2018年3月31日土曜日

旅立ちの名曲「卒業」と菊池桃子のすてきな生き方 

急に暖かくなって
桜の花が咲き年度変わり、
出会いと別れの季節ですね。

毎年、
「卒業」「旅立ち」の名曲を
この時期
紹介しています。

そこで今回は
菊池桃子さんの「卒業」と、菊池桃子さんの半生を紹介します。


まず、1985(昭和60)年2月27日にリリースされた菊池桃子さんの4枚目のシングルで、初めてチャート1位になった「卒業-GRADUATION-」の1番を紹介します。


♪「卒業ーGRADUATIONー」
(作詞:秋元康 作曲:林哲司 歌:菊池桃子)♪

緑の木々のすき間から
春の陽射しこぼれて
少し眩(まぶ)しい並木道
手を翳(かざ)して歩いた
あの人と私は
帰る時はいつでも
遠回りしながら
ポプラを数えた

4月になると ここへ来て
卒業写真 めくるのよ
あれほど だれかを
愛せや しないと♪


<通学路>



 菊池桃子(きくち・ももこ)さんは、1968(昭和43)年5月4日に東京都品川区で生まれました。
 菊池桃子さんのお父さんは、北海道から上京してきた公務員で、元巨人の長嶋茂雄さんに憧れ立教大学を卒業しました。
 家族は、父・母・兄との4人家族です。


 デビューのきっかけは、菊池桃子さんの叔母さんが、東京都港区青山で飲食店をやっている時に、姪の桃子さんの写真を店に飾っていたのを芸能関係者が見て、スカウトされたことでした。

 菊池桃子さんはおとなしい性格で、芸能界に入る前、彼女の夢は「考古学者になること」だったそうです。

 1983(昭和58)年10月、15歳の時に、ニッポン放送の「学園バラエティ パンツの穴」で芸能界デビューし、翌11月にアイドル雑誌「Momoco」(学研)の創刊号の表紙を飾りました。

 1984年3月に映画「パンツの穴」でスクリーンデビュー、同年4月21日には「青春のいじわる」でアイドル歌手デビューをしました。

 その年、プロマイドの年間売り上げ1位になり、日本レコード大賞新人賞、日本レコードセールス大賞女性新人賞を受賞しました。

 「卒業-GRADUATION-」は4枚目のシングルで、オリコン週間1位を記録し、トータルの売り上げは39万枚を超えています。

 ちなみに、同じ1985年には、斉藤由貴さんの「卒業」、尾崎豊さんの「卒業」も発売されていますが、斉藤由貴さんの「卒業」は最高6位で26万枚、尾崎豊さんの「卒業」は最高8位で20万枚でした。
 当時の菊池桃子さんの人気がよくわかると思います。

 斉藤由貴さんと尾崎豊さんの「卒業」も名曲ですので、いずれ取り上げたいと思っています。


 私が、菊池桃子さんが人間的にすごいなと思うのは、アイドル時代ではなく、その後の生き方です。

 1994(平成6)年8月8日に、プロゴルファーの西川哲さんと婚約しましたが、1995年3月に西川さん側(父親)が、結婚の無期延期を発表しました。
 菊池桃子さんは延期の撤回を求めましたが聞き入れられず、ショックで十二指腸潰瘍になり、そのまま入院しました。
 それだけ、桃子さんは純粋に愛していたということだと思います。

 入院後、結婚が認められ、1995年5月に入籍しました。
 1996年8月に長男を出産し、2001年10月には長女を出産しました。
 この2人目の長女は、乳幼児の時に脳梗塞を発症し、左手足に後遺症が残ることになりました。


 菊池桃子さんは、2人の子供を大切に育てました。
 ところが、2012年1月に、西川哲さんとの離婚(原因は西川さんの素行の悪さと言われています)が発表され、菊池桃子さんは、シングルマザーになりました。


 菊池桃子さんは、これまで、日出女子学園高等学校、戸板女子短期大学、法政大学卒業、法政大学大学院修士コースで学び、生涯教育に造詣が深くなりました。

 そして、2012年8月に、母校の戸板女子短期大学の客員教授に就任し、雇用対策(キャリア教育)を教えることになりました。


 2013年にはNPO法人「キャリア権推進ネットワーク」の理事に就任し、さらに、2015年10月には「一億総活躍国民会議」の民間議員に起用されました。 
 また、2016年7月には、文部科学省初等中学教育局視学委員にも就任しています。

 これらのことから、一時は、大臣に起用されるのではないかという「憶測」も流れました。


<菊池桃子さんの著書「午後には陽のあたる場所」>







 それでは、「卒業ーGRADUATIONー」の2番を紹介します。

♪(2番)

誕生日には サンテグジュベリ
ふいに贈ってくれた
一行おきに好きだよと
青いペンで書いてた
あの頃の二人は
話さえ出来ずに
そばにいるだけでも
何かを感じた

4月になると ここへ来て
卒業写真 めくるのよ
あれほど だれかを
愛せや しないと


4月が過ぎて 都会へと
旅立ってゆく あの人の

素敵な生き方 
うなずいた私♪


私には、この「卒業」の2番の歌詞が、菊池桃子さんのその後の人生を暗示していたように思えます。

 この歌の歌詞にある「サンテグジュベリ」は、フランスの作家(1900年~1944年)で、あの名作「星の王子さま」の作者です。
 フランス貴族の出身で、第2次世界大戦中は偵察機のパイロットとして活躍し、地中海を偵察飛行中に行方不明になりました。空に消えた人生は、まさに「星の王子さま」でした。


 菊池桃子さんの半生も、「星の王子さま」のように、迷いながらもピュアに生きています。
 同じ年に同じ「卒業」というタイトルの曲を発表した斉藤由貴さんが、不倫でバッシングされたのに対し、菊池桃子さんは純愛を貫き西川哲さんと結婚し、子供さんの障害やシングルマザーの逆境にも負けずに、39歳で大学院に進学し、教師・女優・タレントとしてがんばっている姿はまさに「すてきな生き方」だと思います。

 
 最後は、サンテグジュベリと菊池桃子さんの名言を紹介します。


「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目には見えないんだよ。」
 (サンテグジュベリ「星の王子さま」より)

「健常な子と比べると、学ぶ場所が圧倒的に少ない。子供はいつも、『ママ、次はどうすればいいの。私はどうなるの?』と聞いてくる。きちんと答えられない自分がもどかしかった。
 自分自身のためだったら、努力しない。
 母親としては泣いてる場合じゃない。つらいと思っている場合でもない。」
(菊池桃子)

「一生を太陽の動きにたとえると、40歳前後が人生の正午にあたるといいます。
そして、人生の正午を過ぎると、午前中に陽のあたっていた場所とは違う場所に、午後には陽があたるという。
それは、わたしのこれからの人生をきっと楽しいものにしてくれるだろう、そう確信しました。」
(菊池桃子著「午後には陽のあたる場所」より)


 旅立ちの季節には、菊池桃子さんの生き方から勇気をもらえますね。
 アイドルから、シングルマザーの大学講師へ、菊池桃子さんの「すてきな生き方」を、これからも続けてほしいし、応援したいですね。


2018年3月11日日曜日

3.11を忘れない 「かもめの玉子」の奇跡と「黄色いハンカチ」の願い

 死者1万5895人、行方不明者2539人、震災関連死3647人と、合わせれば2万人を超える犠牲者(警察庁・復興庁調べ)が出た、2011(平成23)年3月11日の「東日本大震災」から7年が過ぎました。

「震災を忘れないことが最大の教訓」とも言われていますので、やっぱり3月11日は東日本大震災のことをテーマにしたいと思います。

 今回は、私自身が被災地で撮った写真をいくつか紹介しながら、7年たった現在の復興の状況と「流行語」、そして「岩手銘菓の奇跡」と「被災に舞う黄色いハンカチ」などについて書きたいと思います。


 まず、復興の状況について紹介します。

 国土交通省の調査では、被災した鉄道のうち再開通したのは2175.7kmで、復旧率は92.5%になっています。
 一方、復興道路・復興支援道路は、550kmの整備対象のうち開通した道路は286kmで、52.0%の整備率です。
 交通網は、まだまだ復興の途中ですね。

 一方、避難者数は、全国で7万3000人とまだまだ多くの方が避難されています。
 特に大きな被害があった3県の人口を、震災前の2011年3月1日と2018年1月1日で比較してみると、岩手県が74、089人(5.6%)減、宮城県が25,0960人(1.1%)減、そして福島県が146,525人(7.2%)減となっていて、3県合計で245、710人も減っています。
 全国的な人口減少や高齢化もありますが、特に被災地の人口減は深刻ですね。



<写真 東日本大震災の被災地 (宮城県仙台市)>



がもう一つ気になるのが、福島原発のメルトダウンに関連する、最近の流行語です。
 
 まず1つめは、「風評被害(ふうひょうひがい)」という言葉です。 
 放射線や原発の影響が話題になると、合言葉のように「風評被害に負けない」という言葉が聞かれます。

 確かに、何の責任もない、農業や漁業をする被災地の人たちや避難している人たちが、「風評被害に負けない」とおっしゃるのはわかりますが、きちんとした検査や対策をしなければならない、国や自治体、そして電力会社まで、「風評被害に負けるな」というキャンペーンをはるのは、違うのではないかと思います。

 行政や企業がやらなければならないのは、国民や消費者が本当に安心して福島の食べ物や商品を選べるようにする科学的根拠や対策を講じることだと思います。

 一向に進まない原発のメルトダウンの処理や、汚染水の対策、溜まっていくばかりの除染したあとの土の袋などを見ていると、普通の国民・消費者が安心できるとは、とても思えません。

 検査の方法や数値も、「安全です」とか「検査で数値が出ない」だけでは、説得力はあまりありません。

 たとえば、被爆の単位一つをとっても、マイクロシーベルトやミリシーベルトの正しい知識を、わかりやすく説明してくれている人や番組は非常に少ないように思えます。

 一般の人が1年間に被爆しても安全な数値は、「国際放射線防護委員会(ICRP)」が2007年に出した勧告を踏まえた国の「原子力安全委員会」の考え方によると、平常時は年間1ミリシーベルト以下ですが、緊急時は年間20~100ミリシーベルト、緊急事故後の復旧時は年間1~20ミリシーベルトとしていて、安全値に200倍もの差があります。

 なんでこんな差が「安全」にあるのか、そもそも「ICRPの勧告」ってなんなのか、平常時・緊急時・復興時のそれぞれで安全基準の数値が違うのか、なかなか理解できる人は少ないと思います。

 さらに言えば、年間の「追加被爆量」が1ミリシーベルト以下になるのは、1時間あたり0.23マイクロシーベルト(自然被爆の0.04を含む)だと言っていますが、1時間あたりの被ばく量を1年間に換算するときに、なぜか1日を、野外に8時間、屋内に16時間いるという想定を設けて、数字を(3分の1に)抑えています。

 この数値一つをとっても、数字や計算式のマジックが多く、低い数値が出るようにしていると言っても、過言ではないようです。

 原発の廃炉対策も、「これからやります」「必ずできると思います」と、なんとも頼りない精神論の言葉が並んでいて、これで疑問や反対意見には、「風評被害」というキャンペーンをして封じているとすれば、被災地の人たちが一番、かわいそうだと思います。


 もう一つ、よく使われる言葉で違和感を感じるのは、「過剰診療」という言葉です。
 福島県内を中心に被災地の小児科で行う「甲状腺検査」について、一部の医師の間で言われている言葉です。

 震災・原発事故後の福島県内での学校検診で、2018年3月1日現在、悪性または悪性の疑いのある患者が196人、甲状腺癌と確定した患者が160人になったとの報告がありました。
 全国的は1万人に1人程度と言われているので、福島県の全人口200万人弱と比較しても、極めて多い数字で、原発事故の影響の疑いが高いと言わざるを得ません。

 この結果について、「福島県民健康調査のあり方検討委員会」の委員の一人から、「この検診は過剰検診の疑いがある」と、検診自体をやめるような見直しを求める意見がありました。 

 悪性の甲状腺癌が見つかり、治療できることはいいことなのに、「甲状腺癌の出る割合が多すぎるから検診を中止するべき」との発言は、原発の影響が子供たちの間に広がっているのが公になるのはまずいと言っているとしか聞こえないもので、本当に子供たちのことを考えているのかなと疑問です。


<写真 震災で有名になった岩手県の銘菓「かもめの玉子」>



 ここからは、岩手県銘菓「かもめの玉子」の奇跡を、叙事詩風に紹介します。


詩「かもめの玉子の奇跡」


忘れることができない
忘れてはならない
3月11日
東日本大震災

あれから7年が過ぎ
2万人以上が犠牲になった

あの時
多くの悲劇の中で
いくつかの奇跡が起きた

その一つが岩手県大船渡市で起きた
「カモメの玉子」の奇跡

さいとう製菓は
震災直後
「売り上げは半減すると考え」
従業員25人を解雇した

その後
「どうせ売れないなら」と
避難所で
無料配布した

このことが伝わり
「カモメの玉子」に
ファンが増え
そして売り上げは落ちなかった

まもなく
解雇された従業員全員が
職場復帰した

「カモメの玉子」の奇跡として
伝え続けられている

(じゅんくう詩集より)



 この「かもめの玉子の奇跡」の話を聞くと、しっかりと消費者に理解をいただくような対応をすれば、「風評被害」に負けず、世間の評判を逆に味方につけて、ピンチをチャンスに変えた食品会社もあることがよくわかります。


<写真 被災地の風にゆれる「黄色いハンカチ」(宮城県仙台市若林区)>



 私が東日本大震災の被災地に行った時、津波に流された広大な空地や、1階部分のない民家、屋根だけになったガソリンスタンド、がれきの山などと並んで、驚いたのは「黄色いハンカチ」がいくつも、風に翻っていたことでした。

 この黄色いハンカチの話も、叙事詩風に紹介します。



詩「風に揺れる黄色いハンカチの願い」


宮城県仙台市若林区荒浜
多くの住宅が津波に流され
多くの津波犠牲者が出た

仙台市は「危険区域」に指定し
住民移転を推進した

その海岸近くの
被災地に
私は
立ち尽くしていた

見渡す限り
何もない荒れ地に
黄色いハンカチが
風に揺れていた

みごと
恋人の家に帰った
「幸福の黄色いハンカチ」
の映画の主人公のように

「かならず いつか ここへ帰って来る」
そんな被災者の願いと
「ここへ帰っておいで」という
犠牲者や行方不明者へのメッセージを込めて

たくさんの黄色いハンカチが
被災地に揺れていた

(じゅんくう詩集より)



 1977(昭和52)年に山田洋次監督が作った映画「幸福の黄色いハンカチ」は、高倉健さんが演じた主人公が網走刑務所から出所する前、奥さん(賠償美津子さん)に、「まだ待ってくれているなら黄色いハンカチを家に上げておいてくれ」という手紙を送ります。

 その家をめざし、高倉健さんが、若者のカップル(武田鉄矢さんと桃井かおりさん)に助けられながら向かう話です。
 結果は、見事、自宅にたくさんの黄色いハンカチが上がっていました。

 このハッピーエンドの映画は、第1回日本アカデミー賞を総なめした名画です。
 ちなみに、1978(昭和53)年から始まり今も続いている、日本テレビのチャリテイー番組「24時間テレビ~愛は地球を救う~」の、Tシャツなどのイメージカラー「黄色」は、この映画からとっています。

 被災地で「黄色いハンカチ」を掲げるのは、「ここへ必ず帰るぞ。復興するぞ。」という復興の願いを込めた意味が多く、東日本大震災では、私が行った宮城県仙台市以外にも、岩手県の釜石市や、「JA新ふくしま」のプロジェクト、千葉県松戸市の「松戸・東北交流サロン」などでも、「黄色いハンカチ」が使われています。


 最後になりましたが、「天災は忘れた頃にやってくる」ということわざを思い出し、東日本大震災の被災地はもちろん、関東や東海・東南海・南海など、全国各地の大地震・津波に備えるために、これからも3月11日を忘れてはいけない日にしたいですね。

 東日本大震災の多くの犠牲者のみなさんの冥福を祈り申し上げます。


<津波が襲ってきた海岸に立つ東日本大震災の慰霊塔(宮城県仙台市)>




<おまけ>
 今年も「Yahoo! 」で、3月11日に「3.11」と検索すると、1人1回100円を、J復興支援のために寄付してくれるそうです。


2018年3月4日日曜日

追悼 大杉漣さん ~急死したやさしき名脇役(バイプレーヤー)~

「座右の銘は、『見る前に飛べ!』です。まず、やってみる。そこでしか味わえない喜びがあります。もちろん、つまづくことありますが、すべてが身につきます。」 これは、「300の顔を持つ男」と言われていた俳優の大杉漣さんの言葉です。

 2018(平成30)年2月21日に、名バイプレーヤー(脇役)で、芸能界一とも言われるやさしい人柄で知られていた大杉漣さんが、急性心不全のため66歳で亡くなられました。
 その後のテレビや新聞・雑誌・ネットなどでは、脇役なのに、主役並み、いや主役以上の報道がされました。
 死の瞬間を看取った田口トモロヲさんや松重豊さん、遠藤憲一さんらの脇役仲間はもちろん、北野武さんや明石家さんまさんなどの大物から、黒柳徹子さんや渡辺麻友さん、川栄李奈さんらの女優まで、多くの芸能人から死を悼むコメントが寄せら、多くの特集が組まれました。


 これらの報道を見るだけで、芸能界で大杉漣さんが、どれだけ活躍し、どれだけ慕われていたがわかります。

 そこで、今回は「脇役なのに主役級俳優」、大杉漣さんについて紹介します。


<写真 大杉漣さんの生まれた小松島市(徳島県)>



 大杉漣(おおすぎ れん)さんは、1951(昭和26)年9月27日、四国の徳島県小松島(こまつしま)市で生まれました。
 本名は大杉孝(おおすぎたかし)さんです。

 ちなみに、「漣(れん)」という名前は、フォークシンガーの高田渡(たかだ・わたる 岐阜県出身、1949年~2005年)さんの子供の「高田漣」さんの名前をもらったもので、大杉さん本人は、「さざなみ」とも読むと語っています。

 大杉さんのお父さんは学校の先生で、38歳で小松島市立小松島中学の校長になり、以後、いずれも徳島県立の小松島西高校(小松島市)、富岡東高校(阿南市)、城東高校(徳島市)の校長を歴任されています。
 大杉漣さん曰く、家庭では寡黙だったそうです。

 お母さんは「まさ子」さんで、大杉さんは「お前が1番だ」といつでもほめてくれるお母さんが大好きで、自分のギターに「まさ子」という名前をつけていました。
 兄弟は、男ばかり4人で、大杉漣さんは、末っ子でした。

 大杉漣さんは、サッカーとフォークソングの好きな少年で、ボブディランの曲に感銘し、バイトで貯めたお金でギターを買ったことがありました。しかし、そのギターはクラッシックギターで、「ボブディランの演奏する音と違うなあ」と不思議に思ったそうです。(笑)


 小松島市は徳島市のすぐ南にある紀伊水道(太平洋)に面した港町で、大杉漣さんが生まれる3ヶ月前の1951年6月に市制が敷かれ、昭和20年代から昭和40年代にかけては、関西からの四国の東の玄関として、栄えていました。
 大杉さんが子供の頃は、小松島市内に映画館が4つあったそうですが、現在は1つもありません。
 人口は、2015年時点で38,755人です。

 大杉漣さんは、1967(昭和42)年に、徳島県内有数の進学校「徳島県立城北高等学校(徳島市)」に進学しました。
 高校ではサッカー部に所属していました。
 1970(昭和45)年には、明治大学に合格し上京しました。

  1970年代初め、明治大学の学生になった大杉漣さんは、蜷川幸雄さんや寺山修司さんらの演劇に魅せられ、1973(昭和48)年には太田省吾(1939年~2007年)さんの劇団募集に応募し、明治大学を中退しました。
 1973年6月、別役実(べっちゃくみのる 1937年~)さんの作品「門」で、<娼婦を買いに来る客A>という役で、22歳の時に舞台デビューしました。
 翌年には、太田省吾さん主宰の「転形劇場」に入り本格的に舞台の活動をしますが、20代は鳴かず飛ばずでした。

 1980(昭和55)年に、新東宝のピンク映画「緊迫いけにえ」で映画俳優デビューし、日活ロマンポルノや新東宝映画に出演するようになりました。

 1982(昭和57)年には、生涯の伴侶の弘美さんと結婚しますが、映画俳優としても芽が出ず30代も鳴かず飛ばずでした。
 新婚の時期に、ピンク映画の俳優生活をするのは辛かったようで、1988(昭和63)年以降はピンク映画出演を控え、転形劇場の仕事に専念しようとしました。
 ただ、1983(昭和58)年には、滝田洋二郎監督の「連続暴漢」でピンクリボン賞の「主演男優賞」を受賞していますので、演技力は確かでした。

 1988年、転形劇場が解散し、大杉漣さんは拠点を失いますが、舞台俳優の活動を細々と続けます。
 結局、「昭和」の時代に、大杉漣さんの芽は出ませんでした。しかし、下積み時代に養った演技力が、のちに花を咲かす種となったことも確かです。

 1989(平成元)年、時代が「平成」になってからは、Vシネマなどの映画出演をするようになります。

 1993(平成5)年、大杉漣さんが42歳の時、北野武監督の映画作品「ソナチネ」のオーディションに応募しました。
 大杉さんは、オーディションに遅刻してしまいますが、北野監督は「大杉さんを見た瞬間に閃いた」そうで、合格します。

 大杉漣さんの役は、最初はヤクザの組事務所のセリフのない電話番の役でした。
 しかし、北野監督の「アドリブでやってみろ」の命令に、大杉さんは期待以上の演技で応えました。
 「うめえなあ」と感心した北野武監督は、台本を何度も書きかえて、次第に大杉漣さんの役とセリフを増やし、ついには組のナンバー2の役にして、撮影終了まで同行させます。

 その後も、北野武監督は「HANA-BI」などの自身の作品に大杉さんを次々に起用し、文字通り「名脇役(バイプレーヤー)」としての大杉漣さんの評価を決定づけます。
 さらに、崔洋一監督の「犬、走る DOG RACE」(1998年)や磯村一路監督の「がんばっていきまっしょい」などにも出演し好演します。

 1999(平成11)年には、ブルーリボン償の助演男優賞を受賞し「ピンクとブルーの2つの映画賞をもらった俳優」になりました。
 他にも、この年、日本アカデミー賞優秀助演男優賞など多くの映画賞を受賞し、名脇役の座を不動のものとします。
 
 その後は、映画だけでなくテレビドラマやバラエティにも多数出演し、「300の顔をもつ男」と言われるなど、目覚ましい活躍を見せます。

 代表的なものを紹介すると、映画では「BROTHER」(北野武監督、2001年)、「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督、2002年)、「100回泣くこと」(廣木隆一監督、2013年)、「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督、2016年)、「アウトレイジ・最終章」(北野武監督、2017年)などがあり、ウキペディアには394本もの作品が出ています。

 テレビでは、NHK大河ドラマの「秀吉」(1996)や「義経」(2005年)、NHK朝の連続テレビ小説の「どんと晴れ」(2007年)や「ゲゲゲの女房」(2010年)、テレビ朝日の「相棒」シリーズや日本テレビ「花咲舞が黙ってない」シリーズなどが、その代表格です。
 ウィキペデアで見ると、テレビドラマが178本、バラエティが9番組、吹き替え2本、ドキュメンタリー32番組、CM30本も上がっています。

 すごい数ですね。最近は、「大杉連さんの顔をテレビで見ない日はない」と言われていただけに、急死は残念ですね。


<写真 大杉連さんと愛犬「風ちゃん」と愛ネコ「トラ子」(大杉連さんブログ「風トラ便り」より)>




 こんなに、多忙で売れっ子になっても、大杉漣さんは謙虚でやさしい人柄は変わりませんでした。

 たとえば、大学の学生たちが先に出演依頼をしていた日程に、大きなテレビの仕事が割り込んできた時には、大杉連さんは躊躇なく、お金になるテレビの仕事を断りました。
 理由は「先に学生との約束があるから」でした。

 大杉連さんのやさしさは、動物に対しても、同じでした。
 大杉連さんのペットのネコのトラ子は、実は大杉さん主演の映画「ネコナデ」に出演した動物プロダクションのネコでした。
 映画がクランクアップした日、大杉連さんはトラ子を動物プロダクションから買い取り、以来、家でペットとして飼ってかわいがり、大杉さんが亡くなるまで、大杉さんのブログの主役の1人、いや1匹でした。
 ちなみに、ブログタイトル「大杉漣の風トラ便り」の、風は犬の「風ちゃん」、トラはネコのトラ子のことです。

 大杉連さんが、誰にでもやさしいのは、20年以上も役者として苦労をしてきたことと、関係がありそうです。

 大杉さんは、こんな話をされています。
「ぼくは、割と人生だらっとしていた方がいいと思っています。
 今の時代って、白黒はっきりさせないとダメみたいな風潮があります。
 でも、ぼくの仕事(俳優)ははっきりできないから、それを追い求めています。」
 
 大杉さんは色紙にも「あるがまま」と書いています。
 多くの苦労が、大杉連さんのやさしさ、ニュートラルさを作ったんだと思います。

 大杉連さんのやさしさがわかるエピソードは、まだまだあります。

 ある大学の映画研究会からオファーを受けた時、「俺はプロの役者だから、タダというわけにはいかないんだ。」と大杉連さんは答えました。
 学生たちは、お金をかき集め、2泊3日で大杉さんが参加するロケを行いました。

 撮影が終わって、学生たちは大杉連さんに、ギャラを渡しました。
 大杉連さんは、それをそのまま学生たちに返してこう言いました。
「君たちの映画のために使ってくれ。」
 かっこよすぎですね。


 大杉連さんを有名にしたものの一つに、日本テレビのバラエティ番組「ぐるぐるナインティンナイン」の人気コーナー「ごちになります」のレギュラー出演があります。

 大杉連さんは、注文した料理の総額が指定された金額になるように当てるこの番組で、2017年の夏、番組史上初の2週連続ピタリ賞になり、100万円づつ2回、計200万円の賞金を手に入れました。
 大杉漣さんは、この賞金を、自身のバンドが世界一と言われた映画館「酒田グリーンハウス」があった山形県酒田市で開催する「大杉漣バンド港座ライブ」の開催費用にあてました。

 ちなみに、大杉漣バンドのラストコンサートは、結果的に、2018年1月21日(死のちょうど1月前)に開催された「アエルワホール」(徳島県阿波市)でのコンサートになりました。
 

<写真 大杉連さんのRENの字のユニホームが掲げられたJ2徳島ヴォルティスのベンチ>





 おしまいは、大杉漣さんのもう一つの趣味、サッカーの話です。

 大杉連さんはサッカーが大好きで、徳島県立城北高校時代にはサッカー部に所属していました。
 大人になってからも、サッカーをしたり観戦するのが大好きで、芸能界では「鰯(「いわし)クラブ」というサッカ-チームの発起人兼キャプテンをしていました。(背番号10)

 サッカー観戦も大好きで、特に出身地のJ2「徳島ヴォルティス」の熱狂的なサポーターで、仕事の合い間を縫って、関東圏の試合はもちろん、徳島まで自腹で帰って応援をしていました。

 2018年2月25日、大杉漣さんの死から4日後に「ポカリスエットスタジアム」(徳島県鳴門市)で行われた、今シーズンのJ2開幕戦「徳島ヴォルテイス対ファジアーノ岡山」では、大杉漣さんを偲んで試合前に全員が黙とうしました。

 また、会場には2箇所の記帳所が設けられ、徳島ヴォルティスの選手たちは、ユニホームに「REN(漣)」という文字をつけてプレーしました。
 試合は、岡山が勝ちましたが、大杉漣さんは、天国できっと拍手を送ってくれたことだと思います。

 
 実は私は、大杉漣さんのことで一つ後悔していることがあります。

 それは、数年前、大杉漣さんのコンサートのチケットを購入しながら、参加できなかったことです。
 大杉漣さん急死の報道をみて、「残念。」と思いながら、大杉さんのブログを読んでみました。

 すると、死のちょうど1月前の2018年1月21日に、「アエルワホール」という所でのコンサート
を行っていて、それが「ラストコンサート」になったことを知りました。
 
 私は、せめてそのホールに行ってみようと思いつき、休日の夕方、そのホールまで車で行ってみました。
 途中、道に迷ってしまい、会場についた時には真っ暗でしたが、それでも大杉さんの笑顔が見え、声が聞こえてきそうな気がして、しばらく誰もいないホールの前で手を合わし、佇んでいました。

 最後に、その時に作った詩を紹介します。



詩「急死した大杉漣さんのラストコンサートの会場にて」

2018年2月21日
やさしきバイプレーヤー(脇役)
大杉連さんが
突然亡くなった

66歳
「白黒つけなくてもいい」
やさしい人柄だった

若い頃はバンドをやり
俳優の当初はピンクもやった
それから
劇団へ

42歳
やっと有名になったのは
思い切り遅刻した
オーデションの
北野たけし監督の作品
「ソナチネ」

その後
多くの作品に出演し
人気俳優になった

それでも
おごらず
気取らず

学生たちの作品から
大河ドラマ
朝ドラ
CM
バラエティ

なんでも出た
300の顔をもつ男ともいわれた

そんな大杉連さんの
突然死を聞いて

ちょうど
死の1ヵ月前
1月21日に

連さんが
ラストコンサートを行った
会場に急に行きたくなった

地図も持たずに
勘だけで
山道を
やみくもに走った

何時間も走り
ぐるぐる迷路のように走って
結局
コンビニに道を聞き
スマホで検索した

真っ暗な中で
りっぱな市役所の隣りに
その会場
「アエルワホール」があった

真っ暗な建物に
うっすらと浮かぶ
ホールの建物から

大杉連さんの歌声が
聞こえたような
やさしい気持ちになった

誰もいない
真っ暗な中で
「明日 夢が現実にならないとは 言い切れない。
曖昧があるから 人生はポジティブになれるんだよ。」

そんな連さんの声が
聞こえたような
聞こえなかったような

あいまいな でもポジティブな気持ちで
私は「アエルワホール」を後にした

また「会えるわ」??


<写真 大杉連さんのラストコンサートを行ったアエルワホール(徳島県阿波市)>