2017年12月31日日曜日

2017年の名言集と「今年のマイ漢字」~夢?、病?~

 いよいよ2017(平成29)年も、終わりますね。 「風の中の龍馬」も「アイドルの坂道」も、来年に続くとして、今回の前半はブログで紹介した「2017年の名言」を振り返り、後半は「2017年のマイ漢字」を発表します。


 まず、2017年1月のブログで紹介した、トランプ大統領の言葉を紹介します。
 2017年の国際情勢は、アメリカのトランプ大統領に振り回されましたが、大統領就任時には、こんな名言も言っていました。

Now arrives the hour of action.
Do not allow anyone to tell you that it cannot be done. No challenge can match the heart and fight and spirit of America.
(行動の時が、やってきた。不可能だと誰かに言われても、決して信じてはいけない。
アメリカの心とファイトとスピリットに勝る挑戦などありえない。)

Finally, we must think big and dream even bigger.
(最後に、私たちはビッグに考え、さらに大きな夢を見なくてはなりません。)

 この言葉だけを見ると「けだし名言」ですが、イスラエルの首都をエルサレムと認めるなど、心配の種は尽きませんね。アメリカの自制機能が働き、間違った方向に行かないでほしいですね。
 確実に言えるのは、2018年も、トランプ政権のアメリカがどう動くが世界に大きな影響を与えることになると思います。

(2017.1.22「アメリカ・トランプ大統領(2)就任演説・名言・迷言とプロフィール」より)



 次に、2017年3月11日、東京都千代田区の国立劇場で行われた6年目の「政府主催の東日本大震災追悼式」で、岩手県の遺族代表の千葉陽さんが話された内容を紹介します。

「あの時(東日本大震災)から、もう6年でもあり、まだ6年でもあります。
(中略)
その災害から、何とか生き残った者として、精いっぱいに生きることを全うすること。
そして、様々なことで起きる「つらさ」を「幸せ」に変えられるように、
いまの自分が持てる力が役立つのならば、少しでもできることをしていきたいと思います。」

もうすぐ7回目の3月11日が来ます。
「つらさを幸せに変える」のは簡単ではありませんが、
 震災犠牲者の命を無駄にしないように、忘れないようにしたいですね。

(2017.3.11「崖っぷちの日本に奇跡の花は咲く?」より)



<写真: 桜の花>



 2017年6月には。加計問題で、前文部科学省次官の前川喜平(まえかわ・きへい)さんが、安倍政権に敢然と反旗を翻して、こう話しました。

「あったことを、なかったことにはできない。
 我々は志をもって、公務員になった国民全体の奉仕者である。
 しかし、最近は、ともすれば一部の権力者の下僕になっている者がいる。私は、志を忘れたくない。」

 今も真実は霧の中ですが、前川さんの行動は、映画「生きる」を思い出させてくれました。

(2017.6.11 「本当に生きるとは~前川喜平・前文科次官と名画『生きる』」より)



 同じ6月17日に開催された「第9回AKB48選抜総選挙」では、バイトAKBの経験者でNGT(新潟)48の荻野由佳(おぎの・ゆか)さんが、速報1位、最終結果でも5位に入って、旋風を巻き起こしました。

荻野さんのスピーチです。
「小学校6年からAKB48に憧れ続けて、4年間ずっと落ち続けてきました。
 速報1位は、本当にビックリしたし、誰もが「なんで?」って思っただろうし、私が総選挙を壊してしまったのかな? と思ったこともありました。
 それでも、皆さんの愛だと受け取って、頑張ってきました。
 こんなにステキな順位(5位)をいただけるなんて夢のようです。私をアイドルにしてくれてありがとうございました。」

 AKB48選抜総選挙のスピーチから、もう1人、紹介します。
 9位に入った岡田奈々(おかだなな AKB48・STU48兼任、19歳、神奈川県出身)さんです。
「今のままでは、AKB48グループの明るい未来は作れないと思います。
 スキャンダルだったり問題を起こして、それをネタにして這い上がるメンバーが多いです。
 まっすぐに頑張っている人が報われるように、変えていきたいです。
 これからは、48グループの風紀委員長を目指して全力で頑張っていきたいです。」

 「まじめすぎるぐらいまじめ」と定評のある、岡田奈々さんらしいコメントですね。彼女は、2017年、新しく誕生したSTU(瀬戸内)48のキャプテンもしています。
 岡田奈々さんの「まっすぐな一生懸命さ」が、新しい48グループを造ってくれるかも知れませんね。

 荻野さんのNGT48、岡田奈々さんのSTU48、そして47都道府県代表で構成されているチーム8が、2018年AKB48グループの注目かなと私は思っています。(もちろん、坂道グループもです。)

(2017.6.25 「アイドルの坂道(7) さあ、革命の時間だ」より)


 
<写真 天国に咲くと言われている「蓮の花」)>




 続いて、紹介したいのは、2017年6月22日に、34歳の若さで癌のために永眠した小林真央さんです。彼女の1年前のブログを紹介します。

「2016年が過ぎていきますね!

どんな夜を、お過ごしですか??
『2016年』
描いていた形では終われなかったけれど、幸せを感じています。

年越しそばを食べているときに、
私の人生で、一番幸せな年越しそばに感じていました。
今年は色々ありすぎましたが、「kokoro.(ブログ)」で、皆様と繋がり、
たくさんの励ましを頂いたことに心から感謝致します。
感謝。
本当に、感謝、感謝、感謝。
そばにいてくれた人、離れて見守ってくれた方、
皆に感謝でいっぱいです。」
 ~2016年12月31日「ありがとうございました」小林麻央さんブログ~

(2017.7.3 「追悼 小林真央さん なりたい自分になる」より)


 次に紹介するのは7月18日に、105歳で亡くなった現役ドクターの日野原重明さんの言葉です。

「鳥は飛び方を変えることはできない。動物は走り方を変えることはできない。
しかし、人間は生き方を変えることができる。」

「私たちは運命を生きるのではなく、運命を作っていくのです。
 かつて自分ができなかったことを、思い切ってやることが、「夢を叶える」ということです。」

「50代、あるいは60代に向かおうとする時は、いよいよ自分がやりたいように、自分が自分を開発できる時期です。そうして開発した自分を、社会に還元するのが、第2の使命だと思っています。」

「やりたいことは、まだまだたくさんあります。私はどれもできると信じています。
 信じてね。ゴーですよ。」


 34歳で亡くなった小林真央さんも、105歳で亡くなった日野原重明さんも、長短に関係なく人生を一生懸命に生きたことに、違いはないですね。
 私も、2017年に病気で1カ月も入院したので、この2人の生き方を見習いたい気持ちでいっぱいです。

(2017.7.30 「追悼!105歳まで現役医師だった日野原重明さん」より)


<写真 ひまわり畑>
 


 後半は、2017年の「マイ漢字」を紹介します。
 2017年の我が家の大事件と言えば、「連鎖入院」です。
 5月8日に母が、車のブレーキとアクセルを踏み間違えて自損事故で入院しました。
 続いて、母の看病のために、100km近く離れた実家と自宅の間を、高速道路で往復していた私の左手が麻痺して、脳梗塞の疑いで1ヵ月の緊急入院をしました。

 私は、1週間で退院するつもりでしたが、医者と子供に止められました。
 特に子供に、「お父さん、あと3週間、休みなよ。」
  突然、そう言われて、リハビリ入院を決意しました。
 結局、退院後も5ヵ月、リハビリに通い、結果的に左手はほぼ回復しました。

 あとから思えば、1歩間違えば、半身不随、いや命もなかったかも知れない状態でした。
 滅多に意見を言わない子供の一言で、私は何も言えなくなり、リハビリのために入院継続することを決めました。

 そのあとも、父が介護支援施設に入居し、わんこのチワまで心臓疾患になり、本当に異常事態が続きました。
 と、いうことで私(我が家)の今年の漢字は、文句なく「病」でした。


 最後に、1つ朗報を報告します。
 
 私は、2017年は1カ月も職場を休職し、その後も半年近く、毎週リハビリに通いました。
 にもかかわらず、年末に職場で1人だけ「特別表彰」を受け、冬のボーナスと給料が、少しアップしました。

「病気が再発しないよう、がんばり過ぎないこと」を目標にしているだけに、半分驚きで、半分は、休職
中に頑張ってくれた他の人に申し訳ない気持ちでした。
 でも、病気と戦った日々を、認めてもらえたのは嬉しかったです。

<写真 愛犬 チワワのチワ>




 最後になりましたが、2017年、1年間、このブログを読んでいただき、本当にありがとうございました。
 実は、入院中は外出許可をもらって自宅で書くなど、ブログ更新の危機もありましたが、最後まで書けて本当によかったなと思っています。

 2018年は、健康の「健(けん)」と、いぬ年の「犬(けん)」が、今年の「マイ漢字」になるよう、焦らず無理せずコツコツと生きていき、ブログも更新してゆくつもりです。

 2018(平成30)年もよろしく、お願いします。
 皆さん、よいお年を!

2017年12月24日日曜日

クリスマス・年末の名作「最後の一葉(The Last Leaf)」~O・ヘンリー~ 

 クリスマス・年末の頃になると、街のイルミネーションのように華やかではないけれど、ひとりぼっちでも心が温まる名作を紹介したくなります。 そこで今回は、誰もが国語の教科書で読んだ(見た?)ことがある名作「最後の一葉」を紹介します。

「最後の一葉(原題 The Last Leaf)」は、アメリカの短編小説家O・ヘンリーが1905(明治38)年に発表した作品です。
 O・ヘンリーについては、2年前(2015年12月23日)の本ブログで「賢者の贈り物」を紹介しましたが、今回の「最後の一葉」も彼の代表作の一つです。


 まず、前半の部分の「あらすじ」を紹介します。


 ワシントンスクエア(アメリカ、ニューヨーク市の下町)に、芸術家たちが集まる「グリニッジ・ヴィレッジ」という迷路のような小さな町があります。
 この町にある、煉瓦造りの3階経てのアパートの最上階に、スーとジョンシー(ジョアンナの愛称)という2人の若い女性の画家の卵が共同でアトリエを持っています。

 彼女ら2人が出会ったのは5月でしたが、11月には<ミスター肺炎>がこの町を襲い、何十人という犠牲者を出しました。
 そしてミスター肺炎は、ジョンシーに襲いかかりました。

 ジョンシーは、鉄のベッドの上で動けなくなり、小さな窓から見える煉瓦造りの隣の建物の壁を、見ているだけになりました。

 ある朝、ジョンシーを見た医者は、スーを廊下に呼び出して言いました。
「助かる見込みは、十に一つと言っていい。その見込みも、あの娘が生きたいと思うかどうかにかかっている。」

 医者が帰って、スーは部屋に戻りました。
「12、11、10」
 ジョンシーが窓を見ながら、何かを数えています。
「9、8、7」
 スーは心配そうに窓の外を見て、ジョンシーに尋ねました。
「ジョンシー、何を数えているの。」

「6つ。蔦に残っている葉っぱの数を数えているの。
3日前には100枚もあったのに、だんだん落ちるのが早くなっていくの。
あっ、また落ちた。あと5つ。
あの葉っぱが全部落ちたら、私もこの世から、さよならするのに違いないわ。」

スーは、無理矢理、大声で笑いました。
「そんな馬鹿げたこと、聞いたことないわ。」
ジョンシーは首を振って答えました。
「ほらまた落ちた。これであと4枚だわ。
もうすぐ最後の1枚が落ちるわ。それを見たいの。
そしたら、私もさようならするわ。」

「ジョンシー、お願い。
私が絵を描き終わるまで目をつむってて。それまで窓の外を見ないと約束して。」

「じゃあ、明日の朝、一番にあの蔦を必ず見せてね。」
そう言うと、ジョンシーは目を閉じ眠りました。

(後半につづく)



<「最後の一葉」の舞台、ニューヨーク市のグリニッジ・ヴィレッジ>




 
 O・ヘンリー(本名 ウイリアム・シドニー・ポーター)は、1862(文久2=幕末)年9月11日に、医者の子として、アメリカ・ノースカロライナ州グリーンズポロに生まれました。
 二十歳頃からはテキサスに住み、薬剤師、銀行員、ジャーナリストなどの職を転々としました。

 1896年、34歳の時に以前務めていた銀行についての「横領の疑い」で起訴され、1898年に懲役8年の有罪判決を受けます。
 この服役中から、彼は、多くの作品を書きます。

 1901年に出所し、1902年にニューヨークに移り住み、新聞社と毎週1本のペースで掲載小説の契約をしました。
 「最後の一葉」は、1905年に書かれたものです。

 ちなみに、ペンネームの「O・ヘンリー」は、かわいがっていたネコのヘンリーを呼ぶときの「おーいヘンリー」から、名付けられたとも言われています。(諸説あり)

 1910年6月5日、O・ヘンリーは、肝硬変になり47歳で亡くなりました。彼の生涯で381作品が掛かれ、その多くが短編です。
 代表作は、「最後の一葉」のほか、2年前に紹介した「賢者の贈り物」、「二十年後」などです。



 それでは、「最後の一葉」の後半を紹介します。


 病気のジョンシーが眠るのを見届けたスーは、階下の部屋の老画家のベールマン老人のところへ行って、彼に絵のモデルになってもらいました。
 ベールマンは「いつか傑作を描く」と言っているうちに、老齢になってしまった売れない画家でした。
 スーは絵を描きながら、ベールマン老人に、ジョンシーの話をしました。

 ベールマン老人は、叫びました。
「蔦の葉が落ちたら自分も死ぬなんて、なんて馬鹿げた考えだ。
 ああ、ここは、ジョンシーのような善良な娘が病気で寝るようなアパートじゃない。
 いつか私が傑作を描いたら、みんなでもっといい所へ引っ越そう。」

 その夜、3人が住むアパートを、雪交じりの雨と暴風が襲いました。
 スーは、「暴風雨であの蔦の葉が全部落ちるだろう」と思うと、眠れませんでした。

朝が来ました。

「スー、窓のカーテンを明けて。葉っぱが全部落ちているのを確認したいの。
 そして、私はさよならするの。」
 ジョンシーに言われて、スーは、カーテンをおそるおそる開けました。

「あっ。」
 スーとジョンシーは、思わず顔を見合わせました。
 なんと、あの暴風雨の中で、蔦の葉が1枚だけ散らずに残っていたのです。

 それから何日たっても、最後の一葉は散らずに残っていました。
 やがて、ジョンシーは、最後の一葉を心の支えに、次第に回復していきました。

 何日かして、医者はスーに言いました。
「もうジョンシーの病気の危機は脱したよ。君の勝ちだ。
 ただ、このアパートの下の階のベールマンという老人が、今日、同じ肺炎で亡くなっよ。」

「えっ、突然ですね。この間まで、ベールマンさんは元気でしたのに。」
スーが驚いて聞くと、医者は答えました。
「この間のひどい嵐の夜、
ベールマンさんはずぶ濡れになって、部屋に帰ったきたそうだ。
そのあと、急に肺炎になって、高齢だから亡くなったんだよ。」

スーは、あわてて隣の建物の壁の「最後の一葉」を見に行きました。
やっぱり、スーの思ったとおりでした。

スーは部屋に戻って、ジョンシーに静かに言いました。

「ジョンシー。窓から、あの壁の最後の一葉を見てみて。
 風が吹いているのに、ひらひらもしなければ、動きもしないのは不思議だと思わない。
 あれは、ベールマンさんの傑作なのよ。」
「えっ。そういえば。」
 ジョンシーは驚いて、起き上がりました。

 スーは続けました。
「この前の嵐の夜、ベールマンさんは、あなたを助けるために、葉っぱの絵を描いたのよ。
 最後の一葉という、傑作を描いたのよ。
 おかげで、ベールマンさんは肺炎になり、今朝、亡くなったわ。
 でも、ジェンシーがよくなって、ベールマンさんは本望だと思うわ。」



<写真 紅くなった葉っぱ>





 クリスマス・年末に紹介したい名作として、今回は「最後の一葉」を紹介させていただきました。
 もちろん、この小説は、「クリスマス」をテーマにした作品ではありません。

 でも、ベールマン老人は命がけで、若い女性画家ジョンシーに、「生きる気力」というプレゼントを贈ったのですから、まさにクリスマス・プレゼントだと思います。

 クリスマスの時期は、キラキラしたイルミネーションに隠れて、本物を見失いがちです。
 本当に大切なものは何か、今夜、静かな静かな冬の夜に考えてみませんか。

 最後に「じゅんくう詩集」から、1詩、紹介します。




詩「最後の一葉 ~クリスマス・イブの奇跡~」

ヒューヒュー
ブルブル 
ピュー ピュー
ブルブル

木枯らしが唸る 
クリスマス・イブの夜に
O・ヘンリーの「最後の一葉」を読んでいた

生きる気力を失った 
病身の若い画家の女の子は
「あの葉っぱが全部散ったら 私の命もさようなら」
と窓の枯れ枝の葉に命を預けた

あと10枚
あと7枚
あと5枚

残り少ない 葉っぱがヒラヒラと落ちてゆく

その夜 
嵐のような雨と風が
葉っぱたちを襲った

翌朝
「きっともう散っている」
そう思って開けた窓から見た枝に
1枚だけ 葉っぱが残っていた

いく日たっても散らない 
希望の葉っぱに
女の子は 
勇気と元気を取り戻していった

でも
その影で
嵐の中で 生涯最高の傑作
「最後の一葉」を描いた
老画家は
肺炎になり 
ひっそりと命を散らしていった


<クリスマスのLEDイルミネーション>





100年前の小説「最後の一葉」をポケットに
ぼくは 華やいだ イブの街を彷徨う

時間が過ぎても
人の心は 変わらない

人に勇気と元気を与えられるのは
言葉ではなく 行動
一生懸命の背中を

子供に見せていこう
そう誓う
メリー クリスマス


(じゅんくう詩集より 2017年12月24日)

2017年12月17日日曜日

アイドルの坂道(12)地方の力(チーム8全員本社兼任)に賭けた13年目のAKB48新組閣

 2017年12月8日、東京・秋葉原で行われた「AKB48劇場12周年記念公演」で、3年ぶりにAKB48の新組閣がサプライズ発表されました。
 今回はその内容と、組閣の目玉になった「チーム8」の注目メンバーたちの紹介をしたいと思います。


 最初に、サプライズ組閣発表直後のAKB48・二代目総監督・横山由依(よこやま・ゆい、京都府出身、25歳)さんのメンバーを前にした発言を紹介します。

「12周年目にもらったこれ(新組閣発表)を、試練なのかチャンスなのかわからないけど、13年目に繋げられるように、必死に乗り越えていきましょう。
 ここにいるメンバーで、もう1回東京ドームに立ちたいって、本当に本当に思うので、そう思えるメンバーと、その夢を一緒に追いかけてくれるファンの皆さんと、13年目もがんばっていきたいと思います。」

 坂道グループ(乃木坂46、欅坂46など)の人気が急上昇し、11月には乃木坂46の「東京ドーム2daysコンサート」が大成功したばかりの中で、まじめな横山総監督の危機感が、ひしひしと感じられますね。


<写真:12周年を迎えた「AKB48劇場」が入っているビル(東京都千代田区・秋葉原電気街)>






 13年目を迎えるAKB48の新組閣の特徴を一言でいえば、「地方の力に賭けたAKB48」です。

 まず、宮脇咲良(HKT48=福岡市博多)さん、北川綾巴(SKE48=名古屋市栄)さん、白間美瑠(NMB48=大阪市難波)さんなど、東京本社(正式名称ではありませんが、ファンは東京秋葉原を拠点とするAKB48グループ本体をこう呼んでいるので今回はその呼び方を書きます)と兼任をしていた、姉妹グループの有力メンバーのほとんどが兼任を解除され、姉妹グループ専任となりました。
 これは、地方にある姉妹グループの体制強化が目的だと思います。

 一方、空いた東京本社のメンバーには、2014(平成26)年に、全国47都道府県で1人づつが選ばれ、ローカルを中心に地道に活動し、やっと人気が出てきた「チーム8」のメンバー45人全員(卒業発表をしている福島県と高知県の2人を除く)が本社兼任となりました。

 会社で言えば、「地方の各出張所で1人きりで地道に活躍してきた社員たちに、本社の花形部署を兼務させるという形ですね。
 チーム8のメンバーが作りあげてきた人気と実績に、渡辺麻友さんや北原里英さんなどの人気メンバーが卒業する「13年目のAKB48」の命運を賭けたとも言えますね。
 これは、結構、ステキな運営だと思います。

 
 ここからは、AKB48本社の、「チームA」「チームK」「チームB」「チーム4」の4つのグループごとに、2018(平成30)年春から活動開始予定の新チームの主なメンバーを紹介します。

 まず「チームA」は、横山由依総監督をはじめ、正規メンバー22名で構成されています。
 この中には、「チーム8」から初めてキャプテンに抜擢された岡部麟(茨城県代表、21歳)さんや、チーム8のセンターで人気ナンバーワンの小栗有以(東京都代表、15歳)さんなど、半分近い10人がチーム8から兼任で入っています。

 次に「チームK」は、キャプテン込山榛香(19歳、千葉県出身)さんをはじめ、25名の正規メンバーで構成されています。
 そのうちチーム8からは、小栗さんと並ぶ人気ビッグ3の1人の・倉野尾成美(熊本県代表、17歳)さんなど、12人が兼任しています。

 続いて「チームB」には、キャプテン高橋朱里(20歳、茨城県出身)さんをはじめ、25人の正規メンバーが所属していますが、チーム8からは、最年長の太田奈緒(京都府代表、23歳)など10人が兼任しています。

 最後に「チーム4」には、キャプテンの村山彩希(20歳、神奈川県出身)さんをはじめ、25人の正規メンバーが所属し、そのうちチーム8からは、ビッグ3の最後の一人の坂口渚沙(北海道代表、16歳)さんや、このブログで紹介した毎朝5時30分に1年以上動画配信をしている大西桃香(奈良県代表、20歳)さんなど、13人が兼任しています。

 まとめると、AKB48本社の4グループで、97人の正規メンバーのうち46%の45人が「チーム8」の兼任メンバーということなります。
 まさに、チーム8旋風が吹き荒れた新組閣と言えると思います。


<写真 2017年1月の「チーム8ソロコンサートのDVD」(上から小栗有以さん、倉野尾成美さん、坂口渚沙さん)>






 後半は、2018年に活躍が期待されるチーム8の注目メンバーを、独断で選んで紹介します。
 まず、さきほども紹介した、2017年1月の東京ドームシティホールで「ソロコンサート」を開催した3人を紹介します。


 まず、小栗有以(おぐり・ゆい、東京都代表、15歳、SHOWROOMフォロワー数⦅以下「SR」と略します⦆1位)さんは、まだ15歳(高1)ですが、「2万人に一人の美少女」と言われ、チーム8の人気ナンバー1のエースです。
 さらに、AKB48グループ全体の選抜にも、最新曲「11月のアンクレット」を含め4回も選ばれていて、AKB48本社の次期センター候補No.1とも言われています。愛称は「ゆいゆい」です。

 ファンの動員力はメンバー随一で、2017年1月の初ソロコンサート「小栗有以の乱」も満員でした。
 また、無料動画配信サービス「SHOWROOM」のフォロワー数も、チーム8でただ一人3万人を超えています。さらに、2017年「AKB48選抜総選挙」では51位となっています。

 2016年開催の演技力を競う「れなっち総選挙」では、168名の立候補者の中で1位となりました。他にも、雑誌「ラブモ」の専属モデルも務めています。
 自己紹介のキャッチフレーズは、「みーんなのハートを(とっちゃう、とっちゃう) 東京から来ました“ゆいゆい”こと小栗有以です。」


 2人目の倉野尾成美(くらのお・なるみ、熊本県代表、17歳、SR4位)さんも、2017年1月に東京ドームシテイホールでソロコンサート「倉野尾成美の乱」を開催し、AKB選抜総選挙では、2016年が34位、2017年が30位と2年連続ランクインしています。
 ところが、AKB48選抜には、1度も選ばれていません。

 キャッチフレーズは、「みんなと一緒に笑顔に(なるなる)。熊本県から来ました"なるちゃん"こと倉野尾成美、17歳です」


 3人目の坂口渚沙(さかぐち・なぎさ、北海道代表、16歳、SR8位)さんは、2017年1月の東京ドームシテイホールの3番目にソロコンサート「坂口渚沙の乱」を開催しました。
 3人の中では唯一、2015年から本社のチームBを兼任しています。
 AKB選抜総選挙の順位は、2016年70位、2017年69位と、チーム8では倉野尾さんと2人だけが、2年連続ランクインしています。また、AKB48選抜に2回、選ばれています。

 自己紹介のキャッチフレーズは、「皆さん、磁石のS極は?(さかぐちー!)磁石のN極は?(なぎさー!)2つ合わせて?(さかぐちなぎさー!)どうも、北海道から来ました、なぎこと坂口渚沙 16歳です。」


 ここまで挙げた3人以外で、紹介しなければならないとすれば、最初はやはり、チームAのキャプテンに就任する岡部麟(おかべ・りん、茨城県代表、21歳、SR2位)さんですね。
 キャッチフレーズは、「おー!壁!りんりんりん♪ もしもーし、茨城県から来ました、"りんりん"こと岡部麟です。」  

 チーム8では、数少ない20歳を超えるお姉さんメンバーの一人で、50枚目シングル「11月のアンクレット」では、AKB48の初選抜にもなりました。
 そして、今回の組閣で、チーム8出身者では初めて、本社のチームのキャプテンに就任します。
 美人でMCなども務めるしっかり者ですが、チーム8内では、「上から目線」「おしゃべりで小うるさい」との評判もあります。
 2017年12月31日のNHK紅白歌合戦に、「紅白選抜」に選ばれたチーム8のメンバーは3人ですが、そのうちの1人が岡部麟さんです。


 2017年の「AKB紅白選抜」に選ばれた、2人めは、チーム8最年長の太田奈緒(おおた・なお、京都府代表 23歳、SR7位)さんです。

 太田奈緒さんは、テレビのバラエティ番組で男装すると、「おおた・なお」から「たなお」になります。
  キャッチフレーズは、「行きますよ! everybody??!(なおー!)」です。

 太田さんは、最年長らしく、しっかりものでメンバーの信頼は厚いです。

 AKB選抜の経験はありませんが、2017年選抜総選挙で65位に初ランクインし、SHOWROOM配信もほとんど毎日、行っていて、2017年のショールーム選抜でも13位に入っています。
 最年長で、どうしても卒業がちらついていましたが、2017年の紅白選抜に入ったことで、「来年も選抜総選挙に出る」と、決意を語る京女です。


 3人めの紅白選抜メンバーは、「アイドルの坂道(10)」で紹介した、あの大西桃香(おおにし・ももか、奈良県代表、20歳、SR6位)さんです。
 キャッチフレーズは、「いきなりですが質問です。みなさんの好きな色は何ですか?(様々な色をファンが言う)でもでも、やっぱりそこは?(桃色) 奈良県から来ました大西桃香です」

 毎朝5時30分に無料動画配信をして、愚痴も言わずに笑顔でがんばる努力は、1年以上、現在進行形で続いていて「5時半の天使」「SHOWROOM女王」などと呼ばれています。
 選抜総選挙の入賞はありませんが、2017年の「SHOWROOM」イベントのポイント1位になり、SHOWROOM選抜のセンターとなりました。
 また、5時半配信1周年記念配信で、チーム8初のソロ写真集発売のオファーをもらい、発売も決まっています。さらに、奈良市の観光大使にも就任しています。

 なんの褒美も賞のあてもなかったのに、毎日5時30分配信を継続する努力は、ファンはもちろん、細井隆宏チーム8支配人や秋元康総合プロデューサー、SHOWROOMの前田裕二社長、堀江貴文氏らにも高く評価されています。


 以上の岡部麟さん、太田奈緒さん、大西桃香さんの3人が、2017年の「AKB紅白選抜」の48人の中に選ばれた「チーム8」メンバーです。

 前半で紹介した「ビッグ3」は17歳以下ですが、後半の3人は20歳以上です。どうも2017年の紅白では、AKB48選抜は遅い時間の出演のようですね?。


<写真 チーム8のコンサートポスター>






 ファンの間では、「チーム8は埋もれているアイドルの宝庫」と言われています。
 確かに、ここまで紹介した6人以外にも、「チーム8の注目メンバー」は多くいます。
 そこで、もう3人、紹介します。


 まず1人目は,テニスウェアを着て配信するスポーツ万能女子の佐藤朱(さとう・あかり、宮城県代表、21歳、SR21位)さんです。
 170cmの長身で、テニスでは高校時代にインターハイ(全国大会)に出場していますし、ハーフマラソンでは1時間55分40秒で完走しています。

 佐藤さんの動画配信で見せる素顔は、笑顔でやさいい「きれいなお姉さん」で、非常に温厚です。
 キャチフレーズは、「宮城県から来ました、佐藤朱 21歳です。今日も48グループイチのテニス少女がみんなのハートに(スマッシュ!)します。」


 続いて、超美人で性格もいいのに何故か不遇で埋もれている左伴彩香(ひだりとも・あやか、山梨県代表、19歳、SR24位)さんです。

 演劇志望のやさしいお嬢さんタイプで、チーム8の中でも屈指の美人で性格もいいと思います。
 キャッチフレーズは、「上かな?下かな?右かな?左かな? うーん。そこは、やっぱり(ひだりとも) 山梨県から来ました"ひだあや"こと左伴彩佳、19歳です」

 
 最後の注目メンバーは、初期メンバーでなく2016年からチーム8に入った寺田美咲(てらだ・みさき、長崎県代表、17歳、SR32位)さんです。
 一部のファンたちには、長崎の同じ中学で1つ上だった、欅坂(けやきざか)46の人気メンバーの長濱ねるさん(デビュー前に面識があるそうです。)と並ぶぐらいの長崎出身の美人アイドルだと言われています。

 動画配信などを見ていると、素直で気取らない高校3年生ですが、もしかすると近い将来、大化けするのではと、私は密かに期待しています。
 ちなみに、チーム8の先輩の大西桃香さんが大好きで、雑誌のグラビア人気投票では2人が組んで参加しました。(結果は、残念ながら4位でした。)
 キャッチフレーズは、「Youが先~? Meが先? みさっきー!」です。


 以上、チーム8の9人のメンバーを紹介しました。
 紹介していない他のメンバーも含め、来春、本社兼任として、「地方から全国」へ、進出してほしいと期待しています。

 おしまいに、2017年11月発売のAKB48の50枚目シングル「11月のアンクレット」に収録されている、チーム8の新曲「生きることに熱狂を」の歌詞を紹介します。
 この曲は、地方で1人1人バラバラに苦労しているチーム8の応援ソングにふさわしい歌詞で、センターは、小栗有以さんです。



♪「生きることに 熱狂を!」(作詞:秋元康、作曲:HiBiKi 歌:Team8)♪


Yes!  夢を見て 
全力でぶつかってみよう
AH   汗かいて
生きることに 熱狂を!

君は何かに
燃えているかい?
たったひとつだけ
目指す情熱

夢中になれるって
なんて幸せなんだ
叶っても 叶わなくても
願いがあればいい

Yes  がむしゃらに 
最後まで やりきってみよう
AH   負けないで
生きることに 熱狂を!


今日も明日も
燃えていたいよ
それが人生の
原動力だ

誰かと競い合い
共に成長しよう
勝っても敗れても
ゴールはまだ先だ

興奮できるって
なんて素晴らしいんだ
喜びもそう悲しみも
命の脈動さ

Yes!  夢を見て 
全力でぶつかってみよう
AH   汗かいて
生きることに 熱狂を!

Yes!  楽しもう! 
プロセスが思い出になるよ
AH   噛みしめて
今 この瞬間(とき) 熱狂を!

生きることに熱狂を!

2017年12月8日金曜日

風の中の龍馬(2)日本を今一度せんたくいたし申し候 ~坂本龍馬没後150年~

 文久2(1862)年3月24日、坂本龍馬は、満26歳で土佐藩(高知)を脱藩し、ふるさとと引き替えに、自由を手に入れました。
 かつて、私が部屋に貼っていた坂本龍馬のポスターには、
「ぼくはフリーじゃきに」と書いてありました。 脱藩によって、龍馬は、身分上も思想上も、まさに「フリー」になりました。

 坂本竜馬が脱藩した直後の文久2年4月8日、龍馬のいなくなった高知城下では、土佐藩全体を勤王に変えようとしていた龍馬の盟友・武市半平太(たけち・はんぺいた)の率いる土佐勤王党の浪士が、土佐藩の保守派を主導していた参政・吉田東洋を暗殺しました。
 このことで、土佐藩の政治は、一時的に、「幕府寄り(佐幕)」から「朝廷寄り(尊王)」に転換しました。

 一方、脱藩した坂本竜馬は、「幕府を慕う山内家と上士がいる限り、土佐は動かぬ」と考えていました。
 脱藩直後の文久2年4月には、長州(山口県)の下関の豪商で、高杉晋作などの支援をしていた白石正一郎宅を訪れました。
 その後の龍馬の行動の詳細は不明ですが、平尾道雄氏の「坂本龍馬全集の年表」によれば、下関から九州へ向かい、続いて大坂(大阪)・京都を訪問し、その年の8月には、自分が塾頭をしていた江戸の桶町千葉道場に、滞在しています。

 長州、九州、大阪、京都、江戸と、脱藩後に竜馬が旅して志士たちと交流した5つの場所は、まさにこの後の日本の命運を担うことになる場所であったことは注目ですね。

 当時、「脱藩」は死罪の可能性もあった重大な犯罪でした。
 地位も身分も捨てた龍馬は、土佐藩から犯罪者として追われる立場になり、強烈な逆風(アゲンストの風)の中にありました。
 そんな龍馬にあるのは「志(こころざし)」だけで、本当の意味の志士となりました。

 坂本龍馬は、文久(1862)2年の暮れに、千葉道場の跡取りの千葉重太郎とともに、幕府の軍艦奉行並みで、2年前に「咸臨丸(かんりんまる)」で渡米した経験をもつ勝海舟(1823年~1899年、東京生まれ、幼名・通称:勝麟太郎)を斬るために、海舟の自宅のある赤坂(東京都港区赤坂)を訪れました。

 この時、龍馬たちは、勝海舟が渡米経験に基づいて語る、「アメリカの大統領を決めるのは民主選挙であること」や、「今の日本に必要なのは、海軍と貿易であること」に感動し、暗殺者から一転、海舟の弟子になりました。


<写真 勝海舟と坂本龍馬の師弟象(東京都港区赤坂、2016年設置)>



 翌文久3(1863)年、勝海舟の弟子となった龍馬は、海舟の悲願「神戸海軍操練所」の設立のために、福井藩に金策のために奔走したり、土佐出身の浪人たちを仲間に入れたりしました。
 そして、海舟の私塾「神戸海軍塾」の塾頭になりました。

 この頃の坂本龍馬は、得意満面で、勝海舟を「日本第一の人物」と持ち上げ、土佐の国元にいた姉・乙女にあてた手紙で、「少しエヘン顔して密かにおり申し候」(文久3年5月17日付け)と自慢しています。
 
 この頃、京都では、長州藩(山口県)を中心とする「尊皇攘夷派」(天皇を尊敬し幕府を軽んじて、外国を討つという主張)と、それを後ろ盾にする三条実美らの公家が大きな力を持っていました。
 これらの勢力に押されて、文久3年2月には、第14代将軍の徳川家茂は、朝廷に「5月10日に攘夷を実行する」ことを約束させられました。

 これを受けて、文久3(1863)年5月10日から、長州藩が下関海峡で、アメリカ・イギリスなど4ケ国の船に砲撃を加え、攘夷を決行しました。
 ところが、多くの藩は長州の攘夷に協力せず、幕府に至っては下関で砲弾を浴びた外国船を修理しました。

 この頃、文久3(1863)年6月29日に、坂本龍馬がこの幕府の態度に腹を立てて、姉の坂本乙女に書いた手紙にあるのが、龍馬のあの名言です。

「あきれ果てたる事は、長州で戦いたる(外国の)船を江戸で修復し、又、長州で戦い申し候こと。
 これ皆、(幕府の)姦吏(役人)が夷人と内通いたし申し候ものにて候。
 (中略)
 江戸の同志と心を合わせ、姦吏を撃ち殺し、『日本を今一度せんたくいたし申し候』ことにいたすべくとの神願にて候。」

<現代語訳>
「 あきれ果てるのは、長州と戦って壊れた外国船を、幕府の官吏が江戸でこそっと修理してやっていることだ。幕府の役人と外国人が裏で手を結んでいる。まったく、けしからん。
 僕は、江戸の仲間と一緒に悪い役人を殺し、「日本を今一度、せんたくする」と、誓っている。」


 坂本龍馬の「日本をせんたくいたし申し候」という勇ましい言葉とは裏腹に、このあと、志士たちにとっては、暗黒の時代に入ります。

 龍馬の手紙のわずか1ヶ月半後、文久3年8月18日に、京都で政変が起き、長州藩と三条実美らの「尊皇攘夷派」の勢力は一層され、会津藩と薩摩藩を中心とした「公武合体派」が京都朝廷を牛耳り、その結果、江戸幕府の力も強まります。(8月18日の政変)

「8月18日の政変」で、土佐出身の吉村虎太郎らが大和の国(奈良県)で挙兵した「天誅組の乱」は失敗し、吉村は討ち死にします。
 さらに9月には、土佐藩内でも、山内容堂らの佐幕派・公武合体派が勢力を盛り返し、龍馬の盟友・武市半平太らの土佐勤王党のメンバーの多くが投獄され、武市半平太は1年半後に切腹させられました。

 坂本龍馬は、逆風の中でも、勝海舟のもとで学んだ操船技術を武器に、江戸、神戸、長崎などを船で駆け回ります。

 しかし、元治元(1864)年6月5日に、長州などの浪人が京都の池田屋で新撰組の襲撃を受ける「池田屋事件」が起き、続いて7月19日には、長州が京都奪還を図りますが会津や薩摩の各藩に大敗した「禁門(蛤御門)の変」がおきます。
 さらに、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヶ国が下関を攻撃する「下関戦争」でも長州は敗退します。

 さらに、朝敵とされた長州に対し、幕府と諸藩による「第一次長州征伐」が元治元年7月に始まります。11月には、長州の4家老が切腹して降伏し、長州の尊皇攘夷派は、行方不明になっていた桂小五郎や高杉晋作などを除き、壊滅状態になります。

 龍馬たちはというと、「池田屋事件」や「禁門の変」に、神戸海軍操練所のメンバーが参加していたため、元治元(1864)年10月22日に、勝海舟が謹慎を命じられ、翌慶応元(1865)年3月には、坂本龍馬が塾頭を務める神戸操練所も廃止になりました。


 志士たちには「苦難の元治元年」でしたが、坂本龍馬には、この年、嬉しい出会いがありました。
 5月に後に妻となる楢崎龍(お龍)と京都の寺田屋で知り合い、6月には下田で薩摩の西郷隆盛にも出逢っています。


<写真 京都の龍馬の定宿だった寺田屋(京都市伏見区)>





 倒幕派は散々で、風前の灯火だった元治元(1864)年ですが、その年も押し迫った12月15日、長州の下関にある「功山寺」で、1人の青年と80人の仲間が、立ち上がります。
 その青年の名は「高杉晋作」です。
 高杉晋作と仲間たちは、わずか80人余りで、長州藩ばかりでなく、幕府や諸藩に反旗を翻し、見事、勝利します。

 わずかに残った倒幕の灯火を、高杉晋作という一青年が再び燃え上がらせ、のちに坂本龍馬もバックアップすることになります。
 この続きは、次回ということにします。


 2017年の総選挙の直前、小池百合子東京都知事が言った「日本をリセットする」という言葉は、龍馬の「日本をせんたくする」という言葉をまねたものだと思います。
 しかし、坂本龍馬は日本を洗濯することに成功したのに対し、小池知事の「希望の党」はリセットに失敗しました。
 「なぜなのか?」これが、次回の「風の中の龍馬」のテーマかなと思っています。

 
 ここで、「日本をせんたくする」という名言を書いた坂本龍馬の「姉・坂本乙女あての手紙」の後半部分を<現代語訳>で紹介します。

「私を、決して長生きできる人間だと思わないでください。
 ただし、人並みのように、なかなか滅多なことでは死ぬつもりはありません。
 私が死ぬ時は、天下大変で、私が生きていても役に立たないようになった時だと思っています。
 『土佐の芋掘り』などと、いろいろ悪口を言われる「居候(いそうろう)」として生まれて、一人の力で天下を動かすようになったのは、これまた、天のなさる事です。」
<文久3(1864)年6月29日付け、坂本乙女(姉)あての坂本龍馬の手紙より>


 司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」にも出てきますが、坂本龍馬をはじめ、幕末の多くの志士は、老荘の思想にある「天」や「天命」という考え方をし、「事を成すは天命にあり」と考えていました。

 ただ、龍馬のおもしろいところは、手紙の最後で、「決してつけあがりはせず、頭にかぶりものをして砂の中に、潜っております。」と、自分で言っているところです。


 ところで、龍馬が「日本を今一度せんたくする」という手紙を書いた文久3(1863)年は、坂本龍馬は満28歳ですが、「龍馬の手紙」の質・量ともにあたり年です。
 多くの龍馬の手紙が残り、おもしろい内容もいくつも残っています。

 そこで、最後に文久3年に坂本龍馬が書いた手紙の「名・迷言」をいくつか紹介します。(少し、現代語にします。)


「そもそも人間の一生はガテンのいかないものだ。
運の悪い者は、風呂から出ようとして、金〇を詰め割って死ぬ者もいる。
その点、私(龍馬)は運が強く、自分で死のうと思っても死ぬず、今では日本一の人物、勝麟太郎(勝海舟)という人の弟子になって、一生懸命に働いております。」
(文久3(1863)年3月20日、坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)


「小野小町が名歌を読んで雨が降ったという伝説があるが、日照りの時は歌を詠まず、北の山の方に、雲が沸いているのを見て、歌を詠んだのに違いありません。
 同じように、天下に事を成すものは、腫物もよくよく腫れあがってから針を刺し、膿を出すのです。」
(文久3年6月28日 坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)


「なんの浮世は3文5厘よ。ブンと屁のなるほど、やって見よ。」
(文久3年6月29日  坂本龍馬より姉・坂本乙女への手紙)


 龍馬節、炸裂ですね。
 この頃の龍馬の手紙には、自由で夢のある志士・坂本龍馬が活きのいいまま入っているような気がしますね。

 このあと、「操船術」と「剣術」の二つを手に入れた坂本龍馬の活躍が始まります。