2016年6月5日日曜日

佐々木禎子の折り鶴と原爆の子像 ~広島に息づく白血病治療~

 2016(平成28)年5月に、アメリカのオバマ大統領が広島平和公園の「原爆資料館(平和記念資料館)」を訪問したとき、自ら折った折り鶴を4羽持参しました。
 
 出迎えた子供たちに2羽を渡し、残りの2羽を資料館に寄贈しました。
 そのとき、オバマ大統領は、「これは、禎子さんの折り鶴をお手本に、私が自分で折りました。」と話しました。
 
 今回は、オバマ大統領がお手本にした「佐々木禎子さんと折り鶴」の話を紹介します。


<写真 佐々木禎子さんの折った鶴 (広島原爆資料館)>

 




 佐々木禎子(ささきさだこ)さんは、太平洋戦争中の1943(昭和18)年1月7日に、広島県広島市で生まれました。

 1945(昭和20)年8月6日、禎子さんが2歳のときに、広島市に投下された「世界初の原子爆弾」によって、爆心地から1.7kmの自宅にいた禎子さんは被爆しました。

 禎子さんは、9歳までは元気に育ち、1954(昭和29)年10月の小学校の秋の運動会では、チームを1位に導く活躍をしました、

 ところが、その年の11月頃に首のまわりにシコリができはじめ、翌年1955(昭和30)年2月に「白血病」と診断され、「広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)」に入院しました。
 
 「余命は長くて1年」と言われた禎子さんですが、「折り紙で千羽鶴を折れば元気になる」という院内の迷信を信じて、病室で毎日、鶴を折りはじめました。

 当時、折り紙は高価だったので、禎子さんの鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折りました。
 その年の8月下旬には、禎子さんの折った鶴は、目標の1000羽を超えました。
 それでも病状は回復しなかったので、禎子さんは「もう1000羽折るわ。」と言って、今度は小さい折り鶴を折り始めました。

 禎子さんの折った折り鶴の数は1500羽とも2000羽ともいわれていますが、病状が回復することはなく1955年10月25日に「急性リンパ性白血病」で死亡しました。

<写真 佐々木禎子さん>



 佐々木禎子さんの葬儀で、彼女が折った鶴は遺品として、2、3羽ずつ参列者に配られました。
 さらに、折り鶴のうち1羽は、禎子さんの母校の「広島市立幟町(のぼりちょう)小学校」に寄贈されました。

 禎子さんの折り鶴を見た幟町小学校の同級生()たちは、広島平和公園に「原爆の子の銅像」()()を作ろうという運動をはじめます。
 子供たちの訴えは()、思いがけない反響を()まきおこし、全国3000校をこえる学校から「像の 建設()に役立ててください」という手紙と募金が送られてきました。
 そして、1958(昭和32)年5月5日、禎子さんが亡くなって3年後の「子供の日」に、広島平和記念公園の中に、佐々木禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」を建てられました。
 そして像の前の石には、こう刻まれました。

 「これはぼくらの(さけ)びです これは(わたし)たちの(いの)りです 世界に平和をきずくための」


<写真 「原爆の子の像」と折り鶴 (広島平和公園) >




 2009(平成21)年夏、60年以上前に禎子さんが亡くなった「広島赤十字病院(広島赤十字・原爆病院)」に、小学校教師をしていた私の同級生が、「白血病」で入院し治療を受けました。

 白血病の診断を受けた彼が、「広島赤十字・原爆病院」を選んだのは、被爆地・広島のこの病院が、原爆投下による被爆者治療で培った医療技術で、国内トップクラスの治療施設だったからでした。

 その同級生は、「骨髄移植手術」をした2010年4月、残念ながら治療のかいもなく、この病院で亡くなりました。

 それでも、広島の白血病・放射線医療の水準が、日本のトップクラスであることと、広島平和公園に、今も「平和を願いと犠牲者の鎮魂を祈る」無数の折り鶴が、毎日のように供えられていることは確かです。

 佐々木禎子さんの折り鶴は、「広島原爆資料館」にもずっと飾られていて、オバマ米国大統領もそれを手本に、折り鶴を折りました。 
 そして2016年5月27日、アメリカ大統領バラク・オバマさんが折った折り鶴も、原爆資料館に寄贈されました。

<オバマ・アメリカ大統領が折った折り鶴>



<一句>
  広島の 空から世界へ 折鶴(つる)よ 飛べ

  

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