2018年1月30日火曜日

星野仙一さんの生涯と名言 (3) 阪神・楽天監督篇 ~夢追い人が低迷2チームをV~

 星野仙一さんの生涯と名言の3回目(最終回)は、中日監督を辞任して以降を紹介します。

 2001(平成13)年の暮れ、シーズン5位だった中日の監督を退任した星野仙一さんには、NHKからキャスター復帰のオファーがありました。
 再び、メディアの世界へ戻るのかと思われたその時、星野仙一さんに、最下位(57勝80敗3分け 勝率.416)に低迷していた阪神タイガースから、監督就任の打診がありました。

 長嶋茂雄さんから「阪神の監督就任を強く勧められた」ことや、「人間というのは、助けてくれと言われて、助けないと悔いが残る。」(阪神監督就任の記者会見)という思いで、星野仙一さんは阪神の監督を引き受けることになりました。


 5位のチーム(中日)の監督を辞任した直後に、同じリーグの最下位(6位阪神)の監督に就任するのも異例だと思いますが、それだけ星野仙一さんの手腕が高く評価されていたということだと思います。

 星野仙一さんは、色紙によく「夢」とか「夢追い人」とか書いていますが、小さい頃から憧れていたタイガースのユニホームを夢見ていた星野仙一さんは、ずいぶん遠回りしましたが、55歳で初めて縦じまのユニホームを着ることになりました。それも監督としてです。
 ある意味、「星野ドリーム」の叶った瞬間でした。


 翌年2002(平成14)年の1月5日、阪神就任後、初めて甲子園の土を踏んだ星野仙一さんは、決意をこう表現しています。
「ここが、俺の死に場所だ。」


<写真 星野仙一さんのサイン色紙>






 
 星野さんを阪神の監督に推薦したのは、実は前任の野村克也さんでした。野村さんは、3年間、阪神の監督をしましたがOBらとの確執で再建を諦め、「負け癖のある今の阪神を再生できるのは、星野仙一だ。」と星野さんを強く推薦しました。

 星野仙一さんが阪神タイガースの監督に就任した2002(平成14)年は、前年まで2年連続最下位だったチームを、4位に引き上げました。

 2002年のシーズンが終わると、星野監督は、広島からFA宣言をしていた金本知憲(現阪神監督)を取るなど、大幅に選手を入れ替えました。
 
 星野阪神2年目の2003年は、この年の流行語大賞にもノミネートされた「勝ちたいんや」を合言葉に、快進撃を続け、87勝51敗2分けの勝率.630で、見事、セントラルリーグ優勝を成し遂げました。
 監督就任2年目で、阪神タイガースを18年ぶりの優勝に導いた星野仙一さんの手腕は、高く評価され、正力松太郎賞を受賞しました。

 しかし、星野監督自身、3回目となったこの年の日本シリーズでは、王貞治監督率いる福岡ダイエーホークスと対戦し、3勝4敗で敗れました。
 これで監督で出場した日本シーリズは、3度とも巨人出身の監督とあたり、3度とも敗れました。

 実は、星野仙一さんは、現役の中日選手時代にも、2回、日本シリーズに出場しています。
 巨人V10を阻んだ1974年は、巨人OBの金田正一監督率いるロッテオリオンズに、2勝4敗で敗れました。
 さらに、1982年も、巨人OBの広岡達郎監督率いる西武ライオンズに、2勝4敗で敗れました。

 つまり、星野仙一さんは、選手・監督を含め、ここまで日本シリーズに5回挑戦し、そのいずれも、巨人出身の監督に日本一を阻まれたことになります。


 日本一には5度なれませんでしたが、阪神タイガースを優勝させた星野さんは、一躍、時の人になりました。
 阪神優勝時の星野仙一さんの言葉です。
「あーしんどかった。やはり、この縦じまで、この甲子園で、みんなの前で胴上げされたかった。
 本当に選手が、ファンの夢をかなえてくれた。ありがとう。」

 阪神の監督として優勝した2003年10月7日、この年最後の伝統の一戦(阪神ー巨人)が甲子園で行われた時、引退が決まっていた巨人の原辰徳監督(第一次)に、自らの提案で花束を贈り、「くじけるなよ。また、必ず帰ってこいよ。」とのメッセージを送りました。

 しかし、そのあと、星野仙一さん自身も、リーグ優勝しながら体調不良のため、2003年限りで、阪神の監督を退任します。

 しかし、「阪神に来て人生が変わった」と自らが言うほど、星野仙一さんは全国区の人気者になり、
「理想の上司1位」に7年連続で選ばれたり、ベストドレッサー賞をもらったり、多くのCMにも出演しました。

 2008(平成20)年の北京オリンピックには、日本代表監督として出場しますが、惜しくも4位でメダルを逃しています。


<写真 日刊スポーツ 星野仙一さん追悼特集号 阪神監督時代の星野仙一さん >




  2010(平成22)年10月、星野仙一さんは、宮城県仙台市で記者会見を開きました。

「ここ数年、野球がまたしたくなった。私は、やっぱり野球人なんだなと思う。」
 パシフィックリーグで、仙台を本拠地とする「東北楽天ゴールデン・イーグルス」の監督に就任することを発表しました。

 ところが、翌2011(平成23)年の3月11日、兵庫県明石市でキャンプをしていた星野楽天の選手たちに、「東日本大震災で、東北に甚大な被害があった」というニュースが飛び込んできました。
 星野仙一新監督は、楽天のユニホ-ムを着る直前に、大きな試練に見舞われました。

 星野監督は、楽天の選手たちに「すぐに、家族の安否を確認しろ。」と指示しましたが、2、3割の選手は家族に連絡が取れず、ずいぶんと心配しました。

 2011年は、本拠地クリネックスタジアム宮城(仙台市)が、大震災の影響で壊れ、開幕も2週間延期になりました。
 楽天は、開幕後も、当初は甲子園など関西の球場で試合するハンディがり、結局5位になりました。

 星野仙一さんは、この年のシーズンオフに、こう語りました。
「今年は、ペナントレースの順位は5位だったが、うちの選手たちは、毎試合、午前中に被災地でボランティアをして、夕方から試合をした。だから、うちの球団はボランティアの順位では。日本一だった。
 今年は、これでええんじゃ。」

 翌2012年、楽天で2年目の星野監督は、5月11日の勝利で、史上12人目の監督通算1000勝を記録しました。
 最終的には、3位と1ゲーム差の4位でしたが勝率はちょうど5割で、借金0になりました。

 そして就任3年目の2013(平成25)年に、楽天の快進撃が始まりました。
 特に、現在、ニューヨークヤンキースにいるエースの田中将大投手は、開幕から連勝を重ね、28試合登板で24勝0敗1セーブと勝率10割を記録しました。

 結局、楽天ゴールデンイーグルスは、2013年シーズン、82勝59敗3分けで、勝率5割8分2厘を記録し、球団初のリーグ優勝に輝きました。
 異なる3球団で優勝した監督は史上3人目、セ・パ両リーグで優勝した監督は、史上6人目でした。

 そして、日本シリーズでは、あの因縁の巨人(原辰徳監督)と戦いました。
 星野仙一さん自身、監督として4回目、選手を含めると6回目の日本シリーズでしたが、そのすべてが巨人OBの監督が率いるチームとの対戦でした。

 そして、6度目の正直で、4勝3敗で「チームとしての巨人」に勝って、初の日本一に輝きました。
 この時の星野仙一さんの優勝インタビューの言葉です。

「東北の子供たち、全国の子供たち、そして被災地の人たちに、これだけの勇気を与えた選手たちを、褒めてやってください。」

 ちなみに、この時、星野仙一さんは66歳で、リーグ優勝も日本シリーズ優勝も、日本プロ野球史上、最年長の監督でした。


<写真 楽天時代の星野仙一監督(右) 愛媛県松山市にて>








 日本一になった翌年、2004(平成16)年は、シーズン途中で腰痛が悪化し、星野仙一監督は、休養し、シーズン末には、楽天監督を辞任しました。
 中日で11年(リーグ優勝2回)、阪神で2年(リーグ優勝1回)、楽天で4年(リーグ優勝・日本一1回)という生涯の監督成績で、通算1181勝は歴代10位、投手出身監督では唯一の1000勝監督です。

 2015年に楽天副会長に就任しますが、2016年7月にすい臓癌が発見され、余命半年と診断されますが、公表しませんでした。
 余命半年のはずの病気と、「闘将」星野仙一さんは戦い、結局1年半、寿命をのばしました。

 その間、2017(平成29)年1月16日に、星野仙一さんは野球殿堂入りを果たしました。その祝賀会での言葉です。

「野球と恋愛してよかった。もっともっと野球に恋をしたい。
まだ、全国津々浦々に、子供たちが野球のできる環境を作りたいという、夢をもっています。」


 星野仙一さんは、2018(平成30)年1月4日、娘さんがいる三重県津市で、すい臓癌のため70歳で亡くなられました。
 棺には、楽天のユニホームと扶沙子夫人の写真が入れられました。

 岡山に生まれ、東京の明治大学・神宮球場で活躍し、名古屋で中日の選手・監督として優勝し、兵庫県の甲子園球場で阪神を優勝に導き、最後は被災地・宮城県仙台市で楽天を日本一にした星野仙一さんは、日本の星となって、愛娘のいる三重で、70歳の生涯を終えました。


 おしまいに、星野仙一さんのいい話を、と言っても、たくさんあるので2つ紹介します。

 1つ目は、星野さんは記者たちを大切にし、キャンプ中、ほとんど毎日、番記者たちを誘い朝食をとったそうで、その時のメニューは、目玉焼きとレモンティでした。

 そんな星野さんに、ある記者が「子供のしつけは、どうすればいいのですか?」と質問すると、
「子供には、良いことと悪いことの違いだけを教えればいい。」とおっしゃったそうです。
 星野仙一さんの性格・人生をよく現わしているなと思います。


 もう1つは、星野仙一さんのボランティアの話です。
 1回目で紹介したように、母子家庭に育ち、中学の時には近所の筋ジストロフィーの友達を毎日おぶって登校した星野仙一は、大人になっても、恵まれない子供たちへの愛を忘れませんでした。

 「人生の1%はボランティアに捧げよう」と選手たちに解き、自身も、故郷・岡山の障害者施設に、毎年のように寄付を続けました。
 燃える男「星野仙一」は、勝負だけではなく、ボランティアにも燃える男でした。

 最後は、星野仙一さんのレクエムです。


詩「燃える男が被災地・東北に残したもの」

2018年1月
燃える男
星野仙一が燃え尽きた

巨人のV10を阻止し
中日・阪神をリーグ優勝させ

そして
2011年の東日本大震災から
2年後
仙台の楽天イーグルスを初めて日本一にした

被災地には
まだ まだ 地震と津波の傷跡が残る

見渡す限り何もない
元住宅地の被災地

遠くで波音が聞こえ
遠くで 福島原発の不気味な放射線の音
そして 多くの被災者の悲鳴

そんな東北で
そんな仙台で

燃える男・星野仙一が
心の復興をし
日本一に導いた

あの日の2人の主役

1人目のマー君は 遠くアメリカ・ヤンキースで
メジャーの打者を相手に 快投を続けている

もう1人の主役 星野監督は
仙台を愛し 東北を愛し
そして 2018年1月
海に帰っていった

瀬戸内で生まれ
東京湾でビッグになり
伊勢湾で大成し
そして
太平洋へ

星野仙一が 東北の地に残したものは
勇気と 情熱と
「夢は努力すれば叶う」という
奇跡の1本杉のような
希望だった

何もない被災地に
星野さんの高笑いが聞こえた

そう
彼は「岡山の奇跡」として生まれ
「神宮に奇跡」を起こし
「名古屋」で大成し
「阪神」を改革し

そして
「東北・宮城」に
夢の種を育てて
空に帰っていった

(じゅんくう詩集より)



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