつり・道新納涼花火大会」(北海道) 7月24日、26日 前年人出108万人
・5位「長岡まつり 大花火大会」(新潟県) 8月2日、3日 前年人出103万人

・6位「神宮外苑花火大会」(東京都) 8月11日 前年人出100万人
・7位「隅田川花火大会」(東京都) 7月25日 前年人出95万人
・8位「高崎まつり大花火大会」(群馬県) 8月1日 前年人出77万人
・8位「わっしょい百万夏まつり 花火」(福岡県) 8月2日 前年人出77万人
・10位「全国花火競技大会 大曲の花火」(秋田県) 8月22日 前年人出72万人

 ちなみに、5位の「長岡まつり 大花火」、10位の「大曲の花火」、そして11位にあたる70万人の人出の「土浦全国花火競技大会(茨城県、10月3日)」が、「平成の日本三大花火大会」と言われています。

 上位10大会は、いずれも夏休み(7月下旬から8月)に開催されます。やっぱり、「花火=夏休みのイベント」というイメージで、日本には根付いていますね。

  花火1発の値段は、開花したときの直径が100mとなる3号玉で4000円、5号玉で1万円、7号玉で3万円程度だそうです。
 しかし、10号玉(1尺玉)では10万円で、開花すると450mにもなる2尺玉は60万円と一気に値段が跳ね上がります。
 世界一大きいと言われている4尺玉は、直径800mで1発260万円です。この4尺玉は、日本の新潟県で打ち上げられているそうです。

 そう言えば、先日、芥川賞をとった又吉直樹さんの「火花」の中にも、主人公と先輩の出会いのシーンとして、「熱海の花火大会」が選ばれています。
 
 ただ、夜とは言っても暑い毎日が続きますので、花火見物に行かれる方は、水分補給を忘れないでください。

<写真:江戸川花火大会>



 
花火の歴史をひもとくと、世界最初の花火は6世紀、中国で火薬が使われるようになるのとほぼ同時期に作られはじめたと言われています。
 
 日本では、室町時代中期の公家・万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』の1447年5月5日(文安4年3月21日)の記載に、「浄華院における法事の後に境内にて、唐人(中国人)が風流事(花火)を行った。」という記事があり、これが最初と考えられています。

 戦国時代には、1582年4月14日(天正10年3月22日)にポルトガル人の「イエズス会宣教師」が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録があります。
 また、1581年に織田信長が安土城で、1589年には伊達政宗が米沢城で、花火を見たという説があります。

 江戸時代になると、1613(慶長18)年に、徳川家康が駿府城内で、外国人の行った花火を見物したという記事あり、その後は各地で花火が盛んに行われました。
 1648年には、江戸幕府が「隅田川以外の花火禁止令」を出しています。

 江戸の花火と言えば、「たまやー」「かぎやー」の両国川開きの掛け声が有名ですが、こんな悲しい話があります。

 「鍵屋」が、1659年創業から現在まで15代続いている花火師なのに対し、「玉屋」は鍵屋で番頭を務めていた腕のよい職人・清七が独立し、のれん分けしてもらった分家で、一時は鍵屋を上回る人気を誇りました。
 「玉やだと  又またぬかすわと  鍵や云ひ」という川柳も残っています。

 しかし、1843(天保14)年に出してしまった火事が原因で、玉屋は「江戸お構い(追放)」になり、一代限りで終わってしまいました。「たまやー」の掛け声だけが残ることになりました。


<天神祭奉納花火(大阪)>



 時代は流れて、20世紀末、1987(昭和62)年のドイツでのエピソードを紹介します。

 この頃、ドイツは東西に分断されていて、ベルリンには東西に分断する「ベルリンの壁」がありました。
 この年、西ベルリンで7000発の花火が上がりました。花火を上げたのは、日本の花火師・佐藤勲さんでした。
 佐藤さんは、マスコミのインタビューに答えてこう話しました。
「ベルリンは地上に壁がありますが、空には国境はありません。日本の花火は、東西どちらから見ても同じに見えます。」

 翌日、ベルリンの新聞は1面で、「空に国境はない」と報じました。
 その2年後の1989(平成元)年、ベルリンの壁は崩壊し、地上にも国境がなくなりました。

<写真:線香花火>

 



 ここまで、「打上花火」の話をしてきましたが、最後は「おもちゃ花火(玩具花火)」のエピソードを紹介します。

 「おもちゃ花火」は、子供でもできるので、夏の夜の遊びにはピッタリです。
 その代表格が「線香花火」で、こよりや細い竹ひごの先端に火薬を付けた花火です。

 太平洋戦争が終わってすぐの頃の、「裸の大将放浪記」で有名な放浪の画家・山下清さん(1922年~1971年 東京都台東区出身)のお話です。
 山下清さんの花火好きは有名で、熱海や長岡の花火大会を題材にした作品を残していますが、実は線香花火も大好きでした。

 子供たちが、線香花火をしているのを見て、山下清さんは目を細めてこう言ったそうです。
「きれいだな。これは魂なんだな。」

 か細い火花ながら長時間楽しめる「線香花火」は、確かに魂という言葉がぴったりですね。

♪どんとなった何百 赤い星
 いちどに かわって 青い星
 もいちど かわって 金の星♪
(童謡「花火」 2番)

 今夜は、久しぶりに線香花火でも、やりたいですね。


<一句>
 空に解け 魂しみる 花火花

2015年7月23日木曜日

「ジャポニカ学習帳」総選挙 カブトムシなど昆虫が圧勝!

 花や虫などを表紙にした「ジャポニカ学習帳」を、覚えていらっしゃる方も多いと思います。
 あじけないデザインのノートが多い中で、カブトムシやチョウ、ヒマワリなどの大きな写真が表紙のノートは、教室の中でキラキラ輝いていました。

 このショウワノート(本社 富山県高岡市)が作った「ジャポニカ学習帳」は、大阪万国博覧会が開催された1970(昭和45)年に発売され、現在まで45年間にわたって販売されているロングセラー商品で、累計売り上げは12億冊以上にもなります。

 2012(平成24)年、このジャポニカ学習帳の表紙から、カブトムシなどの「昆虫」の写真が一斉に消えてしまいました。

 きっかけは、保護者からのこんな意見でした。
・「娘が、昆虫写真が嫌でノートを持てないと言っている。」・「授業で使うとき、表紙だと閉じることもできないので困る。」 保護者だけではなく、教師からも同じような声が上がったそうです。
 
 この時、ショウワノートは、こう考えたそうです。
 「お子さんがノートを使う機会は多く、もしかしたら友達と一緒にいる時間より長いかもしれません。学校の先生もノートを集めたり、添削したりと、目に触れる機会は多いと思います。
 そんな商品だからこそ、一人でも嫌だと感じる人がいるのであればやめよう、ということになりました。虫に接する機会が、減ったということでしょうかね。」
 世の中には、虫が好きな人もいるし、嫌いな人もあります。
 それは、個性だから「みんな違ってみんないい。」と思います。

 ただ、「虫嫌いの意見」がどれほど寄せられたかはわかりませんが、全部やめなくてもいいと思います。「選択の自由」を確保しておけば、大丈夫だったのではないかなと思います。

 子供の頃、虫が大好きで、カウトムシやクワガタムシを野山に追いかけて、「ファーブル昆虫記」の世界に憧れた私としては、昆虫の表紙の「ジャボニカ学習帳」が、発売中止になったのは、残念でなりませんでした。

<写真 カブトムシ>

 


 ところが、その「ショウワノート」が、2015(平成27)年4月~6月にかけて、「ジャポニカ学習帳の45周年記念企画」として、amazon(アマゾン)と共同で、「歴代ジャポニカ学習帳の人気投票」(いわば「ジャポニカ総選挙」)を、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代の4つの期間に分けて、各20種類ずつのノートを対象に投票を実施しました。

 その結果が、7月7日に発表されましたので、各年代のベスト3を紹介します。(★印は昆虫)

<1970年代>
1位 「ノコギリクワガタ」★
2位 「シマリス」
3位 「アゲハチョウ(蝶)」★

<1980年代>
位 「パプアヒメカブト」★
2位 「ムナキカメムシ」★
3位 「ヘラクレスオオカブトムシ」★

<1990年代>
1位 「キララシジミ(蝶)」★
2位 「ゼブラホソミトンボ」★
3位 「ナミウラモジタテハ(蝶)」★

<2000年代>
1位 「デリアス・ヒパレテ(蝶)」★
2位 「アピアス・オルフェナ(蝶)」★
3位 「アオイロトケイソウ(花)」★

 並み居る「花」や「動物」、「魚」などのノートを退け、なんと、4つの年代のトップはすべて「昆虫」でした。
 そればかりか、ベスト3に入った12種類のうち10種類までが、「昆虫」だったのです。

 ショウワノートでは、人気投票で各年代の1位になった「ノート」4種類と、最初のシリーズの「ひまわり」のノートの5冊をセットにして、数量限定で復刻版として、アマゾンで販売しました。
 すると、1日で売り切れたそうです。

 今も「カブトムシ」や「クワガタムシ」を自宅で飼っている昆虫ファンの私としては、「昆虫人気」が健在であったので、ほっと胸をなでおろしています。

 もちろん、花も動物も魚も嫌いではありませんが、愛すべき虫たちを「子供に見せてはいけないもの」には、しないでやってほしいと、心から思っています。

 今回の昆虫人気に驚いた「ショウワノート」は、今後、一般販売も検討しているそうですので、期待したいと思います。

<限定発売 ジャポニカ学習帳セット>




 
 「ジャポニカ学習帳」が生まれた1970(昭和45)年は、学習ノートが全盛で、20社ほどが競合していたそうです。その中で、「ショウワノート」は学習帳メーカーとしては最後発でした。

 この状況を打開するために生まれたのが、「ジャポニカ学習帳」です。

 学習帳の表紙には、「昆虫や植物の写真」を使用し、中ページには、当時は「一家のステータス」だった百科事典の 『ジャポニカ百科事典』(小学館)とコラボレーションした、「学習百科のミニ知識」を掲載しました。

 「生きもの写真」と「ジャポニカ百科事典」という2つのオリジナリティが、「ジャポニカ学習帳」を、発売45年・売上12億冊以上の「超人気ロングセラーノート」に育てた、と言っても過言ではないと思います。



 最後に、ジャポニカ学習帳の表紙の写真を、30年間に渡って、1200枚以上撮影し続けていてNHKの「ダーウィンが来た」などの企画撮影もしている、昆虫・植物写真家・自然ジャーナリストの山口進さん(やまぐち・すすむ 1948年~ 三重県出身)の言葉を紹介します。

「 ジャポニカ学習帳の<世界特写シリーズ>が始まって30年。この間に地球環境が悪化し、かけがえのない自然が目の前でガラガラと音を立てて崩れていきました。その現状を前に、僕は涙をこらえながら旅をしました。

 そんな僕を救ってくれたもの、それは美しい花ばなや虫たちの姿と、各地で出会う人びとのあたたかな表情でした。特に子どもたちの笑顔は、「素晴らしい未来があること」を感じさせてくれました。
 国が変わろうとも、時代が変わろうとも子どもたちの笑顔は変わりません。

 今ある素晴らしい星「地球」を記録しておくことは、将来を担う子どもたちにきっと役立つに違いありません。美しい花や大自然を見ることで、あの笑顔は永遠につながると信じています。」
              (山口進さんブログ「 山口進の気まぐれ撮影日誌」より抜粋)


 たかがノート1冊ですが、されどノート1冊ですね。


<一句>

・「あの頃の 心のノートは 開けたまま」

 

2015年7月19日日曜日

宇宙のヒヨコ星! 元第九惑星「冥王星」にハートとクジラを発見

 「見上げてごらん夜の星を♪」や「星に願いを♪」など、日本にも外国にも、「星」をテーマにしたたくさんの名曲があります。
 今回は、そんな星の中でも、最も謎の多い星の一つ、元太陽系第九惑星「冥王星(めいおうせい)」について紹介します。

 2015(平成27)年7月14日、NASA(アメリカ航空宇宙局)の探査機「ニューホライズンズ」が冥王星に13,000kmまで最接近し、撮影した画像の一部が公開されました。

 冥王星が1930(昭和5)年に発見されて以来、85年を経て、やっと冥王星の姿が鮮明にわかってきたと言えるでしょう。

 氷点下220度の冥王星の表面には、なんと「ハート型」の白い部分と、NASAが「クジラ」と呼ぶ魚の形の黒い部分が発見されました。(ハート型の部分は、冥王星の発見者にちなんで、「トンボー領域」と名付けられました。)
 地球から48億km離れた太陽系の果ての「冥王星」に、ハートとクジラが見えるなんて、宇宙のロマンですね。
 他にも、冥王星には、標高3500m、「富士山級」の山があるそうです。


<冥王星の画像>



 
 「冥王星(めいおうせい)」は、直径2370km(地球の18.5%、約5.4分の1)の大きさで、以前は「水・金・地・火・木・土・天・海・冥」と学校で教えられていたように、太陽系の1番外側を回る、太陽系第九惑星と言われていました。

 1930(昭和5)年に、アメリカの天文学者クライト・トンボーが発見した冥王星は、実は発見前の19世紀後半から、学者たちが「惑星X」として予測されていました。
 これは、天王星の軌道の振動の分析から、計算上、「第九惑星」の存在の可能性が指摘されていたものです。
 ただし冥王星は、学者たちの予測した「惑星X」にしては、小さすぎるとの指摘もありました。

 長らく、太陽系第9惑星と位置付けられ、冥王星の大きさは「水星と火星の間」と考えられていました。
 ところが、1978(昭和53)年に、冥王星に衛星「カロン」が発見され、今まで「冥王星」と思われていた光の点は、実は、冥王星と衛星「カロン」の2つの星が合わさったものであることがわかりました。
 その結果、冥王星の大きさは、月より小さいことが判明し、本当に「太陽系第九惑星」かどうかが議論されるようになりました。

 衛星カロンは、冥王星の半分ほどの直径があり、質量は7分の1です。
 冥王星とカロンは、公転と自転の周期が同じで、互いに影響しながら宇宙空間で回る「二重天体」とも言われています。(現在でも、ハップル望遠鏡以外の望遠鏡では、視覚で2つの星の区別をすることはできません。)

 
 2006(平成18)年8月、チェコのプラハで開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会で投票を行い、冥王星は、惑星(planet)から準惑星(dwarf planet)に降格になりました。

 惑星と準惑星の違いは、「軌道上のほかの天体を排除しないこと」等だそうですが、正直、小さいだけで、太陽から1番遠い所を、248年もかけてがんばって廻っている冥王星を降格するのは、かわいそうだと思います。

 冥王星を舞台にした漫画(「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」)も書いている、あの松本零士さんがコメントされたように、「理論的には正しいが、人々が持つ宇宙への夢に対する配慮に欠けた決定。」ではないかと思います。

 今回、冥王星に接近して写真を送ってくれているNASAの探査機「ニュー・ホライズン」が、打ち上げられたのは2006年1月で、冥王星が「降格」する7ヶ月前でした。
 それから、9年半かけて48億キロの旅の末に、ニュー・ホライズンは、冥王星に最接近しました。
 打ち上げが、もう少し遅ければ、探査機が冥王星に向かうこともなく、宇宙に浮かぶ「ハート」や「クジラ」も、発見されなかったかも知れませんね。


<夜空>



 
 冥王星の英語名は、「pluto(プルート)」と言いますが、これはローマ神話で冥府の王であるプルートにちなんで付けられ、最初の2文字「PL」は、発見者トンボーが冥王星を発見したローウェル天文台の設立者パーシヴァル・ローウェルのイニシャルであるとも言われています。

 冥王星が惑星から降格したことで、plutoには、「降格させる」という動詞の意味が加わったそうです。
 また、原始番号94番のプルトニウム(plutonium)は、冥王星の名前からつけられたもので、核兵器や原子力発電の燃料にもなる放射性物質です。
 冥王星には、ネガティブな話が多いですね。


 最後に、冥王星のポジティブな話をします。

 みなさんは、あの「夢の国・東京ディズニーリゾート」に、冥王星の名前をもったキャラクターが、いるのを知っていますか。

 そう、ディズニー・ファンなら知っているミッキーマウスの愛犬の名前が「プルート(冥王星)」なのです。
 先に紹介したように、2006年に国際天文学連合が「冥王星を惑星から準惑星に降格する」と決議した時に、ディズニーは、「プルートは、白雪姫の『七人の小人(ドワーフ)』たちとともに、小さくてもがんばる。」との声明を出したそうです。
 さすが、ディズニーは、夢のあることを言いますね。


 冥王星は、小さすぎて「準惑星」に降格しましたが、実は、冥王星は、「小惑星」という卵から、「惑星」というニワトリになる中間の星、いわば「ヒヨコ星」なんです。
 ということは、遠い将来、他の小惑星を飲み込んで大きくなれば、メジャー(惑星)に昇格することも、夢ではないのです。

 1970年代に打ち上げられた宇宙探査船、「パイオニア」や「ボイジャー」には、冥王星が惑星であることを示す、「金属板」や「金のレコード」が搭載されていて、はるかな宇宙空間を旅しています。
 つまり、惑星「冥王星」の名前は、宇宙的に「永遠に不滅」なのかも知れません。


 こんなことを考えながら、夏の夜空を見上げてみるのも、いいかも知れませんね。



<俳句>

・ ヒヨコ星 億年先は プラネット(惑星)

・ 夢信じ 彷徨う君は 小惑星

2015年7月16日木曜日

台風11号に警戒! 7月16日~17日に西日本 19日~20日に北日本に接近・上陸の恐れ

 気象庁の予報では、台風11号(ナンカー)が、7月16日深夜から17日にかけて、西日本(四国・中国)に接近・上陸する可能性が高くなっています。
 またあまり報道されていませんが、一旦、日本海に出た後、7月19日から20日にかけて津軽海峡を中心とした北日本にも、接近・上陸する可能性があります。

 今回の台風11号は、16日午前3時現在、「大型で強い勢力」で、暴風・大雨などに厳重な警戒が必要です。

 気象庁の発表では、7月16日午前3時現在、台風11号は、北緯29度55分、東経135度10分の日本(室戸岬)の南海上にあって、北北西に時速20kmで進んでいます。
 中心付近の最大風速は40m/s、風速25m以上の「暴風域」は中心から170kmです。(最新情報は、気象庁のホームページの「防災情報>台風情報」をご覧ください。)

<2015年台風11号の予想進路(気象庁HPより)>



  台風に対する主な備えを改めて紹介します。

(1) 家の外の備え(風雨が激しくなる前)
 水害に備え、側溝や排水溝の掃除をし、水はけをよくする。また、屋根、塀、壁などの点検、補強も台風が来る前に行っておく。

(2) 非常用品を備蓄
 ライフライン(水道・電気など)が途絶えたときの事を想定して、非常用品を備えましょう。食料・水・電池等は、救助・復旧に必要な、概ね3日分程度が必要と言われています。

<備蓄推奨品>
・ 懐中電灯(LEDライト)やマッチ・ライター
・情報取得・通信手段(携帯・スマホやラジオと電池・充電器など)
・非常用食料と飲料水(3日分)
・貴重品(小銭を含むお金など)
・薬(特に病気の人)やおむつ(幼児がいる家庭)
・生活用水(お風呂に水をためておくと、水洗トイレや洗い物等に使えます)

(3)家族で話し合っておく
 避難場所やルート・方法、落ち合う場所・連絡方法などを、家族で話し合い確認しておきましょう。
 できれば、地元自治体(区・市町村等)のホームページなどで、「ハザードマップ」を確認・取得しておきたいものです。


<浸水した道路>


 
 おしまいに、道路が冠水した時に気をつけたいを、「実話・体験談」をもとに紹介します。

 知らない道はもちろん、いつも通っている道でも、意外と高低差はわからないものです。
 道が浸水しても、「これぐらい大丈夫」と思ってしまいがちですが、意外と深い時もあります。

 車では、タイヤが浸かりエンジンが浸水すると動かなくなり、ドアや窓も開かなくなり溺れることもあります。
浸水している道路へ車を乗り入れないことと、車内から窓を割って脱出できるハンマー等を、車内に入れておくことも大切です。

 人や自転車は、膝より深い所では動けなくなる可能性が高くなりますので、近づかないようにしましょう。また、道路は立っていられる深さでも、横の側溝へ落ちると深く溺れることもあり危険です。

 私自身、学生の頃、自転車で通いなれた道が、朝は通れたのに夕方には浸水していた経験があります。
 「これぐらい、大丈夫。」と考え、無理やり道路を進むと、胸まで浸かってしまい、びしょ濡れになった経験があります。もし、道路を少しでもはずれていたら、横の側溝は身長より深くなっていたので、溺れるところでした。(汗)
 ふと気づくと、近くの国道には「救助舟」が出ていて、子供たちが乗っていました。
 信じられない風景を見て、水の恐ろしさを体験しました。
 
 
 今回の台風11号は、スピードが遅く「雨台風」とも言われていますので、特に水害や土砂崩れに警戒が必要です。(もちろん、暴風・高潮・高波などにも注意してください。)
 また、あまり報道されていませんが、日本海に出たあと、19日から20日頃に再上陸が予想される北日本(北海道・東北)でも、しっかりとした準備が必要です。

 お互いに、台風への十分な備えと警戒をしましょう。

2015年7月14日火曜日

セミの鳴かない夏? 高温・豪雨・地震そして台風11号接近

 私の職場の近くには、毎年、蝉時雨が聞こえる公園があります。
 ところが、7月も中旬というのに。今年はセミの姿がほとんどなく、鳴き声も聞こえません。
 特にいつも一番多くいるアブラゼミは、1匹もいません。
 こんなことは初めてです。不気味で、不安です。
 みなさんの近くでは、セミは鳴いていますか?

 いろいろ調べてみると、「蝉と地震」の関係については、古来様々な関連性が指摘されているそうです。
 蝉は地震の前兆を感じ取り、七年に一度の羽化の時期をずらすという説があるそうです。

 例えば、1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災では、この年の7月から8月にかけて、神奈川県川崎市一帯で蝉が全く鳴かなかったことが記録されています。
 同様の現象は埼玉や伊豆半島でも見られたということです。
 また1707(宝永4)年の夏には、伊勢国萩原(現三重県亀山市)で、やはり蝉が全く鳴かなかったという記録が残されています。
 この年10月には宝永の大地震(東海・東南海・南海の3連動地震)、11月には富士山の宝永噴火が起きています。

 そう言えば、2015年7月13日の午前2時56分に、大分県南部を震源とする「最大震度5強」(マグニチュード5.7)の地震が起きましたが、この辺りは「南海トラフを震源とする巨大地震」の予想される震源の西の端に近い場所です。(気象庁は、関連は不明と発表しています。)


<アブラセミ>



 蝉(セミ)は、カメムシ目(半翅目)・頸吻亜目・セミ上科(Cicadoidea)に分類される昆虫で、成虫は夏頃に羽化し、その後、1週間から3週間で死亡するため、儚い虫の代表として知られています。
 ところが、セミが幼虫として地下生活する期間は3-17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫でも上位に入る寿命の長さをもちます。

 イソップ童話の「アリとキリギリス」は、地中海沿岸のギリシアの原話では、本来「アリとセミ」の話だそうです。セミは、日本より緯度が高いヨーロッパの北部・中部や北アメリカでは、種類も少なく、小型で知名度が低いので、より分かりやすいようにキリギリスに置き換えたものだそうです。

 
 7月に入って、北陸や北日本を中心に、35度以上の猛暑日が相次ぎ、九州を中心に集中豪雨も続いています。
 小まめな水分摂取で熱中症予防に心がけ、天気情報をチェックして集中豪雨にも注意したいものです。

 そして、2015年7月14日午前6時現在、日本の南海上(北緯22度10分、東経136度35分にある台風11号(ナンカー)が、勢力を強めながら北上しています。
 気象庁の14日5時の発表では、7月16日から7月17日にかけて、西日本に接近・上陸する可能性が高くなっています。

 なんか、不気味な夏ですね。
 今のうちに、避難路の再確認や食料・水・灯り・情報原(ラジオ・携帯充電器等)の確保など、災害への準備をしておきたいものです。

<台風11号進路予想(気象庁HPより)>





 最後は、セミの話に戻ります。

 明治維新の時、日本にやってきたヨーロッパ人の多くは、セミを知らない人が多く、「なぜ木が鳴くのか」と尋ねたそうです。
 また、現在でも、日本のドラマを欧米に出すときは、セミの声を消して送ることが多いそうです。
 日本では、暑い盛りの象徴と感じられるセミの声ですが、欧米では「妙なノイズ」が入っていると思われる場合が多いからだそうです。

  • 閑さや 岩に染み入る 蝉の声   (松尾芭蕉)
  • 一筋の 夕日に蝉の 飛んで行  (正岡子規)
  • 私も一句。

    ・ 沈黙の セミを探して 揺れる木々



     


     

    2015年7月12日日曜日

    広がる「安保法制反対」の声 ~若者から93歳寂聴さんまで~

     「 この国の平和と国民の命を守るために、友人やそのまた友人が戦地に行くことに、私は耐えられません。
     やられたらやり返す、やられる前にやる。そんな報復合戦に参加し、これから先も誰かの犠牲の上に 自らの平和が成り立っていくことに私は耐えられません。

     私たちの憲法は先進的ですばらしいものだと信じています。   
     徹底して武力行使をしないことこそが、世界の平和と安全を形作ると信じています」
        (2015年6月27日 渋谷ハチ公前にて 佐竹美紀さん⦅23歳⦆のスピーチ)


     日本では、一時、死語となっていた「デモ」や「集会」という言葉が、長い沈黙を破って、学生・若者たちを中心に広がり始めています。

     「安保法制反対」を叫ぶ、参加者たちの声は次第に大きくなり、国会周辺では6月14日(日)に2万5000人、7月10日(金)にも1万5000人が参加しました。(主催者発表)
     次第に、マスコミも無視できない規模になっています。

     毎週、国会議事堂前で行われている集会は、「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)」が呼びかけて実施されています。

     「憲法をまもれ!」「戦争立法絶対反対」「GIVE  PEACE A CHANCE」など、様々なプラカードを掲げた、学生や若者、会社員、高齢者までが参加しています。その輪は渋谷や札幌、京都、横浜など、全国に広がっています。

     何より、戦争になれば一番影響を受けることになる「若者たち」が、立ち上がったことは大きいと思います。
     その学生たちのスピーチを、2つ紹介します。

    「この国は、国民を守るためといって戦争法案を通そうとしてます。もうウソをつくのはやめてください。
     つい100年前まで選挙権は常識ではありませんでした。権利を獲得するため、先人たちは血を流しました。そして、言葉を理想を、命をかけて未来に届けてくれました。
     わたしたちも、自分の意見を発して未来にタイムカプセルを埋めなければいけません。」
             (小林叶さん 大学4年生)

    「 私たちは大きな岐路に立っています。立憲主義と民主主義を守るのか。それとも、戦争へ向かうのか。
      50年後、生きているのは私たちです。今こそ、沈黙を破って声を挙げましょう。」
             (もえ子さん 大学2年生)

    <渋谷ハチ公前のデモ>



      ここで、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障体制の整備について」の政府見解を紹介します。

    「 国民の命と平和な暮らしを守ることは、政府の最も重要な責務です。我が国を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増しています。
      我が国の安全を確保していくには、日米間の安全保障・防衛協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深め、その上で、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法整備を行うことが必要なのです。
      これにより、争いを未然に防ぐ力、つまり抑止力を高めることができます。」
       (「内閣官房ホームページ」より)


      いったいどちらの主張が、世論の支持を得ているのでしょうか?。
     公平を期すために、いくつかのデータを紹介します。

     朝日新聞が行った調査では、「憲法判例百選」(有斐閣、2013年、法律を志すものは誰もが手にする判例集)の著者である憲法学者209人に「安保法制について聞いたアンケート」では、
    ・「安保法制は憲法違反」と答えた学者が104人(50%)、
    ・「憲法違反の可能性がある」が15人(7%)、
    ・「憲法違反でない」は2人(1%)
    という結果だったそうです。
     国会の参考人質疑と同じで、圧倒的に「安保法制は憲法違反」と考える憲法学者が多いようです。

     次に、安保法制について、国会や政府へ決議を行った331の地方議会の決議の内訳は、「反対」が144議会(44%)、「慎重」が181議会(55%)で、「賛成」は6議会(2%)でした。

     さらに、2015年5月末に共同通信社が実施した「全国電話世論調査」では、「安保法制で自衛隊が戦争に巻き込まれるリスクが高くなる」との回答が68%あり、「政府の説明不足」との回答も81%を超えています。

     政府は、南シナ海の中国進出などを念頭に安保法案成立を急いでいるようですが、全体的に考えると、少なくても「憲法改正なしに安保法案を制定する」ことには、学者も地方議会も国民世論も、「NO」と言っているように思えます。
     今回の法律は、やっぱり無理があるのではないでしょうか。

     この状況で、自民党と公明党の与党が多数を占める国会が、強行採決をしてでも「安保法案」を成立させたとしたら、「戦争と平和」や「国民の命」、「憲法」に関わる重要法案だけに、大きな疑問と不安が残ると思います

    <国会議事堂前の集会>

     


     最後に、「文化勲章受章者」で93歳の作家・瀬戸内寂聴(1922(大正11)年 徳島県出身)さんが、国会議事堂前の集会に病をおして1人で命がけで参加した時のスピーチの一部を紹介します。

    「 私は、戦争の真っただ中に青春を過ごしました。
      いい戦争なんて、絶対にありません。戦争は、すべて人殺しです。それは、人間の一番悪い行為です。
      最近の日本の情勢を見ていますと、あの怖い戦争に、どんどん近づいているような気がします。今の日本の状態は、昭和15(1940)年ころとそっくりです。このままの政治が続いたら、必ず戦争になります。
     私は高齢です。でも、どうせ死ぬなら、このことをみなさんに、申し上げて死にたいと思っています。
     お釈迦様の言葉で、一番すばらしいのは「殺すなかれ」という言葉です。
     人間が幸せになる根本の思想です。」
                (2015年6月18日 国会前集会での瀬戸内寂聴さんのスピーチより)


      「戦争を知らない子供たち」として日本で育った私たちの責任は、子供や孫もまた「戦争を知らない子どもたち」であり続ける日本にすることだと思います。
     

    2015年7月9日木曜日

    名曲「さとうきび畑」の歌と沖縄戦

    「ざわわ ざわわ ざわわ」で始まる名曲「さとうきび畑」は、沖縄の本土返還前の1967(昭和42)年に、沖縄戦の激戦地「摩文仁の丘」を訪れた寺島尚彦さん(1930年~2004年、栃木県出身)が、この場所で感銘を受け、作詞・作曲した作品です。

     今回は、全部で11番まである「さとうきび畑」の歌詞から、いくつかを紹介しながら、この曲の歴史と背景にある沖縄戦と平和について、考えてみたいと思っています。

    ♪「さとうきび畑」(作詞・作曲 寺島尚彦) 1番♪
    ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
    ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
    今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる
    夏の ひざしの中で

     「さとうきび畑」は、1967(昭和42)年に愛媛県新居浜市で行われたコンサートで、歌手の田代美代子さんが歌って、初演されました。
     田代美代子さんは、戦争中の1943(昭和18)年に東京都で生まれ、1965(昭和30)年にデビューし、この年に和田弘とマヒナスターズと歌った「愛して愛して愛しちゃったのよ」が大ヒットしました。
     ちなみに、「愛して愛して愛しちゃったのよ」は、1990(平成2)年に、サザンオールスターズがアルバム「稲村ジェーン」の中でカバーしています。
     
     
    ♪「さとうきび畑」 2番♪
    ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
    ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
    むかし 海の向こうから いくさが やってきた
    夏の ひざしの中で

     1969(昭和44)年に、森山良子(1948年東京都生まれ)が「さとうきび畑」をレコード化しました。
     この時代は、「70年安保反対」の平和運動や「沖縄返還運動」が盛んで、「沖縄を返せ」というスローガンが声高に叫ばれていました。
     このような社会情勢の中で、「さとうきび畑」は反戦歌として、当時流行した歌声喫茶などで、広く歌われました。

    <さとうきび畑>




    ♪「さとうきび畑」 3番♪
    ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
    ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
    あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった
    夏の ひざしの中で

     この歌の主人公は、沖縄戦で父を亡くした少女です。彼女は、見たこともない父の面影を、「さとうきび畑」の風の音を聞きながら探す。そんな歌です。
     沖縄戦は、第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年3月~6月に、沖縄で行われた「日本国内唯一の地上戦」で、日米合わせて20万人以上が戦死し、うち94000人は民間人で、沖縄県に住んでいた子供・老人を含む住民の人たちでした。
     この歌が作られるきっかけになった「摩文仁の丘」は、沖縄戦跡国定公園の中にあり、沖縄戦の激戦地の一つです。


    ♪「さとうきび畑」 6番♪
    ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
    ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
    知らないはずの 父の手に だかれた夢を 見た
    夏の ひざしの中で

     1972(昭和47)年に沖縄は日本に復帰し、沖縄県となりました。しかし、多くのアメリカ軍基地は残り、今に至るまで沖縄の大きな負担となっています。
     「さとうき畑」はNHKのみんなの歌で、2回放送されています。
     1度目は、1975(昭和50)年にちあきなおみさん(1947年 東京都生まれ)の歌で放送され、
    2度目は、1997(平成9)年に森山良子さんの歌で放送されました。
     さらに、2001(平成13)年12月には、森山良子さんが「涙そうそう」とのカップリングでシングルCDとして発売し、翌2002年の「日本レコード大賞 最優秀歌唱賞」を受賞しました。


    ♪「さとうきび畑」 8番♪
    ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
    ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
    お父さんて 呼んでみたい お父さん どこにいるの
    このまま 緑の波に おぼれてしまいそう
    夏の ひざしの中で

     「さとうきび畑」は、森山良子さんがライフワークのように歌い、2005(平成17)年には、長男の森山直太朗さんと「NHK紅白歌合戦」でデュエットしています。
     もちろん、「さとうきび畑」は、ほかにも多くの歌手がカバーしています。たとえば、クラッシク系の新垣勉さんや鮫島有美子さん、アニソンの女王と言われる堀江美都子さん、ポピュラー系では夏川りみさんや松浦亜弥さんなどです。
     かつて「歌声喫茶」で歌われた「さとうきび畑」は、広く日本中で歌われる歌となっています。


    <さとうきび畑歌碑 (沖縄県読谷村)>



    ♪「さとうきび畑」 10番、11番♪
    ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが
    ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる
    風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい
    夏の ひざしの中で

    ざわわ ざわわ ざわわ 風に 涙はかわいても
    ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない

     2003(平成15)年9月、TBSで「さとうきび畑の唄」というこの曲をモチーフにしたドラマが放送されました。
     主演の明石家さんまさんをはじめ、黒木瞳さん、仲間由紀恵さん、坂口憲二さんなどが、沖縄を舞台に熱演し、26.4%という高い視聴率を記録し、芸術祭テレビ部門大賞を受賞しました。
     「さとうきび畑」という平和の歌が、いつまでも歌われる日本であってほしいと願います。
     また、みんなでそういう日本を守らないといけないと思います。

     最後に、「さとうきび畑」が、夢の燃料になるかも知れないという話をします。

     さとうきびから作られる自然にやさしい「バイオエタノール」を燃料に、車を走らせる研究が、沖縄などの国内研究所で進んでいるそうです。
     うまくいけば、石油の利権で戦争をしたりしなくてもすむ、平和の象徴に「さとうきび畑」がなるかも知れませんね。


    一首: 「海風に 平和を歌う さとうきび  涙と笑顔 勇気ささやく」

      

    2015年7月7日火曜日

    「サラダ記念日」と「七夕(たなばた)」

     7月6日は「サラダ記念日」、そして7月7日は「七夕(たなばた)」です。
     今回は、7月上旬のこの2つの行事・記念日について、紹介します。

     まず、「サラダ記念日」についてです。

    「『この味がいいね』と 君が言ったから 七月六日は サラダ記念日」

     印象的なこの歌(短歌)は、1987(昭和62)年に俵万智(たわら・まち 1962年大阪府門真市生まれ)さんが出した歌集「サラダ記念日」(河出書房新社)に収録されているもので、280万部のベストセラーになりました。
     昭和の末期の作品ですが、今でも、7月6日は「サラダ記念日」と言われています。

     ところが、俵万智さん本人のツイートでは、君(当時の恋人)が「この味がいいね」と言ったのは、本当はサラダではなく、「鶏のから揚げ」にカレー味をつけたものだったそうです。

     君が言った日も「7月6日」ではなかったそうで、サラダと同じSで始まる「7月」の七夕という特別な日の前日の何でもない日、「7月6日」を記念日に選んだそうです。

     ということは、

    「『この味がいいね』と君が言ったから 七月七日は鶏のから揚げ」
    になっていた「恐れ?」もあったようですね。
     こうならなくて、よかったですね。やれやれ。



      

      次は、「七夕(たなばた)」の話です。

      7月6日の夜から7月7日にかけて行われる行事「七夕」の主な神事は、7日の「夜明けの晩(午前1時頃)」に行われるものです。

     万葉集にも
    「たなばたの 今夜あひなば つねのごと 明日をへだてて 年は長けむ」
    と詠まれているように、奈良時代にはすでに、「たなばた」という言葉が登場しています。

     今のように、笹に「願いごと」を書いた短冊をつけて飾るようになったのは、江戸時代と言われています。
     明治5(1872)年に東京で生まれた作家・岡本綺堂の「半七捕物帳」には、江戸の子供たちが、7月6日に短冊に習字で「清書」して、7日の夜明けの晩に飾ったという記述が見られます。

     今では「七夕」は、7月上旬に行う地域(例:神奈川県平塚市「湘南ひらつか七夕まつり」 7月第1週金・土・日)と、月遅れの8月上旬に行う地域(例:宮城県仙台市「仙台七夕まつり」8月6日~8日)、そして旧暦の7月7日に行う地域(今年は8月20日)の、大きく3つに分かれています。

     七夕は、本来は「女子のまつり」の色彩が強く、機織りなどの技能上達を祈ったとも言われています。
     しかし、もう一つの側面としては、1年に1度だけ天の川を渡って会えるという「織女と牽牛」の伝説に象徴されるように、「男女の出会いの日」であったとも言われています。
     
     今年(2015年)の「湘南ひらかた七夕まつり」は雨だったようですが、8月6日~8日の「仙台七夕まつり」や、旧暦の七夕の日(8月20日)には晴れて、恋人たちに天の川を渡って再会して欲しいものです。


    ♪ 文部省唱歌 「たなばたさま」

    作詞:権藤はなよ、作曲:下総皖一

    1 ささの葉さらさら 
      のきば(軒端)にゆれる
      お星さまきらきら
      きんぎん砂子

    2 五色のたんざく
      わたしがかいた
      お星さまきらきら
      空からみてる





     おしまいに、「サラダ記念日」と「七夕」を結びつける話を紹介します。

     「サラダ記念日」の作者俵万智さんは結婚せずに男の子を設け、「七夕まつり」で有名な宮城県仙台市で子育てをしていました。
     ところが、2011年3月11日の「東日本大震災」に遭遇し、沖縄県石垣島へ子供と移住し、現在は、南国の島で「子育てと創作活動」をしています。

     そんな俵万智さんの「七夕」を詠んだ歌を紹介します。
    「天の川 君と二人の ベッドから 七夕の星の 別れ見ていた」(俵万智)


     最後に私も1首。
    「ロマンスと 花火消えゆく 七夕に ため息一つ 星に願いを」

     

    2015年7月6日月曜日

    祝W杯準優勝!「なでしこジャパン」の選手・監督の名言

     サッカー日本女子代表「なでしこジャパン」が、FIFA女子ワールドカップ(W杯)の「2015年カナダ大会」で、決勝進出を決め、準優勝しました。

     「2011年ドイツ大会」に続き連続でW杯決勝進出を決めた、「なでしこジャパン」の選手・監督の名言を紹介します。(宮間あや選手は前回のブログで紹介しました。)


     まず初めは、2011年ドイツ大会のキャプテンだった澤穂希選手(さわ・ほまれ 1978年東京都府中市生まれ)の言葉です。

    ・「苦しくなった時は、私の背中を見なさい」(試合前のミーテイングでチームメイトに)

    ・「サッカーの神様などいない。頼れるのは自分だけ。」

    ・「夢は見るものではなく、叶えるもの。」

     サッカー女子日本代表の大黒柱の澤穂希選手は、36歳になります。
     1993年から日本代表選手になり、ワールドカップにはカナダ大会を含めて6回出場、オリンピックには4回出場するなど、国際Aマッチ(年齢制限のない代表チーム同士の国際公式試合)に200試合以上出場しています。

     その間、国際Aマッチで83得点を挙げ、W杯で優勝した2011年には、W杯の得点王とMVPに輝き、「FIFA年間最優秀選手」にも選ばれています。

     彼女のサッカー人生は順風満帆のように見えますが、実は苦労の連続でした。
     特に、W杯に優勝する直前の2011年1月には、日テレからプロ契約を打ち切られ、大野忍選手らと「INAC神戸」へ移籍しています。

     こんな苦しみを経験したからこそ、「頼れるのは自分だけ」「夢は叶えるもの」という言葉を座右の銘にしているのかも知れません。
     カナダ大会では、出場機会は少ないですが、チームの精神的柱・レジェンドとして、澤穂希選手の存在は何者にも代えられません。


    <サッカーボール>




     次は、「なでしこジャパン」の中でも、最も人気のある選手の1人、川澄奈穂美選手(かわすみ・なほみ 1985年神奈川県大和市生まれ)の名言です。

    ・「私、負けて泣くのは自分の中では無しなんで、絶対泣かないんですよ。
     泣いて上手くなるなら、いくらでも泣きます。でも、そうじゃない。
     だから、勝って泣きたい。」

    ・「(W杯カナダ大会の)プレーシャーはないです。私が感じないタイプなのかも。でも、危機感は   あります。凄く。」

     川澄奈穂美選手は美人で、前回のドイツW杯では「おしゃれ番長」とも言われていましたが、大会前半は出場機会に恵まれませんでした。

     しかし、準決勝のスウェーデン戦で先発すると、2ゴールを挙げ、一躍、シンデレラガールと言われて、その後は「プレーシャーに負けず」に実力を発揮し、「なでしこ」のレギュラーになりました。
     蛇足ですが、川澄選手の「恋人は彼女」というカミングアウトも、話題となりました。


    <カナダ・バンクーバーにある決勝の舞台 BCプレース>




     続いては、「なでしこジャパン」の佐々木則夫監督(ささき・のりお 1958年山形県尾花沢市生まれ)の言葉です。

    ・「選手は、乗客ですよ。間違っても、選手は馬ではない。
     監督の仕事とは、選手をムチで叩いて走らせることではなくて、選手が告げた行き先まで、選手を導くことなんです。」

    ・「持っているのは俺じゃないよ。お前たちだ。運の話じゃないぞ。
     世界で勝つための能力を、お前たちは持っているんだ。」

    ・「成功の反対は失敗ではなく、やらないことだ。」
     
     2007年12月に「なでしこジャパン」の監督に就任し、2011年にドイツワールドカップで初優勝に導いた佐々木監督の言葉は、謙虚ですね。
     時々、「おやじギャグ」(例:「コンゴの監督は、今後考えます」)も混じります(笑)が、ほとんどの言葉には重みがありますね。

     佐々木則夫監督は、2011年に「FIFA女子世界年間最優秀監督賞」を受賞し、「なでしこ」の選手とともに、国民栄誉賞も受賞しました。
     さらに、2012年には「ロンドン・オリンピック」で銀メダルを獲得し、今回の2015年カナダワールドカップでも、再び、「なでしこ」を決勝に導きました。


    <白いクマ>

     



     最後は、安藤梢選手(あんどう・こずえ 1982年栃木県宇都宮市生まれ)と「2匹のクマ」のエピソードを紹介します。 

     「なでしこジャパン」には、白と黒の2匹のクマのぬいぐるみがいます。
     黒いクマは、W杯初戦のスイス戦で、先取点となるPKを取りながら相手ファールで左足を骨折し、日本へ帰国し手術を受けた安藤梢選手に、佐々木監督が贈ったものです。

     もう1頭の白いクマは、安藤選手の代わりに「背番号7」をつけて、「なでしこジャパン」のベンチに座っています。

    ・「必ずみんなで2連覇を達成してくれるはず。私は気持ちの中で戦いたいと思います。」

     そう言った安藤梢選手の言葉と白いクマのぬいぐるみは、残る22人の「なでしこジャパン」の選手の心の支えとなり、決勝までチームを導きました。

     2015年7月6日朝(日本時間)の宿敵・アメリカ合衆国との決勝戦には、「23人目のなでしこ」として、手術を終えた安藤梢選手が、決戦の地、カナダ・バンクーバーへ、日本から駆けつけました。

     「なでしこジャパン」は、過去アメリカと30戦して、1勝23敗6分けと、非常に分が悪く優勝はできませんでした。

     でも、23人に戻った「なでしこジャパン」の選手たちの活躍は、日本中に勇気をくれました。
     来年のオリンピックに、期待したいと思います。


     がんばれ! なでしこジャパン
     

    2015年7月1日水曜日

    なでしこジャパンの主将・宮間あや選手「旅館の清掃員から世界一に」

     サッカー日本女子代表「なでしこジャパン」が、「2015年FIFAワールドカップ・カナダ大会」で、4年前のドイツ大会に続いて、準決勝に進出しました。

     今回は、この「2015年なでしこジャパン」でキャプテンを務め、初戦のスイス戦で決勝ゴールを挙げた、「永遠のサッカー少女」とも言われている宮間あやさんを中心に紹介します。

     2011(平成23)年7月17日、女子ワールドカップドイツ大会決勝で、日本(なでしこジャパン)がPK戦の末、強豪アメリカに勝って初優勝した時、日本選手の中でただ1人、日本チームの歓喜の輪に入るより先に、落胆するアメリカチームの選手に駆け寄り、健闘を讃えた選手がいました。
     それが、宮間あや選手でした。

     彼女はこう言いました。
    「相手がいないと試合はできない。だから、試合中は敵だけど、試合が終わればひとりのサッカー仲間です。相手にも、そう思ってもらえるようなチームでありたいと思いますし、自分たちも相手にそういう敬意を持って戦わなきゃいけないと思っています。」
     
     ラグビーの「ノーサイド(試合が終われば敵味方はない)」という言葉は、よく言われますが、いざ、世界一になった瞬間に、宮間選手のように、自分の歓喜よりも敗者へのいたわりを優先することは、容易なことではありません。
     2011年のなでしこのキャプテン・澤穂希選手が、後継者に彼女を指名したのも頷ける、すばらしい選手だと思います。

    <千葉県大綱白里市の海岸>



     宮間あや(みやま・あや)さんは、1985(昭和60)年1月28日に、千葉県大網白里市(旧大網白里町)に生まれました。
     小学校1年生の時から、父が監督を務めるサッカーチームに入り、小学校5年生の時には、国際交流イベントの親善大使としてアメリカのサンディエゴで海外チームとの試合を経験しました。
     小学6年の時には、中1男子チームに混じって県大会に出場しVゴールを決めて優勝しました。

     中学・高校と、女子サッカーチーム「NTVベレーザ」(現在の「日テレベレーザ」)などで活躍しますが、千葉県立幕張総合高校2年の時に退団します。高校の男子サッカー部にも入りますが、女子であるため登録ができませんでした。

     2001(平成13)年、高校3年生で「岡山湯郷Belle」に第一期生として入団し、岡山県美作市の温泉旅館「季譜の里」で、清掃のアルバイトをしながら女子プロサッカー選手としての生活をスタートさせました。

    <岡山県 湯郷温泉>



     2003(平成15)年に日本代表に招集され、「2003年アメリカ大会」と「2007年中国大会」の2つのワールドカップに出場しますが、いずれもグループリーグで敗退しました。

     このころの日本女子サッカー代表チームは、2004年に「なでしこジャパン」の愛称をもらい、ワールドカップやオリンピックに、度々、出場しますが、本大会ではあまりいい成績を挙げられませんでした。

     しかし、2008(平成20)年に、現在の佐々木則夫監督が就任してからは、「なでしこジャパン」は徐々にチーム力を挙げ、宮間選手も、ミッドフィルダーとしてチームの中心選手の1人となります。

     そして、2011年の「FIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会」で優勝し、翌2012年の「ロンドン・オリンピック」でも、銀メダルを獲得しました。
     宮間選手は、ドイツ・ワールドカップでは決勝戦を含む2ゴール、ロンドン・オリンピックでも1ゴールを挙げる活躍をしました。

     「なでしこジャパン」の「なでしこ」は、清少納言の書いた『枕草子』にも、「草の花はなでしこ、唐のはさらなり  やまともめでたし」と紹介されるなど、古くから日本で愛され日本女性に例えられる「大和撫子」から取られたと言われています。
     2011年は、まさに、日本の「なでしこ」が、世界に羽ばたいた瞬間だと言えます。

      蛇足ですが、「なでしこジャパン」以外の愛称候補としては、「日本サッカー協会のシンボル」の神の使いで3本足の「八咫烏(やたがらす)」に因んだ「ヤタガール」や、「エル(=ladyの頭文字)ドリームl」などが、あったそうです。
     やっぱり、「なでしこジャパン」がいいですね。(「なでしこジャパン」は、2011年新語・流行語大賞を受賞しています。)

    <なでしこの花>


      
     最後に、「旅館のアルバイト清掃員から世界一」になった宮間あや選手の言葉を、もう一つ紹介します。

    「私には私の夢があるように、夢や目標は一人ひとり違うもの。ですから、いまやりたいことが見つからなくても焦らなくていいんじゃないかな。
     深く考え込まずに、まずは自分が笑顔で過ごすにはどうすればいいのか、何をしていると笑顔になれるかを考えてみて欲しい。その中からふと答えが見つかるかもしれません。」

     すごく元気が出る言葉ですね。

     ちなみに、「なでしこジャパン」の準決勝は日本時間の7月2日朝で、相手はイングランドです。
     勝てば、決勝は日本時間の7月6日朝で、相手は「アメリカ対ドイツの勝者」です。

     がんばれ、「なでしこジャパン」。
     がんばれ、宮間あや選手!