2016(平成28)年6月15日(アメリカ時間)、アメリカ大リーグのアイアミ・マーリンズに所属するイチロー選手が、日米通算4257安打めのヒットを打ち、それまでピート・ローズ選手が持っていた4256安打の最多安打の記録を更新しました。
もちろん、ピートローズの記録が全部大リーグで記録したのに対し、イチロー選手の記録は日本プロ野球で1278安打、大リーグで2979安打ですから、ハイブリッドであり「正式記録」ではありません。
それでも、かつて巨人の王貞治選手がホームラン数世界一を記録したように、イチローの安打数も「世界一」と呼んでいい、すばらしい記録だと思います。
今回は、レジェンド(伝説の男)とも言われるイチロー選手の名言とプロフィールを紹介します。
まず新記録を樹立した試合後の、イチロー選手の記者会見の一部を紹介します。
「 僕は子供のころから、人に笑われてきたことを、常に達成してきたという自負がある。
例えば小学生の頃に、毎日、野球を練習して、近所の人から『あいつプロ野球選手になるのか』と言って、いつも笑われていた。
だけど、悔しい思いもしましたけどプロ野球選手になった。
何年かやって首位打者をとって、アメリカに行く時に、(アメリカで)首位打者をとってみたいと言って、そんな時も、やっぱり笑われた。
でも、それも2回達成した。
常に人に笑われてきた悔しい歴史が、僕の中にはある。」
日本には、「人(世間)に笑われるからやめろ」という言葉を、子供に言う親がたくさんいます。
世間並になってほしいという願いですが、それは、子供の可能性をつぶす言葉かも知れませんね。
でも、イチロー選手は、そんな「世間の嘲笑」を努力で超えてきたんだと思います。
<イチロー展示ルーム 「アイ・ファイン」(愛知県豊山町)>
イチロー選手は、本名を鈴木一朗(すずき いちろう)といい、1973(昭和48)年10月22日に、愛知県西春日井郡豊山町で生まれました。
因(ちな)みに、イチロー選手が生まれた1973年10月22日は、甲子園球場で巨人が阪神を破り、セントラルリーグのV9(9年連続優勝)を決めた日です。
小学校時代に、「少年野球チーム」で野球を始めました。
小学校3年生の頃からは、近くの「空港バッテイングセンター」に通い、100キロ~120キロの球を打っていたそうです。
同じころ、このバッテイングセンターには、のちにヤクルトや日本ハムで活躍した1つ年上の稲葉篤紀選手も通っていたそうです。
稲葉選手といえば、「稲葉ジャンプ」の応援で有名な2000本安打を達成した名選手です。
日本を代表する2人の名選手が、小学校の頃に、同じバッテイングセンターに通っていたのも、すごいですね。
<写真 空港バッテイングセンター(愛知県豊山町)>
イチロー選手は、豊山中学校在学中に、「全日本少年軟式野球大会」で3位に入り、その後、野球の名門・愛工大名電高校に進学しました。
高校時代には、2年生の夏と3年生の春に甲子園に出場しますが、2回とも初戦で敗退しています。
イチロー選手は、この頃はピッチャーでしたが、自転車通学の途中で車との接触事故に遭い、投手から野手に転向しました。
1991(平成3)年、高校3年生の時に、プロ野球「オリックス・ブルーウェーブ」にドラフト4位で指名され、1992年、憧れのプロ野球選手になりました。
因みに、プロ野球1年目のイチロー選手の年俸は、430万円でした。
イチロー選手は最初からレギュラーではなく、1992(平成4)年のプロ1年目は、1軍出場は僅か40試合でヒットは24本、打率は2割5分3厘でした。
2年目の1993年は、さらに悪く、43試合に出場し12安打で、打率は1割8分8厘でした。ただし、この年に打ったプロ初ホームランの相手は、後の大リーガー・野茂英雄投手(近鉄)でした。
イチローほどの名選手が、ドラフト1位でも、1年目も2年目もレギュラーでなかったというのは、「ぼくは天才ではありません。」というイチロー選手の名言を裏付け、努力の人・イチローを証明するものですね。
1994(平成6)年、この年にオリックスの監督になった仰木彬氏は、イチローの類い稀な打撃センスを見抜き、レギュラーに抜擢します。
また、この年の4月に、登録名を「鈴木一朗」から「イチロー」に変更しました。
この年のイチロー選手は、シーズン最多安打記録を、それまでの191本から210本に更新し、日本プロ野球史上初のシーズン200本安打を達成しました。
さらに、イチロー選手は、首位打者(3割8分5厘)やゴールデングラブ賞などを獲得し、MVP(最優秀選手)にも選ばれ、一躍、有名になりました。
まさに、イチロー伝説の始まりです。
その後、日本プロ野球在籍の最後となる2000(平成12)年のシーズンまで、7年連続首位打者を獲得し、9年間の通算安打は1278本、通算打率は3割5分3厘でした。
2000年の年俸は、5億円とも言われています。
<オリックス時代のイチロー選手のサイン色紙>
2000年のオフシーズンに、ポスティングシステムで「大リーグ シアトル・マリナーズ」への移籍を発表しました。
この時の記者会見でイチロー選手が言ったのが、「大リーグでも首位打者になりたい」という言葉でした。
当時の日米の打力差(今も、あまり変わりませんが)から考えると、「イチローが大リーグの首位打者。まさか、日本人の打者は成功しない。」と、多くの人が失笑していました。
ところが、2001(平成13)年の大リーグのシーズンが始まってみると、イチローは新人としては大リーグ最多記録の242安打をマークし、打率3割5分0厘で、いきなり「首位打者」を獲得します。
その後、2004(平成16)年には、262本のメジャーの最多安打記録を樹立し2度目の首位打者になるなど、2010年まで、10年連続200安打以上をマークしました。
イチロー選手の安打数は、2016年6月18日現在で、大リーグで2980本を記録し、日本プロ野球で記録した1278本を加えると、合計4258本で、「世界一」となります。
イチロー選手の大リーグ生活が、ずっと順調だったかというと、そうではありません。
チームの成績が悪い時には、「自分だけヒットを打って、記録だけを追い求める身勝手な選手」とか、「単打だけを打つモスキート(蚊)だ」などと、同僚選手から批判を受けました。
また、2012年の途中から、「ニューヨーク・ヤンキース」に移籍し、さらに2015年からは「マイアミ・マーリンズ」に移籍して、レギュラーの獲れない苦しいシーズンを送っています。
それでも、控え選手の経験や「嘲笑に負けない心」を持った逆境に強いイチロー選手は、努力を積み重ねていきました。
42歳となった2016年のイチロー選手も、少ない出場機会の中でヒットを積み重ね、世界記録を達成し、大リーグでも30人足らずしか達成していない3000本安打に、あと20本と迫っています。
人間関係に悩んだイチロー選手は、最初に紹介した「世界新記録の記者会見」で、「今は、最高のチームメイトといられて幸せだ」と話しています。
<イチロー選手のメジャー9年連続200安打を記念した切手>
このイチロー選手を支える家族は、奥さんの元TBSアナウンサーの福島弓子(1965年島根県生まれ)と、柴犬の「一弓(いっきゅう)」で、子供は残念ながらいらっしゃいません。
犬の「一弓」という名前は、一朗の「一」と、弓子の「弓」を合わせたものだそうです。
愛妻と愛犬が、イチロー選手の外国生活を支えているのですね。
名前といえば、「一朗」という名も、イチロー選手は二人兄弟の次男ですが、祖父の銀一さんから「一」をもらい、「一朗」とつけられたそうです。
銀一さんは、孫たち全員に自分の名前の一字をつけ、グラフィック・デザイナーをしているイチロー選手のお兄さんの名前も「鈴木一泰」さんです。
もう一つ、イチロー選手のすごいところは、「ケガをしない」ことです。
イチロー選手の語録にも、『準備というのは言い訳の材料となり得る物を排除していく、 そのために考え得る全ての事をこなしていく。』という言葉があり、ケガをしないように、入念な準備体操と、毎日、同じルーティーンを繰り返しているそうです。
また、「スパイクの時は、転びやすい階段よりスロープを使う」とか、「ヘッドスライディングは、出来るだけしない」など、健康には人一倍、気をつかっているそうです。
「最低でも50歳まで野球をやりたい。」とイチロー選手の言葉も、笑えない根拠と努力に裏付けられた言葉のようですね。
<メジャー球場で配られたイチロー選手のカウントダウン人形>
最後は、イチロー選手と黒田博樹投手の友情についてです。
イチロー選手と黒田投手は、ニューヨーク・ヤンキース時代にチームメイトとして、2年半プレーしました。
ヤンキース時代には、一緒に食事に行き、黒田投手が、2015年に「20億を蹴って広島カープに復帰」することになった際にも、真っ先にイチロー選手に報告したそうです。
黒田博樹投手は、イチロー選手について、こう語っています。
「2年半、一緒にプレーさせてもらいましたが、一番印象に残っているのはイチローさんの強さでした。体もそうですけど、精神的な強さです。
イチローさんがいたから僕も多少なりとも強くなれたのかなと思います。
イチローさんなしでは、ヤンキースでローテーションを守ることはできなかったと思っています。
この期間は、僕の野球人生の財産です」
「世間の常識という嘲笑」に負けず、イチロー選手にも黒田投手にも、1年でも長くプレーして、伝説を残していってほしいと思います。
まだまだ、2人とも「夢の途中」ですね。
そして、私たちも「常識という嘲笑」を超える人生を、信じて夢を叶えるためにがんばりましょう。
おしまいに、もう一つ、「イチロー語録」より、紹介します。
「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道です。」(イチロー選手)
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