2016年12月31日土曜日

「海の声」「フレフレ熊本!365歩のマーチ」~2016年流行歌ブログ(前)~

2016(平成28)年の最初に書いたブログは、AKB48の「365日の紙飛行機」についてでした。

「♪
朝の空を見上げて 今日と言う1日が 
笑顔でいられるように そっとお願いした
時には雨も降って 涙も溢れるけど
思い通りにならない日は 明日頑張ろう♪」
(♪「365日の紙飛行機」歌:AKB48 作詞:秋元康 作曲:角野寿和・青葉紘季) 

 あれから、1年。
「思い通りにならない日は 明日頑張ろう」が多かったのが、この1年だったと思います。(反省)


<空の月>


 実はうるう年だった2016年の「366日」を、世界の紙飛行機は、日本の紙飛行機は、どう飛んだのか、どこを飛んだのか。
 2016年に、(私の中で)流行った歌の歌詞の一部を紹介しながら、振り返ってみたいと思います。

 まず、1月から3月にかけてで記憶に残る出来事は、「SMAP解散騒動」「ゲス不倫」「北海道新幹線開通」などでした。

 続く、4月から6月には、「熊本地震」「伊勢志摩サミット」「オバマ米国大統領が広島訪問」「イギリスEU離脱」など、重要なニュースが相次ぎました。
 中でも、4月に発生した「熊本地震」は震度7が2回、直接死だけで50人が犠牲になるなど、大きな被害が出ました。

 この地震を受けて、熊本県出身の演歌歌手・水前寺清子さんが1968(昭和43)年に歌って100万枚を超える大ヒット曲になった「三百六十五歩のマーチ」を、熊本地震復興応援歌に替えた、「フレフレ熊本! 三百六十五歩のマーチ くまもとバージョン♪」が作られ、水前寺清子さんをはじめ、熊本出身のクリームシチューさん、スザンヌさん、髙良健吾さん、コロッケさんなどの有名人や、熊本県の熊本工業高校や国府高校などの生徒が歌う動画が話題になっています。

 それでは、その歌詞の一部を紹介します。

「♪フレフレ熊本! 三百六十五歩のマーチ くまもとバージョン」

「♪
くまもとの明日へつづく 道をあなたは歩いてく
三百六十五歩でダメでも さらに進もう一歩ずつ
人生は ワンツーパンチ くじけぬ姿は 美しい
思い出つまったふるさとが 再び輝くその日まで
腕をふって 足をあげて ワンツー ワンツー
うつむくな 笑え♪」

 ちなみに、2016年NHK紅白歌合戦の総合司会は、普段は「NHKニュース」の顔である熊本出身の武田真一アナウンサー(49歳)です。

<熊本市 水前寺公園>


2016年上半期のヒット曲は、CD売り上げではAKB48の「翼はいらない」が1位ですが、ダウンロード数のレコチョクやカラオケでは、浦島太郎(桐谷健太)の「海の声」がトップでした。

「海の声」は、携帯電話会社「au」のCM「三太郎シリーズ」のCMソングで、ちなみに上半期2位は「365日の紙飛行機」でした。

「海の声」は、作詞が三重県出身の電通社員の篠原誠さん、作曲が沖縄県出身の3人組バンド「BEGIN」さんです。
 歌っている桐谷健太さんは、大阪府大阪市出身の俳優で1980年生まれです・
 それでは。「海の声」の一番の歌詞を紹介します。


♪「海の声」(歌:浦島太郎(桐谷健太) 作詞:篠原誠 作曲:BEGIN)

「♪
空の声が 聞きたくて
風の声に 耳すませ
海の声が 知りたくて
君の声を 探してる

会えない そう思うほどに
会いたいが 大きくなってゆく
川のつぶやき 山のささやき
君の声のように 感じるんだ

目を閉じれば 聞こえてくるんだ
君のコロコロした 笑い声
声に出せば 届きそうで 今日も 歌ってる
海の声にのせて

空の声が 聞きたくて
風の声に 耳すませ
海の声が 知りたくて
君の声を 探してる♪」


 作詞をした篠原誠さんの話では、この歌「海の声」は、通信手段がなかった昔の人(浦島太郎の頃も含め)が、風や海に会えない人への思いを託した気持ちを詩に込めたそうです。

 この歌は、東日本大震災の被災地の人たちや、作曲者BEGINの地元・沖縄の人たちをはじめ、自然やふるさとを愛する全国の人たちの共感を呼び、2016年にもっとも歌われた歌になりました。

 震災復興や沖縄県の問題をはじめ、2016年の日本や世界の出来事は、必ずしもいい方向へ向かっているように見えないものも多かったです。

 けれど、「昔ばなし」、「紙飛行機」や「昭和の歌謡曲」、そして、日本の山や風、海や川などは、相変らずやさしく、人の心を癒してくれています。
 そのことを、歌に託しているものが、今の流行歌になっているのは、まだまだ、日本の未来に希望があるということだと、思いたいですね。

<海と空>



  次回は、2016年後半の流行歌の歌詞に乗せて、後半の出来ごとと流行歌、そして2017年の目標の話まで、したいなと思っています。

 では、2016年1年間、このブログをお読みいただき、本当にありがとうございました。
 そして、2017年もよろしくお願いします。    

2016年12月25日日曜日

ロンドンの冬に奇跡を起こした名作「クリスマス・キャロル」

クリスマスの時期になると、名作が読みたくなります。
 そこで今回は、現在の私たちのクリスマスの過ごし方の教訓にもなる、クリスマス小説の名作中の名作「クリスマス・キャロル」の話を紹介します。


 小説「クリスマス・キャロル」は、1843(天保14=江戸時代末期)年12月19日、チャールズ・ディケンズ(1812年~1870年)がイギリス・ロンドンで発表・出版しました。


<初版本「クリスマス・キャロル」>



 この小説の主人公エベネーダ・スクルージは、ロンドンの下町に「スクルージ&マーレイ商会」という店を構え、安い給料で書記のボブ・クラチットを雇っていますが、血も涙もない、ケチで強欲で「金儲け」一筋の、評判のよくない「初老の商人」でした。

 共同経営者だったマーレイが亡くなった時も、彼への香典を渋り、棺桶の上に供えてあった冥土にもっていくためのお金まで獲ってしまうほど強欲でした。

 また、書記のクラチットとは、「家族と暖かいクリスマス」を過ごせないほど薄給であったので、クラチット家のクリスマスは貧しく、末っ子のティム少年は病気になっていました。

 そんな人の不幸は気にもせず、強欲でケチなスクルージが、クリスマス・イヴに一人で暖炉の前でウトウトしていた時、亡くなったはずのマーレイが現れました。

 マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるかを、スクルージに話し、半信半疑のスクルージに、悲惨な結末を回避し新しい人生へと生き方を変えるため、3人の幽霊がこれから彼の前に出現すると伝えます。

 第1の「過去のクリスマスの幽霊」は、こびとのように小さな幽霊でした。
 その幽霊は、スクルージを彼の少年時代につれていきます。

 スクルージは、最初、裕福な家のお坊ちゃんでしたが家が没落し、いじめられ一人ぼっちになりました。それでも本を読み、ロビンソン・クルーソーに憧れ夢をもった少年でした。
 スクルージ自身も忘れていた、自分の少年時代の姿でした。

 さらに第1の幽霊は、スクルージが青春の頃、つきあっていた彼女が「お金や物にどん欲になるのはやめて。もう別れるわ。」と言って、スクルージとけんか別れをした場面を見せます。

 その後、元彼女は貧しくても子供たちに囲まれた明るい家庭を築き、スクルージはお金持ちになっても寂しい孤独な人生を送つことになりました。

 そんな姿を見せられたスクルージは「とても見ていられない」と叫びます。
 すると、第1の幽霊は消え、スクルージは1人、自宅のベットへ帰って寝ていました。


<ディケンズを肖像画に起用したイギリス紙幣(1992年~2003年発行)>



 ここでディケンズのプロフィールを紹介します。

 チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズは、1812(文化9=江戸後期)年2月7日、イギリス・イングランドのハンプシャー州ランドポートで生まれました。

 小さい頃は病弱ですが、読書の好きな男の子でした。
 お父さんは海軍の会計吏でしたが浪費家で、1824年、ディケンズが12歳の時に実家が破産し、親戚の靴墨工場へ働きに出されることになりました。ディケンスは、学校へは通算で4年間しか行っていません。

 1827年、15歳の時、ディケンズは法律事務所に勤めながら速記術を取得し、法廷の速記記者になりました。
 また、1834年、22歳の時には「モーニング・クロニクル」紙の報道記者になり、ジャーナリストとしての活動を本格化します。

 1836年、24歳の時に、ペンネーム「ボズ」で書いた「ボズのスケッチ集」が出版され、注目されました。この年、編集者の娘、キャサリン・ボガースと結婚し、10人の子供に恵まれます。

 翌年、1837年に発表した『ピクウイック・ペーパーズ』は、 初老の紳士ピックウィックが若い友人たちと気ままにイギリス中を旅し、様々な冒険や人々と出会う物語で、大人気となり、ディケンズは小説家として認められるおとになりました。

 1838年には、孤児オリバーが困難に立ち向かいながら成長する長編小説で、代表作の一つとなった『オリバー・ツイスト』を発表し、ディケンズの作家の地位を不動のものにします。

 その後も、1843年に発表した名作「クリスマス・キャロル」をはじめ、1859年に発表しフランス革命を背景にした作品「二都物語」や、1860年から1861年に発表された孤児のピップが少年・青年時代を回想する作品「大いなる遺産」など、多くの作品が、名作として残っていて、映画化されているものも多くあります。(特に、「クリスマス・キャロル」は映画化の多い作品です。)

 デイケンズの作品は、下層階級(孤児など)が主人公の作品が多く、弱者の視点から社会問題を書いた人物として、イギリスでは紙幣に肖像画が採用(1992年~2003年)されるほどの文豪として尊敬されています。

 ディケンズは、1870(明治3)年6月9日、イギリス・イングランドのケント州にある自宅で脳卒中のため、58歳で亡くなりました。


 さて、「クリスマス・キャロル」の話に戻りましょう。

 2番目にスクルージの前に現れたのは、大きく華やかな第2の「現在のクリスマスの幽霊」でした。
 第2の幽霊は、スクルージにロンドンの庶民の貧乏ながらも、明るく助け合っている家族のクリスマスを見せます。

 特に、スクルージの使用人ボブ・クラチットの家族は、貧乏ながらも明るい8人家族で、楽しそうにクリスマスを祝っています。
 しかし、末っ子のティムは足が悪く、今にも倒れそうです。
 「スクルージがケチで給料を上げてくれないから、うちは貧乏なのよ。」という家族に、ボブは「雇ってくれているスクルージさんの悪口を言ってはいけないよ。スクルージさんに、乾杯」と祝福します。

 スクルージと幽霊は、さらに世界中を旅します。
 それぞれの家族が悩みをもっていますが、現状に幸福を見つけて、みんな「クリスマス」の夜に笑顔で乾杯しています。

 でも、世界は人口が増え続けていて、やがて破滅を迎えそうです。
「どうすれば、いいんだね?」
 スクルージが第2の幽霊に聞くと、「余分な人口を減らす監獄はないのかね」と、いつかスクルージ自身が慈善の寄付集めに来た紳士に言った言葉を投げ返してきました。
 悲しい後悔の思いで、スクルージは第2の幽霊との旅を終えて、疲れきって再び眠りにつきます。


<チャールズ・ディケンズ博物館(イギリス・ロンドン)>




 
 
ここで、小説のタイトルの「クリスマス・キャロル」について、ミニ知識を紹介します。

 「クリスマス・キャロル」とは、キリスト教圏で、イエス・キリストの誕生に関係した歌のことで、教会のいわゆる賛美歌の中で、キリスト誕生に関係したものをさします。
 日本で最も知られているのは「きよしこの夜」で、日本のカトリック教会では、聖歌集111番「しずけき」として親しまれています。

 ただ、「赤鼻のトナカイ」や「ホワイトクリスマス」などの、いわゆる「クリスマス・ソング」全体がクリスマス・キャロルかというと、意見が分かれているのが現状です。

 ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」では、冒頭部分で、少年がスクルージに歌いかける部分として、「世の人忘るな」というクリスマス・キャロルが登場しています。



 それでは、最後となる3番目の「未来の幽霊」の登場です。
 最後の幽霊は、黒づくめで不気味で、スクルージと話すこともありません。

 幽霊につれられてスクルージが行った未来の世界では、街中である男の死が噂になっています。
「あのクソ爺がくたばった。」「参列するものもいないだろう。」「悪魔め。」
 スクルージは、最初、それが誰のことだかわかりませんでした。

 暗い家で、盗人に身ぐるみはがれた老人の死体は、誰も悲しんだり泣いたりする人がいないまま、墓地に運ばれます。
 第3の幽霊が、その老人が埋葬された墓碑銘についた埃を払うと、そこには「エベネーダ・スクルージ」という名前が浮かびあがります。

 スクルージは驚愕し、反省します。
 スクルージは第3の幽霊に、「お願いです。今までの生活を悔い改めて、善行をするから助けてください。」
 第3の幽霊は、返事をせず黙って姿を消します。

 「今までの醜い影を消せないことは無いのだ、消せるとも、きっと消せるとも!」。
 クリスマスの朝、目覚めたスクルージは、「未来」はまだ変えられると自分に言い聞かせます。

 それからの彼の生活は一変します。
 冷酷で無慈悲で、エゴイストで守銭奴であった彼は、3人の幽霊との出会いによって、人間の心の温かさ、愛情の尊さに気付きます。彼は善行に生きることを誓ったのです。

 彼は、ボブ・クラチットの給料を上げ、クリスマスのお祝いに、クラチット一家に匿名で七面鳥を送ります。また、テイムの病気の治療費も出すと約束します。

 何の儲けも与えないクリスマスなのに、晴れ着に身を包んだスクルージは外出します。
 そこで昨日、寄付を断った紳士に、多額の寄付を申し出て驚かせます。

 スクルージはそれ以来、彼の住む地域の、かつて無いほどの善き友となり、善き主人になり、素晴らしい人間に変身しました。
 彼の変身ぶりを笑う人がいても彼はそんなことなど気にもせず、ひたすら善行に努め、町の活性化のために尽くしました。

 その結果、「もしも生きている人間の中で、クリスマスの祝い方を一番よく知っているものがいるとすれば、それはスクルージ、その人だ」と云われるようになりました。

                    (完)

<日本某所のクリスマスツリー>



 ディケンズが「クリスマス・キャロル」を発表した19世紀前半のイギリス・ロンドンは、産業革命の直後で、工業化や都市化が進み、失業者の増加、病気の流行、貧富の格差の拡大とスラム街の出現、長時間労働など、多くの都市問題が噴出していました。

 街にクリスマスツリーはなく、プレゼントやカードを交換し、クリスマスを祝うこともありませんでした。
 そんな社会状況を見たディケンズは、人々に経済やお金、至上主義ではなく、人を思いやる心、やさしさをなくさないようにするため、せめてクリスマスには、自分の過去・現在・未来を見つめ直そうという気持ちを込めて、「クリスマス・キャロル」を発表しただと、私は思います。


 「クリスマス・キャロル」は、発売1週間で6000部を売り上げる、大ベストセラーになりました。
 街では、クリスマス・キャロルの中で使われた「メリークリスマス」という、クリスマスの挨拶が流行し、お金もちや有名人からの善意の寄付の申し出が相次ぎました。

 また、クリスマス・カードやクラッカーの発売、クリスマスツリーのドイツからイギリスへの輸入などは、「クリスマス・キャロル」が発売されて5年以内の1840年代に行われ、ロンドンのクリスマスは、「あったかく明るいもの」に一変しました。

 まさに、一つの小説が、イギリス社会を変え「ロンドンの冬をあったかくした」と言っても過言ではありません。


 21世紀の日本も、例外ではないと想います。
 せめてクリスマスからお正月にかけての間だけでも、「経済、金、競争」に明け暮れずに、一人一人が、自分の中のスクルージと向かい合って、過去、現在、未来を、考えてみてもいいのではないかと、思います。

 そう、「未来はまだ変えられる」のです。
 それでは、メリークリスマス!
 (12月25日が過ぎても、まだ、遅くはありませんよ。欧米では、12月25日のキリスト生誕祭から翌年1月6日のイエスが洗礼を受けた公現祭までをクリスマス休暇とするのが一般的ですから。)


 最後に、クリスマスの名曲の一つ、「すてきなホリディ♪」(ケンタッキーフライドチキンのCM曲)の歌詞の一部を紹介します。


♪「すてきなホリディ」♪
(作詞・作曲・歌 竹内まりや)


♪(前略)
クリスマスは 誰にもやってくる
もしひとりぼっちでも 淋しがらずに
心に住む サンタに呼びかけて
幼い頃の夢を 思い出してごらんよ

クリスマスが 今年もやってくる
悲しかった出来事を 消し去るように
さあ パジャマを脱いだら 出かけよう
少しずつ 白くなる 街路樹を駆け抜けて

Happy happy  holidays  ♪


2016年12月19日月曜日

アイドルの坂道(1)乃木坂46の1番人気は人見知りの関西女子・西野七瀬

長い間、「どうせアイドルだろ」みたいな気持ちで、興味なかったのですが、「貧乏な家計・家族を助けるためにアイドルになって、家族の生活のメドがたったので卒業、芸能界も引退」という、「家族想いアイドルの乃木坂46・橋本奈々未さん(愛称:ななみん)」のことを知って、急にアイドルの一部に興味が出てきました。

 そこで、不連続で「アイドルの坂道」というシリーズを作り、今までに2回紹介した「乃木坂46」はもちろん、AKB48やジャニーズ、地下アイドルや昭和のアイドルまで、いろいろな「アイドル」の青春・人生を紹介したいと思っています。


 今、「空前のアイドルブーム」で、1000組以上、1万人以上とも言われる、日本のアイドルたちは、坂道を登ったり、転んだり、転げ落ちたりしています。
 そんな「アイドル戦国時代」の中で、頂点に立っているグループの一つが「乃木坂46」です。

 「乃木坂46」の今の人気は「すごい」の一言に尽きます。
 2016(平成28)年12月に開催した、「武道館 クリスマス・コンサート」では、選抜メンバーの2日間はもちろん、アンダーメンバーの2日間も、そしてデビューしたばかりの3期生のライブまで、すべて完売し、5日間で6万人を動員しました。

 また、コンビニの雑誌コーナーを見てみると、「マガジン」「サンデー」「チャンピオン」「プレイボーイ」などの男性向けの漫画や雑誌の表紙を「乃木坂46」のメンバーが表紙を飾っているのをはじめ、女性向けファッション雑誌の専属モデルも5人以上いて、12月だけで「Sweet」、「non-no」、「Ray」、「cancam」など一流のファッション雑誌の写真を席巻しています。

 他にも、2年連続2度めの「NHK紅白歌合戦」の出場が決まっているのはもちろんですが、
コンピューターメーカーの「mouse」や「明治」の乳飲料、「パナソニック充電池」などの新CMも始まっています。

 乃木坂46を知らない人も、テレビ番組や雑誌、CM,ラジオなどで、知らないうちに、彼女たちを見たり、曲や声を聞いたりしていると思います。

 今回は、そんな飛ぶ鳥を落とす勢いの「乃木坂46」の中でも人気ナンバーワンで、人見知りで動物好きの関西女子・西野七瀬(にしの・ななせ)さんを中心に紹介したいと思います。

<写真:西野七瀬さんが大好きなハト>

 




 西野七瀬(本名)さんは、「阪神大震災」の前年、1994(平成6)年5月25日、大阪府大阪市平野区の出身で、愛称は「なぁちゃん」「ななせまる」などと言われています。

 七瀬さんは、「バリバリの関西女子」ですが、小さい頃からおとなしく、人見知りで団体行動が苦手な女の子でした。
 うどんと絵、プールでの潜水が好きで「潜水のナナ」と呼ばれていました。
 中学校ではバスケットボール部に入りますが、めんどくさい「女子とのつきあい」が苦手で、1年の夏休みで退部しました。

 高校は、看護士のお母さんの薦めもあって、「看護コース」のある大阪府立松原高等学校に入りました。七瀬さんは、相変わらず人見知りのおとなしい女の子でしたが、「家族旅行で東京・原宿へ行った時、1日で7人にスカウトされた」ほど、かわいい女子高校生になっていました。


 西野七瀬さんが高校2年の夏休み、2011年8月に「乃木坂46」の1期生のオーデションがあり、お母さんが応募しました。
 3万8934人の応募者から、1000倍以上の倍率で選ばれた36人の中に、17歳の西野七瀬さんの名前がありました。

 最初、七瀬さんは、レビュー前のレッスンでは大阪から東京へ「通っていましたが、他のメンバーにおいていかれないために自分で上京して寮に入ることを決意し、高校も東京都目黒区の日出高等学校の通信制に転学しました。
 七瀬さんの両親は、高校卒業までは自宅から通わせたかったのですが、七瀬さんは自分で退路を断ちました。

 乃木坂46に入るのも大変ですが、実は乃木坂46は、シングル曲ごとに「センター」や「福神(AKB48の「神セブン」に対応するフロント・ポジション)」、16人前後の「選抜」、そしてテレビ等に基本出られない「アンダー」などのポジションが変わる競争社会で、精神的にかなり大変です。

 西野七瀬さんは、1枚目、2枚目の曲では「選抜」で、3枚目で初めてフロントの「福神」になりました。
 ところが、2012年12月発売の4枚目のシングル「制服のマネキン」では、学業のため休業していた秋元真夏さんが復帰したことにより、押し出される形で「福神」から「選抜」に落ち、続く5枚目でも選抜のままで、悔しい思いをしました。
 しかし、ここで西野七瀬さんは、精神的に成長しました。

2013年7月発売の6枚目シングル「ガールズルール」で七瀬さんは半年ぶりに「福神」に復帰し、    2014年4月発売の8枚目シングル「気づいたら片想い」で初めてセンターに抜擢されました。

 その後は、9枚目の「夏のFree&Easy」(2014年7月」、11枚目の「命は美しい」(2015年3月」、13枚目の「今、話したい誰かがいる」(2015年10月)と、西野七瀬さんは4度のセンターを経験しました。これは、デビュー時から5作連続を含む6回のセンターを務めた生駒里奈さんに次ぐ記録で、ここ2年間では最多です。

 しかし、彼女は相変わらず「人見知りで泣き虫」で、特に標準語のトークは苦手です。
 お笑いコンビ「くりぃむしちゅーの上田晋也」さんがMCを務めるトーク番組では、「お焼香をしてるの?」と言われるほど暗い顔をしていました。

 しかし、関西弁を話すと、「日本一かわいい関西女子」と言われていて、テレビ番組でも大人気です。
 たとえば、上田晋也さんに対しても、
「あんなぁ、あたし上田さんのことが、好きになってしもうたんやけど、どうしたらいい?」と言って、秒殺してしまいました。


 また、動物好きとしても知られていて、犬やネコはもちろん、トカゲやヘビなどの「は虫類」や、フクロウなどの鳥類も平気で触ることができます。
 
 特に、鳥類が好きで、「ハトの講義」(?)も、熱く語っています。(以下、西野七瀬さんの言葉)

「私はハトが大好きアイドルです。
 まずは、ヤマバトの鳴き声が好きで、ホッホーホホ、ホッホーホホというようにリズム感をもっていて犬やネコのようにワンパターンではなく、新しいなあ(?)、と思います。
 次の魅力は色です。グレーの羽にピンクの足がアクセントで、首は紫か緑です。この色のバランスが絶妙で、駅でも住宅街でもどこにでも馴染める感じが好きです。
 いつかは、ハトをテーマにしたファッションにも挑戦したいと思っています。
 1番好きな鳥は雷鳥で、1番嫌いな鳥は羽がなくて肉みたいなヒヨコです(?)。」
(テレビ東京系「乃木坂ってどこ」より)

<乃木坂駅に張りだされた乃木坂46のポスター(1番手前が西野七瀬さん)>
 





 「乃木坂46」が、トップアイドルとして坂道を駆け上がる中でも、西野七瀬さんは握手会やグッズの売り上げが乃木坂ナンバーワンで、「風を着替えて」(2016年)という「ソロ写真集」の売り上げも87000冊以上を売り上げ、「オリコンの2016年写真集ランキング」で女優の広瀬すずさん(2位)を押さえてトップを記録しています。

 ちなみに、この写真集ランキングで、ベスト5のうち3つまでが「乃木坂46」関係で占められ、AKB48は5位に「AKB総選挙 水着サプライズ写真集」が入っているだけです。

 また、七瀬さんデザインの耳かきの梵天(ふわふわした部分)の神様「どいやさん」が、キディランドで2013年から発売され、「乃木坂グッズ」で売り上げ1番人気になりました。

 さらに、西野七瀬さんは、人気ファッション誌「non-no」の専属モデルも務め、「ピザハット」のCMでの単独出演をはじめ、「mouse」や「明治」など乃木坂46の多くのCMにも出演し、不動の1番人気となっています。

 デビュー曲のキャンペーン時のテッシュ配りでは、通行人にテッシュが配れずに泣き出すほど、「人見知り」で「泣き虫」の西野七瀬さんですが、自身が初センターを務めるCDのヒット祈願のためには、ギネス世界記録で233mの高さの「マカオタワー」からバンジージャンプを飛ぶなど、プロ意識も半端ではありません。

 西野七瀬さんのすごさは、ファンの人気が1番だけではなく、メンバーなどのまわりの女子にも人気がある点です。乃木坂46のメンバーに「彼女にしたいメンバー」のアンケートをとると、七瀬さんがダントツ1位になり、ライバルのはずのAKB48のメンバーにも「熱烈な西野ファン」がいるほどです。 

<西野七瀬さんがバンジージャンプしたマカオタワー>



 ここで、私自身も馴染みのないAKB48や乃木坂46の「握手会」について、少し説明します。
 「握手会」は、ライブコンサートとともに、「会いに行けるアイドル」の2大イベントです。

 乃木坂46の「全国握手会」(全握と呼ばれます)を例にとると、参加券は、特典付きCDなどに封入されており(通常版CDには入っていません)、そのことがCD売り上げにつながっていると言われています。

 握手会会場では、「荷物チェック→金属探知機チェック→荷物を置く→メンバーと握手→荷物を受け取る」の流れで、メンバー1人との握手またはミニライブ参加に、1枚ずつ参加券が必要です。
 1枚で握手できる時間は、3~5秒で時間がくると係員(はがしと呼ばれています)に押し出されます。  

 乃木坂46の「全国握手会」には、基本的に1レーンに2人のメンバーがいてファンがどこに並ぶか選択できますが、特に人気のメンバーは1レーン1人の「ソロレーン」があります。
 人気のメンバーは、数時間待ちもあるそうです。

 ちなみに、1番最近に首都圏で実施された「全国握手会」のレーンは次のとおりです。

<2016年11月23日 千葉・幕張メッセ>

△第1レーン  橋本奈々未(16枚目センター、卒業・引退)
△第2レーン  西野七瀬
△第3レーン  白石麻衣
△第4レーン  斉藤飛鳥
△第5レーン  衛藤美彩
△第6レーン  秋元真夏
△第7レーン  若月佑美
△第8~20レーン 各2人×13レーン
伊藤純奈、生田絵梨花、山崎怜奈は欠席

 この「ソロレーン」の7人と、欠席している生田絵梨花さんの8人が、「乃木坂46」で最も人気があるメンバーかなと、思います。


 最後に、「乃木坂46」と西野七瀬さんの人気を象徴する出来事を紹介します。 
 
  乃木坂46とMCのバナナマンが出演するテレビ東京系の番組「乃木坂工事中」(日曜深夜0時~)
 での話です。 

 乃木坂46の「お宝」を専門業者に鑑定してもらう番組でのエピソードです。

 橋本奈々未さんがもってきた7年前の雑誌「月刊バスケットボール」に、高校インターハイのバスケットボール出場チーム特集」として、マネージャーとして高校時代の橋本奈々未さんが写っているものが、通常10円の価値が、300円と鑑定されました。
 ところが、もし橋本奈々未さんのサインを入れると8000円に査定があがると鑑定され、乃木坂の今の人気を裏付けました。

 また、大リーグ「ヤンキーズ」の田中将大選手が、誕生日のお祝いをしてくれた乃木坂46のメンバーにお礼にくれたグローブのうち、西野七瀬さんのもの(なあちゃんの刺繍入り)が、10万円と鑑定されました。

 さらにすごいのが、持ち主の西野七瀬さんがグローブにサインを入れると、倍、つまり20万円になるという鑑定がされました。
 乃木坂46の1番人気の西野七瀬さんのサインは、10万円ってことなのかなあと思うと、今の「乃木坂46」の人気のすごさを示すエピソードですごいですね。


<西野七瀬さんデザインのグッズ どいやさん>


 一言にアイドルと言っても、年収数千万円のトップアイドルから、数百円の出演料の地下アイドルまで、いろいろいるようです。
 ただ、今をときめくトップアイドル「乃木坂46」が、過激・グラマー路線ではなく、ミニスカートやビキニ、マニキュア原則NGの正当派アイドルであるのは、嬉しいことだと思います。

 また、乃木坂46の中心メンバーには、「家族のための生活費と弟の学費を稼ぐためにアイドルになり、自宅を買って引退・卒業」する橋本奈々未さんや、「元ひきこもり・不登校」の白石麻衣さん、ミャンマー人と日本人のハーフの斉藤飛鳥さん、人見知りで動物好きの関西女子・西野七瀬さんらがいるということは、すごく嬉しいことだと思います。


 最後は、乃木坂46のドキュメンタリー映画の表題でテーマソングでもある「悲しみの忘れ方」の歌詞の一部を紹介します。


♪「悲しみの忘れ方」(歌:乃木坂46、作詞:秋元康 作曲:近藤圭一)♪

♪ 
爽やかな風が吹いて 
木々の枝 揺らしている
木漏れ日のその下を 歩きながら想う
どんな道も きっと どこかへ続く

あの頃の私たちは
今いる場所も わからずに
暗くて見えない道 星を探すように
胸の奥の夢を 手がかりにしてた

つらいことも いっぱいあった
いくつもの坂 登った

迷ってるのは 
私たちだけじゃないんだ
そばにいつだって 誰かいる
いいことひとつ 
今日の中に見つけて
悲しみをひとつ
忘れようとして来た

(中略)

思い通りに 
何も行かないけれど
それでも 誰もが前を向く
みんな同じだ
迷い悩み傷つく
悲しくなったら
もっともっと泣こうよ♪


<一句>
アイドルが 闇夜で探す 宵の明星


<写真 宵の明星>



2016年12月12日月曜日

なぜ安倍首相は「12月15日・山口」で日露首脳会談を開催するのか? 幕末・高杉晋作が起こした奇跡

2016(平成28)年12月15日、日本の安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領が、山口県で「日露首脳会議」を開催することが予定されています。
 日本国内での首脳会議が、東京などの大都市以外で開催されるのは、警護の問題などもあって、サミットを除けばきわめて異例です。
 今回の首脳会議の「12月15日・山口県」での開催は、安倍晋三首相のたっての希望だということです。

 では、なぜ、この日、この場所に、安倍首相はこだわったのでしょうか。

 私は、「晋三の晋は、高杉晋作の名前からとっている。」と公言する安倍首相が、幕末の長州(山口県)で高杉晋作が12月15日に起こした「歴史的奇跡」を念頭に、「2016年12月15日にも山口で奇跡を起こしたい」という思いで、決めたのではないかと思っています。

 そこで、今回は、幕末の長州(山口県)で、風雲児・高杉晋作(たかすぎ・しんさく)が12月15日
に起こした奇跡を中心に紹介します。


<長州(山口県)出身の幕末の英雄 高杉晋作>





 元治元(1864)年11月の時点では、実は、長州を中心とする尊皇攘夷派の倒幕運動の灯は、ほとんど消えかかり、「風前の灯火」の状態でした。
 この頃、高杉晋作が読んだ俳句にも、「ともし火の 影ほそく見ゆ 今宵かな」という心細いものがあります。


 それでは、歴史的な経緯を紹介します。 

 幕末の文久3(1863)年8月18日に京都で起きた政変で、それまで京都の朝廷・公家に強い影響力をもっていた長州藩を中心とする「尊皇攘夷派」が、会津藩(福島県)・薩摩藩(鹿児島県)など幕府に近い「公武合体派」に、京都政局から追放されました。

 さらに翌年、元治元(1864)年6月5日には、京都の治安維持をしていた会津藩おかかえの新撰組の近藤勇・沖田総司などが、京都市中の池田屋に集まっていた長州藩出身者を中心とした尊皇攘夷派の武士・浪人数十人を急襲し、多くの尊皇攘夷派が殺害・捕縛されました。(「池田屋事件」)

 これらの事件を受けて、元治元(1864)年7月19日、前年に京都を追放された長州藩が、藩の正式な兵士約2000人を京都へ上らせ、会津藩・薩摩藩を中心とする御所を守っていた公武合体派と戦闘になりました。
 この戦闘では公武合体派が勝利し、長州藩の来島又兵衛や久坂玄瑞など、約400人が戦死しました。
(「禁門の変」、または「蛤御門(はまぐりごもん)の変」といいます)
 この戦闘によって、京都御所に銃口を向けた長州藩は「朝敵」となりました。

 一方、長州(山口県)本土でも、「蛤御門の変」で京都で敗退した翌月の文久4(1864)年8月に、前年に長州藩の砲撃を受けたイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヶ国の艦隊が馬関(ばかん=山口県下関市)に砲撃を加え上陸して、一時、占領しました。(馬関戦争)

 窮地に立った長州藩は、「脱藩罪」で投獄していた高杉晋作を赦免し家老の息子に仕立て上げて、イギリスなど4ヶ国との和平交渉役に抜擢しました。

 高杉晋作は堂々と外国の代表と渡り合い、下関開港を認める代わりに、「賠償金は幕府に請求すること」「4ヶ国が要求した下関沖の島・彦島の租借は拒否する」という2点だけは、譲りませんでした。
 彦島を外国に渡さなかったのは、中国・上海に渡航経験があった高杉晋作が、香港の二の舞にならないようにとの強い決意があったからだと言われています。

 高杉晋作の登場で、長州と4ヶ国との和平は成立しましたが、京都の「蛤御門の変」によって朝敵(朝廷の敵)とされた長州藩を征伐するよう朝廷から江戸幕府に命令があり、11月には、幕府の命令を受けた全国35藩の15万人の兵が、長州(山口県)を取り囲む事態になりました。(第一次長州征伐)


 絶体絶命の長州藩は幕府の要求を飲み、藩主親子が謝罪し、「蛤御門の変」の首謀者として、尊皇攘夷派(正義派)の三家老が切腹、四参謀が斬首になりました。

 このあと、長州藩内では幕府寄りの保守派が実権を握り、幕府と対立し朝廷政権を目指した「正義派」は弾圧され、中心人物の一人、井上聞多が9月に襲撃され重症を負ったのをはじめ、身分に関係ない軍隊として高杉晋作が創設した「奇兵隊」にも解散命令が出されました。

 4ヶ国との和平を実現した高杉晋作にも追手が迫ったため、九州に逃亡しました。

 元治元年12月始めは、このような状況で「幕府から朝廷」への政権移譲を目指した反幕府勢力の中心的な役割を果たしてきた「長州藩(山口県)」も、幕末の志士たちも、壊滅寸前でした。
 
 四面楚歌、そのような状況の中で「勝ち目のない決起」を起こすために九州から帰ってきたのが、高杉晋作(たかすぎ・しんさく)でした。   

 11月下旬に長州に帰ってきた高杉晋作は、奇兵隊の諸隊を説得します。

「このままでは壊滅するのを待つだけだ。今は、決起こそが未来を開く唯一の道だ。
(以上は高杉晋作の意見を要約。以後は実際の高杉晋作の言葉の現代語訳)
 僕に一匹の馬を貸してくれ。僕はそれに乗って萩(当時、藩主がいた萩城)の君公(毛利の藩主親子)のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす。」

 この言葉を残して、高杉晋作は現在の下関市にある「功山寺(こうざんじ)」で、決起します。

 時に、元治元年12月15日(西暦1865年1月12日)、雪の功山寺で高杉晋作は、伊藤俊輔(のちの初代総理大臣伊藤博文)が率いる力士隊と遊撃隊のわずか84人で、長州藩正規軍(その裏には15万人の幕府軍もいます。)を相手に決起します。(「功山寺決起」)

 高杉晋作は、当時、功山寺に幽閉されていた三条実美など五卿に「これより長州男児の腕前をお目にかけます。」と挨拶して、出陣したという記録が残っています。

 本当は、12月14日、そうです「赤穂浪士の討ち入り」の日に晋作は決起したかったのですが、準備の関係で1日ずれてしまったのですが、雪の降ったのは、赤穂浪士の討ち入りと同じでした。


 高杉晋作ら84人が捨て身で起こした「功山寺決起」は、奇兵隊や長州の民衆の支持を得て成功し、大勢力となって、翌元治2年1月には、長州藩の正規軍とも激突しますが勝利します。
 2月には、萩に入った晋作率いる奇兵隊などの「正義派」が、長州藩を掌握します。

 その後、慶応2(1866)年1月には、長州藩と薩摩藩は「薩長同盟」を坂本龍馬の仲介で成立します。
 さらに、慶応2年6月から8月にかけての長州軍と「幕府軍+諸藩」が戦った第二次長州征伐でも、高杉晋作は長州軍の海軍総督として幕府軍を破り、倒幕・明治維新への流れを確かなものにしていきます。

 元治元年12月15日に高杉晋作が起こした「功山寺決起」は、幕末から明治に向かう流れの本当の導火線に火をつけた「日本史上の奇跡」だったのです。


<高杉晋作の功山寺挙兵の銅像(山口県下関市)>





 ここで、高杉晋作のプロフィールを、紹介します。

 高杉晋作(たかすぎ・しんさく)は、天保10年8月20日(西暦1839年9月27日)、長州藩士の長男として萩城下(山口県萩市)で生まれました。

 藩校の明倫館に通いながら、吉田松陰が萩郊外で主宰していた「松下村塾」にも通い、尊皇攘夷の志を学んで久坂玄瑞らと並ぶ「松下村塾の四天王」と言われました。
 剣術でも、「柳生新陰流」の免許皆伝の腕前でした。

 安政5(1858)年、19歳の時に江戸に藩名で遊学し、諸藩の志士と交流します。
 また、安政6(1859)年に師の吉田松陰が安政の大獄で捕らえられると、江戸の伝馬町獄を見舞って世話をします。
 しかし、藩名で萩へ帰国する途中に、吉田松陰の処刑を知ります。
 万延元(1860)年には、防長一の美人と呼ばれた「井上まさ」と結婚します。 
 
 文久2(1862)年には、(NHKの朝の連続ドラマ小説「あさが来た」でディーン・フジオカが演じてブレイクした)薩摩の五代友厚らと、幕府使節の随行員として中国の上海を訪れます。
 晋作は、ここで西洋列強の植民地となりつつある「清」を自分の目で見たことで、考えかたを大きく国際情勢重視に転換します。

 文久4(1864)年1月、晋作は脱藩の罪で捕まり、萩郊外の「野山獄」に投獄されます。
 しかし、結果的には、この投獄のおかげで晋作は、「池田屋事件」や「蛤御門の変」に巻き込まれず、命を延命することになります。

 この年の8月、イギリスなど4ヶ国艦隊に下関を占領されると、長州藩は、上海渡航の経験がある晋作を赦免し、4ヶ国との和議交渉にあたるように命令します。
 晋作は。見事にこの和平交渉を成立させます。

 しかし、「第一次長州征伐」で保守派が長州藩を牛耳ると、晋作は命の危険を察知して九州福岡へ逃亡します。
 九州諸藩の志士に決起を呼びかけますが応じるものはなく、長州藩の情勢悪化を知り、決死の覚悟で長州へ帰国して、12月15日に「功山寺決起」を敢行し、見事に成功させます。

 その後、晋作は三田尻(山口県防府市)の長州藩の海軍局を襲い、軍艦を奪って海軍を手に入れます。
 さらに、奇兵隊や商人、農民なども味方につけて、長州の正規軍を撃破して、藩の実権を握ります。
 
 慶応2(1866)年夏の「幕府・諸藩連合軍対長州軍」の「第二次長州征伐(四境戦争」でも、幕府軍15万人を敵に回して、長州軍4千人ほどを率いて戦い、見事に勝利します。
 このことで、幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3(1867)年の大政奉還、そして戊申戦争、明治維新へとつながっていきます。

 しかし、戦いに勝利した高杉晋作は、当時の不治の病「肺結核」にかかっており、明治維新の前年の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に、下関市内の桜山で満27歳で病死します。


 高杉晋作は、その生涯に多くの逸話を残しています。

 品川の「イギリス公使館」を焼き討ちしたり、天皇を護衛していた将軍に「よお、征夷大将軍」と声をかけたり、愛人の「おうの」と亡命中に讃岐(香川県)の金比羅さんを参拝したり、江戸時代としては、考えられないほど自由に生きています。
 そして、ついには、江戸幕府の終焉を決定づけたのも晋作でした。

 因(ちな)みに、東行庵の「東行(とうぎょう)」とは、平安時代のさすらいの詩人、「西行」の向こうを張って晋作が好んで使った名前です。
 「その生涯が1篇の詩になるものを英雄」という司馬遼太郎さんの言葉どおり、高杉晋作の生涯は、まさに1篇の詩であったと言えます。


<高杉晋作が眠る墓(山口県下関市)>





さて、平成28(2016)年の話に戻ります。
 
 安倍晋三首相は、高杉晋作の「功山寺挙兵」の記念すべき日、12月15日に、高杉晋作の功山寺挙兵の舞台であり、自らの選挙区でもある山口県に、ロシアのウラジミール・プーチン大統領を招待し、「日露首脳会談」を開催しようとしています。

 阿倍首相は自らのブログで、「私の名前の晋三の『晋』は、高杉晋作に由来します」と公表し、2014年には、高杉晋作の墓地(山口県下関市)を訪れ、「志が定まった」と話すほどの晋作ファンです。

 もしかすると、安倍晋三首相は、平成28年12月15日に山口県で行う「日露首脳会議」で、幕末の英雄・高杉晋作にあやかり、「歴史的ミラクル」を演出しようとしているのかも、知れませんね。


 私は、以前、高杉晋作が生まれた山口県萩市の生家を訪れたことがあります。
 藩の名家にしては、小さいなと思ったことが記憶に残っています。

 また、松下村塾(萩市)や、晋作が亡くなった東行庵(山口県下関市)、功山寺挙兵をした「功山寺」(同)にも行ったことがあります。

 その中でも、功山寺の隣にある「長府博物館」が特に印象に残っています。
 小さな博物館ですが、「牢獄にいて何もできない高杉晋作が、毎日のように握りしめていた愛玩石」が印象的でした。
 他にも、「支援してくれた豪商・白石正一郎への手紙」や「坂本龍馬の手紙」、さらには、あの乃木坂の起源となった長州藩の支藩・長府藩士の子である乃木希典陸軍大将の遺品も展示されていました。

<下関市立長府博物館>






 阿倍晋三首相が「12月15日・山口」の日露首脳会議で、ミラクル(奇跡)を起こすことができるかどうか、注目したいですね。
 そして、ぜひ、高杉晋作のように、志(こころざし)高く、みんなが自由でおもしろく生活できる平和な日本にしていただきたいものです。


「おもしろき こともなき世を おもしろく 棲(す)みなすものは 心なりけり」
(高杉晋作 辞世の句)


2016年12月4日日曜日

2016年「今年の漢字」大予想 ~大穴は「熊」、本命は?~

2016(平成28)年も、いよいよ12月ですね。
 流行語大賞に「神ってる」が選ばれ、次は「今年の漢字」ですね。

 去年、2015年の漢字を、「安」と見事に(?)本命で当てたので、その勢いで、今年も、予想してみようと思います。
 今年は、かなり難しそうですが-----今回も競馬風に、×△○◎の順に、予想をしてみます。

 まずは、大穴「×」の漢字を紹介します。
 私の予想は、「熊」です。

 「熊」は、訓読みで「くま」、音読みでは「ユウ」と読みますが、一般的には、ほぼ「くま」で使いますね。

 2016年の出来事の中で、「熊」の字に関係するニュースとして、一番大きいニュースは、「熊本地震」ですね。
 2016年4月に、気象庁が定める最大震度の「7」を2回記録し、地震による直接死だけで50人の方が犠牲になりました。
 その後、熊本県のキャラクター「くまもん」をはじめ、多くの芸能人・有名人が熊本復興に取り組んでおられます。

 「熊」のニュースでもう一つ話題になったのは、秋田県で4人が連続して犠牲になられたのをはじめ、全国で熊の被害が続出したことです。

 確かに「熊」という漢字は、2016年を代表する漢字の一つですが、明るいイメージがあまりないので「×」印です。

<くまもんの防虫ハンガー>



 
 
2016年の「今年の漢字」候補、2つめは△印の「驚」です。
「驚」は、音読みでキョウ(キャウ)、訓読みでは「おどろく・おどろかす」です。
 
 2016年は、「驚」のニュースが多かったと思います。
 おおかたのマスコミ予想に反してドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領に当選した「2016年最大の驚」。
 広島カープの「神っていた」25年ぶりのリーグ優勝や、日本ハムの大逆転日本一、大谷翔平選手の日本最速164kmの「驚」などもありました。
 他にも、リオ・オリンピックでバドミントンやレスリングなど、土壇場からの逆転での金メダルが多かったことも「驚」ですね。

 さらに、直前まで「消費税率を10%にする」ことを公約していた安倍政権が税率値上げを延期したこと、そして、ピコ太郎の「PPAP」が世界的ヒットになったのも「驚」ですね。
「驚」も、2016年の漢字の有力候補だと思います。


 ここで、「今年の漢字」の歴史と選出方法を紹介します。

 「今年の漢字」は、1995(平成7)年、阪神・淡路大震災の年に始まりまりました。
 ネットやはがきなどの一般投票で選ばれ、2016(平成28)年は12月5日が締め切りです。

 主催は、公益財団法人「日本漢字能力検定協会」で、その年の世相を反映する一文字「今年の漢字」を、日本を代表する名刹「京都・清水寺」の森清範貫主に書いていただき、清水寺のご本尊・「十一面千手観音像」に奉納する儀式を行います。
 この儀式により、「今年の漢字」に託された、その年の世相が清められ、これから迎える新年が明るい年になることを願って行う。ということになっています。

 ちなみに、2016年の「今年の漢字」の発表は、12月12日の「漢字の日」で、京都の「清水寺」で発表される予定です。
 この12月12日は、「いい日一字」の語呂合わせで「漢字の日」と言われています。

 これまでの「今年の漢字」の歴史を振り返ると、1995年、第1回の漢字は「震」で、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などの、自然・社会の「震」が漢字として選ばれました。
 その後も、アメリカ同時多発事件があった2001(平成13)年は「戦」、新潟県中越地震や台風の連続上陸があった2004(平成16)年は「災」など、全体的にはネガティブなイメージの漢字が、多く選ばれています。

 そんな中、特筆すべきは、2011(平成23)年の「絆」です。
 2011年は、2万人近い犠牲者が出た「東日本大震災」が発災して、日本中がどん底に打ちのめされた年でした。ところが、この年の漢字に選ばれたのは「絆(きずな)」でした。

 「今年の漢字」が始まって以来、最も大きな災害に見舞われた2011年の漢字が、「震」や「災」ではなく、最もポジティブな、助け合うという意味の「絆」であったことは、日本の誇りだと思っています。

 そして去年、2015年は、安保法制、安倍首相、「安心してください」の流行語などから、「安」が、このブログの予想どおり選ばれました。(エッヘン)


<「今年の漢字」の発表が行われる世界遺産・清水寺(京都市東山区)>



 では、2016年の「今年の漢字」大予想に戻りましょう。
 後半は、私が「対抗 ○」「本命 ◎」と思う、漢字を紹介します。

 まず「2016年 今年の漢字」の対抗(○)は、「異」です。
  音読みで「イ」、訓読みは「こと」「ことなる」などの読みがあります。

 2016年は「異常気象」が多く、観測史上はじめて「東北太平洋側から直接台風が上陸」のをはじめ、8月に3個の台風が北海道に上陸するなど、史上2番目に多い台風が上陸し、11月には東京で積雪が記録されるなど、全国各地でたくさんの「異常気象」がありました。

 他にも、「異次元」の金融緩和の日銀の「マイナス金利」や、外国人の訪日が史上最高を記録し「異文化」との交流も話題になりました。

 さらに、「異常、異なる」を感じさせるニュースも多く、「相模原障害施設の大量殺傷事件」をはじめ異常な事件も多かったと思います。


 いよいよ、「2016年 今年の漢字」の予想の本命「◎」です。

 私が考える今年の漢字の本命は「五」です。
 音読みで「ゴ」、訓読みで「いつ、いつつ」と読みます。

 この字を「今年の漢字」に選んだ最大の理由は「五輪」、つまりオリンピックの「五」です。
 リオデジャネイロ・オリンピックで日本選手団が過去最多のメダルをとり、日本中に感動を与えてくれました。
 ただ、金メダルの数は、2012年のロンドン・オリンピックの方が多かったので、2012年の今年の漢字「金」ではなく、今年は「五」を選びました。

 また、「東京オリンピック(五輪)」に関連した、会場選定や築地から豊洲への市場移転問題などが、2016年の後半はもめにもめたので、やっぱり「五」かなと思います。

 さらに言えば、年末に解散する「5人組のSMAP」や、話題の「ポケモン5(GO)?」にも、「5」はかかっているのではないかなと思います。(ポケモン5は苦しいですけど。笑)


  最後に、2016年の「今年の漢字」の私の予想を競馬風にまとめると、「◎五、〇異、△驚、×熊」です。
 この中に、今年の漢字は入っているでしょうか?
 今年は去年と違って、あまり自信がないのですが、12月12日を楽しみにしましょう。


<一首>

「熊・ポケモン 異常出没 日本で 五輪の名演 感動・驚き」