今回は、熊本地震の復興を願って、ニュースな場所「熊本県」を紹介します。
後半では「熊本ソング」の代表、わらべ歌の「あんたがたどこさ♪」を紹介したいと思います。
まず、熊本県の人口は、1,786,969人で47都道府県の23番目で、ほぼ真ん中です。(2015年国勢調査)九州8県の中では、福岡県についで2番目に多い県です。
一方、面積は7409㎢で、全国15位、九州では鹿児島県、宮崎県についで3番目の大きさです。
九州本島の中央部に位置し、熊本県は大きく言うと、
・荒尾市や阿蘇市など6市10町3村からなる「県北」、
・県都「熊本市」を中心に、3市6町からなる「県央」、
・八代市や天草市など5市9町3村からなる「県南」
の3地域に分けられます。
ちなみに、熊本県では、「県北」「県央」「県南」「天草」の4つの地域振興局広域本部を設置しています。
<熊本県>
熊本県は全国有数の農業県で、平成20(2008)年の農業産出額で、全国7位(九州3位)です。
品目別では、トマト・い草(畳の原材料)・葉たばこ・宿根カスミソウ・スイカが全国1位です。
熊本県に本社がある有名企業としては、日本で初めて救急絆創膏を製品化・販売をした「リバテープ製薬」(熊本市)や、中高年女性の強い味方・ドムホルンリンクルなどの化粧品メーカー「再春館製薬所」(益城町)などが有名です。
熊本県の歴史を見てみると、ほぼ「肥後(ひご)の国」に重なり、古くは「火の国」または「肥の国」と呼ばれていました。
南北朝時代から戦国時代にかけては群雄割拠していましたが、1587(天正15)年に豊臣秀吉の九州征伐により、佐々成政が肥後の国の国主になりました。
しかし、佐々成政は太閤検地に反対する一揆を鎮圧できず、秀吉から切腹を命じられます。
その後、秀吉は北半分を「虎退治で有名な加藤清正」に、南半分を小西行長に分け与えました。
1600年の関ヶ原の戦いで、西軍の味方した小西行長が敗れ滅亡すると、東軍についた加藤清正が、その領地を併せ52万石の領主となりました。
清正は、それまでの「隈本」を「熊本」に改め、名城「熊本城」を築きました。
ところが、1632(寛永9)年に肥後熊本藩の加藤氏が改易され、そのあとに、細川忠利が熊本54万石の領主となります。
細川氏の治世は、幕末まで続きます。ちなみに、熊本県知事をして、その後、1993年に総理大臣になった細川護熙氏は、細川氏の子孫にあたります。
1637(寛永14)年の「島原の乱」の後は、天草は天領(徳川幕府の直轄地)となります。
明治維新後、1871(明治4)年、肥後国は「熊本県」と「八代県」になりました、
熊本県は、その後「白川県」と改められ、1873(明治6)年、白川県と八代県が合併して白川県となり、1876(明治9)年に「熊本県」に改名され、現在に至っています。
1877(明治10)年、熊本の熊本城や田原坂は、西郷隆盛の軍と官軍の激戦地になります。
<西南戦争の激戦地「熊本城」(震災前)>
1900(明治33)年に、大和田建樹によって作詞された『鉄道唱歌』第2集山陽・九州編では、熊本は次のように歌われています。
「♪ 眠る間もなく 熊本の 町に着きたり我汽車は 九州一の大都会 人口5万4千あり♪」
この頃までは、「熊本が九州の中心」で、国道3号(福岡県北九州~熊本市~鹿児島市)や鹿児島本線、さらには、いわゆるナンバースクールの「旧制第5高等学校」(熊本大学の前身)などが熊本におかれ、あの夏目漱石も教鞭をとりました。
現在は、九州一の大都会の座は「福岡県」に譲りましたが、それでも熊本市は、福岡市、北九州市に次ぐ九州第3の都市であり、九州新幹線も通っています。
熊本県といえば、「阿蘇カルデラを持つ阿蘇山」(南北25km、東西18km)が有名ですが、かつて「世界最大のカルデラ」と言われていた阿蘇のカルデラは、その後、もっと大きなカルデラが見つかり、世界最大でなくなったばかりか、日本でも2番めになってしまいました。
ちなみに、現在、世界最大と言われているのは「インドネシアのトバカルデラ(長径約100km、短径約30km)」で、日本一は、「北海道の屈斜路カルデラ(長径約26km、短径約20km)」です。
<阿蘇山>
熊本出身者の有名人(以下敬称略)としては、第23代清浦奎吾(1924年在)と、第79代細川護熙(1993年~1994年在)の2人の内閣総理大臣をはじめ、「ゆりかごのうた」や「この道」などの作詞で知られる北原白秋や、「旅愁」などの作詞をした犬童球渓などの詩人・作詞家を生んでいます。
ほかにも、野球の神様と呼ばれる名選手でV9時代の巨人軍監督の川上哲治や、赤ヘル軍団を優勝させた広島カープの古葉竹識監督、柔道の金メダリスト・山下泰裕などのスポーツ選手もいます。
また芸能界には、内村光良(お笑い)、くりいむシチューの2人(上田晋也、有田哲平)、倉科カナ(女優)、高良健吾(俳優)、水前寺清子(歌手)、石川さゆり(歌手)、森高千里(元アイドル歌手)、スザンヌなどなど、枚挙にいとまがないほど、多くの人材が出ています。
最後は、「熊本ソング」の代表格ともいえる 童(わらべ)歌の「あんたがたどこさ」の話です。
♪
あんたがたどこさ 肥後(ひご)さ
肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ 船場(せんば)さ
船場山には狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ♪
この童歌に出てくる「船場(せんば)」は、現在の熊本城の長塀に沿って流れる「坪井川」のことを船場川と呼んでいたことに由来し、「船場」の地名は、熊本市船場町、船場橋などに残っています。
洗場駅などには、「せんば狸」の銅像も立っています。
また、2016年3月にNHKで放送された「ブラタモリ」では、昔、熊本市新町付近に堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を、「せんば山」と呼んでおり、そこには狸がいたことが紹介されました。
<洗場(せんば)駅のたぬき像(熊本市)>
この「熊本船場」説に、異論を唱えるのが、「埼玉県川越市」説です。
「あんたがどこさ」の歌詞には熊本が出てきますが、「〇〇さ 〇〇さ」というのは熊本弁ではなく、関東弁だとこの説は主張します。
さらに、熊本には「せんば川」はあっても「せんば山」はなく、この歌の「せんば山」は、埼玉県川越市の仙波山のことだと言います。
この仙波山には、江戸幕府開祖で「古狸」と呼ばれた徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ、「仙波東照宮」があります。
歴史を辿ると、幕末から明治にかけての「戊辰戦争(1868年~1869年)」の時に、薩長軍が幕府軍の彰義隊の残党を追って、仙波山に駐屯していた時期があります。
「あんたがたどこさ」は、官軍の兵士が埼玉で、関東の子供たちに、「どこからきたのか」と聞かれて、「熊本さ」と答える様子の歌詞だとすると、話は合うような気がします。
そうすると、「せんば山のたぬき」は、古だぬきと言われた「徳川家康」に象徴される幕府軍で、それを官軍が、鉄砲で撃って、煮て食べたという、物騒な、本当は怖い歌になります。
ちなみに、「あんたがたどこさ」の出来た年も作者も不明ですが、この歌のような「問答歌」は、江戸幕末から明治時代初期に生まれた「手鞠歌(てまりうた)」の形式だとも言われています。
<肥後手毬(ひごてまり)>
「あんたがたどこさ」が、熊本生まれか埼玉うまれかは、わかりませんが、全国の子供たちが、「熊本」という言葉を、何度も何度も歌ったのは、間違いありません。
熊本県の皆さんの、1日も早い復興を願いながら、あまり有名でないけれど「熊本のせんば川」が出ているもう一つの歌詞(実は熊本の石碑には、こちらが1番になっています)を書いて、今回のブログを終わります。
♪(2番)
あんたがたどこさ
肥後さ 肥後どこさ
熊本さ 熊本どこさ 船場さ
船場川にはえびさがおってさ
それを漁師が網さで捕ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ ♪
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