「その道が広くなるか狭くなるか。平らな道かデコボコ道か。
それは自分の歩き方次第。
ことによると、途中で土砂崩れにあうかもしれません。
でも、わたしにはこの道しかないんです。」
これは、「ミスター笑点」と言われた、落語家の桂歌丸(かつら・うたまる)さんの言葉です。
桂歌丸さんは、2018(平成30)年7月2日、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市で81歳で亡くなられました。
今回は、桂歌丸さんの人生と名言を中心に、紹介したいと思います。
椎名巌(しいな・いわお、桂歌丸さんの本名)さんは、1936(昭和11)年8月14日、神奈川県横浜市で生まれました。
実家は、神奈川県横浜市南区真金町の女郎屋でした。
父は椎名貞雄さん、母は千葉県市原市の農家出身の伊藤ふくさんでした。
しかし、お父さんの貞雄さんは、歌丸さんが3歳の時に結核で亡くなり、お母さんは姑と仲が悪く家を出ました。
巌少年(歌丸さん)は、おばあさんの椎名タネさん(1879年~1953年)に育てられました。
巌少年が生まれ育った当時の横浜市真金町(まがねちょう)は、遊郭のある歓楽街としてにぎわい、「いなり寿司」を売る行商人や、「辻占い」などもあったと、歌丸さんは語っています。
巌少年(歌丸さん)のおばあさんのタネさんが経営する「富士楼」は、女郎屋として有名で、タネさんが通ると、地元のやくざが道の両側によって道を開けるほどの女傑でした。
巌少年(歌丸さん)が5歳の時(1941年)に太平洋戦争が始まり、巌少年は母の実家のある千葉県に疎開しました。
戦争末期、横浜は空襲で焼けました。
横浜が焼けるようすを、巌少年は東京湾ごしに千葉から見ていました。
巌少年が9歳の時(1945年)に、日本はアメリカなどの連合国に降伏し、終戦を向かえました。
横浜の街は空襲で焼け、「富士楼」も焼失しました。
しかし、タネさんはすぐに「富士楼」をバラックで再建しました。
歌丸さんは、当時のことをこう語っています。
「物心ついた頃は、戦後の暗い時代で笑いもありませんでした。
たった一つの笑いが、ラジオで聞いた昭和の名人の落語でした。」
10歳の歌丸少年は、「みんなに笑いを届けられる噺家になろう」と決意しました。
<写真 桂歌丸さんの本 「座布団一枚 わが落語人生」(小学館)>
1951(昭和26)年、横浜市立吉田中学を卒業すると、15歳の巌少年(歌丸さん)は、5代目古今亭今輔(1898年~1976年、ここんてい・いますけ)師匠に弟子入りし、古今亭今児を名乗りました。
今児(歌丸)さんは、1957(昭和33)年に二つ目になった直後、同じ横浜市真金町出身で4つ年上の(有名な)富士子さんと結婚します。
ところが、そのあと、待遇改善をもとめて「二つ目」仲間でストライキを計画する「香盤(序列)問題」がおき、師匠と協会から離れました。
ストライキは計画途中で、協会にばれて、逃げ出した仲間たちに代わって、歌丸さんが責任をとるかたちで、落語会を辞めました。
生まれたばかりの長女をかかえて、桂歌丸家は困窮し、家財を売り払い、化粧品のセールスマンになりました。
2年半後、三遊亭扇馬さんの応援があり落語界に復帰します。
1961年、古今亭今輔師匠に事実上の破門をされ、兄弟子だった桂米丸さんに弟子入りし、「桂米坊」に改名しました。
その後、1964(昭和39)年に、桂米丸さんの命名で「桂歌丸」に改名し、いよいよ歌丸さんの時代が始まります。
師匠の桂米丸さんは、歌丸さんを「カバン持ち兼お抱え放送作家」として使いました。
歌丸さんは、米丸師匠のラジオ番組の構成作家の役割も担い、そのことが放送局とのコネクションづくりに役立ちました。
1965(昭和40)年、29歳になった桂歌丸さんは、日本テレビの大喜利番組「金曜寄席」のオーディションを受けます。
このオーディションへの応募条件は、落語以外の芸を見せるというものでした。
困った歌丸さんは、舞台上にそば屋の出前を呼んで、無言でそばを完食しました。
最後に一言、「おそばつさまでした。」としゃれを駆けて言いました。
この「芸?」が、審査員だった立川談志さんの笑いのツボに入り、桂歌丸さんは見事、合格しました。
そうなんです。
この「金曜寄席」が1年後に、「笑点」という名前の番組に変わり、桂歌丸さんは、そのレギュラーに抜擢されました。
「笑点」(日本テレビの番組)は、1966(昭和41)年5月15日に始まり、現在も続く国民的番組になりました。
桂歌丸さんは第1回から出演し、以来、大喜利メンバーとして40年、司会者として10年と合計50年も出演し、2016年5月に引退しました。
この間、三遊亭小圓游さんとの「ハゲ(歌丸さんのこと)」「お化け」の掛け合いや、6代目三遊亭園楽(楽太郎)との「骸骨」「歌丸さんの死亡ネタ」「薗楽の腹黒」などの掛け合いは名物となりました。
桂歌丸さんは、2016年5月からは、「笑点終身名誉会長」に就任しています。
まさに「ミスター笑点」ですね。
<笑点の公開録画の準備をしている「後楽園ホール」の舞台(東京都文京区)>
私は、何年か前に落語が急に聞きたくなって、「新宿末広亭」にふらっと入りました。
ところが、入口でもらったパンフレットを見ても、知っている名前がなくて戸惑いました。
思えば、関西(上方)の落語家は何人か思い浮かぶのですが、関東(東京)の落語家となると頭に浮かぶのは、以前、聞いたことがある立川談志さんのような故人を除けば、ほとんどが笑点に出ているメンバーばかりでした。
それほど、私のような「落語しろうと」には、笑点のメンバーの影響は大きく、なかでも桂歌丸さんは、その筆頭でした。
桂歌丸さんは、1968(昭和43)年に真打に昇進し、2004(平成16)年からは落語芸術協会の会長に就任しています。
仕事が順調にいった一方で、桂歌丸さんの後半生は、病気との戦いでした。
まず2001年に「急性腹膜炎」にかかったのを皮切り(?)に、「腰部脊柱管狭窄症」、「肺気腫」、「肺炎」、「インフルエンザ」、「腸閉塞」、そして死因となった「慢性閉塞性肺疾患」と、本当に病気との戦いの日々でした。
それでも、酸素吸入をしてまで、桂歌丸さんは、最後まで舞台に上がり続けました。
それでは、桂歌丸さんの名言をいくつか紹介します。
〇「修業は一生涯に及びます。ですから、辛抱もまた一生涯ということです。」
〇「人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや。」
〇「褒める人間は敵と思え。教えてくれる人、注意してくれる人は味方と思え。」
〇「若い時に苦労をしろ。何年か先に振り替えった時、その苦労を笑い話にできるように努力するんだ。」
<写真 桂歌丸さんの追悼垂れ幕が出された「横浜橋商店街」(神奈川県横浜市)>
例によって、おしまいは「いい話」、いや今回は「いい噺」を紹介します。
先に紹介したように、桂歌丸さんと6代目三遊亭園楽(楽太郎)さんとの「骸骨」「死亡ネタ」「腹黒」などの掛け合いは、「笑点」を盛り上がる名物となりました。
でも、これは舞台の上の演出で、実は桂歌丸さんと三遊亭園楽さんは、大の仲良しで、全国各地で二人
会を開催し、メキシコ公演にも行っていました。
桂歌丸さんは、圓楽さんだけでなく、他の後輩の出演者にも、
「舞台の上では先輩も後輩もない。萎縮せず、遠慮するな。」
と言って、若手の出演者を激励しました。
三遊亭小遊三さんは、「気力・根性・実力・才能、すべて兼ね備えている」と言い、
三遊亭好楽さんは「笑点あっての歌丸じゃなく、歌丸あっての笑点。あの師匠がいなかったら番組が成り立たない」と語っています。
三遊亭園楽さんは、桂歌丸さんが入院するたびに、落語のテープ(CD)を見舞いにもっていきました。
すると、歌丸さんは退院の時には、その噺を覚えてきた「デパートリーが増えた」と喜んでいたそうです。
桂歌丸さんは、こう言っています。
「いろんな人に言われます。70を過ぎてまで、どうして苦労して新しい噺を覚えるのかって。
そりゃあ覚えも悪くなっていくし、挑戦し続けるのはしんどい。
でも、最期に目をつむった時に楽な気持ちでありたいんです。『ああ、あの噺もできたのに』なんて後悔しても遅いでしょ。」
一生勉強、一生挑戦だった桂歌丸さんの名言ですね。
歌丸さんに、最後に言いたいです。
「山田くーん、歌丸さんの人生に、座布団10枚!」
2018年7月17日火曜日
2018年7月10日火曜日
平成最後の夏に最悪豪雨~やがて淋しき「初恋の味」~
平成最後の夏、2018(平成30)年の夏は大荒れで始まりました。 6月18日に大阪北部を震源とする震度6弱(マグニチュード6.1)の地震が発生し、死者4人、400人以上が負傷しました。
続いて、7月5日頃からは全国各地で記録的な大雨が降り、7月9日19時10分現在で108人が死亡、行方不明者29人(消防庁調べ)など、西日本を中心に大きな被害が発生しています。
今回は、気象庁が今回の豪雨で計11府県で発表した「大雨特別警報」を切り口に、2018年7月豪雨について考えてみたいと思います。
7月上旬の豪雨の原因は、7月初めに対馬海峡を通過した「台風7号」が、日本の南海上に残していった非常に大きな積乱雲から、西日本から東日本に停滞していた梅雨前線に向かって非常に湿った空気が大量に入り続けたことでした。
<7月6日9時の天気図 (気象庁)>
今度の大雨の大きな特徴は、時間的にはずれがありますが、「大雨特別警報」が過去最多の11府県
(岐阜県、京都府、兵庫県、鳥取県、岡山県、広島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県)に発表された点です。
「大雨特別警報」は、台風や集中豪雨による数十年に一度の降水量が予想される場合、または、数十年に一度の強度を持つ台風や、それと同程度の温帯低気圧による大雨が予想される場合に発表されるものですが、これまでは最大3府県だったので、今回の11府県はそれを大きく上回り、岐阜県から近畿・中国四国、九州北部まで広域に出されました。
しかし、「大雨特別警報」の発表と、実際の雨量や被害とは、必ずしも一致していません。
たとえば、累積雨量が1000ミリを超えた県は、岐阜県、徳島県、高知県でしたが、このうち特別警報が出されたのは2県で、それも大雨の終盤の7月8日になってからでした。
一方、死者(被害)の多かった県は、広島県(40人)、岡山県(28人)、愛媛県(23人)、京都府(4人)、山口県(3人)、福岡県(3人)などでした。
特に、3番目に被害が多かった愛媛県に特別警報が出たのは大雨の最終日の7月8日になってからで、多くの被害が出たのは特別警報が出る前でした。
実は、「太平洋側には、特別警報が出にくい」との説があります。
確かに、今回、大雨特別警報が出された11府県の面している海を考えてみると、ピークを過ぎた7月8日になって特別警報が出た愛媛県と高知県を除くと、ほぼ瀬戸内海・日本海・東シナ海に面している府県と内陸県の岐阜県です。
ちなみに、唯一、太平洋に面している兵庫県の淡路島は、今回の大雨特別警報の発表地域ではありませんでした。
<写真 夜も続く捜索活動(岡山県倉敷市 平成30年7月)>
もう一つ、被災地のインタビューで、「特別警報」の意味を理解している人は少ないのではないかとも、思いました。
たとえば、「特別警報が出てから避難した」という避難者や、「特別警報が出ているから、線路の被害調査や復旧工事はできない」という鉄道関係者がいました。
特別警報は、避難を促す「避難指示」や「避難勧告」とは違いますし、まして「災害復旧」や「被害調査」を禁じるものではありません。
大雨による被害の2大要因は。がけ崩れ・山崩れなどの「土砂災害」と、川やため池の決壊などの「洪水・浸水」による災害ですが、前者のスーパー警報が「土砂災害警戒情報」、後者は「洪水警報」や「(河川ごとの)氾濫危険情報・氾濫発生情報」が警報にあたるものです。
しかし、特別警報と「土砂災害警戒情報」「洪水警報」「氾濫発生情報」、さらに避難を促す「避難指示」や「避難勧告」との役割分担は、一般の人にはわかりにくいと思います。
ちなみに、今回の豪雨で、避難指示や避難勧告の対象になった人は、先の消防庁の調査で約381万人もいますが、実際に避難したのは30、250人で、わずか0.8%に過ぎませんでした。
国民の安全・安心のために、気象庁や国土交通省、都道府県などが次々と制度改革をしてきた「気象警報や防災情報」ですが、今回の豪雨をきっかけに、「一人一人が単純でわかりやすく命を守る行動」ができるように、地震や津波の情報も含め、運用方法や伝達方法を、改革していただきたいと願います。
このブログでも、今後も防災情報を、とりあげていこうと思っています。
それにしても、今回の豪雨は、台風でもないのに、わかっているだけで124人が死亡し6人が心肺停止6人、63人が行方不明(7月10日2時現在、NHK調べ)という平成になって最悪の風水害被害が出ました。
平成最後の夏・2018年は、今回の豪雨をはじめ、大阪北部地震などの地震、霧島連山やキラウエアなどの火山噴火もあり、災害への「備え」や厳重な警戒がますます必要となっています。
<特別警報の基準 (気象関係 ほかに地震・津波・火山噴火などもあります)>
後半は、今年は雨で見えなかった「七夕の話」、いや、「7月7日」が誕生日の「初恋の味・カルピス」の話です。
今から99年前の1919(大正8)年7月7日、あの「カルピス」が発売されました。
カルピスは、創業者の三島海雲(みしま・かいうん、1878(明治11)年~1974(昭和49)年 大阪府箕面市生まれ)さんが、内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を旅行中に体調を崩した時、現地で勧められた乳酸菌を飲むと体調が回復したことに始まります。
この出来事から、三島さん帰国後に研究をすすめ、1919年7月7日に発売したのが「カルピス」で、脱脂乳を乳酸菌で発酵・加糖して、酵母を加えたものです。
7月7日が誕生日なのにちなみ、カルピスの水玉模様は、「天の川」を現しています。
「カルピス」という名前は、「カルシウム」とサンスクリット語の「サルピス」(じゅくその意味)から作った造語で、「あかとんぼ」などの作曲で知られるあの山田耕作さんなどが名付け親です。
「初恋の味カルピス」という有名なキャッチフレーズは、発売直後の1920年頃から使われていますが、三島さんの学生時代の後輩が作ったものです。
三島さんは後輩に、「カルピスは子供も飲む。子供に初恋の味がわかるだろうか。」と聞くと、後輩は笑顔で「子供には、初恋はカルピスの味だと答えればいい。初恋は純粋で美しいものだ。」と答えました。
1923年に起こった「関東大震災」で、カルピスを無料で配布したこともあり、国民の夏の飲み物として、不動の人気を得ました。
ちなみに、手話の「初恋」は、カルピスなどの飲み物を入れた1つのグラスに、2本のストローを指していることをイメージし、写真のような指の形であらわします。
<「初恋」の意味の手話と、カルピスのイメージ >
今年は豪雨で会えなかった七夕の織姫や彦星の二人と、「平成30年7月豪雨」の犠牲者への追悼、ほかの被災者のみなさんの無事を祈りながら、今夜は、少しほろ苦い「初恋の味カルピス」を飲みたいと思っています。
「平成の 最後の夏に 最悪豪雨 やがて淋しき 初恋の味」(じゅんくう)
続いて、7月5日頃からは全国各地で記録的な大雨が降り、7月9日19時10分現在で108人が死亡、行方不明者29人(消防庁調べ)など、西日本を中心に大きな被害が発生しています。
今回は、気象庁が今回の豪雨で計11府県で発表した「大雨特別警報」を切り口に、2018年7月豪雨について考えてみたいと思います。
7月上旬の豪雨の原因は、7月初めに対馬海峡を通過した「台風7号」が、日本の南海上に残していった非常に大きな積乱雲から、西日本から東日本に停滞していた梅雨前線に向かって非常に湿った空気が大量に入り続けたことでした。
<7月6日9時の天気図 (気象庁)>
今度の大雨の大きな特徴は、時間的にはずれがありますが、「大雨特別警報」が過去最多の11府県
(岐阜県、京都府、兵庫県、鳥取県、岡山県、広島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県)に発表された点です。
「大雨特別警報」は、台風や集中豪雨による数十年に一度の降水量が予想される場合、または、数十年に一度の強度を持つ台風や、それと同程度の温帯低気圧による大雨が予想される場合に発表されるものですが、これまでは最大3府県だったので、今回の11府県はそれを大きく上回り、岐阜県から近畿・中国四国、九州北部まで広域に出されました。
しかし、「大雨特別警報」の発表と、実際の雨量や被害とは、必ずしも一致していません。
たとえば、累積雨量が1000ミリを超えた県は、岐阜県、徳島県、高知県でしたが、このうち特別警報が出されたのは2県で、それも大雨の終盤の7月8日になってからでした。
一方、死者(被害)の多かった県は、広島県(40人)、岡山県(28人)、愛媛県(23人)、京都府(4人)、山口県(3人)、福岡県(3人)などでした。
特に、3番目に被害が多かった愛媛県に特別警報が出たのは大雨の最終日の7月8日になってからで、多くの被害が出たのは特別警報が出る前でした。
実は、「太平洋側には、特別警報が出にくい」との説があります。
確かに、今回、大雨特別警報が出された11府県の面している海を考えてみると、ピークを過ぎた7月8日になって特別警報が出た愛媛県と高知県を除くと、ほぼ瀬戸内海・日本海・東シナ海に面している府県と内陸県の岐阜県です。
ちなみに、唯一、太平洋に面している兵庫県の淡路島は、今回の大雨特別警報の発表地域ではありませんでした。
<写真 夜も続く捜索活動(岡山県倉敷市 平成30年7月)>
たとえば、「特別警報が出てから避難した」という避難者や、「特別警報が出ているから、線路の被害調査や復旧工事はできない」という鉄道関係者がいました。
特別警報は、避難を促す「避難指示」や「避難勧告」とは違いますし、まして「災害復旧」や「被害調査」を禁じるものではありません。
大雨による被害の2大要因は。がけ崩れ・山崩れなどの「土砂災害」と、川やため池の決壊などの「洪水・浸水」による災害ですが、前者のスーパー警報が「土砂災害警戒情報」、後者は「洪水警報」や「(河川ごとの)氾濫危険情報・氾濫発生情報」が警報にあたるものです。
しかし、特別警報と「土砂災害警戒情報」「洪水警報」「氾濫発生情報」、さらに避難を促す「避難指示」や「避難勧告」との役割分担は、一般の人にはわかりにくいと思います。
ちなみに、今回の豪雨で、避難指示や避難勧告の対象になった人は、先の消防庁の調査で約381万人もいますが、実際に避難したのは30、250人で、わずか0.8%に過ぎませんでした。
国民の安全・安心のために、気象庁や国土交通省、都道府県などが次々と制度改革をしてきた「気象警報や防災情報」ですが、今回の豪雨をきっかけに、「一人一人が単純でわかりやすく命を守る行動」ができるように、地震や津波の情報も含め、運用方法や伝達方法を、改革していただきたいと願います。
このブログでも、今後も防災情報を、とりあげていこうと思っています。
それにしても、今回の豪雨は、台風でもないのに、わかっているだけで124人が死亡し6人が心肺停止6人、63人が行方不明(7月10日2時現在、NHK調べ)という平成になって最悪の風水害被害が出ました。
平成最後の夏・2018年は、今回の豪雨をはじめ、大阪北部地震などの地震、霧島連山やキラウエアなどの火山噴火もあり、災害への「備え」や厳重な警戒がますます必要となっています。
<特別警報の基準 (気象関係 ほかに地震・津波・火山噴火などもあります)>
後半は、今年は雨で見えなかった「七夕の話」、いや、「7月7日」が誕生日の「初恋の味・カルピス」の話です。
今から99年前の1919(大正8)年7月7日、あの「カルピス」が発売されました。
カルピスは、創業者の三島海雲(みしま・かいうん、1878(明治11)年~1974(昭和49)年 大阪府箕面市生まれ)さんが、内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を旅行中に体調を崩した時、現地で勧められた乳酸菌を飲むと体調が回復したことに始まります。
この出来事から、三島さん帰国後に研究をすすめ、1919年7月7日に発売したのが「カルピス」で、脱脂乳を乳酸菌で発酵・加糖して、酵母を加えたものです。
7月7日が誕生日なのにちなみ、カルピスの水玉模様は、「天の川」を現しています。
「カルピス」という名前は、「カルシウム」とサンスクリット語の「サルピス」(じゅくその意味)から作った造語で、「あかとんぼ」などの作曲で知られるあの山田耕作さんなどが名付け親です。
「初恋の味カルピス」という有名なキャッチフレーズは、発売直後の1920年頃から使われていますが、三島さんの学生時代の後輩が作ったものです。
三島さんは後輩に、「カルピスは子供も飲む。子供に初恋の味がわかるだろうか。」と聞くと、後輩は笑顔で「子供には、初恋はカルピスの味だと答えればいい。初恋は純粋で美しいものだ。」と答えました。
1923年に起こった「関東大震災」で、カルピスを無料で配布したこともあり、国民の夏の飲み物として、不動の人気を得ました。
ちなみに、手話の「初恋」は、カルピスなどの飲み物を入れた1つのグラスに、2本のストローを指していることをイメージし、写真のような指の形であらわします。
<「初恋」の意味の手話と、カルピスのイメージ >
今年は豪雨で会えなかった七夕の織姫や彦星の二人と、「平成30年7月豪雨」の犠牲者への追悼、ほかの被災者のみなさんの無事を祈りながら、今夜は、少しほろ苦い「初恋の味カルピス」を飲みたいと思っています。
「平成の 最後の夏に 最悪豪雨 やがて淋しき 初恋の味」(じゅんくう)
2018年7月2日月曜日
サッカーワールドカップ・ロシア大会2「決勝トーナメント」~半端ない?残念な?日本チーム~
2018年FIFAサッカーワールドカップ・ロシア大会」は、出場32チームが8グループに分かれてリーグ戦を行い、6月30日からいよいよ16チームによる「決勝トーナメント」が開催されます。 サッカーワールドカップの2回目は、予選リーグを突破した日本チームと決勝リーグを中心に紹介します。
まず、日本チームの予選リーグの戦いについて紹介します。
グループHの日本は、6月19日の初戦で南米の強豪コロンビアと対戦し、前半6分の香川真司選手のペナルティキックで先制しました。
前半39分にコロンビアのファンキンテーロ選手に同点ゴールを決められましたが、後半28分に本田選手のコーナーキックを大迫勇也選手がヘディングで決勝ゴールを決め、2対1で勝利し勝ち点3を獲得しました。
決勝ゴールを決めた大迫選手に対するファンからの呼び名、「大迫半端ないって」が日本中で流行語になりました。
この言葉は、10年前の2008年度開催の「全国高校サッカー選手権」の準々決勝で、当時18歳だった鹿児島城西高校の大迫選手に敗れた滝川第二高校の中西隆裕選手(キャプテン)が、試合終了後の控室で、「大迫、あいつ、半端ないって」と泣きながら称えたことが由来となっています。
大迫勇也(おおさこ・ゆうや)選手は、鹿児島県加世田(現南さつま)市出身で、1990年5月18日生まれの28歳です。
鹿児島城西高校から鹿島アントラーズに進み、ドイツの「1860ミュンヘン」、「FCケルン」でプレーし、2018年、同じドイツの「ブレーメン」に移籍することが決まっています。
この試合は、会場の名前をとって「モルドヴィアの奇跡」と呼ばれています。ワールドカップ本大会で、アジアのチームが南アメリカのチームに勝ったのは、実はこれが初めてでした。
<写真「大迫半端ないって」の応援幕>
続く第2戦は、6月24日にアフリカ代表のセネガルと戦いました。 日本は、2度リードを許しますが、前半34分の乾貴士選手のゴールと、後半33分の本田圭佑選手のゴールで2度とも追いつき、引き分けで勝ち点1を獲得しました。
この試合でゴールを決めた本田圭佑選手は、日本人初の3大会連続ワールドカップでのゴールを決めました。
本田圭佑(ほんだけいすけ)選手は、1986年6月13日に大阪府摂津市で生まれました。
石川県の星稜高校を卒業後、名古屋グランパスに入団し、その後、オランダのVVVフェンロ、ロシアのCSKAモスクワ、イタリアのACミラン、そしてメキシコのCFバチューカと、まさに世界を渡り歩きました。
本田選手の名言を少し紹介します。
「心の中のリトル・ホンダに聞いたら、『ACミランでプレーしたい』と言ったので、ACミランに来た。」
「プロフェッショナルとは、ケイスケ・ホンダのこと。」(NHKの「仕事の流儀」での名言)
本田圭佑選手は国内で69のサッカースクールを設立し、それを運営する会社のミッションについて、
「才能とは生まれ持ったものではなく、環境によって磨き上げられるもの。
大きな夢を持ち、物事がうまくいかなかった時にも心の折れない人材を育成し、才能を開花させるために必要な環境、機会を与える。」と。決めている。
日本の予選リーグの3戦目は、ヨーロッパの強豪・ポーランドと6月28日に対戦し、1対0で敗れました。
日本チーム、は、本田選手、香川選手ら主力を温存し、後半はパスまわしを繰り返して時間を稼ぎました。
結果、勝ち点4でセネガルと並び、反則の少なさ(フェアプレーポイント)でH組の2位となり、予選を突破しました。
西野朗監督がとったこの作戦には、賛否両論ありましたが、私は国際サッカー連盟(FIFA)の行動規範を紹介して、私の意見としたいと思います。
「勝つためにプレーする。勝利はあらゆる試合のプレーする目的であり、負けを目指してはならない。
もしも勝つためにプレーしないのならば、相手をだまし、見ている人を欺き、そして自分自身にうそをつくことになります。
強い相手にあきらめず、弱い相手に手加減してはなりません。全力を出さないことは、相手への侮辱です。試合終了の笛が鳴るまで、勝つためにプレーしなさい。」
前回紹介した、「グリーンカード」(賞賛のカード」の精神ですね。
<サッカーワールドカップ2018 日本代表のポスター>
ロシアワールドカップの大陸別のグループリーグ突破国を見てみると、全16ヶ国のうち、ヨーロッパがロシア、フランス、スペイン、ポルトガル、クロアチア、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スイス、イングランドの10ヶ国(出場14ヶ国)、南米がウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、コロンビアの4ヶ国(出場5ヶ国)で、この2大サッカー強豪地域で、ベスト16のうち14を占めています。
残る2ヶ国は、北中米カリブのメキシコ(出場3ヶ国)と、アジアの日本(出場5ヶ国)です。アフリカは出場5ヶ国が、リーグ戦で全滅しました。
アジア唯一の決勝トーナメント出場国・日本は、7月2日(日本時間では7月3日)に、ヨーロッパの強豪でFIFAランク3位のベルギーと、決勝トーナメント1回戦を戦います。
おしまいは、世界のサッカー名選手の名言です。
・「努力すれば報われる。そうじゃないだろ。報われるまで努力するんだ。」
(リオネル・メッシ選手 アルゼンチン出身)
・「苦しい時ほど、本当の自分がわかる。」
(クルスティアーノ・ロナウド選手 ポルトガル出身)
・「僕らは敗北の中から、多くのことを学んだ。勝者になるために。」
(ネイマール・ダ・シウヴァ・サントス・ジュニオル選手 ブラジル出身)
・「強い気持ちをもっていれば、夢は叶うはずだ。」
(アンドレス・イニエスタ選手 スペイン出身 2018年から日本でプレー)
・「僕は努力をやめないよ。特にワールドカップでは、可能な限り勝ち進みたいからね。」
(キリアン・エムバペ選手 フランス出身)
・「(子供たちに)夢を追いかけて、ください。」
(デビッド・ベッカム元選手 イングランド出身)
半端ないチームワークで、日本が「ロシアの奇跡」を起こすよう、祈念したいと思います
まず、日本チームの予選リーグの戦いについて紹介します。
グループHの日本は、6月19日の初戦で南米の強豪コロンビアと対戦し、前半6分の香川真司選手のペナルティキックで先制しました。
前半39分にコロンビアのファンキンテーロ選手に同点ゴールを決められましたが、後半28分に本田選手のコーナーキックを大迫勇也選手がヘディングで決勝ゴールを決め、2対1で勝利し勝ち点3を獲得しました。
決勝ゴールを決めた大迫選手に対するファンからの呼び名、「大迫半端ないって」が日本中で流行語になりました。
この言葉は、10年前の2008年度開催の「全国高校サッカー選手権」の準々決勝で、当時18歳だった鹿児島城西高校の大迫選手に敗れた滝川第二高校の中西隆裕選手(キャプテン)が、試合終了後の控室で、「大迫、あいつ、半端ないって」と泣きながら称えたことが由来となっています。
大迫勇也(おおさこ・ゆうや)選手は、鹿児島県加世田(現南さつま)市出身で、1990年5月18日生まれの28歳です。
鹿児島城西高校から鹿島アントラーズに進み、ドイツの「1860ミュンヘン」、「FCケルン」でプレーし、2018年、同じドイツの「ブレーメン」に移籍することが決まっています。
この試合は、会場の名前をとって「モルドヴィアの奇跡」と呼ばれています。ワールドカップ本大会で、アジアのチームが南アメリカのチームに勝ったのは、実はこれが初めてでした。
<写真「大迫半端ないって」の応援幕>
続く第2戦は、6月24日にアフリカ代表のセネガルと戦いました。 日本は、2度リードを許しますが、前半34分の乾貴士選手のゴールと、後半33分の本田圭佑選手のゴールで2度とも追いつき、引き分けで勝ち点1を獲得しました。
この試合でゴールを決めた本田圭佑選手は、日本人初の3大会連続ワールドカップでのゴールを決めました。
本田圭佑(ほんだけいすけ)選手は、1986年6月13日に大阪府摂津市で生まれました。
石川県の星稜高校を卒業後、名古屋グランパスに入団し、その後、オランダのVVVフェンロ、ロシアのCSKAモスクワ、イタリアのACミラン、そしてメキシコのCFバチューカと、まさに世界を渡り歩きました。
本田選手の名言を少し紹介します。
「心の中のリトル・ホンダに聞いたら、『ACミランでプレーしたい』と言ったので、ACミランに来た。」
「プロフェッショナルとは、ケイスケ・ホンダのこと。」(NHKの「仕事の流儀」での名言)
本田圭佑選手は国内で69のサッカースクールを設立し、それを運営する会社のミッションについて、
「才能とは生まれ持ったものではなく、環境によって磨き上げられるもの。
大きな夢を持ち、物事がうまくいかなかった時にも心の折れない人材を育成し、才能を開花させるために必要な環境、機会を与える。」と。決めている。
日本の予選リーグの3戦目は、ヨーロッパの強豪・ポーランドと6月28日に対戦し、1対0で敗れました。
日本チーム、は、本田選手、香川選手ら主力を温存し、後半はパスまわしを繰り返して時間を稼ぎました。
結果、勝ち点4でセネガルと並び、反則の少なさ(フェアプレーポイント)でH組の2位となり、予選を突破しました。
西野朗監督がとったこの作戦には、賛否両論ありましたが、私は国際サッカー連盟(FIFA)の行動規範を紹介して、私の意見としたいと思います。
「勝つためにプレーする。勝利はあらゆる試合のプレーする目的であり、負けを目指してはならない。
もしも勝つためにプレーしないのならば、相手をだまし、見ている人を欺き、そして自分自身にうそをつくことになります。
強い相手にあきらめず、弱い相手に手加減してはなりません。全力を出さないことは、相手への侮辱です。試合終了の笛が鳴るまで、勝つためにプレーしなさい。」
前回紹介した、「グリーンカード」(賞賛のカード」の精神ですね。
<サッカーワールドカップ2018 日本代表のポスター>
ロシアワールドカップの大陸別のグループリーグ突破国を見てみると、全16ヶ国のうち、ヨーロッパがロシア、フランス、スペイン、ポルトガル、クロアチア、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スイス、イングランドの10ヶ国(出場14ヶ国)、南米がウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、コロンビアの4ヶ国(出場5ヶ国)で、この2大サッカー強豪地域で、ベスト16のうち14を占めています。
残る2ヶ国は、北中米カリブのメキシコ(出場3ヶ国)と、アジアの日本(出場5ヶ国)です。アフリカは出場5ヶ国が、リーグ戦で全滅しました。
アジア唯一の決勝トーナメント出場国・日本は、7月2日(日本時間では7月3日)に、ヨーロッパの強豪でFIFAランク3位のベルギーと、決勝トーナメント1回戦を戦います。
おしまいは、世界のサッカー名選手の名言です。
・「努力すれば報われる。そうじゃないだろ。報われるまで努力するんだ。」
(リオネル・メッシ選手 アルゼンチン出身)
・「苦しい時ほど、本当の自分がわかる。」
(クルスティアーノ・ロナウド選手 ポルトガル出身)
・「僕らは敗北の中から、多くのことを学んだ。勝者になるために。」
(ネイマール・ダ・シウヴァ・サントス・ジュニオル選手 ブラジル出身)
・「強い気持ちをもっていれば、夢は叶うはずだ。」
(アンドレス・イニエスタ選手 スペイン出身 2018年から日本でプレー)
・「僕は努力をやめないよ。特にワールドカップでは、可能な限り勝ち進みたいからね。」
(キリアン・エムバペ選手 フランス出身)
・「(子供たちに)夢を追いかけて、ください。」
(デビッド・ベッカム元選手 イングランド出身)
半端ないチームワークで、日本が「ロシアの奇跡」を起こすよう、祈念したいと思います
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