2017年7月30日日曜日

追悼!105歳まで現役医師だった日野原重明さん ~人生と名言~

「鳥は飛び方を変えることはできない。動物は走り方を変えることはできない。
しかし、人間は生き方を変えることができる。」


 これは、2017(平成29)年7月18日、105歳まで現役の医師を務めて亡くなった、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生の言葉です。
 今回は日野原さんの人生と名言を、追悼の意味を込めて紹介します。


 日野原重明(ひのはら・しげあき)さんは、明治から大正に変わる前年の1911(明治44)年10月4日に、山口県の吉敷郡下宇野令村(現・山口市湯田温泉)にあったお母さん・満子さんの実家で生まれました。

 日野原重明さんの両親は、キリスト教徒で、お父さんの日野原善助さんは牧師でした。
 お父さんの善助さんは、重明さんが生まれた時は、アメリカニューヨーク市のマンハッタンにある「ユニオン神学校」に留学中でした。


 重明さんは6人兄弟の次男でしたが、特に1歳上のお姉さんと仲がよかったそうです。
 お父さんの仕事の関係で、山口・大分・神戸などを転々としながら幼い頃を過ごしました。
 
 日野原重明さんが10歳の時、お母さんが尿毒症で倒れて痙攣しました。
 この時、夜中にもかかわらず、駆けつけて治療し、お母さんを救ってくれたのが、安永謙逸先生でした。
 この時の安永先生への尊敬と憧れが、日野原重明さんが医師を目指すきっかけとなりました。

<写真 日野原さんが生まれた、山口県山口市湯田温泉>



 日野原重明さんは、7歳で洗礼を受けキリスト教に入信しました。
 1924年関西学院中学部(兵庫県西宮市)に入学し、1929年には旧制第3高等学校(現・京都大学)に合格しました。
 そして1932(昭和7)年に、京都帝国大学医学部に合格し、子供の頃の夢のとおり、医師への道を歩み出します。

 ところが、1933年、22歳の時に「結核」にかかり、父がいた広島市や山口県光市で、1年間の闘病生活をすることになりました。
 二十代で結核にかかった青年が、100歳以上の長寿になったのですから、人生はわかりませんね。

「私たちの恵みを数えてみれば、どんな逆境にあったとしても、受けているものの方が、与えるものより多いことに気づく。
 受けた恵みをどこかで返そうと、考えたいものである。」
(日野原重明さんの言葉)


 結核療養時に、一旦、医学の道を断念し好きな音楽を志しますが、家族の反対で再び医学の道に戻ります。
 1937(昭和12)年に、京都帝国大学医学部を卒業し、北野病院や京都病院などで勤務します。

 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年に上京し、聖路加国際病院(東京都中央区)の内科医に就任します。

 1942年、東京・田園調布の教会の日曜学校で教師をしていた静子さんと知り合い、結婚しました。
 以後、2013年に静子さんが亡くなられるまで、実に60年以上、日野原重明さんと静子さんの夫婦
は連れ添うことになりました。幸せな夫婦ですね。

 1945(昭和20)年の「東京大空襲」の時には、都心近くにあった聖路加国際病院(戦時中の名前は大東亜中央病院)に、多くのやけどの患者が運び込まれました。
 
 その時のことを、日野原さんは
「薬がないので、新聞紙を焼いて灰にして、やけどの傷口にかけて傷口を乾燥させたが、多くの患者は亡くなった。本当に無力で、戦争の悲惨さを痛感した。」
と話されています。 


<写真 聖路加国際病院(東京都中央区)>



 戦後の1951(昭和26)年に、日野原さんは聖路加国際病院の内科部長に就任するとともに、アメリカジョージア州のエモリー大学に1年間留学します。

 アメリカでは、患部だけでなく患者の心身全体を考える「全人医療」を学び、帰国後、さまざまな改革を始めます。

 まず、1954年に、民間病院として初めて「人間ドック」を開設し、定期検診による「早期発見、予防医療」を定着させます。

 続いて、「成人病」を「生活習慣病」に言い換えることを提言し、患者参加型の医療を目指しました。
 

 1970(昭和45)年3月31日、福岡で開催された学会の帰りに、日野原さんが乗った日本航空の飛行機「よど号」東京行きが、赤軍派により「日本初のハイジャック」にあいました。
 このとき、人質になったのち無事解放された58歳の日野原さんは、「生かされていること」を痛感し、安否を心配してくれた人たちに対する礼状に、次のような言葉を入れました。

「いつの日か。いづこの場所かのどなたかに、受けました大きな恵みの一部を、返していきたいと思います。」
 この言葉は、実は妻の静子さんの提案でした。


 1992(平成4)年、日野原さんは聖路加国際病院の院長になり、1994(平成6)年には、日本初の独立型ホスピスを誕生させ、終末期医療の充実にも尽力しました。

 1995(平成7)年3月の「地下鉄サリン事件」では、現場から近かった聖路加国際病院のロビーを解放し、多くの被害者の手当を陣頭指揮で行いました。


「自分のためにではなく、人のために生きようとするとき、その人は孤独ではない。
他者のための『思い』と『行動』に費やした時間、人のためにどれだけの時間を分け合ったかによって、
真の人間としての証がなされる。」
(日野原重明さんの言葉)


<日野原さんのミリオンセラーを記録した著書「生き方上手」>





 日野原重明さんは、1987(昭和62)年から小中学生を対象に、「いのちの授業」を始めました。
「いのちは見えないし、さわれない。昨日も明日も見えない。
 でも、寝たり、勉強したり、遊んだりするのは、君たちのもっている時間を使っているんだよ。
 時間を使っていることが、生きている証拠。時間の仲にいのちがあるんだよ。」
と子供たちに伝えました。

 そして、授業の最後に日野原さんは、「大きくなったら、君たちのもっている時間を、人のために生きてほしい。」と話しました。


 日野原重明さんは、1999年に文化功労者に選ばれ、2005年文化勲章を受章しました。
 でも、日野原さんは、現役医師にこだわり、100歳を超え、105歳になっても現場で患者と接しました。
 癌の末期患者で、庭いじりの好きな中年の女性には、こんな俳句をプレゼントしています。
「いのち開く きみの笑顔 土の香り」

 
 そして、2017年7月18日、東京都世田谷区の自宅で呼吸不全のため、105歳で大往生を向えました。
 日野原さんは、自分の信念に基づき、延命治療は断りました。

 2017年7月29日、東京都港区の青山葬儀所で日野原重明さんの葬儀が行われました。
 約4000人が参列されたほか、皇后美智子様も弔問されました。
 本当にすごい人ですね。105歳に比べれば、みんな「まだまだ若い、若い」ですね。
 最後は、ボジティブに人生を生きる「日野原重明さんの名言」を紹介します。


・生かされている最後の瞬間まで、人は誰でも人生の現役です。

・私たちは運命を生きるのではなく、運命を作っていくのです。

・かつて自分ができなかったことを、思い切ってやることが、「夢を叶える」ということです。

・50代、あるいは60代に向かおうとする時は、いよいよ自分がやりたいように、自分が自分を開発できる時期です。
 そうして開発した自分を、社会に還元するのが、第2の使命だと思っています。

・やりたいことは、まだまだたくさんあります。
 私はどれもできると信じています。
 信じてね。ゴーですよ。

・マルティン・ブーバーという哲学者(1878年~1968年、オーストリア出身)は、
「人は始めることさえ忘れなければ、いつまでも若々しくある。」という言葉を残しました。
 新しいことへの挑戦を続ければ、体は老い衰えても、心の若さはいつまでも続く。
 私なりに「創(はじめる)」という字をあてて、座右の銘にしています。

 天寿を全うし、天国に昇られた日野原重明さんの冥福を心よりお祈り申し上げます。
 おしまいに、葬儀で挨拶に立った、長男で喪主の日野原重明さんの参列者へのお礼の言葉を紹介します。
「祈り、感謝、実践の喜びに満ちた105年の生涯でした。

 父の残した出会い、命、愛、許し、この四つの言葉を大切にしながら私ども家族も生きていきたいと思っています。」

2017年7月25日火曜日

アイドルの坂道(8)乃木坂46の新曲「逃げ水」センターは3期生・17歳コンビ

 2017(平成27)年3月発売の17枚目のシングル「インフルエンサー」が、実売100万部を突破し、11月には東京ドーム2days公演を発表した乃木坂46。 名実ともに、AKB48の公式ライバルとして女子アイドルのトップを争う存在になっています。

 先日、その乃木坂46の2017年8月発売予定の18枚目シングル「逃げ水」の選抜メンバーが発表され、大きな話題になっています。
 この曲で初めて3期生から選抜メンバー2人が誕生し、しかもWセンターとなったのです。

 乃木坂46は、2017年7月現在、文字通り「46人」のメンバーで構成されています。
 このうち、2011年お披露目の1期生が半分の23人、2013年加入の2期生が11人、そして2016年加入の3期生が12人となっています。

 これまで乃木坂46の中心は1期性で、センター経験者8人中7人を占め、2期生は堀未央奈さんがセンターを1回経験しているだけでした。
 ところが、今回、大園桃子(おおぞの・ももこ)さんと与田祐希(よだ・ゆうき)さんの2人の3期生が選ばれました。

 新センターになった2人には、いくつか共通点があります。
 1つは、年齢が2017年7月時点で17歳であること。次に、九州のかなり田舎の出身であることです。さらに、弟がいること、血液型がO型であることなどです。

 今回は2人のプロフィールとふるさと、そして2人がセンターの新曲「逃げ水」について、紹介します。

<写真 大園桃子さんの母校、鹿児島県立曽於高等学校>



 まず大園桃子(おおぞの・ももこ)さんは、1999(平成11)年9月13日生まれのO型で、鹿児島県曽於(そお)市の出身です。 曽於市は、 2005年に曽於郡末吉町・財部町・大隅町の3町が合併してできた市で、人口は3万7000人ほどです(2017年7月)。
 位置的には、鹿児島県東部の大隅半島の北部・内陸部にあります。

 大薗桃子さんは、曽於市立大隅中学校を卒業後、2014年に開校したばかりの鹿児島県立曽於(
そお)高等学校に進学しました。

 中学時代は剣道部に所属し、剣道2段の腕前ですが、高校では野球部のマネージャーをしていました。

 大園桃子さんの自宅は、結構な田舎にあって、周りは田んぼ・畑と山だらけ、最寄り駅まで車で40分、高校も車で10分以上かかるので、通学はスクーターを使っていたそうです。

 大園さんは、2016年の乃木坂46の三期生オーデションに応募し、4万8986人の応募者から4000倍以上の倍率を突破し、見事12人の合格者に選ばれ、3期生の暫定センターにもなりました。
 ところが、結構、泣き虫で乃木坂46の冠番組「乃木坂工事中」(テレビ東京系)でも、号泣してしまいました。
 少しメンタルが弱く、乃木坂46のセンターとして、やっていけるのかどうか心配する声もあります。

 でも、トマトが大好きで、テレビ番組でも、泣いている時にトマトを与えると泣き止んだという逸話があります。(笑)
 逆にスイカは大嫌いだそうです。


<写真 与田祐季さんの故郷 志賀島(福岡県福岡市東区)>




 もう一人の3期生センターの与田祐季(よだ・ゆうき)さんは、2000(平成12)年5月5日生まれのO型で、福岡県福岡市東区志賀島の出身です。 地元で「陸続きの島」と呼ばれる志賀島(しかのしま)は、人口1500人ほどで1本の道路で福岡市中心部と結ばれています。

 志賀島といえば、歴史好きの人はピンときませんか?

 そうです。江戸時代の1784(天明4)年に、邪馬台国の重要資料とも言われる純金製の「漢委奴国王」と書かれた金印が発見されたのが志賀島です。
 因みに、金印は、現在は福岡市博物館にあり、「国宝」になっています。



 志賀島は、海の中道と志賀島橋の陸路で九州本土と結ばれているほか、博多港へのフェリーも運行されていて、福岡市中心部へは、陸路で1時間、海路なら30分ほどです。

 
 与田祐季さんの通っていた小学校は、全校生徒が20人の小さな学校で同級生は4人だったそうです。
 中学校ではソフトテニス部に入っていましたが、一時、不登校になったこともあります。
 中学校を卒業後、福岡県立玄界高等学校に進学しました。

 与田祐季さんの自宅がある志賀島は、大園さんの地元に負けないほど田舎で、野生のイノシシが出る通学路があり、イノシシに遭遇したとき、イノシシは直進しかできないので、真横に逃げて難を逃れたと、与田さん自身が言っています。

 実家には、犬が1匹、ウサギを2羽、ヤギが2頭いるそうです。(ヤギの1匹のメープルは2016年末に、死んでしまったそうです。)
 たくさんの動物を自宅で飼っていて、与田さん自身も動物好きの癒し系という噂です。

 与田さんも、2016年の乃木坂46の三期生オーデションに応募し、4000倍以上の倍率を突破し、見事12人の合格者に選ばれ、3期生になりました。

 テレビの「乃木坂工事中」で与田さんは、「野生のイノシシからの逃げ方」や「一輪車実技」などを披露して、153cmという小さな体ながら、「小さくても色気はあるとよ」と福岡弁で話して、ファンを魅了しています。


 ここまで紹介した大園桃子さんと与田祐季さんの、「九州カントリーガールズ(田舎娘?)」がセンターになるのが、乃木坂46の18枚目のシングル、「逃げ水」です。

 ここからは、「逃げ水」の話をします。


<写真 道路の逃げ水>





 「逃げ水」は、強い日差しで路面や地面が熱せられると、地表付近の空気が温まって膨張し、密度が薄くなり、密度の薄い空気の層の上に、密度の濃い空気の層が乗るような形になり、二つの層の境界面で光が反射したり、屈折したりして、まるで水面が光を弾いているかのように見える現象で、蜃気楼の一種です。 英語では、ロード・ミラージュ(road mirage)と呼びます。

 「逃げ水」は、日本では古くから知られていて、「小倉百人一首」にも歌が掲載されている平安末期の歌人、源俊頼(みなもとの・としより 1055年~1129年)は次のような歌を詠んでいます。

「あづま路に ありといふなる 逃げ水の 逃げのがれても 世を過ぐすかな」

 俳句でも
「逃げ水を 追いて岬の 端に佇(た)つ」(福田甲子雄=ふくだ・きねお、1927~2005年)
など、多くの句が詠まれています。
 ところが、「逃げ水」は夏の季語ではなく、春の季語です。不思議ですね。


 最後は、もう一度、乃木坂46の神曲「逃げ水」の話です。

 逃げ水の選抜メンバー18人は、センターの2人を除けば、乃木坂1期生、2期生の人気メンバーで固められています。

 特に、フロントと呼ばれる最前列は、向かって左から順に、齋藤飛鳥さん(1期)、西野七瀬さん(1期)、大園桃子さん(3期)、与田祐季さん(3期)、白石麻衣さん(1期)、堀未央奈さん(2期)の6人で、乃木坂を代表する人気メンバーが、左右からセンターの2人を守るような形になっています。

 乃木坂46は、2011年の発足以来、売り上げも人気も、右上がりに上げて、公式ライバルAKB48に肉薄してきました。
 乃木坂46の運営は、その間、全員を同じ所属事務所に入れるなど、ほぼ完璧にやってきたと思いますが、一つ、誤算があったとしたら、2期生が1期生の人気に押されて、堀さん以外、埋没してしまったことだと思います。

 そこで、5万人近い応募者から選ばれた「3期生」を、「逃げ水」のように幻(ミラージュ)に終わらせないように、今回のフォーメーションを組んだのではないかと、思われます。

 3期生の新しい「第3の風」が、乃木坂46をこれまで以上に、坂道の上に押し上げてほしいと期待しています。

・一夏の セミの音色は 逃げ水(ミラージュ)に (自作句)
 


♪「逃げ水」(作詞:秋元康、作曲:谷村康平、歌:乃木坂46)♪


(1番)
日差しに切り取られた
市営球場から聴こえて来る
ひと夏の熱狂は
どれくらい風が吹けば醒めてくのか?


自分の声が 他人のように響くよ
客観的過ぎるのだろう
いつの日からか 僕は大人になって
走らなくなった


ミラージュ 遠くから見た時
道の向こう側に水たまりがあったんだ
近づいたらふいに消えてしまった
目指して来たのに どこへ行った? あの夢

(2番)
芝生のスプリンクラー
過ぎるその季節を止めようとする
半袖を着た人は
カーディガンをいつ肩に羽織るのか?


やりたいことはいつもいっぱいあったのに
できない理由 探していた
君と出会って 青春時代のように
夢中になれたよ


ミラージュ 僕が見ているもの
それが真実でも幻でも構わない
今確かに僕の目に映るなら
逃げてしまっても 追いかけたい この恋



大事なものはいつだって あやふやな存在
手を伸ばしても 何も触れられない
でもそこにあるってこと
信じるまっすぐさが 生きてく力だよ


ミラージュ 遠くから見た時
道の向こう側に水たまりがあったんだ
近づいたらふいに消えてしまった
目指して来たのに どこへ行った? あの夢♪

2017年7月17日月曜日

大雨洪水の気象情報の危険度ランクとカタツムリのスピード

 7月になってから、福岡県・大分県・島根県と続けて「大雨特別警報」が出ました。
 特に九州北部の豪雨では、32人が死亡しまだ10人前後が行方不明となっています。
 このニュースを見ていて思ったのが、「難しい気象情報がたくさんあって、よくわからない。」という声が聞こえてきそうなほど、大雨警報、はん濫注意情報、記録的短時間大雨情報、避難指示など、気象情報の多さと複雑さです。

 梅雨も、少しずつ南から明けてきていますが、梅雨末期の集中豪雨、雷雨、そしてこれから台風のシーズンと大雨の季節が続きます。

 そこで、今回は、大雨・洪水の気象情報を危険度別にランク付けして、なるべくわかりやすく紹介したいと思います。
 また、後半は雨の時期の風物詩「カタツムリ」の話をします。


 大雨についての気象情報には、基本的には「大雨注意報」「大雨警報」、そして「大雨特別警報」の3つがあります。
 大雨注意報は、「大雨による災害(浸水や土砂災害など)が起こる可能性があることを知らせ、災害への準備や情報取得などに注意するよう呼びかけるもの」です。

 一方、「大雨警報」は、「重大な災害が起こることを警告するもの」で、自治体の避難情報に合わせての避難や、住宅でとどまる場合でもより安全な場所(2階や崖から離れた部屋)でいるなど、大雨災害への警戒を呼びかけるものです。

 「大雨注意報」や「大雨警報」の発表基準は、浸水災害については「その場所及び流域の1時間または3時間雨量」、土砂災害については「地面にどれぐらいの雨量が含まれているか(土壌雨量指数)」です。
 ちょっと難しい数値ですので、東京都千代田区を例にして思い切って簡単に言うと、「大雨警報」は、1時間34mm以上の大雨が予想される時か、「累積雨量-時間数×2」が180mmを超えた時に発表されます。

 この「大雨警報」より、さらに危険度が高まり、数十年に1度の大雨が予想される時に出されるのが「大雨特別警報」で、これは、その地域にいる人に、ただちに命を守る行動をとるように呼びかけるものです。


<「大雨関係の気象情報の活用例」気象庁HPより>



 「大雨注意報」「大雨警報」「大雨特別警報」を補完する情報として、気象庁が発表するのが、1時間100mm以上の猛烈な雨が降った場合(雨量計のない所ではレーダー解析などで推定)に出されるのが、「記録的短時間大雨情報」です。

 また、ある地域の土砂災害の危険性が増しただちに避難する必要がある場合に、気象庁と都道府県などから共同で出されるのが「土砂災害警戒情報」です。

 ここまでをまとめると、大雨情報の危険度ランクでは、低い方から高い方へ「(1)大雨注意報→(2)大雨警報→(3)記録的短時間大雨情報・土砂災害警戒情報→(4)大雨特別警報」ということになります。
 特に、(3)及び(4)は「スーパー警報」と言ってもいい情報で、この場合は、全力で身を守る行動(避難が基本ですが、浸水などがあれば自宅の安全な場所でいることも選択枝です)が必要です。


 
一方、気象庁が単独で発表する「洪水警報」とは別に、川の増水やはん濫などに対する水防活動や住民の避難行動の参考となるように、「気象庁と、国土交通省または都道府県の機関」とが共同して、「あらかじめ指定した河川」について、洪水の予報を行うのが、「指定河川洪水予報」です。
  危険度の高い方から順に、「レベル5 はん濫発生情報(洪水が発生している状態)」、「レベル4 はん濫危険情報(はん濫が発生する危険が差し迫っている状態)、「レベル3 はん濫警戒情報」、「レベル2 はん濫注意情報」、「レベル1 水防団待機水位」があります。

 ここでも、レベル4になると「ただちに避難が必要」ですが、すでにはん濫しているレベル5の場合は、避難ルートが浸水しているかどうかを見て、より安全な行動をとることが必要です。


 さらに、避難の必要性を、市区町村などの自治体が住民に呼びかけるのが、避難情報です。
 まず、「避難準備情報」は、文字通り避難準備をするようにとの情報ですが、お年寄りや子供など自分だけで避難出来ない人は、この段階での避難が必要です。(2016年、岩手県のグループホームで避難が遅れ多くの犠牲者が出たことを思い出してください。)

 次に「避難勧告」は、危険が迫っているので避難をするように呼びかけるものです。
 さらに、明白な危機が迫ったときに出されるのが「避難指示」です。

 ただし、避難情報は市区町村長の判断で出すので、最近は、行政の出し遅れの責任回避のために「○○市全域に避難指示」という場合も多く、自分のいる場所がどのようになったら避難するのかは、普段から各家庭や職場で考えておき自主避難の基準を考えることも重要です。

 気象庁は、最近発生した多くの重大災害や、競争相手である民間気象会社が出来た危機感から、たくさんの気象情報を出してくれています。
 しかし、問題は、これらの情報を適切に国民に伝え、私たちがその情報をうまく活用できるかどうかです。

 ちなみに、大雨などの特別警報の情報を気象庁は、「携帯電話の緊急メールやテレビ・ラジオ」などで配信することも初めています。


<気象庁のポスター>




 後半は、雨の季節の風物詩「カタツムリ」の話です。

 カタツムリという生物学上の分類はなく、大雑把には、陸貝のうち、殻のないあるものをナメクジ、殻のあるものをカタツムリといいます。

 ただし、カタツムリの殻をとったらナメクジになるのかというと、そうではなく、カタツムリの体と殻はくっついていますので、殻をとるとカタツムリは死んでしまいます。
 ですから、「カタツムリ。カラをとったらナメクジ♪」では、あるようでないのです。

 カタツムリは、他にマイマイ、デンデンムシ、蝸牛などたくさんの呼び方がありますが、語源ははっきりしません。

 平安時代末期(1180年頃)に、後白河法皇が編集された「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には、次の歌が掲載されています。

 
舞へ 舞へ 蝸牛
舞わぬものならば 
馬の子や牛の子に 
蹴えさせてむ 踏み破らせてむ
実に美しく舞うたらば
華の園まで 遊ばせむ


(訳)
舞えよ 舞えよ かたつむり
舞わないならば
馬の子や牛の子に
蹴らせて、踏ませて、カラを破らせるぞ
上手に舞うことができたなら
花園で 遊ばせてやるよ

 平安時代から、日本人がカタツムリを愛していたのは、間違いないようですね。


 次に、虹色のカタツムリの話です。
 ただし、虹色のカタツムリは、殻が虹色ということではなく、カタツムリの「うんこが虹色」になるという話です。

 カタツムリはあまり消化しないため、食べたものがそのままに近い形で出るのです。
 たとえば、ニンジンを食べたカタツムリはオレンジのうんこをしますし、レタスを食べたらグリーンのうんこをするようです。
 カタツムリは紙も食べるそうですので、いろんなものを食べさせたら、虹色のカタツムリのうんこが生まれる可能性もありそうですね。



<写真 カタツムリ>




 最後は、カタツムリの歩く速さの話です。
 「のろま」の代名詞のカタツムリですが、そのスピードはどれぐらいでしょうか。
 またカタツムリとカメは、どちらが早いでしょうか?

 ある調査では、カタツムリは時速48mです。
 もう一つの<のろま代表>の「リクガメ」は、時速500mですから、カメのスピードがカタツムリに圧勝ですね。
 
 それでも、のろまでもコツコツ進むカタツムリのスピードを尊敬していた人がいます。
 それは、文化勲章の受章者で「長崎平和祈念像」などを造った日本を代表する彫刻家・北村西望さんです。

 102歳まで生きた北村さんは、カタツムリのようにコツコツを座右の銘としていて、「私は天才ではない。だからいい仕事をするために長生きするのです。」と言い、こんな川柳を詠んでいます。


「たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」


 大雨の時は、カタツムリのように慎重に、でも確実に避難してください。
 できれば、大雨の前に安全避難の準備と計画を「たゆまず」してたいものですね。


<一句>
「たゆまざる 準備しっかり 防災の」 


♪「かたつむり」(文部省省歌 1911(明治44)年)♪


♪1
でんでん むしむし かたつむり
おまえのあたまは どこにある
つのだせ やりだせ あたまだせ


でんでん むしむし かたつむり
おまえのめだまは どこにある
つのだせ やりだせ あたまだせ♪

 




2017年7月12日水曜日

本当にあった不思議な話(3)「リハビリ入院1日4万円? ~家族の絆はもしもしもし」

 子供の「お父さん、リハビリ入院をしなよ。」という一言で、リハビリ入院の覚悟を決め、兄は総合病院Bからリハビリ病院Eに転院しました。

 E病院はりハビリ中心の病院で、手術などの設備はなく、医師・看護師さんのほかに、歩行など手足の機能の回復訓練を指導する「理学療養士」さんをはじめ、手や指などの機能の回復訓練を指導する「作業療法士」さん、失語症などのコミュニケーション能力の回復等を行う「言語聴覚士」さんなどがいます。
 これらの専門家たちが、1回60分の治療を、1人1日1回から3回実施してくれます。


 兄は、3人部屋に入院しました。
 本当は、インターネット環境があり消灯時間もない個室に入りたかったようですが、 1日3500円から8000円の個室料金の許可が奥さんからもらえず、渋々、大部屋に入院しました。
 ちなみに、ネットはなく消灯は午後9時です。


<写真 リハビリルーム>


 兄のリハビリは原則1日3時間で、主に足の筋トレなどの「理学療法」が1時間、左手の指の回復を目的とした「作業療法」が1日2時間です。

 兄は否定していますが、脳梗塞などで脳の血管が切れた場合、少しでも早く集中してリハビリすれば、機能回復の可能性はグーンと高まるそうです。
 
 リハビリ開始から2週間が経ちました。
 兄はまじめに、1日3時間のメニューをこなし、歩行は問題なし、左手も親指と人差し指の力が少し弱い以外は、ほぼ回復しました。

 
兄は、笑顔で話しています。
「やっぱり福祉は大切だよな。車イスや杖をついてリハビリしている人たちの中にいて、久しぶりに、実感したよ。」
でも、再発の可能性が高い病気であることは兄も知っているので、先日の小林麻央さんの死や近くの中学校の先生が学校内で脳梗塞で突然倒れて亡くなったと聞くと、さすがに元気が無くなっています。

 実は、兄は学生時代、大学の福祉系学部への進学や、福祉施設への就職を希望していました。
 ところが、両親が「経済的にやっていけないから止めろ」と強く反対し、断念しました。

  それから、多くの月日が流れて、兄自身が患者としてリハビリをすることになったのは皮肉ですね。

 兄のリハビリ内容を紹介すると、まず「理学療法」は、足の筋肉を鍛えるための筋トレ機器やルームランナーなどを使った訓練や、ストレッチや片足ずつの平衡運動、そして散歩などの訓練をしています。
 一方、「作業療法」では、積み木や小さな棒、ビーズを使った手作業や、手首・指の体操・マッサージなどをしています。

 どちらも、30歳前後の理学療養士や作業療法士の若者たち(女子7対男子3ぐらいの比率)が先生になって、中高年を中心とした患者に、コツコツと熱心に指導してくれています。
  目立ちませんが、ここには、高齢化社会を影で支える志のある若者たちが、たくさんいます。


 それにしても、母はブレーキとアクセルを踏み間違え、交通事故で骨折したケガのリハビリで入院中、兄も別病院で脳梗塞の疑いで動きが悪くなった左手のリハビリ、父は介護施設、平和だった我が家は崩壊状態です。

  それに追い打ちをかけるように、先月の兄の医療費は、最初に入院した総合病院Bの支払い額が9万円(3割負担)、転院後に月末6日だけ入院したリハビリ病院Eでは、経費が24万円(保険で実際の支払いは3割負担の8万円)です。

 一応、高額医療の上限はありますが、計算上は、リハビリ病院の医療費が1日4万円ということになります。
 うかうか入院もしていられませんね。


<写真 リハビリ病院の屋上から見た朝日>

 たった一つの救いは、個人個人が持っている携帯電話のおかげで、兄と母の入院患者同士、子供と兄、そして奥さんや私(妹)が、毎日のように連絡を取り合えて、家族のコミュニケーションは、普段より深まったことです。

  電話機能は、ラインやネット、メールなどに押されて普段はあまり使われませんが、こんな時は、やっぱり、世代を超えて使える電話ですね。

○格言  「入院中 家族の絆 もしもしもし」


 最後は、電話が大活躍していた昭和の名曲を紹介します。


♪「あなたを・もっと・知りたくて」♪
  (歌:薬師丸ひろ子、作詞:松本隆、作曲:筒美京平 1985年)


♪(2番)
離れても 心は君の
そばにある そう言ったでしょ
星空に逢いに来てって
頼んでも風の音だけ

「もしもし うん、まだ切らないで」
受信機を耳に 眠り込んでいた

少女へと戻りたい

もっともっと私を
もっともっと知ってね
いま髪を洗い いま本を閉じて
そしてあなたの写真に キスをした


もっともっとあなたを
もっともっと知りたい
いま何してるの? いま何処にいるの?
そして愛してる人は 誰ですか?  ♪

2017年7月3日月曜日

追悼・小林麻央さん ~なりたい自分になる、ブログで浪漫飛行~

2017(平成29)年6月22日、小林麻央さんは34歳の若さで乳癌のため亡くなりました。
彼女はブログで「癌」を公表し、250万人以上の読者に、共感と勇気を与えました。
今回は、そんな小林麻央さんの人生と名言を紹介します。

最初に、乳癌の宣告を受けて2016(平成28)年9月1日に、小林麻央さんがブログを開設した日の言葉の一部を紹介します。

「先生に言われたのです。
『癌の陰に隠れないで』



私は
力強く人生を歩んだ女性でありたいから
子供たちにとって強い母でありたいから
ブログという手段で
陰に隠れているそんな自分とお別れしようと決めました。

一度きりの人生なので、
なりたい自分になろうと
決意できたことは
うれしいです。

(2016年9月1日「なりたい自分になる」  小林麻央さんのブログより)


<写真 小林麻央さんの故郷 新潟県小千谷市>


 小林麻央(こばやし・まお)さんは、1982(昭和57)年7月21日、新潟県小千谷市に生まれました。
 お姉さんの小林麻耶さんは、元TBSのアナウンサーで今も芸能界で活躍しています。

 小林さん一家は、新潟県から埼玉県さいたま市、兵庫県西宮市、東京都荒川区、そして東京都世田谷区と移り住みました。これは、お父さんが信託銀行に勤務していて、転勤が多かったからだそうです。

 麻央さんは、國學院高校から上智大学文学部に進み卒業しました。
 大学在学中に、姉の麻耶さんの勧めで、日本テレビで明石家さんまさんが司会を務める番組「恋のからさわぎ」に出演したことがきっかけで、芸能界入りします。

 麻央さんは、2003年10月から3年間、フジテレビ系の「めざましどようび」のお天気キャスターをつとめてブレークします。

 その後、日本テレビの「NEWS ZERO」のサブキャスターとして、活躍します。
 この番組のインタビューで、麻央さんは、歌舞伎俳優の11代目市川海老蔵さんと知り合い、2010年3月に入籍しました。
 その後、男女2人の子供にも恵まれました。

 ところが、2014年の人間ドッグで「乳癌の可能性は50%」と診断されました。
 その後、なかなか確定診断がなく、病院を2つも変わっているうちに進行し、2016年6月に「乳癌」であることを公表した時には、転移も確認されていました。

 それでも、前向きな小林麻央さんは、9月にブログ「KOKORO.」を開設し、アメーバブログでは長期に渡って、閲覧数1位を記録しました。
 それでは、麻央さんのブログからいくつか紹介します。


「『がんばれ がんばれって、言われるのもきついけど
もういいよって言われるの、もっとつらいね』
 という言葉がBASARAにある。
 
 がんばれって応援されると
すごくうれしい。
 
病気になってから
がんばらなくていいよ
それはもういいよ
って言われることが増えた。
 

でも
私は もっともっとがんばりたいし、
それは私がやりたい、
と思ったりもする。
 でも、
できない現実があったりもする。
 
がんばれっていう優しさも
がんばらなくていいよという優しさも
両方学んだ。」
(2016年9月15日「がんばる がんばらない」 小林麻央さんブログ)
 
 
「結婚前、主人が、私の父へ挨拶に来た時
父が『何にも分からない子だから、
苦労するんじゃないかと思ってね。』
と言うと、

主人が『試練はありますが、苦労はありません』
と即答しました。
(勝手に決めてる主人もおもしろいですが)
今も、試練です。
何事も、苦労のように思ってしまう時は
いつも負けそうだったことを
思い出しました。
試練と思えるときは
 
まだまだ心に力が湧きます。」
(2016年10月31日「苦労と試練」小林麻央さんブログ)


<写真 小林麻央さんが帯書きをした本>


「2016年が
過ぎていきますね!
どんな夜を、お過ごしですか??

『2016年』
描いていた形では終われなかったけれど、
幸せを感じています。
年越しそばを食べているときに、
私の人生で一番幸せな年越しそばに
感じていました。
今年は色々ありすぎましたが、
kokoro.(ブログ)で、皆様と繋がり、
たくさんの励ましを頂いたことに
心から感謝致します。
感謝。
本当に、感謝、感謝、感謝。
そばにいてくれた人、
離れて見守ってくれた方、
皆に感謝でいっぱいです。」
(2016年12月31日「ありがとうございました」小林麻央さんブログ)


「癌だって、
ステージ1の時点で診断される人もいれば、
気づいた時にはステージ4の人もいる。
順調に治る人もいれば
余命宣告から奇跡みたいに治る人もいて、
そうでない人もいる。
良い方をみても きりがないし、
悪い方をみても きりがない。
良い方をみてしまうとき、
私は、
なぜここまでにならなければ
ならなかったのかな、
と思うことがありました。
もちろん
自分自身の過ち 積み重ねなど
あるにせよ
何故、順調に治っていく道では
なかったのだろう、と。
でも、
いつからか、
私はここまでになる必要があったんだ
と思うようになりました。
そう思えるときの穏やかさは
魂が納得しているのだと感じます。
魂って自分が思っているより
ずっとずっと自分にロマンを
もっているのでしょう。
だから しんどくて寝ているときは
小さい小さい世界に閉じ込められている
みたいに感じますが、
実は逆で、
魂は壮大な浪漫飛行中なのでしょうね。」
(2017.4.13「浪漫飛行」 小林麻央さんブログ)

<写真 黄昏の月>


 小林麻央さんの夫の市川海老蔵さんの話では、2017年6月22日に麻央さんが永眠する直前の<最後の言葉>は、「愛している」だったそうです。

 麻央さんは、34歳の若さで、2人の子供と夫を残してこの世を去ったて、きっと残念だったでしょう。
 でも、麻央さんの残したブログは、今も残っていますし、最後の「オレンジジュース」という記事には、26万件以上の「いいね」がついています。
 このブログは、同じ癌患者をはじめ、多くの人たちに勇気と共感を与えました。

 さらに、市川海老蔵さんは、「麻央さんのブログを英訳する」と発表し、麻央さんの言葉が世界へ発信
されていくことになりました。
 
 小林麻央さんの身体は亡くなっても、麻央さんが残した言葉や魂は、世界へ「浪漫非行」して行くことを信じ、哀悼の意を表したいと思います。



♪「浪漫非行」(歌・作詞・作曲 米米クラブ)♪


逢いたいと思うことが 何よりも大切だよ
苦しさの裏側にあることに 眼を向けて

夢を見てよ どんな時でも
全てはそこから 始まるはずさ

君と出逢ってから いくつもの夜を語り明かした
はちきれるほど My Dream

トランク一つだけで 浪漫飛行へ In The   Sky
飛びまわれ この My Heart
Wow  Wow Wow...  Wow  Wow Wow... 


< 一句>
 空を飛ぶ ブログの言葉と 魂と