2018年1月17日水曜日

燃える男・星野仙一さんの生涯と名言 (1) 青春篇~甲子園も神宮優勝も遠く~

「野球に恋をしてよかった。もっともっと野球に恋をしたい。
全国津々浦々に、子供たちが野球をできる環境を作りたいという夢を持っています。」

 これは、2017年11月に行われた、「野球殿堂入りを果たした祝賀会」での、星野仙一さんの言葉です。

「燃える男」と言われた星野仙一さんが、2018(平成30)年1月4日に、70歳で亡くなられました。
 今回から、燃える男・星野仙一さんの生涯と名言を紹介します。



 星野仙一(ほしの・せんいち)さんは、1947(昭和22)年1月22日、岡山県福田町(現在の倉敷市)で生まれました。
 お父さんは正田仙蔵さんで、「三菱重工業水島航空製作所」に勤務していましたが、脳腫瘍のため、48歳の若さで、星野仙一さんが生まれる前に亡くなりました。
 ですから、星野さんは、お父さんの顔を知りません。

 仙一さんのお母さんの名前は星野敏子さんです。両親の苗字が異なるのは、双方が生家の跡取りだったため、入籍していなかったためです。
 両親の間で、「最後に生まれた子が星野姓を継ぐ」という、約束があたっため、2人の姉は正田姓を名乗り、末っ子の仙一さんが「星野」姓を継ぐことになりました。


 星野さんの家は「母子家庭」だったので、お母さんの敏子さんは、朝3時から豆腐屋の手伝いをし、昼間は寮母、夕方は皿洗いと、1日中、働きました。

 そんなお母さんに育てられた仙一少年は、水島中学に入ると野球の上手い「ガキ大将」になっていました。
 でも、ただのガキ大将では、ありませんでした。
 
 仙一少年は、近所に住んでいた同級生の難病「筋ジストロフィー」の少年を、毎朝、背負って中学へ通っていました。
 さらに、放課後も彼を背負って公園へ行って、彼を見学できる所に座らして、野球をしていたそうです。

 少年の家族は、「星野仙一さんのやさしさのおかげで、息子は生きがいができて、余命わずかと言われいたのに、42歳まで生きることができました。」と、話されています。
 星野仙一さんと難病の少年との友情は、彼が亡くなる42歳まで続きました。

「やさしいガキ大将」っていいですね。


<写真 星野仙一さんの母校 岡山県立倉敷商業高等学校>





 水島中学3年の時、星野仙一少年は県内でも有名な野球少年になっていました。

 彼は、本当は甲子園常連校の「倉敷工業高校」に行くつもりでした。
 ところが、倉敷商業高校の角田有三野球部部長に「倉敷商業を甲子園に連れて行ってくれ」と説得され、岡山県立倉敷商業高等学校への進学を決めました。

 星野仙一さんは、高校でも番長で、倉敷商業高校を仕切って(?)いました。
 けんかも、四六時中やっていて、警察にも何度も事情聴取されました。

 しかし、星野さんは、
(1)弱い者いじめはしない、
(2)相手が大勢でも1人で戦う、
(3)ならず者の暴力は許さない、
の「けんか三原則?」を守って、戦いました。

 野球部でも活躍し、倉敷商業は強くなりましたが、1年生、2年生ともに甲子園には出場できませんでした。
 そして、星野仙一さんが4番でエースだった高校3年生の夏、最後で最大のチャンスがやってきました。

 夏の岡山県大会を制した星野さんがエースの倉敷商業は、鳥取県代表との東中国代表決定戦に進みました。夢にまで見た甲子園まであと1勝です。
 相手は、前年の練習試合で16対0で7回コールド勝ちをしている米子商業高校でした。

「絶対、勝てる」そう思って臨んだ試合は、まさかの2対3で敗れました。
結局、星野仙一さんは、高校生として甲子園の土を踏むことはできませんでした。

星野仙一さんは、のちにこう語っています。
「甲子園に行けなかったのは、本当に悔しかった。しかし、その悔しさのお陰で、神宮の大学野球やプロ野球を目指す夢を見るようになった。だから、甲子園に行けなかったのは、逆によかったかも知れない。」

”剛腕”の星野仙一青年にしても、「青春の甲子園」は遠かったということですね。


<写真 東京六大学リーグの本拠地「神宮球場」(東京都新宿区 神宮外苑)>






「今の時代、大学まではいかんとだめじゃ。プロをめざすのは、それからじゃ。」
 母・敏子さんの言葉に後押しされ、星野仙一青年は、大学進学を決意します。(実は、高校時代に、広島カープのスカウトから、息子・仙一さんのプロ入りを、敏子さんは打診されていましたが、大学進学を理由に断りました。)

 星野さんは、「大学は、関東なら早稲田大学、関西なら関西大学」が希望でした。
 しかし、「俺の母校へ行け」という倉敷商業の矢吹監督の一言で、星野仙一青年は、明治大学経済学部へ進学しました。



 明治大学は「東京六大学リーグ」に加盟するレベルの高い野球部ですが、星野仙一さんは、1年生からレギュラーでした。

 六大学リーグ通算で、63試合に登板し、23勝24敗、防御率1.91、奪三振199というすごい成績で、2年生の立教大学戦では、ノーヒットノーランも達成しました。
 しかし、田淵幸一・山本浩司さんらがいた法政大学や、矢沢健一さんらがいた早稲田大学に阻まれ、星野さんは、六大学で1度も優勝できませんでした。

 ただ、星野仙一さんは、大学時代に、明治大学野球部の島岡吉郎監督から、優勝以上のものを学びました。それは、「一生懸命に生きる」ということでした。

 早大戦で、3回でKOされた時に、島岡監督に真夜中にグランドへ呼び出され、パンツ一丁でマウンドに正座させられました。
 正座は夜明けまで続きました。

 夜が明け始めると、星野青年は、バックネットに1つの影があることに気づきました。島岡監督でした。
 自分と一緒に、一晩中、グランドにいてくれた監督に感動し、星野仙一さんは、「一生懸命に生きる」ということの大切さを知らされました。

 それ以来、星野さんは島岡さんを尊敬し続け、プロに入っても、「俺は、明治大学野球学部島岡学科出身だ」と、話しました。

 甲子園出場も六大学優勝もなかった星野仙一さんの、青春(高校・大学)時代ですが、星野青年は、「甲子園」や「優勝」よりも大切なものを学びとり、いよいよプロ野球への道を歩みだします。

 今回のおしまいに、星野仙一さんの名言を一つ、紹介します。

「大変という意味は、大きく変わるということ。
 ピンチはチャンスの前触れ、
 大難を偲ぶ者は、大善を引き起こす。」


 2018年1月6日早朝、星野仙一さんの後輩・明治大学野球部の学生たちは、年頭の初練習に先立ち、大先輩の星野仙一さんに黙とうを捧げ、1年をスタートさせました。
 今も、明治大学で、星野仙一さんの魂は生きています。
<2回目に続く>

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