2018年1月30日火曜日

星野仙一さんの生涯と名言 (3) 阪神・楽天監督篇 ~夢追い人が低迷2チームをV~

 星野仙一さんの生涯と名言の3回目(最終回)は、中日監督を辞任して以降を紹介します。

 2001(平成13)年の暮れ、シーズン5位だった中日の監督を退任した星野仙一さんには、NHKからキャスター復帰のオファーがありました。
 再び、メディアの世界へ戻るのかと思われたその時、星野仙一さんに、最下位(57勝80敗3分け 勝率.416)に低迷していた阪神タイガースから、監督就任の打診がありました。

 長嶋茂雄さんから「阪神の監督就任を強く勧められた」ことや、「人間というのは、助けてくれと言われて、助けないと悔いが残る。」(阪神監督就任の記者会見)という思いで、星野仙一さんは阪神の監督を引き受けることになりました。


 5位のチーム(中日)の監督を辞任した直後に、同じリーグの最下位(6位阪神)の監督に就任するのも異例だと思いますが、それだけ星野仙一さんの手腕が高く評価されていたということだと思います。

 星野仙一さんは、色紙によく「夢」とか「夢追い人」とか書いていますが、小さい頃から憧れていたタイガースのユニホームを夢見ていた星野仙一さんは、ずいぶん遠回りしましたが、55歳で初めて縦じまのユニホームを着ることになりました。それも監督としてです。
 ある意味、「星野ドリーム」の叶った瞬間でした。


 翌年2002(平成14)年の1月5日、阪神就任後、初めて甲子園の土を踏んだ星野仙一さんは、決意をこう表現しています。
「ここが、俺の死に場所だ。」


<写真 星野仙一さんのサイン色紙>






 
 星野さんを阪神の監督に推薦したのは、実は前任の野村克也さんでした。野村さんは、3年間、阪神の監督をしましたがOBらとの確執で再建を諦め、「負け癖のある今の阪神を再生できるのは、星野仙一だ。」と星野さんを強く推薦しました。

 星野仙一さんが阪神タイガースの監督に就任した2002(平成14)年は、前年まで2年連続最下位だったチームを、4位に引き上げました。

 2002年のシーズンが終わると、星野監督は、広島からFA宣言をしていた金本知憲(現阪神監督)を取るなど、大幅に選手を入れ替えました。
 
 星野阪神2年目の2003年は、この年の流行語大賞にもノミネートされた「勝ちたいんや」を合言葉に、快進撃を続け、87勝51敗2分けの勝率.630で、見事、セントラルリーグ優勝を成し遂げました。
 監督就任2年目で、阪神タイガースを18年ぶりの優勝に導いた星野仙一さんの手腕は、高く評価され、正力松太郎賞を受賞しました。

 しかし、星野監督自身、3回目となったこの年の日本シリーズでは、王貞治監督率いる福岡ダイエーホークスと対戦し、3勝4敗で敗れました。
 これで監督で出場した日本シーリズは、3度とも巨人出身の監督とあたり、3度とも敗れました。

 実は、星野仙一さんは、現役の中日選手時代にも、2回、日本シリーズに出場しています。
 巨人V10を阻んだ1974年は、巨人OBの金田正一監督率いるロッテオリオンズに、2勝4敗で敗れました。
 さらに、1982年も、巨人OBの広岡達郎監督率いる西武ライオンズに、2勝4敗で敗れました。

 つまり、星野仙一さんは、選手・監督を含め、ここまで日本シリーズに5回挑戦し、そのいずれも、巨人出身の監督に日本一を阻まれたことになります。


 日本一には5度なれませんでしたが、阪神タイガースを優勝させた星野さんは、一躍、時の人になりました。
 阪神優勝時の星野仙一さんの言葉です。
「あーしんどかった。やはり、この縦じまで、この甲子園で、みんなの前で胴上げされたかった。
 本当に選手が、ファンの夢をかなえてくれた。ありがとう。」

 阪神の監督として優勝した2003年10月7日、この年最後の伝統の一戦(阪神ー巨人)が甲子園で行われた時、引退が決まっていた巨人の原辰徳監督(第一次)に、自らの提案で花束を贈り、「くじけるなよ。また、必ず帰ってこいよ。」とのメッセージを送りました。

 しかし、そのあと、星野仙一さん自身も、リーグ優勝しながら体調不良のため、2003年限りで、阪神の監督を退任します。

 しかし、「阪神に来て人生が変わった」と自らが言うほど、星野仙一さんは全国区の人気者になり、
「理想の上司1位」に7年連続で選ばれたり、ベストドレッサー賞をもらったり、多くのCMにも出演しました。

 2008(平成20)年の北京オリンピックには、日本代表監督として出場しますが、惜しくも4位でメダルを逃しています。


<写真 日刊スポーツ 星野仙一さん追悼特集号 阪神監督時代の星野仙一さん >




  2010(平成22)年10月、星野仙一さんは、宮城県仙台市で記者会見を開きました。

「ここ数年、野球がまたしたくなった。私は、やっぱり野球人なんだなと思う。」
 パシフィックリーグで、仙台を本拠地とする「東北楽天ゴールデン・イーグルス」の監督に就任することを発表しました。

 ところが、翌2011(平成23)年の3月11日、兵庫県明石市でキャンプをしていた星野楽天の選手たちに、「東日本大震災で、東北に甚大な被害があった」というニュースが飛び込んできました。
 星野仙一新監督は、楽天のユニホ-ムを着る直前に、大きな試練に見舞われました。

 星野監督は、楽天の選手たちに「すぐに、家族の安否を確認しろ。」と指示しましたが、2、3割の選手は家族に連絡が取れず、ずいぶんと心配しました。

 2011年は、本拠地クリネックスタジアム宮城(仙台市)が、大震災の影響で壊れ、開幕も2週間延期になりました。
 楽天は、開幕後も、当初は甲子園など関西の球場で試合するハンディがり、結局5位になりました。

 星野仙一さんは、この年のシーズンオフに、こう語りました。
「今年は、ペナントレースの順位は5位だったが、うちの選手たちは、毎試合、午前中に被災地でボランティアをして、夕方から試合をした。だから、うちの球団はボランティアの順位では。日本一だった。
 今年は、これでええんじゃ。」

 翌2012年、楽天で2年目の星野監督は、5月11日の勝利で、史上12人目の監督通算1000勝を記録しました。
 最終的には、3位と1ゲーム差の4位でしたが勝率はちょうど5割で、借金0になりました。

 そして就任3年目の2013(平成25)年に、楽天の快進撃が始まりました。
 特に、現在、ニューヨークヤンキースにいるエースの田中将大投手は、開幕から連勝を重ね、28試合登板で24勝0敗1セーブと勝率10割を記録しました。

 結局、楽天ゴールデンイーグルスは、2013年シーズン、82勝59敗3分けで、勝率5割8分2厘を記録し、球団初のリーグ優勝に輝きました。
 異なる3球団で優勝した監督は史上3人目、セ・パ両リーグで優勝した監督は、史上6人目でした。

 そして、日本シリーズでは、あの因縁の巨人(原辰徳監督)と戦いました。
 星野仙一さん自身、監督として4回目、選手を含めると6回目の日本シリーズでしたが、そのすべてが巨人OBの監督が率いるチームとの対戦でした。

 そして、6度目の正直で、4勝3敗で「チームとしての巨人」に勝って、初の日本一に輝きました。
 この時の星野仙一さんの優勝インタビューの言葉です。

「東北の子供たち、全国の子供たち、そして被災地の人たちに、これだけの勇気を与えた選手たちを、褒めてやってください。」

 ちなみに、この時、星野仙一さんは66歳で、リーグ優勝も日本シリーズ優勝も、日本プロ野球史上、最年長の監督でした。


<写真 楽天時代の星野仙一監督(右) 愛媛県松山市にて>








 日本一になった翌年、2004(平成16)年は、シーズン途中で腰痛が悪化し、星野仙一監督は、休養し、シーズン末には、楽天監督を辞任しました。
 中日で11年(リーグ優勝2回)、阪神で2年(リーグ優勝1回)、楽天で4年(リーグ優勝・日本一1回)という生涯の監督成績で、通算1181勝は歴代10位、投手出身監督では唯一の1000勝監督です。

 2015年に楽天副会長に就任しますが、2016年7月にすい臓癌が発見され、余命半年と診断されますが、公表しませんでした。
 余命半年のはずの病気と、「闘将」星野仙一さんは戦い、結局1年半、寿命をのばしました。

 その間、2017(平成29)年1月16日に、星野仙一さんは野球殿堂入りを果たしました。その祝賀会での言葉です。

「野球と恋愛してよかった。もっともっと野球に恋をしたい。
まだ、全国津々浦々に、子供たちが野球のできる環境を作りたいという、夢をもっています。」


 星野仙一さんは、2018(平成30)年1月4日、娘さんがいる三重県津市で、すい臓癌のため70歳で亡くなられました。
 棺には、楽天のユニホームと扶沙子夫人の写真が入れられました。

 岡山に生まれ、東京の明治大学・神宮球場で活躍し、名古屋で中日の選手・監督として優勝し、兵庫県の甲子園球場で阪神を優勝に導き、最後は被災地・宮城県仙台市で楽天を日本一にした星野仙一さんは、日本の星となって、愛娘のいる三重で、70歳の生涯を終えました。


 おしまいに、星野仙一さんのいい話を、と言っても、たくさんあるので2つ紹介します。

 1つ目は、星野さんは記者たちを大切にし、キャンプ中、ほとんど毎日、番記者たちを誘い朝食をとったそうで、その時のメニューは、目玉焼きとレモンティでした。

 そんな星野さんに、ある記者が「子供のしつけは、どうすればいいのですか?」と質問すると、
「子供には、良いことと悪いことの違いだけを教えればいい。」とおっしゃったそうです。
 星野仙一さんの性格・人生をよく現わしているなと思います。


 もう1つは、星野仙一さんのボランティアの話です。
 1回目で紹介したように、母子家庭に育ち、中学の時には近所の筋ジストロフィーの友達を毎日おぶって登校した星野仙一は、大人になっても、恵まれない子供たちへの愛を忘れませんでした。

 「人生の1%はボランティアに捧げよう」と選手たちに解き、自身も、故郷・岡山の障害者施設に、毎年のように寄付を続けました。
 燃える男「星野仙一」は、勝負だけではなく、ボランティアにも燃える男でした。

 最後は、星野仙一さんのレクエムです。


詩「燃える男が被災地・東北に残したもの」

2018年1月
燃える男
星野仙一が燃え尽きた

巨人のV10を阻止し
中日・阪神をリーグ優勝させ

そして
2011年の東日本大震災から
2年後
仙台の楽天イーグルスを初めて日本一にした

被災地には
まだ まだ 地震と津波の傷跡が残る

見渡す限り何もない
元住宅地の被災地

遠くで波音が聞こえ
遠くで 福島原発の不気味な放射線の音
そして 多くの被災者の悲鳴

そんな東北で
そんな仙台で

燃える男・星野仙一が
心の復興をし
日本一に導いた

あの日の2人の主役

1人目のマー君は 遠くアメリカ・ヤンキースで
メジャーの打者を相手に 快投を続けている

もう1人の主役 星野監督は
仙台を愛し 東北を愛し
そして 2018年1月
海に帰っていった

瀬戸内で生まれ
東京湾でビッグになり
伊勢湾で大成し
そして
太平洋へ

星野仙一が 東北の地に残したものは
勇気と 情熱と
「夢は努力すれば叶う」という
奇跡の1本杉のような
希望だった

何もない被災地に
星野さんの高笑いが聞こえた

そう
彼は「岡山の奇跡」として生まれ
「神宮に奇跡」を起こし
「名古屋」で大成し
「阪神」を改革し

そして
「東北・宮城」に
夢の種を育てて
空に帰っていった

(じゅんくう詩集より)



2018年1月23日火曜日

星野仙一さんの生涯と名言 (2) 中日の選手・監督時代篇~アンチ巨人と奥さんへの愛に燃えた男~

 元プロ野球選手の星野仙一さんの生涯と名言の2回目を、紹介します

 星野仙一さんは、明治大学4年生の1968(昭和43)年の「プロ野球ドラフト会議」で、セントラルリーグの中日ドラゴンズに1位指名され、入団しました。

   星野さんは、子供の時から阪神ファンでしたが、母校の明治大学と阪神タイガースが仲が悪かったため、阪神の指名はないと思っていました。
 一方で、巨人からは「1位指名を考えている」と言われていたのに、結果的に「裏切られた」という気持ちが強く、以来、星野さんは「アンチ巨人」となりました。


 星野仙一投手は、プロレビューの1969(昭和44)年は、49試合に登板(先発16試合)して、8勝9敗、防御率3.12と、上々の成績でした。

 また、星野仙一さんのレビュー時の背番号は22でした。
 星野さんは、子供の頃から憧れていた阪神の村山実投手の背番号11を希望していましたが、空いてなかったため、倍の22番にしました。

 入団2年目の1970年には、得意の速球で二ケタの10勝を挙げました。
 3年目の1971(昭和46)年には、背番号を中日のエースナンバーの20番に変えましたが、肘を痛め、速球派から変化球投手に変身しました。

 それでも、星野仙一投手は、先発・リリーフの両方で活躍し、14年間の現役生活で、500試合に登板し、通算146勝121敗34Sで、防御率は3.60の成績でした。

 大学卒業後のプロ入りで、名球会の入会資格(200勝)には達しませんでしたが、二けた勝利を8回記録しました。

 特に、王・長嶋のスーパースターを擁していた巨人が10年連続日本一(V10)を目指した1974(昭和49)年のシーズンには、巨人の10連覇を阻む胴上げ投手となり、「沢村賞」を獲得しました。

 この時のセリーグ優勝祝賀会で、星野投手は「日本シリーズは邪魔、巨人に勝ったからもういいんや。」と言ってしまいました。
 結果的に日本シリーズでは、パリーグ優勝のロッテに敗れました。
 結局、星野仙一投手が、選手時代に日本一になることはありませんでした。

 それでも、星野仙一投手は、全盛期の巨人相手に、35勝31敗と勝ち越し、「巨人キラー」と言われました。

 1982(昭和57)年、「燃え尽きたので、マウンドを降ります。」の名言を残して、35歳で、星野仙一選手は、14年間の現役生活にピリオドを打ちました。
 選手時代は、最後まで中日ドラゴンズ一筋でした。


<現役の頃の星野仙一さん(中日ドラゴンズ)の野球カード>







 1983(昭和58)年、現役を引退した星野仙一氏には、マスコミのオファーが殺到し、NHKの野球解説者や、日刊スボーツや「Number(文藝春秋)」の野球評論家を務めました。

 さらに、1985(昭和60)年には、大塚範一さん(のちのフジテレビ系「めざましテレビ」のキャスター)や野中ともよさんと、NHK総合テレビ「サンデースポーツスペシャル」の初代キャシターに就任しました。

 この番組で、現役時代の「こわもて」の印象から、一転、ソフトな笑顔で、全国的な人気者になりました。
 彼は、スポーツ選手のキャスターの「草分け」的な存在でした。

 1986(昭和61)年のシーズンオフに、中日ドラゴンズからのオファーを受けて、1987年に中日の監督に就任します。

 当時、星野さんは、「年収が何分の1になっても、俺は現場に帰る。」との名言を残しました。
 また、監督就任の記者会見での「笑ってください」との記者のオファーに、「これから戦場に行くのに笑えるか。」と、怒鳴りつけました。

 1987年中日の監督になった星野仙一さんは、「闘将」「燃える男」と呼ばれ、人情味はあるが厳しい監督でした。

 意外ですが、星野さんが現役時代には1度も「退場処分」になりませんでした。
 しかし、監督就任1年め、2年目と、連続で、プロ野球の両リーグ通じて、シーズン最速の「退場処分」を受けました。

 しかし、星野監督は、就任1年目に、前年5位だったチームを2位に引き上げ、翌1988(昭和63)年には、見事に中日ドラゴンズをセントラルリーグ優勝に導きました。

 優勝会見で、試合中に笑顔を見せたことを記者に指摘されると、
「今日ぐらいは、笑顔を見せなきゃバチがあたる」と答えました。


 その年の日本シリーズは、星野さんが選手として対戦したV9時代の巨人の正捕手・森祇喜(もり・まさあき)監督が率いる西武ライオンズと対戦しましたが、1勝4敗で敗退しました。
 投手として、「巨人キラー」だった星野仙一さんですが、監督初の日本シリーズでは、巨人OBの監督に敗れました。

 星野仙一さんは、中日ドラゴンズ監督の1期目を、1987(昭和62)年から1991(平成3)年まで5年間務め、2位・優勝・3位・4位・2位という好成績を収めました。


<中日ドラゴンズ時代の星野仙一監督のベースボールカード>






 1991(平成3)年の年末、星野仙一さんは「健康上の理由」で、突然、中日ドラゴンズの監督を辞任しました。

 実は、この辞任は、星野仙一さん本人の「健康上の理由」ではなく、奥さんの扶沙子さんが「白血病」になったための「健康上の理由」でした。
 その後、星野仙一さんは、献身的に奥さんの看病をしました。

 仙一さんと扶沙子さんの出会いは、仙一さんが神宮球場で明治大学の選手として野球をやっていた時に、当時、敵の慶応大学の学生だった扶沙子さんが、「おまんじゅう」を差し入れたこと、だったそうです。

 仙一さんは一目ぼれし、プロ入りの際に、「もう決めた。お前に決めたから。」と、プロポーズをしたそうで、扶沙子さんは黙ってうなずきました。

 そんな愛妻の扶沙子さんが「白血病」にかかったので、その看病のために、監督を辞任した星野仙一さんは、「野球に燃える男」だけではなく、「奥さんへの愛にも燃える男」だったのです。
 やさしくて、かっこいいですね。


 星野仙一さんは、再びNHKのスポーツキャスターや、中日スポーツ客員などを務めていましたが、奥さんの扶沙子さんの病状が一時的に回復したことと、その扶沙子さんに、
「私、やっぱり、あなたのユニホーム姿が、一番好きだわ。」と言われて、1995(平成7)年暮れに、ふたたび中日ドラゴンズの監督に就任します。

 1997年1月30日、残念ながら扶沙子さんは51歳の若さで白血病のため、亡くなりました。
 星野仙一さんの2期目の中日ドラゴンズ監督は、1996年から2001年まで、世紀をまたいで6年間続きました。
 その間、1999(平成11)年には、2度目のセントラルリーグ制覇を成し遂げました。

 しかし、この年の日本シリーズでも、巨人V9時代の主砲・王貞治監督率いる「福岡ダイエーホークス」に、1勝4敗で敗れ、またも日本一の夢を、巨人出身監督に阻まれました。

 
 そして、リーグ5位に終わった2001(平成13)年暮れ、星野仙一さんは辞任を決意します。

 星野仙一さんは、記者会見で、
「成績不振が理由のすべてではない。初監督の時は5年、今回は6年目。同じ人間が長い間権力の座に座ることは、組織上好ましくない」と語りました。(どこかの政治家に聞いてほしいですね。)

 この2001年を最後に、星野仙一さんが、「中日ドラゴンズ」のユニホ-ムを着ることは、二度とありませんでした。

 しかし、星野仙一さんのプロ野球人生は、ここで終わったわけでは、ありません。
 このあとの話(阪神と楽天時代)は、3回目(最終回)で紹介します。


 最後に、星野仙一さんのポジティブな名言を、もう2つ紹介します。
 
「迷ったら前へ。苦しかったら前に。つらかったら前に。
 後悔するのはそのあと、そのずっと後でいい。」

「やるべきことだと思っていることを、
本気になってやっていかなければ自分の人生は、
なにひとつ変わっていきはしない。
本気か、本気でないのかが人生の分かれ道だ。」


2018年1月17日水曜日

燃える男・星野仙一さんの生涯と名言 (1) 青春篇~甲子園も神宮優勝も遠く~

「野球に恋をしてよかった。もっともっと野球に恋をしたい。
全国津々浦々に、子供たちが野球をできる環境を作りたいという夢を持っています。」

 これは、2017年11月に行われた、「野球殿堂入りを果たした祝賀会」での、星野仙一さんの言葉です。

「燃える男」と言われた星野仙一さんが、2018(平成30)年1月4日に、70歳で亡くなられました。
 今回から、燃える男・星野仙一さんの生涯と名言を紹介します。



 星野仙一(ほしの・せんいち)さんは、1947(昭和22)年1月22日、岡山県福田町(現在の倉敷市)で生まれました。
 お父さんは正田仙蔵さんで、「三菱重工業水島航空製作所」に勤務していましたが、脳腫瘍のため、48歳の若さで、星野仙一さんが生まれる前に亡くなりました。
 ですから、星野さんは、お父さんの顔を知りません。

 仙一さんのお母さんの名前は星野敏子さんです。両親の苗字が異なるのは、双方が生家の跡取りだったため、入籍していなかったためです。
 両親の間で、「最後に生まれた子が星野姓を継ぐ」という、約束があたっため、2人の姉は正田姓を名乗り、末っ子の仙一さんが「星野」姓を継ぐことになりました。


 星野さんの家は「母子家庭」だったので、お母さんの敏子さんは、朝3時から豆腐屋の手伝いをし、昼間は寮母、夕方は皿洗いと、1日中、働きました。

 そんなお母さんに育てられた仙一少年は、水島中学に入ると野球の上手い「ガキ大将」になっていました。
 でも、ただのガキ大将では、ありませんでした。
 
 仙一少年は、近所に住んでいた同級生の難病「筋ジストロフィー」の少年を、毎朝、背負って中学へ通っていました。
 さらに、放課後も彼を背負って公園へ行って、彼を見学できる所に座らして、野球をしていたそうです。

 少年の家族は、「星野仙一さんのやさしさのおかげで、息子は生きがいができて、余命わずかと言われいたのに、42歳まで生きることができました。」と、話されています。
 星野仙一さんと難病の少年との友情は、彼が亡くなる42歳まで続きました。

「やさしいガキ大将」っていいですね。


<写真 星野仙一さんの母校 岡山県立倉敷商業高等学校>





 水島中学3年の時、星野仙一少年は県内でも有名な野球少年になっていました。

 彼は、本当は甲子園常連校の「倉敷工業高校」に行くつもりでした。
 ところが、倉敷商業高校の角田有三野球部部長に「倉敷商業を甲子園に連れて行ってくれ」と説得され、岡山県立倉敷商業高等学校への進学を決めました。

 星野仙一さんは、高校でも番長で、倉敷商業高校を仕切って(?)いました。
 けんかも、四六時中やっていて、警察にも何度も事情聴取されました。

 しかし、星野さんは、
(1)弱い者いじめはしない、
(2)相手が大勢でも1人で戦う、
(3)ならず者の暴力は許さない、
の「けんか三原則?」を守って、戦いました。

 野球部でも活躍し、倉敷商業は強くなりましたが、1年生、2年生ともに甲子園には出場できませんでした。
 そして、星野仙一さんが4番でエースだった高校3年生の夏、最後で最大のチャンスがやってきました。

 夏の岡山県大会を制した星野さんがエースの倉敷商業は、鳥取県代表との東中国代表決定戦に進みました。夢にまで見た甲子園まであと1勝です。
 相手は、前年の練習試合で16対0で7回コールド勝ちをしている米子商業高校でした。

「絶対、勝てる」そう思って臨んだ試合は、まさかの2対3で敗れました。
結局、星野仙一さんは、高校生として甲子園の土を踏むことはできませんでした。

星野仙一さんは、のちにこう語っています。
「甲子園に行けなかったのは、本当に悔しかった。しかし、その悔しさのお陰で、神宮の大学野球やプロ野球を目指す夢を見るようになった。だから、甲子園に行けなかったのは、逆によかったかも知れない。」

”剛腕”の星野仙一青年にしても、「青春の甲子園」は遠かったということですね。


<写真 東京六大学リーグの本拠地「神宮球場」(東京都新宿区 神宮外苑)>






「今の時代、大学まではいかんとだめじゃ。プロをめざすのは、それからじゃ。」
 母・敏子さんの言葉に後押しされ、星野仙一青年は、大学進学を決意します。(実は、高校時代に、広島カープのスカウトから、息子・仙一さんのプロ入りを、敏子さんは打診されていましたが、大学進学を理由に断りました。)

 星野さんは、「大学は、関東なら早稲田大学、関西なら関西大学」が希望でした。
 しかし、「俺の母校へ行け」という倉敷商業の矢吹監督の一言で、星野仙一青年は、明治大学経済学部へ進学しました。



 明治大学は「東京六大学リーグ」に加盟するレベルの高い野球部ですが、星野仙一さんは、1年生からレギュラーでした。

 六大学リーグ通算で、63試合に登板し、23勝24敗、防御率1.91、奪三振199というすごい成績で、2年生の立教大学戦では、ノーヒットノーランも達成しました。
 しかし、田淵幸一・山本浩司さんらがいた法政大学や、矢沢健一さんらがいた早稲田大学に阻まれ、星野さんは、六大学で1度も優勝できませんでした。

 ただ、星野仙一さんは、大学時代に、明治大学野球部の島岡吉郎監督から、優勝以上のものを学びました。それは、「一生懸命に生きる」ということでした。

 早大戦で、3回でKOされた時に、島岡監督に真夜中にグランドへ呼び出され、パンツ一丁でマウンドに正座させられました。
 正座は夜明けまで続きました。

 夜が明け始めると、星野青年は、バックネットに1つの影があることに気づきました。島岡監督でした。
 自分と一緒に、一晩中、グランドにいてくれた監督に感動し、星野仙一さんは、「一生懸命に生きる」ということの大切さを知らされました。

 それ以来、星野さんは島岡さんを尊敬し続け、プロに入っても、「俺は、明治大学野球学部島岡学科出身だ」と、話しました。

 甲子園出場も六大学優勝もなかった星野仙一さんの、青春(高校・大学)時代ですが、星野青年は、「甲子園」や「優勝」よりも大切なものを学びとり、いよいよプロ野球への道を歩みだします。

 今回のおしまいに、星野仙一さんの名言を一つ、紹介します。

「大変という意味は、大きく変わるということ。
 ピンチはチャンスの前触れ、
 大難を偲ぶ者は、大善を引き起こす。」


 2018年1月6日早朝、星野仙一さんの後輩・明治大学野球部の学生たちは、年頭の初練習に先立ち、大先輩の星野仙一さんに黙とうを捧げ、1年をスタートさせました。
 今も、明治大学で、星野仙一さんの魂は生きています。
<2回目に続く>

2018年1月8日月曜日

アイドルの坂道(13)成人式を迎えた注目アイドルと「炎上が特技」自由すぎるアイドル・中井りか<NGT48>さん

 アイドルの坂道、13回目の今回は「2018(平成30)年に成人式を迎える注目アイドル」を前半で紹介し、後半は「趣味は、ネットを炎上させることです」と自分で発言する20歳の「自由すぎるアイドル・中井りかさん(NGT48)」を。紹介します。


 まず、2018年に成人式を迎えるみなさんは、1997(平成9)年4月から1998年3月までに生まれた人と考えると、全国で123万人います。(総務省発表)
 新成人のみなさん、おめでとうございます。


 「アイドルの坂道」では、この中で女子アイドルを中心に紹介します。

 まず、モデルや女優さんの分野では、「岡山の奇跡」と呼ばれる桜井日奈子(さくらい・ひなこ、1997年4月2日、岡山県出身)さんが成人します。
 「大東建託」や「白猫プロジェクト」「コスモ石油」などのCMに出演している女優さんです。

 つづいて、モデルでテレビにも頻繁に出ている藤田ニコル(ふじた・にこる、1998年2月20日、ニュージランド出身)さんや、女優の杉咲花(すぎさき・はな、1997年10月2日、東京都出身)さんも新成人に該当します。


<写真 AKB48グループが成人式に参拝する「神田神社(神田明神) 東京都千代田区外神田」>





 2018年新成人を迎えるアイドルグループで注目なのは、何と言っても有力メンバーの新成人が目白押しの「AKB48」グループです。(坂道グループには、主要メンバーは少ないです。)

 AKB48グループは、毎年、本拠地の「秋葉原」をはじめ、神田・大手町などの総氏神である「神田神社(神田明神)」(東京都千代田区外神田)で成人式の参拝をしています。
 今年の成人メンバーを紹介します。


 まず、2017年の「第9回AKB48選抜総選挙(以下「選抜総選挙」という)」で4位に入り、AKB48本社とHKT48(福岡県福岡市博多)の両方でセンターの経験をもつ、HKT48チームKⅣ副キャプテン・AKB48チームA兼任の宮脇咲良(みやわき・さくら、1998年3月19日生まれ、鹿児島県出身)さんがいます。

 今春には、チームAの兼任解除になりますが、AKB48グループを代表するメンバーの1人です。
 キャッチフレーズは、「あなたもあなたもみんなの心に(さくら咲け)、鹿児島から新幹線さくらに乗ってやってきました。宮脇咲良19歳です」。


 続いて、「第9回総選挙」9位に入り、AKB48チーム4の副キャプテンと、STU(瀬戸内)48のキャプテンを兼任する岡田奈々(おかだ・なな、1997年11月7日大阪生まれ、神奈川県出身)さんも新成人です。
 まじめで有名な岡田奈々さんは、2018年1月31日に「暗闇(くらやみ)」♪でメジャーデビューするSTU48を、キャプテンとして引っ張ることが期待されています。本社の選抜を9回も経験しています。
 自己紹介は、「20歳、なぁちゃんこと、岡田奈々です。」と簡潔です。


 他にも、有力メンバーが成人式を迎えます。

 選抜総選挙11位で、AKB48チーム4のキャプテンをしている高橋朱里(たかはし・じゅり、1997年10月3日生、茨城県出身)さんも新成人で、本社の選抜を11回も経験しています。
 2015年11月以降は、キャッチフレーズはなく、「チーム4キャプテンの高橋朱里です」と自己紹介をしていますが、それまでは「「いつでも元気に スマイルフォーユー。高橋朱里です。」でした。

 選抜総選挙12位で、NMB48(大阪府大阪市難波)では、選抜を16回も経験しセンター経験もある白間美瑠(しろま・みる、1997年10月14日、大阪府出身)さんも新成人で、AKB48本社の選抜も6回経験しています。
 キャッチフレーズは、「みるの? みないの? どっちかな? (みるー!) みるもみーんなのことみるみる! 大阪出身20歳、みるるんこと白間美瑠です」です。

 次に、総選挙17位でAKB48の選抜9回・センター経験もある向井地美音(むかいち・みおん、1998年1月29日生まれ、埼玉県出身)さんも二十歳です。
 キャッチフレーズは、「埼玉県から来ました、みーおんこと向井地美音です」。 


 結局、2017年選抜総選挙の上位16人の「選抜メンバー」のうち、4人が2018年に成人式を迎えるメンバーで、向井地さんも入れると、20位までのメンバーのうち5人が成人式を迎えることになります。


 それ以外にも、AKB48の話題のメンバー・注目メンバーも、続々と成人式を迎えます。

 まず、演劇に本格的に取り組み、「れなっち総選挙区」を主宰している、選抜総選挙21位の加藤玲奈(かとう・れな、2017年7月10日生まれ、千葉県出身)さんも新成人です。
 キャッチフレーズは、「あれ どこ見てるの? あっち? こっち? (れなっち~!) れなっちこと加藤玲奈です」。

 他にも総選挙23位でNGT48(新潟県)のデビュー曲「青春時計」のセンターの中井りかさんや、選抜総選挙にはランクインしていませんが、2018年1月末デビューのSTU48のセンターの瀧野由美子さんや、「SHOWROOMの女王」のAKB48チーム4の大西桃香さんなどが、成人式を迎えます。


<写真NGT48デビュー曲「青春時計」の中井りかさんのセンター就任を伝える「北日本新聞」の記事(富山県)>







 後半は、今年の新成人の一人で、「特技は、ネットで炎上させることです。」と言って憚らない、自由すぎる型破りアイドルのNGT48(新潟)の中井りかさんを紹介します。

 中井りか(なかい・りか、1997年8月23日生まれ 富山県富山市出身)さんは、2015年7月に新潟で行われた「NGT48 第1期オーデション」を受け、260倍以上の難関を突破し、最終合格しました。

 2016年1月に、NGT48の「選抜メンバー」で作る「チームNⅢ」に昇格しました。
 この年の10月には、早くも集英社の「ヤングジャンプ」の表紙に単独でグラビアが掲載され、翌11月には、AKB48本社の46枚目シングル「ハイテンション」の選抜メンバーに大抜擢されました。

 さらに、翌2017年4月発売のNGT48メジャーデビューシングル「青春時計」のセンターに抜擢され、同曲はオリコンで週間1位になりました。

 中井りかさんは、二十歳には見えない「おひめ様のような超かわいい美貌のアイドル」として人気があり、ニックネームは「りか姫」、「りかちゃん」と呼ばれています。(北日本新聞の写真を見てください。)

 ちなみに、彼女のキャッチフレーズは、「あなたのお姫様は~?(やっぱ、りかちゃ~ん)推し変禁止は絶対命令!『りかちゃん』こと富山県出身中井りかです!」

 無料動画配信「SHOWROOM」でも人気で、フォロワー数はNGT48では荻野由佳さんなどを押さえて断とつトップの43,572人を集めています。
 このフォロワー数は、AKB48グループ全体でも4位にランクインしています。(1位山本彩さん、2位指原莉乃さん、3位宮脇咲良です。)


 と、ここまでは、順調そのものですが、実は「自由すぎるアイドル」として、本人の言うとおり「ネット炎上」の常習犯に、なっています。

 例えば、2017年5月に大阪で行われた握手会では、ファンにせがまれてとった中指を突き上げるポーズがネットに流出し炎上し、支配人が謝罪することになりました。
(ただし、これは本人は意味を知らずにポーズを取った可能性が強いです。)

 一方で、本人が意図して炎上させている可能性が高いものも多くあります。
 例えば、SHOWROOMで「でんぐりがえし」をしたり、Tシャツを生着替えしたりして、下着の一部が出るような動きをしたりします。
 ファンの間では「放送事故待ち」と言って、これを待っている人たちもいます。

 また、アイドルらしくない?「ファンに媚びない配信」をしていて、平気でファンに「おめえらなあ」とか「文句があるなら握手会に来い」と言ったり、メンバーやマネージャーの悪口を言ったりもします。

 また、悲しい時や落ち込んだ時には、号泣配信をしたりもします。
 このような対応で、NGT48内には女友達が少なく、マネージャーとも仲が悪いと本人が告白しています。

 ただし、フ飾らず自然体で配信をする中井りかさのがファンが多いので、フォロワー数が多いのだと思います。(自由すぎる配信が、慣れるとくせになるというファンも多いようです。)
 一方で、女子力は高く、ファションや化粧品の写真をインスタで掲載したり、化粧の方法を「SHOWROOM」で配信したりもしています。

 賛否両論ある中でネットで何度も炎上しても、中井りかさんの勢いは止まりません。

 2017年6月の第9回選抜総選挙では、前年の圏外(96位)から23位に初ランクインし、同時期に行われた「SHOWROOMポイント争奪イベント」でも、チーム8の大西桃香さんには届きませんでしたが、大接戦で2位になり、SHOWROOM選抜の楽曲「プライベートサマー♪」では、最前列で大西さんの隣で踊っています。

 ちなみに、2017年7月末に「北海道での民間ロケット打ち上げ配信」では、中井りかさんと大西桃香さんの2人がサブMCとして競演しました。
 その時、大西桃香さんが律儀に予習をして、まじめな配信をしたのに対して、中井りかさんは「(野外だったので)大きなハチがいる」と配信そっちのけで大騒ぎして、逃げ回っていました。

 まじめに、コツコツ努力する大西桃香さんと、自然体で生きている中井りかさん。
 2人の「SHOWROOM女王」の、性格の違いがよく出ていると思います。


 その後の中井りかさんですが、NGT48のセカンドシングル「世界はどこまで青空なのか」では、荻野由佳さんにセンターを譲りますが、AKB48の50枚目シングル「11月のアンクレット」で4回目の本社選抜入りをしました。

 また、NHK紅白歌合戦にも、2016年、2017年の2年連続で「富山県出身の女性歌手では初めて(本人談)」出場しています。

 さらに、秋からはテレビ番組「白日夢」(フジテレビ)のMCと、「スマートフォンデュ」(テレビ朝日)のアシスタントに就任し、11月には大手の大田プロダクションに移籍しました。

 そして、2018年1月15日には「東京ドームシティホール」で、横山総監督や岡田奈々さんとともに「中井りか単独ソロコンサート」が決定しました。

 自由奔放にやっているのに、次々とスターへの坂道を上り夢を叶えて行く中井りかさん。
 下積みをしながら、アイドルの坂道をコツコツ上っている他のアイドルたちからすると、羨ましい限りですね。


<写真 中井りかさんの故郷「富山市」と立山連峰>





 最後に、いい話をします。

 「第9回選抜総選挙で24位以内に入ったら24時間SHOWROOM配信をします。」という中井りかさんの選抜総選挙の公約を果たすため(結果は23位でした)、2017年8月15日12時10分から翌8月16日の12時54分まで、中井りかさんのSHOWROOMで「24時間の連続生配信」が行われました。

 そのグランドフィナーレに、突然、「新潟市内の公園に1時間後に集まってください。なんとか10人はお願いします。」と、中井りかさんが呼びかけました。

 中井さんは「何人かでもいいから集まって」と言うと、いつもの強気ではなく、不安いっぱいで祈るように指定した公園へ行きました。

 そこには、10人どころか、富山にいるはずの中井りかさんの家族を含む数百人が集まってくれていました。
 その姿を見た時、中井りかさんは感動の涙を流し、みんなの前で土下座をして「ありがとう」と言いました。
 集まった人たちからは、「りかちゃん、りかちゃん」の大歓声が起こりました。

 この感動のラストシーンで終わった24時間配信は、視聴者数30万6734人で、1本1万円するファンの「応援タワー」が70本以上、立ちました。
 今までのところ、「SHOWROOM」の視聴者数が30万人を超えたのは、AKB史上では、これが最初で最後です。

 2018年1月7日の「れなっち総選挙」の2次試験の面接で、中井りかさんは、
「私の特技は、ネットを炎上させることです。」
と堂々と自己紹介し、笑いをとった後、こう続けました。
「でも、一生懸命、生きています。」

 
 もしかしたら、中井りかさんの「自由すぎるアイドル」は、実はアピールするために考え抜いた表現方法なのかも知れませんね。

 もちろん、これは「とびきりかわいい容姿」の中井りかさんだから、できることだと思います。

 彼女のファンは、実は女性の方が多いそうで、「媚びないアイドル」として、AKB48の第3回ドラフト会議の最終審査に残ったアイドルの卵たちの間でも、NGT48の中井りかさんが、1番人気でした。
 意外と女子の方が、真実を見抜いているのかも知れませんね。

 そう言えば、中井りかさんは自らを「釣り師」(ファンを釣ってくるという意味)と呼びますが、これは中井さんが尊敬する元NMB48の「みるきーこと渡辺美優紀さん」を意識しているようです。
 渡辺さんは、時々、自分を「わるきー」と呼んでいました。
 この「わるきー」を、中井りかさんも目指しているのかも、知れません。

 おしまいに、中井りかさんの配信の最後にすることを、紹介します。
 まず、魚(ファン?)を釣り上げる動作をして、「うーん、よいしょ。」とかわいく言います。
 続いて、両手でアルファベットの形を作りながら、「O(オー)、Y(ワイ)、S(エス)、M(エム)」と言い、最後に「おやすみ」と笑って配信を終わります。

 結構、たくさんの魚(ファンの心)が、釣られてしまっているのかも、知れませんね。


 2018年1月の成人式で「大人」になった、中井りかさんを含む多くのアイドルたち、そして同じ世代の123万人の新成人が「すてきな大人」になることを願って、このブログを終わります。

「O、Y、S、M  おやすみ」???

 
 

2018年1月3日水曜日

2018年開幕! がんばれと言わない応援ソングの名曲「明日も」♪ SHISHAMO

2018(平成30)年、明けましておめでとうございます。何より皆さんと一緒に、新しい年を迎えられたことが嬉しいです。
昨年、1年間、ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

病み上がりの2018年の未来は、決して明るいとは言えませんが、
1日1日を大事にして、体も大切にして、
無理せずにがんばって前へ進んで行こうと思います。



そこで、今年の最初のブログは、仕事や学校が再開する憂鬱と戦っている皆さんに、
2017年のNHK紅白歌合戦でも歌われ、CMでもおなじみの名曲、SHISHAMO(ししゃも)の「明日も♪」の歌詞と背景を、紹介したいと思います。


「明日も♪」は、メロディーももちろん良いのですが、何より歌詞を見て「がんばれと言わない応援歌」だと感心してしまいました。

 まず1番を紹介します。



♪「明日も」 (作詞・作曲 宮崎朝子、歌:SHISHAMO)


(1)
月火水木金 働いた
まだわからないこと だらけだから
不安が僕を占めてします
時々 ダメになってしまう

月火水木金 働いた
ダメでも 毎日 頑張るしかなくて
だけど 金曜日が終われば 大丈夫
週末は僕のヒーローに会いに行く

ダメだ もうダメだ 立ち上がれない
そんな自分 変えたくて 今日も行く

良いこと ばかりじゃないからさ
痛くて泣きたい 時もある
そんな時に いつも
誰よりも早く 立ち上がるヒーローに会いたくて
痛いけど走った 
苦しいけど走った

報われるなんて 分からないけど
とりあえずまだ 僕は折れない
ヒーローに自分重ねて
明日も



<写真 「明日も」♪が、ここでのサッカー観戦中に作られたという等々力競技場(神奈川県川崎市)>


 
 
この1番の歌詞は、社会人の若者が会社で苦労しながらも、
「ヒーローに自分重ねて、まだ折れない」という、自分への応援ソングになっています。
 この歌の特徴は、「もうダメだ」「痛くて泣きたい」といいながら、
「月火水木金」のあとの週休2日制の土日の休みには、
「週末はヒーローに会える(なれる)」のを心の支えにしている点です。


 因(ちな)みに、戦争中には、「月月火水木金金」という歌があったと聞いていますが、平成の今は「月火水木金」を乗り越えれば、週末の休みが2日あります。


 もう一つ、この歌詞で「今どきだなあ」と感心したのは、
「頑張るしかなくて」という言葉は出てきますが、
昭和の応援ソングの定番の命令形の「がんばれ」は1度もない点です。




SHISYAMO(ししゃも)は、 2010(平成22)年に、神奈川県にある川崎市立川崎総合科学高等学校の同級生だった宮崎朝子さんと松本彩さんが結成したガールズ・ロックバンドです。
その後、同級生の吉川美冴貴さんが加入し、「スリーピースバンド(3人組)」になりました。



 もともとのバンドの名前は、漢字の「柳葉魚(ししゃも)」でしたが、2012年に、全国の高校アマチュアバンドが集まる第9回「TEENS ROCK IN HITACHINAKA 2012」で「宿題が終わらない」を披露し、優秀賞とボーカル賞を受賞したのを機に、「SHISYAMO」に改名しました。


その後、3人は、2013年に高校を卒業し、本格的なバンド活動を始めました。
2014年には、メジャーデビューしますが、メンバーの1人の松本彩さんが卒業し、
代わりに松岡彩さんが入り、現在の3人組になりました。
 
ここで、現在のメンバーを紹介します。
 
・宮崎朝子さん(みやざき・あさこ 1994年神奈川県生まれ。ボーカル、ギター。ほとんどの曲の作詞・作曲。)

・松岡彩さん(まつおか・あや 1996年大阪府生まれ、ベース。アルバイト中に宮崎さんに誘われる。)

・吉川美冴貴さん(よしかわ・みさき 1994年神奈川県生まれ、ドラムス、リーダー)


 2016年1月4日に、武道館単独ライブを開催し、チケットは完売し大成功しました。
 翌年、2017年1月に、NTTドコモのCMに抜擢され、メンバーが出演し、「明日も♪」の曲も、
全国に流れ、SHISYAMOの知名度は、一挙に全国区になりました。

 さらに、2017年12月には、NHK紅白歌合戦に初出場しました。
 
 ドコモのCMでは、魚の
柳葉魚(ししゃも)」の話もしていましたので、
ここで、蛇足を承知で魚の「ししゃも」を紹介します。


 「柳葉魚(ししゃも)」は、キュウリウオ科の魚で、世界でも北海道の太平洋側の一部でしか獲れません。この魚は回遊魚で、北海道の河川で生まれ、2才の晩秋に北海道の河川に戻り、遡上して産卵します。
 アイヌの伝説では、「神様がくださった魚」とも言われています。
 以前は安価な魚で、よく酒の肴として焼いて食用にされていました。
 
 蛇足の蛇足ですが、「ひとり旅」♪(作詞・吉田旺、作曲・浜圭介 1976年)という、佐良直美さんや美空ひばりさん、天童よしみさんらが歌った曲の中には、
「♪見知らぬ町の 古い居酒屋で ししゃも肴に ひとり飲んでます♪」という歌詞があります。

 しかし、現在はししゃもの漁獲量が激減し、同じキュウリウオ科のキュウリウオやカラフトシシャモが、代用されることが多くなっています。


<写真 柳葉魚(ししゃも)>




 遠回りしましたが(笑)、「明日も♪」の2番の歌詞、学校編を紹介します。

 

(2)
月火水木金 学校へ
友達の話題についていくのは 本当は
私にとっては 大変で
私が本当に好きなのは 昨日のテレビじゃない

月火水木金 学校へ
本当は渋谷も原宿もわからない
だけど金曜日が 終われば大丈夫
週末は 私のヒーローに 会いに行く

ダメだ もうダメだ 涙も拭けない
そんな自分変えたくて 今日も行く

ちっぽけなことで悩んでる
周りの人は 笑うけど
笑いもせず ただ 見せてくれる 
走り方 ヒーローが 教えてくれる

痛いけど 走った
苦しいけど 走った
明日が変わるかは わからないけど
とりあえず 私は折れない
ヒーローに 自分重ねて
明日も



 2番の歌詞は、学校に行くのが嫌な、あるいは不登校の生徒や児童の皆さんに、ぜひ味わってほしいです。
 この歌詞のとおり、本当はほとんどの子供たちが学校は嫌いだけど、
「痛いけど、苦しいけど」行っていることに、気づいてほしいです。

私も、生徒の時の学校生活の思い出は、痛くて苦しいことが多かったです。
でも、折れないで 月火水木金、通ったことを思い出します。

結局、ほとんどの人が、仕事も学校も、苦しい中、痛い中、通学しています。
でも、自分の明日のために、折れないで逃げないで、通っているんです。
そのことに、気づいてほしいです。
 
<写真 2017年2月発売で「明日も」が入っているアルバム「SHISYAMO 4」>




「明日へ♪」は、サッカーJ1リーグの「川崎フロンターレ」の応援ソングです。

 SHISYAMOのメンバー3人は、川崎フロンターレのサポーターで、大ファンです。
 この「明日へ」の曲も、川崎市にある等々力陸上競技場で、SHISYAMOのメンバーが川崎フロンターレの応援をしているときに、宮崎朝子さんがインスピレーションを感じて作った曲だと、言われています。
 ちなみに、2017年の開幕戦の始球式も、SHISYAMOが行っています。

 2017年12月、川崎フロンターレがJ1で初優勝した時の、宮崎朝子さんのコメントを紹介します。

「本当に本当にうれしいです。そして、生まれてからずっと住んでるこの川崎という街をとても誇りに思います。
 ずっと信じていたので、この結果にビックリはしていませんが、とにかく、川崎フロンターレを応援していて良かったなと心から思いました。

 そして、SHISHAMOにとっても大切な曲である「明日も」という曲で、川崎フロンターレに関われたこと、自分たちもサポーターとして応援できたことは、自分たちの人生の中で、とてもかけがえのない時間だなと感じました。
 これからも応援し続けます!」

 川崎フロンターレがJ1優勝し、SHISYAMOは紅白出場と、2017年は川崎にとって、すばらしい年となりましたね。


「明日も」の歌は、性別や世代を超えて、元気をもらえる名曲だと思います。
それでは、「明日も!」の3番を紹介します。



(3)
良いことばかりじゃ ないからさ
痛くて泣きたい時もある
そんな時にいつも
誰よりも早く立ち上がる ヒーローに会いたくて

痛いけど走った 苦しいけど走った
報われるかなんて わからないけど
とりあえずまだ 僕は折れない
ヒーローに 自分重ねて
明日も

仕事も 恋も 勉強も
一つも 手抜きはできないな
明日の自分のためだと思えば良い
泣くのは別に 悪いことじゃない

昨日の自分を褒めながら
今日をひたすらに 走ればいい
走り方はまた 教えてくれる
ヒーローに自分重ねて
明日も


 
私の2018年は、この「明日も」の歌詞を心に刻みながら、
毎日、手抜きせずに、
でも無理せずに、
仕事に、勉強に、家族のために
ひたすらに、ゆっくりと、
がんばろうと思います。

みなさんも、
報われるかどうかは気にせず、
ゆっくりでいいから、
ともかく、まっすぐに歩き続けて
行きましょう。

頑張れとは言いません。

でも
明日も、あさっても、
2018年も、

折れずに
負けずに
ゆっくりでも
歩いて生きていきましょう。

2018年も
このブログを、よろしくお願いします。