これまで4回に渡って、日本で起こった「南海トラフを震源とする大地震」を中心に、その前後で何が起こったのかを、紹介してきました。
記録に残る9つの「南海トラフを震源とする大地震」も、あと1回、最も近くに起こった「昭和東南海地震」と「昭和南海地震」だけとなりました。
その話をする前に、江戸末期の「安政大地震」と「昭和の2大地震」の間に起こった日本史上最大の被害を出した「関東大震災」を、今回は紹介したいと思います。
<写真 関東大震災で大破した凌雲閣(浅草十二階)>
「関東大震災」(あるいは「大正関東大震災」)は、1923(大正12)年9月1日に、東京都(当時は東京府)と神奈川県を中心に発生した大地震と、それに続く大火災が原因で起こった災害です。
本震が発生したのは、9月1日の午前11時58分頃で、関東地方南部(相模湾という説が有力)を震源とした、マグニチュード(M)7.9の大地震です。
東京都と神奈川を中心に、関東の広い範囲で被害が発生し、その犠牲者は10万5000人と、日本の災害史上最悪です。
振動による建物崩壊、液状化、がけ崩れ、津波などでも多くの犠牲者が出ましたが、この関東大震災の被害を拡大させたのは、なんと言っても「火災」でした。
地震の発生がちょうどお昼で、食事の支度のために使っていた火などから、判明しているだけで136件の火災が発生し、折からの強風で東京・神奈川の広い範囲が炎に包まれました。
東京の「中央気象台(現在の気象庁)」の気温は、9月2日の未明には46.4度を記録し、その後、建物自体が焼失しています。
関東大震災の全体の犠牲者10万5385人のうち、87%の9万1781人が火災による犠牲者でした。
また、この震災時には、治安の悪化が混乱に拍車をかけました。
混乱に乗じて軍が社会主義者や自由主義者を逮捕・処刑したり、「朝鮮人」による凶悪犯罪、暴動などの噂が広まって民衆(自警団など)、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が多数発生しました。その犠牲者は数千人とも言われいます。
火災とデマ、そして治安悪化は、関東大震災の「貴重な教訓」だと思います。
<関東大震災の被災地域>
ここからは関東大震災の前後の出来事(災害)を、紹介します。
まず、関東大震災(1923年9月)の2年前の1921(大正10)年12月8日に、茨城県と千葉県の県境付近で、M7.0の「龍ケ崎地震」が発生しています。
続いて、震災前年の1922(大正11)年には、4月26日に神奈川県三浦半島と千葉県房総半島の間でM6.8の「浦賀水道地震」が発生し、2人の死者が出ています。
同じ1922年12月8日には、九州・長崎県でM6.9の「島原地震」が発生し、死者26人が出ています。
関東大震災が起こった1923(大正12)年に入ると、6月2日に茨城県沖でM7.1の地震が発生し、千葉県銚子市で震度4を記録しています。
さらに7月13日には、九州南東沖でM7.3の地震が発生し、宮崎市と鹿児島市で震度4を記録しています。
こう見てくると、直前に地震が起きたのは、関東周辺と「九州」ということになります。
やっぱり熊本地震が気になりますね。
この時期、日本国内では、マグニチュード8級の巨大地震は起きていません。
ところが、世界的に見ると、事態は一変します。
関東大震災の3年前の1920年12月16日、中国でM8.5の「海原地震」が発生し24万人が死亡しています。
また、1922年11月11日には、南米チリでM8.5の地震が発生し、1000人の死者が出ています。
さらに、関東大震災の発生した1923年2月3日にも、M8.5の地震がロシアで発生しています。
つまり、世界的に見ると、マグニチュード8.5の地震が、中国、チリ、ロシアで立て続けに発生し、その後、日本で関東大震災が起こったということになります。
では、関東大震災後の出来事を紹介します。
まず地震(死者がでたもの)では、震災の翌年の1924(大正13)年に1月15日に、山梨県甲府市で震度6を記録する「丹沢地震」(M7.3)が発生し、死者19人が出ています。(関東大震災の余震と推定)
続いて、1925(大正14)年5月23日には、兵庫県豊岡市で震度6を記録する「北但馬地震」(M6.8)が発生し、死者428人を出しています。
さらに、1927(昭和2)年3月7日には、京都府宮津市と兵庫県豊岡市で震度6を記録する「北丹後地震」(M7.3)が発生し、2925人が亡くなっています。
こう見ると、関東大震災の後は、内陸直下型地震が相次いでいますね。
<関東大震災直後の東京・上野駅付近>
おしまいに、関東大震災で被災した有名人と、震災が出てくる作品、そして震災後の影響を紹介します。
東京で発生した大震災には、多くの有名人も被災しています。
例えば、本郷(現在の東京都文京区)で被災した後のノーベル賞作家・川端康成は、芥川龍之介らとともに、「水とビスケット」を持って被災地を見てまわり、数千人の死体を見た」と語っています。
また、童謡「かなりあ♪」や、歌謡曲の「東京音頭」、「青い山脈」、「王将」などを作詞した詩人の西條八十(さいじょう やそ 1892年~1970年 東京都新宿区生れ)さんも、21歳の時に関東大震災で被災し、上野公園に避難しました。
その夜、一人の少年がハーモニカを取り出し、美しいメロディを演奏して避難者の心に癒しを与えました。
このことに感動し、「大衆文化も人に感動を与えられるんだ」と気づいた西條八十さんは、のちに「歌謡曲」の名作を作詞したそうです。
関東大震災のようすは、テレビドラマや映画などの作品にも出てきます。
NHKの朝の連続テレビ小説の名作「おはなさはん」や「おしん」、最近の「花子とアン」、「ごちそうさん」などにも登場します。
映画でも、「帝都物語」(1988年)や「風立ちぬ」(2013年、原作者の堀辰雄も被災)など、多くの作品に描かれています。
また、関東大震災直後は、東京から首都を、兵庫県加古川市や東京都八王子市、さらには現在の韓国(当時は日本が統治)のソウル近郊に移す案が検討されました。
もしかしたら、日本の首都は「東京」でなくなっていたかも知れなかったのですね。
因(ちな)みに、この震災の直後は東京から関西への人口流失が続き、大阪が合併したこともあって、震災後、一時的に、大阪が東京を抜いて人口第1位になったほどでした。
関東大震災で東京の60%の家屋が焼失し、「江戸から続く東京」を一時的に崩壊させました。
しかし、その後、区画整理や道路幅の拡大などの近代都市化が進みました。
また、「流言飛語」で治安が大混乱した教訓から「ラジオ」が普及し、情報共有するシステムができます。
「震災から復興する日本人の底力」を見るようで、頼もしいですね。
一方で、震災不況に始まり昭和恐慌(世界恐慌)へつながる経済悪化と、ラジオの普及による政府・軍部の「国民の扇動手段」の悪用が、第二次世界大戦へと日本を向かわせる遠因にもなったと思うと、複雑ですね。
<夕焼け小焼け号 (東京都八王子市)>
最後に、日本を代表する童謡「夕焼け小焼け」と関東大震災の話を、紹介します。
「夕焼け小焼け」が童謡として発表さたのは、1923(大正12)年7月31日、つまり、関東大震災の1ヵ月前でした。
当時は、ピアノを買ってくれた人への「プレゼント楽譜」として掲載されましたが、関東大震災でほとんどが焼けて、残ったのはわずか13部でした。
この13部の一つを、作詞者中村雨紅の義妹で教員をしていた梅子が、小学校で震災で傷ついた子供たちの心を慰めるために教え、やがて広がっていきました。
最初、「夕焼け小焼け」は、関東大震災の火災(夕焼け)や、死者のこと(山もお寺の鐘、からす)を予言した歌だとも噂されました。
でも100年近くたった今は、最も歌われる童謡(金の星)となって、日本中で歌いつがれています。
<童謡>
♪「夕焼け小焼け」♪ (作詞:中村雨虹、作曲:草川 信 1923年発表)
1 夕やけこやけで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょ
2 子供がかえった あとからは
まあるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星
0 件のコメント:
コメントを投稿