2018(平成30)年10月27日、大阪の万博記念公園で、AKB48グループのNMB48の「さや姉」こと、山本彩さんの「卒業コンサート」が開催され、3万人が参加しました。
今回は、NMB48(大阪・難波)の1期生で、2年前に卒業した渡辺美優紀(みるきー)さんとツートップでNMB48を支え続け、2016年のNHK紅白歌合戦で行われた「夢の紅白選抜」では、指原莉乃さんらを抑えて、見事、1位に輝いた山本彩(やまもとさやか)さんを紹介します。
山本彩さんは、1993(平成5)年7月14日、大阪府茨木市で生まれました。
兄弟は、兄2人と姉1人がいて、ニックネームの「さや姉」とは違って、本当は4人兄弟の末っ子です。
お母さんは17歳の若さで結婚し、朝日放送テレビの「新婚さんいらっしゃい」に出演したこともあるそうです。
山本彩さんは、小学校2年生から大阪のダンススクール「リトル・キャット」に姉とともに入り、
2008年、14歳の時には、姉らと組んだバンド「MAD CATZ」で、メジャーデビューしました。
学校では、小学校5年から中学校3年まで学級委員長を務め、高校2年の時には生徒会長も務めました。天性の人気とリーダーシップがありました。
< 写真 山本彩さんのふるさと「大阪府茨木市」>
山本彩さんは、2010(平成22)年9月、AKB48グループの「NMB48」(エヌエムビー・フォーティエイト、NMBは大阪市難波からとった)の1期生のオーデションに合格しました。
翌10月の「AKB48・東京秋祭り」で、NMB48の1期生の26人とお披露目され、代表して山本さんがあいさつをしました。
2011(平成23)年1月、NMB48のキャプテンに就任し、同年7月20日にはNMB48の一員として「絶滅黒髪少女」(センターは渡辺美優紀さん)でデビューしました。(オリコン1位)
山本彩さんは、NMB48のデビュー前の2011年4月に、早くもAKB48本体の21枚目のシングル「Everyday,カチューシャ」の選抜メンバーに選ばれ、6月の「第3回AKB選抜総選挙」では、NMB48から唯一、40位以内の28位に選ばれました。
その後も、2011年11月発売の2枚目シングル「オーマイガー」でWセンターの1人に選出され、2012年3月発売の3枚目のシングル「純情U-19」では、初めて表題曲の単独センターに選ばれるなど、山本彩さんは順調に、NMB48の中心メンバーに育っていきました。
2012年11月、NMB48が「大阪マラソンチャリテイ・サポーター」に選ばれた時、こんなエピソードが伝えられています。
山本彩さんたちNMB48のメンバーは、ゴールで参加者を応援する役割でした。
「どうせアイドルなんて、すぐ帰るだろう。」と関係者は思っていましたが、山本彩さんたちNMBのメンバーは、11月の寒空の中、半袖で一生懸命に参加者の世話をし続けました。
予定の時間をはるかに過ぎても頑張る山本さんたちを見て、マラソンのスタッフたちは、NMBの山本さんたちのファンになったそうです。
その後も、山本彩の活躍は続き、2012年6月の「第4回総選挙」で18位、2013年6月の「第5回総選挙」では14位になり、AKB48本体の選抜入りを果たしました。
山本彩さんは、2014(平成26)年2月にAKB48との兼任となり、その年の「第6回総選挙」では6位、2015年の「第7回総選挙」でも6位となり、AKB48本体の中心メンバーの1人になりました。
この2015年8月に声帯手術を受けました。
その翌月の9月末からNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のテーマ曲として採用されたのが、名曲「365日の紙飛行機」で、山本彩さんがセンターを務め、ソロでもギターの弾き語りで歌いました。
「365日の紙飛行機」は、最初は「唇にBe My Baby」のカップリング曲(いわゆるB面)でした。
しかし、「365日の紙飛行機」は、AKBを知らない年配の人もCDショップに現れ、「365日の紙飛行をくれ」というお客さんに、店員が「AKB48のですか」と聞くと、「AKBじゃないよ。365日の紙飛行機だよ。」と言い張った客が何人もいたそうで、AKB48という枠を超えて、多くのファンを獲得し、ついに両方A面の扱いになり、100万枚を超す大ヒットになり、AKB48の代表曲の一つにまでなりました。
また、アジアツアーなどでも、「365日の紙飛行機」が観客たちの多くが、日本語で歌詞を合掌するなど、外国でも愛されています。
「365日の紙飛行機」が大ヒットした翌2016年には、センターの山本彩さんは、6月の「第8回総選挙」で自己最高の4位になり、12月のNHK紅白歌合戦の企画で実施された「夢の紅白選抜」の視聴者投票では、指原莉乃さんや渡辺麻衣さんら総選挙1位の経験者を抑えて、見事トップに山本彩さんがなりました。
<写真 山本彩さんの卒業ライブのポスター>
それでは、名曲「365日の紙飛行機」♪の歌詞を紹介します。
♪「365日の紙飛行機」(作詞:秋元康、作曲:角野寿和・青葉紘季)♪
♪
朝の空を見上げて 今日という1日が
笑顔でいられるように そっとお願いした
時には雨も降って 涙も溢れるけど
思い通りにならない日は
明日 頑張ろう
ずっと見てる夢は
私がもう一人いて
やりたいこと 好きなように
自由に できる夢
人生は紙飛行機
願い乗せて 飛んで行くよ
風の中を力の限り
ただ進むだけ
その距離を競うより
どう飛んだか どこを飛んだのか
それが一番大切なんだ
ああ 心のままに
365日
♪
さや姉の卒業コンサートは、2018年10月27日に「大阪万博記念公園」で行われ、かつての盟友で2年前に卒業した渡辺美優紀(みるきー)さんをはじめ、NMB48の1期生24人が集まり、3万人の観客が集まりました。
このコンサートで、さや姉が言った言葉を最後に紹介します。
「この8年は、NMB48にすべてを捧げて生きてきました。
それも責任感だけではなく、自分自身がしたかったんです。
NMB以上のものはなかったし、私はNMB48が大好きで、大切で、何よりも守りたかったんです。
卒業する身の私が、これからみんなの、NMBの道しるべになれるように、私自身、もっともっと精進して、自分に厳しく、みなさんを幸せにできるように、頑張っていきます。
8年間、本当に最高でした。ありがとう、ございました。」
山本彩さんは、今後、シンガーソングライターとしてソロ活動をするそうです。
その山本彩さんが、二十歳の誕生日にファンからもらった花に、「レインボーローズ」という花がありました。
白いバラを、虹色に着色したものですが、この花言葉が「無限の可能性」です。
この「レインボーローズ」を、山本彩さんが気に入り、2016年発売の山本彩さんのファーストアルバム「Rainbow」の名前にも取り入れ、その名も「レインボーローズ」という本人が作詞・作曲の曲をアルバムに入れています。
最後に、この曲を紹介します。
♪「レインボーローズ」(作詞・作曲・歌 山本彩)♪
♪(2番から)
近づいて離れて 立ち止まって また歩いて
答え合わせの毎日
弱い自分がただ嫌いだった でも君は
そんな僕を 受け止めてくれた
果てしなく続く 空の向こう 広がる世界は
どんな景色だろう わからないけど
君と二人で 見てみたいんだ
明日 世界が終わっても 後悔しない
そう思える生き方をしたいと思った
いつだって僕は思い出す 昨日の自分にサヨナラ
胸の奥に「無限の可能性」
リセットしたって 地球は同じようにまわるんだ
何度でも 僕は僕を 生きていくよ
明日世界が終わるなら何をしようか
君に笑っていてほしいから 僕は歌おう
明日世界が終わっても後悔しない
そう思える生き方をしたいと思った
あの日 君がくれた花を 忘れはしない
虹色の花言葉は 「無限の可能性」♪
シンガーソングライターとしての山本彩さんが、「無限の可能性をもった紙飛行機」として活躍し、
いつか「ソロで紅白に出る」という幼いころの夢を叶えてほしいと、願っています。
2017(平成29)年11月に「東京ドーム公演」を成功。
続いて同年12月には「日本レコード大賞」受賞と3年連続「NHK紅白歌合戦出場」。
まさに、日本のアイドル界の頂点に立った「乃木坂46」です。
その乃木坂46を引っ張る「乃木坂の顔」と呼ばれている白石麻衣(しらいし・まい)さんを、今回は紹介します。
白石麻衣さんは、1992(平成4)年8月20日、群馬県沼田市の生まれです。
小さい頃の夢は「ケーキ屋さん」でした。
中学では、吹奏楽部に入り、続いてソフトボール部に転部しました。
ソフトボール部では、4番セカンドでホーウランも量産して活躍しました。
ところが、友達の陰口がきっかけで不登校になり、引きこもりになりました。
このことがあって、白石さんは今でも、あまり群馬県出身という話をしたがりません。
中学を卒業すると、白石麻衣さんは、母親とともに埼玉県に引っ越し、さいたま市浦和区にある「小松原女子高校(現・浦和黎明高校)」に進学しました。
高校卒業後、東京都江戸川区西葛西にある「東京スクールオブミュージック専門学校」に入りました。
2011年、その専門学校の担任の先生から、「オーディションを受けてみたら」と勧められたオーディションが「乃木坂46」の1期生募集でした。
白石麻衣さんは人前に出るのが苦手で、アイドルには興味がありませんでした。
それでも、「引っ込み思案の小さいころからの自分を変えて、不登校や引きこもりの弱い自分をリセットしたい。」という気持ちで、乃木坂46受験を決意しました。
2011(平成23)年8月21日、白石麻衣さんが19歳の誕生日を迎えた翌日、1081倍(応募者38、934人から36人が合格)の倍率を見事突破して、白石麻衣さんは乃木坂46のオーディションに合格しました。
<写真 白石麻衣さんが通っていた東京スクールオブミュージック専門学校(東京都江戸川区)>
翌2012(平成24)年2月22日に、白石麻衣さんをはじめとする乃木坂46は、AKB48の公式ライバルとして、「ぐるぐるカーテン♪」でメジャーデビューしました。
白石麻衣さんは、このデビュー曲で「福神」と呼ばれる1列目・2列目の「フロント選抜メンバー」に選ばれて以来、2018年8月8日発売の21枚目のシングル「ジコチュウで行こう♪」まで、6年半の間、ずっと「福神」でいる乃木坂46の唯一のメンバーです。
生駒里奈さんがデビュー以来5曲連続続けてきた乃木坂46のセンターを、2013年7月発売の6枚目シングル「ガールズルール♪」で、白石麻衣さんが引き継ぎ2代目センターとなりました。
このあと、白石さんは、2015年10月発売の13枚目シングル「今、話したい誰かがいる♪」、2017年3月発売で日本レコード大賞を受賞した17枚目シングル「インフルエンサー」、2018年4月発売の20枚目シングル「シンクロニシティ」と、4回もセンターを務めています。(13枚目と17枚目は西野七瀬さんとのダブルセンター)
競争の激しいアイドルの世界で、白石麻衣さんは、おっとりとした性格を変えず、「みんなを照らす人」(乃木坂46のメンバー秋元真夏さんの言葉)として、メンバーから尊敬を集めています。
彼女のキャッチフレーズは、「こんにちは。四次元から来ましたマヨラー星人、〇〇才、白石麻衣です。」
ですが、デビュー後の白石麻衣さんの活躍は、メンバーの中でも、まさに四次元の活躍を見せています。
まず、ファッションモデルとしては、「LARME」のレギュラーモデルを、2012年から2018年5月まで務め、「Ray」の専属モデルも2013年から2018年3月まで務めました。
次に、白石麻衣さんのセカンド写真集「パスポート」(講談社)は、2017年2月の発売以来、2018年6月までで20回の重版を重ね、21世紀最大のヒットとなる30万部を売りあげました。
男性だけでなく、女性ファンが多いのが彼女の特徴で、美人で色白なのに、あまり自分を主張せず男性にも媚びない性格が、女性にも好感を持たれています。
その証拠に、乃木坂46の握手会で最も人気のある白石麻衣さんの列には、多くの女性ファンが並んでいます。
さらに、「好感度のバロメータ」と言われるCMの2018年上半期のランキングでは、2017年トップの広瀬すずさん(13社)や有村架純さん(12社)などの今をときめく人気女優を抑えて、白石麻衣さんが15社で「2018年上半期のCM女王」に輝きました。(ニホンモニター調べ)
白石さんの主な出演CMは、「キリン・氷結」「カゴメ・ラブレ」などの飲料水・食品から、「ニベア・ボディ」や「資生堂・マキアージュ」などの化粧品、ネットショップの「SHOPLIST」、スマホゲームの「神の手」など、広範囲の分野に渡っています。
<21世紀最大のヒットを記録した白石麻衣さんのセカンド写真集「パスポート」の表紙>
ここからは、白石麻衣さんの名言を紹介します。
○1
乃木坂に入って初めて、人が好きになりました。
○2
イメージすることは大切です。
「こうなりたい」という気持ちを、いつも持っていて、
それを誰かに話したり、表に出していくことは必要だと思います。
○3
イメージしたら、
次は
チャレンジすることです。
どんなに辛くても、それを乗り越えたら、
楽しいことが待っている。
私は、そう思って努力することにしています。
○4
ポジティブでいることを
心がけています。
ネガティブだと、全然いい表情もできないし、
いいものも出てこない。
何がなんでも、楽しく明るくいることが、
大事だなってことを、これまでのお仕事から学びました。
○5
ファンの方の応援があるから、
頑張れるし、今の私がある。
その部分は
これから年齢を重ねて、
どんな風に変わっていくとしても
私の基本軸です。
このことは、
常に忘れずにいたいです。
乃木坂46の顔、白石麻衣さんの1本あたりのCM契約金額は6000万円とも言われています。それだけでも、白石麻衣さんの年収は1億円以上と言われています。
さらに、今世紀最大のヒットを記録した写真集の売り上げや、乃木坂46のメンバーとしての収入を加えると、その額ははかり知れません。
2018年8月20日で26歳になる白石麻衣さんは、「やさしくてきれいなお姉さん」として、
トップアイドル「乃木坂46」の頂点に立ったと言っても過言ではないと思います。
当然、「2つの雑誌モデルを、2018年前半にやめたから引退」という噂も出ています。
でも、自分の生き方、マイウェイを貫いて、これからも乃木坂46の顔を続けていってもらいたいですね。
少しは黒石さん(悪い白石麻衣さんという意味のキャラクター名)が入ってもいいから、もっともっと先へ、がんばれ白石麻衣さん。
そんな気持ちを込めて、最後は2018年8月8日に発売された乃木坂46の21枚目のシングル「ジコチュウで行こう」の1番の歌詞を紹介して終わりたいと思います。
♪「ジコチュウーで行こう」(作詞:秋元康、作曲:ナスカ、歌:乃木坂46)♪
♪
坂を駆け上がって
肩で息しながら
強い日差しの中
入り江の向こうに広がる海原
ずっと抱えてた
悔しいことが
何だか ちっぽけに見えてきた
やめよう!もう
この瞬間を無駄にはしない
人生あっという間だ
周りなんか 関係ない
そうだ 何を言われてもいい
やりたいことをやるんだ
ジコチュウだって
いいじゃないか
マイウェイ
マイウェイ
♪
平成最後の夏、2018(平成30)年の夏は大荒れで始まりました。 6月18日に大阪北部を震源とする震度6弱(マグニチュード6.1)の地震が発生し、死者4人、400人以上が負傷しました。
続いて、7月5日頃からは全国各地で記録的な大雨が降り、7月9日19時10分現在で108人が死亡、行方不明者29人(消防庁調べ)など、西日本を中心に大きな被害が発生しています。
今回は、気象庁が今回の豪雨で計11府県で発表した「大雨特別警報」を切り口に、2018年7月豪雨について考えてみたいと思います。
7月上旬の豪雨の原因は、7月初めに対馬海峡を通過した「台風7号」が、日本の南海上に残していった非常に大きな積乱雲から、西日本から東日本に停滞していた梅雨前線に向かって非常に湿った空気が大量に入り続けたことでした。
<7月6日9時の天気図 (気象庁)>
今度の大雨の大きな特徴は、時間的にはずれがありますが、「大雨特別警報」が過去最多の11府県
(岐阜県、京都府、兵庫県、鳥取県、岡山県、広島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県)に発表された点です。
「大雨特別警報」は、台風や集中豪雨による数十年に一度の降水量が予想される場合、または、数十年に一度の強度を持つ台風や、それと同程度の温帯低気圧による大雨が予想される場合に発表されるものですが、これまでは最大3府県だったので、今回の11府県はそれを大きく上回り、岐阜県から近畿・中国四国、九州北部まで広域に出されました。
しかし、「大雨特別警報」の発表と、実際の雨量や被害とは、必ずしも一致していません。
たとえば、累積雨量が1000ミリを超えた県は、岐阜県、徳島県、高知県でしたが、このうち特別警報が出されたのは2県で、それも大雨の終盤の7月8日になってからでした。
一方、死者(被害)の多かった県は、広島県(40人)、岡山県(28人)、愛媛県(23人)、京都府(4人)、山口県(3人)、福岡県(3人)などでした。
特に、3番目に被害が多かった愛媛県に特別警報が出たのは大雨の最終日の7月8日になってからで、多くの被害が出たのは特別警報が出る前でした。
実は、「太平洋側には、特別警報が出にくい」との説があります。
確かに、今回、大雨特別警報が出された11府県の面している海を考えてみると、ピークを過ぎた7月8日になって特別警報が出た愛媛県と高知県を除くと、ほぼ瀬戸内海・日本海・東シナ海に面している府県と内陸県の岐阜県です。
ちなみに、唯一、太平洋に面している兵庫県の淡路島は、今回の大雨特別警報の発表地域ではありませんでした。
<写真 夜も続く捜索活動(岡山県倉敷市 平成30年7月)>
もう一つ、被災地のインタビューで、「特別警報」の意味を理解している人は少ないのではないかとも、思いました。
たとえば、「特別警報が出てから避難した」という避難者や、「特別警報が出ているから、線路の被害調査や復旧工事はできない」という鉄道関係者がいました。
特別警報は、避難を促す「避難指示」や「避難勧告」とは違いますし、まして「災害復旧」や「被害調査」を禁じるものではありません。
大雨による被害の2大要因は。がけ崩れ・山崩れなどの「土砂災害」と、川やため池の決壊などの「洪水・浸水」による災害ですが、前者のスーパー警報が「土砂災害警戒情報」、後者は「洪水警報」や「(河川ごとの)氾濫危険情報・氾濫発生情報」が警報にあたるものです。
しかし、特別警報と「土砂災害警戒情報」「洪水警報」「氾濫発生情報」、さらに避難を促す「避難指示」や「避難勧告」との役割分担は、一般の人にはわかりにくいと思います。
ちなみに、今回の豪雨で、避難指示や避難勧告の対象になった人は、先の消防庁の調査で約381万人もいますが、実際に避難したのは30、250人で、わずか0.8%に過ぎませんでした。
国民の安全・安心のために、気象庁や国土交通省、都道府県などが次々と制度改革をしてきた「気象警報や防災情報」ですが、今回の豪雨をきっかけに、「一人一人が単純でわかりやすく命を守る行動」ができるように、地震や津波の情報も含め、運用方法や伝達方法を、改革していただきたいと願います。
このブログでも、今後も防災情報を、とりあげていこうと思っています。
それにしても、今回の豪雨は、台風でもないのに、わかっているだけで124人が死亡し6人が心肺停止6人、63人が行方不明(7月10日2時現在、NHK調べ)という平成になって最悪の風水害被害が出ました。
平成最後の夏・2018年は、今回の豪雨をはじめ、大阪北部地震などの地震、霧島連山やキラウエアなどの火山噴火もあり、災害への「備え」や厳重な警戒がますます必要となっています。
<特別警報の基準 (気象関係 ほかに地震・津波・火山噴火などもあります)>
後半は、今年は雨で見えなかった「七夕の話」、いや、「7月7日」が誕生日の「初恋の味・カルピス」の話です。
今から99年前の1919(大正8)年7月7日、あの「カルピス」が発売されました。
カルピスは、創業者の三島海雲(みしま・かいうん、1878(明治11)年~1974(昭和49)年 大阪府箕面市生まれ)さんが、内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を旅行中に体調を崩した時、現地で勧められた乳酸菌を飲むと体調が回復したことに始まります。
この出来事から、三島さん帰国後に研究をすすめ、1919年7月7日に発売したのが「カルピス」で、脱脂乳を乳酸菌で発酵・加糖して、酵母を加えたものです。
7月7日が誕生日なのにちなみ、カルピスの水玉模様は、「天の川」を現しています。
「カルピス」という名前は、「カルシウム」とサンスクリット語の「サルピス」(じゅくその意味)から作った造語で、「あかとんぼ」などの作曲で知られるあの山田耕作さんなどが名付け親です。
「初恋の味カルピス」という有名なキャッチフレーズは、発売直後の1920年頃から使われていますが、三島さんの学生時代の後輩が作ったものです。
三島さんは後輩に、「カルピスは子供も飲む。子供に初恋の味がわかるだろうか。」と聞くと、後輩は笑顔で「子供には、初恋はカルピスの味だと答えればいい。初恋は純粋で美しいものだ。」と答えました。
1923年に起こった「関東大震災」で、カルピスを無料で配布したこともあり、国民の夏の飲み物として、不動の人気を得ました。
ちなみに、手話の「初恋」は、カルピスなどの飲み物を入れた1つのグラスに、2本のストローを指していることをイメージし、写真のような指の形であらわします。
<「初恋」の意味の手話と、カルピスのイメージ >
今年は豪雨で会えなかった七夕の織姫や彦星の二人と、「平成30年7月豪雨」の犠牲者への追悼、ほかの被災者のみなさんの無事を祈りながら、今夜は、少しほろ苦い「初恋の味カルピス」を飲みたいと思っています。
「平成の 最後の夏に 最悪豪雨 やがて淋しき 初恋の味」(じゅんくう)
2018年FIFAサッカーワールドカップ・ロシア大会」は、出場32チームが8グループに分かれてリーグ戦を行い、6月30日からいよいよ16チームによる「決勝トーナメント」が開催されます。 サッカーワールドカップの2回目は、予選リーグを突破した日本チームと決勝リーグを中心に紹介します。
まず、日本チームの予選リーグの戦いについて紹介します。
グループHの日本は、6月19日の初戦で南米の強豪コロンビアと対戦し、前半6分の香川真司選手のペナルティキックで先制しました。
前半39分にコロンビアのファンキンテーロ選手に同点ゴールを決められましたが、後半28分に本田選手のコーナーキックを大迫勇也選手がヘディングで決勝ゴールを決め、2対1で勝利し勝ち点3を獲得しました。
決勝ゴールを決めた大迫選手に対するファンからの呼び名、「大迫半端ないって」が日本中で流行語になりました。
この言葉は、10年前の2008年度開催の「全国高校サッカー選手権」の準々決勝で、当時18歳だった鹿児島城西高校の大迫選手に敗れた滝川第二高校の中西隆裕選手(キャプテン)が、試合終了後の控室で、「大迫、あいつ、半端ないって」と泣きながら称えたことが由来となっています。
大迫勇也(おおさこ・ゆうや)選手は、鹿児島県加世田(現南さつま)市出身で、1990年5月18日生まれの28歳です。
鹿児島城西高校から鹿島アントラーズに進み、ドイツの「1860ミュンヘン」、「FCケルン」でプレーし、2018年、同じドイツの「ブレーメン」に移籍することが決まっています。
この試合は、会場の名前をとって「モルドヴィアの奇跡」と呼ばれています。ワールドカップ本大会で、アジアのチームが南アメリカのチームに勝ったのは、実はこれが初めてでした。
<写真「大迫半端ないって」の応援幕>
続く第2戦は、6月24日にアフリカ代表のセネガルと戦いました。 日本は、2度リードを許しますが、前半34分の乾貴士選手のゴールと、後半33分の本田圭佑選手のゴールで2度とも追いつき、引き分けで勝ち点1を獲得しました。
この試合でゴールを決めた本田圭佑選手は、日本人初の3大会連続ワールドカップでのゴールを決めました。
本田圭佑(ほんだけいすけ)選手は、1986年6月13日に大阪府摂津市で生まれました。
石川県の星稜高校を卒業後、名古屋グランパスに入団し、その後、オランダのVVVフェンロ、ロシアのCSKAモスクワ、イタリアのACミラン、そしてメキシコのCFバチューカと、まさに世界を渡り歩きました。
本田選手の名言を少し紹介します。
「心の中のリトル・ホンダに聞いたら、『ACミランでプレーしたい』と言ったので、ACミランに来た。」
「プロフェッショナルとは、ケイスケ・ホンダのこと。」(NHKの「仕事の流儀」での名言)
本田圭佑選手は国内で69のサッカースクールを設立し、それを運営する会社のミッションについて、
「才能とは生まれ持ったものではなく、環境によって磨き上げられるもの。
大きな夢を持ち、物事がうまくいかなかった時にも心の折れない人材を育成し、才能を開花させるために必要な環境、機会を与える。」と。決めている。
日本の予選リーグの3戦目は、ヨーロッパの強豪・ポーランドと6月28日に対戦し、1対0で敗れました。
日本チーム、は、本田選手、香川選手ら主力を温存し、後半はパスまわしを繰り返して時間を稼ぎました。
結果、勝ち点4でセネガルと並び、反則の少なさ(フェアプレーポイント)でH組の2位となり、予選を突破しました。
西野朗監督がとったこの作戦には、賛否両論ありましたが、私は国際サッカー連盟(FIFA)の行動規範を紹介して、私の意見としたいと思います。
「勝つためにプレーする。勝利はあらゆる試合のプレーする目的であり、負けを目指してはならない。
もしも勝つためにプレーしないのならば、相手をだまし、見ている人を欺き、そして自分自身にうそをつくことになります。
強い相手にあきらめず、弱い相手に手加減してはなりません。全力を出さないことは、相手への侮辱です。試合終了の笛が鳴るまで、勝つためにプレーしなさい。」
前回紹介した、「グリーンカード」(賞賛のカード」の精神ですね。
<サッカーワールドカップ2018 日本代表のポスター>
ロシアワールドカップの大陸別のグループリーグ突破国を見てみると、全16ヶ国のうち、ヨーロッパがロシア、フランス、スペイン、ポルトガル、クロアチア、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スイス、イングランドの10ヶ国(出場14ヶ国)、南米がウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、コロンビアの4ヶ国(出場5ヶ国)で、この2大サッカー強豪地域で、ベスト16のうち14を占めています。
残る2ヶ国は、北中米カリブのメキシコ(出場3ヶ国)と、アジアの日本(出場5ヶ国)です。アフリカは出場5ヶ国が、リーグ戦で全滅しました。
アジア唯一の決勝トーナメント出場国・日本は、7月2日(日本時間では7月3日)に、ヨーロッパの強豪でFIFAランク3位のベルギーと、決勝トーナメント1回戦を戦います。
おしまいは、世界のサッカー名選手の名言です。
・「努力すれば報われる。そうじゃないだろ。報われるまで努力するんだ。」
(リオネル・メッシ選手 アルゼンチン出身)
・「苦しい時ほど、本当の自分がわかる。」
(クルスティアーノ・ロナウド選手 ポルトガル出身)
・「僕らは敗北の中から、多くのことを学んだ。勝者になるために。」
(ネイマール・ダ・シウヴァ・サントス・ジュニオル選手 ブラジル出身)
・「強い気持ちをもっていれば、夢は叶うはずだ。」
(アンドレス・イニエスタ選手 スペイン出身 2018年から日本でプレー)
・「僕は努力をやめないよ。特にワールドカップでは、可能な限り勝ち進みたいからね。」
(キリアン・エムバペ選手 フランス出身)
・「(子供たちに)夢を追いかけて、ください。」
(デビッド・ベッカム元選手 イングランド出身)
半端ないチームワークで、日本が「ロシアの奇跡」を起こすよう、祈念したいと思います
「大事なのは、今、このとき。
1日を一生のつもりで、一生懸命に生きたい。
俺が、死のゲートをくぐる時、きちんと前を向いた進行形でいたい。」
(「ありのままに3度めの人生を生きる」西城秀樹著(廣済堂出版))
これは、昭和のトップアイドル・西城秀樹さんが、二度目の脳梗塞(のうこうそく)を発症した2011年の翌年に出版した本に書かれた言葉です。
2018(平成30)年5月16日に、昭和のトップアイドルの一人で、郷ひろみさん、野口五郎さんとともに、「新御三家(しんごさんけ)」と言われた西城秀樹(さいじょう・ひでき)さんが、心不全のため63歳で亡くなられました。
今回は、1970年代から1980年代にかけて、トップアイドル・スターとして活躍した西城秀樹さんを偲びます。
西城秀樹さんは、本名を「木本龍雄(きもとたつお)」さんといい、広島県広島市で1955(昭和30)年4月13日に生まれました。
実家は広島駅の近くにあり、かなり裕福であったと言われています。(パチンコ屋を経営していたという噂もあります。)
西城秀樹さんには、お兄さんとお姉さんがいて、小学校の時からドラムを叩き、お兄さんたちとエレキバンドを結成していまいた。
さらに、中学校時代には、アメリカ軍の岩国基地のライブハウスへも出演していました。
西城さんは中学を卒業すると、「山陽高等学校」(広島県広島市西区)に進学しました。
そして、高校に入って、西城秀樹さんがジャズ喫茶でバンド演奏していた時に、東京の芸能事務所にスカウトされました。
秀樹さんは、父親など家族の反対を押し切って、家出同然で上京し、いしだあゆみさんなどが所属していた芸能事務所「芸映」(東京都港区赤坂=当時)に入りました。
<写真 西城秀樹さんの死去を報じる中国新聞の号外>
1972(昭和47)年3月に、西城秀樹さんは16歳でビクタ-から「恋する季節」でデビューしました。
キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」(デビューの翌月に17歳になりました)でした。
ちなみに、「西城秀樹」という芸名は、「女学生のとも」という雑誌の公募で決まったそうです。
翌1973年6月に発売された「情熱の嵐」が、オリコン週間チャートで初めてベストテン(6位)に入り、25万枚を売りあげました。
この曲では、「君が望むなら♪」と西城さんが歌うと、会場からファンが「ヒデキ!」と掛け声をかける「コール&レスポンス」が話題となりました。
さらに同じ1973年に、「ちびれた愛♪」と「愛の十字架♪」が連続でオリコン1位となり、西城秀樹さんはスターの仲間入りをし、日本レコード大賞の歌唱賞も受賞しました。
このころ西城秀樹さん(1955年生まれ)、野口五郎さん(1956年生まれ)、郷ひろみさん(1955年生まれ)の三人は、新御三家(しんごさんけ)と呼ばれるようになりました。
1973年11月からは、「ヒデキ!感激」で有名な「ハウスバーモンドカレー」のCMが始まりました。
ちなみに、自分の頬をたたいてVサインをする「ヒデキ!感激」のシーンは、赤ちゃんが偶然、頬をたたいたことから、考えられたそうです。
1974(昭和49)年になると、西城秀樹さんの人気は、ますます高まります。
まず、1974年1月からTBSの人気ドラマ「寺内貫太郎一家」に出演します。
平均視聴率が31%を超えたこのドラマの中で、西城さんは主役の小林亜星さんとのけんかシーンを本気で演じ、左腕を骨折して入院しました。
1974年2月発売の「薔薇の鎖♪」で秀樹さんは、スタンドマイクのパフォーマンスを日本の歌手で初めて披露しました。
また、5月発売のレコード「激しい恋♪」は、58万枚を超える大ヒットとなり、7月には、初主演映画「愛と誠」も公開されました。
さらに8月には、日本人のソロ歌手で初めて、「ドームコンサート」を大阪球場で行いました。(この年から10年連続で大阪球場で開催し、1978年からは6年連続で後楽園球場(東京ドームの前身)で開催しました。)
大阪球場での初コンサートの前日、西城秀樹さん自身がラジオで「懐中電灯をもってきて」と呼びかけ、ファンがそれに応えて一斉に振ったのが、日本で初めて「コンサートでペンライトを使う」パフォーマンスだったと言われています。
1974年8月には、西城さんの代表曲の1つとなる「傷だらけのローラ」♪が発売され、この曲で秀樹さんは「NHK紅白歌合戦」に初出場しました。
以降、西城秀樹さんは、1984(昭和59)年まで11年連続で紅白に出場します。
1975年には「全国縦断コンサートツアー」を開催し、日本人歌手で初めて「武道館ソロコンサート」を開催しました。(以後、11年連続開催)
また、当時の人気のバロメーターだった「プロマイド(タレントのコレクション用写真→今の生写真のルーツ?)」の売り上げが1位になり、トップ・アイドルに上りつめました。
プロマイドの売り上げ年間1位は、この後、全部で4回も記録しました。
1976(昭和51)年からは、阿久悠さん作詞の歌も歌うようになりました。
さらに、1979(昭和54)年には、アメリカの6人組グループ「ヴィレッジ・ピープル」が歌う「Y.M.C.A.」♪を、西城秀樹さん自身が交渉して、カバーすることに成功しました。
ヴィレッジ・ピープルは、実は同性愛者(ゲイ)であり、日本の関係者は反対しましたが、西城秀樹さんはどうしてもこの曲を歌いたくて、「YOUNG MAN」♪ という「若者への応援歌」にリニューアルして発売しました。
この曲は大ヒットし、西城秀樹さんの曲でも最大の80万枚を売り上げ、伝説の歌番組「ザ・ベストテン」(TBS)で、最高点の「9999点」を出しました。
また、1979年の賞レースでも、「YOUNG MAN 」は、日本歌謡大賞を受賞しました。
ではここで、西城秀樹さんの代表曲「YOUNG MAN 」の歌詞を紹介します。
♪「YOUNG MAN 」(作詞:BELOLO HENRI 作曲:MORALI JACQUES 歌:西城秀樹)♪
♪
ヤングマン さあ立ち上がれよ
ヤングマン 今 翔び出そうぜ
ヤングマン もう悩む事は ないんだから
ヤングマン ほら見えるだろう
ヤングマン 君の行く先に
ヤングマン 楽しめる事が あるんだから
すばらしい
Y.M.C.A.
Y.M.C.A.
ゆうつなど 吹き飛ばして
君も元気出せよ
そうさ
Y.M.C.A.
Y.M.C.A.
若いうちはやりたいこと
何でもできるのさ
ヤングマン 聞こえているかい
ヤングマン 俺の言うことが
ヤングマン プライドを捨てて すぐに行こうぜ
ヤングマン 夢があるならば
ヤングマン とまどうことなど
ヤングマン ないはずじゃないか オレと行こう♪
<写真 「YOUNG MAN」のレコードジャケット>
1981年発売の「セクシーガール」♪で、西城秀樹さんのシングル総売り上げは1000万枚を超えました。
その後も「ヤングマン」♪を中心に、西城秀樹さんの歌は、広く長く歌われました。
ただし、アイドル歌手・西城秀樹さんのピークは、1970年代から1980年代の中頃までだと思います。
しかし、人間・西城秀樹さんの真価が発揮されたのは、このあとでした。
西城秀樹さんは、1994(平成6)年に10年ぶりに「ヤングマン」でNHK紅白歌合戦に復帰出場し、阪神大震災の起こった1995(平成7)年にも秀樹さんは紅白に出場し、「震災復興の応援歌」として「ヤングマン」を歌いました。
また、1991(平成3)年には、西城秀樹さんの大ファンで、人気アニメ「ちびまる子ちゃん」の原作者さくらももこさんが作詞した「走れ正直者」♪を、「ちびまる子ちゃん」のエンデングテーマとして、秀樹さんが歌いました。
因みに、アニメ「ちびまる子ちゃん」の中では、まるちゃんのおねちゃんが西城秀樹の大ファンという設定ですが、おねちゃん役の声優・水谷優子さんは「神様って本当にいるんだね。」というセリフを最後に、2016年5月17日に、乳癌のため亡くなりました。
それから2年後の2018年5月16日、1日違いで西城秀樹さんが亡くなられたのは、不思議な縁を感じますね。
2001(平成13)年6月30日、西城秀樹さんは46歳で、大阪在住だった17歳年下の美紀さんと結婚しました、
二人の間には、2002年生まれの長女、2003年生まれの長男、2004年生まれの次男の3人の子供が誕生します。
家族ができて幸せの絶頂だった2003年6月、48歳の西城秀樹さんを病魔が襲います。
韓国の済州島で脳梗塞(のうこうそく)を発症しました。
ヘビースモーカー(1日4箱)で、ワインを1日2本も飲んでいた西城秀樹さんは、急激なダイエットやサウナへ水を飲まずに入るなど、体によくないことを繰り返した時に、脳梗塞になりました。
ただし、倒れたのではなく、異変に自分で気づき、韓国でのディナーショーをやったあと帰国して、この時は一ヶ月ほど入院しました。
秀樹さんの体には麻痺が残り、特に歌手として致命的な「構音障害」という声が出にくい状態になりました。
「もう、自分の人生は終わった。死んだも同然だ、引退しよう。」
そう決心した西条秀樹さんに、奥さんの美紀さんは、
「長い間のツケがたまって病気になったのだから、ゆっくり時間をかけて一緒に治していきましょう。」と言ってくれました。
この時、長女はまだ1歳に満たない赤ちゃんで、長男は奥さんのおなかの中にいました。
そんな暖かい家族の中で、西条秀樹さんは、病気と闘う決意を固め、毎日のリハビリを始めました。
病状は少しずつ改善し、やがてコンサートを開くようになりました。
しかし、56歳になった2011年、西城秀樹さんは2度目の脳梗塞を発症し、下半身麻痺の症状も出ます。
「傷だらけのローラ」ならぬ「傷だらけのヒデキ」は、それでもあきらめずリハビリを再開します。
西城秀樹さんの言葉です。
「脳梗塞(のうこうそく)が再発してから、いまも右手と右足に痺れがあって、リハビリは欠かせない日課です。
リハビリは、朝食後、9時ごろに家から近所の公園へ。休憩を入れながら約1時間半かけて歩きます。終わると、家に帰って柔軟体操と右手でグー・パーを400回。
あと、発音がちょっとスムーズでないので約15分、音読をします。
音読もすごいリハビリになるので。松下幸之助さんや昔の偉人たちの名言を読んでいます。」
西城秀樹さんは、そんな不自由な自分を隠さず、ありのままの自分を見せて、それでも一生歌手、一生アイドルであり続けると決意しました。
余談ですが、実は私も、去年、「軽い脳梗塞」だと診断され、リハビリを数カ月しました。
その時、リハビリを手伝ってくれる作業療養士からさん言われたのは、
「あの西城秀樹さんも、10年以上、毎日、リハビリにがんばっておられるのですよ。」
という話でした。
今までできていたことができなくなっている状態で、単調で根気と努力のいるリハビリを、あの大スター「西城秀樹」さんもやっているというのは、私にもすごく励みになりました。
西条秀樹さんは、脳梗塞などのリハビリ患者のお手本、希望の星、文字通り「トップスター」だったのです。
それほど、がんばっていた西城秀樹さんが、脳梗塞から発祥しやすい「心不全」で亡くなったニュースは、私も含め多くの患者さんにとっては、大ショックだと思います。
それでも、西城秀樹さんが二度の脳梗塞に真摯に向き合い、リハビリを続けたことや、「3度めの人生をありのままに生きる」と決意し、冒頭に紹介した次の言葉を語り、そのとおりに生きたことをファンも同じ病気の患者も忘れないと思います。
「大事なのは、今、このとき。
1日を一生のつもりで、一生懸命に生きたい。
俺が、死のゲートをくぐる時、きちんと前を向いた進行形でいたい。」
<写真 西城秀樹さんのシングル「若き獅子たち」のレコードジャケット(1976年)>
おしまいは、「西城秀樹さん」のいい話を2つ紹介します。
1つめは、1979年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を発売した時の話です。
当初、あまり売れないと思っていたこの曲が大ヒットし、生産が追い付かなかった時、西城秀樹さんは、レコードを急遽、増産することになった神奈川県のビクターの工場を訪れました。
そして、「みなさんに残業させることになりますが、よろしくお願いします。」と頭を下げ、みかん箱にあがり、「YOUNG MAN 」を熱唱したそうです。
秀樹さんの人柄が、よくわかる話ですね。
もう一つは、西城秀樹さんがテレビや舞台だけではなく、アイドル仲間にも愛されていたという話です。
西城さんや郷ひろみさん、野口五郎さんが「新御三家」と呼ばれていたのに対し、西城さんより学年で3つ下の女性アイドル3人(森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さん)は、「花の中三トリオ」と呼ばれて人気を博していました。
中でも、山口百恵(1959年1月17日生)さんは、絶頂で引退し芸能界に復帰しなかった「伝説的アイドル」として、今も絶大な人気があります。
この山口百恵さんから、西城秀樹さんは、若いころラブレターをもらったそうです。
「その頃は、あまり女の子に興味がなかったから、つきあわなかった」そうです。
硬派の秀樹さんと、誠実に生き、今も芸能界への復帰をしない山口百恵さん、二人のビッグカップルが
実現していたら、それはすごいことだったでしょうね。
アイドル仲間にも愛された、若き西城秀樹さんの、ステキな話ですね。
最後は、西城秀樹さんの生き方そのもののようなヒデキの名曲「若き獅子たち♪」を紹介します。
この曲は、1976(昭和51)年9月5日、西城秀樹さんが21歳の時に発売された曲で、作詞はあの阿久悠(あくゆう)さんです。
♪「若き獅子たち」(作詞:阿久悠 作曲:三木たかし 歌:西城秀樹)♪
♪
太陽に向かい 歩いてる限り
影を踏むことはない そう信じて生きている
あなたにもそれを わからせたいけど
今は何にも告げず ただほほえみ のこすだけ
甘いくちづけだけに おぼれそうな今
ぼくはふりきって さらばあなた
風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば
闇よかくすな 獅子のたて髪を
若さを誇らしさを思う時に
太陽が昇り 落ちて行くまでの
ほんの短い間 何をしたらいいのだろう
愛だけに生きて ほしいのとすがる
黒い瞳のあなた もう何も言わないで
熱い抱擁だけに 時を忘れそう
ぼくは目を上げて さらばあなた
風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば
闇よ隠すな 獅子のたて髪を
若さを誇らしく 思う時に
風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば♪
2018年4月25日、人生最後のリハビリを
一生懸命に行った西城秀樹さんは、
その夜、自宅で家族と談笑中に倒れました。
その後、3週間、西城秀樹さんの意識は戻らず
2018年5月16日午後11時53分
急性心不全のため、
神奈川県横浜市内の病院で永眠されました。
しかし、
西城秀樹さんの
アイドルとしてのかっこいい生きざまも
歌手として最後までステージに上がり続けた情熱も
脳梗塞と戦いながら、1日も休まずにリハビリを続けた誠実さも、
ファンやみんなの心から、消えることはないと思います。
太陽に向かい、影を踏まずに
最後までまっすぐに歩き続けた西城秀樹さん。
本当の昭和のトップアイドルであり、
平成の希望の星(ビッグスター)でした。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
ヒデキ!
2018(平成30)年4月10日、愛媛県の中村時広知事が記者会見し、「2015年、愛媛県職員らが首相官邸を訪ねた際に、当時の柳瀬首相秘書官が『加計学園の獣医学部の愛媛県今治市への誘致は首相案件』と述べたことを、県職員が記述した備忘録が存在する。」と発言しました。 さらに文書の信憑性を聞かれて、「(愛媛)県職員が文書をいじる必要はないわけで、まじめな部下を私は全面的に信頼している。国の方が、正直に言われたらいいんじゃないですか。」と、きっぱり答えました。 時の政権の主張と矛盾する内容を、地方の自治体トップの知事が言い切ったことで、加計問題が再び、大きくクローズアップされました。
やがて、愛媛県の主張を裏付ける資料が、農林水産省や文部科学省で見つかりました。 「獣医学部を愛媛県今治市に誘致した愛媛県知事が、なぜ、勇気ある発言をしたのか」ということに、私は興味を持ちました。 そこで今回は、「時の人」となっている中村時広・愛媛県知事と愛媛県について紹介します。<中村時広知事が自らモデルになった愛媛県のPRポスター>
中村時広(なかむら・ときひろ)さんは、1960(昭和35)年1月25日、愛媛県松山市生まれの58歳です。
お父さんの中村時雄(1915年~2001年)さんは、衆議院議員・松山市長を歴任した政治家でした。 中村時広さんは、慶応義塾の幼稚舎から慶応義塾高校までを卒業し、大学も慶応大学法学部法律学科を卒業しました。 1982(昭和57)年、大学を卒業すると中村さんは三菱商事に就職します。 そして、1987(昭和62)年に、愛媛県議会議員選挙に出馬し当選して、政治家への第一歩を歩み始めました。 1990(平成2)年には、初めて衆議院選挙に旧愛媛1区から出馬し落選しますが、1993(平成5)年には、日本新党から出馬し、日本新党ブームに乗り衆議院初当選を果たしました。 その後、日本新党が解党し1996(平成8)年、新進党から出ましたが落選しました。 1999(平成11)年には松山市長選挙に立候補し、自民党・民主党・社民党などの支持を受けている現職市長を破り、39歳で松山市長に初当選しました。 それから、3期11年、松山市長を務め、2010年からは愛媛県知事に就任し、自らの後継者として推薦する松山市長と県市協調での政治を行っています。(現在、知事は2期目) 「保守王国」と言われる愛媛県の中では、珍しい革新系知事であり「既存の仕組みをぶっ壊すのが好きな政治家」あるいは「都道府県と県庁所在地市との連携政治」の先駆です。 このようなことから、あの橋下徹元大阪府知事から、兄のように尊敬されています。 このような背景があり、今回の加計学園問題での中央政治の「忖度(そんたく)」や「記憶にない」との対応に、真っ向から異論を唱え、「勇気ある記者会見」を行ったのだと思います。 中村時広さんが松山市長時代に行った地域づくりとして、「坊ちゃん列車の復活」、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」をモチーフに記念館やNHKドラマの支援、そして、プロ野球のオールスターゲームの「坊ちゃんスタジアム」への誘致などがあります。 特に、司馬遼太郎さんが愛媛県出身の俳人・正岡子規や軍人・秋山兄弟を主人公に、松山市などを舞台にして書いた名作「坂の上の雲」は、中村知事が大好きな作品でした。 中村知事の松山市長時代のホームページの内容の一部を紹介します。「『坂の上の雲』のまちづくりには、二つの目的があります。 一つは司馬さんが伝えようとしたメッセージが、今まさに現代社会が必要としているものと捉え、訪れた人々にそのことを感じ取って頂ける魅力を松山というまちに付加しようということです。 世の中が成熟したことに伴い、日本という国は、この先どのような国を目指すのかという目標を見失ってしまったのではないでしょうか。 こうした状況に身をおきますと、人々はその日が良ければいい、自分だけが良ければいい、その瞬間が楽しければいいという、安易な道に入り込んでしまい、生き方そのものが刹那的になってゆきます。
しかしながら、そこには瞬間的な楽しみはあったとしても、人生というものの中で味わえる、本当の意味での生きがいというものを見出すことができなくなります。 まさに、夢、理想、目標、そういったものの必要性が現代社会で求められているとするならば、『坂の上の雲』の物語、そのメッセージというのは、まさに時代にフィットしていると思います。 『坂の上の雲」というのは、「国でもいい、地域でもいい、個人でもいい、みんなで夢や理想や目標を持とうよ。それさえ見えれば人はそれに向って一生懸命生きることができるよ、そのことが人生を充実したものにしてくれるよ」というメッセージに外ありません。それを、この松山で発信できたらというふうに思っているのが一つであります。 そしてもう一つは、結果として地域の活性化に結び付けるということであります。」(2007年4月24日 中村時広松山市長<当時>のホームページより) <愛媛県のみかんのゆるキャラ「みきゃん」>
司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」の中でこんな記述があります。
「四国では、昔から4県の県民性を評して、『讃岐(香川県)男に阿波(徳島県)女、伊予(愛媛県)は学者に、土佐の高知(高知県)は鬼侍』と言う。」 具体的な人物を挙げると、讃岐男は空海や要潤さん、阿波女は瀬戸内寂聴さん、伊予の学者はノーベル賞を受賞した大江健三郎さんや中村修二さん、そして土佐の鬼侍は坂本龍馬や吉田茂元首相などです。 この言葉を踏まえて、「学者の国」=伊予(いよ・愛媛県)のことを書いた詩を紹介します。 ~詩「デープインパクト・愛媛」~愛媛県の中村知事が突然安倍政権に反旗を翻した「記憶の限りでは会ったことがない」「訴追される恐れがあるので 控えささていただく」「忖度(そんたく)」「首相案件」なんとも 歯がゆい言葉が並ぶ最近の政府関係者これじゃあ国語も日本も死んでしまいそうそんな風潮に愛媛県が正義を語りだした目の前の損得ではなくはるか坂の上に浮かぶ雲を目指して愛媛県が立ち上がった昔から四国ではこう言われてている「さぬき男に 阿波女伊予は学者に 土佐の高知は鬼侍」そう伊予、愛媛は学者の国ノーベル文学賞の大江健三郎さんノーベル物理学賞の中村修二さん俳人正岡子規「世界の中心で愛を叫ぶ」の片山恭一さんそして「天下御免」「花へんろ」の早坂暁さん愛媛は真実と正義を求める学者の国「将軍(首相)がいなくても 幕府(政府)がなくても 大丈夫 日本は日本しかし 農民や商人(市民・国民) がいない日本は 果たして日本でしょうか」(早坂暁 「天下御免」)「春や昔 十五万石の 城下かな」「行く秋の また旅人と 呼ばれけり」(正岡子規)-じゅんくう詩集よりー<写真 道後温泉本館 (愛媛県松山市)>
ここで、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」のあとがきの一部を紹介します。
「この長い物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。 やがて彼らは日露戦争という途方もない大仕事に無我夢中で首を突っ込んでゆく。
最終的にはこのつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっとも古い大国の1つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうと思っている。 楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。 のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう。」
(司馬遼太郎 作「坂の上の雲」あとがき) 「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」など、司馬遼太郎さんが書いた名作と、その中に描かれた志を愛する学者の国「愛媛県=伊予」の人たちは、官僚や政治家の「忖度」や「健忘症」を許すことができなくなって、日本政治に一石を投じたのではないのかと思います。 愛媛県最大の観光地は「道後温泉(どうごおんせん)」です。
平成28年の観光客数は582万人(松山市)と言われ、その本館は、アカデミー賞を受賞したジブリアニメ「千と千尋の物語」のモデルともいわれています。 おしまいは、日本三大古泉の一つ、道後温泉に伝わる、私の大好きな伝説を紹介します。 昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二人に神様が、伊予の道後を訪れました。
すると、急に少彦名命が重い病気になられました。
びっくりした大国主命は、少彦名命を抱いて道後温泉に入られました。
やがて、少彦名命は、温泉のおかげで目が覚め、
「真暫寝哉(ましばし いねつるかも)」と言われて、元気になり、温泉で立たれました。
この時の足跡が「玉の石」になり、今も道後温泉に残っています。 「真暫寝哉(ましばし いねつるかも)」を、
現代語訳すると、「少し寝たようだなあ。」という、長い夢から覚めた寝起きの言葉になります。 今の日本の「経済優先」の政策=アベノミクスから、国民・市民が目覚めて、「ましばし、いねつるかも」と言ってほしい。
それが、今回の「愛媛県」のデープインパクトの目的、かも知れませんね。
最後は、中村時広知事の言葉で終わります。
「みんなの目の前に坂道がある。
その上を見つめたら青々とした天が広がっている。
その中にぽっかりと1つの白い雲が浮かんでいたら、それがみんなの夢であり、理想であり、目標だ。
その目標をつかむためには坂道を登っていくだろう。
上り坂だからしんどいし、辛いし、苦しいはずだ。
でも、雲を掴もうという気持ちさえあれば、しんどさはやがてやりがいに変わってゆく。
辛さは生きがいに変わってゆく。
苦しさは雲をつかんだ時の感動に変えることができる。
「坂の上の雲」というのはそういう意味なんだ。
雲というのは、つかんだ瞬間に消えてしまう。でもそれで終わりではない。
1度雲をつかんだ後、立ち止まってふっと上を見あげると、さらにもう次の坂道が続いている。
未来永劫追い求めていくのが「坂の上の雲」。
その雲というのは個人個人が持つものであって、大きくてもいいし小さくてもいい。
規模の大小や中身ではなくて、それぞれが見つけるということが大事なんだ。」
(中村時広氏 ホームページより)
アイドルの坂道、久しぶりに「乃木坂46」のメンバーの話をしたいと思います。 今回、紹介するメンバーは、乃木坂46の初代センターで、西野七瀬さんと並んでグループ最多の6回(1曲目から5曲目と、12曲目)のセンターを務めた生駒里奈(いこま・りな)さんです。 生駒里奈(いこま りな)さんは、1995(平成7)年12月29日、秋田県由利本荘市出身の22歳です。 生駒さんのふるさと「由利本庄市(ゆりほんじょうし)」は、秋田県南部にあり日本海に隣接する人口8万人ほどの町です。 由利本荘市は、南に鳥海山(2236m)、西に日本海がある自然豊かな町です。 生駒里奈さんは、小学校の頃はダンススクールでジャズダンスを習い、その後、中学校では吹奏楽部に入部し、ドラム、マリンバなどを演奏し、中学3年生の時には「全日本吹奏楽コンクール」の東北大会で銀賞を受賞しました。
ところが、小学5年生の時からいじめを受け、高校に入ってもそれは続きました。ゲームセンターと本屋が好きで、高校になってからは家で無気力になってゆく里奈さん。
その姿を心配したお父さんがもってきたのが、「乃木坂46」のオーディションの話でした。
里奈さんは、「高校のいじめから逃げられるかも」と思い、乃木坂46のオーディションに応募しました。
「芸能界に興味のなかったお父さんが、乃木坂のオーディションの話をもってきたのは運命としか言いようがない。」と生駒さんは語っています。
<鳥海山と菜の花畑(山形県・秋田県)>
2011(平成23)年8月21日、生駒里奈さんは1000倍以上の倍率を突破して、乃木坂46の第1期メンバーに選ばれました。
合格後、里奈さんは上京し、東京の高校に転校しました。
翌2012年2月22日、乃木坂46のデビューシングル「ぐるぐるカーテン」のCDが発売され、生駒里奈さんは初代センターに抜擢されました。
AKB48のコンサートでレビューした乃木坂46のセンターとして、生駒里奈さんは大観衆の前で、
「私たちには越えなければならないライバルがあります。それは、AKB48です。」
と涙ながらに、でも、一生懸命に挨拶しました。
その後、生駒さんは、2013年3月発売の5枚目CDシングル「君の名は希望」まで5作連続でセンターを務め、文字通り乃木坂46の顔になりました。
しかし、本人はグループを引っ張っていくというよりも、「もう、秋田には帰れない。やるしかない。」という思いだったと語っています。
本人は「グループを引っ張っていく気はなかった」と言いますが、実際には、おとなしいキャプテンの桜井玲香さんに変わって、生駒さんが初期の乃木坂46を引っ張っていたのは間違いないと思います。
その象徴が、乃木坂46のドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」に収録されている松村沙友里とのケンカの場面です。
それは、「16人のプリンシバル」という乃木坂46のミュージカルで、1幕目が33人が観客にアピールし、観客の投票で選抜された16人が第2幕のミュージカルに進める舞台でのことです。
選ばれなかったメンバーの松村沙友里が泣きながらいいました。
「選ばれなかったということは、私と仕事したくない人がいっぱいいるんだよ。だから、やめた方がいいんだよ。私、本当は大学に行けてたのに、すべて捨ててきたのに。」
そんな松村に、生駒里奈さんが敢然と言います。
「みんな同じだよ・みんながんばってきたんだよ。やめるなんて、悲しいこと言わないでよ。」
そう言って、生駒さんは号泣しました。
2013年4月に選抜メンバーが発表された6枚目のシングル「ガールズルール」で、生駒里奈さんは、初めてセンターを外れました。
この時、やっと生駒里奈さんは、センターからはずれた開放感から嬉しそうに駐車場で飛び跳ねました。
「別にセンターじゃなくてもいい。私には私のやり方がある。」
そう思える生駒里奈さんは、すごいなと思います。
2014年2月、松井玲奈さんとの交換留学生として生駒さんは、AKB48との兼任になりました。
「公式ライバルが兼任」というメンバーやファンの不安の声の中で、生駒里奈さんは自分で兼任を選びました。
この年の暮れ、メンバーのスキャンダルで紅白に選ばれなかった乃木坂46に対し、生駒里奈さんはAKB48のメンバーとして紅白に初出場を果たしました。
生駒さんにとっては、複雑な紅白初出場になりました。
その後、生駒里奈さんは乃木坂46の専任に戻り、2015年から3年連続で乃木坂46のメンバーとして、仲間と紅白に出場しました。
さらに、2017年には、ついに乃木坂46は「日本レコード大賞」を受賞し、文字通りトップアイドルとなりました。
しかし、初代センターの生駒里奈さん自身は、12枚目のシングル「太陽ノック」(2015年7月発売)でセンターを務めた以外は、6枚目からずっと選抜メンバーとしてセンターを支え続け、「低姿勢、一生懸命」を座右の銘に、乃木坂46の1メンバーとして頑張りました。
また、2013年に地元の秋田県由利本庄市のふるさと応援大使に任命されるなど、多方面で活躍しています。
<生駒里奈さんがモデルの秋田県のPRポスター>
2018(平成30)年1月30日、生駒里奈さんは乃木坂46からの卒業を表明し、4月22日に日本武道館で「卒業コンサート」を開催することになりました。
しかし、秋元康総合プロデュサーからの卒業曲センターの打診は断りました。
そのあたりの気持ちを、2018年3月13日付けの「生駒里奈公式プログ」の一部を紹介します。
「私はデビューシングルのセンターをやらせてもらったので、卒業曲のセンターはやらなくてもいいかなと思いました。
私は、こういう卒業の仕方があってもいいと思っています。
1つのパターンにとらわれず、自分らしいグループからの卒業があってもいいかなと思っています。
ポジションだけで、語りはしませんからね。
今までの乃木坂46に感謝を伝えて、未来の乃木坂46に起爆剤を与えられるようなことをしたいと思っています。」
生駒里奈さんは、乃木坂46は卒業しても芸能界は引退しないそうなので、今後にも、期待したいと思います。
最後は、生駒里奈さんセンターの名曲と言われている「君の名は希望♪」(2013年3月13日発売)の歌詞を紹介して終わります。
♪「君の名は希望」(作詞:秋元康 作曲:杉山勝彦 歌:乃木坂46)♪
♪
僕が君をはじめて意識したのは
去年の6月 夏の服に着替えた頃
転がって来たボールを無視してたら
僕が拾うまで
こっちを見て 待っていた
透明人間 そう呼ばれてた
僕の存在 気づいてくれたんだ
厚い雲の隙間に 光が射して
グランドの上 僕にちゃんと影ができた
いつの日からか 孤独に慣れていたけど
僕が拒否してた
この世界は 美しい
こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかったこと
未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名は”希望”と今知った
(中略)
もし君が 振り向かなくても
その微笑みを 僕は忘れない
どんな時も 君がいることを
信じて まっすぐ歩いて行こう
何にもわかっていないんだ
自分のことなんて
真実の叫びを聞こう
さあ
こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかった
未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名は”希望”と 今知った
希望とは明日の空
WOW WOW WOW
♪
急に暖かくなって
桜の花が咲き年度変わり、
出会いと別れの季節ですね。
毎年、
「卒業」「旅立ち」の名曲を
この時期
紹介しています。
そこで今回は
菊池桃子さんの「卒業」と、菊池桃子さんの半生を紹介します。
まず、1985(昭和60)年2月27日にリリースされた菊池桃子さんの4枚目のシングルで、初めてチャート1位になった「卒業-GRADUATION-」の1番を紹介します。
♪「卒業ーGRADUATIONー」
(作詞:秋元康 作曲:林哲司 歌:菊池桃子)♪
♪緑の木々のすき間から春の陽射しこぼれて少し眩(まぶ)しい並木道手を翳(かざ)して歩いたあの人と私は帰る時はいつでも遠回りしながらポプラを数えた
4月になると ここへ来て
卒業写真 めくるのよ
あれほど だれかを
愛せや しないと♪
<通学路>
菊池桃子(きくち・ももこ)さんは、1968(昭和43)年5月4日に東京都品川区で生まれました。
菊池桃子さんのお父さんは、北海道から上京してきた公務員で、元巨人の長嶋茂雄さんに憧れ立教大学を卒業しました。
家族は、父・母・兄との4人家族です。
デビューのきっかけは、菊池桃子さんの叔母さんが、東京都港区青山で飲食店をやっている時に、姪の桃子さんの写真を店に飾っていたのを芸能関係者が見て、スカウトされたことでした。
菊池桃子さんはおとなしい性格で、芸能界に入る前、彼女の夢は「考古学者になること」だったそうです。
1983(昭和58)年10月、15歳の時に、ニッポン放送の「学園バラエティ パンツの穴」で芸能界デビューし、翌11月にアイドル雑誌「Momoco」(学研)の創刊号の表紙を飾りました。
1984年3月に映画「パンツの穴」でスクリーンデビュー、同年4月21日には「青春のいじわる」でアイドル歌手デビューをしました。
その年、プロマイドの年間売り上げ1位になり、日本レコード大賞新人賞、日本レコードセールス大賞女性新人賞を受賞しました。
「卒業-GRADUATION-」は4枚目のシングルで、オリコン週間1位を記録し、トータルの売り上げは39万枚を超えています。
ちなみに、同じ1985年には、斉藤由貴さんの「卒業」、尾崎豊さんの「卒業」も発売されていますが、斉藤由貴さんの「卒業」は最高6位で26万枚、尾崎豊さんの「卒業」は最高8位で20万枚でした。
当時の菊池桃子さんの人気がよくわかると思います。
斉藤由貴さんと尾崎豊さんの「卒業」も名曲ですので、いずれ取り上げたいと思っています。
私が、菊池桃子さんが人間的にすごいなと思うのは、アイドル時代ではなく、その後の生き方です。
1994(平成6)年8月8日に、プロゴルファーの西川哲さんと婚約しましたが、1995年3月に西川さん側(父親)が、結婚の無期延期を発表しました。
菊池桃子さんは延期の撤回を求めましたが聞き入れられず、ショックで十二指腸潰瘍になり、そのまま入院しました。
それだけ、桃子さんは純粋に愛していたということだと思います。
入院後、結婚が認められ、1995年5月に入籍しました。
1996年8月に長男を出産し、2001年10月には長女を出産しました。
この2人目の長女は、乳幼児の時に脳梗塞を発症し、左手足に後遺症が残ることになりました。
菊池桃子さんは、2人の子供を大切に育てました。
ところが、2012年1月に、西川哲さんとの離婚(原因は西川さんの素行の悪さと言われています)が発表され、菊池桃子さんは、シングルマザーになりました。
菊池桃子さんは、これまで、日出女子学園高等学校、戸板女子短期大学、法政大学卒業、法政大学大学院修士コースで学び、生涯教育に造詣が深くなりました。
そして、2012年8月に、母校の戸板女子短期大学の客員教授に就任し、雇用対策(キャリア教育)を教えることになりました。
2013年にはNPO法人「キャリア権推進ネットワーク」の理事に就任し、さらに、2015年10月には「一億総活躍国民会議」の民間議員に起用されました。
また、2016年7月には、文部科学省初等中学教育局視学委員にも就任しています。
これらのことから、一時は、大臣に起用されるのではないかという「憶測」も流れました。
<菊池桃子さんの著書「午後には陽のあたる場所」>
それでは、「卒業ーGRADUATIONー」の2番を紹介します。
♪(2番)誕生日には サンテグジュベリふいに贈ってくれた一行おきに好きだよと青いペンで書いてたあの頃の二人は話さえ出来ずにそばにいるだけでも何かを感じた4月になると ここへ来て
卒業写真 めくるのよ
あれほど だれかを
愛せや しないと4月が過ぎて 都会へと
旅立ってゆく あの人の素敵な生き方 うなずいた私♪私には、この「卒業」の2番の歌詞が、菊池桃子さんのその後の人生を暗示していたように思えます。 この歌の歌詞にある「サンテグジュベリ」は、フランスの作家(1900年~1944年)で、あの名作「星の王子さま」の作者です。 フランス貴族の出身で、第2次世界大戦中は偵察機のパイロットとして活躍し、地中海を偵察飛行中に行方不明になりました。空に消えた人生は、まさに「星の王子さま」でした。 菊池桃子さんの半生も、「星の王子さま」のように、迷いながらもピュアに生きています。 同じ年に同じ「卒業」というタイトルの曲を発表した斉藤由貴さんが、不倫でバッシングされたのに対し、菊池桃子さんは純愛を貫き西川哲さんと結婚し、子供さんの障害やシングルマザーの逆境にも負けずに、39歳で大学院に進学し、教師・女優・タレントとしてがんばっている姿はまさに「すてきな生き方」だと思います。
最後は、サンテグジュベリと菊池桃子さんの名言を紹介します。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目には見えないんだよ。」
(サンテグジュベリ「星の王子さま」より)
「健常な子と比べると、学ぶ場所が圧倒的に少ない。子供はいつも、『ママ、次はどうすればいいの。私はどうなるの?』と聞いてくる。きちんと答えられない自分がもどかしかった。 自分自身のためだったら、努力しない。 母親としては泣いてる場合じゃない。つらいと思っている場合でもない。」(菊池桃子)「一生を太陽の動きにたとえると、40歳前後が人生の正午にあたるといいます。そして、人生の正午を過ぎると、午前中に陽のあたっていた場所とは違う場所に、午後には陽があたるという。それは、わたしのこれからの人生をきっと楽しいものにしてくれるだろう、そう確信しました。」
(菊池桃子著「午後には陽のあたる場所」より) 旅立ちの季節には、菊池桃子さんの生き方から勇気をもらえますね。 アイドルから、シングルマザーの大学講師へ、菊池桃子さんの「すてきな生き方」を、これからも続けてほしいし、応援したいですね。