2016年10月30日日曜日

PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)とTPP

友達と参加できるイベントとして、日本で年々盛んになっているのが「ハロウィン」です。
 ところが、今年、2016年後半は、ハロウインの主役とも言われ、すごい勢いで、日本はもちろん世界中で流行っているものがあります。
 そう、「PPAP」です。

 ピコ太郎という自称シンガーソングライターが「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」を歌って踊る動画が、「週間動画再生回数」で2週連続で世界一になり、総再生回数は4億回を超えています。

 さらに、アメリカのビルボードチャートで77位になり、「ビルボードトップ100に入った世界一短い歌」ということで「ギネスブック」から認定されました。ちなみに。歌の時間は45秒です。

 それでは、歌詞を紹介します。


♪「ペンパイナッポーアッポーペン(Pen-Pineapple-Apple-Pen)」♪
(作詞・作曲・歌 ピコ太郎)
 
PPAP

I have a pen
I have an apple
Ah! Apple-pen!

I have a pen
I have a pineapple
Ah! Pineapple-pen!

Apple-pen, Pineapple-pen
Ah! Pen-pineapple-Apple-Pen!
Pen-pineapple-Apple-Pen!

<写真 ペン>


   ペンとアップル(りんご)とパイナップルが出てくるだけの歌と動画ですが、これが世界中で受けています。

 本人のホームページによると、ピコ太郎さんは、1963(昭和38)年7月17日千葉県生まれの53歳。血液型はA型で、工業高校を卒業しているそうです。

 リスペクト(尊敬する)シンガーは、スティービーワンダー、クラフトワーク、M.I.A、杏里、石川さゆり、マライヤキャリー、八神純子、そしてアリアナグランデです。

 また、ツイッターやFacebookで「僕の大好きな動画」として「PPAP」を世界に広めてくれたジャスティン・ビーバーを、恩人シンガーとしてあげています。

 ピコ太郎の目標は、NHK紅白歌合戦とサマソニ(毎年8月に千葉と大阪で開催されるロックコンサート「サマ-ソニック」)への出演だそうです。
 時期的に「サマソニ」は一発だけでは難しいでしょうが、紅白は出演できるかも知れませんね?

 ピコ太郎さんの話では、「PPAP」は、ピコ太郎さんが青森出身のプロデューサーの古坂大魔王さんの家に遊びに行った時に、青森リンゴとペンがあったので、リンゴにペンを刺しているうちにできた歌だということです。
 ちなみに、パイナップルは、アップル(りんご)と語感が似ているので、追加したそうです。


<写真 りんご>


 ここからは、突然、PPAPと語感が似ている「TPP」の話をします。 

 TPPは「環太平洋戦略的経済連携協定」の略で、2006年に、シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4ヶ国で始まった「環太平洋地域の国々による経済の自由化を目的とした多角的な経済連携協定」のことです。
 その後、アメリカ、日本、オーストラリア、ベトナムなど8ヶ国が参加を表明して、計12ヶ国に拡大することが協議されています。

 加盟国の間の規制を撤廃・緩和するものなので、産業によって有利・不利が顕著で、日本では医療(医師会など)や農業分野などで、根強い反対があります。
 しかし、日本政府や自民党は、TPP批准に積極的です。

 ところが、アメリカでは、民主党大統領候補のヒラリー・クリントンさんと、共和党大統領候補のドナルド・トランプさんの2人ともが、TPPに反対しています。


 この「TPP」のことを、ピコ太郎さんの「PPAP」は歌っているのではないかという噂が、一部のネットでささやかれています。

 その噂とは、歌の中の「アップル」は日本の農産物の代表「りんご」を象徴していて、「パイナップル」はアメリカの農産物を象徴している。
 そして、「アップル」と「パイナップル」にペンを刺すのは、協定の署名を表している。
 というものです。

 歌の解釈は自由ですが、一つ、間違いを指摘させてもうと、「パイナップル」の生産量ベスト3(2011年)は、タイ(11.9%)、ブラジル(10.8%)、コスタリカ(10.4%)で、これらの国はTPPの参加国ではありません。
 ちなみに、アメリカの生産量は、世界の2%にすぎません。

 私は「PPSP」は「TPP」より、10月25日に日本で始まった携帯のお財布機能「アッブル・ペイ」と、歌の「アッポーペン」が近いのかなと思っています。(笑)

<写真 パイナップル>


 最後は、ピコ太郎さんのプロデューサーの古坂大魔王さんの話です。

 古坂大魔王(こさか・だいまおう)さんは、本名・古坂和仁(こさか・かずひと)さんで、1973(昭和48)年7月17日生まれの43歳です。あれ、ピコ太郎さんと同じ誕生日で、ちょうど10歳若いですね。
 青森県青森市生まれのA型で、青森県立青森東高等学校を卒業しています。
 
 3人兄弟の真ん中で、兄は青森銀行に勤務し、弟は東京大学大学院を修了し国士舘大学の専任教員をしています。
 3人でお金を出し合い、テレビ朝日系で放送されている「大改造!!劇的ビフォーアフター」で、「父が雪下ろしで屋根から転落しないよう、実家をリフォームをして欲しい」と応募し、老朽化した豪雪地帯の青森市にある実家をリフォームしました。

 古坂大魔王さんは、上京して日本映画学校に入り、1992年、19歳の時にお笑いグループ「底抜けAIRーLINE」を、小島忍さん、村島亮さんと結成します。

 「タモリのボキャボラ天国」や「爆笑オンエアバトル」などに出演しますが、2003年9月にお笑い活動を休止します。
 その後、音楽芸人として、NBR(NEW BUSHIDOU RAVERS)を結成して活動しています。
 
 音楽では「mihimaru GT」のライブツアーに参加したり、鈴木亜美の楽曲リミックスなどをしたりしています。

 ピコ太郎さんについては、親しい芸能人たちは、口を揃えて「同一人物」だと証言しています。
 だとすると、「PPAP」で、ペンをアップルに刺すときに「AH!」と言うのは、青森市観光大使でもある古坂大魔王さんが、「Ah!」とりんごの将来を悲観して「TPP署名」に、痛みを訴えているとも思えますね。

 古坂大魔王さんは、くりぃーむしちゅーの上田晋也さんや、爆笑問題の田中裕二さんと仲がよく、楽屋では爆笑をさらう、「楽屋真打」と言われています。
 言い換えれば、本番ではおもしろくないということですね。

<写真 花の中に潜む「虫の古坂大魔王?」カマキリ>




 古坂大魔王さんは、以前、「マネーの虎」に出演し、「自分のバンドをロンドンでデビューさせたい」との夢を語っていたそうです。

 今回、ピコ太郎さんの動画は世界中に広がり、CNNやBBC、「タイム誌」、ビルボードなど、一流メディアで話題となって、「プロデューサー・古坂大魔王」さんの夢を実現させた形になりました。

 「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」だけで終わることなく、「I have a pen」から「I have a  dream」へチェンジして、ピコ太郎さんと古坂大魔王さんが、世界的に活躍することを期待したいと思います。


2016年10月25日火曜日

やさしさをあきらめないで(3)いじめで自殺した少女の想いを蘇らせた家族愛

2016(平成28)年8月25日10時5分ころ、青森県藤崎町の奥羽線北常盤駅で、中学2年の少女が自殺しました。
 少女は、最初の報道では匿名でしたが、家族が少女のスマホに残されたいじめを苦に自殺するという内容の「遺書」とともに、実名を公表しました。
 少女は、青森県青森市にある浪岡中学校2年生だった葛西(かさい)りまさん、13歳でした。

 葛西りまさんのスマホのメモアプリには、次のような内容の「遺書」が自殺する1時間30分前に、残されていました。(りまさんの家族が公表したものです。)


「遺書」
突然でごめんなさい。ストレスでもう生きていけそうにないです。

●が弱いのは自分自身でも分かってるし、●が悪い所もあったのは知ってるけど、流石にもう耐えられません。
東京いって全国でまた皆で優勝したかったけど、行けなくてごめんなさい。だから7人で、優勝してください。●も頑張ってね。

学校生活も散々だし、それでストレスたまってたのに、仮病とかいう人が沢山いて、説明しても、あまり信じてくれなかった。

1、2年の時に●の噂流したりそれを信じたりいじめてきたやつら、自分でわかると思います。もう、二度といじめたりしないでください。

(中略)

家族へ。先立つ不幸を許してください。もう無理です。特別虐待があったわけでもない(中略)
文章めちゃくちゃでごめんなさい。

みんなに迷惑かけるし、悲しむ人も居ないかもしれないくらい生きる価値本当にないし、綺麗な死に方すらできないけど、楽しい時もありました。
本当に13年間ありがとうございました。いつか、来世ででも●が幸せな生活をおくれる人になれるまで、さようなら。

また、会おうね。
2016年8月25日木曜日」


<葛西りまさんが自殺したJR北常盤駅>
 


 葛西りまさんが鉄道自殺をした8月25日は、新学期が始まった翌日でした。
 夏休みが終わって始業式に行って、「とても、明日から学校に行けない」と思い詰めた13歳の少女の気持ちは、自分の中学時代(私もいじめられていました)を思い出すとよくわかります。
 本当に、かわいそうです。

 でも、りまさんの家族は、こうおっしゃっています。
「りまは、手踊りが好きで、仲間と幸せな時間を過ごしてきました。写真のような笑顔が本来の表情です。決してかわいそうなだけの子供ではありません。」

 手踊りとは、青森県黒石市の「黒石よされ」と呼ばれる踊りで、葛西りまさんは全国優秀したこともある「黒石よされ」の踊りの名手でした。
 遺書にあるように、葛西りまさんが入っていたグループは、事件のあった2日後、りまさんの死を知らされないまま上京し、全国大会に参加し見事、優勝しました。

 おそらく、葛西りまさんの大きな誇りが「黒石よされ」だったのだと思います。
 実は、葛西さんが自殺した「JR奥羽本線北常磐駅」も、青森市から黒石市に行く途中にあります。

 次の写真は、葛西りまさんが黒石よされを踊る様子です。


<黒石よされを踊る葛西りまさん(葛西さんの家族が公表)>



 この写真は、2016年8月15日、つまり葛西りまさんが亡くなる10日前の写真で、一度は「2016年黒石よされ写真コンテスト」で最高賞の黒石市長賞を受賞することが内定していました。

 ところが、写真に写っている葛西りまさんが自殺したことがわかると、実行委員会は「賞にふさわしくない。」と言って、家族の了解も得ずに一方的に賞を取り消しました。

 葛西さんのお父さんは、「受賞内定を家族で喜んでいたのに、取り消しでどん底に突き落とされたような気持ちです。」と、がっかりした気持ちを話されました。
 そして、このまま娘の存在を消されたくないという想いで、りまさんの写真と氏名を公表しました。


 私は、このニュースを初めて聞いた時、本当に激しい憤りを感じました。
 もし、このまま受賞が取り消されたら、「もう二度といじめはやめてください。」という、葛西りまさんの意に反して、死んでからまで、今度は大人にいじめられたことになる。そんな想いでした。

 私と同じ想いのやさしい人が、全国にたくさんいたようで、黒石市には千通を超える抗議のメール・電話が殺到しました。

 それを受けて、黒石市長は「受賞の取り消しを取り消す」と発表して、葛西りまさんの笑顔の写真が、再び脚光を浴びることになりました。
 その後、りまさんの家族と黒石市は和解したそうです。

 りまさんの家族、特にお父さんの勇気が、社会に抹殺されかけた自殺したりまさんの「いじめを無くしてほしい」という想いを復活させたのだと思います。

<黒石よされのポスター>


 青森県黒石市の「黒石よされ」は、毎年8月に開催される盆おどりで、徳島の「阿波おどり」、岐阜の「郡上おどり」と並び、「日本三大流し踊り」の一つと言われています。

 「よされ節」は、東北地方に伝わる民謡で、「よされ」は「貧困や凶作の世は去れ」という意味で、「世去れ節」と書かれることもあります。
  因(ちな)みに、2016年の踊り子は、1日2100人、観客は2日間で76,000人余りでした。


 今回のニュースは、「学校」のいじめはもちろんですが、「社会的ないじめ」についても、いろいろ考えさせられます。
 ネットの一部では、葛西りまさんをいじめた生徒の実名も出ていますが、「葛西さんはいじめを無くしたかった」だけで、「生徒の実名を公表するいじめ」を決して望んではいないと思いますので、このブログでは、もちろん氏名の公表はしません。

 だけど、これだけは、いじめた人たちにわかってほしいです。
 私の経験では、いじめる方は軽い気持ちでも、いじめられる方は「死」を意識する、あるいは決断するほど深刻な問題です。
「相手が笑えないジョーク」は、いじめなのです。

 最後に、もう一つ思うことがあります。
 それは、葛西りまさんの家族の「やさしさをあきらめなかった」愛情の深さです。

 もし、家族が黙っていたら、りまさんの存在そのものを消されかねない状況でした。
 そこで、お父さんが声をあげ、葛西りまさんの遺書と実名と、「いじめに負けないで踊っている写真」を公表した勇気は、りまさんへの愛情の現れだと思います。

 家族の勇気と愛情が、亡くなったりまさんの想いと笑顔を、復活させたのだと信じたいです。
 きっと天国で、りまさんは「黒石よされ」を踊っていることでしょう。


♪「黒石よされ唄」


黒石よされ節どこにもないよ
サァーアンヨ
歌って見しゃんせ 味がある
ヨサレサァーアンヨ

見たか黒石聞いたかよされ
ヨサレサァーアンヨ
盆の踊りは日本一
ヨサレサァーアンヨ♪


<一句>
 りまの夢 いじめの世去れ 永遠に


2016年10月22日土曜日

鳥取県で震度6弱の地震「熊本→鳥取→?」は要注意パターン ~緊急地震速報とは~

2016(平成28)年10月21日、西日本各地で「緊急地震速報」が発表されて、鳥取県中部の倉吉市などで最大震度6弱の強い揺れが観測されました。
 マグニチュード(M)は6.6で、震源は鳥取県中部、深さは11kmでした。

 幸い津波はなく、死者も出ませんでしたが、熊本地震と同じく余震が続いています。
 これで2016年になって、「4月の熊本地震で震度7が2回」に始まり、「6月に北海道函館市で震度6弱」、そして「10月に鳥取県倉吉市などで震度6弱」と、震度6以上の地震が続いています。
 ここで、気になることがあります。

 このブログで、「巨大地震と前後の出来事」を紹介してきましたが、その中で70年あまり前の地震の起こり方のパターンと、今年の「熊本→北海道→鳥取」と似ているのです。


 1941(昭和16)年11月19日、九州東岸の日向灘を震源とするM(マグニチュード)7.2の地震が起こり、熊本県と宮崎県で震度5を記録して死者2人が出ました。

 続いて1943(昭和18)年6月13日に、青森県東方沖でM7.1の地震が発生し、北海道苫小牧市や浦河町などで最大震度4の地震がありました。

 そのあと、1943(昭和18)年9月10日、鳥取県鳥取市でM7.2の地震が発生し、震度6を記録し、1083人が亡くなりました。

 震源地と規模は微妙に違いますが、「熊本県→北海道→鳥取県」という地震発生のパターンは、1941年から1943年の地震と、2016年がよく似ていると思いませんか?


<2016年10月21日の鳥取地震の各地の震度  気象庁HPより>



 地震の予知は現在のところできませんが、過去の歴史で地震の発生パターンを調べて、地震への「備え」をすることはできます。

 それでは、1943年9月の「鳥取地震」のあと、何が起こったのかを紹介します。

 「鳥取地震」から1年3か月後の1944(昭和19)年12月7日、三重県沖を震源とするM7.9の「昭和東南海地震」が発生し、静岡県御前崎市と三重県津市で最大震度6を記録しました。この地震で、伊豆諸島・関東から紀伊半島までの広い範囲の太平洋側で津波が発生し、死者・行方不明者1223人を出しました。

 その翌年、終戦の年である1945(昭和20)年の1月13日には、三重県津市で最大震度5を記録するM6.8の「三河地震」が発生し、津波も伴い、死者・行方不明者2306人の被害が出ました。

 さらに翌年の、1946(昭和21)年12月21日には、和歌山県沖から四国沖を震源とするM8.0の津波を伴う「昭和南海地震」が発生し、東海~九州の広い範囲で最大震度5を記録し、関東から九州までの地域で、1443人が亡くなりました。

 戦中から終戦直後の混乱期ということもありますが、1943年の「鳥取地震」から1946年の「昭和南海地震」まで、わずか3年間で、1000人以上の死者を出す地震災害が4回も起こっています。

「ちょっと待った。2016年の鳥取地震は、1943年の鳥取地震のような大きな被害は出てないから、違うのでは。」
 という疑問の声が聞こえそうです。

 確かに、1943年の鳥取地震はM7.2で死者が1083人なのに対して、2016年の鳥取地震はM6.6で幸い犠牲者は、今のところ報告されていません。
 ところが、それで「まったく別の地震」とは、言い切れません。

 犠牲者の数は、震源の場所によって大きく変わります。1943年の鳥取地震は「鳥取市街地の直下型地震」なのに対し、2016年の鳥取地震は中国山地の中だったので被害が小さかったとも言えます。

 さらにもう一つ言うと、過去の歴史を調べてみると、鳥取県での地震は、揺れの大きな地震が複数回起きる傾向があります。

 実は、1943年9月10日の大きな被害を出した「鳥取地震」の半年前の1943年3月4日と3月5日に、いずれもM6.2の地震が続けて発生し、軽傷者11人を出しています。

 つまり、1943年の例のように、2016年の10月21日の地震は実は「前震」で、この後、さらに規模の大きい「本震」が発生する可能性もあるのです。

 必要以上に恐れることはないと思いますが、「もしも」に備えて、鳥取県在住の方はもちろん、ほかの地域のみなさんも、もう一度、地震・津波への「備え」をしておく必要はあると思います。


<1943年の鳥取地震>




 ここからは「災害から命を守るマメ知識」として、今回は「緊急地震速報」について紹介したいと思います。

「緊急地震速報」は、2007年10月1日から気象庁が中心となって発表しているものです。
 緊急地震速報には、「一般向け」と「高度利用者向け」がありますが、ここではテレビや携帯・スマホでも受信できる「一般向け」の緊急地震速報について、ご紹介します。

  全国220か所にある気象庁の地上地震計と、東海沖にある15か所の海底地震計などの観測データのうち複数で地震の揺れをとらえた場合、瞬時に衛星で受信しコンピューターで解析して発表するものです。
 この緊急地震速報は、地震波が揺れは小さいがスピードの速い初期微動と呼ばれる縦波・P波(秒速6~7km)と、揺れが大きくスピードの遅い主要動と呼ばれる横波・S波(秒速3.5km)の到着時間の差を活用して、地震波の到着前に、揺れの大きさや震度4以上の発生する地域などを速報するものです。

 「緊急地震速報の警報」は、最大震度が5弱以上と推定される場合に、震度4以上の揺れがあると予測されている地域に発表されます。
 さらに、「緊急地震速報の特別警報」は、推定最大震度が6弱以上の場合に発表されます。

<2016年鳥取地震で震度6弱を記録した倉吉市の名所「打吹玉川(うつぶきたまがわ)」の町並み> 



 
 
次に、「緊急地震速報」が発表された時の具体的な対応を紹介します。

 詳しくは、下の図をご覧いただければと思いますが、テレビ・ラジオや携帯・スマホなどで「緊急地震速報」の発表を聞いたら数秒から数十秒しかないので、「周囲の状況に応じて、あわてずに、まず身の安全を確保する」ことを最大の基本とします。

 学校・会社・自宅などの室内では、落下する恐れがあるなどの危険な場所から離れて、机の下に隠れるなど、頭を保護するのが一番です。
 周辺に人がいたら、周りの人にも「頭を守れ、机の下に隠れろ」などの声掛けもしたいものです。
 特に、子供や障害者などには、手伝って守ってください。

 外でいる場合は、ブロックや塀、落下物の近くからは離れて安全なところでしゃがみます。また、車の運転中は、ゆっくりブレーキをかけ、ハザードランプをつけて道路の左側に車を寄せて停車します。
 
 ある場所で実際に緊急地震速報が出たとき、お互いに顔を見合わせて呆然と立ち尽くしていたというシーンも見たことがあります。
 やっぱり普段からの訓練と、シミュレーションが大切だと思います。




最後に、地震の後、津波のある・なしで、避難行動は大きく変わりますので、改めて、「地震の発表」から、津波の有無を判断する3つの要素を紹介します。

(1)地震の震源が海であること(今回の鳥取地震のように、陸が震源の場合は津波は起こりません。)

(2)地震の大きさを示すマグニチュード(M)が、6.5以上であること。(ただし、最初の気象庁の発表は実際より小さい場合もあります。例えば、東日本大震災の時の1回目のマグニチュードは7.6でした。)

(3)地震の震源が60kmより浅いこと。

 この3つの条件がそろえば、「津波の恐れあり」と判断し、津波警報等が出ていなくても、できる限り高い場所へ避難することが大切です。

 みんなで、「いつかは必ず来る次の大地震」に備えておきたいですね。





2016年10月20日木曜日

ボブ・ディランとノーベル文学賞 ~風に吹かれて・答えは風の中~

  2016(平成28)年のノーベル文学賞に、アメリカのミュージシャン「ボブ・ディラン」さんが選ばれました。
 村上春樹さんの受賞を毎年、待ちわびているハルキストには、申し訳ないけれど、私はスウェーデンアカデミーが、ボブ・ディランさんの「歌詞」の芸術性を高く評価したことに、賛辞を贈りたいと思います。

 村上春樹さんが嫌いということではなく、「小説」や「詩」と「(歌詞の)作詞」を同列に扱ったところが、革命的だと思います。

 考えてみれば、「詩」や「小説」のもとは、欧米では「吟遊詩人」や叙事詩、日本では「万葉集」などの抑揚をつけた和歌だったとも言えるので、本当は自然なことかも知れませんね。

 今後、世界の作詞家やシンガーソングライター、日本でも、さだまさしさんや中島みゆきさん、秋元康さんなども対象にならないかなと、少し期待してしまいます。


 ボブ・ディラン (Bob Dylan)さんは、アメリカ合衆国の中北部のカナダ国境にあるミネソタ州のダルースで、1941(昭和16)年5月24日にユダヤ系の両親の元で生まれました。

 生まれた時の本名は、「ロバート・アレン・ツィンマーマン(Robert Allen Zimmerman)」さんですが、後には芸名の「ボブ・ディラン」を法律上の名前にしています。
 彼の生まれた1941年は、アメリカと日本が太平洋戦争を始めた年です。

 ボブ・ディランさんの故郷ダルースは、五大湖の一つスペリオル湖の西岸にある港のある町で、人口は2010年現在で86,000人余りです。

<ボブ・ディランさんが生まれたアメリカ・ミネソタ州のダルース>


 ボブ・ディランさんは、小さい頃からピアノやギターを独学し、ハイスクール時代にはエルビス・プレスリーなどの影響で、バンドを組んで演奏しました。

 1959(昭和34)年9月、18歳のボブ・ディランさんはミネソタ大学に入学しますが、半年で授業に出なくなります。
 ミネソタ州最大の都市ミネアポリス(人口約40万人)を中心に、フォーク・シンガーとして活動をはじめます。

 この頃から、「ボブ・ディラン」を名乗り始めます。
 「ボブ」は本名「ロバート」のニックネームから取り、「ディラン」はイギリスの詩人「デイラン・マーレイス・トーマス(1914年~1953年)」から取っています。

 1961(昭和36)年、20歳になった年に、大学を中退してニューヨークに出ます。
 ニューヨークのクラブやコーヒーハウスなどで、フォークソングをギターで弾き語りをする活動をし、それがレコード会社の関係者の目にとまります。

 1962(昭和37)年3月に「ボブ・ディラン」というアルバムでレコードデビューしますが、5000枚しか売れませんでした。

 1963(昭和38)年に、2枚目のアルバム「フリーホーリン・ボブ・ディラン」を発売します。
 このアルバムは全英アルバムチャートで1位、アメリカ・ビルボードで22位になります。

 特に、このアルバムの中に収められていた「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」は、人気グループのピーター・ポール&マリーがカバーしてビルボード2位になり、ボブ・ディランの出世作であり代表作となります。

 「Blowin' in the Wind」は、「風に吹かれて」と日本後で訳されています。
 でも、英語の「Blowin」には「ひょっこり現れる」のような意味もあるので、もしかしたら「風の中からひょっこり現れる」を意訳して、「答えは風の中」と訳してもいいのかなとも思っています。

 では、「Blowin' in the Wind」」の1番の歌詞と、私なりの日本語訳を紹介します。


♪「Blowin' in the Wind(風に吹かれて ~答えは風の中~)」♪


How many roads must a man walk down
Before you call him a man? 
(いくつの道を 歩ききれば 人と呼ばれるようになるのだろう。)

How many seas must a white dove sail 
Before she sleeps in the sand? 
(いくつの海を 渡りきれば 白い鳩は 安心して眠ることができる砂浜にたどり着くのだろう) 

How many times must the cannon bolls fly 
Betore they’re forever banned? 
(どれぐぐらいの時間 砲弾が飛び交えば 永久の平和が訪れるのだろう)

The answer, my friend, is blowin’ in the wind 
The answer is blowin’ in the wind  
(友よ 答えは風の中にあるんだ 答えは風に吹かれている)


<「フリーホーリン・ボブ。ディラン」のレコードジャケット>




このあと、ボブ・ディランさんは、1963年8月の「ワシントン大行進」で演奏したり、ビートルズやローリングストーンズと交流したりしながら、50年以上にわたって、多くの楽曲を歌い・作詞・作曲し、グラミー賞を11回、アカデミー賞を1回受賞しています。(活動がたくさんありすぎて、詳細は今回は紹介しきれません。ごめんなさい。)

 日本にも、1978年の初来日から、2016年まで8回来日し、武道館やBunkamuraオーチャードホール、東京国際フォーラム、ライブハウスの「Zepp東京」(以上東京)などに加えて、大阪・名古屋・札幌・福岡・秋田・倉敷など、全国各地でコンサートを開催しています。
 また、奈良の東大寺でのコンサートにも参加しています。


 ボブ・ディランさんは、ビートルズやローリング・ストーンズをはじめ、多くの歌手・シンガーに影響を与えています。
 2016年のノーベル文学賞の受賞理由は、「米国の歌の伝統における新たな詩的表現を創造した」ということですが、ボブ・ディランの影響は「世界中」と言ってもいいと思います。

   日本でも「風に吹かれて」をカバーした歌手として、南沙織(みなみ・さおり 1976年)さんをはじめ、RCサクセッション(1988年)、BEGIN(2003年)などがいます。

 また「風に吹かれて」という同名の曲は、オフコース(1976年)、THE ALFEE(1986年)、森高千里さん(1995年)、エレファント・カシマシ(1997年)、JUDY AND MARY(1997年)、などの歌手が歌っています。

 さらに、ボブ・ディランの名前が歌詞に出てくる歌も、ガロの「学生街の喫茶店」(1972年)や吉田拓郎さんの「親切」(1972年)など、たくさんあります。
 主に、1970年代~1980年代が多いようですが、もちろんその後も、日本の音楽会に影響を与え続けています。


 それではこれらの中から、ボブ・ディランの日本への影響の大きさがよくわかる、ガロの1972年のヒット曲「学生街の喫茶店」と、森高千里さんの「風に吹かれて」の歌詞の一部を紹介します。



♪「学生街の喫茶店」(歌・ガロ、作詞・山上路夫、作曲・すぎやまこういち 1972年)♪



君とよくこの店に 来たものさ
訳もなく お茶を飲み 話したよ
学生で賑やかな この店の
片隅で 聴いていた ボブ・ディラン

あの時に歌は聴こえない
人の姿も変わったよ 時は流れた♪


<ガロ「学生街の喫茶店」のレコード・ジャケット>


♪「風に吹かれて」(歌・森高千里、作詞・森高千里、作曲・斉藤英夫 1995年)♪

遠いところへ行きたい どこか遠い所へ
あの空の彼方へ 行きたいな
名前も知らない街と 名前も知らない人
あの空の彼方の どこかまで 行ってみたいな

きのうの夜はごめんなさい 別れることが辛くて
泣いても泣いても 涙 止まらなかった
きのうの夜は あなたのこと 許せなかった私は
本当に本当に 今は忘れたいだけ
どこか 遠いところへ 行きたいな ♪


 ボブ・ディランさんは、75歳の今も、「ネバー・エンディング・ツアー」と題して年間に100回ものツアーを、世界中で続けています。

 いまでも、1963年発表の彼の曲「ライク・ア・ローリング・ストーン(転がる石のように)」、のタイトルのとおり、歌いながら旅をしているなんて、すごいですね。

 ノーベル文学賞の主催者からボブ・ディランへの連絡は、2016年10月19日現在、とれていないそうです。
 それでも、彼のノーベル文学書受賞は動かないので、授賞式への欠席で取り消されることはないそうです。

 世界中の「シンガー・ソング・ライター」の代表として、ぜひノーベル文学賞の授賞式に出席して、歌ってほしいものです。
 でも本当のところどうなるか、「答えは風の中」ですね。


<写真 台風一過で風に吹かれている雲?>


 最後に、あまりヒットしていませんが、ボブ・ディランへの思いがすごくよく表れている元アリスの谷村新司さんの「夢の世代♪」という歌の歌詞の一部を紹介します。
 けだし、名曲だと思います。
 ぜひ、ネットで検索してみて、お聞きください。


♪「夢の世代」(歌・谷村新司、作詞・谷村新司、作曲・佐藤隆 1983年)♪

夢の中で泣いたような 不思議なさわやかさを
残して流れ過ぎてゆく 俺たちの時代

今は何も語らないで 空を見つめているだけ
君は気づいているだろうか 風は吹いてる

ディランを聞いて こぶしを握り うなずいてた日
ビートルズを聞き乍(なが)ら 泣いてた

夢の中で泣いたような 不思議なさわやかさを 
残して流れ過ぎてゆく 俺たちの時代

FROM THESE DAYS
FROM THESE DAYS
今日も 風は 吹いてる ♪


2016年10月15日土曜日

やさしさをあきらめないで(2)星になった盲導犬が命の車音を復活!

以前、このブログでも紹介しましたが、2015(平成27)年10月3日、徳島県徳島市の市道で視覚障害者の山橋衛二さん(50歳)が、盲導犬ヴァルデスを連れて散歩中にバックしてきたトラックにひかれて亡くなりました。
 山橋さんをひいたトラックは、バックの際に鳴るブザーのスイッチを切っていたので、山橋さんは気づきませんでした。

 この時、盲導犬ヴァルデスは、自分だけ逃げようと思えば逃げられたのに、山橋さんのそばを離れずに、ご主人の山橋さんを守るように、一緒にトラックにひかれて死んでしまいました。
 偶然にも、10月3日はヴァルデスの誕生日でした。
 ちょうど10歳の誕生日に、「やさしく人間に忠実な盲導犬」ヴァルデスは、ご主人と一緒に、星になりました。


 それから半年後、山橋さんとヴァルデスの交通事故の原因となった「車の警報音を切ってはいけない」ことが、徳島県の条例で決まりました。

 さらに、2016年10月、国土交通省は、ハイブリッド車(HV車)や電気自動車は走行音が静かすぎることで、視覚障害者や子供、老人などが気づきにくいとして、ガソリン車と同じレベルの走行音を出して周囲に接近を知らせる装置の取り付けを義務づけることを決めました。

 新基準では、ハイブリッド車や電気自動車が時速20キロ以下の低速で走行する場合には、「速度に応じて50デシベルから56デシベル以上」のガソリン車と同じレベルの大きさの音を出すよう定められました。
 また、高齢者でも聞き取りやすい低い周波数の音を加えることも求めています。

 国土交通省は、道路運送車両法の保安基準を改正し、新型車は1年半後の平成30年3月から義務づけられますが、すでに販売されている型の車についても、4年後の東京オリンピックが開催される2020(平成32)年から義務づけられることなりました。

 「静かな走りで環境にやさしい」車が主流になってきている中で、1人の視覚障害者と1頭の盲導犬が犠牲になった事故がきっかけとなって、「歩行者と盲導犬に命の音の出る車」が復活したことは、すばらしいと思います。
 やさしさを諦(あきら)めずに、ご主人を最後まで守って星になった盲導犬ヴァルデスの死が、無駄ではなっかたのだと思えて、胸が熱くなっています。


<写真 山橋衛二さんと盲導犬ヴァルデス>


盲導犬は、「身体障害者補助犬法」(平成14年10月施行)に基づいて認定された犬で、特別な訓練をうけていて、公共施設や交通機関をはじめ、飲食店やスーパー、ホテルなど様々な場所に同伴することができます。

 ヴァオルデスは、ラブラドール・リトリバーでしたが、これは日本の盲導犬では1番多い種類です。ほかに、ゴールデン・レトリーバーや1代雑種などもいます。
 1939(昭和14)年に、ドイツから日本に初めてきた盲導犬はシェパードでしたが、警察犬や猟犬にも使われる見た目がいかつい「シェパード」の盲導犬は減り、たれ目・たれ耳でやさしく見える「レトリバー」系が多くなったそうです。

 日本の盲導犬の実働頭数は、2016年3月末現在で966頭で前年より13頭減っています。
 都道府県の中で、1番多い東京都が99頭、次いで大阪府61頭、神奈川県59頭と続きます。それにしても、少ないですね。
 因(ちな)みにヴァルデスがいた徳島県は、ヴァルデスの事故死で1頭減って3頭となり、全国の都道府県で最低の数です。


<写真:盲導犬ヴァルデスが暮らし事故死した付近の徳島市東部>



  盲導犬は、生後2か月から1歳までは「パピーウオーカー」と呼ばれるボランテイア家庭で、愛情たっぷりに暮らし、人間への「愛とやさしい」を身につけます。

 1歳を過ぎると訓練センターに行き、いよいよ盲導犬の訓練が始まります。
 その際、1番先に教えられる言葉は、シット(座れ)やダウン(伏せ)などの命令の言葉ではなく、
GOODというほめ言葉だそうです。
 最初に、「パピーウォーカー」や褒め言葉の「GOOD」があるから、盲導犬はやさしい犬になるのですね。

 盲導犬は10歳前後(人間の年齢だと50歳ぐらい)で引退して、ボランテイアで受け入れてくれる家にもらわれたり、仲間の引退犬がたくさんいる施設で余生を暮らします。
 実はヴァルディスも、あと1週間で引退することになっていました。
 そのことを聞くと、最後までご主人のために働いたヴァルディスには、頭が下がる思いです。
 今は、夜空のどこかで、山橋さんと一緒に星になって、幸せに暮らしていると信じたいです。

 そして、「自動車の走行音を出すことを義務付ける」というニュースを空から聞いて、「GOODだ、ワン」と喜んでくれているはずです。


<一句>
「閑(しず)けさも 命の音は 消さぬ道」


2016年10月9日日曜日

やさしい時代をあきらめないで(1)「相模原障害者殺傷事件」とナチスのT4計画

 オリンピックと台風のことを交互に書いてきた2016(平成28)年の夏から初秋でしたが、一方で、神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」で障害者19人が殺害される事件や、同じ神奈川県横浜市の「大口病院」で点滴に消毒剤が混入されて殺害される事件など、「やさしい時代」の終焉(しゅうえん)のような、忘れてはいけないショッキングな出来事もありました。
 こんな社会的弱者への凄惨な事件が起こると、ヒットラー率いるナチスが行った「T4作戦」がよく取りざたされます。
 実際、「津久井やまゆり園障害者殺傷事件」の犯人、植松聖(うえまつ・さとし)容疑者は「ヒットラーの思想が降りてきた」と話しています。


 「優(やさ)しい時代」とは、1978(昭和53)年にNHKで放送されたドラマ(脚本:日向正健、出演:篠田三郎、壇ふみ 他)のタイトルです。

 この年は、高度経済成長(1958年~1973年)のあとの「オイル・ショック」(1973年)から日本経済がやっと立ち直り、日本テレビの番組「24時間テレビ~愛は地球を救う」が始まった年です。
 この番組によって、「日本赤十字社」などの公的機関に頼らない「民間募金」が、テレビで本格的に始まりました。
 一方で「学生運動」が過去のものになり、大学のキャンパスでは、アリスやチューリップなどの「ニューミュージック」や、山口百恵・榊原郁恵・郷ひろみなどのアイドルの歌が流れていました。

 因(ちな)みに、この年は伝説の歌番組「ザ・ベストテン」(TBS、司会:久米宏さん・黒柳徹子さん)が始まり、キャンデーズが解散、サザンオールスターズがデビューし、デイスコ・ブームが始まった年でもあります。

 この年に生まれた有名人としては、澤 穂希(さわ・ほまれ 女子サッカー選手)さんや中村俊介(なかむら・じゅんすけ 男子サッカー選手)さん、DAIGO(ダイゴ 歌手)さん、浜崎あゆみ(歌手)さん、井上康生(いのうえ・こうせい 柔道)さん、菊川怜(きっかわ・れい 女優・司会)さんなどがいます。


 携帯電話会社のCMで紹介されている「1980年代後半のバブル期」を控えて、みんなに優しく平和な「やさしい時代」の始まりだったのが、この年かも知れません

 この頃から40年近く続いた、みんなに「やさしい時代」が、今、終わりを向かえようとしています。  
 今回から断続的に「やさしい時代をあきらめないで」というタイトルで、「やさしい時代の終焉」を思わせるニュースを取り上げ、いろいろと問題点を考えてみたいと思います。

 1回目は「相模原市の障害者殺傷事件とナチスのT4作戦」についてです。


<津久井やまゆり園(神奈川県相模原市緑区)>



 「相模原障害者殺傷事件」は、2016(平成28)年7月26日午前2時から3時頃、神奈川県相模原市緑区にある障害者施設「津久井やまゆり園」で発生しました。
 元職員の植松聖(うえまつ・さとし)容疑者が園に侵入し、職員を拘束した上、ナイフなどの刃物で、重度の障害者を中心に計45人を刺し、男性9人と女性10人が死亡、男女20人が重傷、6人が軽傷を負いました。
 死亡した19人の年齢は、18歳〜70歳でした。

 植松容疑者は、2012(平成24)年12月から2016(平成28)年2月まで、「やまゆり園」で働いていました。
 もともと、子供好きで父親と同じ小学校教員をめざしていましたが挫折し、その後は「福祉」の仕事ということで「やまゆり園」を希望しで働いていました。
 ですから本当は「やさしい人」だったのだと思います。

 ところが、重度障害者の世話の大変さに挫折し、2016年2月には「障害者に安楽死を」という手紙を衆議院議長の公邸にもっていったことがきっかけ(安倍総理にも渡そうとしましたが渡せませんでした)となって、施設から解雇され障害者福祉法に基づく措置入院させられました。

 その措置入院中に、ナチスが障害者を殺害した「T4計画」を知り、「ヒットラーの思想が降りてきた」ことで、障害者たちの大量殺害を計画します。

 もちろん、植松容疑者の残虐極まりない行動は、厳罰に処せられるべきだと思いますが、この事件にはいろいろな問題が背景にあると思います。

 私は学生の頃、障害者施設へボランティアで訪問したことがありますが、「弱くてかわいそう人たちに優しく接する」という最初の「上から目線」のイメージとは違って、障害者の人たちは予想以上にしっかりしていて、施設の人たちにも「できることは自分でさせて、手伝わないように」と言われました。

 甘やかしてはいけないということでしょうが、1人1人の障害者の人たちも自立しようと必死でした。
「やさしい」「お情け」だけでは、接してはいけない世界でした。


「やまゆり園」の元職員の話では、報酬は決して高くなく、勤務は過酷で宿直は月に4回、深夜までの勤務や早出もあって、いつも疲れていたそうです。

 さらに、テレビを棚から落としたり、電灯を割ったり、暴れたり噛みついたりしても抵抗できない、とても大変な介護の仕事というのが、現実だそうです。

 植松容疑者も、最初に志した時の「ボランティアの延長」的な甘い気持ちを粉々に砕かれ、言うことを聞かない障害者に切れてしまいました。
 ついには「こいつらは生きていても役に立たない邪魔者。この世から安楽死させた方がいい。」という気持ちになって、「ナチスのT4作戦」に同調するようになりました。


(7月のあの日 平和に咲くアサガオ)



 ナチスの「T4作戦」とは、第二次世界大戦中にナチスドイツで進められたもので、知的障害者や身体障害者、精神障害者などは、社会には「無用」であるばかりか、アーリア人の遺伝的な純粋性を脅かす存在である。
 つまり、「生きる価値のない人間」と見なされ、殺害されたました。
 ユダヤ人殺戮のモデルとも言われる作戦で、1940(昭和15)年から1945(昭和20)年までに、約20万人の障害者が殺害されました。

 このナチスの歴史を知った植松容疑者は、ヒットラーに共感し、自らが障害者を殺害し「英雄」になろうとしました。
 この考えに基づき、拘束した職員を同行させ、「重症」の患者から殺害しました。


 ここで問題なのは、弱い抵抗できないものを選んで植松容疑者が殺傷した点と、「津久井やまゆり園」の勤務体制が、決して特別に悪いものではなく、県立の園の勤務はむしろ恵まれていて、もっとひどいところがたくさんある点です。

  事件のあった2016年7月26日未明、「やまゆり園」には警備員1人、職員8人が勤務していました。
 入所者定員160人(4月末で149人が入所)に対して、この数が多いか少ないかは議論を要すところですが、他の施設と比べれば、まだ県立で恵まれている方だと思います。
(たとえば、台風10号で9人が死亡した岩手県岩泉町のグループホーム「楽ん楽ん」で、台風の夜に泊まっていた職員は、所長1人だけでした。)

 一方、2016年春に、「やまゆり園」がハローワークを通じて出した求人では、昼間の「世話人」が時給970円~1070円だったのに対して、「夜間専門生活支援員」の時給は905円で神奈川県の最低賃金と同じでした。
 昼間より夜間が安いのには違和感を感じますし、ハローワークを通じて募集できる最低の時給905円では、夜間の生活支援員の人材レベルは、押して知るべしだと思います。
 それでも、時給905円が本当にもらえていたとしたら、他の施設よりもまだ恵まれている方だと思います。

 さきほど紹介した「やまゆり園」の元職員は、「仕事の環境の厳しさの中では、職員みんなが多かれ少なかれ、『施設の障害者が暴れたり面倒をかけたりせず、眠っていてくれたら楽なのに』と、思ったことがあるはず。」と話しています。

 介護は、「高齢化社会」や「やさしい時代」の象徴だと言えますが、やっぱり現実は厳しいものです。    今でも、親や配偶者を、介護疲れで殺害する事例があとをたたないのが現実です。

 それでも、「やさしさ」を社会みんなで支援し、高齢者や障害者など弱い立場の人たちを社会から排除せず、大切にする「やさしい時代」をあきらめてはいけないと思います。

<写真 海と空と島々>



 最後に、殺傷事件後に「津久井やまゆり園」で献花をした、見形信子さんの話を紹介します。
 見方さんは、NPO法人自立支援センター「くれぱす」の事務局長で、自身も筋肉の力が衰える難病と闘い、16年間に渡って自立支援施設で暮らした経験があります。

 彼女は、「加害者の名前や生い立ちは報道されるのに、殺害された19人は名前さえ公表されないのはおかしい。」と語っていました。



<自作詩>
「やさしい時代をあきらめないで」


戦争は過去のもの
平和はあたりまえ

食べ物はなくならない
停電なんて ありえない

みんながそこそこ 幸せで
みんあがそこそこ いい暮らし

そんなやさしい時代が
終わろうとしている


高齢化で 介護と医療費 増すばかり
下流老人 見捨てるか?

子供たちも 二極化で
子供の貧困 やむを得ぬ

でも ちょっと 待ったあ
やさしい時代を あきらめないで

障害施設は やっかいもので
安楽死こそ いい考えだ

病院施設も 医療費嵩む
安楽死こそ ナイス措置

日本の危機を 救うのは
インフレ 爆買い 原子力

でも でも でもね
でも でもね

本当にそうかな 空を見て
風も雲も 光ってる
宇宙に続く ブルースカイ

本当にそうかな 海へ行こう
波は自由だ 海鳥も
世界へ続く オーシャンブルー

やさしい時代を 捨てないで
やさしい時代を 諦(あきら)めないで


2016年10月5日水曜日

今年7個目上陸? 台風18号は日本海を東進し北陸・東北へ

台風18号(チャバ=タイの言葉で「ハイビスカス」という意味)が、対馬海峡から日本海を東進し、10月5日の夜から10月6日にかけて、北陸・東北へ上陸する可能性が高まっています。
 日本海沿岸東進は、今年初めてのコースです。進路にあたる地域の方は、早めに準備し警戒してください。

  気象庁の発表では、2016(平成28)年10月5日0時現在、「非常に強い台風18号」は、九州西方の北緯31度40分、東経126度20分の東シナ海にあって、時速30kmで北に進んでいます。
 中心気圧は940hp(ヘクトパスカル)、中心付近の最大風速は45m/sで、中心から90kmの範囲では風速25m/s以上の暴風雨になっています。

 この台風18号は、九州と朝鮮半島の間の対馬海峡を通って日本海側に入り、中国地方(山口県・島根県・鳥取県)・近畿地方(兵庫県・京都県)の日本海沿岸を東に進み、北陸(福井県・石川県・富山県・新潟県)から東北(山形県・秋田県・青森県)にかけて、上陸する可能性が高くなっています。
 その後、日本列島を西から東に横断して、関東・東北を経て、太平洋に抜ける見通しです。

 台風18号は比較的コンパクトな大きさですが、一時「猛烈な」強さをもっていたように、中心が近づくと風と雨が急激に強くなるので、厳重な注意が必要です。
 さらに、日本海沿岸を台風が東に進むと、南よりの風が吹く九州・四国・近畿・東海・関東の太平洋沿岸でも、大雨になる可能性がありますので、この方面でも警戒してください。


 <台風18号の進路予想 2016年10月6日0時 (気象庁HP)>



 それにしても、今年は台風の日本への上陸・接近が多いですね。
 もし、台風18号が日本本土へ上陸すれば、今年7個目となり、「災」が今年の漢字になった2004(平成16)年の10個に次いで、単独で2番目に多くなります。

 今年の上陸台風のルートを紹介します。
・台風7号=北海道の中央部に上陸
・台風9号=関東・東北・北海道の太平洋岸を縦断
・台風10号=史上初めて東北地方太平洋岸に直接上陸し、続いて北海道へも上陸(岩手県と北海道を中心に死者・行方不明者27人)

・台風11号=北海道東部
・台風12号=九州西部
・台風16号=九州南部・四国南部・近畿南部・中部(太平洋沿岸沿いに西から東へ)

 9月の台風16号は「大隅半島、足摺岬、室戸岬、紀伊半島」など、「太平洋側の半島と岬めぐりコース」を通過しましたが、今回は、これらのどれとも違う「日本海東進コース」です。
 あえて言えば、「久米島、対馬」など、「東シナ海・日本海の島めぐりコース」みたいな気がしています。

 進路と周辺の地域の皆さん、台風の備えのイラストを貼っておきますので、参考にして十分に注意してくださいね。




 
最後に、気象庁の天気予報や台風情報などでよく使う、一日の時間帯をあらわす用語を紹介します。

<未明(みめい)>=午前0時~午前3時
<明け方(あけがた)>=午前3時~午前6時
<朝(あさ)>=午前6時~午前9時
<昼前(ひるまえ>=午前9時~正午

<昼過ぎ(ひるすぎ)>=正午~午後3時
<夕方(ゆうがた)=午後3時~午後6時
<夜のはじめ頃(よるのはじめころ)>=午後6時~午後9時
<夜遅く(よるおそく)>=午後9時~午前0時

 天気予報や台風の進路予報などで使う「時間帯」の用語は、漠然としているようですが、実は3時間ごとのきっちりとした時間帯を示しています。

 もちろん、台風の強さを表す表現も、実は数字で決まっています。(*下記の数字には端数があって、正確には船などの速さを表す単位のノット(knot)で決まっています。)

<猛烈(もうれつ)な台風>=中心付近の最大風速が54km/s以上、
<非常に強い台風>=中心付近の最大風速が44m/s以上54m/s未満、
<強い台風>=中心付近の最大風速が33m/s以上44m/s未満
<(強さの表記のない)台風>=中心付近の最大風速が約17m/s以上33m/s未満

  これらの時間帯や台風の強さを表す単位も参考に、「台風18号に厳重に警戒」してください。



2016年10月3日月曜日

リオから東京へ「1461日の紙飛行機」~誰もが夢に挑戦できる~

リオデジャネイロのオリンピック・パラリンピックが終わって、2020年東京オリンピック・パラリンピックへの1461日がもう始まっています。
 そうです。「1461日」とは、365日×4+1日(2月29日)=1461日、つまり、4年間のことです。

 リオ・オリンピックでは、日本選手の逆転が目立ちました。
 体操の内村航平選手をはじめ、レスリングの登坂絵莉、伊調薫。土性沙羅の女子3選手、バドミントンの高橋礼華選手と松友美佐紀選手のペアなどが、土壇場からの大逆転で金メダルを獲得しました。
 そのシーンをテレビで見る度、私たちが子供の頃見ていた「世界一への夢」を思い出させてくれ、本当に感動しました。

 テレビでは、試合の当日だけの「一瞬の勝負」に見えますが、本当はそれまでの4年間、1461日の練習の積み重ね、いえ、もしかしたら今まで選手たちが、青春・人生の日々に努力を積み重ねてきた結果、なんですよね。

 だからこそ、オリンピック・パラリンピックは、見る人に深い感動と夢みることの大切さを訴え、テレビでオリンピックを見て、「世界への夢」をスタートさせた内村航平選手のような子供たちが、出てくるのだと思います。

<体操男子 金メダル記念切手>



 リオ・オリンピック中継のテレビ朝日系のテーマソングに、福山雅治さんの「1461日」が選ばれていました。その歌詞の一部を紹介します。


♪「1461日」
(作詞・作曲・歌 福山雅治)


だけど そろそろ残りの人生逆算しながらテレビ見ながら
あと何十回 桜の花見れるかなって
すべての命に終わりがある そんな当たり前がちょっとね

でも僕は 君を見ていると 勇気が出ちゃうんだよ
1461日 人知れず 積み重ねたものが 溢れ出してしまうから
今 君は何を見つめながら 戦っているの

嬉しいなその汗が
嬉しいなその笑顔
時には自分に勝てることも
時には負けることもあるけど
君は君を変えた♪


 福山雅治さん自身の、この歌についてのコメントの一部を紹介します。
「『1461日』。出場するアスリートの皆さんは、その日数、どれほどの努力を積み重ねてきたのか。それをリオ五輪というステージで最善の形で表現することが出来るのか。毎回なんですが、観ていてこちら側が緊張で全身が固まります。と同時にとても興奮します。
勝手ながら、アスリート達の戦いからは「自分を変えることが出来るのは自分」というメッセージを受け取ってる気がしています。結果というのは誰のせいでもない。そのステージに立つ時は孤独なんだという決意を。」



 オリンピックやパラリンピックを見ていると、日常生活の中で忘れていた、「世界へ挑戦する」という自分が子供の頃描いていた夢が久々に心に蘇ってきます。
 そして、「誰もが夢をもち、挑戦する権利をもっている」ことを思いだし、やってみようという気持ちも出てきます。

 もちろん、その分野はアスリートだけではありません。
 それは「世界一になるための勉強」や「世界一になるための研究」だったり、「世界一のビジネス」だったり、「世界一のビジネスマン・ビジネスウーマン」だったり、「世界一優しい医療・介護」だったり、「世界一すてきな女性」だったり、「世界一かっこいい男」だったり、「世界一の親」だったり、「世界一勇気ある不登校」だったり、何でもいいし、何歳からでもいいんです。

 リオ・オリンピックの男子100m×4リレーで、日本初の銀メダルをとった山縣亮太選手はこう言っています。
「夢は実現できるんだということを、証明できた。」

 まずは「世界一の夢」をもって、「世界一努力する覚悟」をもって、「世界一」をめざしませんか。
 あのデイズニーランドの創始者、ウォルト・ディズニー氏はこう言っています。
  If you can dream it, you can do it.「夢みることができれば、それは実現できる。」

 リオのヒーロー、ヒロインたちを見て、私も1461日後、4年後を目指して。自分の夢に挑戦しようと思っています。
 皆さんも、「1枚の平面の紙が、大空を飛べるようになった紙飛行機」のように、2020年を目指してがんばっていきませんか。

 大切なのは結果ではなく、「どう飛んだか どこを飛んだのか」だと信じて、とりあえず1461日間、がんばってみましょう。


<白鳳大学オープンキャンパスのポスター>
  


♪「365日の紙飛行機」
(作詞:秋元康 作曲:角野寿和・青葉紘季 歌:AKB48)


人生は紙飛行機 願い乗せて 飛んでいくよ
風の中を 力の限り ただ進むだけ

その距離を競うより
どう飛んだか どこを飛んだのか

それが一番 大切なんだ
さぁ 心のままに 365日

飛んでいけ 飛んでみよう♪