2017年2月28日火曜日

名曲「贈る言葉」は卒業ソングではなかった?~「暮れなずむ」の意味は?

3月は「卒業」の季節です。
自分が対象じゃなくても、
不思議に、みんなの胸が「キュンキュン」する季節ですね。

そんな気持ちを、一層、切なくするのが「卒業ソング」です。
最近は、卒業ソングも多彩になってきましたが、それでも「名曲」と呼ばれ、歌い継がれている卒業ソングが、いくつもあります。
今回は、そんな「卒業ソングの名曲」の一つ、海援隊の「贈る言葉」を紹介します。


まず、1番の歌詞を紹介します。


♪「贈る言葉」(歌:海援隊、作詞:武田鉄矢、作曲:千葉和臣)

♪1
暮れなずむ町の 光と影の中
去りゆくあなたへ 贈る言葉

悲しみこらえて 微笑むよりも
涙 かれるまで 泣くほうがいい
人は悲しみが 多いほど
人には優しく できるのだから

さよならだけでは さびしすぎるから
愛するあなたへ 贈る言葉♪


<暮れなずむ空>



名曲「贈る言葉」は、1979(昭和54)年11月1日に発売された、海援隊の16枚目のシングルです。
この曲は、1979年10月から1980年3月まで、TBS系列で放送されたドラマ「3年B組金八先生」(第1シリーズ)のテーマソングとして有名になり、100万枚を超す大ヒットとなりました。



ところで、ここで質問です。
この歌の冒頭に出てくる「暮れなずむ」とは、どういう意味でしょうか?

何となく、「夕暮れや黄昏」をイメージされる方が多いと思いますが、「暮れなずむ」はあまり使われない言葉で、しっかりと説明できる人は少ないのではないかと思います。


実は私も、最近まで「黄昏(たそがれ)」と同じような意味だと思っていました。
ところが、「暮れなずむ」は、黄昏とは少し違う夕方を意味します。

「なずむ」は漢字にすると、「泥む」と書き、「水、雪、草などに阻まれてなかなか前へ進めない」という意味の動詞で、万葉集にも出てきます。


つまり、「暮れなずむ」は、日が暮れそうでなかなか暮れないようすをさし、つるべ落としの「秋の夕暮れ」とは逆で、主になかなか暮れない「春の夕暮れ」の意味で使う言葉です。

こう聞くと、「暮れなずむ町の 光と影の中 去りゆく あなたに 贈る言葉♪」 という歌詞が、春の別れ=卒業を歌っているのではないかと想像され、「卒業ソング」であることが納得できます。

また、なかなか日が暮れない「春の夕方」なので、3番までの「結構、長いメッセージソング」であることも、納得できるような気がします。(笑)


学園ドラマ「3年B組金八先生」の主題歌であったこともあり、多くの卒業式で歌われて来た「贈る言葉」は、「卒業ソング」の定番です。


ところが、「贈る言葉」が作られた時、本当は卒業ソングではありませんでした。
では、第2問です。「贈る言葉」は、何ソングでしょうか?

答えの前に2番の歌詞をごらんください。


♪2
夕暮れの風に 途切れたけれど
終わりまで聞いて 贈る言葉

信じられぬと 嘆くよりも
人を信じて傷つく方がいい

求めないで 優しさなんか
臆病者の言いわけだから

はじめて愛した あなたのために
飾りもつけずに 贈る言葉♪


<桜の花とハチ公>




この2番を聞くと、この歌の本当のテーマがわかってきませんか?

「♪
はじめて愛した あなたのために
飾りもつけずに 贈る言葉♪」
の歌詞で、わかりますよね。
 
そうです。「贈る言葉」は、実は「失恋ソング」なのです。

この曲は、作詞の武田鉄矢(たけだてつや、1949年 福岡県生まれ)さんが福岡市にいた頃、21歳の女性に「女々しい」と言われ、ふられた経験をもとに作った歌です。

武田鉄矢さんは、福岡教育大学に入学し先生を目指すかたわらフォークの世界で活躍し、「贈る言葉」の作曲者・千葉和臣さんら3人で作った海援隊というグループを結成し、プロデビューしました。

ちなみに、グループ名の「海援隊(かいえんたい)」は、武田鉄矢さんが学生の頃からファンだった幕末の英雄・坂本龍馬が作った「日本初の商社」と言われている団体の名前です。

武田鉄矢さんの「海援隊」は、1972(昭和47)年にレビューし、翌1973年、たばこ屋をしていた母親(おふくろ)のことを歌った「母に捧げるバラード」が大ヒットしました。

しかし、その後は鳴かず飛ばずで、6年後の1979年から1980年にかけて、やっと大ヒットしたのが、「贈る言葉」です。

この曲を主題歌にしたドラマ「3年B組金八先生」(TBS 原作・脚本:小山内美江子さん)では、武田鉄矢さんは主演し、坂本金八(坂本はもちろん龍馬の姓、金八は金曜日の夜八時に放送されていたので)という福岡出身の熱血教師役が、はまり、人気俳優となりました。

ちなみに、ちなみに、「3年B組金八先生」の第1シリーズの生徒役には、三原じゅん子(女優→参議院議員)さんをはじめ、杉田かおるさん、鶴見辰吾さん、近藤真彦さん、田原俊彦さんなど、後に、歌手や俳優などで活躍する人たちが、ずらりと並んでいました。


それでは、「贈る言葉」の3番を紹介します。


♪3
これから始まる 暮らしの中で
誰かがあなたを 愛するでしょう

だけど私ほど あなたのことを
深く愛した ヤツはいない

遠ざかる影が 人混みに消えた
もう届かない 贈る言葉
もう届かない 贈る言葉♪


<幸せになれる? 四つ葉のクローバー>




最後は、「卒業シーズン」にふさわしい偉人からの「贈る言葉」を紹介します。



○「生きるうえで、最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
  転ぶたびに、起き上がり続けることにある。」

ネルソン・マンディラ(1918年~2013年 南アフリカ出身 政治家・ノーベル平和賞受賞) 


○「私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が、
なにか一つこの世にあるからなのだ。」

相田みつを(1924年~1991年 栃木県出身 書家・詩人)


○「私たちには、今日も明日も困難が待ち受けている。それでも、私には夢がある。」

マルティン・L・キング牧師(1929年~1968年 アメリカ生まれ 牧師・公民権運動指導者)


○「人を信じよ。しかし、その百倍も自分を信じよ。
  物語は、ここから始まるのだ。」

手塚治虫(1928年~1989年 大阪府出身 漫画家・アニメーター・医学博士) 

2017年2月23日木曜日

もうすぐ春ですね♪ 3つの「春一番」と「カラオケから消えた名曲」?

2017年の「春一番」が各地で吹きました。

2月16日に九州北部、
2月17日に北陸、関東、四国、九州南部・奄美、
そして、2月20日には、近畿と東海で春一番が吹きました。

今回は、3つの「春一番(はるいちばん)」を中心に紹介します。

<写真 春の虫 モンシロチョウ>




まずは、一番有名な気象用語の風としての「春一番」です。

一般的に春一番は、「冬から春に向かう時期に、初めて吹く南よりの強い風」のことを言いますが、気象庁の定義は、もっと厳格で、「立春から春分までの間に、広い範囲(地方予報区くらい)で初めて吹く、温かく(やや)強い南風」としています。

2017(平成29)年でいうと、2月4日(立春)から3月19日(春分の日の前日)の間で、初めて吹く温かく強い南風ということですね。

ところが、結構、アバウトな部分も多いんです。
まず、気象庁が「春一番」を発表する地域は、すべての地域ではありません。
東北、北海道と、長野、山梨、沖縄は、「春一番の発表地域」からはずされています。

理由は、「北海道・東北・長野はまだまだ春が遠い」からで、「山梨、沖縄」は「春一番」にあたる風が吹かないからです。

また、「強い風」の定義も地方によって違います。
北陸と四国では最大風速(10分間の平均)が10m/s以上とされているのに対し、関東・東海・近畿・九州南部では8m/s以上、九州北部では7m/s以上、中国地方は非公表と、バラバラです。

さらに、「春一番が観測されない」年もあります。ちなみに、2017年で2月22日現在、「春一番」が観測されていないのは「中国地方」だけです。

たとえば、関東地方の2008年から2017年までの10年間を調べてみると、「春一番」が最も早かったのは、2009年の2月13日で、最も遅かったのは2014年の3月18日です。
ただし、2012年と2015年は、観測されていません。

「春一番」の語源についても諸説ありますが、最も有力なのは、江戸時代末期の1859年3月17日(安政6年2月13日)に、現在の長崎県壱岐市で、出漁中の船が強い南風で転覆し53人の死者が出る事故があり、地元でこの時のような南風を「春一」あるいは「春一番」と呼ぶようになったという説です。

「春一番」は、本当は怖い風なんです。
今も、「春一番」で転倒事故などが起こることがよくあるので、十分、警戒しましょう。


<写真 春の花 タンポポ> 




 
 
2番目の春一番は、お笑い芸人の「春一番(はるいちばん)」さんです。
アントニオ猪木さんの物まねで有名になった、あの人です。

春一番さんは、本名・春花直樹(はるはな・なおき)さんで、1966(昭和41)年8月13日に、神奈川県で生まれました。
小さいころを、岡山県鴨方町(現在の浅口市)で過ごし、高校まで進学しました。
しかし、素行不良で高校を1学期だけで退学になり、埼玉県の親戚の家に預けられました。

しばらくは、「甘栗」を売る新宿区四谷に本店のある食品会社「甘栗太郎」に入社し、サラリーマン生活をやっていました。

その後、1985年、19歳の時に、片岡鶴太郎に弟子入りします。
1988年にはドラマ「翼をください」で、芸能界にデビューします。

この頃、師匠の片岡鶴太郎が、彼に「芸名」をプレゼントします。
「春花」という本名が春らしいのと、「芸人として1番を目指せ」「春一番のように強い風を吹かせてブレイクしろ」という祈りを込めて、片岡鶴太郎さんが名付けたのが、「春一番」という名前でした。

春一番さんは、プロレスラーの「アントニオ猪木」さんの、「元気ですか。元気があれば何でもできる。1、2、3、ダアッー!」というものまねでブレイクします。

しかし、根っからの酒好きで素行が悪く、1994年には所属していた「大田プロダクション」を解雇されます。

あの「ビートたけし」さんにも目をかけられ、心配して「春一番が酒をやめたら、一生俺の番組で使ってやる。」と言ってもらい、涙を流しました。

ところが、翌日にはまた酒を飲んでいました。

2014年7月3日、結局、酒の飲みすぎによる肝硬変で、奥さんの隣で寝たまま亡くなりました。
享年48歳でした。

先日も、テレビでビートたけしさんは、「春一番、あいつ酒さえ飲みすぎなければ、いいやつだったのに」と、残念そうに語っていらっしゃいました。

短い一生でしたが、春一番さんは、さわやかで少しアルコールの匂いのする「春風」を残して、永眠されました。
葬儀に参列した本物のアントニオ猪木さんは、「贈る言葉にふさわしくないですが、あえて、『元気ですか? 1,2,3、ダアッー!』という言葉で、春一番さんを送りました。


<写真 春一番さんの遺影と備えられたお酒 (春一番さんブログ「闘魂伝笑」より)>





最後の3番目の「春一番」は、あの名曲の話です。

春一番が歌詞に出てくる名曲というと、1970年代を代表する3人組の女性アイドル「キャンディーズ」のあの曲が思い浮かびます。


春一番が 掃除したてのサッシの窓に
ほこりの渦を躍らせてます♪

これは、キャンディーズの活動期間の最後に出された最大のヒット曲で、初のミリオンを記録したシングル曲「微笑みがえし」(1978年 作詞:阿木燿子、作曲:穂口雄右)の出だしの部分です。

実は、この曲の歌詞は、解散・引退を決めた「キャンディーズ」のヒット曲のタイトルを散りばめたものです。

ということで、もちろん、「春一番」というタイトルの曲が別に「キャンディーズ」の代表曲としてあります。
その出だしを紹介します。


雪が溶けて川になって 流れていきます
つくしの子がはずかしげに 顔を出します
もうすぐ 春ですね
ちょっと 気取ってみませんか♪

なんかウキウキするような春らしい歌詞ですが、この曲には不思議なことがあります。

実は、この「春一番」(1976年 作詞・作曲 穂口雄右、歌:キャンディーズ)という曲の歌詞の中には、「春一番」という言葉は、1回も出て来ないのです。

そうです、「春一番」という曲には、タイトルだけしか「春一番」という言葉は出てこないのです。
バンバン歌詞に出てくるイメージなので、驚きでした。


もう一つ、この「春一番」という曲には、不思議なことがあります。

「ウルフルズ」や「ゆず」、「いきものがかり」などがカバーした名曲ですが、
実は、2012年から2015年まで、大手のカラオケでは、この曲が歌えなくなっていました。

その理由は、「春一番」の作詞・作曲をした樋口雄右(ひぐちゆうすけ 1948年~ 東京都出身)さんが、キャンディーズの一員であった田中好子さんが亡くなった後、彼女を偲ぶコメントが多く寄せられていた「YouTube」の春一番の動画を、日本レコード協会が「画一的に削除した」のを怒り、一時、「日本音楽著作権協会(JASRAC)」を退会したからでした。

その後、2015年には樋口さんが協会に復帰したことで、再び大手カラオケで、3年ぶりに「春一番」が歌えることになりました。

樋口雄右さん(1948年 東京都生まれ)は、ジャニーズ・ジュニアにもいた作詞家・作曲家・編曲家で、特に作曲家として、顕著な活躍をされています。

「春一番」以外にも、「年下の男の子」(キャンディーズ)をはじめ、「二十才前」(岩崎宏美)、「ポケットいっぱいの秘密」(アグネス・チャン)、「素敵なラブリーボーイ」(小泉今日子)、「潮騒のテーマ」(山口百恵)など、1970年代から1980年代の多くのアイドルの名曲を作曲しています。

 それでは、最後に「春一番」の続きの部分の歌詞を紹介します。


♪「春一番」(作詞・作曲 穂口雄右、歌:キャンディーズ)♪

(前略)
♪風が吹いて 暖かさを 運んできました
どこかの子が 隣の子を 迎えにきました
もうすぐ春ですね 
彼を誘ってみませんか

泣いてばかりいたって 幸せは来ないから
重いコート脱いで 出かけませんか
もうすぐ春ですね
恋をしてみませんか♪


<写真 春のイベント「ひなまつり」>




「春一番」という言葉ですが、気象現象の風も、お笑い芸人も、楽曲も、けっこう深いですね。


<マイ一句>
春一番 「元気ですか?」も 風の中


2017年2月14日火曜日

アイドルの坂道(3)絶好調・乃木坂46を卒業・引退する橋本奈々未さんは断舎利、そして想像を超えた未来へ!

 
2017(平成29)年2月20日、大ブレーク中の「乃木坂46」の中心メンバーの1人で、北海道旭川市出身の橋本奈々未(はしもとななみ、愛称ななみん)さんが、24歳の誕生日に乃木坂46を卒業し、そして芸能界からも引退します。

その理由が、「貧乏から抜け出すためにアイドルになり、家族と自分の生活に目途が立ったから引退します。」ということで、大きな共感を呼びました。

今回は、2月20日に卒業・引退するななみん(橋本奈々未)の「卒業・引退」の意味を噛みしめながら、もう1度、ななみんを取り上げたいと思います。


<写真 橋本奈々未さんの故郷の近くの「北海道・富良野」>




橋本奈々未さんは、「水道止まる、ガス止まる」の貧乏な実家に生まれ(本人談)、2011年に旭川の高校を卒業すると、親の反対を押し切って上京し、武蔵野美術大学に入学しました。

しかし、親の支援は受けないと決めていたので、奨学金で授業料を払うと、いくらバイトしても生活は苦しく、おにぎり1個の生活をしていました。

そんな2011年の夏休み、橋本さんは「AKB48の公式ライバル・乃木坂46の1期生」の募集広告を見つけ、「生活を楽にしたい。ロケ弁を食べたい。」という理由で応募し、1000倍の倍率のオーディションをみごとに突破し、アイドルになりました。

ところが、当初の乃木坂46は、「AKB48の公式ライバル」という肩書きからはほど遠い、平均年齢16歳の弱小アイドルグループでした。
それでも、ななみんを初め、わずか30数人のメンバーのがんばりで、乃木坂46は徐々に人気が出てきました。

ところが、忙しくなった橋本さんは、2014年に大学を中退しなければならなくなり、その年の8月には、「大阪でのコンサート」が終わり舞台から手を振りながら降りると同時に入院しました。
その後は流動食だけになり、163cmの橋本さんの体重は一時、30kg台に減りました。

その頃のことを、乃木坂46のドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」の中で、橋本奈々未さん自身はこう語っています。
 
「2014年に(体調を崩して入院して)、もう乃木坂46を辞めたいなと思っていました。
でも、辞めたらどうにもならなくなっちゃうと、もんもんとしていた。
これじゃだめだ、入った意味なくなちゃうし、と思いました。」

彼女の心配をよそに、橋本奈々未さんが退院・復帰した乃木坂46は、その後もアイドルの坂道を登り続け、2015年にはついに念願の「NHK紅白歌合戦」に初出場しました。

さらに、乃木坂46は2016年の紅白にも2年連続で出場しました。
そこで歌った曲「サヨナラの意味」は、ななみんの最初で最後のセンターの曲で、AKB48以外では「千の風になって」以来9年ぶりに100万枚を超える大ヒットになりました。

CDとDVDの年間売り上げも、2016年には、ついにAKB48を超えて女子アイドルで1位になりました。

そんな大ブレーク中の乃木坂46を、橋本奈々未さんは、2017年2月20日に卒業し、芸能界からも引退します。

橋本さん本人は、その理由を多くは語りませんが、1つには、「デビューの頃はロケ弁が本当に嬉しかったのに、今はごちそうを差し入れしてもらっても感謝の気持ちが薄らいだから」とも言っています。

<橋本奈々未さんのノベリティ・グッズ>


乃木坂46が頂点に立ってこれからという時に、ななみんが卒業してしまうのは残念でしかたありません。
それでも、引退する橋本さんの「2017年のサヨナラの意味」について、噛みしめて、笑顔で見送ることがファンだと信じたいです。

2015年公開の映画「悲しみの忘れ方」の中で、橋本奈々未さんは、こう目標を語っています。

「明確だから、自分ががんばるゴールまでは。
私が家にできることを完璧にやろう。
お父さん、お母さんが、もう年なんで、病院通いになるので。
来年(2016年)には家を買います。で、来年度に弟の大学の初年度入学費を全額納入。」

この目標を達成したから、橋本さんは辞める決心をしたんだと思います。
本当にすごいなと思います。
華やかなアイドルの世界のど真ん中にいるのに、流されないで自分の道を行くななみん。
最高です。見習いたいです。

 
橋本奈々未さんたち1期生と、2期生のがんばりで、
乃木坂46は、「女子の憧れのアイドル」になっています。

その証拠に、2016年の夏に募集した「乃木坂46の3期生」は、応募者数が48,986人に達し、3期生になった12人の倍率は4000倍を超えました。

橋本奈々未さんの想いは、残る1期生の仲間と、2期生、そして3期生たちに引き継がれていくものだと信じたいです。
ちなみに、「次世代センター」の呼び声高く、「ななみんは俺の嫁」といつも言うほど橋本奈々未さんを慕っている斉藤飛鳥さん(18歳)は、橋本さんの言葉の一つ一つをノートに書き残しているそうです。


ここからは、橋本奈々未さんの「卒業・引退表明後のブログ」や発言を、紹介します。

○「みんなは秋の夜長を、どうやって過ごしているの。
わたしはひたすた、ものを捨てている。
年末、大掃除いらないレベル。ふふ」
(2016年11月15日、橋本奈々未さんブログ「97」より 《注:97は卒業までの日数》)

ななみんの断舎利、なんかいいですね。
ちなみに、ななみんがDJをしているラジオ「SOL(スクール オブ ロック)」(東京FM系)では、
毎日、大きなゴミ袋に一つずつもの断舎利をしていると語っていました。

 
○「明けましておめでとうございます!
2016年、泣かずに越せました。
けど紅白終わりに楽屋でみんなで手をつないで、
年越しの瞬間ジャンプするのはこれで最後だと思うと、
2017年になった瞬間、泣いちゃった(笑)。

(中略)
2017年も頑張ります。
最高の23歳の私を見てもらうために。
24歳からの私をがんばるために。」
(2017年1月1日 橋本奈々未さんのブログ「1月1日から東京は夏みたいな空です」より)



<橋本奈々未さんの自筆サイン>


橋本奈々未さんは、2017年2月5日、最後の握手会を「パシフィコ横浜」で行いました。
握手会に並んだファンの列は4kmに及び、最長10時間も待つファンもいました。
握手会が終わったのは深夜12時でした。

最後の挨拶では、
○「5年間、たくさんの人たちと握手させていただき、なかなかない経験ができました。
ありがとうございました。
ラジオの「SOL(スクールオブロック)」(東京FM他全国ネット)は、2月23日までやりますし、2月20日にはセカンド写真集「2017」も発売します。
私の「冥土の土産(笑い)」にチェックしてください。
本当にありがとうございました。さようなら!」
と語りました。

刺傷事件に巻き込まれたり、突然死したり、出家したり、
事務所ともめたり、アイドル受難の時代です。
そんな中、橋本奈々未さんのアイドルの引き際は、最高ですね。

ここで、最初で最後の「ななみんセンター」のミリオン曲「サヨナラの意味」の歌詞の一部を紹介します。

♪「サヨナラの意味」(歌:乃木坂46 作詞:秋元康 作曲:杉山勝彦)♪

「♪(前略)
サヨナラは通過点 
これからだって何度もある
後ろ手でピースしながら
歩き出せるだろう
君らしく・・

サヨナラに強くなれ
この出会いに意味がある
悲しみの先に続く
僕たちの未来
始まりはいつだって
そう何かが終わること

もう一度君を抱きしめて
本当の気持ち問いかけたがんばれ
失いたくない
守りたかった
愛に代わるもの♪

<写真 東京・渋谷駅に掲出された橋本奈々未のCanCam卒業の広告>



最後に、2017(平成29)年2月13日に、橋本奈々未さんが更新した、ブログを紹介します。


○「世の中からは私はすぐに過去になってなかったものになる!
もうなりつつある!
私はそれも望んでる!

けど、それと同じように
自分を好きでいてくれて、自分を思ってくれている人、思ってくれていた人に
最後まで誠実でありたい!

他にどう思われても、そりゃしんどい時もあるけど、
そこが今の私が一番大事にすべき気持ちだと思う!

CanCamの表紙を飾れて、渋谷駅がわたしとCanCamの名前が連なっていっぱいになって、
昼夜逆転していた中学時代に毎日聞いていたラジオ番組、SOL(スクールオブロック)で
私の最後の声を届けることができて、

約6年間、一緒に歩いてきたメンバーと、何万人の人に見届けてもらいながら、
歌って踊ってステージを去れます。

色んなことがあったけど、6年前はこんな大きな終わりを迎える想像はついてなかったよ。
この先も想像を超えたいです。

みんなも、きっと、今は想像がつかないようなこの先を送るんだろうねえ。
残りの日々をみなさん楽しんでください!」
(2017年2月13日 橋本奈々未さんブログ「花束が部屋に溢れてる」より) 

2017年2月8日水曜日

インフルエンザ警報発表と鳥インフルエンザの脅威

寒くなったり急に気温が上がったり、極端な天気が続いていますね。そのせいかどうか、「インフルエンザ」が大流行しています。
国立感染症研究所の発表では、2017(平成29)年1月23日~29日までの1週間で、インフルエンザ患者が201万人に達し、全国の45都道府県(鳥取県と栃木県を除く)で警報レベルに達しました。

今回は、2017年1月~2月に大流行しているインフルエンザの状況・予防と、2月初めに佐賀県で確認された「鳥インフルエンザ」の驚異について、国立感染症研究所などなどの資料から紹介します。

<消毒薬とマスク>




 
 そもそも、インフルエンザ(infuluenza)は、インフルエンザウイルスを病原とする気道感染症のことです。 流行が周期的に起こることから、16世紀のイタリアで命名され、占星術師たちが病気の原因を「星や寒気」の影響(infuluence)だと考えたことが、語源だと言われています。

 インフルエンザには、A型、B型、C型の3種類がありますが、特にA型とB型は、流行しやすい性質をもっています。
 今期(2016年末から2017年2月にかけて)日本で流行しているのは、ほとんど「A香港型(
H3N2)」で、風邪に比べて重症化する恐れがあります。

 インフルエンザの患者は、毎年世界で300万人~500万人で、そのうち死者は25万人から50万人です。つまり、致死率は5.0%~16.7%ということになりますので、結構、高く「たかがインフルエンザ、されどインフルエンザ」です。

 特に子供や老人、呼吸器や循環器に疾患があったり、糖尿病の患者などは感染しやすく、重症化のリス
クも高いです。



 次にインフルエンザの主な症状は、(1)38度以上の高熱、(2)頭痛・筋肉痛・倦怠感、(3)上気道炎症、などがあり、感染後の潜伏期間は1~2日、一般的に治癒していくのには1週間程度かかります。
 しかし、重症化すると呼吸器に二次的な細菌感染症(肺炎など)を起こし、死亡する危険もありますので、警戒が必要です。


 感染の方法は、せきやくしゃみなどで周囲1~2mに唾液が飛び散り感染する「飛沫感染」と、感染者のウイルスが直接の接触や「ティッシュやテーブル・布団などに着いたあとに別の人がそれらを触ること」でうつる「接触感染」の2つがあります。(人が触らない状態で、ウイルスは約15分間生きています。)

 「学校保健安全法」では、インフルエンザ(鳥インフルエンザ等を除く)は、第2種の感染症に指定されていて、発症後5日か解熱後2日が過ぎるまでは、学校は出席停止になります。

<インフルエンザの予防法>

 
 
 
 予防法としては、まず「(1) 手洗い」があります。
 外出から帰って来たときや感染の恐れある人や物に接触した場合などに、まず流水で手を洗い、その後、ハンカチなどで拭いて、最後に石けんで洗うかアルコール消毒することが有効です。
 また、うがいもしておく必要があります。

 次に、「(2) 人混みに行かないこと」も重要で、どうしても外出する時は、「せきやくしゃみをする時は唾液が飛び散らないように手で口を覆うこと」や「マスクをすること」などの、「(3)せきエチケット」が大切です。

 さらに、「(4)十分な休養や睡眠をとること」も重要です。

 「(5)予防接種の注射」は重症化を防ぐ効果があり、致死率を5分の1に減らすと言われています。ただ、予防接種ワクチンは免疫がつくまでに2週間程度の時間が必要ですので、流行前にする(11月~12月)必要があります。
 現在のように「警報発令中」にするのは、危険ですしあまり効果が期待できません。

 A型インフルエンザの治療薬として「アマンタジン」、高熱への対応として「解熱剤」を使うことがありますが、どちらも副作用の危険がありますので、医師と相談する必要があります。

<鳥(このセキセイインコは感染していません)>
 
 
最後は、「鳥インフルエンザ」の話です。インフルエンザウイルスは、タンパク質が表面に突起のようなものになっている構造をしています。
表面のタンパク質には、ヘマグルチニン(HA)とノイラミニラーゼ(NA)の2種類があります。

B型インフルエンザウイルスは、それぞれのタンパク質は1種類のみです。

しかし、A型インフルエンザウイルスには、HAが16種類、NAが9種類あって、その組み合わせの数、つまり144種類の亜型が理論上考えられますが、現在確認されているのは126種類です。
これらは「HA1型、NA1型」を「H1N1」のように表記します。

A型インフルエンザウイルスの中でも、特に、「H1、H3、H5、H7」が感染力が強く危険です。

「H1N1」は、20世紀初めに大流行(パンデミック)した「スペイン風邪」や、現在も時々流行する「Aソ連型」がこれにあたります。

「H3N2」が、2016~2017年の流行の主役「A香港型」です。

そして、現在、新型インフルエンザとして危惧されているのが、東南アジア・中国から中東まで流行している「H5N1型」と、主に中国で流行している「H7N9型」です。

2017(平成29)年2月4日、佐賀県江北町の養鶏場で鶏52羽が死亡し、うち7羽から高原性の新型インフルエンザウイルス(H5N1)が検出されました。
そこで佐賀県は、周囲の6万9000羽の鶏の殺処分を発表しました。

ここで疑問が起こりませんか?
「なぜ、たった数十羽の死で、6万9000羽も殺処分するのだろう。かわいそう。」
そんな声が聞こえてきそうです。

鳥インフルエンザとは、鳥に対して感染性を示すA型インフルエンザの人への感染症です。

鳥インフルエンザが、ごくまれに「鳥から人に」そして「人から人に」感染するウイルスに変異すると、人間に免疫がないので、大流行(パンデミック)を起こし、非常に危険なものになります。
その場合、致死率は50~60%に跳ね上がるとも言われていて、20世紀に4回起きたパンデミックでは、数百万人から数千万人が死亡しています。

このため、鳥から人にうつる可能性がたかい「高病原性インフルエンザウイルス(H5N1、H7N9)」をもつ鳥が発見されれば、周辺の鳥も含めて「皆殺し」にする措置がとられています。

<検疫所のポスター>

 
 
日本ではまだ、「H5N1」や「H7N9」に人が感染した例は確認されていませんが、ウイルスをもった国内の家畜は2月初旬の佐賀県で今季10例目で、中国や東南アジアなどの患者も確実に増えています。
新型インフルエンザへの対策も、「タミフル」以外は、ほぼ他のインフルエンザへの対策と同じです。

(1)手洗い
(2)人ごみに行かない
(3)せきエチケット
(4)十分な休養・睡眠

などを守って、お互いにインフルエンザに負けないようにしましょう!