2016年5月25日水曜日

2つのサミット開催 ~G7伊勢志摩サミットと世界人道サミット~

 2016(平成28)年5月26日と27日に、日本の志摩市賢島の志摩観光ホテルで「主要7ヵ国首脳会議(G7)」が開催されます。
 
 日本の安倍首相、アメリカのオバマ大統領をはじめ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダの7ヵ国(G7)と、欧州連合(EU)が参加します。

 主要国首脳会議は、以前は「先進国首脳会議」と呼ばれていました。
  「第1回先進国首脳会議」は、1975(昭和50)年、フランスのランブイエで開催されました。

 この時のメンバーは、フランス、イギリス、アメリカ、日本(三木武夫首相)、西ドイツの5ヵ国に、5ヵ国開催を不服として勝手(?)に乗り込んできたイタリアのモロ首相を加えた6ヵ国でした。
 なんだか、最初からドタバタ感満載ですね。

 第2回からは、「ヨーローッパに偏り過ぎる」というアメリカ・フォード大統領の意見で、カナダが加わり7ヵ国(G7)になりました。

   さらに、1998(平成10)年のバーミンガム会議からは、ロシアが参加し「G8サミット」と呼ばれるようになりました。ただし、2014年以降は、「ウクライナ・クリミア」問題でロシアは、参加停止になっています。

<「サミット」を知らせる国道表示板(2016年5月25日)>





  こう見てくると、先進国首脳会議は、「北半球の先進国」に限った会議ですね。

  サミットが始まった当時の「第一次石油危機」や「米ソ冷戦当時」などの「差し迫った世界的危機」があれば、先進国の結束や共同の経済政策という会議の意義は大きかったと思います。

 しかし、経済政策でも、対ロ、対中政策でも、一枚岩ではない国々が集まるG7の意義は、少し希薄なような気がします。

 G7のメンバー自体も、イタリアのように強引に入ってきたり、「アジアの経済大国の代表は日本ではなく中国ではないか」という話も聞こえる中、結果を出さないと「主要国首脳会議(G7サミット)」の存在意義を問われそうな気がします。

 因みに「G7」は、GREAT7ではなく、「Group of Seven」の略ですので、必ずしもメンバーが大国である必要はありません。


 「先進国首脳会議」の歴史を振り返ってみると、2009(平成21)年のイタリアでのサミットでは、同年4月に起きた「ラクイラ地震」の支援のために、急遽、開催地を当初予定の「ラ・マッダレーナ」から、被災地「ラクイラ」に変更したことがあります。

 日本のサミットも、「熊本」か「九州」に開催地を変更するとか、みんなで「広島の平和公園」に行くとかしたら、その意義も、よりいっそう広がったのではないかなと思います。


<伊勢志摩サミット「記念切手」>


 

 一方、2016年5月23日と24日、G7サミットに時期をあわせたように、「世界人道サミット」がトルコのイスタンブールで開催されました。
 参加国は、なんと170ヶ国に達し、国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長も出席しました。

 そこでは、次の「5つの核となる責任」を中心に議論が展開されました。

1) 紛争を予防・解決するためのグローバルなリーダーシップ
2) 人道規範の護持
3) だれも置き去りにしない
4) 人々の暮らしを変える―届ける支援から、人道ニーズ解消に向けた取り組みへ  
5) 人道への投資


 テーマを見ているだけでも、何かいいですね。
 特に3番目の「だれも置き去りにしない」というのは、人道サミットらしくて、暖かいと思います。
 
 ただし、この「世界人道サミット」には、G7の多くの国の首脳が出席しませんでした。
 時期の問題もあったのでしょうが、残念ですね。

 そんな中、G7首脳でただ一人、ドイツのメルケル首相だけは、両方に出席をしました。
 ドイツの人道支援の本気度が伺えますね。

<伊勢志摩の地図>



  最後は、サミットの舞台「三重県志摩」を有名にした御木本幸吉氏と、世界の発明王エジソンが会った時のエピソードを紹介します。

 御木本幸吉(みきもと・こうきち 1858年~1954年 三重県生まれ)さんは、家族との数十年に渡る苦労の末、志摩市にある小さな島で「世界初の真円(まん丸の)真珠の養殖に成功しました。 
 そして、1927年、アメリカ・ニューヨークの郊外で、電球や蓄音機を作った発明王トーマス・エジソンと会いました。

 この時、エジソンは、御木本さんがもってきた真珠を見て、笑顔でこう言ったそうです。

「私の研究室で、できなかったものが2つだけあります。一つはダイアモンド、もう一つはパール(真珠)です。
 あなたが、動物学上も不可能と言われていた真円パールを発明したのは、本当に驚くべきことで、すばらしい。」


 今回の伊勢・志摩サミットの舞台となった英虞(あご)湾には、サミット会場の志摩観光ホテルのある「賢島(かしこじま)」 のほかに、御木本幸吉が初めて真珠の養殖に成功した「多徳島 」も浮かんでいます。

<英虞湾(三重県志摩市)>



2016年5月16日月曜日

ニュースな場所「熊本県」と、わらべ歌「あんたがたどこさ」♪

 今回は、熊本地震の復興を願って、ニュースな場所「熊本県」を紹介します。
 後半では「熊本ソング」の代表、わらべ歌の「あんたがたどこさ♪」を紹介したいと思います。


 まず、熊本県の人口は、1,786,969人で47都道府県の23番目で、ほぼ真ん中です。(2015年国勢調査)九州8県の中では、福岡県についで2番目に多い県です。

 一方、面積は7409㎢で、全国15位、九州では鹿児島県、宮崎県についで3番目の大きさです。
 九州本島の中央部に位置し、熊本県は大きく言うと、
・荒尾市や阿蘇市など6市10町3村からなる「県北」、
・県都「熊本市」を中心に、3市6町からなる「県央」、
・八代市や天草市など5市9町3村からなる「県南」
の3地域に分けられます。

 ちなみに、熊本県では、「県北」「県央」「県南」「天草」の4つの地域振興局広域本部を設置しています。

<熊本県>




 熊本県は全国有数の農業県で、平成20(2008)年の農業産出額で、全国7位(九州3位)です。
 品目別では、トマト・い草(畳の原材料)・葉たばこ・宿根カスミソウ・スイカが全国1位です。

 熊本県に本社がある有名企業としては、日本で初めて救急絆創膏を製品化・販売をした「リバテープ製薬」(熊本市)や、中高年女性の強い味方・ドムホルンリンクルなどの化粧品メーカー「再春館製薬所」(益城町)などが有名です。


 熊本県の歴史を見てみると、ほぼ「肥後(ひご)の国」に重なり、古くは「火の国」または「肥の国」と呼ばれていました。

 南北朝時代から戦国時代にかけては群雄割拠していましたが、1587(天正15)年に豊臣秀吉の九州征伐により、佐々成政が肥後の国の国主になりました。

 しかし、佐々成政は太閤検地に反対する一揆を鎮圧できず、秀吉から切腹を命じられます。
 その後、秀吉は北半分を「虎退治で有名な加藤清正」に、南半分を小西行長に分け与えました。

 1600年の関ヶ原の戦いで、西軍の味方した小西行長が敗れ滅亡すると、東軍についた加藤清正が、その領地を併せ52万石の領主となりました。
 清正は、それまでの「隈本」を「熊本」に改め、名城「熊本城」を築きました。

 ところが、1632(寛永9)年に肥後熊本藩の加藤氏が改易され、そのあとに、細川忠利が熊本54万石の領主となります。
 細川氏の治世は、幕末まで続きます。ちなみに、熊本県知事をして、その後、1993年に総理大臣になった細川護熙氏は、細川氏の子孫にあたります。

 1637(寛永14)年の「島原の乱」の後は、天草は天領(徳川幕府の直轄地)となります。

 明治維新後、1871(明治4)年、肥後国は「熊本県」と「八代県」になりました、
 熊本県は、その後「白川県」と改められ、1873(明治6)年、白川県と八代県が合併して白川県となり、1876(明治9)年に「熊本県」に改名され、現在に至っています。

 1877(明治10)年、熊本の熊本城や田原坂は、西郷隆盛の軍と官軍の激戦地になります。


<西南戦争の激戦地「熊本城」(震災前)>



 1900(明治33)年に、大和田建樹によって作詞された『鉄道唱歌』第2集山陽・九州編では、熊本は次のように歌われています。

 「♪ 眠る間もなく 熊本の 町に着きたり我汽車は 九州一の大都会 人口5万4千あり♪」

 この頃までは、「熊本が九州の中心」で、国道3号(福岡県北九州~熊本市~鹿児島市)や鹿児島本線、さらには、いわゆるナンバースクールの「旧制第5高等学校」(熊本大学の前身)などが熊本におかれ、あの夏目漱石も教鞭をとりました。
 
 現在は、九州一の大都会の座は「福岡県」に譲りましたが、それでも熊本市は、福岡市、北九州市に次ぐ九州第3の都市であり、九州新幹線も通っています。


 熊本県といえば、「阿蘇カルデラを持つ阿蘇山」(南北25km、東西18km)が有名ですが、かつて「世界最大のカルデラ」と言われていた阿蘇のカルデラは、その後、もっと大きなカルデラが見つかり、世界最大でなくなったばかりか、日本でも2番めになってしまいました。

 ちなみに、現在、世界最大と言われているのは「インドネシアのトバカルデラ(長径約100km、短径約30km)」で、日本一は、「北海道の屈斜路カルデラ(長径約26km、短径約20km)」です。

<阿蘇山>



 熊本出身者の有名人(以下敬称略)としては、第23代清浦奎吾(1924年在)と、第79代細川護熙(1993年~1994年在)の2人の内閣総理大臣をはじめ、「ゆりかごのうた」や「この道」などの作詞で知られる北原白秋や、「旅愁」などの作詞をした犬童球渓などの詩人・作詞家を生んでいます。

 ほかにも、野球の神様と呼ばれる名選手でV9時代の巨人軍監督の川上哲治や、赤ヘル軍団を優勝させた広島カープの古葉竹識監督、柔道の金メダリスト・山下泰裕などのスポーツ選手もいます。

 また芸能界には、内村光良(お笑い)、くりいむシチューの2人(上田晋也、有田哲平)、倉科カナ(女優)、高良健吾(俳優)、水前寺清子(歌手)、石川さゆり(歌手)、森高千里(元アイドル歌手)、スザンヌなどなど、枚挙にいとまがないほど、多くの人材が出ています。


 最後は、「熊本ソング」の代表格ともいえる 童(わらべ)歌の「あんたがたどこさ」の話です。


あんたがたどこさ 肥後(ひご)さ 
肥後どこさ 熊本さ 
熊本どこさ 船場(せんば)さ

船場山には狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ 
それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ♪


 この童歌に出てくる「船場(せんば)」は、現在の熊本城の長塀に沿って流れる「坪井川」のことを船場川と呼んでいたことに由来し、「船場」の地名は、熊本市船場町、船場橋などに残っています。
 洗場駅などには、「せんば狸」の銅像も立っています。
 
 また、2016年3月にNHKで放送された「ブラタモリ」では、昔、熊本市新町付近に堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を、「せんば山」と呼んでおり、そこには狸がいたことが紹介されました。

<洗場(せんば)駅のたぬき像(熊本市)>




 この「熊本船場」説に、異論を唱えるのが、「埼玉県川越市」説です。 

 「あんたがどこさ」の歌詞には熊本が出てきますが、「〇〇さ 〇〇さ」というのは熊本弁ではなく、関東弁だとこの説は主張します。

 さらに、熊本には「せんば川」はあっても「せんば山」はなく、この歌の「せんば山」は、埼玉県川越市の仙波山のことだと言います。

 この仙波山には、江戸幕府開祖で「古狸」と呼ばれた徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ、「仙波東照宮」があります。

 歴史を辿ると、幕末から明治にかけての「戊辰戦争(1868年~1869年)」の時に、薩長軍が幕府軍の彰義隊の残党を追って、仙波山に駐屯していた時期があります。

 「あんたがたどこさ」は、官軍の兵士が埼玉で、関東の子供たちに、「どこからきたのか」と聞かれて、「熊本さ」と答える様子の歌詞だとすると、話は合うような気がします。

 そうすると、「せんば山のたぬき」は、古だぬきと言われた「徳川家康」に象徴される幕府軍で、それを官軍が、鉄砲で撃って、煮て食べたという、物騒な、本当は怖い歌になります。

  ちなみに、「あんたがたどこさ」の出来た年も作者も不明ですが、この歌のような「問答歌」は、江戸幕末から明治時代初期に生まれた「手鞠歌(てまりうた)」の形式だとも言われています。


<肥後手毬(ひごてまり)>



 「あんたがたどこさ」が、熊本生まれか埼玉うまれかは、わかりませんが、全国の子供たちが、「熊本」という言葉を、何度も何度も歌ったのは、間違いありません。

 熊本県の皆さんの、1日も早い復興を願いながら、あまり有名でないけれど「熊本のせんば川」が出ているもう一つの歌詞(実は熊本の石碑には、こちらが1番になっています)を書いて、今回のブログを終わります。
 

♪(2番)
あんたがたどこさ
肥後さ 肥後どこさ 
熊本さ 熊本どこさ 船場さ

船場川にはえびさがおってさ
それを漁師が網さで捕ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ ♪


 

2016年5月12日木曜日

巨大地震の歴史と前後の出来事(4)安政地震~龍馬も西郷も新鮮組も被災~

 幕末の年号「安政(あんせい、1854年~1860年)」と聞いて、何を思い出しますか?
 一番多い答えは、「安政の大獄」だと思います。

 もちろん、「安政の大獄」は有名ですが、もう一つ、「安政」は地震の多い時期でもありました。
 今回は、安政元(1854)年に起こった南海トラフを震源とする2つの巨大地震、すなわち「安政東海地震(・東南海地震)」と、「安政南海地震」を中心に、この二つの地震の前後に起こったことを含め紹介します。


  「安政東海地震」は、前の南海トラフを震源とする巨大地震の「宝永地震」から、147年後の江戸時代末期(幕末)の1854(嘉永7=安政元)年12月23日に、 東海地震と東南海地震が同時発生したものとされています。

 地震の規模を示すマグニチュード(M)は8.4で、震度7は静岡県・山梨県などと推定されています。
  千葉県の房総半島から四国にかけて津波に襲われ熊野灘では津波高22mで、死者は2000人~3000人と言われています。

<安政東海地震の震度分布>



  「安政東海地震」のわずか32時間後、12月24日に「安政南海地震」が発生しました。
  この地震のマグニチュード(M)も8.4で、震度7は和歌山県・高知県と推定され、紀伊半島から四国にかけて、最大16mの津波が発生し大阪湾にも遡上しました。死者は、西日本を中心に数千人と言われています。

<安政南海地震の震度分布>




 それでは、この2つの地震の前後に起こったことを見てみましょう。

 まず本震の7年前の1847(弘化4)年5月8日、長野県善光寺平を震源とする直下型の「善光寺地震」が発生しました。
 この地震の規模は、M7.4で、揺れと犀川の決壊などで、死者は1万~1万3000人も出ました。

 次に、本震の5ヶ月前の1854(嘉永7)年7月9日には、三重県を震源とする直下型の「伊賀上野地震」が発生しました。マグニチュードは7.3で死者は1800人でした。

 そして、5ヶ月後の12月23日と12月24日に、南海トラフを震源とする2つの巨大地震が起きました。

 この地震により年の暮れには、年号を「嘉永」から「安政」に改元しました。
 しかし、地震は、これで終わりませんでした。

 「安政南海地震」から2日後の12月26日に、大分県と愛媛県の間の豊予海峡を震源とするM7.4の「豊予海峡地震」が発生し、多くの死者を出しました。(安政南海地震の直後で、この地震単独の死者を算定するのは難しいようです。)

 さらに、翌1855(安政2)年11月11日に、M7.0~7.1の南関東直下型地震の「江戸安政地震」が発生しました。実は、この地震が「安政大地震」とも言われ、死者は4700人~1万1000人にも達しました。

 このあとも、1856(安政3)年8月23日に「安政八戸地震」(M7.5~8.0)で三陸から北海道にかけて津波が発生し29人が死亡し、1857(安政4)年10月12日にはM7.3の「伊予(愛媛)・安芸(広島)地震」するなど、地震が相次ぎました。

 これら一連の地震を「安政の大地震」と呼ばれています。
 「安政の大地震」では、南海トラフの巨大地震が32時間の時間差で2つ発生し、その前後に直下型地震が全国で相次ぎました。

<安政の大地震(安政江戸地震)>





 安政の歴史的な出来事としては、井伊直弼大老による「安政の大獄」が有名で、吉田松陰らが処刑されました。
 また、ペリー来航との「日米和親条約」締結により、日本は開国し、1860(安政7=万延元年)年3月3日には、井伊大老が暗殺される「桜田門外の変」が起こり、時代はいよいよ風雲急を告げる「幕末」を迎えます。


 歴史も地面も大きく揺れ動いたのが、「安政」という時代でした。
 ということは、この時代に活躍した幕末の志士や新選組も被災しているのでしょうか?

 まず、幕末の英雄・坂本龍馬は、1854(安政元)年6月23日に、1回目の江戸剣術修行を終えて土佐へ帰国しています。   

 ですから、1854年末の「安政東海地震」と「安政南海地震」の時には高知にいました。
 特に「安政南海地震」は、強い揺れや津波のあった高知市で龍馬も被災しています。
 坂本家の被害は軽微でしたが、親戚の武知半平太の道場などは大きな被害を受けました。

 龍馬が再び江戸に旅立つのは、1856(安政3)年8月ですので、1855年11月の「安政江戸地震」の時には、まだ高知にいたことになります。


 一方、薩摩の幕末の英雄・西郷隆盛は、江戸で「安政江戸地震」を体験して、次のような手紙を国元(鹿児島)に送っています。

「扨(さて)去る二日の大地震(江戸安政地震)には、誠に天下の大変にて、水戸の両田もゆい打に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。頓と此の限りにて何も申す口は御座なく候。御遙察下さるべく候」

(現代語訳)
「さて、去る二日の大地震は、本当に天下の大変でした。水戸の両田(水戸藩の志士、藤田東湖と戸田蓬軒のこと)も揺り打ち(地震)に逢われ亡くなられた。

 今は「何も話す気になれません。私の気持ちをお察し下さい」

 この手紙にあるように、当時の志士の間で尊敬されていた水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)は、「安政江戸地震」の時に、小石川の水戸藩邸にいて1度は自力で脱出しますが、取り残された母親を救出しようとして再び屋敷に戻り、崩れてきた家屋で圧死しています。

 藤田と並び称せられた戸田蓮軒もこの地震で亡くなり、結果的に、志士たちのリーダー的な役割をしていた2人の死で、水戸藩は迷走し、幕末・明治維新の流れから大きく後退しました。

<水戸藩士 藤田東湖の銅像>




 もう一人、長州の幕末の英雄・高杉晋作が江戸へ出たのは1858(安政5)年ですので、安政の大地震の時は、山口県の萩でいました。


 幕末のもう一方の主役「新選組」は、まだ結成されていませんが、江戸市ヶ谷の甲良屋敷にあった近藤周助の「天然理心流道場・試衛館」などで、近藤勇、土方歳三 、沖田総司ら、のちの幹部たちが「安政江戸地震」に遭遇したと考えられます。


  最後は「世界津波の日」と「稲むらの火」の話です。

 2015年12月の「国連総会」で、日本など142カ国が共同提案した「11月5日を世界津波の日に制定する」という決議案を全会一致で採択しました。
  日本では、11月5日は津波防災の日になっています。
  
  なぜ、「東日本大震災」の3月11日や、「インド洋大津波」の12月26日ではなく、11月5日が「世界津波の日」になったのでしょうか。
 
 実は「安政の南海地震」が発生した1854年12月24日は、旧暦では嘉永7年11月5日にあたります。
 他の大きな津波に比べ、「安政南海地震の津波」が特筆されるのは、このときに、「稲むらの火」という、防災に結びつく話があるからです。
 
 つまり、11月5日は、単に津波被害を受けた日ではなく、「津波に立ち向かって成果を人間が上げた日」だからなんです。
 
 「安政南海地震」のとき、紀州(和歌山県)広村(現在の広川町)の浜口儀兵衛が、稲むらに火をつけ、暗闇の中、村人たちが高い場所に津波から避難する目印とした話が、「稲むらの火」
として語り継がれています。
 
 浜口儀兵衛は、稲むらに火をつけて人々を救っただけでなく、次の津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作りました。
 この実話が世界で感動を呼び、11月5日を「世界津波の日」に国際連合が認定しました。
 
 日本人としては、少し「エヘン」ですね。
 
 おしまいに、この頃、流行した「鯰絵(なまずえ)」の一枚、「鯰退治」を紹介して終わります。
 
 
 
 
 

2016年5月8日日曜日

世界のネコカフェとねこカップ ~ペット数で犬に肉薄するネコノミクス効果~

 ニャーン、ゴロゴロ、にゃ~あん。

 連休も終わってしまって、ちょっとブルーなこの時期は、最近、人気上昇中(?)と言われている「にゃんこ」のゆーるい話をしたいと思います。

  まず最初に、ゴールデンウィークに、旅先で見つけた「ねこカップ」というお菓子の箱の写真をご覧ください。

<写真 ねこカップ>



 このお菓子、クッキーなんですが、結構、おもしろい秘密(?)があります。
 この謎解きは、ブログの最後にお知らせします。(そんな大した話かなあ?) 


 それでは、「ネコとイヌの飼育数」の話から紹介します。

 一般社団法人「ペットフード協会」が発表した「2015年のイヌとネコの飼育数」では、推計でイヌが約991万7千匹、ネコが約987万4千匹となり、イヌが僅かに上回っていますが、ネコの数がイヌに肉薄しています。

 1994(平成6)年に調査が開始されてから、イヌの方が、ネコをずっと上回っていました。
 イヌの飼育数のピークは2008年の約1310万1千匹でした。
 ということは、最近の7年間で、4分の3(約24.3%減)になった計算です。

 一方、ネコの方はというと、ほぼ横ばいです。

 イヌが減った理由は、「独り暮らし世帯の増加や人間の高齢化」で、イヌの散歩などの世話ができなくなったケースが増えたからだと言われています。(なるほど)

 これに対しネコは、昼間、家を空けている家庭や一人暮らしでも飼いやすいので、減らないのだそうです。
 
 ちなみに、平均寿命は、イヌが14.9歳、ネコが15.8歳で、ともに前年より伸びています。
 ところが、イヌは高齢期とされる7歳以上が54.6%と多いのに対し、ネコの方は6歳以下が55.4%と、若者、いや「若ネコ」が多いそうです。

 律儀なイヌたちは、人間の高齢化の影響をまともに受けているのですね。ちょっと、かわいそうワン!

<子猫>




 おっと、今回はネコが主役でした。では、ここからはネコの話、限定で。

 ネコといえば、「世界からネコが消えたなら」(著:川村元気)の小説が映画になったり、CMでもY!mobileの「ふてネコ」シリーズや、YKK の窓シリーズに出てくるマッサージする猫、ライザップの「でぶネコ」、スマートフォン向けゲーム「ねこあつめ」など、空前のネコブームですね。

 なかでも、最近、注目されているのが「猫カフェ」です。
 「猫カフェ」は、店内にいるネコたちとくつろげるという店ですが、自分で猫を飼えない人たちと猫マニアの人たちに大人気です。

 世界最初の「猫カフェ」は、1998(平成10)年に台湾の台北にできた「猫花園(最初は子猫花園という店名)」という店でした。

 2004(平成16)年には、大阪市天満に日本初の猫カフェ「猫の時間」がオープンし時間料金制を導入し、2005年には東京都町田市に東京初の猫カフェ「ねこのみせ」ができました。

 正確な統計はありませんが、2015年現在、日本全国に250店以上の猫カフェがあるという調査もあります。
 ただし、猫耳のおねえさんがいる店は「猫カフェ」とは違う分類になるそうです。(笑)

<世界最初の猫カフェ「猫花園」(台湾)>




 「猫カフェ」は現在、日本と台湾だけでなく、アジアやヨーロッパにも広がっています。
 名前だけでも癒しになりそうなので、世界の「猫カフェ」の名前を少し紹介します。

○オーストリア・ウイーン 「Cafe  Neko」(ヨーロッパ初の猫カフェ)

○ロシア・セントピーターズパーク 「Cat Republicアートカフェ」(ネコの共和国)

○ハンガリー・ブタペスト 「Cat Cafe Budapest」(ブタペスト)

○ドイツ・シュヴァービング 「Cafe Katzentempel」(猫のこめかみ)

○ヴェトナム・ハノイ 「Ailu Cat Cafe」

○タイ・バンコク 「Charming Cats Cafe and Pet Shop」

○日本・東京・お台場 「Nyan da Cafe」


 世界に広がるネコノミクスは、すごいですね。

 日本の猫関係グッズの売上などの経済的影響は、関西大学の宮本勝浩名誉教授の試算では、「ネコノミクスの経済効果」は、2015年1年間だけで2兆3162億円にものぼるそうです。
 アベノミクスも、真っ青ですね。


 最後は、「ねこカップ」の種明かしです。

 「箱の絵を見ればわかるかニャー」との声も聞こえてきそうですが、ご想像のとおり、「コップのフチ子」のように、クッキーのねこの手をコップの縁などに、ひっかけられるんです。




 お約束どおり、やってみました。「おもしろいニャアー」?

 かわいいので、ちょっと心が痛かったのですが、せっかくなので「ねこクッキー」を食べてみると、黒い部分はチョコの味もして、おいしかったです。



<ねこ俳句>

あまつさへ  恋に破れし 猫に雨 (林 雄次郎)

蝶々を 尻尾でなぶる 子猫哉 (小林一茶)

猫カフェで  癒しいやされ  一人旅 (自作)

2016年5月6日金曜日

巨大地震の歴史と前後の出来事(3)~史上最大級の宝永地震と富士山大噴火~

これまでの2回で、「南海トラフを震源とする巨大地震」を6つ紹介してきました。
あと、歴史に残る「南海トラフを震源とする巨大地震」は、宝永、安政、昭和の3つです。

まとめて紹介しようと思っていたのですが、調べてみると時代が新しいこともあり、たくさんの興味深い事実がわかってきましたので、1回ずつで紹介することにしました。

また、関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災についても、紹介したいと思います。

で、今回は、少なくても東日本大震災までは、「日本史上最大の大地震」と言われていた江戸中期に起こった「宝永大地震」を紹介します。

宝永地震は、「東日本大震災」に匹敵する規模の、西日本最大級の地震です。

前回の「慶長地震」から107年後の、1707(宝永4)年10月28日(以下、西暦の日付)13時45分頃、東海道沖から南海道沖(静岡県沖~高知県沖)の南海トラフを震源に起きたのが「宝永大地震」です。
地震の規模を示すマグニチュード(M)は、8.4~8.6、あるいは9.0以上ともいわれており、「東海地震、東南海地震、南海地震」が同時に起きた三連動地震と言われています。

現在風に言うと、静岡県、愛知県、大阪府、高知県などで震度7を記録し、東海・近畿・四国の太平洋沿岸に大津波が来襲し、最大津波高は25m(高知県)を超えました。
死者は2万人以上、倒壊・流失家屋は6万棟から8万棟とも伝えられています。

<宝永地震の震度地図>
 
 

 

それでは、宝永地震の前後にどんな自然現象が起きたのかというと、まず本震の7年前の1700(元禄13)年4月15日に、M7.3の「壱岐・対馬地震」が起き、長崎県だけでなく九州各地で被害が発生しました。


次に、3年後(本震の4年前)の1703(元禄16)年12月31日に、南関東を震源とするM8.1~8.2の「元禄地震」が起き、関東南部(千葉県、神奈川県)で震度7を記録し、関東沿岸に津波が押し寄せました。
死者は6700人以上と言われています。
また、この「元禄地震」とほぼ同じころ、豊後(大分県)でも、M6.5の地震が起きています。


続いて、本震の3年前の1704(宝永元)年5月27日に、陸奥(青森・岩手・宮城)・羽後(秋田など)
M7.0の地震が起き、秋田県能代市などで58人が亡くなり、青森県の十二湖ができました。


さらに、本震の2年前の1705(宝永2)年5月24日、阿蘇山付近で地震があり、死者が出ました。


「宝永地震」の前に、関東で大地震があったことと、大分県や阿蘇山付近で、地震が起きているのは注目です。



もう一つ、「宝永地震」の発生後のことも紹介します。


宝永地震が発生した翌日、1707(宝永4)年10月29日、静岡県富士宮市でM7.0の最大余震が起きて、4人が亡くなっています。


さらに、宝永地震の49日後、1707年12月16日、富士山の東南斜面から大噴火しました。
これは、記録に残る最後の富士山の噴火で、江戸でも6cmの火山灰が積もるなど、三大噴火にも数えられる大噴火でした。(宝永大噴火)


宝永大地震のあと、富士山の大噴火が、わずか49日後にあったことは、地震と火山の連動を示す、典型的な例だと言われています。



<富士山の宝永火口>
 
 


2011年の「東日本大震災」は、869年の「貞観地震」以来、1142年ぶりに東日本を襲った超巨大地震(M9.0以上)だと言われています。
我々の目の前で、1000年以上ぶりに、巨大な津波が東北地方を襲いました。


それでは、西日本や東海地方のこれに匹敵する超巨大地震はというと、それが1707年の宝永地震だと言われています。
さらに、大きな地震が約2000年前にあったともいわれていますが、西日本では少なくても、300年前の「宝永地震」を想定の基準にする必要があると思います。


最後に、各地域の宝永地震の津波高を紹介します。
<宝永地震・津波> 1707(宝永4)年10月28日
津波は、伊豆半島から九州にいたる沿岸を襲い、特に四国と紀伊半島での被害が甚大でした。

「東京都」 八丈小島6m

「静岡県」 下田6m 湊5m 八木沢8~10m 内浦5.5~6m 三保5m 相良6~8m 白須賀5m
「三重県」 大湊5m 国府7~8m 神津佐5m 五ヶ所浦5m 贄浦7~8m 村上7~8m 神前浦7m 古和浦7m 錦6m 長島5m 須賀利5m 尾鷲8~10m 矢ノ浜6~7m 九木5~6m 賀田8~9m 曽根5m 新鹿8~10m 大泊6m
「和歌山県」 勝浦6~7m 古座5m 串本5~6m 田並5m 和深5m 江住5m 周参味5.5m 新庄6~7m 南部6m 印南5.8~6.3m 比井5m 由良5~6m 広5~6m 湯浅5m 海南5m
「大阪府」大阪市3m

「兵庫県」 尼崎市1.5m

「徳島県」 牟岐6m 浅川6~7m 宍喰5m
「高知県」 甲浦5m 佐喜浜5m 室戸5.5m 安芸5m 岸本6m 由岐~浦戸5.8m 浦戸6m 宇佐8m 宇佐~下川口7.7m 須崎6m 久礼6m 上ノ加江5m 佐賀6m 下ノ加江5m
「鹿児島県」 種子島6m

 

2016年5月4日水曜日

こいのぼりの由来と童謡を作詞したおばあさんの男気

5月5日は、「こどもの日」、いわゆる「端午(たんご)の節句(せっく)」です。
この日の象徴といえば、「こいのぼり」ですね。


最近は、マンションやアパートなど個人の家では揚げるのが難しくなりましたが、その分、お祭りやイベントでは、まだまだがんばって5月の空を泳いでいる「こいのぼり」。
今回は、こいのぼりの由来と、「やねより高いこいのぼり♪」でおなじみの童謡「こいのぼり」のちょっといい話を紹介します。

5月5日は、「端午の節句」は、もともと中国から伝わった風習で、奇数と奇数(つまり陽と陽)が重なる日を縁起のいい日と考えていた中国で始まり、「魔除けの日」として菖蒲(しょうぶ)を飾ったり、ちまきを食べたりしていました。

これが、日本に伝わり、5月5日は「しょうぶ」を飾ることから「尚武」に通じ、男の子の立身出世を願う日となりました。
現在は5月5日は祝日の「こどもの日」となり、、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」を趣旨として。1948(昭和23)年に制定されました。
 
 
 
 
それでは、5月5日に揚げる「こいのぼり」はというと、日本独特の風習で江戸時代にはじまりました。

江戸時代、武家では男の子が生まれると跡継ぎが生まれたと歓喜し、それを近所に知らせるために幟(のぼり)を立てました。
これを見ていた町人の家では、「自分たちも、息子のためにのぼりを立てたい」と考えました。
ところが、当時は身分制が厳しく、武家と同じのぼりは立てられませんでした。
そこで、考えたのが「鯉ののぼり」、つまり鯉のぼりです。

鯉は、中国の「後漢書」に書かれている故事で、黄河の急流にある「竜門」と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうとしたが、鯉だけが登り切り、「竜」になることができたことにちなんで、立身出世をする縁起のいい魚として選ばれました。
ちなみに、栄達するための難関を「登竜門」と呼ぶのも、この故事にもとづきます。

「こいのぼり」は、江戸時代、関東の町人が、和紙に鯉の絵を描いたて、のぼりとして飾ったのがきっかけと言われていて、当時は、1匹の鯉(真鯉=まごい=オスの鯉)だったそうです。

やがて、明治に入ってから「緋鯉=ひごい=メスの鯉」が飾られるようになり、昭和に入ってからは、子供の鯉も飾られるようになりました。
平成の今は、各地の祭やイベントで、集団で泳いでいるのは、人間世界の「核家族・単身世帯」の増加と逆行していて、皮肉ですね。

 


さて、ここからは、誰もが知っている童謡「こいのぼり♪」のちょっといい話です。
まず、1番の歌詞を紹介します。



「♪こいのぼり♪」 作詞:近藤宮子 作曲:不明


♪<1番>
やねよりたかい こいのぼりおおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる ♪

この歌の作詞者は、実は長い間、不明でした。
これは、作詞をした近藤宮子さん(1907年~1999年、広島県生まれ)が、「みなさんに歌い継いでいただけるなら、作詞者の名声も、著作権料もいらないわ。」と思っておられたからです。

童謡「こいのぼり」は、1931(昭和6)年の夏、近藤宮子さんが、当時、東京帝国大学の助教授で幼稚園唱歌研究部に関わっていた実父の藤村作さんから、「一般公募をしたが、よい作品が少ないので、子供向けの歌を作ってくれないか。」と頼まれて作った10編の一つです。
この10編の中には、「チューリップ」や「オウマ」なども入っていたそうです。すごいですね。

当時は、無名著作物として公表され、そのまま作詞者として名乗り出ないまま、歌は日本の童謡の代表曲の一つになりました。(日本童謡100選に選抜)
この間、著作権は「日本教育音楽家」にあり、印税も同協会に入っていました。

ところが、著作権が切れる直前の1981(昭和56)年に、著作権を延命するために、同協会の元会長の作詞に、勝手に変えようとしました。

「こどもたちが歌う同様に、嘘はいけない。」と、76歳の近藤宮子さんは、初めて名乗り出て裁判を起こし、1993(平成5)年に勝訴が確定しました。
「お金も名誉もいらないけれど、ウソはだめよ。」
近藤宮子さんの気持ちは、女性ですが男気があって、すばらしいですね。

最後に、戦前は1番しかなかった「おかあさん」が歌詞に出てきた2番を紹介します。
2番は、昭和57年の教科書に掲載されています。

(2番)
やねよりたかい こいのぼり
おおきいひごいは おかあさん
ちいさいまごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる


2016年5月1日日曜日

日本の巨大地震の歴史と直前の出来事(2)~熊本地震は拡大する?~

 熊本地震が、「南海トラフの巨大地震」の引き金になるのかどうかを調べるために、歴史に残る「南海トラフを震源とする巨大地震」(東海地震、東南海地震、南海地震)と、その直前に起きた出来事を調べるブログの2回目は、「室町時代から江戸のはじめ」(1361年~1605年)に起きた3つの巨大地震について調べてみます。

   平安時代後期に起きた「永長・康和地震」(1096年~1099年)から、262年後の1361年(室町前期=南北朝時代)に、日本の歴史上4回目となる「南海トラフを震源とする巨大地震」が起きました。

   1361(正平16)年7月26日午前4時頃、マグニチュード(M)8.3~8.5の東南海・南海地震と推定される大地震が発生し、東海・近畿・四国の太平洋岸を中心に揺れと津波に襲われ、摂津(大阪府)、阿波(徳島県)、土佐(高知県)などを中心に、大きな被害が発生しました。
 
  特に太平洋に面した雪湊(現在の徳島県美波町由岐<ゆき>港)では、1700戸が流失し60人が死亡するなど、被害が大きかったと、「太平記」に記載されています。

  正平地震の前の出来事としては、前年の1360(正平15)年11月13日と14日に計2回、紀伊(和歌山)・摂津(大阪)で、M7.5~8.0の津波を伴う地震が起きました。
また、本震の2日から3日前から、断続的に近畿で、前震と思われる地震がありました。

  地震の日に、「真夏の雪」が降ったとの記述もありますが、これは「由岐と雪」の間違いだろうと言われています。
   それにしても、「前震」があったのは、注目ですね。

<現在の由岐港(徳島県海部郡美波町)>



 
 
   「正平地震」から137年後の室町(戦国)時代、真っ只中の1498(明応7)年9月11日午前8時頃、「東海地震・東南海地震」と推定される大地震が発生しました。

   「明和(めいわ)地震」と言われるこの地震の規模はM8.2~8.4で、東海・東南海地震と言われています。
伊勢(三重県)から駿河(静岡・愛知県)などが大津波に襲われ、死者3万~4万人と言われています。
   また、この地震では、静岡県の浜名湖が海につながり、鎌倉の大仏が流されました。

   では、「正平地震」の前に起こったことを調べてみましょう。

  まず、本震の3年前の1495(明和4)年9月3日に、鎌倉で地震・津波がありました。
  次に、「明和地震」の2ケ月あまり前の、1498年6月30日に、宮崎県沖の「日向灘(ひゅうがなだ)」でM7.0~7.5の地震が発生し、大分など九州各地や四国の愛媛県で揺れを観測し、死者が多数出ています。

   実は、ある地震の専門家(大学教授)は、「熊本・大分の地震」のあとは、経験的に「日向灘」で地震が起こる可能性が高いと言っいます。
   もし、そうだとすると、「日向灘地震→南海トラフの巨大地震」という事実が、過去にあったのは不気味ですね。

 
<日向灘(宮崎県)>
 



   最後は、「明和地震」から、106年後の1605(慶応9)年2月3日に起きた「慶長(けいちょう)地震」です。
この年は、「関ケ原の戦いの5年後」、「徳川家康が江戸幕府を開いてから2年後」にあたります。

   「慶長地震」は、関東から九州までの太平洋側の広い範囲で大津波が観測された「津波地震」で、地震の規模はM8.0程度です。
   特に、八丈島(東京都)や紀州(和歌山県)、阿波(徳島県)、土佐(高知k県)などの被害が大きく死者は1万人~2万人と言われています。

  この「慶長地震」が、最近、注目されています。
  それは、この地震の前に起こった出来事が、今回に似ていると言われているからです。
  では、慶長地震の前に起きたことを、見ていきましょう。

   まず、 「慶長地震」の9年前の1596(文禄5)年、9月1日にM7.0の地震が四国の伊予(愛媛県)で起こりました(「慶長伊予地震」)。
  この地震は、今、注目されている「日本最大級の断層・中央構造線」が震源と言われています。

   それから3日後の9月4日、今度は大分県でM7.0~7.8の「慶長豊後地震」が起こり、死者710人、2つの島が沈むという被害が出ました。

   さらに、翌9月5日には、今度は京都でM7.5の直下型の地震「慶長伏見地震」が発生し、京都や大阪を中心に1000人以上が亡くなり、伏見城も損壊しました。

  この3つの地震は、「中央構造線」沿いに、<四国→九州→近畿>とわずか5日間で発生しているので、「3連動地震」とも、言われています。
   今回の「熊本地震」が、これに似ていると言われているのです。

  そして、これらの地震の9年後、1605年に、南海トラフを震源としたと考えられる「慶長地震」が起こっているのは歴史的な事実です。


<中央構造線>


 
   今回は、室町時代(南北朝)から江戸初期までに起こった3つの「南海トラフを震源とする巨大地震」を
調べてみました。

  それらの記録では、この3つのうち、少なくても、1498年の「明応地震」と1605年の「慶長地震」の2つは、九州(日向灘、大分)で地震が起きたあとに、発生しています。

  また、残りの1361年の「正平地震」も含め、3つの巨大地震全部が、発生の数か月から数年前に、九州・四国・近畿など西日本で、比較的規模の大きい(M7.0以上)、「地震」が発生しています。

   2016年の「熊本地震」がそうであるかどうかは、わかりませんが、十分な「備え」はしておく必要があると思います。
 
  次回、3回目は、江戸中期以降の「南海トラフを震源とする巨大地震」である、「宝永地震」、「安政地震」、「昭和の東南海地震・南海地震」について、検証してみたいと思っています。


<熊本の避難している子供たちのボランティア>


 
   最後は、熊本地震のボランティアの中でも、「特別な存在」のボランテイアの話です。

   医者、看護師、保健婦、耐震診断をする技術者、調理師、片付けボランティアなどなど、たくさんのボランテイアが被災地「熊本」に入っています。
  そんな中、「避難している子供たちのボランテイア」が、震度7の揺れに襲われた「熊本県益城町」で誕生しました。

   町の総合体育館に避難している子供たちが、「僕たち私たちにも、できることを始めよう。」と自主的に立ち上がり、床やトイレの掃除、避難者への声かけ、「避難所カフェ」の手伝いなどのボランティアをしています。

   雨で濡れた床をモップで拭いたり、紙コップで無料のコーヒーを配ったりする「避難している子供たち」の元気な姿に、避難者も支援者も、ボランティアに来てくれている大人たちも、みんなが勇気と温かい心をもらっています。

  地震に負けるな! がんばろう熊本、がんばろう大分、そしてがんばろう日本!


<一句>
   備えして   元気と勇気で   地震越え(自信声)