2018年12月9日日曜日

アイドルの坂道(18)夢の紅白総選挙で1位になった「さや姉・山本彩」さんが卒業 ~無限の可能性をもつ紙飛行機~

 2018(平成30)年10月27日、大阪の万博記念公園で、AKB48グループのNMB48の「さや姉」こと、山本彩さんの「卒業コンサート」が開催され、3万人が参加しました。

 今回は、NMB48(大阪・難波)の1期生で、2年前に卒業した渡辺美優紀(みるきー)さんとツートップでNMB48を支え続け、2016年のNHK紅白歌合戦で行われた「夢の紅白選抜」では、指原莉乃さんらを抑えて、見事、1位に輝いた山本彩(やまもとさやか)さんを紹介します。



 山本彩さんは、1993(平成5)年7月14日、大阪府茨木市で生まれました。
 兄弟は、兄2人と姉1人がいて、ニックネームの「さや姉」とは違って、本当は4人兄弟の末っ子です。 
 お母さんは17歳の若さで結婚し、朝日放送テレビの「新婚さんいらっしゃい」に出演したこともあるそうです。


 山本彩さんは、小学校2年生から大阪のダンススクール「リトル・キャット」に姉とともに入り、
2008年、14歳の時には、姉らと組んだバンド「MAD CATZ」で、メジャーデビューしました。

 学校では、小学校5年から中学校3年まで学級委員長を務め、高校2年の時には生徒会長も務めました。天性の人気とリーダーシップがありました。



< 写真 山本彩さんのふるさと「大阪府茨木市」>




 
 
 山本彩さんは、2010(平成22)年9月、AKB48グループの「NMB48」(エヌエムビー・フォーティエイト、NMBは大阪市難波からとった)の1期生のオーデションに合格しました。
 翌10月の「AKB48・東京秋祭り」で、NMB48の1期生の26人とお披露目され、代表して山本さんがあいさつをしました。

 2011(平成23)年1月、NMB48のキャプテンに就任し、同年7月20日にはNMB48の一員として「絶滅黒髪少女」(センターは渡辺美優紀さん)でデビューしました。(オリコン1位)

 山本彩さんは、NMB48のデビュー前の2011年4月に、早くもAKB48本体の21枚目のシングル「Everyday,カチューシャ」の選抜メンバーに選ばれ、6月の「第3回AKB選抜総選挙」では、NMB48から唯一、40位以内の28位に選ばれました。


 その後も、2011年11月発売の2枚目シングル「オーマイガー」でWセンターの1人に選出され、2012年3月発売の3枚目のシングル「純情U-19」では、初めて表題曲の単独センターに選ばれるなど、山本彩さんは順調に、NMB48の中心メンバーに育っていきました。


 2012年11月、NMB48が「大阪マラソンチャリテイ・サポーター」に選ばれた時、こんなエピソードが伝えられています。
 山本彩さんたちNMB48のメンバーは、ゴールで参加者を応援する役割でした。

「どうせアイドルなんて、すぐ帰るだろう。」と関係者は思っていましたが、山本彩さんたちNMBのメンバーは、11月の寒空の中、半袖で一生懸命に参加者の世話をし続けました。
 予定の時間をはるかに過ぎても頑張る山本さんたちを見て、マラソンのスタッフたちは、NMBの山本さんたちのファンになったそうです。


 その後も、山本彩の活躍は続き、2012年6月の「第4回総選挙」で18位、2013年6月の「第5回総選挙」では14位になり、AKB48本体の選抜入りを果たしました。
 
 山本彩さんは、2014(平成26)年2月にAKB48との兼任となり、その年の「第6回総選挙」では6位、2015年の「第7回総選挙」でも6位となり、AKB48本体の中心メンバーの1人になりました。

 この2015年8月に声帯手術を受けました。
 その翌月の9月末からNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のテーマ曲として採用されたのが、名曲「365日の紙飛行機」で、山本彩さんがセンターを務め、ソロでもギターの弾き語りで歌いました。
 「365日の紙飛行機」は、最初は「唇にBe My Baby」のカップリング曲(いわゆるB面)でした。

 しかし、「365日の紙飛行機」は、AKBを知らない年配の人もCDショップに現れ、「365日の紙飛行をくれ」というお客さんに、店員が「AKB48のですか」と聞くと、「AKBじゃないよ。365日の紙飛行機だよ。」と言い張った客が何人もいたそうで、AKB48という枠を超えて、多くのファンを獲得し、ついに両方A面の扱いになり、100万枚を超す大ヒットになり、AKB48の代表曲の一つにまでなりました。

 また、アジアツアーなどでも、「365日の紙飛行機」が観客たちの多くが、日本語で歌詞を合掌するなど、外国でも愛されています。


 「365日の紙飛行機」が大ヒットした翌2016年には、センターの山本彩さんは、6月の「第8回総選挙」で自己最高の4位になり、12月のNHK紅白歌合戦の企画で実施された「夢の紅白選抜」の視聴者投票では、指原莉乃さんや渡辺麻衣さんら総選挙1位の経験者を抑えて、見事トップに山本彩さんがなりました。


<写真 山本彩さんの卒業ライブのポスター>





 それでは、名曲「365日の紙飛行機」♪の歌詞を紹介します。



♪「365日の紙飛行機」(作詞:秋元康、作曲:角野寿和・青葉紘季)♪


朝の空を見上げて 今日という1日が
笑顔でいられるように そっとお願いした

時には雨も降って 涙も溢れるけど
思い通りにならない日は
明日 頑張ろう

ずっと見てる夢は
私がもう一人いて
やりたいこと 好きなように
自由に できる夢

人生は紙飛行機
願い乗せて 飛んで行くよ
風の中を力の限り
ただ進むだけ

その距離を競うより
どう飛んだか どこを飛んだのか
それが一番大切なんだ
ああ 心のままに 
365日




 さや姉の卒業コンサートは、2018年10月27日に「大阪万博記念公園」で行われ、かつての盟友で2年前に卒業した渡辺美優紀(みるきー)さんをはじめ、NMB48の1期生24人が集まり、3万人の観客が集まりました。

 このコンサートで、さや姉が言った言葉を最後に紹介します。

「この8年は、NMB48にすべてを捧げて生きてきました。
 それも責任感だけではなく、自分自身がしたかったんです。
 NMB以上のものはなかったし、私はNMB48が大好きで、大切で、何よりも守りたかったんです。

 卒業する身の私が、これからみんなの、NMBの道しるべになれるように、私自身、もっともっと精進して、自分に厳しく、みなさんを幸せにできるように、頑張っていきます。
 8年間、本当に最高でした。ありがとう、ございました。」


 山本彩さんは、今後、シンガーソングライターとしてソロ活動をするそうです。

 その山本彩さんが、二十歳の誕生日にファンからもらった花に、「レインボーローズ」という花がありました。
 白いバラを、虹色に着色したものですが、この花言葉が「無限の可能性」です。

 この「レインボーローズ」を、山本彩さんが気に入り、2016年発売の山本彩さんのファーストアルバム「Rainbow」の名前にも取り入れ、その名も「レインボーローズ」という本人が作詞・作曲の曲をアルバムに入れています。

 最後に、この曲を紹介します。


♪「レインボーローズ」(作詞・作曲・歌 山本彩)♪


♪(2番から)
近づいて離れて 立ち止まって また歩いて
答え合わせの毎日
弱い自分がただ嫌いだった でも君は
そんな僕を 受け止めてくれた

果てしなく続く 空の向こう 広がる世界は
どんな景色だろう わからないけど
君と二人で 見てみたいんだ

明日 世界が終わっても 後悔しない
そう思える生き方をしたいと思った
いつだって僕は思い出す 昨日の自分にサヨナラ
胸の奥に「無限の可能性」

リセットしたって 地球は同じようにまわるんだ
何度でも 僕は僕を 生きていくよ

明日世界が終わるなら何をしようか
君に笑っていてほしいから 僕は歌おう

明日世界が終わっても後悔しない 
そう思える生き方をしたいと思った
あの日 君がくれた花を 忘れはしない
虹色の花言葉は 「無限の可能性」♪


 シンガーソングライターとしての山本彩さんが、「無限の可能性をもった紙飛行機」として活躍し、
いつか「ソロで紅白に出る」という幼いころの夢を叶えてほしいと、願っています。



2018年9月2日日曜日

ジブリの聖地「金長神社」が風前の灯 ~愛犬の死と名曲「いつでも誰かが」♪~

​​​ 1994(平成6)年7月、高畑勲監督のジブリ映画「平成狸合戦(へいせいたぬきがっせん)ぽんぽこ」が公開され、この年、1994年の邦画映画収入トップの26億円を記録しました。

 今回は、このジブリ映画の聖地の一つである「金長神社(きんちょうじんじゃ)」が、存続の危機に陥っている。という話を紹介します。


 まず、「平成狸合戦ぽんぽこ」のあらすじの前半を紹介します。
 
 昭和40年代(1965~1974年)、多くのタヌキが平和に暮らしていた多摩丘陵(たまきゅうりょう・主に東京都)に、開発の話が持ち上がります。
 「多摩ニュータウン」の建設です。

 タヌキたちは総会を開き、タヌキ伝統の「化学(ばけがく)」の術の習得と、四国などのタヌキ先進地のタヌキの応援を得て、開発や自然破壊をしようとする人間と戦う決心をしました。

 この決定を受け、多摩丘陵のタヌキの使者「玉三郎」は、四国の小松島の金長神社に、六代目金長狸を訪ね、応援を依頼しました。
 この時、金長狸が住む「金長神社」を忠実に再現したシーンが映画に出てきて、神社内には映画の中の「金長だぬき」にそっくりの人形もあるため、実在する「金長神社」は、ジブリ映画の聖地となりました。


<写真 金長神社にある金長だぬき像 (徳島県小松島市)>



 ところが、この金長神社が奇しくも多摩丘陵と同じように、人間の開発のために消滅の危機に瀕しています。

 金長神社(正式名は「金長大明神」)のある小松島市の「日峰大神子(ひのみねおおみこ)広域公園」が、市の再整備で防災公園になろうとしているのです。

 金長神社の土地は、実は小松島市の土地を「金長奉賛会」という住民団体が借りて運営していたのですが、再開発をすると現在の「都市公園法」の規制を受けることになり、神社を移設することが難しくなるそうなのです。(小松島市の話)

 これに対し、「金長神社」の存続をもとめる住民団体「金長神社を守る会」が、存続を求める署名活動を、手書きとインターネットで行いました。
 あまりPRできていなかったにもかかわらず、2018(平成30)年4月から7月まで行われた署名活動で集まった署名は、1万186筆集まりました。
 署名は、小松島市内や徳島県内はもちろん、全国、そしてインターネットで、アメリカ、中国、韓国、スペインなど世界からも集まりました。県外・外国の署名の多くは「ジブリファン」、特に高畑勲ファンだと言われています。

 この署名は、7月31日に、小松島市の浜田市長と武田市議会議長に届けられました。
 みんなの願いが届けられ、存続が決まるといいですね。


 高畑勲(たかはた・いさお)監督は、1935年三重県生まれで、2018年4月5日に肺がんのため82歳で亡くなられました。
 
 東京大学文学部を卒業し、アニメの演出や監督として活躍しました。 
 主な監督作品としては、「じゃりんこチエ」(1982年)、「火垂るの墓」(1988年)、「おもいでぼろぼろ」(1981年)、「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994年)、そして「かぐや姫の物語」(2013年)など、多くの作品を手がけました。
 その中でも、「平成狸合戦ぽんぽこ」は、興行収入トップの24億円を記録した代表作品です。



  実は、「金長神社」が建設には、四国のたぬき伝説「阿波狸合戦」と、「平成狸合戦ぽんぽこ」以外の映画も深く関係しています。
  
 金長神社は、1956(昭和31)年に当時の大映社長の永田雅一さんが、金長だぬきが主演する映画「阿波狸合戦」が空前の大ヒットして、映画会社を立て直してくれたことに感謝して建てたものです。
 商売繁盛や開運にご利益があると言われています。

 永田雅一(ながた・まさいち)さんは、1906年京都市中京区生まれで、「大日本映画製作(大映)」の社長となり、カンヌ国際映画祭でグランプリをとった黒澤明監督の名作「羅生門」などを製作しました。

 また、プロ野球「大映スターズ」のオーナーに就任し、1953年には初代のパシフィックリーグ(パリーグ)の初代総裁にもなっています。

 ほかにも、1951(昭和26)年に10戦10勝で日本ダービーを制した名馬「トキノミノル」のオーナーでもありました。(トキノミノルは、ダービーの17日後に無敗のまま死亡しています。)


<金長だぬきが祭られている「金長神社」(徳島県小松島市)>





 ここからは、金長だぬきが主役の四国に伝わるたぬき伝説で、映画の題材にもなった「阿波狸合戦」について、紹介します。


 時は、江戸時代の後半、天保年間(1830年~1844年)の話です。
 小松島の日開野(ひかいの・現徳島県小松島市日開野町)にあった染物屋「大和屋」の茂右衛門(もえもん)が、人間のいじめられていた1匹の狸を助けました。

 やがて、大和屋に勤める万吉という丁稚にたぬきが憑いて話はじめました。
「私は、茂右衛門さんに助けられた206歳になるタヌキで、金長と言います。命を助けられたお礼に、ここで働かせていただきます。」
 これ以降、大和屋は次第に、繁盛していきました。

 やがて、金長だぬきは茂右衛門からしばらく暇をもらって、阿波(徳島)のたぬきの総大将「津田(徳島市津田町)の六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出ます。
 そこで、抜群の成績を収めた金長だぬきを、津田の六右衛門は自分の娘婿にと誘いますが、金長だぬきは茂右衛門への義理を果たすため、小松島へ帰ります。

 津田の六右衛門は、「金長をこのままにしておいたら、いずれ俺の強敵になる」と考え、子分たちと夜襲をかけます。
 命からがら夜襲を逃れた金長だぬきは、仲間のたぬきを集めて勝浦川(かつうらがわ・徳島市と小松島市の間にある川)の河原で、六右衛門軍と一大決戦を行います。

 金長軍、六右衛門軍、双方あわせて1200匹ともいわれる「たぬき合戦」が、勝浦川で戦い、激戦の末、金長は六右衛門を討ち取りました。
 しかし、金長だぬきも、この時の戦の傷がもとに亡くなってしまいます。

 大和屋の茂右衛門は金長だぬきを偲び、京都まで上って「正一位」の位をもらって、「金長大明神」として、お祀りしました。

 これが四国に伝わる「阿波狸合戦」という伝説です。
 徳島市や小松島市には、この伝説に因み、「たぬき郵便局」をはじめ、「「金長まんじゅう」や「六右衛門まんじゅう」というお菓子、さらには「金長たぬき郵便局」や「世界最大のたぬきの銅像」、さらには、「たぬきが車体に描かれたバス」まで、走っています。

 この伝説をもとに作られたのが、映画「阿波狸合戦」で、戦後、すぐに全国的に大ヒットしました。
 一方、この伝説をもとに、平成になってジブリの高畑勲監督が作ったのが金長だぬきの六代目が活躍するのがジブリ映画の「平成狸合戦ぽんぽこ」なのです。

  平成が終わろうとする今、「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台の一つの「金長神社」が撤去の危機にあるのも、皮肉ですね。


<写真 「平成狸合戦ぽんぽこ」の主要舞台 多摩丘陵と多摩ニュータウン(東京都西部)>




 それでは、「平成狸合戦ぽんぽこ」の後半の部分を紹介します。
 
 化学(ばけがく)を使って多摩丘陵の開発を阻止しようとするタヌキたちですが、開発中止には失敗します。
 この時、タヌキ先進地の四国に応援を依頼していた玉三郎が、六代目金長をはじめ、有名な四国のタヌキたちを連れて多摩丘陵に戻ってきます。

 タヌキたちは、化学(ばけがく)を駆使して「多摩ニュータウン」の建設阻止のために、百鬼夜行など懸命に戦います。
 この時、どさくさに紛れて(?)、ジブリのキャラクターである「となりのトトロのトトロ」や「魔女の宅急便のキキ」、「おぼひでポロポロの岡島タエ子」など、ジブリのスターたちが登場します。
 これも、映画の見どころですね。


 結局、多くのタヌキたちは戦死し、残ったタヌキたちは、人間に化けて人間の世界に入り込んで生きていくことになります。
 少し、淋しい結論ですが、それでも全滅するよりも、いいのかも知れません。



 この映画の主要舞台となった多摩丘陵は、東京都稲城市、多摩市、八王子市、町田市にまたがる丘陵で、ここに昭和40年代はじめから「多摩ニュータウン」の建設が進められました。

 平成22(2010)年現在、多摩ニュータウンの人口は21万人を数えますが全人口の16%が高齢者になっています。
 タヌキたちに勝利した人間も、高齢化には勝てないようです。
 もちろん、その人口の数%はタヌキなのかも知れませんが、数字はもちろん非公表です。(笑)


  最後に、「平成狸合戦ぽんぽこ」のエンディングテーマ曲を紹介します。


  
♪「いつでも 誰かが」(作詞・作曲 紅龍 歌・上々颱風) ♪


いつでも誰かが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を
心がふさいで 何も見えない夜
きっときっと誰かが いつもそばにいる

生まれた街を 遠く離れても
忘れないでおくれ あの町の風を
いつでも誰かが きっとそばにいる
そうさ きっとおまえが いつもそばにいる

雨の降る朝 いったいどうする
夢からさめたら やっぱり一人かい
いつでもおまえが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を

争いに傷ついて光が見えないなら
耳をすましてくれ きっと聞こえるよ
涙も痛みも いつか消えてゆく
そうさ おまえの微笑みがほしい

風の吹く夜 誰かに会いたい
夢に見たのさ おまえに会いたい

いつでもおまえが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を♪



<写真 おじいちゃんとおばあちゃんに抱かれる故・名犬チワ>




 「平成狸合戦ぽんぽこ」が上映されたのは1994(平成6)年でした。
 それから24年が過ぎ、この映画のスタッフにも、故人になった人が多く出ています。

 まず、ナレーションをしていた三代目古今亭志ん朝さんは、2001年に63歳で亡くなられました。
 また、多摩丘陵の最長老たぬきの声を担当した五代目柳家小さん師匠も、2002年に87歳で他界され、同じ2002年には、多摩丘陵のおばあさんたぬき「おろく婆」の声を担当した清川虹子さんも、89歳で亡くなられています。

 ほかにも鈴ヶ森の長老たぬき「青左衛門」の声を担当した三木のり平さんは1999年に74歳で亡くなられ、六代目金長の声を担当した三代目桂米朝さんも2015年に89歳で亡くなられました。
 そして、今年、2018(平成30)年には、高畑勲監督が82歳で他界されました。

 「しかし、この変わりようは激しすぎる。だまされているのはこちらじゃないか。」
という、「平成狸合戦ぽんぽこ」の中のたぬき「文太」の言葉が、しみじみと胸にしみます。

 蛇足ですが、今日(2018年9月2日)、このブログでも紹介した我が家の「噛まない・吠えない」チワワのチワも他界してしまいました。(チワの話はまた、別に紹介させてください。)


 最後に、高畑勲監督の名言を一つ、紹介します。
「与えられた仕事がつまらない」とか、「教育してくれない」とか「自分の才能を生かしてくれない」などと、会社が自分のほうを向いてくれないことにただ不満をつのらせるだけではどうにもなりません。
 そんなヒマがあったら、その間に自分でおぼえられるものは、みんなおぼえようとすればいい。


 金長神社も、高畑勲監督の仕事も、愛犬チワの思い出も、平成のその先の時代まで
残していきたいと思う「平成最後の夏の終わり」の私です。


一句「平成も 夏も過ぎ去る 涙の9月」






2018年8月18日土曜日

アイドルの坂道(17)乃木坂46の顔・白石麻衣さん~不登校からCM女王に~

 2017(平成29)年11月に「東京ドーム公演」を成功。
続いて同年12月には「日本レコード大賞」受賞と3年連続「NHK紅白歌合戦出場」。
 まさに、日本のアイドル界の頂点に立った「乃木坂46」です。

 その乃木坂46を引っ張る「乃木坂の顔」と呼ばれている白石麻衣(しらいし・まい)さんを、今回は紹介します。


 白石麻衣さんは、1992(平成4)年8月20日、群馬県沼田市の生まれです。
 小さい頃の夢は「ケーキ屋さん」でした。

 中学では、吹奏楽部に入り、続いてソフトボール部に転部しました。
 ソフトボール部では、4番セカンドでホーウランも量産して活躍しました。
 ところが、友達の陰口がきっかけで不登校になり、引きこもりになりました。
 このことがあって、白石さんは今でも、あまり群馬県出身という話をしたがりません。


 中学を卒業すると、白石麻衣さんは、母親とともに埼玉県に引っ越し、さいたま市浦和区にある「小松原女子高校(現・浦和黎明高校)」に進学しました。

 高校卒業後、東京都江戸川区西葛西にある「東京スクールオブミュージック専門学校」に入りました。
 2011年、その専門学校の担任の先生から、「オーディションを受けてみたら」と勧められたオーディションが「乃木坂46」の1期生募集でした。


 白石麻衣さんは人前に出るのが苦手で、アイドルには興味がありませんでした。
 それでも、「引っ込み思案の小さいころからの自分を変えて、不登校や引きこもりの弱い自分をリセットしたい。」という気持ちで、乃木坂46受験を決意しました。

 
 2011(平成23)年8月21日、白石麻衣さんが19歳の誕生日を迎えた翌日、1081倍(応募者38、934人から36人が合格)の倍率を見事突破して、白石麻衣さんは乃木坂46のオーディションに合格しました。



<写真 白石麻衣さんが通っていた東京スクールオブミュージック専門学校(東京都江戸川区)>






 
 翌2012(平成24)年2月22日に、白石麻衣さんをはじめとする乃木坂46は、AKB48の公式ライバルとして、「ぐるぐるカーテン♪」でメジャーデビューしました。


 白石麻衣さんは、このデビュー曲で「福神」と呼ばれる1列目・2列目の「フロント選抜メンバー」に選ばれて以来、2018年8月8日発売の21枚目のシングル「ジコチュウで行こう♪」まで、6年半の間、ずっと「福神」でいる乃木坂46の唯一のメンバーです。


 生駒里奈さんがデビュー以来5曲連続続けてきた乃木坂46のセンターを、2013年7月発売の6枚目シングル「ガールズルール♪」で、白石麻衣さんが引き継ぎ2代目センターとなりました。

 このあと、白石さんは、2015年10月発売の13枚目シングル「今、話したい誰かがいる♪」、2017年3月発売で日本レコード大賞を受賞した17枚目シングル「インフルエンサー」、2018年4月発売の20枚目シングル「シンクロニシティ」と、4回もセンターを務めています。(13枚目と17枚目は西野七瀬さんとのダブルセンター)


 競争の激しいアイドルの世界で、白石麻衣さんは、おっとりとした性格を変えず、「みんなを照らす人」(乃木坂46のメンバー秋元真夏さんの言葉)として、メンバーから尊敬を集めています。


 彼女のキャッチフレーズは、「こんにちは。四次元から来ましたマヨラー星人、〇〇才、白石麻衣です。」
 ですが、デビュー後の白石麻衣さんの活躍は、メンバーの中でも、まさに四次元の活躍を見せています。


 まず、ファッションモデルとしては、「LARME」のレギュラーモデルを、2012年から2018年5月まで務め、「Ray」の専属モデルも2013年から2018年3月まで務めました。


 次に、白石麻衣さんのセカンド写真集「パスポート」(講談社)は、2017年2月の発売以来、2018年6月までで20回の重版を重ね、21世紀最大のヒットとなる30万部を売りあげました。

 男性だけでなく、女性ファンが多いのが彼女の特徴で、美人で色白なのに、あまり自分を主張せず男性にも媚びない性格が、女性にも好感を持たれています。
 その証拠に、乃木坂46の握手会で最も人気のある白石麻衣さんの列には、多くの女性ファンが並んでいます。


 さらに、「好感度のバロメータ」と言われるCMの2018年上半期のランキングでは、2017年トップの広瀬すずさん(13社)や有村架純さん(12社)などの今をときめく人気女優を抑えて、白石麻衣さんが15社で「2018年上半期のCM女王」に輝きました。(ニホンモニター調べ)

 白石さんの主な出演CMは、「キリン・氷結」「カゴメ・ラブレ」などの飲料水・食品から、「ニベア・ボディ」や「資生堂・マキアージュ」などの化粧品、ネットショップの「SHOPLIST」、スマホゲームの「神の手」など、広範囲の分野に渡っています。



<21世紀最大のヒットを記録した白石麻衣さんのセカンド写真集「パスポート」の表紙>






 ここからは、白石麻衣さんの名言を紹介します。


○1
乃木坂に入って初めて、人が好きになりました。


○2
イメージすることは大切です。
「こうなりたい」という気持ちを、いつも持っていて、
それを誰かに話したり、表に出していくことは必要だと思います。


○3
イメージしたら、
次は
チャレンジすることです。
どんなに辛くても、それを乗り越えたら、
楽しいことが待っている。
私は、そう思って努力することにしています。


○4
ポジティブでいることを
心がけています。

ネガティブだと、全然いい表情もできないし、
いいものも出てこない。

何がなんでも、楽しく明るくいることが、
大事だなってことを、これまでのお仕事から学びました。


○5
ファンの方の応援があるから、
頑張れるし、今の私がある。

その部分は
これから年齢を重ねて、
どんな風に変わっていくとしても
私の基本軸です。
このことは、
常に忘れずにいたいです。



 乃木坂46の顔、白石麻衣さんの1本あたりのCM契約金額は6000万円とも言われています。それだけでも、白石麻衣さんの年収は1億円以上と言われています。
 さらに、今世紀最大のヒットを記録した写真集の売り上げや、乃木坂46のメンバーとしての収入を加えると、その額ははかり知れません。

 2018年8月20日で26歳になる白石麻衣さんは、「やさしくてきれいなお姉さん」として、
トップアイドル「乃木坂46」の頂点に立ったと言っても過言ではないと思います。
 当然、「2つの雑誌モデルを、2018年前半にやめたから引退」という噂も出ています。

 でも、自分の生き方、マイウェイを貫いて、これからも乃木坂46の顔を続けていってもらいたいですね。

 少しは黒石さん(悪い白石麻衣さんという意味のキャラクター名)が入ってもいいから、もっともっと先へ、がんばれ白石麻衣さん。

 そんな気持ちを込めて、最後は2018年8月8日に発売された乃木坂46の21枚目のシングル「ジコチュウで行こう」の1番の歌詞を紹介して終わりたいと思います。


 
♪「ジコチュウーで行こう」(作詞:秋元康、作曲:ナスカ、歌:乃木坂46)♪


坂を駆け上がって
肩で息しながら
強い日差しの中
入り江の向こうに広がる海原

ずっと抱えてた 
悔しいことが
何だか ちっぽけに見えてきた
やめよう!もう
この瞬間を無駄にはしない

人生あっという間だ
周りなんか 関係ない
そうだ 何を言われてもいい

やりたいことをやるんだ
ジコチュウだって 
いいじゃないか
マイウェイ
マイウェイ


2018年7月17日火曜日

ミスター笑点・桂歌丸さんを偲ぶ ~一生挑戦の人生に座布団10枚~

「その道が広くなるか狭くなるか。平らな道かデコボコ道か。
それは自分の歩き方次第。
ことによると、途中で土砂崩れにあうかもしれません。
でも、わたしにはこの道しかないんです。」 

 これは、「ミスター笑点」と言われた、落語家の桂歌丸(かつら・うたまる)さんの言葉です。 


 桂歌丸さんは、2018(平成30)年7月2日、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市で81歳で亡くなられました。

 今回は、桂歌丸さんの人生と名言を中心に、紹介したいと思います。



 椎名巌(しいな・いわお、桂歌丸さんの本名)さんは、1936(昭和11)年8月14日、神奈川県横浜市で生まれました。

 実家は、神奈川県横浜市南区真金町の女郎屋でした。
 父は椎名貞雄さん、母は千葉県市原市の農家出身の伊藤ふくさんでした。

 しかし、お父さんの貞雄さんは、歌丸さんが3歳の時に結核で亡くなり、お母さんは姑と仲が悪く家を出ました。
 巌少年(歌丸さん)は、おばあさんの椎名タネさん(1879年~1953年)に育てられました。


 巌少年が生まれ育った当時の横浜市真金町(まがねちょう)は、遊郭のある歓楽街としてにぎわい、「いなり寿司」を売る行商人や、「辻占い」などもあったと、歌丸さんは語っています。

 巌少年(歌丸さん)のおばあさんのタネさんが経営する「富士楼」は、女郎屋として有名で、タネさんが通ると、地元のやくざが道の両側によって道を開けるほどの女傑でした。


 巌少年(歌丸さん)が5歳の時(1941年)に太平洋戦争が始まり、巌少年は母の実家のある千葉県に疎開しました。
 戦争末期、横浜は空襲で焼けました。
 横浜が焼けるようすを、巌少年は東京湾ごしに千葉から見ていました。

 巌少年が9歳の時(1945年)に、日本はアメリカなどの連合国に降伏し、終戦を向かえました。
 横浜の街は空襲で焼け、「富士楼」も焼失しました。
 しかし、タネさんはすぐに「富士楼」をバラックで再建しました。


 歌丸さんは、当時のことをこう語っています。
「物心ついた頃は、戦後の暗い時代で笑いもありませんでした。
 たった一つの笑いが、ラジオで聞いた昭和の名人の落語でした。」

 10歳の歌丸少年は、「みんなに笑いを届けられる噺家になろう」と決意しました。



<写真 桂歌丸さんの本 「座布団一枚 わが落語人生」(小学館)>






 1951(昭和26)年、横浜市立吉田中学を卒業すると、15歳の巌少年(歌丸さん)は、5代目古今亭今輔(1898年~1976年、ここんてい・いますけ)師匠に弟子入りし、古今亭今児を名乗りました。


 今児(歌丸)さんは、1957(昭和33)年に二つ目になった直後、同じ横浜市真金町出身で4つ年上の(有名な)富士子さんと結婚します。

 ところが、そのあと、待遇改善をもとめて「二つ目」仲間でストライキを計画する「香盤(序列)問題」がおき、師匠と協会から離れました。

 ストライキは計画途中で、協会にばれて、逃げ出した仲間たちに代わって、歌丸さんが責任をとるかたちで、落語会を辞めました。

 生まれたばかりの長女をかかえて、桂歌丸家は困窮し、家財を売り払い、化粧品のセールスマンになりました。

 2年半後、三遊亭扇馬さんの応援があり落語界に復帰します。
 1961年、古今亭今輔師匠に事実上の破門をされ、兄弟子だった桂米丸さんに弟子入りし、「桂米坊」に改名しました。
 その後、1964(昭和39)年に、桂米丸さんの命名で「桂歌丸」に改名し、いよいよ歌丸さんの時代が始まります。

 師匠の桂米丸さんは、歌丸さんを「カバン持ち兼お抱え放送作家」として使いました。
 歌丸さんは、米丸師匠のラジオ番組の構成作家の役割も担い、そのことが放送局とのコネクションづくりに役立ちました。


 1965(昭和40)年、29歳になった桂歌丸さんは、日本テレビの大喜利番組「金曜寄席」のオーディションを受けます。
 このオーディションへの応募条件は、落語以外の芸を見せるというものでした。

 困った歌丸さんは、舞台上にそば屋の出前を呼んで、無言でそばを完食しました。
 最後に一言、「おそばつさまでした。」としゃれを駆けて言いました。

 この「芸?」が、審査員だった立川談志さんの笑いのツボに入り、桂歌丸さんは見事、合格しました。

 そうなんです。
 この「金曜寄席」が1年後に、「笑点」という名前の番組に変わり、桂歌丸さんは、そのレギュラーに抜擢されました。


 「笑点」(日本テレビの番組)は、1966(昭和41)年5月15日に始まり、現在も続く国民的番組になりました。

 桂歌丸さんは第1回から出演し、以来、大喜利メンバーとして40年、司会者として10年と合計50年も出演し、2016年5月に引退しました。

 この間、三遊亭小圓游さんとの「ハゲ(歌丸さんのこと)」「お化け」の掛け合いや、6代目三遊亭園楽(楽太郎)との「骸骨」「歌丸さんの死亡ネタ」「薗楽の腹黒」などの掛け合いは名物となりました。


 桂歌丸さんは、2016年5月からは、「笑点終身名誉会長」に就任しています。
 まさに「ミスター笑点」ですね。



<笑点の公開録画の準備をしている「後楽園ホール」の舞台(東京都文京区)>




 私は、何年か前に落語が急に聞きたくなって、「新宿末広亭」にふらっと入りました。
 ところが、入口でもらったパンフレットを見ても、知っている名前がなくて戸惑いました。

 思えば、関西(上方)の落語家は何人か思い浮かぶのですが、関東(東京)の落語家となると頭に浮かぶのは、以前、聞いたことがある立川談志さんのような故人を除けば、ほとんどが笑点に出ているメンバーばかりでした。

 それほど、私のような「落語しろうと」には、笑点のメンバーの影響は大きく、なかでも桂歌丸さんは、その筆頭でした。


 桂歌丸さんは、1968(昭和43)年に真打に昇進し、2004(平成16)年からは落語芸術協会の会長に就任しています。

 
 仕事が順調にいった一方で、桂歌丸さんの後半生は、病気との戦いでした。

 まず2001年に「急性腹膜炎」にかかったのを皮切り(?)に、「腰部脊柱管狭窄症」、「肺気腫」、「肺炎」、「インフルエンザ」、「腸閉塞」、そして死因となった「慢性閉塞性肺疾患」と、本当に病気との戦いの日々でした。
 それでも、酸素吸入をしてまで、桂歌丸さんは、最後まで舞台に上がり続けました。


 それでは、桂歌丸さんの名言をいくつか紹介します。


〇「修業は一生涯に及びます。ですから、辛抱もまた一生涯ということです。」


〇「人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや。」


〇「褒める人間は敵と思え。教えてくれる人、注意してくれる人は味方と思え。」


〇「若い時に苦労をしろ。何年か先に振り替えった時、その苦労を笑い話にできるように努力するんだ。」



<写真 桂歌丸さんの追悼垂れ幕が出された「横浜橋商店街」(神奈川県横浜市)>




 例によって、おしまいは「いい話」、いや今回は「いい噺」を紹介します。

 先に紹介したように、桂歌丸さんと6代目三遊亭園楽(楽太郎)さんとの「骸骨」「死亡ネタ」「腹黒」などの掛け合いは、「笑点」を盛り上がる名物となりました。

 でも、これは舞台の上の演出で、実は桂歌丸さんと三遊亭園楽さんは、大の仲良しで、全国各地で二人
会を開催し、メキシコ公演にも行っていました。


 桂歌丸さんは、圓楽さんだけでなく、他の後輩の出演者にも、
「舞台の上では先輩も後輩もない。萎縮せず、遠慮するな。」
と言って、若手の出演者を激励しました。

 三遊亭小遊三さんは、「気力・根性・実力・才能、すべて兼ね備えている」と言い、
 三遊亭好楽さんは「笑点あっての歌丸じゃなく、歌丸あっての笑点。あの師匠がいなかったら番組が成り立たない」と語っています。
 

 三遊亭園楽さんは、桂歌丸さんが入院するたびに、落語のテープ(CD)を見舞いにもっていきました。
 すると、歌丸さんは退院の時には、その噺を覚えてきた「デパートリーが増えた」と喜んでいたそうです。


 桂歌丸さんは、こう言っています。
「いろんな人に言われます。70を過ぎてまで、どうして苦労して新しい噺を覚えるのかって。
そりゃあ覚えも悪くなっていくし、挑戦し続けるのはしんどい。
 でも、最期に目をつむった時に楽な気持ちでありたいんです。『ああ、あの噺もできたのに』なんて後悔しても遅いでしょ。」

 一生勉強、一生挑戦だった桂歌丸さんの名言ですね。
 歌丸さんに、最後に言いたいです。
「山田くーん、歌丸さんの人生に、座布団10枚!」 



2018年7月10日火曜日

平成最後の夏に最悪豪雨~やがて淋しき「初恋の味」~

 平成最後の夏、2018(平成30)年の夏は大荒れで始まりました。 6月18日に大阪北部を震源とする震度6弱(マグニチュード6.1)の地震が発生し、死者4人、400人以上が負傷しました。
 続いて、7月5日頃からは全国各地で記録的な大雨が降り、7月9日19時10分現在で108人が死亡、行方不明者29人(消防庁調べ)など、西日本を中心に大きな被害が発生しています。


 今回は、気象庁が今回の豪雨で計11府県で発表した「大雨特別警報」を切り口に、2018年7月豪雨について考えてみたいと思います。

 
 7月上旬の豪雨の原因は、7月初めに対馬海峡を通過した「台風7号」が、日本の南海上に残していった非常に大きな積乱雲から、西日本から東日本に停滞していた梅雨前線に向かって非常に湿った空気が大量に入り続けたことでした。


<7月6日9時の天気図 (気象庁)>




 今度の大雨の大きな特徴は、時間的にはずれがありますが、「大雨特別警報」が過去最多の11府県 
(岐阜県、京都府、兵庫県、鳥取県、岡山県、広島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県)に発表された点です。

 「大雨特別警報」は、台風や集中豪雨による数十年に一度の降水量が予想される場合、または、数十年に一度の強度を持つ台風や、それと同程度の温帯低気圧による大雨が予想される場合に発表されるものですが、これまでは最大3府県だったので、今回の11府県はそれを大きく上回り、岐阜県から近畿・中国四国、九州北部まで広域に出されました。

 しかし、「大雨特別警報」の発表と、実際の雨量や被害とは、必ずしも一致していません。
 たとえば、累積雨量が1000ミリを超えた県は、岐阜県、徳島県、高知県でしたが、このうち特別警報が出されたのは2県で、それも大雨の終盤の7月8日になってからでした。
 一方、死者(被害)の多かった県は、広島県(40人)、岡山県(28人)、愛媛県(23人)、京都府(4人)、山口県(3人)、福岡県(3人)などでした。
 
 特に、3番目に被害が多かった愛媛県に特別警報が出たのは大雨の最終日の7月8日になってからで、多くの被害が出たのは特別警報が出る前でした。

 実は、「太平洋側には、特別警報が出にくい」との説があります。

 確かに、今回、大雨特別警報が出された11府県の面している海を考えてみると、ピークを過ぎた7月8日になって特別警報が出た愛媛県と高知県を除くと、ほぼ瀬戸内海・日本海・東シナ海に面している府県と内陸県の岐阜県です。
 ちなみに、唯一、太平洋に面している兵庫県の淡路島は、今回の大雨特別警報の発表地域ではありませんでした。


<写真 夜も続く捜索活動(岡山県倉敷市 平成30年7月)>





 
 
 もう一つ、被災地のインタビューで、「特別警報」の意味を理解している人は少ないのではないかとも、思いました。

 たとえば、「特別警報が出てから避難した」という避難者や、「特別警報が出ているから、線路の被害調査や復旧工事はできない」という鉄道関係者がいました。

 特別警報は、避難を促す「避難指示」や「避難勧告」とは違いますし、まして「災害復旧」や「被害調査」を禁じるものではありません。


 大雨による被害の2大要因は。がけ崩れ・山崩れなどの「土砂災害」と、川やため池の決壊などの「洪水・浸水」による災害ですが、前者のスーパー警報が「土砂災害警戒情報」、後者は「洪水警報」や「(河川ごとの)氾濫危険情報・氾濫発生情報」が警報にあたるものです。

 しかし、特別警報と「土砂災害警戒情報」「洪水警報」「氾濫発生情報」、さらに避難を促す「避難指示」や「避難勧告」との役割分担は、一般の人にはわかりにくいと思います。

 ちなみに、今回の豪雨で、避難指示や避難勧告の対象になった人は、先の消防庁の調査で約381万人もいますが、実際に避難したのは30、250人で、わずか0.8%に過ぎませんでした。
 
 国民の安全・安心のために、気象庁や国土交通省、都道府県などが次々と制度改革をしてきた「気象警報や防災情報」ですが、今回の豪雨をきっかけに、「一人一人が単純でわかりやすく命を守る行動」ができるように、地震や津波の情報も含め、運用方法や伝達方法を、改革していただきたいと願います。

 このブログでも、今後も防災情報を、とりあげていこうと思っています。


 それにしても、今回の豪雨は、台風でもないのに、わかっているだけで124人が死亡し6人が心肺停止6人、63人が行方不明(7月10日2時現在、NHK調べ)という平成になって最悪の風水害被害が出ました。

 平成最後の夏・2018年は、今回の豪雨をはじめ、大阪北部地震などの地震、霧島連山やキラウエアなどの火山噴火もあり、災害への「備え」や厳重な警戒がますます必要となっています。


<特別警報の基準 (気象関係 ほかに地震・津波・火山噴火などもあります)>





 後半は、今年は雨で見えなかった「七夕の話」、いや、「7月7日」が誕生日の「初恋の味・カルピス」の話です。


 今から99年前の1919(大正8)年7月7日、あの「カルピス」が発売されました。

 カルピスは、創業者の三島海雲(みしま・かいうん、1878(明治11)年~1974(昭和49)年 大阪府箕面市生まれ)さんが、内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を旅行中に体調を崩した時、現地で勧められた乳酸菌を飲むと体調が回復したことに始まります。

 この出来事から、三島さん帰国後に研究をすすめ、1919年7月7日に発売したのが「カルピス」で、脱脂乳を乳酸菌で発酵・加糖して、酵母を加えたものです。

 7月7日が誕生日なのにちなみ、カルピスの水玉模様は、「天の川」を現しています。

 「カルピス」という名前は、「カルシウム」とサンスクリット語の「サルピス」(じゅくその意味)から作った造語で、「あかとんぼ」などの作曲で知られるあの山田耕作さんなどが名付け親です。

 「初恋の味カルピス」という有名なキャッチフレーズは、発売直後の1920年頃から使われていますが、三島さんの学生時代の後輩が作ったものです。
 
 三島さんは後輩に、「カルピスは子供も飲む。子供に初恋の味がわかるだろうか。」と聞くと、後輩は笑顔で「子供には、初恋はカルピスの味だと答えればいい。初恋は純粋で美しいものだ。」と答えました。
 
 1923年に起こった「関東大震災」で、カルピスを無料で配布したこともあり、国民の夏の飲み物として、不動の人気を得ました。


 ちなみに、手話の「初恋」は、カルピスなどの飲み物を入れた1つのグラスに、2本のストローを指していることをイメージし、写真のような指の形であらわします。


<「初恋」の意味の手話と、カルピスのイメージ >







 今年は豪雨で会えなかった七夕の織姫や彦星の二人と、「平成30年7月豪雨」の犠牲者への追悼、ほかの被災者のみなさんの無事を祈りながら、今夜は、少しほろ苦い「初恋の味カルピス」を飲みたいと思っています。


「平成の 最後の夏に 最悪豪雨 やがて淋しき 初恋の味」(じゅんくう)




2018年7月2日月曜日

サッカーワールドカップ・ロシア大会2「決勝トーナメント」~半端ない?残念な?日本チーム~

2018年FIFAサッカーワールドカップ・ロシア大会」は、出場32チームが8グループに分かれてリーグ戦を行い、6月30日からいよいよ16チームによる「決勝トーナメント」が開催されます。 サッカーワールドカップの2回目は、予選リーグを突破した日本チームと決勝リーグを中心に紹介します。

 まず、日本チームの予選リーグの戦いについて紹介します。

 グループHの日本は、6月19日の初戦で南米の強豪コロンビアと対戦し、前半6分の香川真司選手のペナルティキックで先制しました。
 前半39分にコロンビアのファンキンテーロ選手に同点ゴールを決められましたが、後半28分に本田選手のコーナーキックを大迫勇也選手がヘディングで決勝ゴールを決め、2対1で勝利し勝ち点3を獲得しました。

 決勝ゴールを決めた大迫選手に対するファンからの呼び名、「大迫半端ないって」が日本中で流行語になりました。
 この言葉は、10年前の2008年度開催の「全国高校サッカー選手権」の準々決勝で、当時18歳だった鹿児島城西高校の大迫選手に敗れた滝川第二高校の中西隆裕選手(キャプテン)が、試合終了後の控室で、「大迫、あいつ、半端ないって」と泣きながら称えたことが由来となっています。

 大迫勇也(おおさこ・ゆうや)選手は、鹿児島県加世田(現南さつま)市出身で、1990年5月18日生まれの28歳です。
 鹿児島城西高校から鹿島アントラーズに進み、ドイツの「1860ミュンヘン」、「FCケルン」でプレーし、2018年、同じドイツの「ブレーメン」に移籍することが決まっています。

 この試合は、会場の名前をとって「モルドヴィアの奇跡」と呼ばれています。ワールドカップ本大会で、アジアのチームが南アメリカのチームに勝ったのは、実はこれが初めてでした。


<写真「大迫半端ないって」の応援幕>





続く第2戦は、6月24日にアフリカ代表のセネガルと戦いました。 日本は、2度リードを許しますが、前半34分の乾貴士選手のゴールと、後半33分の本田圭佑選手のゴールで2度とも追いつき、引き分けで勝ち点1を獲得しました。

 この試合でゴールを決めた本田圭佑選手は、日本人初の3大会連続ワールドカップでのゴールを決めました。
 本田圭佑(ほんだけいすけ)選手は、1986年6月13日に大阪府摂津市で生まれました。

 石川県の星稜高校を卒業後、名古屋グランパスに入団し、その後、オランダのVVVフェンロ、ロシアのCSKAモスクワ、イタリアのACミラン、そしてメキシコのCFバチューカと、まさに世界を渡り歩きました。  

 本田選手の名言を少し紹介します。

「心の中のリトル・ホンダに聞いたら、『ACミランでプレーしたい』と言ったので、ACミランに来た。」

「プロフェッショナルとは、ケイスケ・ホンダのこと。」(NHKの「仕事の流儀」での名言)

 本田圭佑選手は国内で69のサッカースクールを設立し、それを運営する会社のミッションについて、
「才能とは生まれ持ったものではなく、環境によって磨き上げられるもの。
大きな夢を持ち、物事がうまくいかなかった時にも心の折れない人材を育成し、才能を開花させるために必要な環境、機会を与える。」と。決めている。


 日本の予選リーグの3戦目は、ヨーロッパの強豪・ポーランドと6月28日に対戦し、1対0で敗れました。
 日本チーム、は、本田選手、香川選手ら主力を温存し、後半はパスまわしを繰り返して時間を稼ぎました。
 結果、勝ち点4でセネガルと並び、反則の少なさ(フェアプレーポイント)でH組の2位となり、予選を突破しました。

 西野朗監督がとったこの作戦には、賛否両論ありましたが、私は国際サッカー連盟(FIFA)の行動規範を紹介して、私の意見としたいと思います。

「勝つためにプレーする。勝利はあらゆる試合のプレーする目的であり、負けを目指してはならない。
 もしも勝つためにプレーしないのならば、相手をだまし、見ている人を欺き、そして自分自身にうそをつくことになります。
 強い相手にあきらめず、弱い相手に手加減してはなりません。全力を出さないことは、相手への侮辱です。試合終了の笛が鳴るまで、勝つためにプレーしなさい。」

 前回紹介した、「グリーンカード」(賞賛のカード」の精神ですね。




<サッカーワールドカップ2018 日本代表のポスター>







 ロシアワールドカップの大陸別のグループリーグ突破国を見てみると、全16ヶ国のうち、ヨーロッパがロシア、フランス、スペイン、ポルトガル、クロアチア、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スイス、イングランドの10ヶ国(出場14ヶ国)、南米がウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、コロンビアの4ヶ国(出場5ヶ国)で、この2大サッカー強豪地域で、ベスト16のうち14を占めています。

 残る2ヶ国は、北中米カリブのメキシコ(出場3ヶ国)と、アジアの日本(出場5ヶ国)です。アフリカは出場5ヶ国が、リーグ戦で全滅しました。

  アジア唯一の決勝トーナメント出場国・日本は、7月2日(日本時間では7月3日)に、ヨーロッパの強豪でFIFAランク3位のベルギーと、決勝トーナメント1回戦を戦います。
 

 おしまいは、世界のサッカー名選手の名言です。


・「努力すれば報われる。そうじゃないだろ。報われるまで努力するんだ。」
(リオネル・メッシ選手 アルゼンチン出身)


・「苦しい時ほど、本当の自分がわかる。」
(クルスティアーノ・ロナウド選手 ポルトガル出身)


・「僕らは敗北の中から、多くのことを学んだ。勝者になるために。」
(ネイマール・ダ・シウヴァ・サントス・ジュニオル選手 ブラジル出身)


・「強い気持ちをもっていれば、夢は叶うはずだ。」
(アンドレス・イニエスタ選手 スペイン出身 2018年から日本でプレー)


・「僕は努力をやめないよ。特にワールドカップでは、可能な限り勝ち進みたいからね。」
(キリアン・エムバペ選手 フランス出身)


・「(子供たちに)夢を追いかけて、ください。」
(デビッド・ベッカム元選手 イングランド出身)


 半端ないチームワークで、日本が「ロシアの奇跡」を起こすよう、祈念したいと思います







2018年6月12日火曜日

世界最大のスポーツイベント「サッカーワールドカップ」と名言、3色のカード

 
 みなさんは、「世界三大スポーツイベントは」と聞かれて答えられますか?

「近代オリンピック」と「FIFAワールドカップ(サッカー)」の2つは、世界的に異論のないところだと思います。
 しかし、もう1つは、「F1(モータースポーツ)」「ツールード・フランス(自転車)」あるいは、「ラグビーワールドカップ」など、意見の分かれるところです。

 
 オリンピックとワールドカップを比べてみると、まず「観客動員数」では、2016年リオオリンピックが117万人に対して、2014年ブラジルワールドカップは342万人で2.9倍です。
 また「テレビ視聴者数」では、2008年北京オリンピックが220ヵ国・地域で47億人に見られたのに対し、2006年ドイツワールドカップは214ヵ国・地域で263億人に見られ、5.6倍になりました。
 今回は、名実ともに「世界最大のスポーツイベント」であるサッカーワールドカップを、取り上げます。

 
 「FIFAワールドカップ」は、サッカーの国・地域別の世界選手権の最高峰で、1930(昭和5)年に南米のウルグアイで第1回が開催されました。(第1回優勝は地元ウルグアイ)
 以後、夏のオリンピックと夏のオリンピックの間のまんなかの年(4で割り切れない偶数の西暦年)に開催されています。

 1942年と1946年は、「第2次世界大戦」の影響で中止になっていますので、2018(平成30)年6月14日から7月15日にかけて開催される「ロシア・ワールドカップ」は、第21回目ということになります。

 これまでにワールドカップに優勝したのは、ブラジルの最多5回を始め、イタリア4回、ドイツ(西ドイツを含む)4回、ウルグアイ2回、アルゼンチン2回、イングランド1回、スペイン1回、フランス1回の8ヶ国・地域です。
 エリア別では、南米(計9回)とヨーロッパ(計11回)しか優勝はありません。
 
 ちなみに、2018年ロシア・ワールドカップには、優勝経験のある8ヶ国・地域のうち、イタリアを除く各7チームが参加しています。

 今回の、「2018年ロシア・ワールドカップ」は32ヶ国が出場しますが、このうち開催国のロシアを除く31チームが予選を勝ち上がった国・地域で、ロシア以外の全FIFA加盟国・地域の208チームが予選に参加しています。
 世界中の予選を勝ち抜いたチームが、サッカー選手の夢である「ワールドカップ」に参加するということですね。

 
 「2018年ロシア・ワールドカップ」は、32の参加国・地域を4チームづつ8つのグループ(A~H)に分けて、 総当たりのリーグ戦である「グループ・リーグ」を各チーム3試合づつ行い、各グループ内で勝ち点(勝ち3点、引き分け1点、負け0点)の多い上位2チームずつの16チームが、決勝トーナメントに進みます。
 なお、勝ち点が同じ場合は、(1)得失点差、(2)総得点の多いチームが上位となります。

 後半は、「決勝トーナメント(正式には「ノックアウトステージ」または「ステージ2」といいます)」を行い、ここを勝ち抜いたチームが優勝ということになります。

 因(ちな)みに、賞金はかつては0円でしたが、「2018年ワールドカップ」では、優勝が3800万ドル(1ドル=100円換算で38億円)、準優勝が2800万ドル(同28億円)、以下、3位2400万ドル、4位2200万ドル、ベスト8が1600万ドル(同16億円)、予選突破のベスト16が1200万ドル(同12億円)となります。
 予選で敗退しても800万ドル(同8億円)がもらえ、さらに全チームに出場経費150万ドル(同1億5000万円)が支給されます。

 日本代表として2回ワールドカップに出場した中山雅史(愛称ゴン中山)選手が、「ワールドカップは、AカップでもBカップでも、Gカップでもなく、ずっと上のWカップだからすごいんだ。」と言ったそうですが(笑)、その賞金総額は、なんと6億9100万ドル(同691億円)といいますから、本当にすごい大会ですね。



<写真 FIFAワールドカップ日韓大会の記念切手(2002年)>




 次は、日本代表チーム「サムライブルー」のこれまでの活躍を中心に紹介します。

 「サムライブルー(SAMURAI BLUE)」は、2006年のドイツワールドカップに出場する日本代表チームの愛称として2006年1月に公募により決定された愛称で、2009年からは日本サッカー協会が、「公式ペットネーム」に正式に決めています。

 サムライブルーの由来は、「日本の国土を象徴する海と空のブルー」を基調としたとも言われていますが、明確ではありません。
 ただ、1930年、第1回ワールドカップ開催の年に行われた「極東選手権」に参加したサッカー日本
代表の選手が、ほとんどが「東京帝国大学(現在の東京大学)」の学生で、その東京帝国大学のシャツが淡青(ライトブルー)であったのが起源だとする説があります。

 日本サッカー代表は、当初、プロレベルでハードルの高い「ワールドカップ」ではなく、その最大目標をオリンピックにおいていました。
 現実に、1968(昭和43)年のメキシコオリピックでは銅メダルを獲得しました。

 しかし、1992(平成4)年のバルセロナオリンピックから、オリンピック代表が23歳以下になったことと、1993年から「日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)」が発足したことなどから、日本代表チームは本格的に「ワールドカップ」出場を目標にするようになりました。

 そんな1993年10月、日本代表は「1994年アメリカワールドカップ」の最終予選に進出し、最終戦のイラン戦に勝てば、ワールドカップ初出場が決まるというところまで、こぎつけました。

 カタールのドーハで行われた最終試合は、2対1で日本がリードしたまま90分が過ぎ、試合はロスタイム(現在のアディショナルタイム)に入りました。あと数分守ればワールドカップ初出場という場面で、イランの選手に同点ゴールを決められてしまい、ワールドカップは夢と消えました。

 「ドーハの悲劇」と呼ばれたこの試合は、すぐには日本のワールドカップ出場には繋がりませんでした。
 しかし、この悲劇を「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」のきっかけとして、4年後、日本代表は見事、「1998年フランス初出場」を決めました。

 以降、「2002年日韓ワールドカップ(予選免除)」、「2006年ドイツワールドカップ」、「2010年南アフリカワールドカップ」、「2014年ブラジルワールドカップ」、そして「2018年ロシアワールドカップ」まで、日本代表(サムライブルー)は、6大会連続のワールドカップに出場しています。
 
 特に2002年と2010年のワールドカップでは、日本代表はグループリーグを突破し、ベスト16まで進出しています。
 日本代表のワールドカップ通算成績は、17試合で4勝9敗4分け、勝率.308です。


 今回の「2018年ロシアワールドカップ」では、日本代表はグループHに属し、6月19日(火)にコロンビア(FIFA世界ランク16位)、6月24日(日)にセネガル(同28位)、そして6月28日(木)にポーランド(同10位)と対戦します。
 厳しい相手ですが、ぜひとも勝ち抜いて、これまでで最高の「ベスト8」以上を狙ってほしいものですね。

 

<写真 本屋のワールドカップ関係本の展示コーナー>





 私が「FIFAワールドカップ本戦」を生で見たのは、「2002年日韓ワールドカップ」のグループリーグの試合だけで、神戸市でのことでした。

 とても取れないと思っていた「ワールドカップのチケット」が、1試合だけ残っていて、神戸の試合を友人と見ることができました。
 もちろん、日本戦ではありませんでしたが(確かロシア対チュニジア)、本物のワールドカップの試合を見ることができたのは、とてもいい思い出で、今でも「私は本物のワールドカップの試合を見た」と自慢にしています。
 
 
 ここからは、今回のサッカー日本代表「サムライブルー」の選抜選手の名言を紹介します。


○香川真司(かがわ・しんじ)選手
<1989年兵庫県神戸市出身、ドイツ・ドルトムント所属 ロシアW杯日本代表10番>

「最後は見とけよ。と常に俺は思っている。
今は負けているかも知れないけど、コツコツと差を縮めて、絶対におい抜いてやる。
という気持ちは、中学生の時から、ずっと持っている。」


○川島永嗣(かわしま・えいじ)選手
<1983年埼玉県出身、フランス・FCメス、ロシアW杯日本代表1番・ゴールキーパー> 

「自分の思っている100%の努力は、100%とは限らない。」



〇長友佑都(ながとも・ゆうと)選手
<1986年愛媛県出身、トルコ・ガラタサライ所属、日本代表5番>

「僕にはサッカーの才能はないが、努力を続ける才能は誰にも負けたくない。」
「夢が実現しなくても、努力したあとには、成長した自分が待っている。」
「アモーレ(お子さんになった平愛梨さんへの求婚の言葉。」


〇本田圭佑(ほんだ・けいすけ)選手
<1986年大阪府出身、メキシコ・パチュ-カ所属、ロシアW杯日本代表4番>

「環境というには、与えられるようじゃダメだ。自分で作り出すもの。」
「自分に勝てれば、明日、勝てると思う。」
「最後に成功すれば、挫折は過程に変わる。だから、成功まであきらめないだけ。」


 
○長谷部誠(はせべ・まこと)選手 
 <1984年静岡県出身、ドイツ・フランクフルト所属、ロシアW杯日本代表17番・キャプテン>

「答えが出ないことを、延々と考えて迷っているとき、どう切り替えるか。
 僕は、身近なところにいる頑張っている人を、見るようにしている。」



<写真 2002年日韓ワールドカップの記念金貨・銀貨>






 最後は、サッカーの審判が持つ3色のカードと、あの名曲を紹介します。

 サッカーの審判が持つカードと言えば、警告を意味する「イエローカード」と、退場を意味する「レッドカード」が有名ですが、実は、もう1枚あるのをご存知ですか。

 黄色、赤につぐ、3枚目のカードの色は「緑」です。
 この「グリーンカード」は、他の2枚とは違って、選手の「フェアプレー」や「一生懸命」や「相手への思いやり」をほめるカードです。

 たとえば、大量点で負けていても味方に声をかけ、諦めずにがんばった選手。
 逆に大量リードしていても、相手を侮辱せず戦った選手。
 自分のファールを、自分で手を上げて申告した選手などに、与えられるのが「グリーンカード」で、主に12歳以下のサッカーの試合で使われています。


 ワールドカップでも、それからラフプレーが問題になったアメリカン・フットボールでも、この「グリーンカード」を導入し、たくさんたまった選手は「フェアプレー賞」として、表彰するなんていうのもいいかも知れませんね。

 
 おしまいは、日本代表長谷部キャプテンの「グリーンカード級のいい話」と、1976(昭和51)年の発表以来ずっと「全国高校サッカー選手権の大会歌」として使用されている名曲を紹介します。


 まず、長谷部エピソードを2つ紹介します。

 1つ目は、2011年に出版した著書「心を整える」(幻冬舎)は、100万部を超えるベストセラーになりましたが、長谷部選手は全額、東日本大震災の復興のためにユニセフに寄付しています。
 スポーツ選手の本が100万部以上売れるのは珍しいのですが、140万部ともいわれている印税を全部寄付した長谷部キャブテンは、まさに「グリーンカード」ですね。

 もう1つの長谷部選手のエピソードは、長谷部選手がゴールを決めると、天に向かって人差し指を突き上げるポーズをします。
 これは、長谷部選手がプロ入りか大学進学か迷っていた時、「男なら挑戦してみろ」と言ってくれた天国のおじいさんへお礼の気持ちだそうで、これもおじいさん思いの長谷部選手のやさしい心に「グリーンカード」ですね。


 ラストの名曲紹介は、1976年以来、40年以上も「全国高校サッカー選手権大会」のテーマ曲として歌われている、「ふりむくな君は美しい♪」を紹介します。
  


♪「ふり向くな 君は美しい」(作詞:阿久悠 作曲:三木たかし 歌:バース)♪


うつ向くなよ ふり向くなよ
うつ向くなよ ふり向くなよ

君は美しい 戦いに敗れても
君は美しい

今ここに 青春を刻んだと
グランドの土を 手にとれば
誰も涙を 笑わないだろう
誰に拍手を 惜しまないだろう

また逢おう また逢おう
いつの日か いつの日か
また逢おう また逢おう
いつの日か いつの日か
君の顔を 忘れない


うつ向くなよ ふり向くなよ
うつ向くなよ ふり向くなよ

君は美しい くやしさにふるえても
君は美しい

ただ一度めぐりくる青春に
火と燃えて 生きてきたのなら

誰の心も 打てるはずだろう
誰の涙も 誘うはずだろう

また逢おう また逢おう
いつの日か いつの日か
また逢おう また逢おう
いつの日か いつの日か
君の顔を 忘れない ♪


 「レッドカード」や「イエローカード」ではなく、「グリーンカード」があふれる「2018年ロシアワールドカップ」になることと、日本の活躍を祈念します。
 がんばれ! 日本サムライブルー!




2018年5月26日土曜日

追悼・西城秀樹 最後までリハビリと歌手を続けた永遠のヤングマン

「大事なのは、今、このとき。
1日を一生のつもりで、一生懸命に生きたい。
俺が、死のゲートをくぐる時、きちんと前を向いた進行形でいたい。」
(「ありのままに3度めの人生を生きる」西城秀樹著(廣済堂出版))

 
 これは、昭和のトップアイドル・西城秀樹さんが、二度目の脳梗塞(のうこうそく)を発症した2011年の翌年に出版した本に書かれた言葉です。


 2018(平成30)年5月16日に、昭和のトップアイドルの一人で、郷ひろみさん、野口五郎さんとともに、「新御三家(しんごさんけ)」と言われた西城秀樹(さいじょう・ひでき)さんが、心不全のため63歳で亡くなられました。

 今回は、1970年代から1980年代にかけて、トップアイドル・スターとして活躍した西城秀樹さんを偲びます。


 西城秀樹さんは、本名を「木本龍雄(きもとたつお)」さんといい、広島県広島市で1955(昭和30)年4月13日に生まれました。

 実家は広島駅の近くにあり、かなり裕福であったと言われています。(パチンコ屋を経営していたという噂もあります。)

 西城秀樹さんには、お兄さんとお姉さんがいて、小学校の時からドラムを叩き、お兄さんたちとエレキバンドを結成していまいた。
 さらに、中学校時代には、アメリカ軍の岩国基地のライブハウスへも出演していました。

 西城さんは中学を卒業すると、「山陽高等学校」(広島県広島市西区)に進学しました。
 そして、高校に入って、西城秀樹さんがジャズ喫茶でバンド演奏していた時に、東京の芸能事務所にスカウトされました。

 秀樹さんは、父親など家族の反対を押し切って、家出同然で上京し、いしだあゆみさんなどが所属していた芸能事務所「芸映」(東京都港区赤坂=当時)に入りました。


<写真 西城秀樹さんの死去を報じる中国新聞の号外>





 1972(昭和47)年3月に、西城秀樹さんは16歳でビクタ-から「恋する季節」でデビューしました。
 キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」(デビューの翌月に17歳になりました)でした。
 ちなみに、「西城秀樹」という芸名は、「女学生のとも」という雑誌の公募で決まったそうです。


 翌1973年6月に発売された「情熱の嵐」が、オリコン週間チャートで初めてベストテン(6位)に入り、25万枚を売りあげました。
 この曲では、「君が望むなら♪」と西城さんが歌うと、会場からファンが「ヒデキ!」と掛け声をかける「コール&レスポンス」が話題となりました。

 さらに同じ1973年に、「ちびれた愛♪」と「愛の十字架♪」が連続でオリコン1位となり、西城秀樹さんはスターの仲間入りをし、日本レコード大賞の歌唱賞も受賞しました。

 このころ西城秀樹さん(1955年生まれ)、野口五郎さん(1956年生まれ)、郷ひろみさん(1955年生まれ)の三人は、新御三家(しんごさんけ)と呼ばれるようになりました。

 1973年11月からは、「ヒデキ!感激」で有名な「ハウスバーモンドカレー」のCMが始まりました。
 ちなみに、自分の頬をたたいてVサインをする「ヒデキ!感激」のシーンは、赤ちゃんが偶然、頬をたたいたことから、考えられたそうです。


 1974(昭和49)年になると、西城秀樹さんの人気は、ますます高まります。

 まず、1974年1月からTBSの人気ドラマ「寺内貫太郎一家」に出演します。
 平均視聴率が31%を超えたこのドラマの中で、西城さんは主役の小林亜星さんとのけんかシーンを本気で演じ、左腕を骨折して入院しました。

 1974年2月発売の「薔薇の鎖♪」で秀樹さんは、スタンドマイクのパフォーマンスを日本の歌手で初めて披露しました。
 また、5月発売のレコード「激しい恋♪」は、58万枚を超える大ヒットとなり、7月には、初主演映画「愛と誠」も公開されました。

 さらに8月には、日本人のソロ歌手で初めて、「ドームコンサート」を大阪球場で行いました。(この年から10年連続で大阪球場で開催し、1978年からは6年連続で後楽園球場(東京ドームの前身)で開催しました。)

 大阪球場での初コンサートの前日、西城秀樹さん自身がラジオで「懐中電灯をもってきて」と呼びかけ、ファンがそれに応えて一斉に振ったのが、日本で初めて「コンサートでペンライトを使う」パフォーマンスだったと言われています。

 1974年8月には、西城さんの代表曲の1つとなる「傷だらけのローラ」♪が発売され、この曲で秀樹さんは「NHK紅白歌合戦」に初出場しました。
 以降、西城秀樹さんは、1984(昭和59)年まで11年連続で紅白に出場します。


 1975年には「全国縦断コンサートツアー」を開催し、日本人歌手で初めて「武道館ソロコンサート」を開催しました。(以後、11年連続開催)

 また、当時の人気のバロメーターだった「プロマイド(タレントのコレクション用写真→今の生写真のルーツ?)」の売り上げが1位になり、トップ・アイドルに上りつめました。
 プロマイドの売り上げ年間1位は、この後、全部で4回も記録しました。


 1976(昭和51)年からは、阿久悠さん作詞の歌も歌うようになりました。

 さらに、1979(昭和54)年には、アメリカの6人組グループ「ヴィレッジ・ピープル」が歌う「Y.M.C.A.」♪を、西城秀樹さん自身が交渉して、カバーすることに成功しました。

 ヴィレッジ・ピープルは、実は同性愛者(ゲイ)であり、日本の関係者は反対しましたが、西城秀樹さんはどうしてもこの曲を歌いたくて、「YOUNG MAN」♪ という「若者への応援歌」にリニューアルして発売しました。

 この曲は大ヒットし、西城秀樹さんの曲でも最大の80万枚を売り上げ、伝説の歌番組「ザ・ベストテン」(TBS)で、最高点の「9999点」を出しました。
 また、1979年の賞レースでも、「YOUNG MAN 」は、日本歌謡大賞を受賞しました。


 ではここで、西城秀樹さんの代表曲「YOUNG MAN 」の歌詞を紹介します。


♪「YOUNG MAN 」(作詞:BELOLO HENRI  作曲:MORALI JACQUES  歌:西城秀樹)♪


ヤングマン さあ立ち上がれよ
ヤングマン 今 翔び出そうぜ
ヤングマン もう悩む事は ないんだから
ヤングマン ほら見えるだろう
ヤングマン 君の行く先に
ヤングマン 楽しめる事が あるんだから

すばらしい
Y.M.C.A.
Y.M.C.A.
ゆうつなど 吹き飛ばして
君も元気出せよ
そうさ
Y.M.C.A. 
Y.M.C.A.
若いうちはやりたいこと
何でもできるのさ

ヤングマン 聞こえているかい
ヤングマン 俺の言うことが
ヤングマン プライドを捨てて すぐに行こうぜ
ヤングマン 夢があるならば
ヤングマン とまどうことなど
ヤングマン ないはずじゃないか オレと行こう♪



<写真 「YOUNG MAN」のレコードジャケット>




 
 1981年発売の「セクシーガール」♪で、西城秀樹さんのシングル総売り上げは1000万枚を超えました。
 その後も「ヤングマン」♪を中心に、西城秀樹さんの歌は、広く長く歌われました。


 ただし、アイドル歌手・西城秀樹さんのピークは、1970年代から1980年代の中頃までだと思います。
 しかし、人間・西城秀樹さんの真価が発揮されたのは、このあとでした。


 西城秀樹さんは、1994(平成6)年に10年ぶりに「ヤングマン」でNHK紅白歌合戦に復帰出場し、阪神大震災の起こった1995(平成7)年にも秀樹さんは紅白に出場し、「震災復興の応援歌」として「ヤングマン」を歌いました。

 また、1991(平成3)年には、西城秀樹さんの大ファンで、人気アニメ「ちびまる子ちゃん」の原作者さくらももこさんが作詞した「走れ正直者」♪を、「ちびまる子ちゃん」のエンデングテーマとして、秀樹さんが歌いました。

 因みに、アニメ「ちびまる子ちゃん」の中では、まるちゃんのおねちゃんが西城秀樹の大ファンという設定ですが、おねちゃん役の声優・水谷優子さんは「神様って本当にいるんだね。」というセリフを最後に、2016年5月17日に、乳癌のため亡くなりました。

 それから2年後の2018年5月16日、1日違いで西城秀樹さんが亡くなられたのは、不思議な縁を感じますね。


 2001(平成13)年6月30日、西城秀樹さんは46歳で、大阪在住だった17歳年下の美紀さんと結婚しました、
 二人の間には、2002年生まれの長女、2003年生まれの長男、2004年生まれの次男の3人の子供が誕生します。


 家族ができて幸せの絶頂だった2003年6月、48歳の西城秀樹さんを病魔が襲います。
 韓国の済州島で脳梗塞(のうこうそく)を発症しました。

 ヘビースモーカー(1日4箱)で、ワインを1日2本も飲んでいた西城秀樹さんは、急激なダイエットやサウナへ水を飲まずに入るなど、体によくないことを繰り返した時に、脳梗塞になりました。

 ただし、倒れたのではなく、異変に自分で気づき、韓国でのディナーショーをやったあと帰国して、この時は一ヶ月ほど入院しました。
 秀樹さんの体には麻痺が残り、特に歌手として致命的な「構音障害」という声が出にくい状態になりました。

「もう、自分の人生は終わった。死んだも同然だ、引退しよう。」

 そう決心した西条秀樹さんに、奥さんの美紀さんは、
「長い間のツケがたまって病気になったのだから、ゆっくり時間をかけて一緒に治していきましょう。」と言ってくれました。

 この時、長女はまだ1歳に満たない赤ちゃんで、長男は奥さんのおなかの中にいました。
 そんな暖かい家族の中で、西条秀樹さんは、病気と闘う決意を固め、毎日のリハビリを始めました。
 病状は少しずつ改善し、やがてコンサートを開くようになりました。


 しかし、56歳になった2011年、西城秀樹さんは2度目の脳梗塞を発症し、下半身麻痺の症状も出ます。
 「傷だらけのローラ」ならぬ「傷だらけのヒデキ」は、それでもあきらめずリハビリを再開します。

 西城秀樹さんの言葉です。

「脳梗塞(のうこうそく)が再発してから、いまも右手と右足に痺れがあって、リハビリは欠かせない日課です。
 リハビリは、朝食後、9時ごろに家から近所の公園へ。休憩を入れながら約1時間半かけて歩きます。終わると、家に帰って柔軟体操と右手でグー・パーを400回。
 あと、発音がちょっとスムーズでないので約15分、音読をします。
 音読もすごいリハビリになるので。松下幸之助さんや昔の偉人たちの名言を読んでいます。」
 
 西城秀樹さんは、そんな不自由な自分を隠さず、ありのままの自分を見せて、それでも一生歌手、一生アイドルであり続けると決意しました。


 余談ですが、実は私も、去年、「軽い脳梗塞」だと診断され、リハビリを数カ月しました。
 その時、リハビリを手伝ってくれる作業療養士からさん言われたのは、
「あの西城秀樹さんも、10年以上、毎日、リハビリにがんばっておられるのですよ。」
という話でした。
 今までできていたことができなくなっている状態で、単調で根気と努力のいるリハビリを、あの大スター「西城秀樹」さんもやっているというのは、私にもすごく励みになりました。

 西条秀樹さんは、脳梗塞などのリハビリ患者のお手本、希望の星、文字通り「トップスター」だったのです。

 それほど、がんばっていた西城秀樹さんが、脳梗塞から発祥しやすい「心不全」で亡くなったニュースは、私も含め多くの患者さんにとっては、大ショックだと思います。


 それでも、西城秀樹さんが二度の脳梗塞に真摯に向き合い、リハビリを続けたことや、「3度めの人生をありのままに生きる」と決意し、冒頭に紹介した次の言葉を語り、そのとおりに生きたことをファンも同じ病気の患者も忘れないと思います。

「大事なのは、今、このとき。
1日を一生のつもりで、一生懸命に生きたい。
俺が、死のゲートをくぐる時、きちんと前を向いた進行形でいたい。」



<写真 西城秀樹さんのシングル「若き獅子たち」のレコードジャケット(1976年)>





 おしまいは、「西城秀樹さん」のいい話を2つ紹介します。

 1つめは、1979年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を発売した時の話です。

 当初、あまり売れないと思っていたこの曲が大ヒットし、生産が追い付かなかった時、西城秀樹さんは、レコードを急遽、増産することになった神奈川県のビクターの工場を訪れました。
 そして、「みなさんに残業させることになりますが、よろしくお願いします。」と頭を下げ、みかん箱にあがり、「YOUNG MAN 」を熱唱したそうです。
 秀樹さんの人柄が、よくわかる話ですね。


 もう一つは、西城秀樹さんがテレビや舞台だけではなく、アイドル仲間にも愛されていたという話です。

 西城さんや郷ひろみさん、野口五郎さんが「新御三家」と呼ばれていたのに対し、西城さんより学年で3つ下の女性アイドル3人(森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さん)は、「花の中三トリオ」と呼ばれて人気を博していました。
   
 中でも、山口百恵(1959年1月17日生)さんは、絶頂で引退し芸能界に復帰しなかった「伝説的アイドル」として、今も絶大な人気があります。

 この山口百恵さんから、西城秀樹さんは、若いころラブレターをもらったそうです。
「その頃は、あまり女の子に興味がなかったから、つきあわなかった」そうです。

 硬派の秀樹さんと、誠実に生き、今も芸能界への復帰をしない山口百恵さん、二人のビッグカップルが
実現していたら、それはすごいことだったでしょうね。

 アイドル仲間にも愛された、若き西城秀樹さんの、ステキな話ですね。



 最後は、西城秀樹さんの生き方そのもののようなヒデキの名曲「若き獅子たち♪」を紹介します。

 この曲は、1976(昭和51)年9月5日、西城秀樹さんが21歳の時に発売された曲で、作詞はあの阿久悠(あくゆう)さんです。



♪「若き獅子たち」(作詞:阿久悠 作曲:三木たかし 歌:西城秀樹)♪


太陽に向かい 歩いてる限り
影を踏むことはない そう信じて生きている
あなたにもそれを わからせたいけど
今は何にも告げず ただほほえみ のこすだけ

甘いくちづけだけに おぼれそうな今
ぼくはふりきって さらばあなた

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば

闇よかくすな 獅子のたて髪を
若さを誇らしさを思う時に


太陽が昇り 落ちて行くまでの
ほんの短い間 何をしたらいいのだろう
愛だけに生きて ほしいのとすがる
黒い瞳のあなた もう何も言わないで

熱い抱擁だけに 時を忘れそう
ぼくは目を上げて さらばあなた

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば

闇よ隠すな 獅子のたて髪を
若さを誇らしく 思う時に

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば♪



2018年4月25日、人生最後のリハビリを
一生懸命に行った西城秀樹さんは、
その夜、自宅で家族と談笑中に倒れました。

その後、3週間、西城秀樹さんの意識は戻らず
2018年5月16日午後11時53分
急性心不全のため、
神奈川県横浜市内の病院で永眠されました。

しかし、
西城秀樹さんの
アイドルとしてのかっこいい生きざまも
歌手として最後までステージに上がり続けた情熱も
脳梗塞と戦いながら、1日も休まずにリハビリを続けた誠実さも、
ファンやみんなの心から、消えることはないと思います。

太陽に向かい、影を踏まずに
最後までまっすぐに歩き続けた西城秀樹さん。

本当の昭和のトップアイドルであり、
平成の希望の星(ビッグスター)でした。

心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
ヒデキ!




2018年5月4日金曜日

アイドルの坂道(16)農業アイドル・TOKIOとメンバーたち ~危機を救うのは福島との絆?~

 農業やサバイバルを実践し、年齢や性別を問わず、老若男女から支持を受けていたアイドルグループ「TOKIO」のメンバーの1人山口達也さんが、未成年への暴行事件を起こし、「TOKIO」自体が危機に直面しています。

 そこで、今回は「アイドルの坂道」で初めて男性グループとして、「TOKIO」を取り上げて、グループとメンバーのことを紹介します。


 1989(平成元)年4月から1991年3月まで、テレビ朝日などで放送されたテレビ番組「アイドル共和国」は、レギュラーのSMAP、セミレギュラーの光GENJIをはじめ、多くのジャニーズ事務所のタレントが出演していました。

 埼玉県所沢市の「西武園ゆうえんち」を舞台に放送されたこの「アイドル共和国」の中で、TOKIOの前身である「TOKIO BANDO」(城島茂さん、山口達也さんなど)と「SMAP学園」(国分太一さん、松岡昌宏さん、長瀬智也さんなど)というグループが誕生しました。

 1990年4月、城島茂さんと国分太一さん、松岡昌宏さんの3人が合流して結成したのが、「TOKIO」です。
 少し遅れて、小島啓さんと山口達也さんが参加し5人となり、長瀬智也さんは、当初はサポートメンバーでした。

 TOKIOのメンバーは、デビュー前に、SMAPや光GENJIのバックダンサーを務めていました。


<写真 「アイドル共和国」があった西武園ゆうえんち(埼玉県所沢市)>





 1994(平成6)年9月のTOKIOのメジャーデビューの直前、メンバーの1人、小島啓さんが突然、ジャニーズ事務所を辞め、芸能界を引退しました。
 そこで、急遽、長瀬智也さんが正式メンバーになり、2018年まで続く5人で、1994年9月21日に、TOKIOは「LOVE YOU ONLY」でメジャーデビューしました。

 この年、TOKIOは、全国9都市で24公演を行い、CDデビュー2ヵ月後の11月2日には「武道館公演」を行いました。
 さらに、1994年12月31日には、デビュー後3カ月で、NHK紅白歌合戦に初出場しました。
 この年から2017(平成29)年まで、TOKIOは24回連続で紅白歌合戦に出場しています。

 これまで、シングルCDは「宇船」や「クモ」など53枚、オリジナルアルバムは12枚、発売しています。



 1995(平成7)年11月に、TOKIOの看板番組として始まった日本テレビ系の「ザ!鉄腕ダッシュ!」は、最初は深夜の30分番組でした。

 しかし、TOKIOのメンバーが、アイドルなのに、農業や漁業、酪農や製造業、ハチの巣取りまで本気で行う企画が好評で、1998年春からは日曜夜7時からのゴールデン枠の日本テレビ系全国28局ネットの60分番組となり、それから20年経った2018年5月現在でも、「鉄腕DASH」は。「サザエさん」、「笑点」と並ぶ、日曜夜の3大番組と呼ばれ、15%~20%の高視聴率をキープしています。


 番組内では、農業でコメ作りを10年以上続けたり、城島キャプテンがクレーン車やショベルカーの免許をとって行う建設工事など、本気と一生懸命さが多くの視聴者の共感を呼び、TOKIOは「農業アイドル」と呼ばれています。

 特に、福島県浪江町で東日本大震災まで本格的な農業を行っていた「DASH村」や、日本近海(公表されていませんが瀬戸内海西部説が有力)の無人島でサバイバル活動で「小さな日本作り」をめざす「DASH島」、各地の捨てる食材で料理を作る「0円食堂」など、日本人が忘れていた自然とのふれあいや、自立、ものを大切にする企画は、世代や性別を問わず好評で、「子供たちに見せたい番組」の上位にランクインし、「男が好きなジャニーズアイドル」としても、TOKIOは不動の人気を誇っています。


 ほかにも、「24時間テレビ 愛は地球を救う」(日本テレビ系)のメイン・パーソナリティを3回(1998年、2003年、2010年)務め、1997年には山口達也さんが、2014(平成26)年にはキャプテンの城島茂さんが、それぞれチャリティ・マラソンのランナーにもなっています。

 また、「2020年東京オリンピック・パラリンピック」のフラッグツアーのスペシャル・アンバサダーに就任するなど、TOKIOは、様々な活動を個人やメンバー全体でしています。


<DASH村(福島県浪江町)>






 ここからは、 TOKIOの5人のメンバーを紹介します。


 まずリーダーの城島茂(じょうじま・しげる)さんは、1970年11月17日千葉県市原市生まれで、奈良県大和郡山市出身の47歳です。
 TOKIOの最年長でリーダーです。

 小学校3年で両親が離婚し、母子家庭で育ち、中学校までは不登校を繰り返す子供でした。

 TOKIOとしてデビューしてからは、「鉄腕DASH」で料理や重機操縦(免許)など、本格的にがんばる真摯で温厚な姿勢が、メンバーや外部からも厚い信頼を得ています。

 過去には多くの番組やCMへの出演、作詞もした経験もあり、今は「民謡魂 ふるさとの歌」(NHK総合)や「週間ニュースリーダー」(テレビ朝日)のレギュラーなどをしています。



 2人めの国分太一(こくぶん・たいち)さんは、1974年9月2日に東京都東久留米市出身の43歳です。
 
 映画「しゃべれども しゃべれども」や「だいじょうぶ3組」などの主演をしているほか、CM、バラエティ番組、作曲、司会などもやっています。

 現在も、平日の毎朝放送しているワイドショー「ビビット」(TBS)の司会など、多くのテレビ・ラジオ番組に出演しています。

 2018年5月現在、(山口達也さんが離婚したため)TOKIOのメンバーで唯一の妻帯者で、1歳の女の子の父親でもあります。



 3人目のメンバーは、松岡昌宏(まつおか・まさひろ)さんで、1977年1月11日北海道札幌市生まれの41歳です。

 10歳で横浜に引っ越し、毎日、丘の上から東京タワーを見て、「このタワーが見える場所に住む」という誓いを立てて、ジャニーズ事務所のオーディションを受け芸能界入りしました。
 小さい時から料理が得意で、「鉄腕DASH」でもその腕前を披露しています。また、紫色好きでも有名です。

 映画「ゴジラ FANAL WARS」の主演のほか、「必殺仕事人シリーズ」(テレビ朝日)をはじめ、多くのテレビドラマやラジオ、CM、舞台などに出演しています。



 4人めのメンバーは、長瀬智也(ながせ・ともや)さんです。
 1978年11月7日神奈川県生まれの39歳で、TOKIOでは、最年少メンバーです。

 TOKIOの多くの楽曲のボーカルをはじめ、テレビドラマの「白線流し」(フジテレビ)や「タイガー&ドラゴン」(TBS)などの主演をはじめ、多くの映画・ドラマ・舞台・CMなどで活躍しています。
 また、作詞・作曲をしたり、写真集を出したりもしています。



 最後の5人目のメンバーが、今、悪い意味で「時の人」になっている山口達也(やまぐち・たつや)さんです。
 1972年1月10日埼玉県草加市生まれの46歳です。

 山口さんも、他の4人のメンバーと同じく、朝の情報番組「ZIP」(日本テレビ系)のコメンテーターをはじめ、映画、テレビ、CM、ラジオなどで活躍していました。
 ところが、2018年2月に自身が司会を務める番組「Rの法則」(NHK・Eテレ)の未成年(16歳)の女子高生を、部屋に呼びキスなどのわいせつな行為をしたということで問題になりました。

 被害者と和解が成立し、処分保留で不起訴になりましたが、アルコールによる肝障害(中毒症状ともいわれています?)で入院し退院した直後に飲酒して起こした事件で、公になるまでメンバーにも話していなかったこともあり、世間的はもちろん、メンバーの信用も失い、「無期謹慎」で芸能人生命が、崖っぷちになっています。
 

<TOKIOが参加している福島県の食の安全PRポスター>






 2011年3月11日、TOKIOのメンバーが長い間、農業の拠点にしてきた「DASH村」がある福島県双葉郡浪江町が東日本大震災で被災し、「福島原子力発電所事故」の影響で、DASH村は「計画的避難区域」に指定され立ち入り禁止になりました。

 この年から、長年、お世話になった福島県への恩返しとして、「福島県産の農作物」の安全PRのCMに
TOKIOはノーギャラーで出演してきました。

 そのTOKIOが、グループ存続の危機に陥った2018年5月、ネットを中心に福島県民からは「今まで私たちを支えてくれたTOKIOを、今度は福島が助ける番」という意見が広がっています。
 TOKIOのピンチを救うのは、福島県との絆かもしれませんね。


 また、「農業」や「自立」の大切さを教えてくれてきたTOKIOの「鉄腕DASH」は、山口達也さんの不祥事が起きても、「存続してほしい」とのファンの声が多く、番組スタッフからもTOKIOメンバーに「僕らもTOKIOです。これからも一緒にやりましょう。」という心温まる言葉もあったそうです。
 番組は、山口さんを除く4人で継続されるそうです。
 私も、よく見る好きな番組なので、よかったなと思っています。



 山口達也さんの事件への反省・償いはしっかりとしてもらって、4人なのか5人なのかはわかりませんが「貴重な農業アイドル・TOKIO」の活動を、これからも続いてほしいと願っています。


 最後は、今のTOKIOメンバーの心を歌ったかのようなTOKIOの曲、「frajile」(われもの注意の意味)を紹介します。


♪「frajile」(2016年発売 作詞・作曲 長瀬智也 歌:TOKIO)♪


花びらが風に吹かれ
命のように散っていく
ただ追いかけて
悲しみもなく 
途方に暮れるんだろう

涙 拭かないと
ほら 桜がキレイだよ

壊れそうなほど 胸が苦しくて
明日が見えなくても
ただ唄うしかなくて


いつの日も 風に打たれ
子供のように泣いていた
思い出しても 跡形もなく
空に溶けていくんだろう

僕の心のように
桜が揺れている

壊れそうなほど 君に触れたくて
もっとたくさんの歌詞は
明日が見えなくても また歩きはじめるから


壊れそうなほど 胸が苦しくて
明日が見えなくても
ただ唄うしかなくて

ユラリユラリユラリユラリラ
ユラリ 桜咲いてる

確かに生きている
あの桜みたいに 力強く
言葉じゃないものが
心に咲き誇れ
あの桜 みたいに♪




相手がピンチの時に
助けるのが本当の友人
だとしたら

「TOKIOと福島」は
本物の絆でつながっている友人だと思います。

TOKIOの代名詞
「DASH」は
突進する・打ち砕くという意味があります。

TOKIOと福島は
固い絆で、
正々堂々と困難に突進し
障害を打ち砕いてほしいですね。




2018年4月23日月曜日

日本政治に一石を投じた愛媛県知事と「坂の上の雲」


 2018(平成30)年4月10日、愛媛県の中村時広知事が記者会見し、「2015年、愛媛県職員らが首相官邸を訪ねた際に、当時の柳瀬首相秘書官が『加計学園の獣医学部の愛媛県今治市への誘致は首相案件』と述べたことを、県職員が記述した備忘録が存在する。」
と発言しました。

 さらに文書の信憑性を聞かれて、「(愛媛)県職員が文書をいじる必要はないわけで、まじめな部下を私は全面的に信頼している。国の方が、正直に言われたらいいんじゃないですか。」と、きっぱり答えました。
 
 時の政権の主張と矛盾する内容を、地方の自治体トップの知事が言い切ったことで、加計問題が再び、大きくクローズアップされました。
 やがて、愛媛県の主張を裏付ける資料が、農林水産省や文部科学省で見つかりました。

 

 「獣医学部を愛媛県今治市に誘致した愛媛県知事が、なぜ、勇気ある発言をしたのか」ということに、私は興味を持ちました。
 そこで今回は、「時の人」となっている中村時広・愛媛県知事と愛媛県について紹介します。



<中村時広知事が自らモデルになった愛媛県のPRポスター>




 中村時広(なかむら・ときひろ)さんは、1960(昭和35)年1月25日、愛媛県松山市生まれの58歳です。
 お父さんの中村時雄(1915年~2001年)さんは、衆議院議員・松山市長を歴任した政治家でした。


 中村時広さんは、慶応義塾の幼稚舎から慶応義塾高校までを卒業し、大学も慶応大学法学部法律学科を卒業しました。

 1982(昭和57)年、大学を卒業すると中村さんは三菱商事に就職します。
 そして、1987(昭和62)年に、愛媛県議会議員選挙に出馬し当選して、政治家への第一歩を歩み始めました。

 1990(平成2)年には、初めて衆議院選挙に旧愛媛1区から出馬し落選しますが、1993(平成5)年には、日本新党から出馬し、日本新党ブームに乗り衆議院初当選を果たしました。
 その後、日本新党が解党し1996(平成8)年、新進党から出ましたが落選しました。
 
 1999(平成11)年には松山市長選挙に立候補し、自民党・民主党・社民党などの支持を受けている現職市長を破り、39歳で松山市長に初当選しました。

 それから、3期11年、松山市長を務め、2010年からは愛媛県知事に就任し、自らの後継者として推薦する松山市長と県市協調での政治を行っています。(現在、知事は2期目)

 「保守王国」と言われる愛媛県の中では、珍しい革新系知事であり「既存の仕組みをぶっ壊すのが好きな政治家」あるいは「都道府県と県庁所在地市との連携政治」の先駆です。
 このようなことから、あの橋下徹元大阪府知事から、兄のように尊敬されています。


 このような背景があり、今回の加計学園問題での中央政治の「忖度(そんたく)」や「記憶にない」との対応に、真っ向から異論を唱え、「勇気ある記者会見」を行ったのだと思います。

 
 中村時広さんが松山市長時代に行った地域づくりとして、「坊ちゃん列車の復活」、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」をモチーフに記念館やNHKドラマの支援、そして、プロ野球のオールスターゲームの「坊ちゃんスタジアム」への誘致などがあります。

 特に、司馬遼太郎さんが愛媛県出身の俳人・正岡子規や軍人・秋山兄弟を主人公に、松山市などを舞台にして書いた名作「坂の上の雲」は、中村知事が大好きな作品でした。

 中村知事の松山市長時代のホームページの内容の一部を紹介します。

「『坂の上の雲』のまちづくりには、二つの目的があります。
 一つは司馬さんが伝えようとしたメッセージが、今まさに現代社会が必要としているものと捉え、訪れた人々にそのことを感じ取って頂ける魅力を松山というまちに付加しようということです。

 世の中が成熟したことに伴い、日本という国は、この先どのような国を目指すのかという目標を見失ってしまったのではないでしょうか。
 こうした状況に身をおきますと、人々はその日が良ければいい、自分だけが良ければいい、その瞬間が楽しければいいという、安易な道に入り込んでしまい、生き方そのものが刹那的になってゆきます。
 しかしながら、そこには瞬間的な楽しみはあったとしても、人生というものの中で味わえる、本当の意味での生きがいというものを見出すことができなくなります。


 まさに、夢、理想、目標、そういったものの必要性が現代社会で求められているとするならば、『坂の上の雲』の物語、そのメッセージというのは、まさに時代にフィットしていると思います。
 『坂の上の雲」というのは、「国でもいい、地域でもいい、個人でもいい、みんなで夢や理想や目標を持とうよ。それさえ見えれば人はそれに向って一生懸命生きることができるよ、そのことが人生を充実したものにしてくれるよ」というメッセージに外ありません。それを、この松山で発信できたらというふうに思っているのが一つであります。

 そしてもう一つは、結果として地域の活性化に結び付けるということであります。」
(2007年4月24日 中村時広松山市長<当時>のホームページより)


 
<愛媛県のみかんのゆるキャラ「みきゃん」>




 司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」の中でこんな記述があります。
「四国では、昔から4県の県民性を評して、『讃岐(香川県)男に阿波(徳島県)女、伊予(愛媛県)は学者に、土佐の高知(高知県)は鬼侍』と言う。」

 具体的な人物を挙げると、讃岐男は空海や要潤さん、阿波女は瀬戸内寂聴さん、伊予の学者はノーベル賞を受賞した大江健三郎さんや中村修二さん、そして土佐の鬼侍は坂本龍馬や吉田茂元首相などです。

 この言葉を踏まえて、「学者の国」=伊予(いよ・愛媛県)のことを書いた詩を紹介します。
 


~詩「デープインパクト・愛媛」~

愛媛県の中村知事が
突然
安倍政権に反旗を翻した

「記憶の限りでは会ったことがない」
「訴追される恐れがあるので 控えささていただく」
「忖度(そんたく)」
「首相案件」

なんとも 歯がゆい言葉が並ぶ
最近の政府関係者

これじゃあ
国語も日本も死んでしまいそう

そんな風潮に
愛媛県が正義を語りだした

目の前の損得ではなく
はるか
坂の上に浮かぶ
雲を目指して

愛媛県が
立ち上がった

昔から四国では
こう言われてている

「さぬき男に 阿波女
伊予は学者に 
土佐の高知は鬼侍」

そう
伊予、愛媛は学者の国

ノーベル文学賞の
大江健三郎さん

ノーベル物理学賞の
中村修二さん

俳人
正岡子規

「世界の中心で愛を叫ぶ」の
片山恭一さん

そして
「天下御免」「花へんろ」の
早坂暁さん

愛媛は
真実と正義を求める
学者の国

「将軍(首相)がいなくても 幕府(政府)がなくても 大丈夫 日本は日本
しかし 農民や商人(市民・国民) がいない日本は 果たして日本でしょうか」
(早坂暁 「天下御免」)


「春や昔 十五万石の 城下かな」
「行く秋の また旅人と 呼ばれけり」(正岡子規)


-じゅんくう詩集よりー


<写真 道後温泉本館 (愛媛県松山市)>





 ここで、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」のあとがきの一部を紹介します。

「この長い物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。
 やがて彼らは日露戦争という途方もない大仕事に無我夢中で首を突っ込んでゆく。

 最終的にはこのつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっとも古い大国の1つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうと思っている。


 楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。
 のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう。」 

(司馬遼太郎 作「坂の上の雲」あとがき)



 「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」など、司馬遼太郎さんが書いた名作と、その中に描かれた志を愛する学者の国「愛媛県=伊予」の人たちは、官僚や政治家の「忖度」や「健忘症」を許すことができなくなって、日本政治に一石を投じたのではないのかと思います。


 愛媛県最大の観光地は「道後温泉(どうごおんせん)」です。
 平成28年の観光客数は582万人(松山市)と言われ、その本館は、アカデミー賞を受賞したジブリアニメ「千と千尋の物語」のモデルともいわれています。

 おしまいは、日本三大古泉の一つ、道後温泉に伝わる、私の大好きな伝説を紹介します。


 昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二人に神様が、伊予の道後を訪れました。
 すると、急に少彦名命が重い病気になられました。
 びっくりした大国主命は、少彦名命を抱いて道後温泉に入られました。
 やがて、少彦名命は、温泉のおかげで目が覚め、
 「真暫寝哉(ましばし いねつるかも)」と言われて、元気になり、温泉で立たれました。
 この時の足跡が「玉の石」になり、今も道後温泉に残っています。

 「真暫寝哉(ましばし いねつるかも)」を、
現代語訳すると、「少し寝たようだなあ。」
という、長い夢から覚めた寝起きの言葉になります。

 今の日本の「経済優先」の政策=アベノミクスから、国民・市民が目覚めて、「ましばし、いねつるかも」と言ってほしい。
 それが、今回の「愛媛県」のデープインパクトの目的、かも知れませんね。


 最後は、中村時広知事の言葉で終わります。

「みんなの目の前に坂道がある。
その上を見つめたら青々とした天が広がっている。
その中にぽっかりと1つの白い雲が浮かんでいたら、それがみんなの夢であり、理想であり、目標だ。

その目標をつかむためには坂道を登っていくだろう。
上り坂だからしんどいし、辛いし、苦しいはずだ。
でも、雲を掴もうという気持ちさえあれば、しんどさはやがてやりがいに変わってゆく。
辛さは生きがいに変わってゆく。
苦しさは雲をつかんだ時の感動に変えることができる。

「坂の上の雲」というのはそういう意味なんだ。
雲というのは、つかんだ瞬間に消えてしまう。でもそれで終わりではない。
1度雲をつかんだ後、立ち止まってふっと上を見あげると、さらにもう次の坂道が続いている。
未来永劫追い求めていくのが「坂の上の雲」。

その雲というのは個人個人が持つものであって、大きくてもいいし小さくてもいい。
規模の大小や中身ではなくて、それぞれが見つけるということが大事なんだ。」

(中村時広氏 ホームページより)






2018年4月16日月曜日

アイドルの坂道(15)卒業する乃木坂46の初代センター・生駒里奈さん ~低姿勢、一生懸命~

 アイドルの坂道、久しぶりに「乃木坂46」のメンバーの話をしたいと思います。 今回、紹介するメンバーは、乃木坂46の初代センターで、西野七瀬さんと並んでグループ最多の6回(1曲目から5曲目と、12曲目)のセンターを務めた生駒里奈(いこま・りな)さんです。

 生駒里奈(いこま りな)さんは、1995(平成7)年12月29日、秋田県由利本荘市出身の22歳です。
 生駒さんのふるさと「由利本庄市(ゆりほんじょうし)」は、秋田県南部にあり日本海に隣接する人口8万人ほどの町です。
 由利本荘市は、南に鳥海山(2236m)、西に日本海がある自然豊かな町です。

 生駒里奈さんは、小学校の頃はダンススクールでジャズダンスを習い、その後、中学校では吹奏楽部に入部し、ドラム、マリンバなどを演奏し、中学3年生の時には「全日本吹奏楽コンクール」の東北大会で銀賞を受賞しました。

 ところが、小学5年生の時からいじめを受け、高校に入ってもそれは続きました。ゲームセンターと本屋が好きで、高校になってからは家で無気力になってゆく里奈さん。
 その姿を心配したお父さんがもってきたのが、「乃木坂46」のオーディションの話でした。

 里奈さんは、「高校のいじめから逃げられるかも」と思い、乃木坂46のオーディションに応募しました。
「芸能界に興味のなかったお父さんが、乃木坂のオーディションの話をもってきたのは運命としか言いようがない。」と生駒さんは語っています。


<鳥海山と菜の花畑(山形県・秋田県)>






 2011(平成23)年8月21日、生駒里奈さんは1000倍以上の倍率を突破して、乃木坂46の第1期メンバーに選ばれました。
 合格後、里奈さんは上京し、東京の高校に転校しました。

 翌2012年2月22日、乃木坂46のデビューシングル「ぐるぐるカーテン」のCDが発売され、生駒里奈さんは初代センターに抜擢されました。

 AKB48のコンサートでレビューした乃木坂46のセンターとして、生駒里奈さんは大観衆の前で、
「私たちには越えなければならないライバルがあります。それは、AKB48です。」
と涙ながらに、でも、一生懸命に挨拶しました。

 その後、生駒さんは、2013年3月発売の5枚目CDシングル「君の名は希望」まで5作連続でセンターを務め、文字通り乃木坂46の顔になりました。

 しかし、本人はグループを引っ張っていくというよりも、「もう、秋田には帰れない。やるしかない。」という思いだったと語っています。

 本人は「グループを引っ張っていく気はなかった」と言いますが、実際には、おとなしいキャプテンの桜井玲香さんに変わって、生駒さんが初期の乃木坂46を引っ張っていたのは間違いないと思います。

 その象徴が、乃木坂46のドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」に収録されている松村沙友里とのケンカの場面です。

 それは、「16人のプリンシバル」という乃木坂46のミュージカルで、1幕目が33人が観客にアピールし、観客の投票で選抜された16人が第2幕のミュージカルに進める舞台でのことです。

 選ばれなかったメンバーの松村沙友里が泣きながらいいました。
「選ばれなかったということは、私と仕事したくない人がいっぱいいるんだよ。だから、やめた方がいいんだよ。私、本当は大学に行けてたのに、すべて捨ててきたのに。」

 そんな松村に、生駒里奈さんが敢然と言います。
「みんな同じだよ・みんながんばってきたんだよ。やめるなんて、悲しいこと言わないでよ。」
 そう言って、生駒さんは号泣しました。

 2013年4月に選抜メンバーが発表された6枚目のシングル「ガールズルール」で、生駒里奈さんは、初めてセンターを外れました。
 この時、やっと生駒里奈さんは、センターからはずれた開放感から嬉しそうに駐車場で飛び跳ねました。
 「別にセンターじゃなくてもいい。私には私のやり方がある。」
 そう思える生駒里奈さんは、すごいなと思います。

 2014年2月、松井玲奈さんとの交換留学生として生駒さんは、AKB48との兼任になりました。
「公式ライバルが兼任」というメンバーやファンの不安の声の中で、生駒里奈さんは自分で兼任を選びました。

 この年の暮れ、メンバーのスキャンダルで紅白に選ばれなかった乃木坂46に対し、生駒里奈さんはAKB48のメンバーとして紅白に初出場を果たしました。
 生駒さんにとっては、複雑な紅白初出場になりました。
 
 その後、生駒里奈さんは乃木坂46の専任に戻り、2015年から3年連続で乃木坂46のメンバーとして、仲間と紅白に出場しました。

 さらに、2017年には、ついに乃木坂46は「日本レコード大賞」を受賞し、文字通りトップアイドルとなりました。


 しかし、初代センターの生駒里奈さん自身は、12枚目のシングル「太陽ノック」(2015年7月発売)でセンターを務めた以外は、6枚目からずっと選抜メンバーとしてセンターを支え続け、「低姿勢、一生懸命」を座右の銘に、乃木坂46の1メンバーとして頑張りました。

 また、2013年に地元の秋田県由利本庄市のふるさと応援大使に任命されるなど、多方面で活躍しています。



<生駒里奈さんがモデルの秋田県のPRポスター>





 2018(平成30)年1月30日、生駒里奈さんは乃木坂46からの卒業を表明し、4月22日に日本武道館で「卒業コンサート」を開催することになりました。
 しかし、秋元康総合プロデュサーからの卒業曲センターの打診は断りました。

 そのあたりの気持ちを、2018年3月13日付けの「生駒里奈公式プログ」の一部を紹介します。

「私はデビューシングルのセンターをやらせてもらったので、卒業曲のセンターはやらなくてもいいかなと思いました。
 私は、こういう卒業の仕方があってもいいと思っています。
 1つのパターンにとらわれず、自分らしいグループからの卒業があってもいいかなと思っています。
 ポジションだけで、語りはしませんからね。

 今までの乃木坂46に感謝を伝えて、未来の乃木坂46に起爆剤を与えられるようなことをしたいと思っています。」


 生駒里奈さんは、乃木坂46は卒業しても芸能界は引退しないそうなので、今後にも、期待したいと思います。

 最後は、生駒里奈さんセンターの名曲と言われている「君の名は希望♪」(2013年3月13日発売)の歌詞を紹介して終わります。


♪「君の名は希望」(作詞:秋元康 作曲:杉山勝彦 歌:乃木坂46)♪


僕が君をはじめて意識したのは
去年の6月 夏の服に着替えた頃
転がって来たボールを無視してたら
僕が拾うまで
こっちを見て 待っていた

透明人間 そう呼ばれてた
僕の存在 気づいてくれたんだ

厚い雲の隙間に 光が射して
グランドの上 僕にちゃんと影ができた
いつの日からか 孤独に慣れていたけど
僕が拒否してた
この世界は 美しい

こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかったこと

未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名は”希望”と今知った

(中略)

もし君が 振り向かなくても
その微笑みを 僕は忘れない
どんな時も 君がいることを
信じて まっすぐ歩いて行こう

何にもわかっていないんだ
自分のことなんて
真実の叫びを聞こう
さあ

こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかった
未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名は”希望”と 今知った

希望とは明日の空
WOW WOW WOW




2018年3月31日土曜日

旅立ちの名曲「卒業」と菊池桃子のすてきな生き方 

急に暖かくなって
桜の花が咲き年度変わり、
出会いと別れの季節ですね。

毎年、
「卒業」「旅立ち」の名曲を
この時期
紹介しています。

そこで今回は
菊池桃子さんの「卒業」と、菊池桃子さんの半生を紹介します。


まず、1985(昭和60)年2月27日にリリースされた菊池桃子さんの4枚目のシングルで、初めてチャート1位になった「卒業-GRADUATION-」の1番を紹介します。


♪「卒業ーGRADUATIONー」
(作詞:秋元康 作曲:林哲司 歌:菊池桃子)♪

緑の木々のすき間から
春の陽射しこぼれて
少し眩(まぶ)しい並木道
手を翳(かざ)して歩いた
あの人と私は
帰る時はいつでも
遠回りしながら
ポプラを数えた

4月になると ここへ来て
卒業写真 めくるのよ
あれほど だれかを
愛せや しないと♪


<通学路>



 菊池桃子(きくち・ももこ)さんは、1968(昭和43)年5月4日に東京都品川区で生まれました。
 菊池桃子さんのお父さんは、北海道から上京してきた公務員で、元巨人の長嶋茂雄さんに憧れ立教大学を卒業しました。
 家族は、父・母・兄との4人家族です。


 デビューのきっかけは、菊池桃子さんの叔母さんが、東京都港区青山で飲食店をやっている時に、姪の桃子さんの写真を店に飾っていたのを芸能関係者が見て、スカウトされたことでした。

 菊池桃子さんはおとなしい性格で、芸能界に入る前、彼女の夢は「考古学者になること」だったそうです。

 1983(昭和58)年10月、15歳の時に、ニッポン放送の「学園バラエティ パンツの穴」で芸能界デビューし、翌11月にアイドル雑誌「Momoco」(学研)の創刊号の表紙を飾りました。

 1984年3月に映画「パンツの穴」でスクリーンデビュー、同年4月21日には「青春のいじわる」でアイドル歌手デビューをしました。

 その年、プロマイドの年間売り上げ1位になり、日本レコード大賞新人賞、日本レコードセールス大賞女性新人賞を受賞しました。

 「卒業-GRADUATION-」は4枚目のシングルで、オリコン週間1位を記録し、トータルの売り上げは39万枚を超えています。

 ちなみに、同じ1985年には、斉藤由貴さんの「卒業」、尾崎豊さんの「卒業」も発売されていますが、斉藤由貴さんの「卒業」は最高6位で26万枚、尾崎豊さんの「卒業」は最高8位で20万枚でした。
 当時の菊池桃子さんの人気がよくわかると思います。

 斉藤由貴さんと尾崎豊さんの「卒業」も名曲ですので、いずれ取り上げたいと思っています。


 私が、菊池桃子さんが人間的にすごいなと思うのは、アイドル時代ではなく、その後の生き方です。

 1994(平成6)年8月8日に、プロゴルファーの西川哲さんと婚約しましたが、1995年3月に西川さん側(父親)が、結婚の無期延期を発表しました。
 菊池桃子さんは延期の撤回を求めましたが聞き入れられず、ショックで十二指腸潰瘍になり、そのまま入院しました。
 それだけ、桃子さんは純粋に愛していたということだと思います。

 入院後、結婚が認められ、1995年5月に入籍しました。
 1996年8月に長男を出産し、2001年10月には長女を出産しました。
 この2人目の長女は、乳幼児の時に脳梗塞を発症し、左手足に後遺症が残ることになりました。


 菊池桃子さんは、2人の子供を大切に育てました。
 ところが、2012年1月に、西川哲さんとの離婚(原因は西川さんの素行の悪さと言われています)が発表され、菊池桃子さんは、シングルマザーになりました。


 菊池桃子さんは、これまで、日出女子学園高等学校、戸板女子短期大学、法政大学卒業、法政大学大学院修士コースで学び、生涯教育に造詣が深くなりました。

 そして、2012年8月に、母校の戸板女子短期大学の客員教授に就任し、雇用対策(キャリア教育)を教えることになりました。


 2013年にはNPO法人「キャリア権推進ネットワーク」の理事に就任し、さらに、2015年10月には「一億総活躍国民会議」の民間議員に起用されました。 
 また、2016年7月には、文部科学省初等中学教育局視学委員にも就任しています。

 これらのことから、一時は、大臣に起用されるのではないかという「憶測」も流れました。


<菊池桃子さんの著書「午後には陽のあたる場所」>







 それでは、「卒業ーGRADUATIONー」の2番を紹介します。

♪(2番)

誕生日には サンテグジュベリ
ふいに贈ってくれた
一行おきに好きだよと
青いペンで書いてた
あの頃の二人は
話さえ出来ずに
そばにいるだけでも
何かを感じた

4月になると ここへ来て
卒業写真 めくるのよ
あれほど だれかを
愛せや しないと


4月が過ぎて 都会へと
旅立ってゆく あの人の

素敵な生き方 
うなずいた私♪


私には、この「卒業」の2番の歌詞が、菊池桃子さんのその後の人生を暗示していたように思えます。

 この歌の歌詞にある「サンテグジュベリ」は、フランスの作家(1900年~1944年)で、あの名作「星の王子さま」の作者です。
 フランス貴族の出身で、第2次世界大戦中は偵察機のパイロットとして活躍し、地中海を偵察飛行中に行方不明になりました。空に消えた人生は、まさに「星の王子さま」でした。


 菊池桃子さんの半生も、「星の王子さま」のように、迷いながらもピュアに生きています。
 同じ年に同じ「卒業」というタイトルの曲を発表した斉藤由貴さんが、不倫でバッシングされたのに対し、菊池桃子さんは純愛を貫き西川哲さんと結婚し、子供さんの障害やシングルマザーの逆境にも負けずに、39歳で大学院に進学し、教師・女優・タレントとしてがんばっている姿はまさに「すてきな生き方」だと思います。

 
 最後は、サンテグジュベリと菊池桃子さんの名言を紹介します。


「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目には見えないんだよ。」
 (サンテグジュベリ「星の王子さま」より)

「健常な子と比べると、学ぶ場所が圧倒的に少ない。子供はいつも、『ママ、次はどうすればいいの。私はどうなるの?』と聞いてくる。きちんと答えられない自分がもどかしかった。
 自分自身のためだったら、努力しない。
 母親としては泣いてる場合じゃない。つらいと思っている場合でもない。」
(菊池桃子)

「一生を太陽の動きにたとえると、40歳前後が人生の正午にあたるといいます。
そして、人生の正午を過ぎると、午前中に陽のあたっていた場所とは違う場所に、午後には陽があたるという。
それは、わたしのこれからの人生をきっと楽しいものにしてくれるだろう、そう確信しました。」
(菊池桃子著「午後には陽のあたる場所」より)


 旅立ちの季節には、菊池桃子さんの生き方から勇気をもらえますね。
 アイドルから、シングルマザーの大学講師へ、菊池桃子さんの「すてきな生き方」を、これからも続けてほしいし、応援したいですね。


2018年3月11日日曜日

3.11を忘れない 「かもめの玉子」の奇跡と「黄色いハンカチ」の願い

 死者1万5895人、行方不明者2539人、震災関連死3647人と、合わせれば2万人を超える犠牲者(警察庁・復興庁調べ)が出た、2011(平成23)年3月11日の「東日本大震災」から7年が過ぎました。

「震災を忘れないことが最大の教訓」とも言われていますので、やっぱり3月11日は東日本大震災のことをテーマにしたいと思います。

 今回は、私自身が被災地で撮った写真をいくつか紹介しながら、7年たった現在の復興の状況と「流行語」、そして「岩手銘菓の奇跡」と「被災に舞う黄色いハンカチ」などについて書きたいと思います。


 まず、復興の状況について紹介します。

 国土交通省の調査では、被災した鉄道のうち再開通したのは2175.7kmで、復旧率は92.5%になっています。
 一方、復興道路・復興支援道路は、550kmの整備対象のうち開通した道路は286kmで、52.0%の整備率です。
 交通網は、まだまだ復興の途中ですね。

 一方、避難者数は、全国で7万3000人とまだまだ多くの方が避難されています。
 特に大きな被害があった3県の人口を、震災前の2011年3月1日と2018年1月1日で比較してみると、岩手県が74、089人(5.6%)減、宮城県が25,0960人(1.1%)減、そして福島県が146,525人(7.2%)減となっていて、3県合計で245、710人も減っています。
 全国的な人口減少や高齢化もありますが、特に被災地の人口減は深刻ですね。



<写真 東日本大震災の被災地 (宮城県仙台市)>



がもう一つ気になるのが、福島原発のメルトダウンに関連する、最近の流行語です。
 
 まず1つめは、「風評被害(ふうひょうひがい)」という言葉です。 
 放射線や原発の影響が話題になると、合言葉のように「風評被害に負けない」という言葉が聞かれます。

 確かに、何の責任もない、農業や漁業をする被災地の人たちや避難している人たちが、「風評被害に負けない」とおっしゃるのはわかりますが、きちんとした検査や対策をしなければならない、国や自治体、そして電力会社まで、「風評被害に負けるな」というキャンペーンをはるのは、違うのではないかと思います。

 行政や企業がやらなければならないのは、国民や消費者が本当に安心して福島の食べ物や商品を選べるようにする科学的根拠や対策を講じることだと思います。

 一向に進まない原発のメルトダウンの処理や、汚染水の対策、溜まっていくばかりの除染したあとの土の袋などを見ていると、普通の国民・消費者が安心できるとは、とても思えません。

 検査の方法や数値も、「安全です」とか「検査で数値が出ない」だけでは、説得力はあまりありません。

 たとえば、被爆の単位一つをとっても、マイクロシーベルトやミリシーベルトの正しい知識を、わかりやすく説明してくれている人や番組は非常に少ないように思えます。

 一般の人が1年間に被爆しても安全な数値は、「国際放射線防護委員会(ICRP)」が2007年に出した勧告を踏まえた国の「原子力安全委員会」の考え方によると、平常時は年間1ミリシーベルト以下ですが、緊急時は年間20~100ミリシーベルト、緊急事故後の復旧時は年間1~20ミリシーベルトとしていて、安全値に200倍もの差があります。

 なんでこんな差が「安全」にあるのか、そもそも「ICRPの勧告」ってなんなのか、平常時・緊急時・復興時のそれぞれで安全基準の数値が違うのか、なかなか理解できる人は少ないと思います。

 さらに言えば、年間の「追加被爆量」が1ミリシーベルト以下になるのは、1時間あたり0.23マイクロシーベルト(自然被爆の0.04を含む)だと言っていますが、1時間あたりの被ばく量を1年間に換算するときに、なぜか1日を、野外に8時間、屋内に16時間いるという想定を設けて、数字を(3分の1に)抑えています。

 この数値一つをとっても、数字や計算式のマジックが多く、低い数値が出るようにしていると言っても、過言ではないようです。

 原発の廃炉対策も、「これからやります」「必ずできると思います」と、なんとも頼りない精神論の言葉が並んでいて、これで疑問や反対意見には、「風評被害」というキャンペーンをして封じているとすれば、被災地の人たちが一番、かわいそうだと思います。


 もう一つ、よく使われる言葉で違和感を感じるのは、「過剰診療」という言葉です。
 福島県内を中心に被災地の小児科で行う「甲状腺検査」について、一部の医師の間で言われている言葉です。

 震災・原発事故後の福島県内での学校検診で、2018年3月1日現在、悪性または悪性の疑いのある患者が196人、甲状腺癌と確定した患者が160人になったとの報告がありました。
 全国的は1万人に1人程度と言われているので、福島県の全人口200万人弱と比較しても、極めて多い数字で、原発事故の影響の疑いが高いと言わざるを得ません。

 この結果について、「福島県民健康調査のあり方検討委員会」の委員の一人から、「この検診は過剰検診の疑いがある」と、検診自体をやめるような見直しを求める意見がありました。 

 悪性の甲状腺癌が見つかり、治療できることはいいことなのに、「甲状腺癌の出る割合が多すぎるから検診を中止するべき」との発言は、原発の影響が子供たちの間に広がっているのが公になるのはまずいと言っているとしか聞こえないもので、本当に子供たちのことを考えているのかなと疑問です。


<写真 震災で有名になった岩手県の銘菓「かもめの玉子」>



 ここからは、岩手県銘菓「かもめの玉子」の奇跡を、叙事詩風に紹介します。


詩「かもめの玉子の奇跡」


忘れることができない
忘れてはならない
3月11日
東日本大震災

あれから7年が過ぎ
2万人以上が犠牲になった

あの時
多くの悲劇の中で
いくつかの奇跡が起きた

その一つが岩手県大船渡市で起きた
「カモメの玉子」の奇跡

さいとう製菓は
震災直後
「売り上げは半減すると考え」
従業員25人を解雇した

その後
「どうせ売れないなら」と
避難所で
無料配布した

このことが伝わり
「カモメの玉子」に
ファンが増え
そして売り上げは落ちなかった

まもなく
解雇された従業員全員が
職場復帰した

「カモメの玉子」の奇跡として
伝え続けられている

(じゅんくう詩集より)



 この「かもめの玉子の奇跡」の話を聞くと、しっかりと消費者に理解をいただくような対応をすれば、「風評被害」に負けず、世間の評判を逆に味方につけて、ピンチをチャンスに変えた食品会社もあることがよくわかります。


<写真 被災地の風にゆれる「黄色いハンカチ」(宮城県仙台市若林区)>



 私が東日本大震災の被災地に行った時、津波に流された広大な空地や、1階部分のない民家、屋根だけになったガソリンスタンド、がれきの山などと並んで、驚いたのは「黄色いハンカチ」がいくつも、風に翻っていたことでした。

 この黄色いハンカチの話も、叙事詩風に紹介します。



詩「風に揺れる黄色いハンカチの願い」


宮城県仙台市若林区荒浜
多くの住宅が津波に流され
多くの津波犠牲者が出た

仙台市は「危険区域」に指定し
住民移転を推進した

その海岸近くの
被災地に
私は
立ち尽くしていた

見渡す限り
何もない荒れ地に
黄色いハンカチが
風に揺れていた

みごと
恋人の家に帰った
「幸福の黄色いハンカチ」
の映画の主人公のように

「かならず いつか ここへ帰って来る」
そんな被災者の願いと
「ここへ帰っておいで」という
犠牲者や行方不明者へのメッセージを込めて

たくさんの黄色いハンカチが
被災地に揺れていた

(じゅんくう詩集より)



 1977(昭和52)年に山田洋次監督が作った映画「幸福の黄色いハンカチ」は、高倉健さんが演じた主人公が網走刑務所から出所する前、奥さん(賠償美津子さん)に、「まだ待ってくれているなら黄色いハンカチを家に上げておいてくれ」という手紙を送ります。

 その家をめざし、高倉健さんが、若者のカップル(武田鉄矢さんと桃井かおりさん)に助けられながら向かう話です。
 結果は、見事、自宅にたくさんの黄色いハンカチが上がっていました。

 このハッピーエンドの映画は、第1回日本アカデミー賞を総なめした名画です。
 ちなみに、1978(昭和53)年から始まり今も続いている、日本テレビのチャリテイー番組「24時間テレビ~愛は地球を救う~」の、Tシャツなどのイメージカラー「黄色」は、この映画からとっています。

 被災地で「黄色いハンカチ」を掲げるのは、「ここへ必ず帰るぞ。復興するぞ。」という復興の願いを込めた意味が多く、東日本大震災では、私が行った宮城県仙台市以外にも、岩手県の釜石市や、「JA新ふくしま」のプロジェクト、千葉県松戸市の「松戸・東北交流サロン」などでも、「黄色いハンカチ」が使われています。


 最後になりましたが、「天災は忘れた頃にやってくる」ということわざを思い出し、東日本大震災の被災地はもちろん、関東や東海・東南海・南海など、全国各地の大地震・津波に備えるために、これからも3月11日を忘れてはいけない日にしたいですね。

 東日本大震災の多くの犠牲者のみなさんの冥福を祈り申し上げます。


<津波が襲ってきた海岸に立つ東日本大震災の慰霊塔(宮城県仙台市)>




<おまけ>
 今年も「Yahoo! 」で、3月11日に「3.11」と検索すると、1人1回100円を、J復興支援のために寄付してくれるそうです。


2018年3月4日日曜日

追悼 大杉漣さん ~急死したやさしき名脇役(バイプレーヤー)~

「座右の銘は、『見る前に飛べ!』です。まず、やってみる。そこでしか味わえない喜びがあります。もちろん、つまづくことありますが、すべてが身につきます。」 これは、「300の顔を持つ男」と言われていた俳優の大杉漣さんの言葉です。

 2018(平成30)年2月21日に、名バイプレーヤー(脇役)で、芸能界一とも言われるやさしい人柄で知られていた大杉漣さんが、急性心不全のため66歳で亡くなられました。
 その後のテレビや新聞・雑誌・ネットなどでは、脇役なのに、主役並み、いや主役以上の報道がされました。
 死の瞬間を看取った田口トモロヲさんや松重豊さん、遠藤憲一さんらの脇役仲間はもちろん、北野武さんや明石家さんまさんなどの大物から、黒柳徹子さんや渡辺麻友さん、川栄李奈さんらの女優まで、多くの芸能人から死を悼むコメントが寄せら、多くの特集が組まれました。


 これらの報道を見るだけで、芸能界で大杉漣さんが、どれだけ活躍し、どれだけ慕われていたがわかります。

 そこで、今回は「脇役なのに主役級俳優」、大杉漣さんについて紹介します。


<写真 大杉漣さんの生まれた小松島市(徳島県)>



 大杉漣(おおすぎ れん)さんは、1951(昭和26)年9月27日、四国の徳島県小松島(こまつしま)市で生まれました。
 本名は大杉孝(おおすぎたかし)さんです。

 ちなみに、「漣(れん)」という名前は、フォークシンガーの高田渡(たかだ・わたる 岐阜県出身、1949年~2005年)さんの子供の「高田漣」さんの名前をもらったもので、大杉さん本人は、「さざなみ」とも読むと語っています。

 大杉さんのお父さんは学校の先生で、38歳で小松島市立小松島中学の校長になり、以後、いずれも徳島県立の小松島西高校(小松島市)、富岡東高校(阿南市)、城東高校(徳島市)の校長を歴任されています。
 大杉漣さん曰く、家庭では寡黙だったそうです。

 お母さんは「まさ子」さんで、大杉さんは「お前が1番だ」といつでもほめてくれるお母さんが大好きで、自分のギターに「まさ子」という名前をつけていました。
 兄弟は、男ばかり4人で、大杉漣さんは、末っ子でした。

 大杉漣さんは、サッカーとフォークソングの好きな少年で、ボブディランの曲に感銘し、バイトで貯めたお金でギターを買ったことがありました。しかし、そのギターはクラッシックギターで、「ボブディランの演奏する音と違うなあ」と不思議に思ったそうです。(笑)


 小松島市は徳島市のすぐ南にある紀伊水道(太平洋)に面した港町で、大杉漣さんが生まれる3ヶ月前の1951年6月に市制が敷かれ、昭和20年代から昭和40年代にかけては、関西からの四国の東の玄関として、栄えていました。
 大杉さんが子供の頃は、小松島市内に映画館が4つあったそうですが、現在は1つもありません。
 人口は、2015年時点で38,755人です。

 大杉漣さんは、1967(昭和42)年に、徳島県内有数の進学校「徳島県立城北高等学校(徳島市)」に進学しました。
 高校ではサッカー部に所属していました。
 1970(昭和45)年には、明治大学に合格し上京しました。

  1970年代初め、明治大学の学生になった大杉漣さんは、蜷川幸雄さんや寺山修司さんらの演劇に魅せられ、1973(昭和48)年には太田省吾(1939年~2007年)さんの劇団募集に応募し、明治大学を中退しました。
 1973年6月、別役実(べっちゃくみのる 1937年~)さんの作品「門」で、<娼婦を買いに来る客A>という役で、22歳の時に舞台デビューしました。
 翌年には、太田省吾さん主宰の「転形劇場」に入り本格的に舞台の活動をしますが、20代は鳴かず飛ばずでした。

 1980(昭和55)年に、新東宝のピンク映画「緊迫いけにえ」で映画俳優デビューし、日活ロマンポルノや新東宝映画に出演するようになりました。

 1982(昭和57)年には、生涯の伴侶の弘美さんと結婚しますが、映画俳優としても芽が出ず30代も鳴かず飛ばずでした。
 新婚の時期に、ピンク映画の俳優生活をするのは辛かったようで、1988(昭和63)年以降はピンク映画出演を控え、転形劇場の仕事に専念しようとしました。
 ただ、1983(昭和58)年には、滝田洋二郎監督の「連続暴漢」でピンクリボン賞の「主演男優賞」を受賞していますので、演技力は確かでした。

 1988年、転形劇場が解散し、大杉漣さんは拠点を失いますが、舞台俳優の活動を細々と続けます。
 結局、「昭和」の時代に、大杉漣さんの芽は出ませんでした。しかし、下積み時代に養った演技力が、のちに花を咲かす種となったことも確かです。

 1989(平成元)年、時代が「平成」になってからは、Vシネマなどの映画出演をするようになります。

 1993(平成5)年、大杉漣さんが42歳の時、北野武監督の映画作品「ソナチネ」のオーディションに応募しました。
 大杉さんは、オーディションに遅刻してしまいますが、北野監督は「大杉さんを見た瞬間に閃いた」そうで、合格します。

 大杉漣さんの役は、最初はヤクザの組事務所のセリフのない電話番の役でした。
 しかし、北野監督の「アドリブでやってみろ」の命令に、大杉さんは期待以上の演技で応えました。
 「うめえなあ」と感心した北野武監督は、台本を何度も書きかえて、次第に大杉漣さんの役とセリフを増やし、ついには組のナンバー2の役にして、撮影終了まで同行させます。

 その後も、北野武監督は「HANA-BI」などの自身の作品に大杉さんを次々に起用し、文字通り「名脇役(バイプレーヤー)」としての大杉漣さんの評価を決定づけます。
 さらに、崔洋一監督の「犬、走る DOG RACE」(1998年)や磯村一路監督の「がんばっていきまっしょい」などにも出演し好演します。

 1999(平成11)年には、ブルーリボン償の助演男優賞を受賞し「ピンクとブルーの2つの映画賞をもらった俳優」になりました。
 他にも、この年、日本アカデミー賞優秀助演男優賞など多くの映画賞を受賞し、名脇役の座を不動のものとします。
 
 その後は、映画だけでなくテレビドラマやバラエティにも多数出演し、「300の顔をもつ男」と言われるなど、目覚ましい活躍を見せます。

 代表的なものを紹介すると、映画では「BROTHER」(北野武監督、2001年)、「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督、2002年)、「100回泣くこと」(廣木隆一監督、2013年)、「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督、2016年)、「アウトレイジ・最終章」(北野武監督、2017年)などがあり、ウキペディアには394本もの作品が出ています。

 テレビでは、NHK大河ドラマの「秀吉」(1996)や「義経」(2005年)、NHK朝の連続テレビ小説の「どんと晴れ」(2007年)や「ゲゲゲの女房」(2010年)、テレビ朝日の「相棒」シリーズや日本テレビ「花咲舞が黙ってない」シリーズなどが、その代表格です。
 ウィキペデアで見ると、テレビドラマが178本、バラエティが9番組、吹き替え2本、ドキュメンタリー32番組、CM30本も上がっています。

 すごい数ですね。最近は、「大杉連さんの顔をテレビで見ない日はない」と言われていただけに、急死は残念ですね。


<写真 大杉連さんと愛犬「風ちゃん」と愛ネコ「トラ子」(大杉連さんブログ「風トラ便り」より)>




 こんなに、多忙で売れっ子になっても、大杉漣さんは謙虚でやさしい人柄は変わりませんでした。

 たとえば、大学の学生たちが先に出演依頼をしていた日程に、大きなテレビの仕事が割り込んできた時には、大杉連さんは躊躇なく、お金になるテレビの仕事を断りました。
 理由は「先に学生との約束があるから」でした。

 大杉連さんのやさしさは、動物に対しても、同じでした。
 大杉連さんのペットのネコのトラ子は、実は大杉さん主演の映画「ネコナデ」に出演した動物プロダクションのネコでした。
 映画がクランクアップした日、大杉連さんはトラ子を動物プロダクションから買い取り、以来、家でペットとして飼ってかわいがり、大杉さんが亡くなるまで、大杉さんのブログの主役の1人、いや1匹でした。
 ちなみに、ブログタイトル「大杉漣の風トラ便り」の、風は犬の「風ちゃん」、トラはネコのトラ子のことです。

 大杉連さんが、誰にでもやさしいのは、20年以上も役者として苦労をしてきたことと、関係がありそうです。

 大杉さんは、こんな話をされています。
「ぼくは、割と人生だらっとしていた方がいいと思っています。
 今の時代って、白黒はっきりさせないとダメみたいな風潮があります。
 でも、ぼくの仕事(俳優)ははっきりできないから、それを追い求めています。」
 
 大杉さんは色紙にも「あるがまま」と書いています。
 多くの苦労が、大杉連さんのやさしさ、ニュートラルさを作ったんだと思います。

 大杉連さんのやさしさがわかるエピソードは、まだまだあります。

 ある大学の映画研究会からオファーを受けた時、「俺はプロの役者だから、タダというわけにはいかないんだ。」と大杉連さんは答えました。
 学生たちは、お金をかき集め、2泊3日で大杉さんが参加するロケを行いました。

 撮影が終わって、学生たちは大杉連さんに、ギャラを渡しました。
 大杉連さんは、それをそのまま学生たちに返してこう言いました。
「君たちの映画のために使ってくれ。」
 かっこよすぎですね。


 大杉連さんを有名にしたものの一つに、日本テレビのバラエティ番組「ぐるぐるナインティンナイン」の人気コーナー「ごちになります」のレギュラー出演があります。

 大杉連さんは、注文した料理の総額が指定された金額になるように当てるこの番組で、2017年の夏、番組史上初の2週連続ピタリ賞になり、100万円づつ2回、計200万円の賞金を手に入れました。
 大杉漣さんは、この賞金を、自身のバンドが世界一と言われた映画館「酒田グリーンハウス」があった山形県酒田市で開催する「大杉漣バンド港座ライブ」の開催費用にあてました。

 ちなみに、大杉漣バンドのラストコンサートは、結果的に、2018年1月21日(死のちょうど1月前)に開催された「アエルワホール」(徳島県阿波市)でのコンサートになりました。
 

<写真 大杉連さんのRENの字のユニホームが掲げられたJ2徳島ヴォルティスのベンチ>





 おしまいは、大杉漣さんのもう一つの趣味、サッカーの話です。

 大杉連さんはサッカーが大好きで、徳島県立城北高校時代にはサッカー部に所属していました。
 大人になってからも、サッカーをしたり観戦するのが大好きで、芸能界では「鰯(「いわし)クラブ」というサッカ-チームの発起人兼キャプテンをしていました。(背番号10)

 サッカー観戦も大好きで、特に出身地のJ2「徳島ヴォルティス」の熱狂的なサポーターで、仕事の合い間を縫って、関東圏の試合はもちろん、徳島まで自腹で帰って応援をしていました。

 2018年2月25日、大杉漣さんの死から4日後に「ポカリスエットスタジアム」(徳島県鳴門市)で行われた、今シーズンのJ2開幕戦「徳島ヴォルテイス対ファジアーノ岡山」では、大杉漣さんを偲んで試合前に全員が黙とうしました。

 また、会場には2箇所の記帳所が設けられ、徳島ヴォルティスの選手たちは、ユニホームに「REN(漣)」という文字をつけてプレーしました。
 試合は、岡山が勝ちましたが、大杉漣さんは、天国できっと拍手を送ってくれたことだと思います。

 
 実は私は、大杉漣さんのことで一つ後悔していることがあります。

 それは、数年前、大杉漣さんのコンサートのチケットを購入しながら、参加できなかったことです。
 大杉漣さん急死の報道をみて、「残念。」と思いながら、大杉さんのブログを読んでみました。

 すると、死のちょうど1月前の2018年1月21日に、「アエルワホール」という所でのコンサート
を行っていて、それが「ラストコンサート」になったことを知りました。
 
 私は、せめてそのホールに行ってみようと思いつき、休日の夕方、そのホールまで車で行ってみました。
 途中、道に迷ってしまい、会場についた時には真っ暗でしたが、それでも大杉さんの笑顔が見え、声が聞こえてきそうな気がして、しばらく誰もいないホールの前で手を合わし、佇んでいました。

 最後に、その時に作った詩を紹介します。



詩「急死した大杉漣さんのラストコンサートの会場にて」

2018年2月21日
やさしきバイプレーヤー(脇役)
大杉連さんが
突然亡くなった

66歳
「白黒つけなくてもいい」
やさしい人柄だった

若い頃はバンドをやり
俳優の当初はピンクもやった
それから
劇団へ

42歳
やっと有名になったのは
思い切り遅刻した
オーデションの
北野たけし監督の作品
「ソナチネ」

その後
多くの作品に出演し
人気俳優になった

それでも
おごらず
気取らず

学生たちの作品から
大河ドラマ
朝ドラ
CM
バラエティ

なんでも出た
300の顔をもつ男ともいわれた

そんな大杉連さんの
突然死を聞いて

ちょうど
死の1ヵ月前
1月21日に

連さんが
ラストコンサートを行った
会場に急に行きたくなった

地図も持たずに
勘だけで
山道を
やみくもに走った

何時間も走り
ぐるぐる迷路のように走って
結局
コンビニに道を聞き
スマホで検索した

真っ暗な中で
りっぱな市役所の隣りに
その会場
「アエルワホール」があった

真っ暗な建物に
うっすらと浮かぶ
ホールの建物から

大杉連さんの歌声が
聞こえたような
やさしい気持ちになった

誰もいない
真っ暗な中で
「明日 夢が現実にならないとは 言い切れない。
曖昧があるから 人生はポジティブになれるんだよ。」

そんな連さんの声が
聞こえたような
聞こえなかったような

あいまいな でもポジティブな気持ちで
私は「アエルワホール」を後にした

また「会えるわ」??


<写真 大杉連さんのラストコンサートを行ったアエルワホール(徳島県阿波市)>