2016年6月26日日曜日

イギリスでEU離脱の風が吹くと・・・日本から犬が消える?

 2016(平成28)年6月23日に行われたイギリスの国民投票で、「EU(欧州連合)離脱派」が過半数をとり、イギリスのEUからの離脱が決定的となりました。

 これを受けて、6月24日、日本を含む世界の株式市場は「暴落」しました。
 さらに、ユーロ安・ポンド安・ドル安が進み、比較的安全とされる円が買われ、一時、1ドル99円台にまで円高が進みました。

 このため、アベノミクスが目指していた「円安誘導、株高」とは真逆の、「円高・株安」の方向に世界の市場は動いています。
  この辺の経済の話や、「イギリス」という国の紹介は、回を改めて紹介したいと思っています。

 今回は、世界的にショックな事件を、視点を変えた笑いにして 「イギリスのEU離脱の影響」を、「風が吹けば桶屋(おけや)が儲かる」風に予想してみたいと思います。

<イギリス通貨・ポンド>

 


 先に、私の考えた「ことわざ」を紹介します。

「イギリスでEU離脱の風が吹くと・・・日本から犬が消えます」


  この「ことわざ」の説明の前に、まず、もともとの日本の諺(ことわざ)、「風が吹くと、桶屋(おけや)が儲かる」を紹介します。

 「風が吹くと」のことわざは、江戸時代の浮世草紙「世間学者気質(1768年)」や、有名な十返舎一句の滑稽本「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ 1803年)」に出てくるもので、この2つでは「桶屋」が「箱屋」になっています。

 内容を現代語訳で紹介します。

 「今日の強風で、土ぼこりが立って人の目の中へ入れば、世間に盲人がたくさん出来る。   
 そこで、三味線がよく売れる。そうすると猫の皮が、たくさん必要となるので、世界中の猫が減る。
  そうなれば、鼠(ねずみ)が暴れ出し、箱の類をかじる。
  ここで箱屋をしたら、良いようななものだが、これも元手がなくては出来ない。」
        (無跡山散人著 「世間学者気質」の現代訳)

  簡単にまとめると、「風が吹く」→「ほこりが人の目に入り盲人になる」→「盲人が引く三味線が売れる」→「三味線に使う猫の皮が必要となる」→「世界中の猫が減る」→「ネズミが増えて箱(桶)をかじる」→「箱屋(桶屋)が儲かる」、ということで、ある出来事が一見関係のない事に影響を及ぼすという、たとえ話です。

 「金融緩和で円安・インフレが進むと、国民が幸せになる。」というアベノミクスも、ちょっとこの理論に似ていると思うのは、私だけでしょうか?



<江戸時代の桶屋>




 前置きが長くなりましたが、本題に戻り、説明します。
 
(1) 「イギリスでEU離脱の風が吹くと、円高になります。」
  これは、2016年6月24日にすでに、実際の相場で実証されています。イギリスがEU離脱表明すると、EUの通貨「ユーロ」やイギリスの通貨「ポンド」の信用がさがり、比較的安全な円が買われ、米ドルに対しても円高になりました。

(2) 「円高になると、海外からの来日客が減ります。」
  円高になると、海外から日本への旅行費用が相対的に高くなり、2014年に史上最高の1341万人に達した来日客も、減ってしまいます。

(3) 「来日客が減ると、日本での欧米ポピュラー音楽の人気が低迷します。」
  来日客が減るということは、欧米の人気歌手の来日やコンサートも減り、ビートルズやワン・ダイレクションなど、EU離脱問題発祥の地のイギリスをはじめとする「欧米ポピュラー音楽」の人気が、日本国内で低迷します。
 
(4) 「ボピュラー音楽に替わり、日本の伝統音楽が流行し三味線が売れます。」
  西洋音楽、いわゆるボピュラー音楽の人気が落ちると、日本の伝統音楽が流行し、和楽器、特に三味線が売れます。(ここは、だいぶ無理があるかな?)

(5) 「三味線が売れると、日本から犬が消える?」
     三味線が売れると、三味線の材料となる犬が消えてしまいます。
  ここで、「ちょっと待った。三味線の材料は猫でしょ。」という声が聞こえてきそうですね。

  確かに江戸時代の諺では、「風が吹くと・・・三味線の材料の猫が減る」となっていましたが、実は今の三味線の材料は、犬の方が多く、しかも価格も猫の半分ぐらいなんです。
  ですから、「三味線が売れると、犬が消える」のです。

 以上をまとめると、<新ことわざ>は、「イギリスでEU離脱の風が吹くと・・・日本から犬が消える」ということになります。

<犬の皮の三味線>




 最後にお断りですが、「風が吹くと桶屋が儲かる」のことわざは、もともと、「可能性の低い因果関係を無理矢理つなげてできたこじつけの理論・言いぐさ」とも言われています。

 ということは、当然、「イギリスでEU離脱が吹くと・・・犬がきえる」も、こじつけだと一笑に伏してください。

 ただし、現在の三味線の材料に「犬」が多いのは事実です。
 そのうち、98%の犬皮は輸入もので、残りは保健所で処分した犬の皮を使うそうです。

 1本の三味線を張り替えるのに、犬皮だと2万~3万円ぐらい、猫だと4万~6万円の費用が必要なんだそうです。

 その犬・猫の皮の外国からの輸入も、動物愛護の問題などで、最近では難しくなってきていて、「カンガルー」の皮を使う動きもあるそうです。
 「カンガルー三味線」って、びっくりですね。

 蛇足ですが、「イギリスと犬」といえば、ゴールデン・リトリバーやコリー、ピーグルやブルドッグなど、イギリス原産の犬も多いのですが、「三味線」にはなりそうにありませんねえ。


 <一句>
 三味線と 犬の人気は バチとハチ

 
 

2016年6月20日月曜日

世界一「イチロー選手の名言とプロフィール」~世間の嘲笑を努力で超えた~

 2016(平成28)年6月15日(アメリカ時間)、アメリカ大リーグのアイアミ・マーリンズに所属するイチロー選手が、日米通算4257安打めのヒットを打ち、それまでピート・ローズ選手が持っていた4256安打の最多安打の記録を更新しました。

 もちろん、ピートローズの記録が全部大リーグで記録したのに対し、イチロー選手の記録は日本プロ野球で1278安打、大リーグで2979安打ですから、ハイブリッドであり「正式記録」ではありません。

 それでも、かつて巨人の王貞治選手がホームラン数世界一を記録したように、イチローの安打数も「世界一」と呼んでいい、すばらしい記録だと思います。

 今回は、レジェンド(伝説の男)とも言われるイチロー選手の名言とプロフィールを紹介します。


 まず新記録を樹立した試合後の、イチロー選手の記者会見の一部を紹介します。

「 僕は子供のころから、人に笑われてきたことを、常に達成してきたという自負がある。

 例えば小学生の頃に、毎日、野球を練習して、近所の人から『あいつプロ野球選手になるのか』と言って、いつも笑われていた。
 だけど、悔しい思いもしましたけどプロ野球選手になった。

 何年かやって首位打者をとって、アメリカに行く時に、(アメリカで)首位打者をとってみたいと言って、そんな時も、やっぱり笑われた。
 でも、それも2回達成した。

 常に人に笑われてきた悔しい歴史が、僕の中にはある。」

 日本には、「人(世間)に笑われるからやめろ」という言葉を、子供に言う親がたくさんいます。
 世間並になってほしいという願いですが、それは、子供の可能性をつぶす言葉かも知れませんね。
 でも、イチロー選手は、そんな「世間の嘲笑」を努力で超えてきたんだと思います。

<イチロー展示ルーム 「アイ・ファイン」(愛知県豊山町)>



 イチロー選手は、本名を鈴木一朗(すずき いちろう)といい、1973(昭和48)年10月22日に、愛知県西春日井郡豊山町で生まれました。
 因(ちな)みに、イチロー選手が生まれた1973年10月22日は、甲子園球場で巨人が阪神を破り、セントラルリーグのV9(9年連続優勝)を決めた日です。

 小学校時代に、「少年野球チーム」で野球を始めました。
 小学校3年生の頃からは、近くの「空港バッテイングセンター」に通い、100キロ~120キロの球を打っていたそうです。

 同じころ、このバッテイングセンターには、のちにヤクルトや日本ハムで活躍した1つ年上の稲葉篤紀選手も通っていたそうです。
 稲葉選手といえば、「稲葉ジャンプ」の応援で有名な2000本安打を達成した名選手です。

 日本を代表する2人の名選手が、小学校の頃に、同じバッテイングセンターに通っていたのも、すごいですね。

<写真 空港バッテイングセンター(愛知県豊山町)>



 イチロー選手は、豊山中学校在学中に、「全日本少年軟式野球大会」で3位に入り、その後、野球の名門・愛工大名電高校に進学しました。

 高校時代には、2年生の夏と3年生の春に甲子園に出場しますが、2回とも初戦で敗退しています。

 イチロー選手は、この頃はピッチャーでしたが、自転車通学の途中で車との接触事故に遭い、投手から野手に転向しました。


 1991(平成3)年、高校3年生の時に、プロ野球「オリックス・ブルーウェーブ」にドラフト4位で指名され、1992年、憧れのプロ野球選手になりました。
 因みに、プロ野球1年目のイチロー選手の年俸は、430万円でした。

 イチロー選手は最初からレギュラーではなく、1992(平成4)年のプロ1年目は、1軍出場は僅か40試合でヒットは24本、打率は2割5分3厘でした。

 2年目の1993年は、さらに悪く、43試合に出場し12安打で、打率は1割8分8厘でした。ただし、この年に打ったプロ初ホームランの相手は、後の大リーガー・野茂英雄投手(近鉄)でした。

 イチローほどの名選手が、ドラフト1位でも、1年目も2年目もレギュラーでなかったというのは、「ぼくは天才ではありません。」というイチロー選手の名言を裏付け、努力の人・イチローを証明するものですね。

 1994(平成6)年、この年にオリックスの監督になった仰木彬氏は、イチローの類い稀な打撃センスを見抜き、レギュラーに抜擢します。
 また、この年の4月に、登録名を「鈴木一朗」から「イチロー」に変更しました。

 この年のイチロー選手は、シーズン最多安打記録を、それまでの191本から210本に更新し、日本プロ野球史上初のシーズン200本安打を達成しました。
 さらに、イチロー選手は、首位打者(3割8分5厘)やゴールデングラブ賞などを獲得し、MVP(最優秀選手)にも選ばれ、一躍、有名になりました。

 まさに、イチロー伝説の始まりです。

 その後、日本プロ野球在籍の最後となる2000(平成12)年のシーズンまで、7年連続首位打者を獲得し、9年間の通算安打は1278本、通算打率は3割5分3厘でした。
 2000年の年俸は、5億円とも言われています。


<オリックス時代のイチロー選手のサイン色紙>





 2000年のオフシーズンに、ポスティングシステムで「大リーグ シアトル・マリナーズ」への移籍を発表しました。
 この時の記者会見でイチロー選手が言ったのが、「大リーグでも首位打者になりたい」という言葉でした。

 当時の日米の打力差(今も、あまり変わりませんが)から考えると、「イチローが大リーグの首位打者。まさか、日本人の打者は成功しない。」と、多くの人が失笑していました。


 ところが、2001(平成13)年の大リーグのシーズンが始まってみると、イチローは新人としては大リーグ最多記録の242安打をマークし、打率3割5分0厘で、いきなり「首位打者」を獲得します。

 その後、2004(平成16)年には、262本のメジャーの最多安打記録を樹立し2度目の首位打者になるなど、2010年まで、10年連続200安打以上をマークしました。

 イチロー選手の安打数は、2016年6月18日現在で、大リーグで2980本を記録し、日本プロ野球で記録した1278本を加えると、合計4258本で、「世界一」となります。


 イチロー選手の大リーグ生活が、ずっと順調だったかというと、そうではありません。
 チームの成績が悪い時には、「自分だけヒットを打って、記録だけを追い求める身勝手な選手」とか、「単打だけを打つモスキート(蚊)だ」などと、同僚選手から批判を受けました。

 また、2012年の途中から、「ニューヨーク・ヤンキース」に移籍し、さらに2015年からは「マイアミ・マーリンズ」に移籍して、レギュラーの獲れない苦しいシーズンを送っています。

 それでも、控え選手の経験や「嘲笑に負けない心」を持った逆境に強いイチロー選手は、努力を積み重ねていきました。

 42歳となった2016年のイチロー選手も、少ない出場機会の中でヒットを積み重ね、世界記録を達成し、大リーグでも30人足らずしか達成していない3000本安打に、あと20本と迫っています。

 人間関係に悩んだイチロー選手は、最初に紹介した「世界新記録の記者会見」で、「今は、最高のチームメイトといられて幸せだ」と話しています。

<イチロー選手のメジャー9年連続200安打を記念した切手>






 このイチロー選手を支える家族は、奥さんの元TBSアナウンサーの福島弓子(1965年島根県生まれ)と、柴犬の「一弓(いっきゅう)」で、子供は残念ながらいらっしゃいません。

 犬の「一弓」という名前は、一朗の「一」と、弓子の「弓」を合わせたものだそうです。
 愛妻と愛犬が、イチロー選手の外国生活を支えているのですね。

 名前といえば、「一朗」という名も、イチロー選手は二人兄弟の次男ですが、祖父の銀一さんから「一」をもらい、「一朗」とつけられたそうです。

 銀一さんは、孫たち全員に自分の名前の一字をつけ、グラフィック・デザイナーをしているイチロー選手のお兄さんの名前も「鈴木一泰」さんです。


 もう一つ、イチロー選手のすごいところは、「ケガをしない」ことです。
 
 イチロー選手の語録にも、『準備というのは言い訳の材料となり得る物を排除していく、 そのために考え得る全ての事をこなしていく。』という言葉があり、ケガをしないように、入念な準備体操と、毎日、同じルーティーンを繰り返しているそうです。

 また、「スパイクの時は、転びやすい階段よりスロープを使う」とか、「ヘッドスライディングは、出来るだけしない」など、健康には人一倍、気をつかっているそうです。

 「最低でも50歳まで野球をやりたい。」とイチロー選手の言葉も、笑えない根拠と努力に裏付けられた言葉のようですね。
 
<メジャー球場で配られたイチロー選手のカウントダウン人形>

 
 



 最後は、イチロー選手と黒田博樹投手の友情についてです。

 イチロー選手と黒田投手は、ニューヨーク・ヤンキース時代にチームメイトとして、2年半プレーしました。
 ヤンキース時代には、一緒に食事に行き、黒田投手が、2015年に「20億を蹴って広島カープに復帰」することになった際にも、真っ先にイチロー選手に報告したそうです。

 黒田博樹投手は、イチロー選手について、こう語っています。

 「2年半、一緒にプレーさせてもらいましたが、一番印象に残っているのはイチローさんの強さでした。体もそうですけど、精神的な強さです。

 イチローさんがいたから僕も多少なりとも強くなれたのかなと思います。
 イチローさんなしでは、ヤンキースでローテーションを守ることはできなかったと思っています。
 この期間は、僕の野球人生の財産です」


 「世間の常識という嘲笑」に負けず、イチロー選手にも黒田投手にも、1年でも長くプレーして、伝説を残していってほしいと思います。

 まだまだ、2人とも「夢の途中」ですね。
 そして、私たちも「常識という嘲笑」を超える人生を、信じて夢を叶えるためにがんばりましょう。


 おしまいに、もう一つ、「イチロー語録」より、紹介します。

「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道です。」(イチロー選手)
 
 

2016年6月13日月曜日

クマ襲撃で4人死亡<秋田県> ~日本の人食い熊伝説とサバイバル法~ 

 秋田県の北東部、青森県との県境近くの鹿角市(かづのし)の山林で、ツキノワグマの被害が相次いでいます。
 2016(平成28)年5月に、タケノコや山菜取りに行った高瀬佐市さん(79歳)、高橋昇さん(78歳)、高谷善孝さん(65歳)の男性3人が、次々にクマに襲われ死亡しました。

 さらに、6月10日には、初めて女性の被害者・鈴木ツワさん(74歳)が、タケノコとりに行った山中でクマに襲われ死亡しました。
 これで、1ヵ月足らずの間に、合計4人もの死者が出ています。

 また、6月11日には、岐阜県飛騨市で観光客がクマに襲われてケガをするなど、全国各地でクマの被害が相次いでいます。

 特に秋田県の事件では、死体は熊に「かじられて」損傷が激しく、「人食い熊」が出現した可能性が濃厚です。

 「アメリカ大陸にいるグリズリーならともかく、日本のクマが人を食べるなんて、本当にあるの?」

 そう思われた方も多いと思いますが、実は日本でも「凄惨な人食い熊」の事件がいくつも伝わっています。
 今回は、ちょっと怖いですが、そんな事件の中から代表的なものを紹介し、クマへの対処法も紹介します。


<写真 本州・四国に生存するツキノワグマ>




  まず最初は、今から100年以上前の1915(大正4)年に、北海道東北部の、北海道苫前郡苫前町(旧:苫前村)で起こった「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」です。

 1915年11月30日、池田富蔵さんをはじめ、マタギ(熊打ち猟師)など4人が、自宅の馬を狙った巨大なヒグマを駆除しようと発砲しますが、傷を負わせて取り逃がしてしまいます。
 結果的に「手負いの熊」が、山林を彷徨(さまよ)うことになりました。

 それから9日後の12月9日の朝、三毛別川上流にある太田家に、巨大グマが侵入します。
 その時、主人の太田三郎さんら成人男性は留守でした。
 家に残っていた三郎さんの内縁の妻の阿部 マユ(34歳)さんと太田家に預けられていた少年・蓮見幹雄(6歳)ちゃんの2人が、巨大グマに襲われ、幹雄ちゃんは死亡し、マユさんはクマに山林に引きずり込まれ行方不明になりました。

 翌12月10日には、明景家に親子で避難していた斉藤タケさん(34歳)とお腹の胎児、タケさんの三男の斉藤巌ちゃん(6歳)、四男の春義ちゃん(3歳)の4人と、明景金蔵ちゃん(3歳)の5人が、急襲したクマに殺害されました。

 住民や応援の猟師などの必死のクマ狩りの結果、12月14日、ついに7人を殺害した巨大クマは銃殺されました。
 ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、腹の中からは阿部マユさんの下着はもちろん、他の地域で行方不明になっていた複数の女性の衣服も見つかったと伝えられています。

<写真 三毛別事件の現地での復元模型>
 (実際のクマがでることがありますとの注意書きがあります。 《恐い》)




  「三毛別事件」は100年以上前の出来事ですが、今から45年前の1970(昭和45)年7月にも、福岡大学のワンダーフォーゲル部の5人が北海道日高山脈の「カムイエクウチカウシ山(1979m)」付近でヒグマに襲われ、うち3人が死亡する「福岡大学ワンゲル部ヒグマ襲撃事件」が起こっています。

 この事件は、福岡大学ワンゲル部の5人が、7月25日から27日まで1頭のヒグマに執拗に付きまとわれて、そのうち、竹末一敏さん(20歳)、興梠盛男さん(19歳)、河原吉孝さん(18歳)の3人が犠牲になりました。

 襲ったクマは4歳のヒグマで、7月29日にハンターに射殺されました。
 このクマは、人間を捕食していなかったので、いったん自分が漁って自分のものと意識した「荷物」を持ち出した学生たちを、怒って追い掛け、殺害したものとも言われています。

 ちなみに、学生たちがクマに出会った「カムイエクウチカウシ山」とは、アイヌ語で「クマが転げ落ちるほど険しい峰」という意味です。

 これら2つの事件は、いずれも北海道に生息する「ヒグマ」が北海道内で起こした事件で、それよりひと回り小さい本州・四国に自生(九州は絶滅)するツキノワグマが人間を殺害するのは珍しいと言われています。
 
 もし秋田県鹿角市で4人を殺したのが同じクマだとしたら、「ツキノワグマが起こした史上最悪の殺害事件」だと言えるのではないかと思います。


<地図 「平成の人食い熊事件」が起きた秋田県鹿角市>






 それでは、クマの被害にあわないためには、どうすればよいのでしょうか?
 専門家のアドバイスを紹介します。

(1) 出会わないことが一番大切

 基本的にツキノワグマは、木の実などを食べる臆病な生き物ですが、人間にとって「安全な生き物」でないというのも事実です。
 ですから、何より「出会わない努力」が大切で、「クマ出没注意」の看板などがあるクマの生息地へは入らないことが一番です。


(2) 音を出して、こちらの存在を知らせる

  どうしても、クマと遭遇する可能性のある場所に入る時には、なるべく多い人数で行動し、鈴や笛などの音が出るものを鳴らすなど、「遠くのクマにこちらの存在をわからせる」ことが大切です。

  定期的に、棒で木を叩きながら進むのも効果的です。
 そうすればクマのほうから、距離をとって離れていきます。

 ただし、ラジオは、クマの気配に気付けなくなるためかえって危険です。こちらがいつでも音を出せて、いつでも静かにまわりを伺えるということが、遭遇リスクを下げます。


(3) 遭遇したら、視線をそらさずゆっくり後退(走って逃げたり死んだふりは厳禁)

 万一遭遇してしまった場合、まずは「落ち着くこと」です。
 距離が何十メートルも離れている場合は、ツキノワグマから「視線をそらさずに、ゆっくり後ずさり」して距離をとります。

 クマは、「背を向けて逃げる獲物を追いかける習性」がありますので、うかつに背を向けて逃げたりすればほぼ間違いなく追いかけられます。
 ちなみに、ツキノワグマの走る速度は50km/h以上で車並みですので、間違いなく追いつかれて、背中から襲われますので、背を向けて逃げるのは厳禁です。

 また、クマは死んだ動物も食べるので、童話にある「死んだふり作戦」も危険です。それから「火」も恐れませんし、「木登り」も苦手ではありません。



(4) 武器の準備

 ゆっくりと後ずさりしつつ、威嚇的な行動をせずに武器の準備をします。
 クマ対策の「唐辛子スプレー」などを持っているなら準備をし、なければ固くてリーチのある、武器になりそうなもの、たとえば「木の枝」などを用意します。
 何も見つからなければ、そのへんの石でもないよりはマシです。

 ただし、距離をとって逃げ切るのが良策で、武器の用意はあくまで最悪の手段への備えです。


(5) 最終手段は「鼻先一点」を狙って戦う!

 うまく逃げ切れたときはいいのですが、相手が人食いクマなどで、こちらに積極的に近づいてきてしまったり、曲がり角などで、バッタリ出会ってしまったりして、数メートルしか距離がない場合は、覚悟を決めて戦いましょう。

 「そんなバカな」と思うかもしれませんが、この状況になった場合に、一番生存率が高いのは戦うことです。
 走って逃げ切るのは不可能ですし、死んだふりも通用しません。
 この状況になって、無事に生還した人のほとんどは戦っています。

 ただし、身体能力では人間はクマに絶対に勝てませんので、狙うのは「倒すこと」でなく、「戦意喪失させて逃げてもらうこと」になります。それで、狙いは「急所の鼻先」一点です。
 
 撃退スプレー、ナタ、杖の類のような持っていれば先制攻撃できますが、武器が見つからない場合には、落ちている石やカギの刃が拳から出るように握り込んだりして、鼻先を狙います。
 とにかく「鼻先に攻撃」を叩き込めれば、命を落とさずにすむかも知れません。


(6) 最後まで抵抗する!

 クマに覆いかぶされたり噛み付かれたりしてした場合でも、「とにかく抵抗」してください。じっとガードしていても、殺されるのを待つのみです。

 ロシアでは、18歳の女性が、ロシアのツキノワグマに噛みつかれながら「ママ、助けて。今、クマに食べられているの。」と携帯電話で数分間話したそうですが、彼女は最後には食べられて絶命しました。

 とにかく手や足が動くなら、ツキノワグマの目や鼻がある位置をめがけて、パンチやキックを全力で出し続けてください。一発でも入れば相手はビックリして逃げていく可能性があります。
 最後まで、追い払える可能性だけは放棄しないことが重要です。

<写真 クマに注意を呼びかける看板 (秋田県鹿野市の現場付近)>




 秋田県の人食い熊は、遠い昔の話ではなく、平成28年の現実の出来事です。

 猟友会が、近くで1頭のクマを射殺したそうですが、それが「人食い熊」かどうかはわかっていませんし、もしかしたら複数いるのかも知れません。
 安全が確認されるまで、ともかく「クマ出没注意」の場所へは、近づかないのが1番です。

 特に、今年は例年にない猛暑が予想され、動物たちも異常な行動をする可能性があります。
 秋田県や北海道の方はもちろん、他の地域の方もクマや毒ヘビ(まむし、ハブ)、スズメバチなど、日本の野山にも命の危険がある動物や虫がいることを前提に、注意してください。


<写真 シバ犬 >




 最後に、いい話(実話)を一つ。

 今回話題の秋田県の大館市で、2015(平成27)年7月の夕方、河川敷に、80歳のおじいちゃんと5歳の男の子が、シバ犬を連れて、軽トラで散歩に出かけました。

  男の子は、到着後すぐに車のドアを開けて土手を下りていきました。
  おじいちゃんが、リードを外し終わると、シバ犬も男の子を追って一直線に土手を下りました。

 すぐに、シバ犬の「普段は聞いたことのないような」大きな鳴き声が聞こえてきたので、おじいちゃんはあわてて下りていくと、男の子が泣きながら戻ってきました。


 川の方に目を向けると、クマが山の方向へ逃げていく姿が見えました。
 男の子の服は破れ、背中やお尻などにはひっかき傷があった。

 泣きながら、男の子が言いました。
「わーん、おじいちゃん。熊が出て怖かったけど、ワンちゃんが大声で吠えて熊を追い返して、助けてくれたんだよ。」
 
 男の子の後ろでは、泥だらけになったシバ犬が、嬉しそうにしっぽを振っていました。 
 
 

2016年6月9日木曜日

巨大地震の歴史と前後の出来事(5)関東大震災~史上最悪の災害と「夕焼け小焼け」~

 これまで4回に渡って、日本で起こった「南海トラフを震源とする大地震」を中心に、その前後で何が起こったのかを、紹介してきました。
 
 記録に残る9つの「南海トラフを震源とする大地震」も、あと1回、最も近くに起こった「昭和東南海地震」と「昭和南海地震」だけとなりました。

 その話をする前に、江戸末期の「安政大地震」と「昭和の2大地震」の間に起こった日本史上最大の被害を出した「関東大震災」を、今回は紹介したいと思います。

<写真 関東大震災で大破した凌雲閣(浅草十二階)>

 
 


 「関東大震災」(あるいは「大正関東大震災」)は、1923(大正12)年9月1日に、東京都(当時は東京府)と神奈川県を中心に発生した大地震と、それに続く大火災が原因で起こった災害です。

 本震が発生したのは、9月1日の午前11時58分頃で、関東地方南部(相模湾という説が有力)を震源とした、マグニチュード(M)7.9の大地震です。

 東京都と神奈川を中心に、関東の広い範囲で被害が発生し、その犠牲者は10万5000人と、日本の災害史上最悪です。

 振動による建物崩壊、液状化、がけ崩れ、津波などでも多くの犠牲者が出ましたが、この関東大震災の被害を拡大させたのは、なんと言っても「火災」でした。

 地震の発生がちょうどお昼で、食事の支度のために使っていた火などから、判明しているだけで136件の火災が発生し、折からの強風で東京・神奈川の広い範囲が炎に包まれました。

 東京の「中央気象台(現在の気象庁)」の気温は、9月2日の未明には46.4度を記録し、その後、建物自体が焼失しています。

 関東大震災の全体の犠牲者10万5385人のうち、87%の9万1781人が火災による犠牲者でした。

 また、この震災時には、治安の悪化が混乱に拍車をかけました。

  混乱に乗じて軍が社会主義者や自由主義者を逮捕・処刑したり、「朝鮮人」による凶悪犯罪、暴動などの噂が広まって民衆(自警団など)、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が多数発生しました。その犠牲者は数千人とも言われいます。

 火災とデマ、そして治安悪化は、関東大震災の「貴重な教訓」だと思います。

<関東大震災の被災地域>




 ここからは関東大震災の前後の出来事(災害)を、紹介します。

 まず、関東大震災(1923年9月)の2年前の1921(大正10)年12月8日に、茨城県と千葉県の県境付近で、M7.0の「龍ケ崎地震」が発生しています。

 続いて、震災前年の1922(大正11)年には、4月26日に神奈川県三浦半島と千葉県房総半島の間でM6.8の「浦賀水道地震」が発生し、2人の死者が出ています。

 同じ1922年12月8日には、九州・長崎県でM6.9の「島原地震」が発生し、死者26人が出ています。

 関東大震災が起こった1923(大正12)年に入ると、6月2日に茨城県沖でM7.1の地震が発生し、千葉県銚子市で震度4を記録しています。

 さらに7月13日には、九州南東沖でM7.3の地震が発生し、宮崎市と鹿児島市で震度4を記録しています。

 こう見てくると、直前に地震が起きたのは、関東周辺と「九州」ということになります。
 やっぱり熊本地震が気になりますね。


 この時期、日本国内では、マグニチュード8級の巨大地震は起きていません。
 ところが、世界的に見ると、事態は一変します。

 関東大震災の3年前の1920年12月16日、中国でM8.5の「海原地震」が発生し24万人が死亡しています。
 また、1922年11月11日には、南米チリでM8.5の地震が発生し、1000人の死者が出ています。
 さらに、関東大震災の発生した1923年2月3日にも、M8.5の地震がロシアで発生しています。
  つまり、世界的に見ると、マグニチュード8.5の地震が、中国、チリ、ロシアで立て続けに発生し、その後、日本で関東大震災が起こったということになります。


 では、関東大震災後の出来事を紹介します。

 まず地震(死者がでたもの)では、震災の翌年の1924(大正13)年に1月15日に、山梨県甲府市で震度6を記録する「丹沢地震」(M7.3)が発生し、死者19人が出ています。(関東大震災の余震と推定)

 続いて、1925(大正14)年5月23日には、兵庫県豊岡市で震度6を記録する「北但馬地震」(M6.8)が発生し、死者428人を出しています。

 さらに、1927(昭和2)年3月7日には、京都府宮津市と兵庫県豊岡市で震度6を記録する「北丹後地震」(M7.3)が発生し、2925人が亡くなっています。

 こう見ると、関東大震災の後は、内陸直下型地震が相次いでいますね。

<関東大震災直後の東京・上野駅付近>



 おしまいに、関東大震災で被災した有名人と、震災が出てくる作品、そして震災後の影響を紹介します。
 
  東京で発生した大震災には、多くの有名人も被災しています。
 例えば、本郷(現在の東京都文京区)で被災した後のノーベル賞作家・川端康成は、芥川龍之介らとともに、「水とビスケット」を持って被災地を見てまわり、数千人の死体を見た」と語っています。

 また、童謡「かなりあ♪」や、歌謡曲の「東京音頭」、「青い山脈」、「王将」などを作詞した詩人の西條八十(さいじょう やそ 1892年~1970年 東京都新宿区生れ)さんも、21歳の時に関東大震災で被災し、上野公園に避難しました。

  その夜、一人の少年がハーモニカを取り出し、美しいメロディを演奏して避難者の心に癒しを与えました。
 このことに感動し、「大衆文化も人に感動を与えられるんだ」と気づいた西條八十さんは、のちに「歌謡曲」の名作を作詞したそうです。

 関東大震災のようすは、テレビドラマや映画などの作品にも出てきます。

 NHKの朝の連続テレビ小説の名作「おはなさはん」や「おしん」、最近の「花子とアン」、「ごちそうさん」などにも登場します。

 映画でも、「帝都物語」(1988年)や「風立ちぬ」(2013年、原作者の堀辰雄も被災)など、多くの作品に描かれています。

 また、関東大震災直後は、東京から首都を、兵庫県加古川市や東京都八王子市、さらには現在の韓国(当時は日本が統治)のソウル近郊に移す案が検討されました。
 もしかしたら、日本の首都は「東京」でなくなっていたかも知れなかったのですね。
 
 因(ちな)みに、この震災の直後は東京から関西への人口流失が続き、大阪が合併したこともあって、震災後、一時的に、大阪が東京を抜いて人口第1位になったほどでした。


 関東大震災で東京の60%の家屋が焼失し、「江戸から続く東京」を一時的に崩壊させました。 
 しかし、その後、区画整理や道路幅の拡大などの近代都市化が進みました。

 また、「流言飛語」で治安が大混乱した教訓から「ラジオ」が普及し、情報共有するシステムができます。

 「震災から復興する日本人の底力」を見るようで、頼もしいですね。

 一方で、震災不況に始まり昭和恐慌(世界恐慌)へつながる経済悪化と、ラジオの普及による政府・軍部の「国民の扇動手段」の悪用が、第二次世界大戦へと日本を向かわせる遠因にもなったと思うと、複雑ですね。

<夕焼け小焼け号 (東京都八王子市)> 



 最後に、日本を代表する童謡「夕焼け小焼け」と関東大震災の話を、紹介します。

 「夕焼け小焼け」が童謡として発表さたのは、1923(大正12)年7月31日、つまり、関東大震災の1ヵ月前でした。
 当時は、ピアノを買ってくれた人への「プレゼント楽譜」として掲載されましたが、関東大震災でほとんどが焼けて、残ったのはわずか13部でした。

 この13部の一つを、作詞者中村雨紅の義妹で教員をしていた梅子が、小学校で震災で傷ついた子供たちの心を慰めるために教え、やがて広がっていきました。

 最初、「夕焼け小焼け」は、関東大震災の火災(夕焼け)や、死者のこと(山もお寺の鐘、からす)を予言した歌だとも噂されました。
 
でも100年近くたった今は、最も歌われる童謡(金の星)となって、日本中で歌いつがれています。


<童謡>

♪「夕焼け小焼け」♪ (作詞:中村雨虹、作曲:草川 信  1923年発表)

1 夕やけこやけで 日が暮れて
  山のお寺の 鐘がなる
  お手々つないで みなかえろ
  からすといっしょに かえりましょ


2 子供がかえった あとからは
  まあるい大きな お月さま
  小鳥が夢を 見るころは
  空にはきらきら 金の星


  
 

2016年6月5日日曜日

佐々木禎子の折り鶴と原爆の子像 ~広島に息づく白血病治療~

 2016(平成28)年5月に、アメリカのオバマ大統領が広島平和公園の「原爆資料館(平和記念資料館)」を訪問したとき、自ら折った折り鶴を4羽持参しました。
 
 出迎えた子供たちに2羽を渡し、残りの2羽を資料館に寄贈しました。
 そのとき、オバマ大統領は、「これは、禎子さんの折り鶴をお手本に、私が自分で折りました。」と話しました。
 
 今回は、オバマ大統領がお手本にした「佐々木禎子さんと折り鶴」の話を紹介します。


<写真 佐々木禎子さんの折った鶴 (広島原爆資料館)>

 




 佐々木禎子(ささきさだこ)さんは、太平洋戦争中の1943(昭和18)年1月7日に、広島県広島市で生まれました。

 1945(昭和20)年8月6日、禎子さんが2歳のときに、広島市に投下された「世界初の原子爆弾」によって、爆心地から1.7kmの自宅にいた禎子さんは被爆しました。

 禎子さんは、9歳までは元気に育ち、1954(昭和29)年10月の小学校の秋の運動会では、チームを1位に導く活躍をしました、

 ところが、その年の11月頃に首のまわりにシコリができはじめ、翌年1955(昭和30)年2月に「白血病」と診断され、「広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)」に入院しました。
 
 「余命は長くて1年」と言われた禎子さんですが、「折り紙で千羽鶴を折れば元気になる」という院内の迷信を信じて、病室で毎日、鶴を折りはじめました。

 当時、折り紙は高価だったので、禎子さんの鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折りました。
 その年の8月下旬には、禎子さんの折った鶴は、目標の1000羽を超えました。
 それでも病状は回復しなかったので、禎子さんは「もう1000羽折るわ。」と言って、今度は小さい折り鶴を折り始めました。

 禎子さんの折った折り鶴の数は1500羽とも2000羽ともいわれていますが、病状が回復することはなく1955年10月25日に「急性リンパ性白血病」で死亡しました。

<写真 佐々木禎子さん>



 佐々木禎子さんの葬儀で、彼女が折った鶴は遺品として、2、3羽ずつ参列者に配られました。
 さらに、折り鶴のうち1羽は、禎子さんの母校の「広島市立幟町(のぼりちょう)小学校」に寄贈されました。

 禎子さんの折り鶴を見た幟町小学校の同級生()たちは、広島平和公園に「原爆の子の銅像」()()を作ろうという運動をはじめます。
 子供たちの訴えは()、思いがけない反響を()まきおこし、全国3000校をこえる学校から「像の 建設()に役立ててください」という手紙と募金が送られてきました。
 そして、1958(昭和32)年5月5日、禎子さんが亡くなって3年後の「子供の日」に、広島平和記念公園の中に、佐々木禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」を建てられました。
 そして像の前の石には、こう刻まれました。

 「これはぼくらの(さけ)びです これは(わたし)たちの(いの)りです 世界に平和をきずくための」


<写真 「原爆の子の像」と折り鶴 (広島平和公園) >




 2009(平成21)年夏、60年以上前に禎子さんが亡くなった「広島赤十字病院(広島赤十字・原爆病院)」に、小学校教師をしていた私の同級生が、「白血病」で入院し治療を受けました。

 白血病の診断を受けた彼が、「広島赤十字・原爆病院」を選んだのは、被爆地・広島のこの病院が、原爆投下による被爆者治療で培った医療技術で、国内トップクラスの治療施設だったからでした。

 その同級生は、「骨髄移植手術」をした2010年4月、残念ながら治療のかいもなく、この病院で亡くなりました。

 それでも、広島の白血病・放射線医療の水準が、日本のトップクラスであることと、広島平和公園に、今も「平和を願いと犠牲者の鎮魂を祈る」無数の折り鶴が、毎日のように供えられていることは確かです。

 佐々木禎子さんの折り鶴は、「広島原爆資料館」にもずっと飾られていて、オバマ米国大統領もそれを手本に、折り鶴を折りました。 
 そして2016年5月27日、アメリカ大統領バラク・オバマさんが折った折り鶴も、原爆資料館に寄贈されました。

<オバマ・アメリカ大統領が折った折り鶴>



<一句>
  広島の 空から世界へ 折鶴(つる)よ 飛べ

  

2016年6月3日金曜日

「ヒロシマ」を世界史に刻んだオバマ演説と「折り鶴」

 2016(平成28)年5月27日、アメリカの現職大統領として初めてバラク・オバマ大統領が、被爆地・広島を訪問し、歴史に残る演説をしました。
 今回は、その演説の一部を紹介します。

  オバマ大統領の演説は、3つの重要な内容を含んでいると思います。
  まず、1つ目は「広島が世界史に刻まれた」という事実です。

 オバマ演説の冒頭の部分を紹介します。

<英語>
71 years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.
 
<和訳>
71年前、雲一つない晴れた朝に、空から死が降ってきて世界は変わりました。
閃光が広がり、火の玉がこの町を破壊しました。
この時、人類は自分自身を破壊する手段を手に入れたのです。


 1945(昭和20)年8月6日に、世界で初めての原子爆弾が広島に落とされてから、71年が過ぎ、やっと、原爆を投下した国、アメリカの現職大統領が「HIROSHIMA」を訪問しました。
 
 それは第2次世界大戦で、敵国同士だった日米両国が友好国として、しっかりとした関係を築いたことを意味するとともに、両国の「善悪や恩讐」を超えて、「広島・長崎で世界初の原子爆弾が投下され、多くの犠牲者が出た事実」が、世界史に刻まれた瞬間でした。

 歴史というのは、「主な当事者がこの世を去ったあと、つまり100年前後経って、初めて公平な歴史になる。」と、司馬遼太郎さんは言っています。

 例えば、西暦1600年、約400年前の「関ケ原の合戦」が、東軍と西軍のどちらが正義かではなく、「日本の歴史上の出来事」として、歴史教科書で語られているように、「広島・長崎への原爆投下」も、当事者国同士の恩讐を超えて、悲惨な世界史上の「忘れてはならない出来事」になった瞬間が、今回のオバマ大統領の広島演説だったと思います。

 その象徴が、オバマ米国大統領が被爆者が、「未来のことを考えましょう」で抱き合ったシーンでした。

 そのことをオバマ大統領は、こう表現しています。

<英語>
Some day the voices of the Hibakusha will no longer be with us to bear witness. But the memory of the morning of August 6, 1945 must never fade. That memory allows us to fight complacency. It fuels our moral imagination, it allows us to change.

<和訳>
 いつの日か、被爆者の声も消えていくことになるでしょう。しかし「1945年8月6日の苦しみ」というものは、決して消えるものではありません。
 その記憶に拠って、私たちは慢心と戦わなければなりません。私たちの道徳的な想像力をかきたてるものとなるでしょう。そして、私たちに変化を促すものとなります。

<写真: 抱き合うオバマ大統領と原爆被爆者>



 2つ目に、オバマ演説で重要なのは、「戦争」についての歴史認識です。
 
 オバマ大統領は、「どの大陸においても、どの歴史においても、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。」(<英語>On every continent the history of civilization is filled with war.)
と述べ、さらにこう言っています。

「 富や、民族主義や、宗教的な理由から、悲惨な戦争が起こってきました。
  それぞれの歴史の転換点において、罪のない多くの人たちが犠牲になりました。その犠牲となった人たちの名前は、時が経つと忘れられました。それが人類の歴史です。」



 「文明の歴史は戦争に満ちている」というのは、悲しい「人類の歴史の事実」だと思います。
 それを確認した上で、それでも「これからの歴史は、広島の教訓から変えられる」と、オバマ大統領は語り、さらに、こうも言っています。

<和訳>
「 アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を追求する権利です。
 しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。
 それでも、その物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。


 これは、民主主義の国「アメリカ」の根本の原理です。
 アメリカの民主主義は、1人1人の「生命の自由、幸福を追求する権利」を守ることからスタートし、今もそれが最重要であると語っています。
 
 ともすれば、「国のため、宗教のために死ね」という全体主義になりがちなのが歴史で、そこから戦争の多くが始まっています。(例えば、戦前日本の「1億玉砕、火の玉だ」などはその典型です。)


 でも、アメリカ、イギリス、フランスなどの近代民主主事国家の根本原理には、「1人1人の個人の生命・自由を大切にすること」があります。

 その思想は、「日本国憲法」にも受け継がれています。

<写真 オバマ大統領の献花と演説があった広島平和公園>


 


 オバマ演説の核心は、次の言葉です。

<英語>
Among those nations like my own that hold nuclear stockpiles, we must have the courage to escape the logic of fear and pursue a world without them. We may not realize this goal in my lifetime, but persistent effort can roll back the possibility of catastrophe.

<和訳>
我が国を含む核保有国は、(他国から攻撃を受けるから核を持たなければいけないという)「恐怖の論理」から逃れる勇気を持つべきです。
私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。

 恐怖からの「勇気」をもつことを、大統領は強調しました。
 そして、オバマ大統領の演説は、「広島・長崎の平和に学ぶ」という内容で締めくくられています。

<英語>
The world was forever changed here, but today the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting and then extending to every child.
That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.

<和訳>
 世界はここ(広島)で、一変しました。
 しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。
 この平和な平和は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。
 私たちが選択すべき未来は、「核戦争の夜明け」ではなく、私たちのモラルの目覚めであることを、広島と長崎が教えてくれています。


 オバマ大統領が語った、広島と長崎にある平和の意味は、すごく重要で大切なことだと思います。
 オバマ大統領は「プラハ演説」で、2009年に「ノーベル平和賞」を受賞していますが、広島と長崎の街が71年かけて築いてきた「平和」こそが、「ノーベル平和賞」かそれ以上に値するものだと思います。

 
<「原爆の子像」と折り鶴 (平和公園)>


 アメリカ合衆国の現職大統領のオバマ氏が、「被爆地・広島」を訪問することが、どれほど勇気がいることだったかは、日本の総理大臣が「宣戦布告前の日本軍の攻撃で数千人の犠牲者を出したハワイのパールハーバー」で演説をすることをイメージすれば、想像できます。

 様々な内外の批判を覚悟で、広島を訪問されたオバマ大統領の「勇気」に、拍手と尊敬の気持ちを贈りたいと思います。

 オバマ大統領は、この広島演説の直前、自分で折った「4羽の折り鶴」をもって、平和資料館を訪れました。
 「(原爆の像のモデルになった)佐々木偵子さんの折り鶴を参考に折りました。」と言って、大統領は、そのうちの2羽を出迎えた子供たちに渡し、残りの2羽を「原爆資料館」に寄贈しました。

 次回は、「佐々木偵子さんと折り鶴」の話を紹介したいと思います。


<自作短歌>

 ヒロシマの 平和の祈りを 鶴に込め 「勇気」語った 大統領