2017年7月12日水曜日

本当にあった不思議な話(3)「リハビリ入院1日4万円? ~家族の絆はもしもしもし」

 子供の「お父さん、リハビリ入院をしなよ。」という一言で、リハビリ入院の覚悟を決め、兄は総合病院Bからリハビリ病院Eに転院しました。

 E病院はりハビリ中心の病院で、手術などの設備はなく、医師・看護師さんのほかに、歩行など手足の機能の回復訓練を指導する「理学療養士」さんをはじめ、手や指などの機能の回復訓練を指導する「作業療法士」さん、失語症などのコミュニケーション能力の回復等を行う「言語聴覚士」さんなどがいます。
 これらの専門家たちが、1回60分の治療を、1人1日1回から3回実施してくれます。


 兄は、3人部屋に入院しました。
 本当は、インターネット環境があり消灯時間もない個室に入りたかったようですが、 1日3500円から8000円の個室料金の許可が奥さんからもらえず、渋々、大部屋に入院しました。
 ちなみに、ネットはなく消灯は午後9時です。


<写真 リハビリルーム>


 兄のリハビリは原則1日3時間で、主に足の筋トレなどの「理学療法」が1時間、左手の指の回復を目的とした「作業療法」が1日2時間です。

 兄は否定していますが、脳梗塞などで脳の血管が切れた場合、少しでも早く集中してリハビリすれば、機能回復の可能性はグーンと高まるそうです。
 
 リハビリ開始から2週間が経ちました。
 兄はまじめに、1日3時間のメニューをこなし、歩行は問題なし、左手も親指と人差し指の力が少し弱い以外は、ほぼ回復しました。

 
兄は、笑顔で話しています。
「やっぱり福祉は大切だよな。車イスや杖をついてリハビリしている人たちの中にいて、久しぶりに、実感したよ。」
でも、再発の可能性が高い病気であることは兄も知っているので、先日の小林麻央さんの死や近くの中学校の先生が学校内で脳梗塞で突然倒れて亡くなったと聞くと、さすがに元気が無くなっています。

 実は、兄は学生時代、大学の福祉系学部への進学や、福祉施設への就職を希望していました。
 ところが、両親が「経済的にやっていけないから止めろ」と強く反対し、断念しました。

  それから、多くの月日が流れて、兄自身が患者としてリハビリをすることになったのは皮肉ですね。

 兄のリハビリ内容を紹介すると、まず「理学療法」は、足の筋肉を鍛えるための筋トレ機器やルームランナーなどを使った訓練や、ストレッチや片足ずつの平衡運動、そして散歩などの訓練をしています。
 一方、「作業療法」では、積み木や小さな棒、ビーズを使った手作業や、手首・指の体操・マッサージなどをしています。

 どちらも、30歳前後の理学療養士や作業療法士の若者たち(女子7対男子3ぐらいの比率)が先生になって、中高年を中心とした患者に、コツコツと熱心に指導してくれています。
  目立ちませんが、ここには、高齢化社会を影で支える志のある若者たちが、たくさんいます。


 それにしても、母はブレーキとアクセルを踏み間違え、交通事故で骨折したケガのリハビリで入院中、兄も別病院で脳梗塞の疑いで動きが悪くなった左手のリハビリ、父は介護施設、平和だった我が家は崩壊状態です。

  それに追い打ちをかけるように、先月の兄の医療費は、最初に入院した総合病院Bの支払い額が9万円(3割負担)、転院後に月末6日だけ入院したリハビリ病院Eでは、経費が24万円(保険で実際の支払いは3割負担の8万円)です。

 一応、高額医療の上限はありますが、計算上は、リハビリ病院の医療費が1日4万円ということになります。
 うかうか入院もしていられませんね。


<写真 リハビリ病院の屋上から見た朝日>

 たった一つの救いは、個人個人が持っている携帯電話のおかげで、兄と母の入院患者同士、子供と兄、そして奥さんや私(妹)が、毎日のように連絡を取り合えて、家族のコミュニケーションは、普段より深まったことです。

  電話機能は、ラインやネット、メールなどに押されて普段はあまり使われませんが、こんな時は、やっぱり、世代を超えて使える電話ですね。

○格言  「入院中 家族の絆 もしもしもし」


 最後は、電話が大活躍していた昭和の名曲を紹介します。


♪「あなたを・もっと・知りたくて」♪
  (歌:薬師丸ひろ子、作詞:松本隆、作曲:筒美京平 1985年)


♪(2番)
離れても 心は君の
そばにある そう言ったでしょ
星空に逢いに来てって
頼んでも風の音だけ

「もしもし うん、まだ切らないで」
受信機を耳に 眠り込んでいた

少女へと戻りたい

もっともっと私を
もっともっと知ってね
いま髪を洗い いま本を閉じて
そしてあなたの写真に キスをした


もっともっとあなたを
もっともっと知りたい
いま何してるの? いま何処にいるの?
そして愛してる人は 誰ですか?  ♪

2017年7月3日月曜日

追悼・小林麻央さん ~なりたい自分になる、ブログで浪漫飛行~

2017(平成29)年6月22日、小林麻央さんは34歳の若さで乳癌のため亡くなりました。
彼女はブログで「癌」を公表し、250万人以上の読者に、共感と勇気を与えました。
今回は、そんな小林麻央さんの人生と名言を紹介します。

最初に、乳癌の宣告を受けて2016(平成28)年9月1日に、小林麻央さんがブログを開設した日の言葉の一部を紹介します。

「先生に言われたのです。
『癌の陰に隠れないで』



私は
力強く人生を歩んだ女性でありたいから
子供たちにとって強い母でありたいから
ブログという手段で
陰に隠れているそんな自分とお別れしようと決めました。

一度きりの人生なので、
なりたい自分になろうと
決意できたことは
うれしいです。
」
(2016年9月1日「なりたい自分になる」  小林麻央さんのブログより)


<写真 小林麻央さんの故郷 新潟県小千谷市>


 小林麻央(こばやし・まお)さんは、1982(昭和57)年7月21日、新潟県小千谷市に生まれました。
 お姉さんの小林麻耶さんは、元TBSのアナウンサーで今も芸能界で活躍しています。

 小林さん一家は、新潟県から埼玉県さいたま市、兵庫県西宮市、東京都荒川区、そして東京都世田谷区と移り住みました。これは、お父さんが信託銀行に勤務していて、転勤が多かったからだそうです。

 麻央さんは、國學院高校から上智大学文学部に進み卒業しました。
 大学在学中に、姉の麻耶さんの勧めで、日本テレビで明石家さんまさんが司会を務める番組「恋のからさわぎ」に出演したことがきっかけで、芸能界入りします。

 麻央さんは、2003年10月から3年間、フジテレビ系の「めざましどようび」のお天気キャスターをつとめてブレークします。

 その後、日本テレビの「NEWS ZERO」のサブキャスターとして、活躍します。
 この番組のインタビューで、麻央さんは、歌舞伎俳優の11代目市川海老蔵さんと知り合い、2010年3月に入籍しました。
 その後、男女2人の子供にも恵まれました。

 ところが、2014年の人間ドッグで「乳癌の可能性は50%」と診断されました。
 その後、なかなか確定診断がなく、病院を2つも変わっているうちに進行し、2016年6月に「乳癌」であることを公表した時には、転移も確認されていました。

 それでも、前向きな小林麻央さんは、9月にブログ「KOKORO.」を開設し、アメーバブログでは長期に渡って、閲覧数1位を記録しました。
 それでは、麻央さんのブログからいくつか紹介します。


「『がんばれ がんばれって、言われるのもきついけど
もういいよって言われるの、もっとつらいね』
 という言葉がBASARAにある。
 
 がんばれって応援されると
すごくうれしい。
 
病気になってから
がんばらなくていいよ
それはもういいよ
って言われることが増えた。
 

でも
私は もっともっとがんばりたいし、
それは私がやりたい、
と思ったりもする。
 でも、
できない現実があったりもする。
 
がんばれっていう優しさも
がんばらなくていいよという優しさも
両方学んだ。」
(2016年9月15日「がんばる がんばらない」 小林麻央さんブログ)
 
 
「結婚前、主人が、私の父へ挨拶に来た時
父が『何にも分からない子だから、
苦労するんじゃないかと思ってね。』
と言うと、

主人が『試練はありますが、苦労はありません』
と即答しました。
(勝手に決めてる主人もおもしろいですが)
今も、試練です。
何事も、苦労のように思ってしまう時は
いつも負けそうだったことを
思い出しました。
試練と思えるときは
 
まだまだ心に力が湧きます。」
(2016年10月31日「苦労と試練」小林麻央さんブログ)


<写真 小林麻央さんが帯書きをした本>


「2016年が
過ぎていきますね!
どんな夜を、お過ごしですか??

『2016年』
描いていた形では終われなかったけれど、
幸せを感じています。
年越しそばを食べているときに、
私の人生で一番幸せな年越しそばに
感じていました。
今年は色々ありすぎましたが、
kokoro.(ブログ)で、皆様と繋がり、
たくさんの励ましを頂いたことに
心から感謝致します。
感謝。
本当に、感謝、感謝、感謝。
そばにいてくれた人、
離れて見守ってくれた方、
皆に感謝でいっぱいです。」
(2016年12月31日「ありがとうございました」小林麻央さんブログ)


「癌だって、
ステージ1の時点で診断される人もいれば、
気づいた時にはステージ4の人もいる。
順調に治る人もいれば
余命宣告から奇跡みたいに治る人もいて、
そうでない人もいる。
良い方をみても きりがないし、
悪い方をみても きりがない。
良い方をみてしまうとき、
私は、
なぜここまでにならなければ
ならなかったのかな、
と思うことがありました。
もちろん
自分自身の過ち 積み重ねなど
あるにせよ
何故、順調に治っていく道では
なかったのだろう、と。
でも、
いつからか、
私はここまでになる必要があったんだ
と思うようになりました。
そう思えるときの穏やかさは
魂が納得しているのだと感じます。
魂って自分が思っているより
ずっとずっと自分にロマンを
もっているのでしょう。
だから しんどくて寝ているときは
小さい小さい世界に閉じ込められている
みたいに感じますが、
実は逆で、
魂は壮大な浪漫飛行中なのでしょうね。」
(2017.4.13「浪漫飛行」 小林麻央さんブログ)

<写真 黄昏の月>


 小林麻央さんの夫の市川海老蔵さんの話では、2017年6月22日に麻央さんが永眠する直前の<最後の言葉>は、「愛している」だったそうです。

 麻央さんは、34歳の若さで、2人の子供と夫を残してこの世を去ったて、きっと残念だったでしょう。
 でも、麻央さんの残したブログは、今も残っていますし、最後の「オレンジジュース」という記事には、26万件以上の「いいね」がついています。
 このブログは、同じ癌患者をはじめ、多くの人たちに勇気と共感を与えました。

 さらに、市川海老蔵さんは、「麻央さんのブログを英訳する」と発表し、麻央さんの言葉が世界へ発信
されていくことになりました。
 
 小林麻央さんの身体は亡くなっても、麻央さんが残した言葉や魂は、世界へ「浪漫非行」して行くことを信じ、哀悼の意を表したいと思います。



♪「浪漫非行」(歌・作詞・作曲 米米クラブ)♪

♪
逢いたいと思うことが 何よりも大切だよ
苦しさの裏側にあることに 眼を向けて

夢を見てよ どんな時でも
全てはそこから 始まるはずさ

君と出逢ってから いくつもの夜を語り明かした
はちきれるほど My Dream

トランク一つだけで 浪漫飛行へ In The   Sky
飛びまわれ この My Heart
Wow  Wow Wow...  Wow  Wow Wow... 


< 一句>
 空を飛ぶ ブログの言葉と 魂と


2017年6月25日日曜日

アイドルの坂道(7)さあ革命の時間だ?~第9回AKB48選抜総選挙名言集~

「さあ、革命の時間だ」をサブタイトルに、2017(平成29)年6月17日に「第9回AKB48選抜総選挙」が沖縄で行われました。(当初予定していた「豊崎海浜公園」でのイベントは、悪天候のため中止になりました。)
 今回は、この選抜総選挙で上位に入ったメンバーのスピーチの中から、「名言」を紹介します。

   まず、20位に入った須藤凛々花(すどうりりか 前回44位 NMB48 20歳、東京都出身)さんの「革命的爆弾発言」を紹介します。

 「大好きな大好きな皆さんに囲まれて、私は人の愛を知って初めて人を好きになりました。
 私、NMB48須藤凜々花は結婚します。
  すごく迷惑をかけることもわかっているんですけど、自分にも皆さんにもウソをつきたくないと思っています。真剣に生きていきたいと思います。」

 前代未聞の「結婚宣言」で、このあとの会場も場外も賛否両論で騒然となりました。

  アイドルと「恋愛禁止」は、暗黙の掟と言われています。
 確かに、異性のファンは、独身だから好きという人も多いし、だから「総選挙」で投票した人も多いので、今回の結婚宣言は「ルール違反」「ファンへの裏切り」という声が多いのもわかります。

 でも、本来、「結婚は自由」だし、最近は同姓のファンも多いし、結婚してもアイドル(ママドルなど)を続けている人も多いことを考えると、賛否両論があるのもわかります。
 「結婚」「恋愛」とアイドルの生き方について、須藤さんが一石を投じたのは間違いないと思います。
 ちなみに、須藤凛々花さんは、「卒業」の意向だそうです。


<写真 選抜総選挙の予定会場で悪天候で中止になった沖縄県豊崎海浜公園>



 2番目に紹介するのは、9位に入った岡田奈々(おかだなな 前回14位 AKB48・STU48兼任、19歳、神奈川県出身)さんです。

「今のままでは、AKB48グループの明るい未来は作れないと思います。
 スキャンダルだったり問題を起こして、それをネタにして這い上がるメンバーが多いです。
 まっすぐに頑張っている人が報われるように、変えていきたいです。
 これからは、48グループの風紀委員長を目指して全力が頑張っていきたいです。」

 「まじめすぎるぐらいまじめ」と定評のある、岡田奈々さんらしいコメントですね。彼女は、今年、新しく誕生したSTU(瀬戸内)48のキャプテンもしています。

 岡田奈々さんといえば、1959(昭和34)年生まれのアイドル歌手に同姓同名の人がいましたが、彼女の存在は、両親から聞かされていたそうです。
 岡田奈々さんの「まっすぐな一生懸命さ」が、新しい48グループを造ってくれるかも知れませんね、


 3人目は「ブスから神7」とも言われている、6位の須田亜香里(すだあかり、前回7位、SKE48、25歳、愛知県出身)さんです。

「コンプレックスや欠点って、出会うべき人と出会うためのものだと思うようになりました。
 本の帯で『ブスから神7』って書かれ、そこまで言わなくてもと思いました。
 でも、私は指原莉乃さんが切り開いてきた、見た目だけがすべてじゃないっていう部分を尊敬しています。私も、みんなの希望を引き継げるように頑張ります。」

 今回のAKB48選抜総選挙を見ていて、1つ気づいたのは、「すごくかわいい、すごい美人」の子が減って、見た目より個性で上位に来る子が多くなっていることです。
 その代表が、指原莉乃さんや須田亜香里さんです。
 須田さんは、「コンプレックス力 ~なぜ、逆境から這い上がれたのか」という本も書いています。
 見た目だけじゃない「アイドル像」は、新しいアイドルの姿を示唆しているのかも、知れませんね。


<写真 須田亜香里さんの著書>



今回は、選抜総選挙の速報でも、革命的なことがありました。
 指原莉乃さん、渡辺麻友さんらの有力候補を差し置いて、新生グループNGT48(新潟)の無名の萩野由佳さんが暫定1位になりました。
 次は、最終的に総合5位になった、その荻野由佳(おぎのゆか、前回95位、NGT48、18歳、埼玉県出身)さんの言葉です。

「小学校6年からAKB48に憧れ続けて、4年間ずっと落ち続けてきました。
 速報1位は、本当にビックリしたし、誰もが「なんで?」って思っただろうし、私が総選挙を壊してしまったのかな? と思ったこともありました。
 それでも、皆さんの愛だと受け取って、頑張ってきました。
 こんなにステキな順位(5位)をいただけるなんて夢のようです。私をアイドルにしてくれてありがとうございました。   
 この結果を、デビューして2年目のNGT48につなげたいです。」


 第9回AKB48選抜総選挙で、もう一つ目立ったのは、AKB48本体より、派生グループが躍進したことです。
 選抜に入った16人を、所属グループ(兼任を除く)別に見てみると、まずSKE48(愛知県名古屋市栄)が3位の松井珠里奈さんをはじめ5人を出して最も多く、NGT48(新潟県新潟市)が5位の荻野由佳さんら3人、HKT48(福岡県福岡市博多)が1位の指原莉乃さんら2人、NMB48(大阪府大阪市難波)も12位の白間美瑠さんら2人と、地方の派生グループで12人を占めています、
 本体のAKB48は、2位で卒業を表明した渡辺麻友さんをはじめ4人だけでした。


 最後の名言は、24万6376票を獲得し、前人未踏の選抜総選挙3連覇を達成した指原莉乃(さしはらりの、前回1位、HKT48、24歳 大分県出身)さんです。

「楽しいことばかりではない総選挙に出会え、参加できたことを幸せに思っています。
 今回の沖縄でのイベント、6月に野外でということに無理があったと思っています。すみませんでした。こういう積み重ねで、皆さんの信頼を失っていくのが本当に怖いです。
 そして大事な仲間が卒業発表して、本当に怖いです。
 AKB48、スタッフ・メンバーが一体となって頑張っていくので、見捨てないでください。
 こんな私をアイドルにしてくれた、ファンの皆さんに感謝します。」

 3連覇した指原さんの、「(AKB48グループを)見捨てないでください。」という言葉が、今のAKB48グループの危機感を表していると思います。
 身内で「総選挙」をして争っているうちに、乃木坂46や欅坂46などのアイドルグループが、もう無視できないところまで迫り、総選挙全体の投票数も減っています。
 「選抜総選挙」が、約300人の女性アイドルたちの青春であり、多くの名言を残してくれたのは間違いありませんが、今回の総選挙のサブタイトルのように、そろそろアイドル界に「革命」が起きそうな気配が濃厚です。


 最後は、AKB48の48枚目のシングル曲「願いごとの持ち腐れ♪」の歌詞の一部を紹介します。


♪「願い事の持ち腐れ」(作詞:秋元康、作曲:内山栞、歌:AKB48)♪

♪
もしも魔法が使えて 
夢が一つ叶うならば
きっと 世界の誰もが
しあわせになる

(中略)

ある日 些細なことから
争っている二人がいた
僕は思わず願った
仲良くしてと--

僕にとって 一度きりの
大切な魔法 ここで使ったんだ
願いごとに 悔いはない
自分のためじゃ 迷うだけ

世界中が誰かのため
願えたら 一つになれる
微笑みは 愛の夜明けだ

願い事の 持ち腐れ
魔法なんか 欲しくはない

叶えたい夢は多いけど
本当の願いはなにか
見つけられたなら しあわせ
♪

2017年6月18日日曜日

上野のパンダ誕生で日本にいるパンダは何頭? パンダ・トリビア

 2017(平成29)年6月12日、東京都台東区の東京都立恩賜上野動物園で、ジャイアントパンダの「シンシン」が、子供を出産しました。
 このニュースは、各放送局のトップニュースになり、経済効果は267億円とも言われています。
 今回は、「日本のパンダ」について、紹介します。

 最初に質問です。
「今回の赤ちゃんを入れて、今、日本には何頭のジャイアントパンダがいるでしょう?」
 3頭?、4頭?---。
 この答えは、後半で発表するとして、まず、パンダそのものについて紹介します。

 パンダ(panda)は、ジャイアントパンダとレッサーパンダの2種類を総称していう呼称です。
 このうち大型の「ジャイアントパンダ」の人気が高く、日本では単に「パンダ」という時は、「ジャイアントパンダ」をさす場合が多いので、今回のブログも、以下は「ジャイアントパンダ」の話をします。

 野生のジャイアントパンダは中国大陸に生息し、食肉目クマ科に属します。(レッサーパンダはレッサーパンダ科)
 中国政府の発表では、2015年現在、野生のパンダが約1800頭、飼育されているものが約400頭います。

 パンダの語源は、ネパール語の「ホンヤ」(竹を食べるものの意味)、または同じネパール語の「パンジャ(手のひらの意味)」と言われています。

 日本では、1972(昭和47)年に、日中国交正常化により上野動物園へ、カンカンとランランが贈られたのが、最初でした。
  この時は、日本中がパンダブームに沸き、上野動物園には1日平均20万人、土日には、25万人を超える人が押し寄せ、何時間も待ったあげく、「立ち止まらないでください」とパンダ舎の前で、立ち止まることもできませんでした。

<上野動物園のパンダ(東京都)>



 ここからは、日本の動物園のパンダの歴史です。
 まず、今回話題になっている「上野動物園」のパンダの歴史を紹介します。

 1972年に来園した初代の2頭、カンカン(1970年中国生~1972年来園~1980年死亡 オス)とランラン(1968年中国生~1972年来園~1979年死亡、メス)は人気者でしたが、結局、子供を作ることはありませんでした。
 
 続いて、1980年に来園したホァンホァン(1972年中国生~1980年来園~1997年死亡、メス)と、1982年に来園したフェイフェイ(1967年中国生~1982年来園~1994年死亡、オス)のペアは、昭和から平成まで25年以上も生きた長寿ペアで、3頭の子供ももうけました。

 最初に生まれたチュチュ(1985年上野動物園生まれ・死亡、オス)はわずか43時間で亡くなりましたが、2番目のトントン(1986年上野動物園生~2000年死亡、メス)と、3番目のユウユウ(1988年上野動物園生~1992年リンリンと交換で中国へ~2004年死亡、オス)は、14年以上も生きました。

 他にも、メキシコの動物園から来て2003年から2005年まで上野動物園に滞在したシュアンシュアンや、ユウユウと交換で中国から来たリンリン(1985年中国生~1992年上野動物園へ~2008年死亡、オス)などもいました。

 現在、上野動物園にいるリーリー(オス)とシンシン(メス)は、ともに2005年中国生まれで、2011年に一緒に、上野動物園に来ました。
 翌2012年には、このペアの第1子となるオスが誕生しましたが、わずか6日で亡くなってしまいました。
 そして、2017年6月12日に第2子が生まれ、上野動物園のジャイアントパンダは、2017年6月17日現在、3頭です。


 日本の動物園で、上野以外にジャイアントパンダがいるのは、2カ所です。

 まず、兵庫県神戸市の「王子動物園」に、1頭、メスのタンタンがいます。
 王子動物園は、2000年から日中共同飼育研究でパンダを2頭飼っていましたが、1頭は亡くなってしまっています。


 もう1カ所は、和歌山県白浜町にある「アドベンチャーワールド」で、ここにはなんと5頭のパンダがいます。しかも、つい最近、3頭が中国に行ってしまったので5頭になってしまいましたが、それまでは8頭いました。
 
 アドベンチャーワールドは、1994年から中国成都の「ジャイアントパンダ繁殖研究基地」の日本支部として、繁殖研究をしています。
 現在いる5頭は、永明、良浜、海浜、陽浜、優浜で、中国生まれの永明以外は、和歌山県生まれです。すべて白浜の「浜」の字が入っています。

 実は、このアドベンチャーワールドでは、日本生まれのパンダの子供も含みこれまでに15頭ものパンダが生まれています。
 ここのパンダは、ガラス越しではなく、生パンダがみることができます。
 
 実は私は、国内のジャイアントパンダがいる3カ所とも、行ったことがあります。
 東京が大騒ぎしているのに比べ、5頭もいる和歌山が騒がれないのは、ちょっとかわいそうな気がします。

 それはともかく、2017年6月16日現在、日本の動物園にいるジャイアント・パンダは、東京3頭+兵庫県1頭+和歌山県5頭で、9頭ということになります。
 当たりましたか?

<写真 笹を食べるパンダ(上野動物園)>



 ここで、「パンダ・トリビア」を2つ紹介します。

 1つは、「パンダの糞はいい匂いがする」という話です。
 パンダは雑食動物で、腸は体長の4倍ほどで、ウシやヒツジなどの草食動物が20倍以上あるのに比べれば短く、草や竹が未消化で糞になることがあり、植物の匂いが残っているので「いい匂い?」がするという噂があります。

 もう1つは、「なぜ、パンダは白黒なのか」です。
 上野動物園のホームページなどによると、パンダは冬眠をせず、中国の雪深い山岳地域に住んでいます。
 そこでは、冬の雪と岩のコントラストが白黒の景色になり、ちょうどパンダの白黒が風景に溶け込むから、敵にわかりににくいために、パンダは白黒だという説があります。
 また、パンダの黒い部分は、耳、目の周り、肩から前足、そして後足です。
 このうち、耳や手足の先などは寒くなりやすい部分なので、黒くすると熱吸収がよく寒さ対策に役立つという説もあります。


 次は、私の中国でのパンダの思い出です。
 中国の広州動物園でパンダを見た時、3つ驚きました。

 1つは、日本のパンダのようにガラスのある建物にいるのではなく、手を伸ばせば届きそうな柵の中にいたことです。

 2つめは、パンダ柵の前には、ほとんど人がいず、サルの柵の周りに、多くの人がいたことです。
「中国では、パンダはサルに人気で負ける」というのはショックでした。

 もう一つ、ショックを受けたことがあります。
 広州動物園から出たところで、現地の人が「5枚でしぇんえん、やすいよ」とパンダの刺繍入りのハンカチを売っていて、首を横にふると「10枚でしぇんえん」と言ってきたのです。
 「10枚千円ならいいか。」と思って買って帰り、ホテルでよく見てみると、上手にハンカチを折っていただけで、実はやっぱり5枚でした。見事に、だまされたのがショックでした。


 おしまいは、「パンダブーム」の1970年代に、フジテレビの子供向け番組「ママとあそぼうピンポンパン」で歌われていた、「パンダちゃん♪」という、当時のパンダへの憧れがあふれたかわいい歌を紹介します。 


♪「パンダちゃん」(作詞:山下護久、作曲:服部克久、歌:石毛恭子)♪

♪
ねえ きいて パンダちゃん おはなししたいの
あたしね きのうね ちいさなタネをまいたの
ねえ きいて パンダちゃん あなたにあいたいの
きのうね みたのよ あなたのユメを

パンダ パンダ パンダ
Oh パンダ パンダ
パンダ パンダ パンダ
あなたが好きよ

ゆびきりね パンダちゃん
まっててほしいの
ふたりで お花に
つめたい 水 あげるの

まっていてね パンダちゃん
あなたのお部屋で
白いイスを ふたつならべて

Oh パンダ パンダ ねえ
いつか パンダちゃん
お花をあげたいの
あなたが すきよ♪

<1句> 白黒を つけろと言わない ほんわかパンダ



2017年6月11日日曜日

本当に生きるとは? 前川喜平前文科事務次官と名作映画「生きる」

 「加計学園の獣医学部新設問題では、政府・官邸の圧力があり、行政がねじ曲げられた。」

 飛ぶ鳥を落とす勢いの安倍晋三内閣に対し、堂々と実名で反旗を掲げた前文部科学省事務次官の前川喜平さんを見ていると、私は名作映画「生きる」の主人公のことがダブって見えます。
 今回は、そんな前川喜平前文科事務次官と名作映画「生きる」の話をします。

 ことのきっかけは、2017(平成29)年1月、50年以上新設が認められなかった「大学の獣医学部の新設」が、通常では考えられないスピードで事実上決まったことでした。
 このことについて、前年の2016年秋に内閣府から文部科学省へ「官邸の最高レベル」の圧力があったことを示唆する文部科学省の内部文書らしいものが、2017年5月に週刊紙等のマスコミ等で公開されました。

 この文書について、菅官房長官は「文部科学省の内部調査では存在を確認できなかった。怪文書だ。」と一蹴しました。

  ところが、今年初めまで文部科学省の事務方トップの事務次官をしていた前川喜平さんが、「あの文書は本物です。私も見ました」と「週刊文春」などのインタビューに答えたことから、大問題になりました。
 当初、政府や内閣府の幹部は、「あの文書は怪文書であり、国会での証人喚問や参考人招致をする必要はない」と突っぱねました。

  しかし、前川前事務次官の証言のほか、複数の文部科学省官僚の「文書は存在する」という証言があり、それを多くのマスコミが報道したことなどから、長い間、再調査を拒否していた政府・文科省も、世論に押される形で、6月9日についに文書の再調査を行うことに方針転換をしました。

 私も、大学新学部設立関連の仕事をしたことがありますが、大学に新学部を作るためには、長い時間をかけた文部科学省への要望と、膨大な資料が必要です。
  まして、50年以上認可されていない「獣医学部の新設」が、すごいスピードで認められたのは不思議だと言わざるをえません。

 特に、同時に申請された京都産業大学は、条件を追加されて申請もさせてもらえず、愛媛県今治市に新設する加計学園の獣医学部だけが認可されるのは、大きな疑問です。
 しかも、その加計学園の加計孝太郎理事長は、安倍総理の親しい友人というのも、疑問ですね。
 

 真偽はどうかわかりませんが、少なくても、政権の中枢にいて権力を握っている人たちが、正々堂々とした議論せずに、論点をすり替えて、「再調査の必要なし」と長く拒否してきたのは不誠実だと思います。

 ウソを言う政治家や、行政機関、特に教育を司る文科省がウソをつくのは、日本の将来のためにも良いことではないと思います。あとは、我々国民が、選挙や支持率で、”ウソは許さない民意”を突きつけるしかないかも知れませんね。

 それにしても、時の政府に、たった1人で「間違っている」と立ち上がった、前川喜平・前文部科学省事務次官の勇気はすごいと思います。
  自民党の国会議員でさえ、安倍内閣に逆らえない雰囲気がある中で、本人に何の得にも
ならないことを「国民に真実を知らせるため」に告白し、それをきっかけに政府の「再調査をしないとういう岩盤」に穴を開けたたことは、大いに評価できると思います。

<写真 前川喜平さん(ウキペディアより)>


 前川喜平(まえかわ・きへい)さんは、1955(昭和30)年1月13日に、奈良県御所市で生まれました。
 小学校4年生の時に、東京に転居し、名門の麻布中学・麻布高校を経て、東京大学法学部に入学し、1979年春に東大を卒業しています。

 当時の国家上級職(いわゆるキャリア)の試験を合格者全体(600人以上)の4位で合格し、文部科学省に入省しています。
 「超」がつくエリートですね。

 その後、宮城県教育委員会の課長や在フランズ大使館の一等書記官などをへて、文部科学省の中枢の、大臣官房総括審議官、官房長、初等中等教育局長などを歴任し、2016(平成28)年6月に文部科学事務次官に上りつめています。
 しかし、2017年1月、文部科学省の天下り問題の責任をとって、次官を辞任しました。
  そして、2017年5月に「加計学園問題」で政府高官の圧力で行政が歪められたと、告白しました。


 ここで、1952(昭和27)年に公開された黒澤明監督の名作映画「生きる」(東宝)について紹介します。
 この映画の主人公は、市役所で市民課長をしている定年間近の渡辺勘治(志村喬)で、若い頃もっていた仕事への情熱を失い、難しい問題は避け、無難に生きる「お日様西西」的な生活と、はんこを押すだけの公務員になっていました。
 ところが、ある日、自分が余命少ない胃癌であることを知ります。

 渡辺は役所を休み町を彷徨するうち、町工場の作業員をしている貧乏娘「小田切とよ(小田切みき)」と知り合い、おごってやって食事をしたり会話したりするうち、貧しくても一生懸命に生きている「とよ」の生き方に感銘し、「自分にも、まだなにかできることがあるはず」と考えなおし、仕事に復帰します。

 その後の渡辺勘治は、残り少ない人生の中で生まれ変わったように情熱を持ち、住民が欲しがる公園を、上司ややくざの邪魔もはね除けて完成させ、この世を去っていきます。
  そうなんです。この映画で、渡辺勘治が「本当に生きる」ことができたのは、何十年もの公務員生活ではなく、最後の数ヶ月間であったことを教えてくれています。

<映画「生きる」のポスター>


 さて、前川喜平さんの話に戻ります。
 前川前次官と「生きる」の主人公とは、私はとてもよく似ているような気がしています。

 前川さんは、あるテレビのインタビューで、「三十数年公務員をやってきたけど、やっと自由にものが言えるようになった。」と、爽やかな顔で語っています。

 前川喜平さんは、文科省の中に、高杉晋作が作った「奇兵隊(きへいたい)」という名のグループを作り、時の小泉政権が「義務教育予算の削減」を言い出した時には、「奇兵隊、前へ」というブログを作って、義務教育の予算を守るべきという自分の意見を主張しました。

  「奇兵隊」は幕末の英雄・高杉晋作が作った身分を問わずに入隊できる軍隊で、高杉晋作が、長州藩の佐幕派や幕府など十数万人を敵にまわして、たった80人で立ち上がった時(功山寺決起)、その中核の部隊となりました。
 この高杉晋作と奇兵隊が、倒幕・明治維新への確かな流れを作りました。晋作は、27歳で病死しましたが、今も日本史上に残る英雄です。
 前川前次官の心には、この高杉晋作と奇兵隊のことがあったのだと思います。

 また、一部マスコミに「前川さんは、出会い系バーで女性と会って小遣いを渡していた。」と報道されましたが、「週刊文春」や「週刊新潮」によれば、会っていたのは2人ではなく、もう一人の女性を含めてほとんど3人で、食事をおごり5000円程度の小遣いを渡し、就職や人生の相談を聞いたあとは、いつも前川氏だけが先に帰っていたそうです。

 これって、映画「生きる」の主人公の渡辺勘治が、小田切とよと会っておごったり会話したりして、勇気をもらったのと似ていると思いませんか。

 「加計問題」の今後の展開をしっかり見ていくとともに、前川喜平さんが「安倍1強」の時代に、「権力は国民がコントロールしなければならない。そのためには、正しい情報を公開する必要がある。」(前川氏の言葉)と、身を捨てて本当に「生きた」ことは、忘れたくないと思っています。
 そしてもう一つ、前川氏とともにマスコミに告発した複数の文部科学省の官僚、さらにそれを報じた多くのマスコミを見て、まだ日本の民主主義と報道の自由は、まだ死んでいなかったと、ホッとしました。

 前川喜平さんは、こうも言っています。
「我々は志をもって、公務員になった国民全体の奉仕者である。
 しかし、最近は、ともすれば一部の権力者の下僕になっている者がいる。私は、志を忘れたくない。」

  おしまいに、映画「生きる」の主題歌になった『ゴンドラの唄♪』の歌詞を紹介します。


♪「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞、中山晋平作曲)♪

♪1
いのち短し 恋せよ乙女(おとめ))
赤き唇(くちびる) 褪(あ)せぬ間に
赤き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の ないものを

(中略)

♪4
いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消え間に
今日はふたたび 来ぬものを


<一句>    本当に 生きるに遅き ことはなし

2017年6月4日日曜日

本当にあった不思議な話(2)「病んでは子に従え」

 B病院の「救命救急センター」で2日間過ごした兄は、運命の判決の時を向かえました。

 手術か、一般病棟か、ドクターCは静かに診断結果を兄に言い渡しました。
「お兄さんの検査結果ですが、MRI(磁気共鳴画像診断装置)検査も心臓エコーも、特に問題な血栓等は見つかりませんでした。明日、一般病棟へ移りましょう。」

 緊張した兄は、思わず力が抜けたような声でいいました。
「C先生、ありがとうございます。」

 ドクターCは、静かに続けました。
「ただ、まだわからない部分、特に心臓に異常があるかも知れませんので、24時間心電図ホルダーと、喉からカメラを飲んで心臓の裏側から見る検査も一般病棟でやってみましょう。」

 兄は内心(えっ、無罪じゃなくて、執行猶予か。)とがっかりしました。
 それでも、当面の手術回避ができてほっとして、
「わかりました。」と素直に頷きました。

  翌日、兄は一般病棟に移りました。そこは2人部屋でした。
 点滴、モニターはまだ体につながったままですし、新たに24時間心電図ホルダーも装着しました。
 それでも、スマホの持ち込みや、有料テレビも病室についていたので、兄は大喜びでした。

 おまけに、女性の看護師さんに、「この病棟では、飛び抜けて若い。」と言われて、
「俺は若いと何度も言って、大喜びでした。」
(無邪気な兄さんだわ。)
  私は、兄がおかしくて、少し悲しくなりました。

 兄はまだ病棟の科名を知りませんでしたが、実はそこは「脳外科病棟」で、70歳、 80歳以上の人もざらでしたので、兄さんは飛び抜けて若いのは当たり前です。
  ドクターの診断は「脳梗塞(のうこうそく)の疑い」でした。

 脳梗塞は、脳の血管破裂などが原因ですが、心臓に飛び火することが多い病気です。
 それで、C先生は脳と心臓を重点的に検査したのでした。

<写真 血液をさらさにする効果のある点滴(黄色)>




 兄が一般病棟に移って3日目の夕方、私が見舞いに行ってみると、珍しく兄はベットでぐったりとしていました。

「お兄ちゃん、どうしたの?」
 心配になった私が聞くと、兄はぐったりしたまま小声で言いました。
「局部麻酔で、カメラを飲んで心臓の裏側の検査をしてもらったんだけど、麻酔が奥まで効かなかったので、すごく苦しくて、麻酔も増やされてヘトヘトだ。」
 そう言うと、兄はまたぐったりしてしまいました。

 プツ、プッ、プッ、プッ
 その時、 兄のスマホが鳴りました。
 発信先を見ると、なんとブレーキとアクセスを間違え自損の交通事故で、A病院に入院中の母からでした。

「お兄ちゃん、お母さんから電話だよ。」
 私はスマホをとると、兄に渡しました。

 兄は、自分の気持ちを鼓舞するかのように、電話に出て、母と話し始めました。
「もしもし、母さん。大丈夫か。」
「私より、おまえも入院したそうだけど、大丈夫か。」
「ああ。僕は大丈夫だよ。母さんこそ、養生しろよ。」
「おまえも、養生しろよ。」

 2人の電話の話を横で聞いていて、似たもの親子の吉本新喜劇のような会話に、私はおかしくて吹き出しそうになりました。
 A病院に入院中の母とB病院に入院中の兄の入院患者同士の電話なんて、いったい、うちの一家はどんな家族なんだろう。

<写真 B病院の病棟フロアのテラス>



  B病院に兄が入院して、1週間。
  再び、ドクターCが兄のもとに来て、診断結果と今後の方針を伝えました。
  今日は、兄と私、兄嫁、そして中一の一人息子のD君も立ち会っていました。
 
 C先生は、静かに言いました。
「脳にも心臓にも、はっきりとした異常は見つかりませんでした。
 でも、それは悪いことではありまあせん。明確に手術などで治療するほどの血栓等の異常は見つからなかったということです。
 ただし、どこかに隠れた異常がないとは、限りません。
 また、左手の麻痺も完全には回復していません。この病気は再発の可能性もあります。
 まだまだ若いので、再発防止のためにも、3週間ほどリハビリ専門病院に入院することをお勧めします。」

「えっ、まだ入院ですか? すぐにも職場復帰したいんですけど。」
 兄は不満そうに言いました。

 ドクターCは、大きく首を振りました。
「ダメです。リハビリ入院しないと命の保証はできませんよ。」

「でも、仕事が----。」
  なおも兄が抵抗しようとした時です。

「お父さん、あと3週間、休みなよ。」
 突然、そう言ったのは、中一になる兄の一人息子D君でした。
 滅多に意見を言わない彼の一言で、兄は何も言えなくなり、リハビリのためE病院へ転院することを決めました。
 ということで、我が家は、母と兄が入院、父は介護支援施設に入居という、異常事態が、もうしばらく続きそうです。


◎ 格言「老いては子に従え」ならぬ「病んでは子に従え」

2017年5月28日日曜日

本当にあった不思議な話(1) 母に続いて兄も緊急入院

 この2週間、ブログを更新できなかったのは、私のまわりで結構、ハードな事件があったからです。
 これから、その「不思議な話」を紹介させていただきます。

 母がブレーキとアクセルを踏み間違えて自損事故で入院して20日ほどたった時、母の看病と父の介護で片道2時間の高速道路を何度となく通って、「自宅と実家」を行ったり来たりしていた兄に、異変が起きました。

 それはある日の午後のことでした、仕事場で、直前まで自分でカップをもったり洗ったりしていた兄の左手の指から、突然、力がなくなっていき、ノートさえ持てなくなりました。
「あれぇ? なあにすぐ治るさ。」
 そう思ってたかをくくっていた兄は、その日は夕方まで我慢して帰宅しました。

 兄が眠るために、パジャマに着替えようとすると、なんとシャツやズボンのボタンやフックが自分で外せなくなっていました。
 服は家族に手伝ってもらって、なんとか着替えることができました。
 その夜は、左手が気になって、なかなか眠れませんでした。


<病室のベットより見た医療用カーテン>



それでも翌朝、兄は早めに起きて、仕事に行く準備を始めても、やっぱり着替えが上手くできません。
 病院嫌いの兄でしたが、とうとう「病院へ行く」覚悟を決めました。

「どうせ行くなら大きな病院の方がいいだろう。」
  そう考えた私は、近くでは評判がよく、毎年、人間ドックに行っていて診察カードを持っていた兄は「地域中核病院」の一つのB病院に受診に行きました。

 時刻は午前10時45分、B病院の外来受付は11時までですから、ぎりぎりセーフでした。
 最初は「点滴の一つもしてもらえれば治る」と思っていた兄ですが、先生の診察のあと、車イスで救急に連れていかれ、血液検査、心電図、エコー、さらに生まれて初めてのMRIまで撮られました。
 医者に「原因ははっきりしませんが、ともかく今日はこのまま入院です。」
 と宣告され、初めて「やばい。もし手術なんて言われたどうしよう。コワイ。」
と、兄は深刻に考えるようになりました。
 そのまま、呼吸や血圧・脈拍などのモニター、いくつもの点滴をつけられ、なんと「救命救急センター」のベッドで入院することになってしまいました。

 B病院の救命救急センターは、スマホはもちろん、テレビも禁止、点滴やモニターの線がいっぱいで身動きもとれません。
 トイレさえ、ナースコールで看護師さんを呼ばないといけません。

 でも、のんきな兄さんは、救急のたくさんの若い女性の看護師さんに囲まれ、検査のため「私の手を強く握ってください」と言われ、着替えまでさせてもらって、もう上機嫌です。
どこかの携帯のCMみたいに、「ここ天国」と、思っているようです。

<救急センター(病院Bではありません)>



ところが、本当は兄は「天国と地獄」のボーダーラインにいました。
 兄が運ばれたのは「脳外・心臓」の救急病棟で、同じ部屋にいた4人は「脳梗塞」か「心筋梗塞」の疑いでした。
 ここで数日いて、医師が様子を見て、地獄(手術等)か天国(一般病棟へ)かを決めるエリアで、なかには本当の「天国」へ旅だってしまう患者もいます。

 現実に、兄が運ばれた病室の他の3人のうち、正面入口の左手前のおばあさんは、病状が悪化しよりハードな治療になり、左奥のおじいさんは「真っ赤な血が出た」と騒いでいましたが予想通り手術になりました。

 右奥のおばあさんは「濃い黄色のおしっこ」が出ていましたが、一般病棟に変わりました。
 さて、右手前の兄の運命は、ーーー次回に続きます。



<最後に1首> 病棟の ベットの 1つ1つにも 悲喜こもごもの 人生ありき