2016年9月5日月曜日

リオのヒーロー(3)陸上400mリレーで「奇跡の銀メダル」を獲得した侍たち

2016(平成28)年8月19日(ブラジル現地時間)、リオデジャネイロ・オリンピック陸上の男子400m(100m×4)の決勝で、世界を驚かす銀メダルが生まれました
 日本チームの4人が、アメリカやカナダなどの強豪チームを抑えてジャマイカに次ぐ2位でゴールインして、世界を「あっ」と言わせたのです。
 3位のアメリカはあとで失格になりましたが、それがなくても日本は正真正銘の2着でゴールインしました。

 この時の日本チームは、第1走者・山縣亮太さん、第2走者・飯塚翔太さん、第3走者が桐生祥秀さん、そしてアンカーはケンブリッジ飛鳥さんでした。
 4人のタイムは37秒60で、アジア記録・日本記録を更新しました。
 4人の誰一人として100m10秒を切ったことがなく、4人のベストタイムを合わせると、40秒38なのに、それを2秒78も上回るタイムで、9秒台の選手がひしめき合うオリンピックのリレーの舞台を走り抜けた、まさに「奇跡」でした。

 「リオのヒーロー(ヒロイン)」を紹介する3回目は、男子400mリレーの4人の走者を紹介します。

<写真 リオデジャネイロ・オリンピックの銀メダルとバトン>




ここからは、4人のプロフィールとエピソードを紹介します。 まず、1走走者の山縣良太(やまがた りょうた)選手は、1992(平成4)年6月10日生まれで、広島県広島市の出身の24歳です。

 広島県広島市の修道中学・修道高校から慶応義塾大学総合政策学部に進み卒業し、現在は時計でおなじみの「セイコーホールディングス株式会社」に所属しています。

 100mの自己ベストは、リオデジャネイロ・オリンピックで出した10秒05で、日本歴代5位の記録です。
 「世界一のスタート」とも言われ、2012(平成24)年のロンドン・オリンピックと2016(平成28)年のリオデジャネイロ・オリンピックに出場し、100mでは両大会とも予選を突破し、準決勝に進出しています。

 広島市にあった山縣家は、おじいさんの代まで原爆の爆心地近くにあって、1945(昭和20)年8月6日の「広島原爆投下」では、ひいおじいさんは自宅で即死しました。
 山縣選手のおじいさんは、宮島に疎開していましたが、原爆投下後に広島市内に入って被爆しました。このため山縣亮太選手は、被爆3世ということになります。

 山縣選手はリオで銀メダルをとったあと、こう言いました。
「本当に歴史が作れてうれしいです。ここまでメダルを目標にやってきて『夢は実現できる』ことを証明できてうれしいです。」


 2番目に走った飯塚翔太(いいづか しょうた)選手は、1991(平成3)年6月23日に、静岡県御前崎市に生まれた25歳で、4人の中では最年長です。

 藤枝明誠高校から中央大学を卒業し、現在は美津濃株式会社(ミズノ)に所属しています。
 100mの自己ベストは10秒22で4人の中では一番遅いタイムですが、200mの自己バストは20秒11と日本歴代2位の記録をもっています。

 リオ・オリンピックの100mリレー決勝の入場時に、日本刀を抜くようなポーズの「侍スタイル」を考案したのは、飯塚選手の提案だったそうです。

 3走目の桐生祥秀(きりゅう よしひで)選手は、1995(平成7)年12月15日に滋賀県彦根市で生まれた20歳です。

 2013(平成25)年4月、京都洛南高校の3年生の時に100m10秒01の日本歴代2位の記録を出し、一躍、有名になりました。
 現在は東洋大学(東京都文京区)の学生です。

 2015年3月には、アメリカテキサス州で、追い風参考(3.3m)ながら9秒87を出しました。また、2016年6月にも10秒01を出していますが、リオ・オリンピックの100mでは、予選で敗退しています。

 桐生選手は、リレーで銀メダルを獲ったあと、次のように言っています。
「このメンバーで走れて、本当に最高の日になりました。
 これからも、僕ら全員がんばっていくので、応援、よろしくお願いします。」

 4人の中で一番若い桐生選手は、日本の短郷里界の星であり、2020年の東京オリンピックでも、まだ24歳です。
 それまでに、ぜひ10秒の壁を破ってほしいですね。


 最終走者のケンブリッジ・飛鳥・アントニオ選手は、1993(平成5)年5月31日にジャマイカで生まれ、2歳の時に日本の大阪に移住し日本国籍を取得しています。
 お父さんはジャマイカ人、お母さんは日本人のハーフです。

 大阪市立淀川中学を経て、東京高等学校(東京都大田区)、日本文理大学文学部に進み、スポーツアパレルやフィトネス事業などを行っている株式会社ドーム(東京都江東区)に入社しました。

 100mのベストタイムは10秒10で日本歴代9位の記録を持ち、リオデジャネイロ・オリンピックでは、100mで予選を突破し、準決勝に進出しました。

 生まれ故郷の「ジャマイカ」の英雄、ウサイン・ボルトが尊敬する人物で、2014年には一時、ジャマイカで練習しました。
 「オリンピックでは、ボルトと走りたい」と言っていましたが、400mリレーの最終走者同士という立場で夢が叶い、ボルトと一時は並走し、ボルトが1位、ケンブリッジ飛鳥が2位でゴールを切りました。

 ケンブリッジ飛鳥選手は、リレー後のインタビューで、「3人は完璧な位置で持ってきてくれたんで。『絶対メダル獲るぞ』という気持ちで走りました。4走はすごい選手がそろっていましたけれど、絶対負けないという気持ちで走りました。」
 と答えています。


 
<リオデジャネイロ・オリンピックのシンボルマークのモニュメント>




 100mを9秒台で走る選手も決勝に進出した選手も、1人もいない日本チームが400mリレーで銀メダルを獲ったのは「リオの奇跡」と呼ばれています。

 でも、その陰には、「3月からバトンの受け渡し練習」をしたり、「前の選手からバトンパスを受けとるために次の選手がスタートするのを、1歩の半分から四分の1だけ早くした」などの、見えない努力がありました。

 「一人では取れなかった陸上のオリンピックメダル」を、「4人のチームワークと努力」で、400mリレーという種目で、見事、獲得しました。
 すごく日本らしくて、本当にリオのヒーローたちですね。

 アンカーのケンブリッジ飛鳥選手は、こうも言っています。
「次はもっとやれる。4年後までに9秒代台を出して、またオリンピックに出たい。」

 4年後、2020年の東京の「新国立競技場」で、日本のアスリートたちが、リオよりもっと活躍してくれることを、期待しましょう。
 

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