「鳥は飛び方を変えることはできない。動物は走り方を変えることはできない。
しかし、人間は生き方を変えることができる。」
これは、2017(平成29)年7月18日、105歳まで現役の医師を務めて亡くなった、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生の言葉です。
今回は日野原さんの人生と名言を、追悼の意味を込めて紹介します。
日野原重明(ひのはら・しげあき)さんは、明治から大正に変わる前年の1911(明治44)年10月4日に、山口県の吉敷郡下宇野令村(現・山口市湯田温泉)にあったお母さん・満子さんの実家で生まれました。
日野原重明さんの両親は、キリスト教徒で、お父さんの日野原善助さんは牧師でした。
お父さんの善助さんは、重明さんが生まれた時は、アメリカニューヨーク市のマンハッタンにある「ユニオン神学校」に留学中でした。
重明さんは6人兄弟の次男でしたが、特に1歳上のお姉さんと仲がよかったそうです。
お父さんの仕事の関係で、山口・大分・神戸などを転々としながら幼い頃を過ごしました。
日野原重明さんが10歳の時、お母さんが尿毒症で倒れて痙攣しました。
この時、夜中にもかかわらず、駆けつけて治療し、お母さんを救ってくれたのが、安永謙逸先生でした。
この時の安永先生への尊敬と憧れが、日野原重明さんが医師を目指すきっかけとなりました。
<写真 日野原さんが生まれた、山口県山口市湯田温泉>
日野原重明さんは、7歳で洗礼を受けキリスト教に入信しました。
1924年関西学院中学部(兵庫県西宮市)に入学し、1929年には旧制第3高等学校(現・京都大学)に合格しました。
そして1932(昭和7)年に、京都帝国大学医学部に合格し、子供の頃の夢のとおり、医師への道を歩み出します。
ところが、1933年、22歳の時に「結核」にかかり、父がいた広島市や山口県光市で、1年間の闘病生活をすることになりました。
二十代で結核にかかった青年が、100歳以上の長寿になったのですから、人生はわかりませんね。
「私たちの恵みを数えてみれば、どんな逆境にあったとしても、受けているものの方が、与えるものより多いことに気づく。
受けた恵みをどこかで返そうと、考えたいものである。」
(日野原重明さんの言葉)
結核療養時に、一旦、医学の道を断念し好きな音楽を志しますが、家族の反対で再び医学の道に戻ります。
1937(昭和12)年に、京都帝国大学医学部を卒業し、北野病院や京都病院などで勤務します。
太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年に上京し、聖路加国際病院(東京都中央区)の内科医に就任します。
1942年、東京・田園調布の教会の日曜学校で教師をしていた静子さんと知り合い、結婚しました。
以後、2013年に静子さんが亡くなられるまで、実に60年以上、日野原重明さんと静子さんの夫婦
は連れ添うことになりました。幸せな夫婦ですね。
1945(昭和20)年の「東京大空襲」の時には、都心近くにあった聖路加国際病院(戦時中の名前は大東亜中央病院)に、多くのやけどの患者が運び込まれました。
その時のことを、日野原さんは
「薬がないので、新聞紙を焼いて灰にして、やけどの傷口にかけて傷口を乾燥させたが、多くの患者は亡くなった。本当に無力で、戦争の悲惨さを痛感した。」
と話されています。
<写真 聖路加国際病院(東京都中央区)>
戦後の1951(昭和26)年に、日野原さんは聖路加国際病院の内科部長に就任するとともに、アメリカジョージア州のエモリー大学に1年間留学します。
アメリカでは、患部だけでなく患者の心身全体を考える「全人医療」を学び、帰国後、さまざまな改革を始めます。
まず、1954年に、民間病院として初めて「人間ドック」を開設し、定期検診による「早期発見、予防医療」を定着させます。
続いて、「成人病」を「生活習慣病」に言い換えることを提言し、患者参加型の医療を目指しました。
1970(昭和45)年3月31日、福岡で開催された学会の帰りに、日野原さんが乗った日本航空の飛行機「よど号」東京行きが、赤軍派により「日本初のハイジャック」にあいました。
このとき、人質になったのち無事解放された58歳の日野原さんは、「生かされていること」を痛感し、安否を心配してくれた人たちに対する礼状に、次のような言葉を入れました。
「いつの日か。いづこの場所かのどなたかに、受けました大きな恵みの一部を、返していきたいと思います。」
この言葉は、実は妻の静子さんの提案でした。
1992(平成4)年、日野原さんは聖路加国際病院の院長になり、1994(平成6)年には、日本初の独立型ホスピスを誕生させ、終末期医療の充実にも尽力しました。
1995(平成7)年3月の「地下鉄サリン事件」では、現場から近かった聖路加国際病院のロビーを解放し、多くの被害者の手当を陣頭指揮で行いました。
「自分のためにではなく、人のために生きようとするとき、その人は孤独ではない。
他者のための『思い』と『行動』に費やした時間、人のためにどれだけの時間を分け合ったかによって、
真の人間としての証がなされる。」
(日野原重明さんの言葉)
<日野原さんのミリオンセラーを記録した著書「生き方上手」>
日野原重明さんは、1987(昭和62)年から小中学生を対象に、「いのちの授業」を始めました。
「いのちは見えないし、さわれない。昨日も明日も見えない。
でも、寝たり、勉強したり、遊んだりするのは、君たちのもっている時間を使っているんだよ。
時間を使っていることが、生きている証拠。時間の仲にいのちがあるんだよ。」
と子供たちに伝えました。
そして、授業の最後に日野原さんは、「大きくなったら、君たちのもっている時間を、人のために生きてほしい。」と話しました。
日野原重明さんは、1999年に文化功労者に選ばれ、2005年文化勲章を受章しました。
でも、日野原さんは、現役医師にこだわり、100歳を超え、105歳になっても現場で患者と接しました。
癌の末期患者で、庭いじりの好きな中年の女性には、こんな俳句をプレゼントしています。
「いのち開く きみの笑顔 土の香り」
そして、2017年7月18日、東京都世田谷区の自宅で呼吸不全のため、105歳で大往生を向えました。
日野原さんは、自分の信念に基づき、延命治療は断りました。
2017年7月29日、東京都港区の青山葬儀所で日野原重明さんの葬儀が行われました。
約4000人が参列されたほか、皇后美智子様も弔問されました。
本当にすごい人ですね。105歳に比べれば、みんな「まだまだ若い、若い」ですね。
最後は、ボジティブに人生を生きる「日野原重明さんの名言」を紹介します。
・生かされている最後の瞬間まで、人は誰でも人生の現役です。
・私たちは運命を生きるのではなく、運命を作っていくのです。
・かつて自分ができなかったことを、思い切ってやることが、「夢を叶える」ということです。
・50代、あるいは60代に向かおうとする時は、いよいよ自分がやりたいように、自分が自分を開発できる時期です。
そうして開発した自分を、社会に還元するのが、第2の使命だと思っています。
・やりたいことは、まだまだたくさんあります。
私はどれもできると信じています。
信じてね。ゴーですよ。
・マルティン・ブーバーという哲学者(1878年~1968年、オーストリア出身)は、
「人は始めることさえ忘れなければ、いつまでも若々しくある。」という言葉を残しました。
新しいことへの挑戦を続ければ、体は老い衰えても、心の若さはいつまでも続く。
私なりに「創(はじめる)」という字をあてて、座右の銘にしています。
天寿を全うし、天国に昇られた日野原重明さんの冥福を心よりお祈り申し上げます。 おしまいに、葬儀で挨拶に立った、長男で喪主の日野原重明さんの参列者へのお礼の言葉を紹介します。
「祈り、感謝、実践の喜びに満ちた105年の生涯でした。
父の残した出会い、命、愛、許し、この四つの言葉を大切にしながら私ども家族も生きていきたいと思っています。」
0 件のコメント:
コメントを投稿