2017年6月25日日曜日

アイドルの坂道(7)さあ革命の時間だ?~第9回AKB48選抜総選挙名言集~

「さあ、革命の時間だ」をサブタイトルに、2017(平成29)年6月17日に「第9回AKB48選抜総選挙」が沖縄で行われました。(当初予定していた「豊崎海浜公園」でのイベントは、悪天候のため中止になりました。)
 今回は、この選抜総選挙で上位に入ったメンバーのスピーチの中から、「名言」を紹介します。

   まず、20位に入った須藤凛々花(すどうりりか 前回44位 NMB48 20歳、東京都出身)さんの「革命的爆弾発言」を紹介します。

 「大好きな大好きな皆さんに囲まれて、私は人の愛を知って初めて人を好きになりました。
 私、NMB48須藤凜々花は結婚します。
  すごく迷惑をかけることもわかっているんですけど、自分にも皆さんにもウソをつきたくないと思っています。真剣に生きていきたいと思います。」

 前代未聞の「結婚宣言」で、このあとの会場も場外も賛否両論で騒然となりました。

  アイドルと「恋愛禁止」は、暗黙の掟と言われています。
 確かに、異性のファンは、独身だから好きという人も多いし、だから「総選挙」で投票した人も多いので、今回の結婚宣言は「ルール違反」「ファンへの裏切り」という声が多いのもわかります。

 でも、本来、「結婚は自由」だし、最近は同姓のファンも多いし、結婚してもアイドル(ママドルなど)を続けている人も多いことを考えると、賛否両論があるのもわかります。
 「結婚」「恋愛」とアイドルの生き方について、須藤さんが一石を投じたのは間違いないと思います。
 ちなみに、須藤凛々花さんは、「卒業」の意向だそうです。


<写真 選抜総選挙の予定会場で悪天候で中止になった沖縄県豊崎海浜公園>



 2番目に紹介するのは、9位に入った岡田奈々(おかだなな 前回14位 AKB48・STU48兼任、19歳、神奈川県出身)さんです。

「今のままでは、AKB48グループの明るい未来は作れないと思います。
 スキャンダルだったり問題を起こして、それをネタにして這い上がるメンバーが多いです。
 まっすぐに頑張っている人が報われるように、変えていきたいです。
 これからは、48グループの風紀委員長を目指して全力が頑張っていきたいです。」

 「まじめすぎるぐらいまじめ」と定評のある、岡田奈々さんらしいコメントですね。彼女は、今年、新しく誕生したSTU(瀬戸内)48のキャプテンもしています。

 岡田奈々さんといえば、1959(昭和34)年生まれのアイドル歌手に同姓同名の人がいましたが、彼女の存在は、両親から聞かされていたそうです。
 岡田奈々さんの「まっすぐな一生懸命さ」が、新しい48グループを造ってくれるかも知れませんね、


 3人目は「ブスから神7」とも言われている、6位の須田亜香里(すだあかり、前回7位、SKE48、25歳、愛知県出身)さんです。

「コンプレックスや欠点って、出会うべき人と出会うためのものだと思うようになりました。
 本の帯で『ブスから神7』って書かれ、そこまで言わなくてもと思いました。
 でも、私は指原莉乃さんが切り開いてきた、見た目だけがすべてじゃないっていう部分を尊敬しています。私も、みんなの希望を引き継げるように頑張ります。」

 今回のAKB48選抜総選挙を見ていて、1つ気づいたのは、「すごくかわいい、すごい美人」の子が減って、見た目より個性で上位に来る子が多くなっていることです。
 その代表が、指原莉乃さんや須田亜香里さんです。
 須田さんは、「コンプレックス力 ~なぜ、逆境から這い上がれたのか」という本も書いています。
 見た目だけじゃない「アイドル像」は、新しいアイドルの姿を示唆しているのかも、知れませんね。


<写真 須田亜香里さんの著書>



今回は、選抜総選挙の速報でも、革命的なことがありました。
 指原莉乃さん、渡辺麻友さんらの有力候補を差し置いて、新生グループNGT48(新潟)の無名の萩野由佳さんが暫定1位になりました。
 次は、最終的に総合5位になった、その荻野由佳(おぎのゆか、前回95位、NGT48、18歳、埼玉県出身)さんの言葉です。

「小学校6年からAKB48に憧れ続けて、4年間ずっと落ち続けてきました。
 速報1位は、本当にビックリしたし、誰もが「なんで?」って思っただろうし、私が総選挙を壊してしまったのかな? と思ったこともありました。
 それでも、皆さんの愛だと受け取って、頑張ってきました。
 こんなにステキな順位(5位)をいただけるなんて夢のようです。私をアイドルにしてくれてありがとうございました。   
 この結果を、デビューして2年目のNGT48につなげたいです。」


 第9回AKB48選抜総選挙で、もう一つ目立ったのは、AKB48本体より、派生グループが躍進したことです。
 選抜に入った16人を、所属グループ(兼任を除く)別に見てみると、まずSKE48(愛知県名古屋市栄)が3位の松井珠里奈さんをはじめ5人を出して最も多く、NGT48(新潟県新潟市)が5位の荻野由佳さんら3人、HKT48(福岡県福岡市博多)が1位の指原莉乃さんら2人、NMB48(大阪府大阪市難波)も12位の白間美瑠さんら2人と、地方の派生グループで12人を占めています、
 本体のAKB48は、2位で卒業を表明した渡辺麻友さんをはじめ4人だけでした。


 最後の名言は、24万6376票を獲得し、前人未踏の選抜総選挙3連覇を達成した指原莉乃(さしはらりの、前回1位、HKT48、24歳 大分県出身)さんです。

「楽しいことばかりではない総選挙に出会え、参加できたことを幸せに思っています。
 今回の沖縄でのイベント、6月に野外でということに無理があったと思っています。すみませんでした。こういう積み重ねで、皆さんの信頼を失っていくのが本当に怖いです。
 そして大事な仲間が卒業発表して、本当に怖いです。
 AKB48、スタッフ・メンバーが一体となって頑張っていくので、見捨てないでください。
 こんな私をアイドルにしてくれた、ファンの皆さんに感謝します。」

 3連覇した指原さんの、「(AKB48グループを)見捨てないでください。」という言葉が、今のAKB48グループの危機感を表していると思います。
 身内で「総選挙」をして争っているうちに、乃木坂46や欅坂46などのアイドルグループが、もう無視できないところまで迫り、総選挙全体の投票数も減っています。
 「選抜総選挙」が、約300人の女性アイドルたちの青春であり、多くの名言を残してくれたのは間違いありませんが、今回の総選挙のサブタイトルのように、そろそろアイドル界に「革命」が起きそうな気配が濃厚です。


 最後は、AKB48の48枚目のシングル曲「願いごとの持ち腐れ♪」の歌詞の一部を紹介します。


♪「願い事の持ち腐れ」(作詞:秋元康、作曲:内山栞、歌:AKB48)♪


もしも魔法が使えて 
夢が一つ叶うならば
きっと 世界の誰もが
しあわせになる

(中略)

ある日 些細なことから
争っている二人がいた
僕は思わず願った
仲良くしてと--

僕にとって 一度きりの
大切な魔法 ここで使ったんだ
願いごとに 悔いはない
自分のためじゃ 迷うだけ

世界中が誰かのため
願えたら 一つになれる
微笑みは 愛の夜明けだ

願い事の 持ち腐れ
魔法なんか 欲しくはない

叶えたい夢は多いけど
本当の願いはなにか
見つけられたなら しあわせ

2017年6月18日日曜日

上野のパンダ誕生で日本にいるパンダは何頭? パンダ・トリビア

 2017(平成29)年6月12日、東京都台東区の東京都立恩賜上野動物園で、ジャイアントパンダの「シンシン」が、子供を出産しました。
 このニュースは、各放送局のトップニュースになり、経済効果は267億円とも言われています。
 今回は、「日本のパンダ」について、紹介します。

 最初に質問です。
「今回の赤ちゃんを入れて、今、日本には何頭のジャイアントパンダがいるでしょう?」
 3頭?、4頭?---。
 この答えは、後半で発表するとして、まず、パンダそのものについて紹介します。

 パンダ(panda)は、ジャイアントパンダとレッサーパンダの2種類を総称していう呼称です。
 このうち大型の「ジャイアントパンダ」の人気が高く、日本では単に「パンダ」という時は、「ジャイアントパンダ」をさす場合が多いので、今回のブログも、以下は「ジャイアントパンダ」の話をします。

 野生のジャイアントパンダは中国大陸に生息し、食肉目クマ科に属します。(レッサーパンダはレッサーパンダ科)
 中国政府の発表では、2015年現在、野生のパンダが約1800頭、飼育されているものが約400頭います。

 パンダの語源は、ネパール語の「ホンヤ」(竹を食べるものの意味)、または同じネパール語の「パンジャ(手のひらの意味)」と言われています。

 日本では、1972(昭和47)年に、日中国交正常化により上野動物園へ、カンカンとランランが贈られたのが、最初でした。
  この時は、日本中がパンダブームに沸き、上野動物園には1日平均20万人、土日には、25万人を超える人が押し寄せ、何時間も待ったあげく、「立ち止まらないでください」とパンダ舎の前で、立ち止まることもできませんでした。

<上野動物園のパンダ(東京都)>



 ここからは、日本の動物園のパンダの歴史です。
 まず、今回話題になっている「上野動物園」のパンダの歴史を紹介します。

 1972年に来園した初代の2頭、カンカン(1970年中国生~1972年来園~1980年死亡 オス)とランラン(1968年中国生~1972年来園~1979年死亡、メス)は人気者でしたが、結局、子供を作ることはありませんでした。
 
 続いて、1980年に来園したホァンホァン(1972年中国生~1980年来園~1997年死亡、メス)と、1982年に来園したフェイフェイ(1967年中国生~1982年来園~1994年死亡、オス)のペアは、昭和から平成まで25年以上も生きた長寿ペアで、3頭の子供ももうけました。

 最初に生まれたチュチュ(1985年上野動物園生まれ・死亡、オス)はわずか43時間で亡くなりましたが、2番目のトントン(1986年上野動物園生~2000年死亡、メス)と、3番目のユウユウ(1988年上野動物園生~1992年リンリンと交換で中国へ~2004年死亡、オス)は、14年以上も生きました。

 他にも、メキシコの動物園から来て2003年から2005年まで上野動物園に滞在したシュアンシュアンや、ユウユウと交換で中国から来たリンリン(1985年中国生~1992年上野動物園へ~2008年死亡、オス)などもいました。

 現在、上野動物園にいるリーリー(オス)とシンシン(メス)は、ともに2005年中国生まれで、2011年に一緒に、上野動物園に来ました。
 翌2012年には、このペアの第1子となるオスが誕生しましたが、わずか6日で亡くなってしまいました。
 そして、2017年6月12日に第2子が生まれ、上野動物園のジャイアントパンダは、2017年6月17日現在、3頭です。


 日本の動物園で、上野以外にジャイアントパンダがいるのは、2カ所です。

 まず、兵庫県神戸市の「王子動物園」に、1頭、メスのタンタンがいます。
 王子動物園は、2000年から日中共同飼育研究でパンダを2頭飼っていましたが、1頭は亡くなってしまっています。


 もう1カ所は、和歌山県白浜町にある「アドベンチャーワールド」で、ここにはなんと5頭のパンダがいます。しかも、つい最近、3頭が中国に行ってしまったので5頭になってしまいましたが、それまでは8頭いました。
 
 アドベンチャーワールドは、1994年から中国成都の「ジャイアントパンダ繁殖研究基地」の日本支部として、繁殖研究をしています。
 現在いる5頭は、永明、良浜、海浜、陽浜、優浜で、中国生まれの永明以外は、和歌山県生まれです。すべて白浜の「浜」の字が入っています。

 実は、このアドベンチャーワールドでは、日本生まれのパンダの子供も含みこれまでに15頭ものパンダが生まれています。
 ここのパンダは、ガラス越しではなく、生パンダがみることができます。
 
 実は私は、国内のジャイアントパンダがいる3カ所とも、行ったことがあります。
 東京が大騒ぎしているのに比べ、5頭もいる和歌山が騒がれないのは、ちょっとかわいそうな気がします。

 それはともかく、2017年6月16日現在、日本の動物園にいるジャイアント・パンダは、東京3頭+兵庫県1頭+和歌山県5頭で、9頭ということになります。
 当たりましたか?

<写真 笹を食べるパンダ(上野動物園)>



 ここで、「パンダ・トリビア」を2つ紹介します。

 1つは、「パンダの糞はいい匂いがする」という話です。
 パンダは雑食動物で、腸は体長の4倍ほどで、ウシやヒツジなどの草食動物が20倍以上あるのに比べれば短く、草や竹が未消化で糞になることがあり、植物の匂いが残っているので「いい匂い?」がするという噂があります。

 もう1つは、「なぜ、パンダは白黒なのか」です。
 上野動物園のホームページなどによると、パンダは冬眠をせず、中国の雪深い山岳地域に住んでいます。
 そこでは、冬の雪と岩のコントラストが白黒の景色になり、ちょうどパンダの白黒が風景に溶け込むから、敵にわかりににくいために、パンダは白黒だという説があります。
 また、パンダの黒い部分は、耳、目の周り、肩から前足、そして後足です。
 このうち、耳や手足の先などは寒くなりやすい部分なので、黒くすると熱吸収がよく寒さ対策に役立つという説もあります。


 次は、私の中国でのパンダの思い出です。
 中国の広州動物園でパンダを見た時、3つ驚きました。

 1つは、日本のパンダのようにガラスのある建物にいるのではなく、手を伸ばせば届きそうな柵の中にいたことです。

 2つめは、パンダ柵の前には、ほとんど人がいず、サルの柵の周りに、多くの人がいたことです。
「中国では、パンダはサルに人気で負ける」というのはショックでした。

 もう一つ、ショックを受けたことがあります。
 広州動物園から出たところで、現地の人が「5枚でしぇんえん、やすいよ」とパンダの刺繍入りのハンカチを売っていて、首を横にふると「10枚でしぇんえん」と言ってきたのです。
 「10枚千円ならいいか。」と思って買って帰り、ホテルでよく見てみると、上手にハンカチを折っていただけで、実はやっぱり5枚でした。見事に、だまされたのがショックでした。


 おしまいは、「パンダブーム」の1970年代に、フジテレビの子供向け番組「ママとあそぼうピンポンパン」で歌われていた、「パンダちゃん♪」という、当時のパンダへの憧れがあふれたかわいい歌を紹介します。 


♪「パンダちゃん」(作詞:山下護久、作曲:服部克久、歌:石毛恭子)♪


ねえ きいて パンダちゃん おはなししたいの
あたしね きのうね ちいさなタネをまいたの
ねえ きいて パンダちゃん あなたにあいたいの
きのうね みたのよ あなたのユメを

パンダ パンダ パンダ
Oh パンダ パンダ
パンダ パンダ パンダ
あなたが好きよ

ゆびきりね パンダちゃん
まっててほしいの
ふたりで お花に
つめたい 水 あげるの

まっていてね パンダちゃん
あなたのお部屋で
白いイスを ふたつならべて

Oh パンダ パンダ ねえ
いつか パンダちゃん
お花をあげたいの
あなたが すきよ♪

<1句> 白黒を つけろと言わない ほんわかパンダ



2017年6月11日日曜日

本当に生きるとは? 前川喜平前文科事務次官と名作映画「生きる」

 「加計学園の獣医学部新設問題では、政府・官邸の圧力があり、行政がねじ曲げられた。」

 飛ぶ鳥を落とす勢いの安倍晋三内閣に対し、堂々と実名で反旗を掲げた前文部科学省事務次官の前川喜平さんを見ていると、私は名作映画「生きる」の主人公のことがダブって見えます。
 今回は、そんな前川喜平前文科事務次官と名作映画「生きる」の話をします。

 ことのきっかけは、2017(平成29)年1月、50年以上新設が認められなかった「大学の獣医学部の新設」が、通常では考えられないスピードで事実上決まったことでした。
 このことについて、前年の2016年秋に内閣府から文部科学省へ「官邸の最高レベル」の圧力があったことを示唆する文部科学省の内部文書らしいものが、2017年5月に週刊紙等のマスコミ等で公開されました。

 この文書について、菅官房長官は「文部科学省の内部調査では存在を確認できなかった。怪文書だ。」と一蹴しました。

  ところが、今年初めまで文部科学省の事務方トップの事務次官をしていた前川喜平さんが、「あの文書は本物です。私も見ました」と「週刊文春」などのインタビューに答えたことから、大問題になりました。
 当初、政府や内閣府の幹部は、「あの文書は怪文書であり、国会での証人喚問や参考人招致をする必要はない」と突っぱねました。

  しかし、前川前事務次官の証言のほか、複数の文部科学省官僚の「文書は存在する」という証言があり、それを多くのマスコミが報道したことなどから、長い間、再調査を拒否していた政府・文科省も、世論に押される形で、6月9日についに文書の再調査を行うことに方針転換をしました。

 私も、大学新学部設立関連の仕事をしたことがありますが、大学に新学部を作るためには、長い時間をかけた文部科学省への要望と、膨大な資料が必要です。
  まして、50年以上認可されていない「獣医学部の新設」が、すごいスピードで認められたのは不思議だと言わざるをえません。

 特に、同時に申請された京都産業大学は、条件を追加されて申請もさせてもらえず、愛媛県今治市に新設する加計学園の獣医学部だけが認可されるのは、大きな疑問です。
 しかも、その加計学園の加計孝太郎理事長は、安倍総理の親しい友人というのも、疑問ですね。
 

 真偽はどうかわかりませんが、少なくても、政権の中枢にいて権力を握っている人たちが、正々堂々とした議論せずに、論点をすり替えて、「再調査の必要なし」と長く拒否してきたのは不誠実だと思います。

 ウソを言う政治家や、行政機関、特に教育を司る文科省がウソをつくのは、日本の将来のためにも良いことではないと思います。あとは、我々国民が、選挙や支持率で、”ウソは許さない民意”を突きつけるしかないかも知れませんね。

 それにしても、時の政府に、たった1人で「間違っている」と立ち上がった、前川喜平・前文部科学省事務次官の勇気はすごいと思います。
  自民党の国会議員でさえ、安倍内閣に逆らえない雰囲気がある中で、本人に何の得にも
ならないことを「国民に真実を知らせるため」に告白し、それをきっかけに政府の「再調査をしないとういう岩盤」に穴を開けたたことは、大いに評価できると思います。

<写真 前川喜平さん(ウキペディアより)>


 前川喜平(まえかわ・きへい)さんは、1955(昭和30)年1月13日に、奈良県御所市で生まれました。
 小学校4年生の時に、東京に転居し、名門の麻布中学・麻布高校を経て、東京大学法学部に入学し、1979年春に東大を卒業しています。

 当時の国家上級職(いわゆるキャリア)の試験を合格者全体(600人以上)の4位で合格し、文部科学省に入省しています。
 「超」がつくエリートですね。

 その後、宮城県教育委員会の課長や在フランズ大使館の一等書記官などをへて、文部科学省の中枢の、大臣官房総括審議官、官房長、初等中等教育局長などを歴任し、2016(平成28)年6月に文部科学事務次官に上りつめています。
 しかし、2017年1月、文部科学省の天下り問題の責任をとって、次官を辞任しました。
  そして、2017年5月に「加計学園問題」で政府高官の圧力で行政が歪められたと、告白しました。


 ここで、1952(昭和27)年に公開された黒澤明監督の名作映画「生きる」(東宝)について紹介します。
 この映画の主人公は、市役所で市民課長をしている定年間近の渡辺勘治(志村喬)で、若い頃もっていた仕事への情熱を失い、難しい問題は避け、無難に生きる「お日様西西」的な生活と、はんこを押すだけの公務員になっていました。
 ところが、ある日、自分が余命少ない胃癌であることを知ります。

 渡辺は役所を休み町を彷徨するうち、町工場の作業員をしている貧乏娘「小田切とよ(小田切みき)」と知り合い、おごってやって食事をしたり会話したりするうち、貧しくても一生懸命に生きている「とよ」の生き方に感銘し、「自分にも、まだなにかできることがあるはず」と考えなおし、仕事に復帰します。

 その後の渡辺勘治は、残り少ない人生の中で生まれ変わったように情熱を持ち、住民が欲しがる公園を、上司ややくざの邪魔もはね除けて完成させ、この世を去っていきます。
  そうなんです。この映画で、渡辺勘治が「本当に生きる」ことができたのは、何十年もの公務員生活ではなく、最後の数ヶ月間であったことを教えてくれています。

<映画「生きる」のポスター>


 さて、前川喜平さんの話に戻ります。
 前川前次官と「生きる」の主人公とは、私はとてもよく似ているような気がしています。

 前川さんは、あるテレビのインタビューで、「三十数年公務員をやってきたけど、やっと自由にものが言えるようになった。」と、爽やかな顔で語っています。

 前川喜平さんは、文科省の中に、高杉晋作が作った「奇兵隊(きへいたい)」という名のグループを作り、時の小泉政権が「義務教育予算の削減」を言い出した時には、「奇兵隊、前へ」というブログを作って、義務教育の予算を守るべきという自分の意見を主張しました。

  「奇兵隊」は幕末の英雄・高杉晋作が作った身分を問わずに入隊できる軍隊で、高杉晋作が、長州藩の佐幕派や幕府など十数万人を敵にまわして、たった80人で立ち上がった時(功山寺決起)、その中核の部隊となりました。
 この高杉晋作と奇兵隊が、倒幕・明治維新への確かな流れを作りました。晋作は、27歳で病死しましたが、今も日本史上に残る英雄です。
 前川前次官の心には、この高杉晋作と奇兵隊のことがあったのだと思います。

 また、一部マスコミに「前川さんは、出会い系バーで女性と会って小遣いを渡していた。」と報道されましたが、「週刊文春」や「週刊新潮」によれば、会っていたのは2人ではなく、もう一人の女性を含めてほとんど3人で、食事をおごり5000円程度の小遣いを渡し、就職や人生の相談を聞いたあとは、いつも前川氏だけが先に帰っていたそうです。

 これって、映画「生きる」の主人公の渡辺勘治が、小田切とよと会っておごったり会話したりして、勇気をもらったのと似ていると思いませんか。

 「加計問題」の今後の展開をしっかり見ていくとともに、前川喜平さんが「安倍1強」の時代に、「権力は国民がコントロールしなければならない。そのためには、正しい情報を公開する必要がある。」(前川氏の言葉)と、身を捨てて本当に「生きた」ことは、忘れたくないと思っています。
 そしてもう一つ、前川氏とともにマスコミに告発した複数の文部科学省の官僚、さらにそれを報じた多くのマスコミを見て、まだ日本の民主主義と報道の自由は、まだ死んでいなかったと、ホッとしました。

 前川喜平さんは、こうも言っています。
「我々は志をもって、公務員になった国民全体の奉仕者である。
 しかし、最近は、ともすれば一部の権力者の下僕になっている者がいる。私は、志を忘れたくない。」

  おしまいに、映画「生きる」の主題歌になった『ゴンドラの唄♪』の歌詞を紹介します。


♪「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞、中山晋平作曲)♪

♪1
いのち短し 恋せよ乙女(おとめ))
赤き唇(くちびる) 褪(あ)せぬ間に
赤き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の ないものを

(中略)

♪4
いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消え間に
今日はふたたび 来ぬものを


<一句>    本当に 生きるに遅き ことはなし

2017年6月4日日曜日

本当にあった不思議な話(2)「病んでは子に従え」

 B病院の「救命救急センター」で2日間過ごした兄は、運命の判決の時を向かえました。

 手術か、一般病棟か、ドクターCは静かに診断結果を兄に言い渡しました。
「お兄さんの検査結果ですが、MRI(磁気共鳴画像診断装置)検査も心臓エコーも、特に問題な血栓等は見つかりませんでした。明日、一般病棟へ移りましょう。」

 緊張した兄は、思わず力が抜けたような声でいいました。
「C先生、ありがとうございます。」

 ドクターCは、静かに続けました。
「ただ、まだわからない部分、特に心臓に異常があるかも知れませんので、24時間心電図ホルダーと、喉からカメラを飲んで心臓の裏側から見る検査も一般病棟でやってみましょう。」

 兄は内心(えっ、無罪じゃなくて、執行猶予か。)とがっかりしました。
 それでも、当面の手術回避ができてほっとして、
「わかりました。」と素直に頷きました。

  翌日、兄は一般病棟に移りました。そこは2人部屋でした。
 点滴、モニターはまだ体につながったままですし、新たに24時間心電図ホルダーも装着しました。
 それでも、スマホの持ち込みや、有料テレビも病室についていたので、兄は大喜びでした。

 おまけに、女性の看護師さんに、「この病棟では、飛び抜けて若い。」と言われて、
「俺は若いと何度も言って、大喜びでした。」
(無邪気な兄さんだわ。)
  私は、兄がおかしくて、少し悲しくなりました。

 兄はまだ病棟の科名を知りませんでしたが、実はそこは「脳外科病棟」で、70歳、 80歳以上の人もざらでしたので、兄さんは飛び抜けて若いのは当たり前です。
  ドクターの診断は「脳梗塞(のうこうそく)の疑い」でした。

 脳梗塞は、脳の血管破裂などが原因ですが、心臓に飛び火することが多い病気です。
 それで、C先生は脳と心臓を重点的に検査したのでした。

<写真 血液をさらさにする効果のある点滴(黄色)>




 兄が一般病棟に移って3日目の夕方、私が見舞いに行ってみると、珍しく兄はベットでぐったりとしていました。

「お兄ちゃん、どうしたの?」
 心配になった私が聞くと、兄はぐったりしたまま小声で言いました。
「局部麻酔で、カメラを飲んで心臓の裏側の検査をしてもらったんだけど、麻酔が奥まで効かなかったので、すごく苦しくて、麻酔も増やされてヘトヘトだ。」
 そう言うと、兄はまたぐったりしてしまいました。

 プツ、プッ、プッ、プッ
 その時、 兄のスマホが鳴りました。
 発信先を見ると、なんとブレーキとアクセスを間違え自損の交通事故で、A病院に入院中の母からでした。

「お兄ちゃん、お母さんから電話だよ。」
 私はスマホをとると、兄に渡しました。

 兄は、自分の気持ちを鼓舞するかのように、電話に出て、母と話し始めました。
「もしもし、母さん。大丈夫か。」
「私より、おまえも入院したそうだけど、大丈夫か。」
「ああ。僕は大丈夫だよ。母さんこそ、養生しろよ。」
「おまえも、養生しろよ。」

 2人の電話の話を横で聞いていて、似たもの親子の吉本新喜劇のような会話に、私はおかしくて吹き出しそうになりました。
 A病院に入院中の母とB病院に入院中の兄の入院患者同士の電話なんて、いったい、うちの一家はどんな家族なんだろう。

<写真 B病院の病棟フロアのテラス>



  B病院に兄が入院して、1週間。
  再び、ドクターCが兄のもとに来て、診断結果と今後の方針を伝えました。
  今日は、兄と私、兄嫁、そして中一の一人息子のD君も立ち会っていました。
 
 C先生は、静かに言いました。
「脳にも心臓にも、はっきりとした異常は見つかりませんでした。
 でも、それは悪いことではありまあせん。明確に手術などで治療するほどの血栓等の異常は見つからなかったということです。
 ただし、どこかに隠れた異常がないとは、限りません。
 また、左手の麻痺も完全には回復していません。この病気は再発の可能性もあります。
 まだまだ若いので、再発防止のためにも、3週間ほどリハビリ専門病院に入院することをお勧めします。」

「えっ、まだ入院ですか? すぐにも職場復帰したいんですけど。」
 兄は不満そうに言いました。

 ドクターCは、大きく首を振りました。
「ダメです。リハビリ入院しないと命の保証はできませんよ。」

「でも、仕事が----。」
  なおも兄が抵抗しようとした時です。

「お父さん、あと3週間、休みなよ。」
 突然、そう言ったのは、中一になる兄の一人息子D君でした。
 滅多に意見を言わない彼の一言で、兄は何も言えなくなり、リハビリのためE病院へ転院することを決めました。
 ということで、我が家は、母と兄が入院、父は介護支援施設に入居という、異常事態が、もうしばらく続きそうです。


◎ 格言「老いては子に従え」ならぬ「病んでは子に従え」