「座右の銘は、『見る前に飛べ!』です。まず、やってみる。そこでしか味わえない喜びがあります。もちろん、つまづくことありますが、すべてが身につきます。」 これは、「300の顔を持つ男」と言われていた俳優の大杉漣さんの言葉です。
2018(平成30)年2月21日に、名バイプレーヤー(脇役)で、芸能界一とも言われるやさしい人柄で知られていた大杉漣さんが、急性心不全のため66歳で亡くなられました。
その後のテレビや新聞・雑誌・ネットなどでは、脇役なのに、主役並み、いや主役以上の報道がされました。
死の瞬間を看取った田口トモロヲさんや松重豊さん、遠藤憲一さんらの脇役仲間はもちろん、北野武さんや明石家さんまさんなどの大物から、黒柳徹子さんや渡辺麻友さん、川栄李奈さんらの女優まで、多くの芸能人から死を悼むコメントが寄せら、多くの特集が組まれました。
これらの報道を見るだけで、芸能界で大杉漣さんが、どれだけ活躍し、どれだけ慕われていたがわかります。
そこで、今回は「脇役なのに主役級俳優」、大杉漣さんについて紹介します。
<写真 大杉漣さんの生まれた小松島市(徳島県)>
大杉漣(おおすぎ れん)さんは、1951(昭和26)年9月27日、四国の徳島県小松島(こまつしま)市で生まれました。
本名は大杉孝(おおすぎたかし)さんです。
ちなみに、「漣(れん)」という名前は、フォークシンガーの高田渡(たかだ・わたる 岐阜県出身、1949年~2005年)さんの子供の「高田漣」さんの名前をもらったもので、大杉さん本人は、「さざなみ」とも読むと語っています。
大杉さんのお父さんは学校の先生で、38歳で小松島市立小松島中学の校長になり、以後、いずれも徳島県立の小松島西高校(小松島市)、富岡東高校(阿南市)、城東高校(徳島市)の校長を歴任されています。
大杉漣さん曰く、家庭では寡黙だったそうです。
お母さんは「まさ子」さんで、大杉さんは「お前が1番だ」といつでもほめてくれるお母さんが大好きで、自分のギターに「まさ子」という名前をつけていました。
兄弟は、男ばかり4人で、大杉漣さんは、末っ子でした。
大杉漣さんは、サッカーとフォークソングの好きな少年で、ボブディランの曲に感銘し、バイトで貯めたお金でギターを買ったことがありました。しかし、そのギターはクラッシックギターで、「ボブディランの演奏する音と違うなあ」と不思議に思ったそうです。(笑)
小松島市は徳島市のすぐ南にある紀伊水道(太平洋)に面した港町で、大杉漣さんが生まれる3ヶ月前の1951年6月に市制が敷かれ、昭和20年代から昭和40年代にかけては、関西からの四国の東の玄関として、栄えていました。
大杉さんが子供の頃は、小松島市内に映画館が4つあったそうですが、現在は1つもありません。
人口は、2015年時点で38,755人です。
大杉漣さんは、1967(昭和42)年に、徳島県内有数の進学校「徳島県立城北高等学校(徳島市)」に進学しました。
高校ではサッカー部に所属していました。
1970(昭和45)年には、明治大学に合格し上京しました。
1970年代初め、明治大学の学生になった大杉漣さんは、蜷川幸雄さんや寺山修司さんらの演劇に魅せられ、1973(昭和48)年には太田省吾(1939年~2007年)さんの劇団募集に応募し、明治大学を中退しました。
1973年6月、別役実(べっちゃくみのる 1937年~)さんの作品「門」で、<娼婦を買いに来る客A>という役で、22歳の時に舞台デビューしました。
翌年には、太田省吾さん主宰の「転形劇場」に入り本格的に舞台の活動をしますが、20代は鳴かず飛ばずでした。
1980(昭和55)年に、新東宝のピンク映画「緊迫いけにえ」で映画俳優デビューし、日活ロマンポルノや新東宝映画に出演するようになりました。
1982(昭和57)年には、生涯の伴侶の弘美さんと結婚しますが、映画俳優としても芽が出ず30代も鳴かず飛ばずでした。
新婚の時期に、ピンク映画の俳優生活をするのは辛かったようで、1988(昭和63)年以降はピンク映画出演を控え、転形劇場の仕事に専念しようとしました。
ただ、1983(昭和58)年には、滝田洋二郎監督の「連続暴漢」でピンクリボン賞の「主演男優賞」を受賞していますので、演技力は確かでした。
1988年、転形劇場が解散し、大杉漣さんは拠点を失いますが、舞台俳優の活動を細々と続けます。
結局、「昭和」の時代に、大杉漣さんの芽は出ませんでした。しかし、下積み時代に養った演技力が、のちに花を咲かす種となったことも確かです。
1989(平成元)年、時代が「平成」になってからは、Vシネマなどの映画出演をするようになります。
1993(平成5)年、大杉漣さんが42歳の時、北野武監督の映画作品「ソナチネ」のオーディションに応募しました。
大杉さんは、オーディションに遅刻してしまいますが、北野監督は「大杉さんを見た瞬間に閃いた」そうで、合格します。
大杉漣さんの役は、最初はヤクザの組事務所のセリフのない電話番の役でした。
しかし、北野監督の「アドリブでやってみろ」の命令に、大杉さんは期待以上の演技で応えました。
「うめえなあ」と感心した北野武監督は、台本を何度も書きかえて、次第に大杉漣さんの役とセリフを増やし、ついには組のナンバー2の役にして、撮影終了まで同行させます。
その後も、北野武監督は「HANA-BI」などの自身の作品に大杉さんを次々に起用し、文字通り「名脇役(バイプレーヤー)」としての大杉漣さんの評価を決定づけます。
さらに、崔洋一監督の「犬、走る DOG RACE」(1998年)や磯村一路監督の「がんばっていきまっしょい」などにも出演し好演します。
1999(平成11)年には、ブルーリボン償の助演男優賞を受賞し「ピンクとブルーの2つの映画賞をもらった俳優」になりました。
他にも、この年、日本アカデミー賞優秀助演男優賞など多くの映画賞を受賞し、名脇役の座を不動のものとします。
その後は、映画だけでなくテレビドラマやバラエティにも多数出演し、「300の顔をもつ男」と言われるなど、目覚ましい活躍を見せます。
代表的なものを紹介すると、映画では「BROTHER」(北野武監督、2001年)、「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督、2002年)、「100回泣くこと」(廣木隆一監督、2013年)、「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督、2016年)、「アウトレイジ・最終章」(北野武監督、2017年)などがあり、ウキペディアには394本もの作品が出ています。
テレビでは、NHK大河ドラマの「秀吉」(1996)や「義経」(2005年)、NHK朝の連続テレビ小説の「どんと晴れ」(2007年)や「ゲゲゲの女房」(2010年)、テレビ朝日の「相棒」シリーズや日本テレビ「花咲舞が黙ってない」シリーズなどが、その代表格です。
ウィキペデアで見ると、テレビドラマが178本、バラエティが9番組、吹き替え2本、ドキュメンタリー32番組、CM30本も上がっています。
すごい数ですね。最近は、「大杉連さんの顔をテレビで見ない日はない」と言われていただけに、急死は残念ですね。
<写真 大杉連さんと愛犬「風ちゃん」と愛ネコ「トラ子」(大杉連さんブログ「風トラ便り」より)>
こんなに、多忙で売れっ子になっても、大杉漣さんは謙虚でやさしい人柄は変わりませんでした。
たとえば、大学の学生たちが先に出演依頼をしていた日程に、大きなテレビの仕事が割り込んできた時には、大杉連さんは躊躇なく、お金になるテレビの仕事を断りました。
理由は「先に学生との約束があるから」でした。
大杉連さんのやさしさは、動物に対しても、同じでした。
大杉連さんのペットのネコのトラ子は、実は大杉さん主演の映画「ネコナデ」に出演した動物プロダクションのネコでした。
映画がクランクアップした日、大杉連さんはトラ子を動物プロダクションから買い取り、以来、家でペットとして飼ってかわいがり、大杉さんが亡くなるまで、大杉さんのブログの主役の1人、いや1匹でした。
ちなみに、ブログタイトル「大杉漣の風トラ便り」の、風は犬の「風ちゃん」、トラはネコのトラ子のことです。
大杉連さんが、誰にでもやさしいのは、20年以上も役者として苦労をしてきたことと、関係がありそうです。
大杉さんは、こんな話をされています。
「ぼくは、割と人生だらっとしていた方がいいと思っています。
今の時代って、白黒はっきりさせないとダメみたいな風潮があります。
でも、ぼくの仕事(俳優)ははっきりできないから、それを追い求めています。」
大杉さんは色紙にも「あるがまま」と書いています。
多くの苦労が、大杉連さんのやさしさ、ニュートラルさを作ったんだと思います。
大杉連さんのやさしさがわかるエピソードは、まだまだあります。
ある大学の映画研究会からオファーを受けた時、「俺はプロの役者だから、タダというわけにはいかないんだ。」と大杉連さんは答えました。
学生たちは、お金をかき集め、2泊3日で大杉さんが参加するロケを行いました。
撮影が終わって、学生たちは大杉連さんに、ギャラを渡しました。
大杉連さんは、それをそのまま学生たちに返してこう言いました。
「君たちの映画のために使ってくれ。」
かっこよすぎですね。
大杉連さんを有名にしたものの一つに、日本テレビのバラエティ番組「ぐるぐるナインティンナイン」の人気コーナー「ごちになります」のレギュラー出演があります。
大杉連さんは、注文した料理の総額が指定された金額になるように当てるこの番組で、2017年の夏、番組史上初の2週連続ピタリ賞になり、100万円づつ2回、計200万円の賞金を手に入れました。
大杉漣さんは、この賞金を、自身のバンドが世界一と言われた映画館「酒田グリーンハウス」があった山形県酒田市で開催する「大杉漣バンド港座ライブ」の開催費用にあてました。
ちなみに、大杉漣バンドのラストコンサートは、結果的に、2018年1月21日(死のちょうど1月前)に開催された「アエルワホール」(徳島県阿波市)でのコンサートになりました。
<写真 大杉連さんのRENの字のユニホームが掲げられたJ2徳島ヴォルティスのベンチ>
おしまいは、大杉漣さんのもう一つの趣味、サッカーの話です。
大杉連さんはサッカーが大好きで、徳島県立城北高校時代にはサッカー部に所属していました。
大人になってからも、サッカーをしたり観戦するのが大好きで、芸能界では「鰯(「いわし)クラブ」というサッカ-チームの発起人兼キャプテンをしていました。(背番号10)
サッカー観戦も大好きで、特に出身地のJ2「徳島ヴォルティス」の熱狂的なサポーターで、仕事の合い間を縫って、関東圏の試合はもちろん、徳島まで自腹で帰って応援をしていました。
2018年2月25日、大杉漣さんの死から4日後に「ポカリスエットスタジアム」(徳島県鳴門市)で行われた、今シーズンのJ2開幕戦「徳島ヴォルテイス対ファジアーノ岡山」では、大杉漣さんを偲んで試合前に全員が黙とうしました。
また、会場には2箇所の記帳所が設けられ、徳島ヴォルティスの選手たちは、ユニホームに「REN(漣)」という文字をつけてプレーしました。
試合は、岡山が勝ちましたが、大杉漣さんは、天国できっと拍手を送ってくれたことだと思います。
実は私は、大杉漣さんのことで一つ後悔していることがあります。
それは、数年前、大杉漣さんのコンサートのチケットを購入しながら、参加できなかったことです。
大杉漣さん急死の報道をみて、「残念。」と思いながら、大杉さんのブログを読んでみました。
すると、死のちょうど1月前の2018年1月21日に、「アエルワホール」という所でのコンサート
を行っていて、それが「ラストコンサート」になったことを知りました。
私は、せめてそのホールに行ってみようと思いつき、休日の夕方、そのホールまで車で行ってみました。
途中、道に迷ってしまい、会場についた時には真っ暗でしたが、それでも大杉さんの笑顔が見え、声が聞こえてきそうな気がして、しばらく誰もいないホールの前で手を合わし、佇んでいました。
最後に、その時に作った詩を紹介します。
詩「急死した大杉漣さんのラストコンサートの会場にて」
2018年2月21日
やさしきバイプレーヤー(脇役)
大杉連さんが
突然亡くなった
66歳
「白黒つけなくてもいい」
やさしい人柄だった
若い頃はバンドをやり
俳優の当初はピンクもやった
それから
劇団へ
42歳
やっと有名になったのは
思い切り遅刻した
オーデションの
北野たけし監督の作品
「ソナチネ」
その後
多くの作品に出演し
人気俳優になった
それでも
おごらず
気取らず
学生たちの作品から
大河ドラマ
朝ドラ
CM
バラエティ
なんでも出た
300の顔をもつ男ともいわれた
そんな大杉連さんの
突然死を聞いて
ちょうど
死の1ヵ月前
1月21日に
連さんが
ラストコンサートを行った
会場に急に行きたくなった
地図も持たずに
勘だけで
山道を
やみくもに走った
何時間も走り
ぐるぐる迷路のように走って
結局
コンビニに道を聞き
スマホで検索した
真っ暗な中で
りっぱな市役所の隣りに
その会場
「アエルワホール」があった
真っ暗な建物に
うっすらと浮かぶ
ホールの建物から
大杉連さんの歌声が
聞こえたような
やさしい気持ちになった
誰もいない
真っ暗な中で
「明日 夢が現実にならないとは 言い切れない。
曖昧があるから 人生はポジティブになれるんだよ。」
そんな連さんの声が
聞こえたような
聞こえなかったような
あいまいな でもポジティブな気持ちで
私は「アエルワホール」を後にした
また「会えるわ」??
<写真 大杉連さんのラストコンサートを行ったアエルワホール(徳島県阿波市)>
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