「その道が広くなるか狭くなるか。平らな道かデコボコ道か。
それは自分の歩き方次第。
ことによると、途中で土砂崩れにあうかもしれません。
でも、わたしにはこの道しかないんです。」
これは、「ミスター笑点」と言われた、落語家の桂歌丸(かつら・うたまる)さんの言葉です。
桂歌丸さんは、2018(平成30)年7月2日、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市で81歳で亡くなられました。
今回は、桂歌丸さんの人生と名言を中心に、紹介したいと思います。
椎名巌(しいな・いわお、桂歌丸さんの本名)さんは、1936(昭和11)年8月14日、神奈川県横浜市で生まれました。
実家は、神奈川県横浜市南区真金町の女郎屋でした。
父は椎名貞雄さん、母は千葉県市原市の農家出身の伊藤ふくさんでした。
しかし、お父さんの貞雄さんは、歌丸さんが3歳の時に結核で亡くなり、お母さんは姑と仲が悪く家を出ました。
巌少年(歌丸さん)は、おばあさんの椎名タネさん(1879年~1953年)に育てられました。
巌少年が生まれ育った当時の横浜市真金町(まがねちょう)は、遊郭のある歓楽街としてにぎわい、「いなり寿司」を売る行商人や、「辻占い」などもあったと、歌丸さんは語っています。
巌少年(歌丸さん)のおばあさんのタネさんが経営する「富士楼」は、女郎屋として有名で、タネさんが通ると、地元のやくざが道の両側によって道を開けるほどの女傑でした。
巌少年(歌丸さん)が5歳の時(1941年)に太平洋戦争が始まり、巌少年は母の実家のある千葉県に疎開しました。
戦争末期、横浜は空襲で焼けました。
横浜が焼けるようすを、巌少年は東京湾ごしに千葉から見ていました。
巌少年が9歳の時(1945年)に、日本はアメリカなどの連合国に降伏し、終戦を向かえました。
横浜の街は空襲で焼け、「富士楼」も焼失しました。
しかし、タネさんはすぐに「富士楼」をバラックで再建しました。
歌丸さんは、当時のことをこう語っています。
「物心ついた頃は、戦後の暗い時代で笑いもありませんでした。
たった一つの笑いが、ラジオで聞いた昭和の名人の落語でした。」
10歳の歌丸少年は、「みんなに笑いを届けられる噺家になろう」と決意しました。
<写真 桂歌丸さんの本 「座布団一枚 わが落語人生」(小学館)>
1951(昭和26)年、横浜市立吉田中学を卒業すると、15歳の巌少年(歌丸さん)は、5代目古今亭今輔(1898年~1976年、ここんてい・いますけ)師匠に弟子入りし、古今亭今児を名乗りました。
今児(歌丸)さんは、1957(昭和33)年に二つ目になった直後、同じ横浜市真金町出身で4つ年上の(有名な)富士子さんと結婚します。
ところが、そのあと、待遇改善をもとめて「二つ目」仲間でストライキを計画する「香盤(序列)問題」がおき、師匠と協会から離れました。
ストライキは計画途中で、協会にばれて、逃げ出した仲間たちに代わって、歌丸さんが責任をとるかたちで、落語会を辞めました。
生まれたばかりの長女をかかえて、桂歌丸家は困窮し、家財を売り払い、化粧品のセールスマンになりました。
2年半後、三遊亭扇馬さんの応援があり落語界に復帰します。
1961年、古今亭今輔師匠に事実上の破門をされ、兄弟子だった桂米丸さんに弟子入りし、「桂米坊」に改名しました。
その後、1964(昭和39)年に、桂米丸さんの命名で「桂歌丸」に改名し、いよいよ歌丸さんの時代が始まります。
師匠の桂米丸さんは、歌丸さんを「カバン持ち兼お抱え放送作家」として使いました。
歌丸さんは、米丸師匠のラジオ番組の構成作家の役割も担い、そのことが放送局とのコネクションづくりに役立ちました。
1965(昭和40)年、29歳になった桂歌丸さんは、日本テレビの大喜利番組「金曜寄席」のオーディションを受けます。
このオーディションへの応募条件は、落語以外の芸を見せるというものでした。
困った歌丸さんは、舞台上にそば屋の出前を呼んで、無言でそばを完食しました。
最後に一言、「おそばつさまでした。」としゃれを駆けて言いました。
この「芸?」が、審査員だった立川談志さんの笑いのツボに入り、桂歌丸さんは見事、合格しました。
そうなんです。
この「金曜寄席」が1年後に、「笑点」という名前の番組に変わり、桂歌丸さんは、そのレギュラーに抜擢されました。
「笑点」(日本テレビの番組)は、1966(昭和41)年5月15日に始まり、現在も続く国民的番組になりました。
桂歌丸さんは第1回から出演し、以来、大喜利メンバーとして40年、司会者として10年と合計50年も出演し、2016年5月に引退しました。
この間、三遊亭小圓游さんとの「ハゲ(歌丸さんのこと)」「お化け」の掛け合いや、6代目三遊亭園楽(楽太郎)との「骸骨」「歌丸さんの死亡ネタ」「薗楽の腹黒」などの掛け合いは名物となりました。
桂歌丸さんは、2016年5月からは、「笑点終身名誉会長」に就任しています。
まさに「ミスター笑点」ですね。
<笑点の公開録画の準備をしている「後楽園ホール」の舞台(東京都文京区)>
私は、何年か前に落語が急に聞きたくなって、「新宿末広亭」にふらっと入りました。
ところが、入口でもらったパンフレットを見ても、知っている名前がなくて戸惑いました。
思えば、関西(上方)の落語家は何人か思い浮かぶのですが、関東(東京)の落語家となると頭に浮かぶのは、以前、聞いたことがある立川談志さんのような故人を除けば、ほとんどが笑点に出ているメンバーばかりでした。
それほど、私のような「落語しろうと」には、笑点のメンバーの影響は大きく、なかでも桂歌丸さんは、その筆頭でした。
桂歌丸さんは、1968(昭和43)年に真打に昇進し、2004(平成16)年からは落語芸術協会の会長に就任しています。
仕事が順調にいった一方で、桂歌丸さんの後半生は、病気との戦いでした。
まず2001年に「急性腹膜炎」にかかったのを皮切り(?)に、「腰部脊柱管狭窄症」、「肺気腫」、「肺炎」、「インフルエンザ」、「腸閉塞」、そして死因となった「慢性閉塞性肺疾患」と、本当に病気との戦いの日々でした。
それでも、酸素吸入をしてまで、桂歌丸さんは、最後まで舞台に上がり続けました。
それでは、桂歌丸さんの名言をいくつか紹介します。
〇「修業は一生涯に及びます。ですから、辛抱もまた一生涯ということです。」
〇「人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや。」
〇「褒める人間は敵と思え。教えてくれる人、注意してくれる人は味方と思え。」
〇「若い時に苦労をしろ。何年か先に振り替えった時、その苦労を笑い話にできるように努力するんだ。」
<写真 桂歌丸さんの追悼垂れ幕が出された「横浜橋商店街」(神奈川県横浜市)>
例によって、おしまいは「いい話」、いや今回は「いい噺」を紹介します。
先に紹介したように、桂歌丸さんと6代目三遊亭園楽(楽太郎)さんとの「骸骨」「死亡ネタ」「腹黒」などの掛け合いは、「笑点」を盛り上がる名物となりました。
でも、これは舞台の上の演出で、実は桂歌丸さんと三遊亭園楽さんは、大の仲良しで、全国各地で二人
会を開催し、メキシコ公演にも行っていました。
桂歌丸さんは、圓楽さんだけでなく、他の後輩の出演者にも、
「舞台の上では先輩も後輩もない。萎縮せず、遠慮するな。」
と言って、若手の出演者を激励しました。
三遊亭小遊三さんは、「気力・根性・実力・才能、すべて兼ね備えている」と言い、
三遊亭好楽さんは「笑点あっての歌丸じゃなく、歌丸あっての笑点。あの師匠がいなかったら番組が成り立たない」と語っています。
三遊亭園楽さんは、桂歌丸さんが入院するたびに、落語のテープ(CD)を見舞いにもっていきました。
すると、歌丸さんは退院の時には、その噺を覚えてきた「デパートリーが増えた」と喜んでいたそうです。
桂歌丸さんは、こう言っています。
「いろんな人に言われます。70を過ぎてまで、どうして苦労して新しい噺を覚えるのかって。
そりゃあ覚えも悪くなっていくし、挑戦し続けるのはしんどい。
でも、最期に目をつむった時に楽な気持ちでありたいんです。『ああ、あの噺もできたのに』なんて後悔しても遅いでしょ。」
一生勉強、一生挑戦だった桂歌丸さんの名言ですね。
歌丸さんに、最後に言いたいです。
「山田くーん、歌丸さんの人生に、座布団10枚!」
0 件のコメント:
コメントを投稿