2016年11月28日月曜日

不登校・ハーフ・・個性的な35人の「乃木坂46」が300人のAKB48を超えた?

 先日、2016(平成28)年大晦日の「NHK紅白歌合戦」の出場歌手の発表がありました。 ここ数年、女性アイドルグループのトップを走ってきた「AKB48グループ」は、本体の「AKB48」1組だけの出場で、300人を超える全国のグループメンバーから投票で、紅白に出場する48人を決めることになりました。

 一方で、AKB48の公式ライバルとして5年前に発足した35人の「乃木坂(のぎざか)46」は、2年連続出場を決めた上、妹分の「欅坂(けやきざか)46」の初出場も決まりました。
 「46グループ」あるいは「坂道(グループ名に坂がつく乃木坂46や欅坂46などの総称)」が、AKB48の人気に追いつき、もしかした越えたのかも、知れませんね。

 前回は、「乃木坂46」のメンバー橋本奈々未(愛称「ななみん」)さんが「家計を助けるためにアイドルになり、乃木坂絶頂で卒業・芸能界引退を表明」という話を調べて紹介しました。

 いろいろ調べてみると、「乃木坂46」自体も、不登校だった子やハーフの子など個性的なメンバーがいて、結構おもしろいグループだということがわかりました。
 そこで、今回は「AKB48」の名実ともにライバルに成長した「乃木坂46」というグループと、推しメン(注目メンバー)について、紹介をしたいと思います。


<東京メトロ千代田線「乃木坂駅」>



以前紹介したように、「乃木坂46(のぎざかフォーティ・シックス)」は、2011年8月に「AKB48」の公式ライバルとして結成されたといえば聞こえはいいのですが、実は「AKB48」のシャドウー・キャビネット(影の内閣、組織)として結成されました。 「AKB48」がこれまで16回もオーデションをして、派生グループ(名古屋・栄町のSKE48、福岡市・博多のHKT48、大阪市・難波のNMB48など)を含めると、2016年11月現在で300人以上が在籍しています。
 一方、「乃木坂46」のメンバーは、2011年8月に1期生36名が1000倍を超える全国公募で選ばれましたが、その後は、「AKB48」のように毎年選ばれるのではなく、2013年5月に2期生13人(1000倍以上の倍率)が選ばれた以外は、2016年夏まで追加されませんでした。

 ですから、「乃木坂46」は「AKB48」に比べると、こじんまりとしたグループで、在籍者はこれまで「46人」を超えたことはありませんでした。
 ちなみに、2016年8月現在の「乃木坂46」の在籍者は35人です。

 その中でも、生駒里奈さん、生田絵梨花さん、橋本奈々未さんなど、センターを務めたことがある主要メンバー8人のうち7人は1期生で、現在も23人の1期生が正規メンバーとして活躍しています。

 彼女たちは、「乃木坂46」が「AKB48」の名前だけライバルと言われた時代から、苦労しながらも団結してきた5年間の経験がある原メンバーです。
 彼女たちがいることが、「乃木坂46」の強みなのかもしれませんね。


  そんな「乃木坂46」ですが、劇場をもたないので、2012(平成24)年1月に歌手レビューしたのは、なんと「AKB48グループ」200人以上とそのファンが集結していた会場(東京ドームシティホール)でした。

 「AKB48グループ」のメンバー200人以上が、コンサート開始前に団結を誓う掛け声をあげる片隅で、乃木坂46のメンバー30人余りは、遠慮がちに小さな声で掛け声をして、完全アウェイーの舞台で、「私たちには、AKB48さんという、越えなければならない坂道があります。」と宣言して歌いました。

 それからは、ミニ・コンサートや握手会、ラジオやテレビの深夜番組出演、雑誌などで地道に活動を続け、2012年のデビューの年に出した「ぐるぐるカーテン」など4曲は、いずれも20万枚を超えるヒットを記録し、その年のオリコンの「新人アーティスト部門」の1位になりました。

 続く2013(平成25)年も順調に売り上げをのばし、11月発売の7枚目シングル「バレッタ」は50万枚を超える大ヒットとなりました。そして、年末には「武道館ライブ」も実現しますが、ライバルの「AKB48」には遠く及ばない状態に変わりはありませんでした。

 2014(平成26)年も、CD売り上げは順調に伸び、10月に出した10枚目のシングル「何度目の青空か」は60万枚以上を売り上げます。
 しかし、この年、AKB48グループの派生グループSKE48の中心メンバーの一人・松井玲奈さんと、「乃木坂46」でデビュー曲から5枚目までセンターを務めた生駒里奈さんの交換留学が発表されると、「私たちの存在意義は、AKB48の公式ライバルじゃなかったの?」という疑問の声が、メンバーたちからあがり、グループ内がギスギスします。

 さらに、年末近くになって、メンバーの1人の「路上キスと不倫」が芸能ニュースになり、その影響もあって、有力視されていた「NHK紅白歌合戦」への初出場は叶いませんでした。


 挫折の多かった2014年が過ぎると、2015(平成27)年は文字通り「乃木坂46 飛躍の年」になりました。
 この年の10月に出した13枚目のCD「今、話したい誰かがいる」は70万枚を超えるヒットになり、年末には、ついに念願の「NHK紅白歌合戦」への初出場が実現し、「♪君の名は希望」をメンバー全員で歌いました。

 そして、2016(平成28)年11月発売の16枚目シングル「サヨナラの意味」が、乃木坂46初のミリオンを記録し、NHK紅白歌合戦への2年連続出場も決まりました。

 また、2016年夏には、3年ぶりのオーデションが行われ、乃木坂人気で集まった48,986人の応募者から、4000倍以上の難関を突破して、12人の3期生が選ばれ、2016年9月にメンバーとして加入しました。

 ここまでご紹介したように「AKB48の公式ライバル」と言いながら、紅白歌合戦の出場回数9回、レコード大賞受賞2回、CD総売り上げ3000万枚以上の「AKB48グループ」の実績には、遠く及びませんが、300人以上の「AKB48グループ」と、わずか35人の「乃木坂46」とを比べると、コストパフォーマンスでは、断然、「乃木坂46」が上ですね。

<紅白歌合戦の舞台NHKホール(東京都渋谷区)>



順調に見える「乃木坂46」ですが、もともと「AKB48」の影の存在として作られたこともあって、メンバーには、常に不安と苦しさがつきまとっていました。 特に、グループ発足時からいる1期生には、様々な逆境を乗り越えてきた注目メンバーがいますので、ここからは何人かの「推しメン(ファンは、自分の応援するメンバーをこう呼ぶそうです。)」について、乃木坂46のドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」(2015年7月10日公開、東宝)や、雑誌やブログ、ラジオやネットの情報などから紹介します。

 まず1人目は、乃木坂の御三家の一人「白石麻衣(しらいし・まい)」さんです。
 白石さんは、1992年8月20日、群馬県生まれで、愛称は「まいやん」です。
 乃木坂一ともいわれる色白美人で、雑誌「LARM」や「Ray」の専属モデルもしています。
 センターを2回務め、「福神」と呼ばれる前列のポジションを一度もはずしてないのは、彼女と卒業・引退する橋本茉奈未さんの2人だけです。

 この白石麻衣さんが、実は「不登校・ひきこもり」だったのです。
 中学2年の後半から、いじめが原因で不登校・ひきこもりになり、中学卒業後は地元・群馬の高校には進学せず、お母さんと2人で埼玉県に引っ越し女子高に通いました。
 白石麻衣さんの言葉です。
 「この辛かった時期に、寄り添ってくれた家族、特にお母さんに感謝しています。その時の辛さだったり、ありがたみが、今のお仕事につながっています。」

 不登校・ひきこもり問題を抱える私としては、白石麻衣さんが不登校・ひきこもりから立ち直って、乃木坂46の中心メンバーとしてキラキラと輝いくほど活躍しているのを見ると、心の支えになります。


 「推しメン」の2人目は、「斉藤飛鳥(さいとう・あすか)」さんです。1期のメンバーの中では最年少の18歳で、1998年8月10日、東京都生まれです。愛称は「あしゅ」です。
 アイドル界一の小顔と言われており、158cmながら八頭身で、雑誌「sweet」のレギュラーモデルも務めています。

 また、「神に選ばれし美少女」と呼ばれるほどかわいく、ほかのメンバーにも妹的な存在としてかわいがられています。
 特に、2016年夏の15枚目のシングル「裸足でSummer」では初センターも務め、乃木坂46の次世代エースの呼び声も高いです。

 この斉藤飛鳥さん、あしゅは、実はハーフなんです。
 お父さんが日本人、お母さんは、なんとミャンマー人です。
 ミャンマーと言えば(元のビルマ)、ノーベル平和賞を受賞した「不屈の女性」、アウンサン・スーチーさんに象徴されるように、「女性が働きもので理系女子も多い国」として、今、注目を集めています。

 斉藤飛鳥さん・あしゅは、18歳の今も「おかあさん」にご飯を食べさせてもらっているほど、「おかあさん」に対しては甘えん坊ですが、でも考えはしっかりしています。
 阿部公房や遠藤周作の小説を読み、「ハーフだから、嫌だと思ったことは1度もない。」と言い切る芯の強さと「神に選ばれし美少女」と言われる日本人離れした美貌が、これからの「乃木坂46」のエースとして期待されている所以かも、知れませんね。


 一つ、思うことは、白石麻衣さんも斉藤飛鳥さんも、最初からアイドルになることが目的ではなくて、「乃木坂46」の中に、自分の未来の「希望」を探すために、入ってきたような気がします。


<乃木坂駅に貼られた乃木坂46のポスター(手前が斉藤飛鳥さん)>




 今回の「乃木坂46」の話は、1回で終わるつもりだったのですが、ここまで、ずいぶん文字数を書いてしまったので、後半部分は次回に譲ります。(ごめんなさい) 後半は、「乃木坂46」で今、1番人気だけど人見知りのメンバーの話や「握手会の仕組み」、そして卒業・引退を表明した橋本奈々未(ななみん)さんの話の続編もしたいと思っています。

 今回のブログの最後は、2015(平成27)年に紅白に初出場した「乃木坂46」が、NHK紅白歌合戦で歌った曲「君の名は希望」の歌詞の一部を紹介します。

 この歌は、2013年3月に発売された「乃木坂46の5枚目シングル」で、31万9千枚を売り上げた名曲です。
 ちなみに、大ヒットアニメ「君の名は」の主題歌「♪前前前世」とは、関係ありません。(笑)



♪「君の名は希望」 (作詞:秋元康 作曲:杉山勝彦 歌:乃木坂46)

♪(前略)
何にもわかっていないんだ
自分のことなんて
真実の叫びを聞こう
さあ

こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかったこと
未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名は”希望”と 今知った

希望とは
明日の空
WOW WOW WOW




2016年11月23日水曜日

東北・関東で震度5弱の地震と津波が発生~津波への備えの再確認を~

2016(平成28)年11月22日5時59分頃、福島県沖を震源とするマグニチュード(M)7.4の地震が発生し、その後、最大1.4mの津波(宮城県仙台港)が発生しました。 みなさんの所は、大丈夫でしたか?

 気象庁は、この地震を「東日本大震災の余震と思われる」と発表しました。
 因みに、1.4mの津波は、2011年の東日本大震災以降で東北太平洋側で観測された最大の高さで、「津波警報」がこの地域に出たのは、2012年12月以来、4年ぶりということです。
 また震度5弱の揺れは、福島県、茨城県、栃木県で観測されました。
 幸い、死者の報告はありませんでした。


 ただ、この機会に「津波」への対応について、もう一度、考えておくことは大切だと思いますので、今回の問題点を検証してみます。

<2016年11月22日に発生した地震の震度分布(気象庁HP)>



 まず、私は地震直後、今回の地震の「津波の有無と大きさ」について、テレビとウェザーニュースの「メール情報」を見ながら、考えました。(緊急地震速報は、宮城県・福島県・茨城県とその周辺でしか発表されませんでした。)
 最初の情報は、ウェザーニュースの有料の防災メールで知りました。
 6時03分の「地震発生メール」で、「22日5時56分頃、東北地方で強い揺れを感じました。念のため津波に注意してください。<震度5弱 福島県浜通り>」という文面でした。

 
 それを受けてテレビをつけると、気象庁が震源は福島県沖(いわきの東北東60km付近)で、深さ10km、マグニチュード7.3と発表していて、「福島県沿岸に津波警報、青森県太平洋側~千葉県外房に津波注意報を発表」というニュースが流れていました。
(ウェザーニュースのメール情報は、6時05分に「津波警報発表」が来て、6時11分に「震源・震度情報」がきました。)

 この時点で、私は、以前、紹介した「気象庁予報官から聞いた津波発生の3条件」に、今回の地震情報をあてはめてみました。

<津波発生の3条件>
(1)震源が海 → 福島県沖なので○
(2)震源の深さが60kmより浅い → 深さ10kmなので○ 
(3)マグニチュード(地震の規模=M)が6.5以上 → M7.3なので○
 3つとも、あてはまりますので「津波発生の危険性」は高いと判断できました。(あとで、震源の深さは25km、マグニチュードは7.4に修正されましたが、結果は同じです。)

 次に津波の大きさを考えました。
 津波の大きさは、ほぼ「マグニチュード(地震エネルギー)の大きさ」で決まります。

 過去の経験から、「おおよそM7.5以上は大津波の可能性があり、M7.0以下は小さい津波」と考えられましたので、M7.3という今回の地震はその中間という判断をしました。(ただし、東日本大震災の時の最初の発表マグニチュードは7.6でその後、9.0まで大きく修正された例もありますので、続報に注意は必要です。)

 気象庁の発表も、3段階(津波注意報、津波警報、大津波警報)のうち、2番目の「津波警報(最大1m~3m)」でしたので、「東日本大震災級の大津波」ほどではないが、被害が出る可能性は十分ある津波という少し落ち着いた目で、各局テレビの朝6時台の報道を見ました。

 まず、一番、目を引いたのはNHKで、「今すぐ高い所へ逃げてください」とアナウンサーが連呼し、テロップも「にげて」でした。
 ただし、津波の実況中継はズームせずに海を写していたので、海面の異常はなかなかとらえられませんでした。


 一方、民報で目を引いたのは、日本テレビ系の「ZIP」枠で、冷静な報道のもと、映像も港をズームしていたので、引き波などの海面変化を見事にとらえていました。

 「大津波警報」ではなかったので、「ただちに、できるだけ高いところへ逃げて」と連呼するのには、少し違和感がありました。
 つまり、本当に大津波の時(大津波警報=3m以上)の報道と、どう区別するのかということが疑問です。

 それでも、NHKやフジテレビ系(めざましテレビ枠)の三宅アナなどが繰り返していた、「東日本大震災を思い出してください。」という言葉は、説得力があるなと思いました。

 現実には、「避難勧告・避難指示の対象者25万人に対し、実際に避難したのは6000人で、避難者が少なかった(2.4%)」とか、「車で避難する人が多く渋滞した」などの、以前と同じ課題は残りました。

 他にも、宮城県仙台港で、気象庁が想定した最大津波高1.0を超す1.4mの津波が観測され、気象庁はあわてて、津波発生2時間後に「津波注意報」を「津波警報」に切り替えるハプニングもありました。
 気象庁は事前にコンピューターで計算した10万パターンの津波のシミュレーションから、最も近い条件のものを選んで発表するそうですが、それでも「想定を超える津波」が発生したことになります。自然は、恐るべしですね。

 もう一つの問題は「デマ」です。
 今回の地震で、SNSを通じて「津波やべええええええ!!!!」という文字と、東日本大震災の時の写真を使って福島原発が津波に襲われているかのような、デマを流した人がいるそうですが、「正確な情報が命」の地震・津波の初期対応時に、このようなことをするのは、人命の危険も招きかねない危険な行為だと思います。

 福島原発といえば、「福島第二原発」の燃料プールの冷却浄化系の停電が1時間以上も続いたのに、マスコミ発表が遅くなったという問題も発生しています。
 東京電力は、22日7時頃には「異常は認められない」と発表していたのに、ショックでした。

 報道の仕方、避難方法、警報発表、デマ、そして原発、まだまだ課題は多いけど、でも地震や津波のたびに、反省し検証するのは大切だと思います。


<2016年11月22日 朝の空>


 ここで「津波警報・津波注意報」について、もう一度整理しておきます。
 現在、気象庁が発表する「津波の警報・注意報」は3つです。

(1)津波注意報(予想津波高 20cm以上1m以下)
  対応「海の中にいる人はただちに海から上がって、海岸から離れてください。」

(2)津波警報(予想津波高 1mを超え3m以下)
  対応「沿岸部や川沿いにいる人は、ただちに高台や避難ビルなど安全な場所に避難してください。
 標高の低いところでは津波が襲い、浸水被害が発生します。人は津波による流れに巻き込まれます。」

(3)大津波警報(予想津波高3mを超えるもの 5m、10m、10m以上の3段階に分けられ「巨大」と表現されます。)
  対応「木造家屋が全壊・流失し、人は津波による流れに巻き込まれます。沿岸部や川沿いにいる人は、ただちに高台や避難ビルなど安全な場所へ避難してください。」


 特に「大津波警報」が発表された場合は、ただちに「少しでも高い場所・建物」に逃げる必要がありま
す。


<津波警報・津波注意報の区分 (気象庁HPより)>


 最後に、津波避難の教訓である「津波てんでんこ」「命てんでんこ」と「釜石の奇跡」の話を紹介します。
 「津波てんでんこ」と「命てんでんこ」は、三陸地方の言い伝えです。
 「津波てんでんこ」は、津波の時は家族がばらばらになっても気にせず、高台へ避難せよという教訓で、「命てんでんこ」は、災害の時は自分で自分の命を守れということです。

 一方、「釜石の奇跡」は、東日本大震災の時、群馬大学の片田敏孝教授の教えを守って避難した「釜石東中学校」と隣接する小学校の児童・生徒562人全員が、助かったという実話です。
 その避難方法の三原則は、「(ハザードマップなどの)想定にとらわれるな」、「その状況下で最善をつくせ」、「率先避難者たれ」です。

 想定外の災害がくることを頭にいれて、あらかじめ決められた避難場所で満足せず、できるだけより安全な場所(高台やビルの高層階)へ逃げ続けろ。さらに、その時には、まわりの人にも「避難」を呼びかけながら、自分が率先して逃げろというものです。

 日ごろから訓練していた「釜石東中学校」の生徒は、全力で走りながら、小学生や大人にも「避難しましょう」と呼びかけ、指定された避難場所よりさらに高台に逃げて助かったというものです。


 ここで一つ、注意すべきことは、「津波てんでんこ」などの教訓は、あくまで「その時は自分だけで逃げろ」ということで、ほかの人を見捨てろということではありません。
 この教訓の裏には、あらかじめ家族と避難場所や方法を打ち合わせておいて、災害発生時にはお互いを信頼して、まずは各自で自分の命を守る行動をせよという意味が含まれているのです。

 津波や地震災害の怖いところは、「たくさんの人が同じ行動をしているから安全」ということにならないところです。
 東日本大震災では2万人近くが犠牲になり、インド洋大津波では十万人単位の犠牲者が出ています。

 地震・津波の発生時は、まずは、「自分の命を守る」ために、個人個人が「でんでんこ」に行動することが重要になるのです。


 次回は、たった35人で300人を超す「AKB48グループ」の名実ともにライバルになった「乃木坂46」の話の続編をしたいと思っています。

2016年11月14日月曜日

家計のためにアイドルになった「乃木坂46・橋本奈々未」さんがミリオン・センターで卒業・引退!

「SMAP解散」、「ベッキーとゲスの極み問題」、「地下アイドル刺傷事件」など、2016年はアイドルの話題が多い年でした。

 今、男性のアイドルの代表が「ジャニーズ」なら、女性アイドルの代表はAKB48グループですね。
 「綺麗な衣装を着て、スポットライトを浴びて、楽しく歌い踊る。」私の中のそんなアイドルのイメージが大きく変わった記事がありました。

 AKB48の公式ライバル「乃木坂(のぎざか)46」の中心メンバーの1人、橋本奈々未(はしもと・ななみ)さんが、「貧乏な家計を助けるためにアイドルになり、実家の生活や弟の学費のメドがたったので卒業し、芸能界を引退する。」という記事を読んで、大きな衝撃を受けました。

 今回は、そんな乃木坂46の橋本奈々未さん、愛称「ななみん」について紹介したいと思います。


<乃木坂46の名前の由来となった「SME乃木坂ビル」(東京都港区赤坂)>


 
まず、橋本奈々未さんがデビュー時から所属する「乃木坂46(のぎざか フォティーシックス)」について紹介します。

 「乃木坂46」のレーベル会社の「SME(ソニーミュージックエンタティンメント)」では、関連会社に所属していた「AKB48」が、キングレコードに移籍してから大ブレークしたため、「逃がした魚は大きかった」と担当者が悔やんでいました。

 そこで、SMEと、AKB48の総合プロデューサー秋元康さんがタックを組んで、AKB48の公式ライバルとして、2011(平成23)年8月11日に結成されたのが、新たな女性アイドルグループの「乃木坂46」です。

 「乃木坂」のグループ名は、最終オーデイションが行われた東京都港区赤坂の「SME乃木坂ビル」に由来し、「AKB48」より人数は少なくても負けるなという意味を込めて「乃木坂46」になりました。

 因(ちな)みに、「乃木坂(のぎざか)」は東京都港区赤坂の乃木神社から外苑東通りにかけての「坂道」の俗称で、学習院院長も務めた乃木希典(のぎまれすけ 1849年~1912年)元陸軍大将の自宅がこの付近にあったのことに由来します。

 この乃木希典元大将が、明治天皇の後を追って殉死した時から「乃木坂」と呼ばれるようになりました。
 ちなみにちなみに、住所表記上で「乃木坂」の地名はありませんが、東京メトロ・千代田線には「乃木坂駅」があります。


 「乃木坂46」の1期生は全国公募され、応募者3万8934人から合格した36名で構成されました。倍率は1081.5倍にもなります。
 その中には元ももクロメンバーやモデルなど、芸能活動の経験者も多くいましたが、橋本奈々未さんは東京にある武蔵野美術大学の1年生(18歳)で、まったく芸能活動の経験はありませんでしたが、見事、合格しました。

 しかし、乃木坂46は、あくまで影の存在でした。
 当初から「乃木坂46」のコードネームは「シャドウ(影)」で、AKB48のシャドウキャビネット(shadow cabinet=影の内閣)としての扱いでした。
 たとえば、2012年に発売された乃木坂46のデビュー曲「ぐるぐるカーテン」のカップリング曲の「会いたかったかもしれない」は、AKB48のヒット曲「会いたかった」をトレースしたものです。

 私自身、乃木坂46という名前は知っていましたが、説明できるほど詳しく知ったのは、橋本奈々未さんの「卒業・引退」に興味をもってからです。(ごめんなさい。)

 それでも、「おしゃれなリセエンヌ(フランス語で女子高校生)」をコンセプトとした衣装や、メンバー一人一人の個性とがんばりが、「お嬢様的美少女集団」のイメージで、男性はもちろん、女性にも人気となって、次第に、越えなければならない坂道である「AKB48グループ」にも負けない存在となっていきました。
 2015年には、♪「君の名は希望」で、NHK紅白歌合戦にも初出場しています。
 
<橋本奈々未さんたち乃木坂46メンバーが成人式を迎えた乃木坂神社(東京都港区赤坂)>





  橋本奈々未(はしもと・ななみ)さんは、1993(平成5)年2月20日、北海道旭川市で生まれました。
 小学生の頃から頭がよく、4年生の時には全国模試で1番になったこともあるそうです。
 中学校に進むと、バスケットボール部の選手として活躍しました。

 中学卒業後の橋本奈々未さんは、北海道立の「北海道旭川西高等学校」に進学し、バスケットボール部のマネージャーになりました。
 実家が「水道止まる、ガス止まる」(本人談)ほど貧乏だったので、高三の時には、居酒屋や焼き肉屋のアルバイトをしていました。正直、高校時代の写真を見ると、「普通のかわいい子」レベルだったと思います。
 高三の奈々未さんは、家族の反対を押し切って、上京して自力で美大へ進学することを決意します。

 2011(平成23)年4月、ちょうど「東日本大震災」の直後、橋本菜々美さんは高校を卒業して上京して、武蔵野美術大学に入学しました。
 実家が経済的に大変なのがわかっていたので、親には頼らず、奨学金を学費につぎ込み、生活費はアルバイトをして稼ぎました。

 東日本大震災の余震が連発する東京のひとり暮らしで、橋本奈々未さんの食事は、おにぎり1個が続き、美容院の値段が高かったので「カットモデル」をして節約したりしましたが、それでも、生活は苦しかったそうです。

 そんな2011年、大学1年の夏、インターネットで「乃木坂46」の公募を知り、「ロケ弁で空腹から救われるかも」という動機で応募しました。 
 その結果、見事、1000倍のオーデションに合格し、「乃木坂46」の第1期メンバーになりました。
 お金はなかったけれど、橋本奈々未さんは「おにぎりダイエット」のおかげで、自分でも気づかないうちに、高校時代とは見違えるほど、スレンダー美人になっていました。
 結果的に、「おにぎり1個」の生活が、乃木坂46への道を開いたのではないかと思います。

 余談ですが、橋本奈々未さんの「おにぎり1個生活」の話を知って、私もおにぎり1個の「ななみんダイエット」に挑戦中ですが、どうしても「お菓子」などの間食をしてしまいがちです。(意志が弱いですね。(笑) でも、もう少しがんばろう。)


 美少女揃いの「乃木坂46」の中でも、橋本奈々未さんは「福神」(七福神のち、八福神、十福神)と呼ばれる前列の位置を、デビュー曲「ぐるぐるカーテン」から、2016年夏の15枚目シングル「裸足でSummer」までずっと守っている、「乃木坂の御三家」と言われるほどの人気者になります。

 歌手活動の他にも、日本テレビの「ZIP」の川柳女子シリーズや、フジテレビの月9(月曜午後9時)枠のドラマ『SUMMER NUDE」などにも出演し、女優の活動も軌道に乗っています。

 さらに、人気ファッション雑誌「CANCAM」の専属モデルにも抜擢され、まさに「現代のシンデレラ・ストーリー」を地で行く、人気者になりつつあります。

 でも、橋本奈々未さん「ななみん」のすごいのは、「シンデレラ・ストーリー」と自分で決別したところです。


<橋本奈々未さんが卒業した「北海道旭川西高等学校」(北海道旭川市)>


 
実は、橋本奈々未さんの小学校の時の希望は「公務員になること」でした。
 芸能界に入って人気者になっていっても、「自分は裏方の方があっているのではないか」と悩みました。
 忙しくて大学も中退しなくてはならなくなり、体も重度のアレルギー反応の一つ「アナフィラキシー」と診断されて入院して、身長163cmの彼女が体重が30km台まで落ちた時もありました。
 次第に「乃木坂46」の活動に、疑問と限界を感じるようになりました。

 そんな2015年のある日、北海道のお母さんから奈々未さんに手紙が届きます。
「あなたの弟も頑張ってくれて、大学へ授業料免除の特待生として入学できることになったのよ。家の方の生活も、もう大丈夫だから、これからは、奈々未は無理せず、自分の好きなことをやりなさい。」と書いてありました。

 橋本奈々未さんが溺愛し心配していた4つ下の弟に大学へ行けるメドがつき、実家も落ち着いたことを知って、奈々未さんは、「乃木坂46」の卒業と、芸能界引退を本気で考えるようになります。
 事務所に水面下で希望を伝え、卒業・引退することを決めます。

 そして、2016(平成28)年11月9日発売の「乃木坂46」の16枚目のシングル「♪さよならの意味」で、初めてセンターに立つことになった橋本奈々未さん「ななみん」は、CD発売直前の10月にラジオで、「歌うのはこの曲を最後にして、2017年2月20日の誕生日をメドに乃木坂46を卒業し、芸能界からも引退します。」と発表しました。

 11月9日に発売された乃木坂46のCD「♪さよならの意味」は、ななみんの卒業・引退のニュースが背中を押したこともあって、同日に発売されたレコード大賞受賞経験がある「三代目 J Soul  Brothers from EXILE TRIBE」 の「♪Welcome to TOKYO」を押さえてオリコン・トップになりました。

 さらに、出荷枚数で100万枚を超え、「AKB48」以外のアーティストでは、2007年に秋山雅史さんが「♪千の風になって」でミリオンに認定されて以来、9年ぶりのミリオン認定が確実になりました。

 このことは、「乃木坂46」がAKB48の影(シャドウ)的な存在から、ついに表舞台になった瞬間だと思います。
 「乃木坂46がミリオンを達成」した絶頂期に、センターを務める「ななみん」が歌手だけでなく芸能界引退も発表するなんて、黒田選手の男気と同じほど、「ななみんの女気」はすごいと思います。
 本当に「生き方がロック」ですね。


<橋本奈々未さんがセンターを務める乃木坂46の16枚目シングル「♪さよならの意味」>




親孝行で弟思いの橋本奈々未さんのやさしさに感動して、私は、今年初めて、CDを買いました。(それも種類の違うCDを、複数、買いました。)

 他にも橋本奈々未さんが載っている「少年チャンピオン」や「AKBグループ新聞」、「ザ・テレビジョン」などを買って読んでみたり、ネットで情報を探したりして、「ななみんの卒業・引退・今後」について、いろいろ情報収集してみました。

 卒業・引退の理由についての真相の噂はいろいろありますが、でも、結局、本人のラジオ・テレビでの発言が一番確かだし、感動しますので、その一部を紹介します。


<ラジオでの引退表明>

「乃木坂46を卒業するとともに、芸能界も引退します。来年、24歳になってからは、一般社会で普通の女性として生きていこうと思っています。乃木坂で芸能界にデビューしたから、乃木坂卒業と同時に芸能界も引退しようと決めていました。(正直、卒業しても女優やタレントとして十分やっていけると思います。)」(2016年10月19日 ニッポン放送ラジオ オールナイトニッポン)


<卒業・引退表明を受けてのテレビインタビュー>

「自分は表に立つより、裏で誰かをサポートする方が合っているのかなと思っています。
 元々、(芸能界に)入ったのが、お金のためだったんです。実家がメチャ貧乏だったんです。
 水道止まる、ガス止まるみたいな。それでも、私は1人めだから親がいろいろしてくれた。

 でも、弟まで(お金が)まわる余裕があるのかと思った時に、弟は男の子だし、自分のせいで(進学)できなかったらと思って、何とかしなきゃと考えました。
 いろいろ模索した結果、ここ(乃木坂46)に来たんです。

 弟も大学へ進学し学費免除になった。弟も自立できるし、母からも『もう生活できるから自分の好きなことをしなさい。ありがとう。』という手紙が来ました。
 アイドルをやっている時も、私がちゃんとしないと困る人がいるという気持ちはずっとありました。 

 引退することで、ここまで応援してくれたファンの皆様には申し訳ない気持ちもありますが、でも、これからも、私はずっとファンに感謝しながら生きていきます。
 結婚は、相手もいないし、よほどいい人がいない限り、当分、ないです。でも、したいです。
 北海道には帰らず東京に残り、普通の社会人として生きていきます。」
(2016年10月30日放送「乃木坂工事中」 テレビ東京系 MCのバナナマンのインタビュー)


 自分のことしか考えない人が多い中で、橋本奈々未さんの話は本当にすばらしく感動しますね。

 乃木坂46の中で、橋本奈々未さんは、「頼りになるお姉さん」的な存在で、次世代エースの呼び声高い斉藤飛鳥さん(18歳)が『ななみんはオレの嫁』と公言しているのをはじめ、多くのメンバーたちにも慕われています。

 また、番組収録で大きなカエルでみんなが遊んだあと、カメラが止まってからカエルを抱いて「ごめんね。ごめんね。」と言っていたという逸話があるほど、人にも動物にもやさしい橋本奈々未さんです。  

 今回の橋本奈々未さんの家計のためにアイドルに就職・引退の話には、「子供の貧困」の問題が、アイドルの世界まで影を落としていることも浮き彫りにするきっかけにもなり、いろいろ考えさせられますね。


<橋本奈々未さんのふるさと「北海道旭川市」>



最後に、橋本奈々未さんが「最初で最後のセンター」になり、見事、ミリオンセールスを記録した、新曲「さよならの意味」の歌詞の一部と、「ななみん」のブログを紹介します。


♪「さよならの意味」(作詞:秋元康 作曲:杉山勝彦 歌:乃木坂46)

(中略)

大切なもの 遠ざかっても
新しい出会いがまた いつかはきっとやって来る
 
サヨナラを振り向くな 追いかけてもしょうがない
思い出は 今いる場所に置いて行こうよ

終わること ためらって 人は皆 立ち止まるけど
僕たちは 抱き合ってた腕を離して もっと強くなる

躊躇してた間に 陽は沈む
遠くに見える鉄塔 ぼやけてく

君が好きだけど
ちゃんと言わなくちゃ いけない
見つめあった瞳が 星空になる♪



<橋本奈々未さん「ななみん」のブログから。>

「さよならの意味、発売しました。みんな、ありがとう! 初のミリオン! 
 うれしいです! わーい!

 『♪さよならの意味』、そしてソロの『♪ないものねだり』。この2曲は、今後の私の人生にとっても宝物になる曲だと思います。
 これが人生、最後のレコーディングだったんよ。  

 すごく素敵な曲になりました。ありがとう。
 みんなもわたしの宝物を共有してください。」
(2016年11月11日 橋本奈々未さんのブログ「ありがとうだらけだな」より)


  しっかりもので優しい「ななみん」が、幸せになってほしいと心から祈りたいです。
  でも、少しだけ「芸能界復帰」にも期待したいと思っています。
  そして、自分も、ななみんみたいに、がんばらないといけないと、勇気づけられます。


<一句>
「ななみんは 優しきアイドル 永遠に」 

<一首>
「アイドルが シンデレラの靴 脱ぎ捨てて さよならの意味 噛みしめ旅立つ」

2016年11月9日水曜日

20億円より広島カープ復帰を選んだ黒田博樹選手の男気と座右の銘

2016(平成28)年のプロ野球・日本シリーズ「日本ハム対広島」は、見応えのある「世紀の日本シリーズ」だったと思います。

 中でも、大リーグでエース級の活躍をし、今期限りで引退を表明した広島カープの黒田博樹選手と、日本最速のストレートを投げ将来のメジャー行きが確実と言われている日本ハムファイターズの二刀流エース大谷翔平選手の対決は、プロ野球史上に残る名場面でした。

 今回は、大リーグで5年連続二桁勝利していた現役バリバリの年に、20億円以上のメジャーの年俸を蹴って、2015年に古巣・広島カープに戻り、今年の広島カープの25年ぶりのセリーグ優勝に貢献した黒田博樹選手の生きざまと、彼の座右の銘である西郷隆盛の言葉について紹介します。

<黒田博樹さんの著書「決めて断つ」>


 黒田博樹(くろだ・ひろき)さんは、1975(昭和50)年2月10日、大阪府大阪市で生まれました。
 お父さんの黒田一博さんは、元プロ野球選手で南海ホークスなどで活躍しました。引退後、ボーイズリーグの「オール住之江」の監督となり、黒田博樹さんも少年の頃、チームに所属しました。

 お母さんの黒田靖子さんは、高校の体育の先生で、砲丸投げの選手で、1964年の東京オリンピックの選手候補にもなりました。
 兄弟はお兄さんが一人います。

 高校は、大阪の野球の名門校・上宮(うえのみや)高校に進学しました。
 上宮高校野球部は、甲子園に夏1回、春8回(うち優勝1回)出場している強豪校です。(2016年現在)
 卒業生には、多くのプロ野球選手のほか、作家の司馬遼太郎さんなどもいます。

 上宮高校では、黒田さんは三番手の控え投手で、公式戦では1球も投げさせてもらえませんでした。
 野球部の練習は厳しく、一晩中、走らされることも度々ありましたが、黒田さんは律儀に監督の命令を守って。走り続けました。

   ある時、チームメイトの家族が、夜中に走っていたチームメイトと黒田さんをこっそり自宅に連れて帰り、風呂にいれたり食事を与えたりしました。
 その後、チームメイトの親から知らせを聞いた黒田さんのお母さんの靖子さんは、「今すぐタクシーで、学校のグランドへ返して、走り続けさせてください。」と言い放ったそうです。
 お母さんの黒田博樹さんへの、「困難に立ち向かえ」というメッセージだったと思います。

 上宮高校の当時の監督は、黒田選手に会う度に「補欠だったおまえがメジャーリーガーか。」と言われると、黒田さんは語っています。

 大学進学の時、地元関西の大学を希望する黒田さんに、お母さんの靖子さんは、「家を出て関東へ行け!」とあえて、突き放しました。「かわいい子には旅をさせろ」ということでしょうか。

 結局、黒田博樹さんは、関東の専修大学へ進学します。
 専修大学野球部は、東都大学リーグの一部と二部を往復していましたが、投手が少なく、黒田選手の登板機会が増え、広島カープのスカウトの目にとまります。
 黒田選手は、東都大学リーグで通算6勝を上げ、1996年、ドラフト逆指名2位で、広島東洋カープに入団します。


<広島カープのホーム「マツダスタジアム」>


1997(平成9)年、広島へ入団した黒田選手は、初登板の2軍戦で1イニング10点を取られます。しかし、4月に1軍で巨人から初勝利をあげると、この年6勝9敗で、規定投球回数を投げきります。

 その後、年間1勝の年もありましたが、2001年から2003年までと、2005年から2007年まで二桁勝利をあげるなど、広島カープのエースとなります。

 この間、2006(平成18)年にはFA(フリーエージェント)権を取得します。
 広島カープは親会社をもたず、資金的に余裕がないため、実績を積み年俸が高くなると他球団へ移籍する選手が多い「選手を育てる球団」として有名で、黒田選手にも2006年にFA権行使の噂が流れます。

 ところが、その年の10月、黒田選手の登板の時に、当時の広島市民球場の外野に、ファンが大きな横断幕を吊します。
我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹
 このファンの気持ちもあって、黒田選手は、結局、この年はFA権を行使せず広島に残ります。そして「国内の他球団には行かない」と表明します。

 翌年の2007年まで、黒田博樹選手は11年間広島カープに在籍し、通算103勝をあげ、最多勝1回、最優秀防御率1回のタイトルを取り、2008(平成20)年にアメリカ大リーグのナショナルリーグ、ロサンジェルス・ドジャースに移籍しました。

 大リーグではドジャースで4年間(41勝)活躍し、2012年からは大リーグを代表する人気球団アメリカンリーグのニューヨークヤンキースに移籍し、3年間で38勝をあげます。
 両チーム在籍中、2010年から2014年まで、5年連続で二桁勝利を挙げています。

 大リーグでも、黒田博樹選手の真摯な態度は共感を呼びました。
 特にドジャースのエース・カーショーとは、「ヒロは僕のともだち」というほど仲よくなりました。
 2016年のリーグ優勝決定戦シリーズでは、投球数にうるさい大リーグで、カーショーは中1日で志願登板しましたが、この男気は、黒田選手の影響かも知れませんね。  

 また、ドジャースの練習場では、見学にきていた明治大学の野村祐輔選手(のち広島カープへ入団)に激励の握手をし、「広島で会おう」と言いました。


 2014(平成26)年、黒田選手の30代最後のオフには、パドレスが20億円以上の提示するなど、複数のメジャー球団から提示がありましたが、黒田博樹選手はこれらのメジャーからのオファーを蹴って、広島カープへの復帰を表明します。(広島カープでの年俸は4億円と言われています。)
 
 今、黒田選手の著書「決めて断つ」(KKベストセラーズ発行 ワニ文庫)が、私の手元にあります。

 この中で、黒田選手は、契約期限がきたオフごとに次の進路に迷い「1日、1時間、いや最後は数分ごとに気持ちが変わり、迷いに迷った。」と書いています。
 さらに、「僕だってお金は欲しい。でも、自分がプロフェショナルとしてどういう思いでプレーできるかの気持ちの方が大切だった。」と明かしています。

 そして、2015年、「帰るならカープで」という言葉のとおり、黒田博樹選手は広島カープのマウンドに再び断ちます。
 この黒田選手の広島復帰は、野村祐輔選手との約束を果たしたことにもなりました。

 日本プロ野球の広島カープに復帰した黒田選手は、2015年は11勝、2016年も10勝をあげ、日米通算で7年連続二桁勝利を記録し、通算203勝に達します。
 そして、2016年の、広島カープ25年ぶりにリーグ優勝に貢献し、黒田博樹投手は引退しました。

 最後の登板となった日本シリーズで、最後に対戦したのは日本ハムの最速165kmを投げる二刀流の若手でメジャー注目の大谷翔平選手でした。

「黒田さんは、最後に持ち球全部を、僕に見せてくれました。」
 黒田選手から大リーグのバトンを渡された大谷選手は、感激してそう話しました。

<西郷隆盛像(東京都台東区上野)>


黒田博樹さんが、万年補欠だった上宮高校時代から座右の銘としている言葉があります。
「耐雪梅花麗(雪に耐えて、梅花(ばいか)麗(うるわ)し」という言葉で、冬の雪に耐えてこそ梅の花は麗しく咲くという意味です。

 これは、明治維新の英雄、西郷隆盛(1828年~1877年、鹿児島県出身)が作った漢詩「偶成(ぐうせい=たまたまできたという意味)」の一節で、何度も島流しに合いながらも明治維新を成し遂げた西郷の言葉が、黒田博樹さんの座右の銘になっています。

 この漢詩「偶成」は、五言律詩(5文字の句が八行)でできていて、「耐雪梅花麗」はその五行目にあたります。
「偶成」の後半部分(五行目以降)が特にいいので、紹介します。


耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し)
経霜楓葉丹(霜を経て楓の葉丹し)
如能識天意(如し能く天意を識らば)
豈敢自謀安(豈に敢て自ら安きを謀らんや)


(マイ現代語訳)
雪に耐えてこそ 梅の花は麗しく咲き
霜を経験してこそ 楓(かえで)の葉は赤くなる
もしも このようにして試練を与える天の意志を知っていたら
決して自分の身の安全を図ろうなどとはしないものだ

 黒田博樹選手の「男気」は、この西郷隆盛の志(こころざし)を実践している「平成のサムライ」ですね。

<黒田博樹選手の切手>



最後に、黒田選手の著書「決めて断つ」から、もう一つ名言を紹介します。(一部、抜粋します。)
 
~~~
僕の母親は、僕の二桁勝利を1度しかしらない。
父親は、僕がカープで投げているときしか知らない。
改めて両親に感謝しないといけないと、感じている。(お二人ともガンで亡くなられています。)

「苦しみ」や「恐怖心」「責任」という言葉たち。
それらすべては「一瞬の喜び」の為のエネルギーだと僕は思っている。
「苦しまずして栄光なし」
苦しみの先に必ず、栄光があると信じているからこそ、前に進めるのだ。
~~~

 2016(平成28)年11月5日、「広島カープ優勝パレード」の最後に行われた「黒田博樹選手引退セレモニー」で、黒田選手はこう挨拶しました。

「20年間、なんとか野球を続けてこられました。
 最後に、世界一のカープファンの前で、ユニホームを脱ぐことができます。本当に最高の引き際だと思っています。
 20年間、本当にありがとうございました。」

 広島カープで黒田博樹選手がつけた「背番号15」は、永久欠番になりました。
 いつかの垂れ幕の「黒田選手と広島ファンの涙」は、歴史となりました。

 これから、黒田博樹さんは「しばらく野球から離れて休む」ために、奥さんと2人の娘さんが待つ、アメリカ・ロサンジェルスの自宅へと「一旦帰る」予定だそうです。

「今後は、アメリカで暮らすかも知れないし、広島に帰ってくるかもしれない。家族と相談して決めます。」
 黒田博樹さんの今回の男気は、ニューヨーク以来、単身赴任の続いていた家族への愛情ですね。
 

2016年11月4日金曜日

♪「小さい秋 みつけた」と作詞家サトウハチローのやんちゃ時代

びっくりするようなニュースや、オリンピックやノーベル賞、ピコ太郎などに驚いているうちに、季節はすっかり秋になりましたね。(北日本では雪の便りが届いてますね。)

 そこで今回は、久々に季節と名曲の話をします。
 秋を象徴する懐かしい童謡の一つ「小さい秋みつけた」の歌詞を味わいながら、2016年秋の写真をいくつか紹介します。
 まず、1番の歌詞を紹介します。


♪「小さい秋みつけた」(作詞 サトウハチロー、作曲 中田喜直)

♪(1番)
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

めかくし鬼さん 手のなる方へ 
澄ましたお耳に かすかにしみた
呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた ♪

 
<写真 秋の夕暮れ>




 日暮れの時間が早くなって、「つるべ落とし」の秋の勇暮れや、人影が長くなっていくようすが、「ちいさい秋」を感じる一つかも、知れませんね。

 他にも、和菓子屋さんのメニューに「月」や「柿」が入ったり、最近ではコンビニやスーパーで「ハロウィン」コーナーができたり、テーマパークのハロウィンCMなどを見ると、「ちいさい秋 見つけた」となりますね。
 ハロウィンが終わり、ハロウィン仕様のお菓子が安売りされ、店員さんが「クリスマス」の飾り付けをしているのを見ると、季節の移り変わりを感じますね。


 童謡「小さい秋 みつけた」は、1955(昭和30)年に、NHKの「秋の祭典」という特別番組で、童謡歌手の伴久美子さん(当時は13歳、東京都荒川区出身 1942年~1986年)が歌ったのが最初でした。(タイトルだけ「小さい秋」で歌詞は「ちいさい秋」です。)

 作詞は、「かわいいかくれんぼ」などの童謡や、戦後復興を象徴する歌謡曲「リンゴの唄」などを作詞したサトウハチローさんです。
 一方、作曲は、「夏の思い出」や「めだかのがっこう」などを作曲した中田喜直さんです。

 では、2番の歌詞をごらんください。

♪「小さい秋みつけた」

♪(2番)
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかな すきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた ♪


<写真 秋の和菓子>




 この歌を作詞した頃、サトウハチローさんが住んでいたのは東京都文京区弥生の自宅だと言われています。庭の「はぜ」の木が色づくのをみて作ったと、自分で話されたことがあるそうです。  
 私も近くで住んだことがありますが、「なつかしい昭和の東京」が残るいい町です。 

 2番の歌詞に出てくる「お部屋は北向き くもりのガラス」というのは、病人がいる部屋のイメージだとも言われています。

 作詞のサトウハチローさんは、昭和を代表する詩人・童謡作家ですが、若い頃は実は「大変なやんちゃ少年」でした。

 学校の塀に大きな穴を開けて生徒の出入り自由にしたり、巡査の帽子をひったくって川に捨ててケンカをふっかけたりで、東京各区の警察署の留置場が30余りあった時代に、2つの留置場を除いて、ほとんどの留置場に入れられたほどの不良少年でした。

 また、東京大学や東京芸術大学にニセ学生として潜入し、新入生に本を売ったりして稼ぎました。
 転校11回、落第3回、そして父親から勘当されたのは17回に及びました。
 結局、旧制早稲田中学を中退しました。

 「小さい秋みつけた」をはじめ、「うれしいひなまつり」「かわいいかくれんぼ」、「リンゴの唄」、「悲しくてやりきれない」など、やさしくあたたかい歌詞を書いた詩人・サトウハチローの青春時代が「やんちゃ」だったのは驚きですね。


<写真 紅葉する木々>




 それでは、3番の歌詞です。

♪「小さい秋みつけた」

♪(3番)
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
 
昔の昔の 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉 赤くて入日色
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた ♪


<写真 夕暮れの中を散歩する少年とおじいさんとわんこ>




 平安時代に清少納言が書いたように、秋は1日で言うと「夕暮れ」が似合う季節ですね。
 彼女が見つけた「ちいさい秋」は、夕暮れの他に、「烏(からす)が飛んで帰っていく様子」や、「雁の群れ」、「風の音」、「虫の音(ね)」などです。

 もう北国では雪も降っていますが、あなたも「平成のちいさな秋」を、探してみませんか。


 最後に、サトウハチローさんが1954(昭和29)年、つまり「小さい秋 みつけた」の前年に発表した、心にしみる童謡「秋の子」の歌詞を紹介します。


♪「秋の子」 (作詞:サトウハチロー 作曲:末広恭雄)


すすきの中の子 一、二、の三人
はぜつりしてる子 三、四、の五人
どこかで やきぐり やいている
つばきを のむ子は 何人だろな


かきの実みてる子 一、二、の三人
さよならしてる子 三、四、の五人
ごはんに なるまで おもりするおんぶを する子は 何人だろな



ひぐれに走る子 一、二、の三人
ふろたきしてる子 三、四、の五人
こおろぎ あちこち なきだした
さみしく 聞く子は 何人だろな♪

 
 まるで、映画「「三丁目の夕日」の世界ですね。
 残り少ない秋の向こうには、どんな冬が来るのでしょう?