2018年1月23日火曜日

星野仙一さんの生涯と名言 (2) 中日の選手・監督時代篇~アンチ巨人と奥さんへの愛に燃えた男~

 元プロ野球選手の星野仙一さんの生涯と名言の2回目を、紹介します

 星野仙一さんは、明治大学4年生の1968(昭和43)年の「プロ野球ドラフト会議」で、セントラルリーグの中日ドラゴンズに1位指名され、入団しました。

   星野さんは、子供の時から阪神ファンでしたが、母校の明治大学と阪神タイガースが仲が悪かったため、阪神の指名はないと思っていました。
 一方で、巨人からは「1位指名を考えている」と言われていたのに、結果的に「裏切られた」という気持ちが強く、以来、星野さんは「アンチ巨人」となりました。


 星野仙一投手は、プロレビューの1969(昭和44)年は、49試合に登板(先発16試合)して、8勝9敗、防御率3.12と、上々の成績でした。

 また、星野仙一さんのレビュー時の背番号は22でした。
 星野さんは、子供の頃から憧れていた阪神の村山実投手の背番号11を希望していましたが、空いてなかったため、倍の22番にしました。

 入団2年目の1970年には、得意の速球で二ケタの10勝を挙げました。
 3年目の1971(昭和46)年には、背番号を中日のエースナンバーの20番に変えましたが、肘を痛め、速球派から変化球投手に変身しました。

 それでも、星野仙一投手は、先発・リリーフの両方で活躍し、14年間の現役生活で、500試合に登板し、通算146勝121敗34Sで、防御率は3.60の成績でした。

 大学卒業後のプロ入りで、名球会の入会資格(200勝)には達しませんでしたが、二けた勝利を8回記録しました。

 特に、王・長嶋のスーパースターを擁していた巨人が10年連続日本一(V10)を目指した1974(昭和49)年のシーズンには、巨人の10連覇を阻む胴上げ投手となり、「沢村賞」を獲得しました。

 この時のセリーグ優勝祝賀会で、星野投手は「日本シリーズは邪魔、巨人に勝ったからもういいんや。」と言ってしまいました。
 結果的に日本シリーズでは、パリーグ優勝のロッテに敗れました。
 結局、星野仙一投手が、選手時代に日本一になることはありませんでした。

 それでも、星野仙一投手は、全盛期の巨人相手に、35勝31敗と勝ち越し、「巨人キラー」と言われました。

 1982(昭和57)年、「燃え尽きたので、マウンドを降ります。」の名言を残して、35歳で、星野仙一選手は、14年間の現役生活にピリオドを打ちました。
 選手時代は、最後まで中日ドラゴンズ一筋でした。


<現役の頃の星野仙一さん(中日ドラゴンズ)の野球カード>







 1983(昭和58)年、現役を引退した星野仙一氏には、マスコミのオファーが殺到し、NHKの野球解説者や、日刊スボーツや「Number(文藝春秋)」の野球評論家を務めました。

 さらに、1985(昭和60)年には、大塚範一さん(のちのフジテレビ系「めざましテレビ」のキャスター)や野中ともよさんと、NHK総合テレビ「サンデースポーツスペシャル」の初代キャシターに就任しました。

 この番組で、現役時代の「こわもて」の印象から、一転、ソフトな笑顔で、全国的な人気者になりました。
 彼は、スポーツ選手のキャスターの「草分け」的な存在でした。

 1986(昭和61)年のシーズンオフに、中日ドラゴンズからのオファーを受けて、1987年に中日の監督に就任します。

 当時、星野さんは、「年収が何分の1になっても、俺は現場に帰る。」との名言を残しました。
 また、監督就任の記者会見での「笑ってください」との記者のオファーに、「これから戦場に行くのに笑えるか。」と、怒鳴りつけました。

 1987年中日の監督になった星野仙一さんは、「闘将」「燃える男」と呼ばれ、人情味はあるが厳しい監督でした。

 意外ですが、星野さんが現役時代には1度も「退場処分」になりませんでした。
 しかし、監督就任1年め、2年目と、連続で、プロ野球の両リーグ通じて、シーズン最速の「退場処分」を受けました。

 しかし、星野監督は、就任1年目に、前年5位だったチームを2位に引き上げ、翌1988(昭和63)年には、見事に中日ドラゴンズをセントラルリーグ優勝に導きました。

 優勝会見で、試合中に笑顔を見せたことを記者に指摘されると、
「今日ぐらいは、笑顔を見せなきゃバチがあたる」と答えました。


 その年の日本シリーズは、星野さんが選手として対戦したV9時代の巨人の正捕手・森祇喜(もり・まさあき)監督が率いる西武ライオンズと対戦しましたが、1勝4敗で敗退しました。
 投手として、「巨人キラー」だった星野仙一さんですが、監督初の日本シリーズでは、巨人OBの監督に敗れました。

 星野仙一さんは、中日ドラゴンズ監督の1期目を、1987(昭和62)年から1991(平成3)年まで5年間務め、2位・優勝・3位・4位・2位という好成績を収めました。


<中日ドラゴンズ時代の星野仙一監督のベースボールカード>






 1991(平成3)年の年末、星野仙一さんは「健康上の理由」で、突然、中日ドラゴンズの監督を辞任しました。

 実は、この辞任は、星野仙一さん本人の「健康上の理由」ではなく、奥さんの扶沙子さんが「白血病」になったための「健康上の理由」でした。
 その後、星野仙一さんは、献身的に奥さんの看病をしました。

 仙一さんと扶沙子さんの出会いは、仙一さんが神宮球場で明治大学の選手として野球をやっていた時に、当時、敵の慶応大学の学生だった扶沙子さんが、「おまんじゅう」を差し入れたこと、だったそうです。

 仙一さんは一目ぼれし、プロ入りの際に、「もう決めた。お前に決めたから。」と、プロポーズをしたそうで、扶沙子さんは黙ってうなずきました。

 そんな愛妻の扶沙子さんが「白血病」にかかったので、その看病のために、監督を辞任した星野仙一さんは、「野球に燃える男」だけではなく、「奥さんへの愛にも燃える男」だったのです。
 やさしくて、かっこいいですね。


 星野仙一さんは、再びNHKのスポーツキャスターや、中日スポーツ客員などを務めていましたが、奥さんの扶沙子さんの病状が一時的に回復したことと、その扶沙子さんに、
「私、やっぱり、あなたのユニホーム姿が、一番好きだわ。」と言われて、1995(平成7)年暮れに、ふたたび中日ドラゴンズの監督に就任します。

 1997年1月30日、残念ながら扶沙子さんは51歳の若さで白血病のため、亡くなりました。
 星野仙一さんの2期目の中日ドラゴンズ監督は、1996年から2001年まで、世紀をまたいで6年間続きました。
 その間、1999(平成11)年には、2度目のセントラルリーグ制覇を成し遂げました。

 しかし、この年の日本シリーズでも、巨人V9時代の主砲・王貞治監督率いる「福岡ダイエーホークス」に、1勝4敗で敗れ、またも日本一の夢を、巨人出身監督に阻まれました。

 
 そして、リーグ5位に終わった2001(平成13)年暮れ、星野仙一さんは辞任を決意します。

 星野仙一さんは、記者会見で、
「成績不振が理由のすべてではない。初監督の時は5年、今回は6年目。同じ人間が長い間権力の座に座ることは、組織上好ましくない」と語りました。(どこかの政治家に聞いてほしいですね。)

 この2001年を最後に、星野仙一さんが、「中日ドラゴンズ」のユニホ-ムを着ることは、二度とありませんでした。

 しかし、星野仙一さんのプロ野球人生は、ここで終わったわけでは、ありません。
 このあとの話(阪神と楽天時代)は、3回目(最終回)で紹介します。


 最後に、星野仙一さんのポジティブな名言を、もう2つ紹介します。
 
「迷ったら前へ。苦しかったら前に。つらかったら前に。
 後悔するのはそのあと、そのずっと後でいい。」

「やるべきことだと思っていることを、
本気になってやっていかなければ自分の人生は、
なにひとつ変わっていきはしない。
本気か、本気でないのかが人生の分かれ道だ。」


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