一番多い答えは、「安政の大獄」だと思います。
もちろん、「安政の大獄」は有名ですが、もう一つ、「安政」は地震の多い時期でもありました。
今回は、安政元(1854)年に起こった南海トラフを震源とする2つの巨大地震、すなわち「安政東海地震(・東南海地震)」と、「安政南海地震」を中心に、この二つの地震の前後に起こったことを含め紹介します。
「安政東海地震」は、前の南海トラフを震源とする巨大地震の「宝永地震」から、147年後の江戸時代末期(幕末)の1854(嘉永7=安政元)年12月23日に、 東海地震と東南海地震が同時発生したものとされています。
地震の規模を示すマグニチュード(M)は8.4で、震度7は静岡県・山梨県などと推定されています。
千葉県の房総半島から四国にかけて津波に襲われ熊野灘では津波高22mで、死者は2000人~3000人と言われています。
<安政東海地震の震度分布>
「安政東海地震」のわずか32時間後、12月24日に「安政南海地震」が発生しました。
この地震のマグニチュード(M)も8.4で、震度7は和歌山県・高知県と推定され、紀伊半島から四国にかけて、最大16mの津波が発生し大阪湾にも遡上しました。死者は、西日本を中心に数千人と言われています。
<安政南海地震の震度分布>
それでは、この2つの地震の前後に起こったことを見てみましょう。
まず本震の7年前の1847(弘化4)年5月8日、長野県善光寺平を震源とする直下型の「善光寺地震」が発生しました。
この地震の規模は、M7.4で、揺れと犀川の決壊などで、死者は1万~1万3000人も出ました。
次に、本震の5ヶ月前の1854(嘉永7)年7月9日には、三重県を震源とする直下型の「伊賀上野地震」が発生しました。マグニチュードは7.3で死者は1800人でした。
そして、5ヶ月後の12月23日と12月24日に、南海トラフを震源とする2つの巨大地震が起きました。
この地震により年の暮れには、年号を「嘉永」から「安政」に改元しました。
しかし、地震は、これで終わりませんでした。
「安政南海地震」から2日後の12月26日に、大分県と愛媛県の間の豊予海峡を震源とするM7.4の「豊予海峡地震」が発生し、多くの死者を出しました。(安政南海地震の直後で、この地震単独の死者を算定するのは難しいようです。)
さらに、翌1855(安政2)年11月11日に、M7.0~7.1の南関東直下型地震の「江戸安政地震」が発生しました。実は、この地震が「安政大地震」とも言われ、死者は4700人~1万1000人にも達しました。
このあとも、1856(安政3)年8月23日に「安政八戸地震」(M7.5~8.0)で三陸から北海道にかけて津波が発生し29人が死亡し、1857(安政4)年10月12日にはM7.3の「伊予(愛媛)・安芸(広島)地震」するなど、地震が相次ぎました。
これら一連の地震を「安政の大地震」と呼ばれています。
「安政の大地震」では、南海トラフの巨大地震が32時間の時間差で2つ発生し、その前後に直下型地震が全国で相次ぎました。
<安政の大地震(安政江戸地震)>
安政の歴史的な出来事としては、井伊直弼大老による「安政の大獄」が有名で、吉田松陰らが処刑されました。
また、ペリー来航との「日米和親条約」締結により、日本は開国し、1860(安政7=万延元年)年3月3日には、井伊大老が暗殺される「桜田門外の変」が起こり、時代はいよいよ風雲急を告げる「幕末」を迎えます。
歴史も地面も大きく揺れ動いたのが、「安政」という時代でした。
ということは、この時代に活躍した幕末の志士や新選組も被災しているのでしょうか?
まず、幕末の英雄・坂本龍馬は、1854(安政元)年6月23日に、1回目の江戸剣術修行を終えて土佐へ帰国しています。
ですから、1854年末の「安政東海地震」と「安政南海地震」の時には高知にいました。
特に「安政南海地震」は、強い揺れや津波のあった高知市で龍馬も被災しています。
坂本家の被害は軽微でしたが、親戚の武知半平太の道場などは大きな被害を受けました。
龍馬が再び江戸に旅立つのは、1856(安政3)年8月ですので、1855年11月の「安政江戸地震」の時には、まだ高知にいたことになります。
一方、薩摩の幕末の英雄・西郷隆盛は、江戸で「安政江戸地震」を体験して、次のような手紙を国元(鹿児島)に送っています。
「扨(さて)去る二日の大地震(江戸安政地震)には、誠に天下の大変にて、水戸の両田もゆい打に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。頓と此の限りにて何も申す口は御座なく候。御遙察下さるべく候」
(現代語訳)
「さて、去る二日の大地震は、本当に天下の大変でした。水戸の両田(水戸藩の志士、藤田東湖と戸田蓬軒のこと)も揺り打ち(地震)に逢われ亡くなられた。
今は「何も話す気になれません。私の気持ちをお察し下さい」
この手紙にあるように、当時の志士の間で尊敬されていた水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)は、「安政江戸地震」の時に、小石川の水戸藩邸にいて1度は自力で脱出しますが、取り残された母親を救出しようとして再び屋敷に戻り、崩れてきた家屋で圧死しています。
藤田と並び称せられた戸田蓮軒もこの地震で亡くなり、結果的に、志士たちのリーダー的な役割をしていた2人の死で、水戸藩は迷走し、幕末・明治維新の流れから大きく後退しました。
<水戸藩士 藤田東湖の銅像>
もう一人、長州の幕末の英雄・高杉晋作が江戸へ出たのは1858(安政5)年ですので、安政の大地震の時は、山口県の萩でいました。
幕末のもう一方の主役「新選組」は、まだ結成されていませんが、江戸市ヶ谷の甲良屋敷にあった近藤周助の「天然理心流道場・試衛館」などで、近藤勇、土方歳三 、沖田総司ら、のちの幹部たちが「安政江戸地震」に遭遇したと考えられます。
最後は「世界津波の日」と「稲むらの火」の話です。
2015年12月の「国連総会」で、日本など142カ国が共同提案した「11月5日を世界津波の日に制定する」という決議案を全会一致で採択しました。
日本では、11月5日は津波防災の日になっています。
なぜ、「東日本大震災」の3月11日や、「インド洋大津波」の12月26日ではなく、11月5日が「世界津波の日」になったのでしょうか。
実は「安政の南海地震」が発生した1854年12月24日は、旧暦では嘉永7年11月5日にあたります。
他の大きな津波に比べ、「安政南海地震の津波」が特筆されるのは、このときに、「稲むらの火」という、防災に結びつく話があるからです。
つまり、11月5日は、単に津波被害を受けた日ではなく、「津波に立ち向かって成果を人間が上げた日」だからなんです。
「安政南海地震」のとき、紀州(和歌山県)広村(現在の広川町)の浜口儀兵衛が、稲むらに火をつけ、暗闇の中、村人たちが高い場所に津波から避難する目印とした話が、「稲むらの火」
として語り継がれています。
浜口儀兵衛は、稲むらに火をつけて人々を救っただけでなく、次の津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作りました。
この実話が世界で感動を呼び、11月5日を「世界津波の日」に国際連合が認定しました。
日本人としては、少し「エヘン」ですね。
おしまいに、この頃、流行した「鯰絵(なまずえ)」の一枚、「鯰退治」を紹介して終わります。
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