2017年5月28日日曜日

本当にあった不思議な話(1) 母に続いて兄も緊急入院

 この2週間、ブログを更新できなかったのは、私のまわりで結構、ハードな事件があったからです。
 これから、その「不思議な話」を紹介させていただきます。

 母がブレーキとアクセルを踏み間違えて自損事故で入院して20日ほどたった時、母の看病と父の介護で片道2時間の高速道路を何度となく通って、「自宅と実家」を行ったり来たりしていた兄に、異変が起きました。

 それはある日の午後のことでした、仕事場で、直前まで自分でカップをもったり洗ったりしていた兄の左手の指から、突然、力がなくなっていき、ノートさえ持てなくなりました。
「あれぇ? なあにすぐ治るさ。」
 そう思ってたかをくくっていた兄は、その日は夕方まで我慢して帰宅しました。

 兄が眠るために、パジャマに着替えようとすると、なんとシャツやズボンのボタンやフックが自分で外せなくなっていました。
 服は家族に手伝ってもらって、なんとか着替えることができました。
 その夜は、左手が気になって、なかなか眠れませんでした。


<病室のベットより見た医療用カーテン>



それでも翌朝、兄は早めに起きて、仕事に行く準備を始めても、やっぱり着替えが上手くできません。
 病院嫌いの兄でしたが、とうとう「病院へ行く」覚悟を決めました。

「どうせ行くなら大きな病院の方がいいだろう。」
  そう考えた私は、近くでは評判がよく、毎年、人間ドックに行っていて診察カードを持っていた兄は「地域中核病院」の一つのB病院に受診に行きました。

 時刻は午前10時45分、B病院の外来受付は11時までですから、ぎりぎりセーフでした。
 最初は「点滴の一つもしてもらえれば治る」と思っていた兄ですが、先生の診察のあと、車イスで救急に連れていかれ、血液検査、心電図、エコー、さらに生まれて初めてのMRIまで撮られました。
 医者に「原因ははっきりしませんが、ともかく今日はこのまま入院です。」
 と宣告され、初めて「やばい。もし手術なんて言われたどうしよう。コワイ。」
と、兄は深刻に考えるようになりました。
 そのまま、呼吸や血圧・脈拍などのモニター、いくつもの点滴をつけられ、なんと「救命救急センター」のベッドで入院することになってしまいました。

 B病院の救命救急センターは、スマホはもちろん、テレビも禁止、点滴やモニターの線がいっぱいで身動きもとれません。
 トイレさえ、ナースコールで看護師さんを呼ばないといけません。

 でも、のんきな兄さんは、救急のたくさんの若い女性の看護師さんに囲まれ、検査のため「私の手を強く握ってください」と言われ、着替えまでさせてもらって、もう上機嫌です。
どこかの携帯のCMみたいに、「ここ天国」と、思っているようです。

<救急センター(病院Bではありません)>



ところが、本当は兄は「天国と地獄」のボーダーラインにいました。
 兄が運ばれたのは「脳外・心臓」の救急病棟で、同じ部屋にいた4人は「脳梗塞」か「心筋梗塞」の疑いでした。
 ここで数日いて、医師が様子を見て、地獄(手術等)か天国(一般病棟へ)かを決めるエリアで、なかには本当の「天国」へ旅だってしまう患者もいます。

 現実に、兄が運ばれた病室の他の3人のうち、正面入口の左手前のおばあさんは、病状が悪化しよりハードな治療になり、左奥のおじいさんは「真っ赤な血が出た」と騒いでいましたが予想通り手術になりました。

 右奥のおばあさんは「濃い黄色のおしっこ」が出ていましたが、一般病棟に変わりました。
 さて、右手前の兄の運命は、ーーー次回に続きます。



<最後に1首> 病棟の ベットの 1つ1つにも 悲喜こもごもの 人生ありき

2017年5月15日月曜日

カーネーションと母の日の病室 ~見えるのも愛 見えぬのも愛~

2017(平成29)年5月14日(日)は、「母の日」でした。私は、交通事故で入院中の母の病室に「赤いカーネーション」を持参しました。

 母は、個室から6人の大部屋に変わっていて、私のカーネーションを見ると笑顔で言いました。
「ありがとう。でも、カーネーションは邪魔だから、実家へもって帰ってね。」と言いました。

(せっかく、買ってきたのに。)と心で思いながら、仕方なく私は実家へカーネションを持って帰りました。


 ところで、5月の第2日曜日(2017年は5月7日」は、なぜ「母の日」でカーネーションを送るのでしょうか。


 5月の第2日曜日を「母の日」にしている国は、日本の他、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ドイツ。イタリア、中国など30ヶ国にもなります。
 この起源は、20世紀初頭のアメリカにあると言われています。

 1907(明治40)年5月12日に、アメリカ・ヴァージニア州の教会で、女性運動家で南北戦争の時には、敵味方の区別なく負傷兵の手当をしたアン・ジャービスさんを偲んで、娘のアンナ・ジャービスさんが、2年前に亡くなった母親アンさんが教師をしていた日曜学校がある教会で「記念会」を行い、出席した人に母の好きだった白いカーネーションを配りましした。

 これが、日本やアメリカなどの「母の日」の起源と言われていて、翌年1908年の5月10日、アンナさんの母への想いに感動した人々は、前年と同じ教会で、日曜学校の470人の生徒と母親達が集まり、最初の「母の日」を祝いました。

 この時も、アンナさんは、参加者全員に、母親が好きだった白いカーネーションを手渡しました。このことから、「白いカーネーション」が母の日のシンボルとなりました。

 アンナ・ジャービスさんと友人たちは、「母の日」を作って国中で祝うことを提案し、1914(大正3)年に、「母の日」はアメリカ合衆国の記念日(祝日)となり、5月の第2日曜日と定められました。


 日本では、第2次世界大戦後の1949(昭和24)年ごろから、アメリカにならって、5月の第2日曜日に「母の日」の行事が行われるようになりました。

  因(ちな)みに、「母の日」の由来には諸説あって、

・古代ローマ時代の神様の母、
 「リーア」に感謝を表す春祭りを起源とする説

・17世紀、イギリスで、復活祭(イースター)の40日前の日曜日、出稼ぎ労働者が母親に会うために帰省していた日である、「マザーズ・サンデー」を由来とする説

などがあります。

 <母に贈ったカーネーション>



 次は「母の日の花」、カーネションについて、紹介します。

  カーネーションは、ナデシコ科ナデシコ属の多年草で、原産地は南ヨーロッパから西アジアの地中海沿岸といわれています。

 イスラム世界では、バラやチューリップなどと並び愛されている花で、人や動物などの「偶像崇拝」が禁じられているイスラム教で、寺院などのデザインとして使われている「アラベスク」(幾何学模様)の一つにカーネーションが使われています。

 一方、キリスト教では、カーネーション(英名 carnation)は、「肉(ラテン語のcam) の色の花」が語源とも言われ、「聖母マリア様が、イエス・キリストが十字架を背負った姿を見て流した涙の跡から咲いた花がカーネーションだった。」という伝説があります。

 対立することの多い、イスラム教とキリスト教のどちらにも愛されているカーネーションは、母の日の花にふさわしいですね。


 日本では、徳川第3代将軍家光の時代(在1623年~1651年)にオランダからカーネーションが渡来したという記録がありますが、本格的な栽培は20世紀になってからでした。

 
 ちなみに、カーネーションの色による主な花言葉は、次のとおりです。

・「赤」 = 母への愛。愛を信じる。熱烈な愛。
・「ピンク」 = 感謝。気品。
・「白」 = あなたへの愛は生きている。尊敬。亡き母を偲ぶ。
・「オレンジ」 = 純粋な愛情。清らかな慕情。感動。
・「黄色」 = 軽蔑。嫉妬。
・「青」 = 永遠の幸せ


 花言葉からは、「黄色のカーネション」は、要注意かも知れませんね。

  一方、「青いカーネーション」については、世界で初めて、日本のサントリーが、「ムーンダスト」という名で開発しました。2004(平成16)年度のグッドデザイン賞(金賞)を受賞しています。


<写真 青いカーネーション>




 最後に、母がなぜ私に「カーネーションを即日もって帰れ」と言ったのかの答えです。 
土曜日に仕事に行った代休だったので、5月15日、「母の日」の翌日の月曜日、もう一度、母の病室に見舞いに行った私は気づきました。

先日までとは違い、母は大部屋にいました。
そこには、母を含め6人の女性がいて、ベット脇に「カーネーション」をおいてある患者が3人、母も含めておいていない患者が3人いました。

そうなんです。
「母の日」に「カーネーション」を贈る人がいない子供がいるのと同様に、母の日に「カーネーション」をもらえない高齢の女性もいるのです。

そのことに気づいていた母は、「亀の甲より年の功」ですごいなと思いました。
気づかなかった私は、まだまだ「青いな」と反省しました。


カーネーションと母の日の病室で、私は「見えないやさしさがある」ことと、「愛を信じる力」(赤いカーネーションの花言葉)を見つけることができたような気がしています。


<一首>

母の日の カーネーションは 透明で 見えるのも愛 見えぬのも愛

2017年5月8日月曜日

ブレーキとアクセルを間違え母が骨折・入院 GWに高齢化を痛感

 ゴールデンウィークの前日、宝くじで1等が当たった夢で目が覚めました。
「いいことが起きるかも」
 そんな想いで、1日を過ごしていると、夕方、とんでもない連絡が届きました。

「かあさんがブレーキとアクセルを踏み間違えて大けが。病院へ入院した。」
 実家の近くで教師をしている妹からのメールを見て、おどろきました。
「まさか」という気持ちでした。

 あわてて車で2時間ほどかけて高速道路を走り、実家の近くの病院へ急行しました。
  田舎で父と二人暮らしをしていた母が、ブレーキとアクセルを踏み間違え、家の前の空き地を越えて、ブロックを破壊し車ごと転落したのです。

 車は前がグチャグチャになり、母は背骨を骨折し全治1ヶ月の重症でした。
 不幸中の幸いだったのは、崖の高さが2mと低かったことと、負傷箇所が母の急所をはずれた半身麻痺は避けられたこと、そして中学校の通学路の自宅前の道に、生徒たちがいなかったことです。

 おかげで、連休はすべて、母の付き添いと一人暮らしになった父の介護でつぶれてしましました。
 でも、紙一重で、中学生を巻き込んだ事故で容疑者となってニュースになったり、母自身が半身不随になりかねなかったことを思うと、本当に母だけのケガでよかったなと思います。

 日本では、年間6000件も、「ブレーキとアクセルを踏み間違う事故」が起きているそうです。

 そう考えると、ある意味、宝くじがあたった夢は「正夢」だったのかも知れません。


<写真:車が飛び込みブロックが壊れた事故現場>



 
 母が救急車で入院した病院は、ふるさとにある地域の中核病院で、ヘリポートもあります。 24時間、休む間もなく働く看護師さんたちを、母の付き添いをしながら見ていると、本当に頭の下がる思いでした。

 私自身、以前、この病院に数年間勤務していましたが、その時は、仕事で精一杯でした。
 しかし、いざ家族が入院してみると、本当にこの山間部の中核病院の役割の大切さが、身にしみてわかりました。
 勤務する職員には、出世も、学術的な栄光も遠い存在の過疎地の病院ですが、地域の人たちには、間違いなく「MVH」(Most Valuable Hospital)ですね。

 この病院で、仕事をした経験があることは、坂本龍馬風に言うと、「少し、えっへん」(誇り)かなとも思います。


 完全看護の病院なので、母の看護は、精神的には疲れても、少し回復するとだいぶ楽になりました。
 ところが、病院での看護以上に疲れたのは、独居老人になってしまった父の介護でした。

 連休のほとんどを父と自宅にいて気づいたのは、父は、見かけはしっかりしていますが、耳は遠いし、 
理解力が不足し、トイレも近くて油断できません。
 犬の散歩でも、帰りには手押し車の上に子犬を乗せて帰ってきます。
 子犬は嬉しそうですが、これでは、犬が人間を散歩させているように見えます。(笑い)

 また、お風呂に入れるために近くの温泉施設へ行くと、しっかり自分で入浴したので安心して帰ろうとすると、「下駄箱のカギがない」と言いだし、30分以上の大捜索になりました。

 結局は、下駄箱にカギを付けたままで入浴したことがわかりましたが、温泉での滞在時間は2時間を超えました。(冷汗)



 さらに、2人なので、あまり必要のないお米を、毎朝、父がお釜いっぱい炊いてくれたので、カレーライスぐらいをして食べても追いつかずに、テーブルの上は「おにぎり」と「お椀のごはん」でいっぱいになりました。

 介護を普段してくれている妹と母への感謝、そして、母の「ブレーキとアクセルを踏み間違い事故」を含め、急に身近になった「高齢化」の問題の深刻さを痛感させられた「GW(ゴールデンウィーク、いや、グランドマーザーandグランドファーザー・ウイーク)」でした。


<写真:母が入院した病棟の廊下>





 ゴールデンウィークの間、久しぶりに実家にいて父の介護をしながら、人生を俯瞰(ふかん)してみました。 これまで、どう生きて来たか。
 これから、どう生きて行くか。

 今回のことをポジティブに考えれば、それを考えるいい機会となったと言えます。
 考えた内容については、別の機会に紹介するとして、おしまいに、「高齢化社会」の歌を紹介したいと思います。


 ところが、ネットで検索してみると、「子供の歌」はたくさん出てきても、「老人の歌」はものすごく少ないことに気づきました。

 「孫♪」「大きな古時計♪」など、ほんの少ししか老人の歌は、見つかりませんでした。
 老人ホームや老人会には、人が溢れ、歌が流行っているのに、淋しいことですね。


 そんな中で、「手紙~親愛なる子供たちへ♪」という、作者・不詳(ポルトガル語)で角智織さんが訳し、樋口了一さんが作曲した名曲が見つかりましたので、一部を紹介します。



♪「手紙 ~ 親愛なる子供たちへ」♪
(作詞:不詳、訳詞:角智織、作曲:樋口了一 2009年)



年老いた私が ある日 
今までの私と 違っていたとしても

どうかそのままの 私のことを 理解して欲しい

私が服の上に 食べ物をこぼしても 
靴ひもを結び忘れても

あなたに色んなことを 教えたように 見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も 繰り返しても
その結末を どうかさえぎらずに うなずいて欲しい
あなたにせかまれて 繰り返し読んだ絵本の 
あたたかな結末は 
いつも同じでも 
私の心を 平和にしてくれた


悲しいことではないんだ 
消えて去って行くように 見える私の心へと

励ましの まなざしを 向けてほしい

(中略)

私の姿を見て 悲しんだり 
自分が無力だと 思わないで欲しい

あなたを抱きしめる力が ないのを知るのは つらい事だけど
私を理解して支えてくれる
心だけを 持っていて欲しい


きっとそれだけで それだけで 
私には勇気が わいてくるのです

あなたの人生の始まりに 私がしっかりと 付き添ったように
私の人生の終わりに 少しだけ付き添って欲しい

あなたが生まれてくれたことで 
私が受けた多くの喜びと

あなたに対する変らぬ愛を 
持って笑顔で答えたい


私の子供たちへ
愛する子供たちへ♪

すごく良い歌です。
興味のある方は、ぜひ「You Tube」で聞いてみてください。


今年のGWで、私は、学生の頃、やっていた福祉ボランティアを思い出しました。

今で言えば、支援学校や養護施設へ行った時の衝撃とやさしさをもう一度、思い出して、
親のため、社会のため、自分のため、子供のため、
これから、何ができるのか。
真剣に考えてみようと、しみじみ思いました。

そういう意味で、2017年のGWは、「グッド・ウィーク」であったと、信じたい私です。



2017年5月3日水曜日

アイドルの坂道(6)乃木坂46を影で支えるポンコツキャプテン・桜井玲香さん

 アイドルグループのキャプテンと言えば、AKB48の初代総監督の高橋みなみさんのように、強力なリーダーシップをもった人が思い浮かびます。
 ところが、名実ともにAKB48のライバルに成長した乃木坂46のキャプテンは、リーダーシップとは無縁で、メンバーに「ポンコツ」と目の前で呼ばれても、おっとりと笑っています。
 今回は、そんなポンコツ・キャプテン、でも乃木坂46のまとめ役、桜井玲香(さくらい・れいか)さんを紹介します。


 桜井玲香さんは、1994(平成6)年5月16日、神奈川県横浜市の生まれで、幼稚園から高校3年生まで、カトリック系の女子校、カリタス学園(神奈川県川崎市)に通うお嬢さんでした。

 高校で入部していた華道部をはじめ、水泳、体操、テニス、ピアノなどを習うミッション・スクールのお嬢さんは、乃木坂46の結成時からのコンセプトだった「リセエンヌ(フランスのリセ<高校・中学>の女学生=フランスの女子高生)」を地で行く存在でした。

 そんな桜井玲香さんは、2011(平成23)年8月に、乃木坂46の1期生のオーデションに合格し、デビューしました。


<写真 桜井玲香さんの母校「カリタス学園」)




 桜井玲香さんは歌とダンスに定評があり、センターの経験こそありませんが、デビューから17枚目シングル「インフルエンサー」まで、ずっと選抜のポジションを守っています。

 一方で、桜井さんは、2012年2月のデビュー時に暫定キャプテンに就任し、2012年6月の3rdシングル「走れBicycle」から正式キャプテンに就任しました。
 以来、2017年5月現在、5年以上、乃木坂46の暫定キャプテン・正式キャンプテンを努めています。

 こう紹介すると、AKB48の高橋みなみ初代総監督のように、しっかり者だと思われがちですが、実は真逆で、おっとりとしているお嬢さんで、ミスを連発し、メンバーからは「ポンコツ・キャプテン」と呼ばれています。

 少し、桜井玲香さんのポンコツ・エピソードを紹介します。

・ライブ後、ホテルに帰るバスで爆睡しホテル到着に気づかず、一人だけ、ライブ会場へ逆送された。

・番組企画の「ヒット祈願・富士山登山」で、一人だけリタイア。

・クイズ番組で、珍回答を連発し、撃沈。

・ライブのMCでいきなり「クシャン」

・公式ブログの更新が極端に少なく、たまに更新すると誤字脱字だらけ。

 
 こんなことが多くあって、「たかみなさん(高橋みなみ)さんが相談相手ならよかった」(松村沙友理)とか「キャプテンにまとめられているみんなの方が疲れているよ」(中元日芽香)、「もう適当なんだから」(堀未央奈)などなど、メンバーからの直接クレームの嵐です。


 それでは、なぜ、桜井玲香・ポンコツキャプテンが今も続いていて、率いる乃木坂46が大躍進したのでしょうか?

 そのヒントは、桜井さんが高3まで在籍していたカリタス学園の教育理念にあるのではないかと、私は考えます。

 カリタス学園の教育理念は、「キリストの教えである『人はみな神様からいのちを授かった尊い存在である』ことを生徒1人ひとりが理解し、自分のことのように他者のことを考え、他者のために行動できる人に育ってほしい。」です。

さらに、「4つの心」が明記されています。

(1)祈る心:神に「祈る心」をもった謙虚で内面的深みのある人
(2)学ぶ心:何事にも「学ぶ心」を大切にするとともに、チャレンジ精神をもって自分の可能性を大きく開花させようとする人
(3)交わる心:自分の属する集団を大切にし、価値観の異なる人とも隔てなく「交わりの心」をもって接することのできる人
(4)奉仕する心:困っている人や弱い立場にある人に対して即座に手をさしのべられる「奉仕の心」をもった人

 キリスト教らしい、相手を尊重する精神にあふれていますが、特に「4つの心」の3番目、「自分のいる集団を大切にし、価値観の異なる人とも隔てなく「交わりの心」をもって接するという言葉の教えが、桜井さんのキャプテンぶりに、あらわれているのではないでしょうか。


<写真 桜井玲香さんファースト写真集「自由ということ」(2017年3月発売)>



 

メンバーとケンカしたり、ぶつかったりせず、上から目線ではなく「横から目線」で、いつもニコニコ接し、見守っているのが桜井キャプテンだと思います。 ですから、いつもはポンコツでも、ここ一番にはメンバーから、信頼されているのだと思います。


 たとえば、桜井さん以上にリーダーシップがあり、初代センターでもある生駒里奈さんがAKB48兼任として選抜総選挙に出る前、桜井キャンプテンにだけは相談し、「自分も応援するから、がんばりな。」と言われたことが支えになったそうです。

 また、乃木坂46の人気を背負う中心メンバーの一人、西野七瀬さんが、
悩みを抱えたまま誰にも相談せずにいた時に、キャップ(桜井玲香)から声を掛けられたけど「大丈夫」と答えてホテルに戻りました。
 すると、長文のLINEが西野さんに来て、
「最近はいろいろあってしんどいときもあるかもしれないけど一緒にがんばろうね。

あんまり相談事をしない人なんだとおもうけど、心配してるよ。
メンバーじゃなくて友達として話を聞くからね」
と書いて送ってくれたそうです。

 さらに、2016年11月に橋本奈々未さんがラジオで卒業・引退を発表する時、「一緒にいてほしいメンバーを2人選んでいいよ。」とスタッフに言われ、迷わず指名したのは、生田絵梨花さんと桜井玲香さんでした。
 理由は、「まじめで、ウソをつかない信頼できる人」だったそうです。

 普段はポンコツと言われていても、人生を左右するような大切な場面でメンバーから頼りにされている「本物のキャプテン」が桜井玲香さんで、彼女こそが縁の下で、「乃木坂大躍進」を支えているのかも、知れませんね。

 桜井玲香さんは、乃木坂46の活動に専念するため、高校3年でカリタス女子高等学校を転校しますが、その後、大学に合格し、今は明治学院大学に在籍しています。



 最後は、桜井玲香キャプテンのファンへの誓いの言葉を紹介します。
「絶対に皆さんを後悔させないようなグループになります!
 どこのグループにも負けないようなグループになります!
 だからずっとずっと、乃木坂のことを愛し続けてください!」

(2015年8月31日 神宮球場でのライブコンサートの最後の挨拶)

 ファイト 乃木坂46!
 ファイト ポンコツキャプテン、桜井玲香!