2017年11月29日水曜日

季節の歳時記2「秋の終わりに」~秋の色は「赤」それとも「白秋」?~

 木々の紅葉が進み、木枯らしの冷たさが身に沁みる季節で、秋も終わりですね。 そこで、今回は過ぎゆく秋を、ちょっとセンチメンタルに振り返ります。

 まず、突然ですが質問です。
 「秋」は、色に例えると何色だと思いますか?


 私が、秋の色と聞かれて、一番先に思いつくのは、「赤色」です。
 そうです。
 夕焼け、赤とんぼ、紅葉、みんな「赤」ですよね。
 ここで、「まっかな秋♪」という童謡の一番を、紹介します。


♪「まっかな秋」(作詞:薩摩 忠、作曲:小林秀雄)♪


まっかだな まっかだな 
つたの葉っぱが まっかだな
もみじの葉っぱも まっかだな
沈む夕日に照らされて 
まっかなほっぺたの 君と僕
まっかな秋に 囲まれている♪


 季節だけじゃなく、友達のほっぺまで赤いというのが、この曲のいいところですね。
 子供の頃、その部分に感動した覚えがあります。

 この曲は、1963(昭和38)年にNHKテレビの「たのしいうた」で紹介された曲で、作詞の薩摩忠(さつま ただし 1931年~2000年、東京都出身)さんは、詩人で海外児童文学の翻訳もされています。 

<写真 秋の夕暮れ>



 秋の色は「赤」で決まりと言いたいところです。
 でもね、「白秋」という言葉が、どうしても気になりませんか。

 名曲「この道」や「ゆりかごのうた」、「雨降り」などの多くの童謡を作詞したあの北原白秋(きたはら・はくしゅう 1885年~1942年 熊本県生まれ)さんに代表されるように、論語の時代から「陰陽五行説」では、秋の色は「白」、つまり「白秋」と言われています。

 ちなみに他の季節の色はというと、春は「青春」で有名な「青」、夏は「朱夏」と呼ばれて「赤(朱)」、冬は「玄冬」で「黒」です。
 ちなみにちなみに「五行説」なのに4つの季節なのはなぜという問いについては、「木・火・土・金・水」の五行に対応する季節は、「春・夏・土用・秋・冬」で、色は「青・赤・黄色・白・黒」となります。
 そう、四季に加えて、土用が入るのです。


 まあそれは、ともかく「秋の色は白」というのは、実感としては、ありませんね。
 それでは、なぜ、秋が白なんでしょう。
 それには、こんな説があります。

 古来、白は何色にでも染まる色なので、「色なき色」とも呼ばれ、秋も「何色にも染まる色なき色=白=白秋」と呼ばれたという説があり、もう一方で、秋は「すべての色に染まる彩(いろどり)の季節」とも呼ばれています。
 「白秋」と「彩の秋」は。矛盾しないというのですが、あなたはどう思いますか???


 後半は、「じゅんくう詩集」から、晩秋の詩と、秋を象徴する言葉を言い換えた「新・ルナールの言葉」を紹介します。

 まず、「秋の終わりに」という詩です。



詩「秋の終わりに」(じゅんくう)

秋の終わりの 黄昏の中
ハラハラと散る 枯葉を見てる
恋も 命も みんな散りそう

あの人の笑顔が 飛び跳ねていた
テニスコートも 夕焼けの中
青春も 情熱も 木枯らしに消えてゆく

白い吐息と くしゃみが知らせる
秋の終わりと 冬のおとずれ
夢も 笑顔も みんな凍って

あの頃のドリーム すまして見ていた
キンモクセイも 北風に震える
憧れも ときめきも 静かに溶けてゆく

秋の終わりに  公園で一人
ホットコーヒー  心に沁みる
あの頃も あの人も 風に吹かれてる

さよならの心が 一番星と揺れて
それでも生きている  ポプラの思い出
街の灯りが 遠くでチラチラ

秋の終わりに 歩き出す もう一度
コスモスの咲く 細くまっすぐな道を
あの日から 未来へ
  

<写真 キンモクセイ(金木犀)の花>





 おしまいは、秋の言葉を、じゅんくうが別の言葉に変換した「新・ルナールの言葉」です。
(ジュール・ルナール(1864年~1910年)は、フランスの詩人・作家で、小説「にんじん」や博物誌などが代表作です。感性あふれる短い言葉は、「ルナールの言葉」として有名です。)



○新ルナールの言葉(2)
「秋と夕焼けと金木製」


<コオロギ> 
秋限定のオーケストラ。
どこか淋しい? 
朱夏のリグレット(後悔)


<秋分の日>
暦の上では 暑さもここまで
ここから先は
夕焼けも 急ぎ足


<コスモス(秋桜)>
パステルカラーの花は
草原の星座のように 
やさしく 曖昧で 純情
秋色の風に 揺れている 


<〇〇の秋>
読書 スポーツ 芸術 食欲 ---
秋は 人間たちに つかの間の 
やる気を与えてくれる?
でも 本当の主役は
夏の暑さと 冬の寒さの間の
サンドイッチのような 気候 


<台風>
嫌われ者で 暴れん坊
だけど 通り過ぎたあとに
青空と 澄んだ空気を 残しくれる 


<赤トンボ>
秋は「白秋」というけれど
赤トンボが 秋を連れて来て
紅葉が  秋を彩り
夕焼けが 秋を消してゆく
秋は「紅秋」かもね?


<枯葉>
緑から 黄色や 赤や からし色に
高齢化社会の 縮図
そんな枯葉たちも一瞬だけ 
空に溶け込み スカイダイビング


<金木犀(きんもくせい)>
君が咲くのは ほんの数日だけど
君のやさしい匂いは 心の中で永遠になる
キンモクセイの咲く 通学路こそ青春


<木枯らしと小春日和>
木枯らしが 街を吹き抜けると
人々は 厳しさと淋しさを 思い出す
束の間の 小春日和は
人々に やさしさと暖かさを 思い出させる
だけど もうすぐ クリスマスと年末だよ 
たぶん? 


(もっと「じゅんくう詩集」を読んでみたい皆さんは、ネット検索「じゅんくう詩集」で検索してみてください。)



2017年11月19日日曜日

風の中の龍馬(1)青春を賭けた脱藩 ~坂本龍馬没後150年~

 平成29年11月15日(西暦で正確に数えると、2017年12月10日)、幕末の英雄・坂本龍馬が凶刃に倒れて、ちょうど150年になります。
一方で、「歴史の教科書から龍馬が消えるかも?」というニュースも出ています。

 そこで、龍馬が人生のアゲンスト(逆風)に、どう立ち向かっていったかを中心に、坂本龍馬の生き方を何回かにわけて紹介したいと思います。
1回目は、少年時代から26歳で脱藩するまでの龍馬を紹介します。



 坂本龍馬(さかもとりょうま)は、天保6年11月15日(西暦1836年1月3日)、江戸末期の土佐藩の高知城下(現在の高知県高知市)で生まれました。

龍馬が生まれる前日、お母さんの幸さんが龍が空を飛ぶ夢を見たので、「龍馬」と名付けられたと言われています。

 坂本家は郷士(ごうし)と呼ばれる戦国時代の長曾我部氏の流れを汲む下級武士で、龍馬は、その坂本家第5子・次男として生まれ、兄1人、姉3人の兄弟がいました。

 坂本家の本家は商家で、土佐では豪商として知られていて、龍馬の生まれた下級武士の坂本家も裕福でした。
 龍馬の本家が商人であったことと実家が裕福であったことが、龍馬が制度や武士の形式にとらわれず自由を謳歌できた大きな理由でした。

 子供の頃の龍馬は、楠山塾という漢学の塾に入っていましたが、勉強ができないだけでなく、いじめられっこで、英雄とはほど遠い少年でした。
さらに、塾でいじめられて怒り、刀を抜いて仕返ししょうとしたという疑いをかけられ、塾は退学になりました。

 少年龍馬は、「馬鹿で気の弱い子供」という世間の評判が立ち、人生の逆風を、いきなり全身に受けました。その上、おねしょを12歳までするなど、気が弱く神経質な「ひきこもり」の子供でした。


<写真:ふるさと高知市の桂浜に建つ坂本龍馬像 ~期間限定で龍馬と同じ目線で太平洋を見ることができる展望台が仮設されており「心はいつも太平洋ぜよ」と書かれています~ (高知県高知市)>



 10歳で母・幸さんを亡くした少年龍馬を、「ひきこもりの愚童」という逆風から救ったのは、剣道でした。
 その剣道を最初に龍馬に教えたのは、3番目の姉・坂本乙女(さかもとおとめ)であると言われています。

 乙女姉さんは男勝りで、男なら激動の幕末を自分で暴れまわれるのに、女であるばかりに何もできない自分が不満で、その気持ちを弟の龍馬に託し、学問と剣道を厳しく教えました。

 そのお陰で、龍馬の剣道の腕はめきめき上達し、1848(嘉永元)年、龍馬が12歳の時に入門した、小栗流の日根野道場でも、頭角を現しました。
 当時を知る土居楠五郎という人の記憶では、
「龍馬は、剣道をはじめて、おねしょも泣き虫も一変し、朝から晩まで剣道の稽古に励むようになった。」そうです。

 剣術を始めて5年が経った18歳の時、龍馬は「小栗流の目録」を得るまでになり、1853(嘉永6)年、剣術修行のため、江戸へ行く許可を土佐藩からもらいました。
 江戸時代の藩は閉鎖性が強く、今で言えば一つの「国」のようなもので、藩の許可がなければ藩の外に行くのは許されず、脱藩は犯罪でした。

 そんな時代でしたが、「剣術修行」は、りっぱな江戸へ行く名目でした。
 つまり、剣道が龍馬をりっぱな青年に育て、剣道が「土佐から江戸へ」の道を開いたのでした。

 ただし、江戸時代に高知から江戸に行くのは、命がけのことでした。
 ですから、司馬遼太郎さんの名作「竜馬がゆく」の中では、高知城下から北にある阿波藩(現在の徳島県)との国境に向かって江戸へ旅立つ坂本龍馬に対して、父の八平はこんな歌を贈ったことになっています。

「男児 志をたてて 郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」

(現代語訳: 男子が志(こころざし)を立ててふるさとを出る以上、目的(学問や剣道)を達成できなければ、死んでも帰って来るべきではない。)

 当時、江戸修行は、それほど重く大変なことだったのです。

 江戸に着いた坂本龍馬は、築地にあった土佐藩中屋敷の片隅で寝起きし、千葉周作で有名な北辰一刀流の「桶町千葉道場」(現在の東京都中央区八重洲にあり、千葉周作の弟の千葉定吉が道場主)に通いました。

 龍馬は、「桶町千葉道場」でも剣術の腕を上げ、千葉道場の娘で、後年。自ら龍馬の妻と称した「千葉さな子」とも出逢いました。
 剣道の腕が、若き坂本龍馬の未来と恋を作っていったとも言えると思います。

 また、龍馬が江戸留学を始めたこの1853(嘉永6)年は、アメリカのペリー提督率いる黒船4隻が浦賀に来航した日本史上の大事件が起きた年で、江戸は大騒ぎになりました。

 坂本龍馬も、土佐藩の命令で、品川で異国船から日本を守る警備に駆り出され、「黒船来航」のまっただ中に身を置くことになりました。
 当時の龍馬は単純な攘夷主義者で、「戦(いくさ)になれば、異国(人)の首を討ち取ります」という内容の手紙を、実家に送っています。

 また、この頃の江戸は、剣術や学問を学びに全国の藩から有望な若者が集って来ていて、その中には、高杉晋作や桂小五郎などの後の幕末・維新の英雄たちもいました。
 坂本龍馬は、剣術を通じて彼らとの人脈を作り、江戸で新しい思想や知識を得ることもでき、のちの活躍の礎を築きました。

 一方、長州の吉田松陰は、嘉永7(1854)年3月に、下田で黒船に密航してアメリカへ行こうとしますが失敗し、幕府に捕まってしまい、安政の大獄で処刑されます。


<写真 ペリー来航の絵>



 嘉永7(1854)年6月、龍馬は剣術修行を終えて土佐に帰り、高知の日根野道場の師範代になり、ジョン万次郎からアメリカの話を聞いた河田小龍から、外国の話を聞いたりしています。

 この年、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に東海地方沖を震源とする「安政東海地震」(M8.4と推定)が起き、そのわずか32時間後の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)には、四国沖を震源とする「安政南海地震」(M8.4と推定)が起きました。

 これらは、時間差で起きた「南海トラフを震源とする巨大地震」として有名で、それぞれ数千人の死者が出ています。
 坂本龍馬のいた「高知」でも、推定震度5から6の揺れがあり、津波に襲われました。

 余談ですが、この2つの地震は、「安政の東海地震」、「安政の南海地震」と呼ばれていますが、実際に起きた時の年号は「嘉永」で、この地震の22日後の11月27日に「安政」に改元されています。

 余談の余談ですが、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」では、安政大地震が起きた時、龍馬は江戸にいたことになっていますが、手元にある坂本龍馬研究の1級資料の一つ「坂本龍馬全集」(監修・平尾道雄、編集・解説・宮地佐一郎)によれば、嘉永7(1854)年6月23日に、龍馬は高知に帰って来ています。
 

 地震の起きた翌年、安政2(1855)年12月、父の坂本八平が亡くなり、兄の権平が坂本家を継ぎます。

 兄が坂本家を継いで安心した龍馬は、安政3(1856)年に、再び江戸での剣術修行を藩に申し出て許可され、上京します。

 その後、龍馬は江戸で再び「桶町千葉道場」に入り、今度は塾頭にまでなり、安政5(1858)年には「北辰一刀流」の免許皆伝を伝授されました。

 安政5(1858)年9月、坂本龍馬は2度目の江戸修行を終えて、高知に帰りました。
 この安政5年の4月には、井伊直弼が幕府の大老になり、開国を強行し、反対派を弾圧する「安政の大獄」が始まっています。

 龍馬は、江戸剣道の三大流派の一つ、「北辰一刀流」の塾頭で免許皆伝という腕をもって帰り、高知ではかなり有名な剣術家になりました。

 もし、龍馬が普通の武士なら、ふるさと高知で、剣術の腕をもとに、平和な家族を作り、田舎での普通の幸せをもとめただろうと思います。

 しかし、ここで江戸を見てきた坂本龍馬は、「武士同士の身分差別」という、新しい「逆風(アゲンスト)」を、感じてしまいます。

 この頃の土佐藩は、藩主(のちに家督を子供に譲る)の山内容堂と、参政の吉田東洋が実権を握って、「公武合体」を主張していました。

 土佐藩では、戦国時代に土佐を治めていた長宗我部(ちょうそかべ)家の元家来で郷士(ごうし)と呼ばれる下級武士と、関ヶ原の合戦の勝者として土佐に入った山内(やまのうち)家の家来の上士と呼ばれる上級武士との差別がありました。
 役職はもちろん、着物や履き物、傘をさすことの可否、さらには上士は郷士を「無礼打ち」にできるなどの、差別的な厳しい藩法がありました。

 坂本龍馬は郷士の出身ですが、江戸の新しい風に吹かれてきた龍馬の目には、土佐の差別がこっけいでつまらないものに映りました

 
 龍馬が土佐で矛盾を感じていた安政7(1960)年3月3日、幕府の大老として権力をふるってきた井伊直弼が、江戸城の桜田門の外で、水戸の脱藩浪士らの手で暗殺されるという、幕府の権威を失墜させる大事件が起こります。(桜田門外の変)

 これをきっかけに、江戸幕府の権勢にかげりが見え始め、全国に「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」という、朝廷を敬い(ということは幕府を軽視し)外国人たちを排斥するという思想が広まります。

 土佐でも、龍馬の親戚筋にあたる武市半平太(たけちはんぺいた)らが、文久元(1861)年8月に「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷を土佐藩に広めようとします。

 坂本龍馬も、武市の薦めで「土佐勤王党」の血判書に署名します。
 しかし、「参政の吉田東洋を暗殺して、土佐藩全体の藩論を尊皇攘夷にする。」という武市の過激な思想に対し、「土佐藩にこだわっていては、何も動かんぜよ。人殺しもいかんぜよ。」と考えた坂本龍馬は、藩を抜け出して自由になって日本のために生きる、「脱藩」という道を選びます。

 当時の「脱藩(だっぱん)」は、現在でいう国外逃亡で、江戸時代には多くの人が死罪になったほどの重罪です。
 しかし、坂本龍馬はそれを承知で「脱藩」を決行します。

 文久2(1862)年3月24日、満26歳の坂本龍馬は、沢村惣之丞(さわむら・そうのじょう 1843年~1868年、土佐の浪人の子)とともに、青春のすべてを賭けて、土佐の檮原(ゆすはら 現高知県高岡郡檮原町)から、四万十川沿いの「宮野乃関」の近くを抜け、伊予の国(愛媛県)へ脱藩しました。


<写真 坂本龍馬脱藩の道(高知県高岡郡檮原町)>




 脱藩により、坂本龍馬は「土佐」という、ふるさとを捨てました。
 そのかわり、「日本人として藩に囚われずに生きる」という自由を手に入れました。

 最初の江戸修行の時、お父さんの坂本八平さんが龍馬に贈ってくれた歌を、龍馬は思い出し、くちずさみながら、四国山脈を超えたのだと思います。

「男児 志をたてて 郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」

 
 最後は、坂本龍馬の本物の手紙から、「脱藩をした時の気持ち」を表したのではないかと思われる名言を紹介します。


○「じつに おくにのよふな所にて、何の志ざしもなき所に、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿ものなり。」(慶応元(1865)年9月9日、坂本乙女<姉>、乳母おやべあて 龍馬の手紙より)

○現代語訳:
「お国(土佐)のような所で、何の志(こころざし)もなく、ぐずぐず日を送る者は、本当に大馬鹿者だ。」


 次回(連続かどうかはわかりませんが?)、「風の中の龍馬」の2回目は、脱藩して身分的にも思想的にも自由になった坂本龍馬が、「幕府や権力」という逆風(アゲンスト)に、どう立ち向かったかを紹介します。

2017年11月5日日曜日

平尾昌晃さんを名曲で偲ぶ ~ミヨちゃん、瀬戸の花嫁、走れ風のように~ 

 2017(平成29)年7月21日、作曲家で歌手でもある平尾昌晃さんが、肺炎のため亡くなられました。 今回は、多くの名曲を残された平尾昌晃さんの人生を、歌とともに振り返りたいと思います。


 平尾昌晃(ひらお・まさあき)さんは、太平洋戦争開戦直前の1937(昭和12)年12月24日、東京市牛込(現在の東京都新宿区)で生まれました。
 
 終戦直後の小学3年生の時、平尾少年は、アメリカ軍将校からもらったジャズのLPレコードをもらって衝撃を受け、西洋音楽に興味をもつようになりました。

 11歳の時には、海岸で行われた「のど自慢大会」に飛び入り出場し、ジャズの名曲「奥様お手をどうぞ」を英語で歌って、鐘三つ(合格?)をもらい、賞品としてスイカをもって帰ったというエピソードが残っています。


  若き日の平尾昌晃さんは神奈川県茅ケ崎市に住み、「慶応義塾高校(神奈川県横浜市)」に入学し、歌手の加山雄三さんや俳優の川口浩さん(テレビ朝日系の「水曜スペシャル」の探検隊の川口隊長として有名でした)などと知り合いました。

 また、高校在学中に「日本ジャズ学校」に入り、アメリカ軍キャンプのジャズ・ボーカルの試験にも合格しました。
 その後、高校を中退し、アメリカ軍キャンプやジャズ喫茶を舞台にバンドで活躍しました。

 1957(昭和32)年、平尾さんが19歳の時、ジャズ喫茶「テネシー」で歌っていた昌晃さんは、渡辺プロの渡辺美佐社長と映画監督の井上梅次監督にスカウトされました。

 その後、1957(昭和32)年公開の大ヒット映画「嵐を呼ぶ男」(主演・石原裕次郎さん)に出演し、翌1958(昭和33)年には、キングレコードから「リトル・ダーリン」でソロ・デビューしました。

 まもなく平尾昌晃さんは、ミッキー・カーチスさんや山下敬次郎さんと「ロカビリー三人男」として人気者になりました。

 平尾昌晃さんが歌った曲の中でも特に、1958年発売の「星は何でも知っている」♪(作詞:水島哲、作曲:津々美洋)と、1960年発売の「ミヨちゃん」♪(作詞・作曲 平尾昌晃)は、100万枚を超える大ヒットとなりました。

 そして、1960(昭和35)年暮れの「NHK紅白歌合戦」に、平尾昌晃さんは「ミヨちゃん♪」で初出場し、以後、3年連続で紅白出場を果たしました。

 それでは、平尾昌晃さんが作詞・作曲をし、自ら歌った「ミヨちゃん」の歌詞を紹介します。


♪「ミヨちゃん」(歌・作詞・作曲 平尾昌晃)♪

僕のかわいい ミヨちゃんは
色が白くて ちっちゃくて
前髪たらした かわいい娘
あの娘は 高校二年生

ちっとも美人じゃないけれど
なぜか僕をひきつける
つぶらなひとみに 出会う時
なんにもいえない 僕なのさ

(中略)

いまにみていろ 僕だって
すてきなかわいい恋人を
きっと見つけて みせるから
ミヨちゃん それまでサヨウナラ
サヨウナラ♪


<写真 えぼし岩と富士山(神奈川県茅ケ崎市)>






 1962(昭和37)年頃には、「ロカビリーブーム」が下火になり、平尾昌晃さんは歌手以外にも、俳優をするようになりました。
 しかし、それまでの無理がたたり、肺を悪くしたため、1963(昭和38)年には、慶応病院に入院しました。
 ところが、無断外泊をしたり、東京オリンピック(1964年開催)を見にいったりしたので、病気はよくなりませんでした。


 さらに、1965(昭和40)年2月、平尾昌晃さんは、ハワイから拳銃を不法で持ちかえった罪で逮捕され、22日間、拘留されました。
 このあと、平尾昌晃さんは、茅ケ崎にこもり、皿洗いをしたり、東京オリンピックの売れ残ったグッズを売ったりして生計をたてました。

 運よくその頃から、5年ほど前に平尾さんが作った曲「おもいで♪」が、北海道からブレークしました。それを受けて、本人も歌手にカンバックするつもりになっていました。
 ところが、肺の病気の悪化もあって、結局、平尾さんは自分で歌うことを断念し、布施明さんに「おもいで」を譲りました。

 1966(昭和41)年に、平尾昌晃さっが作曲した「霧の摩周湖」は、布施明さんが歌ってヒットし、1967(昭和42)年の「日本レコード大賞作曲賞」を受賞しました。

 ここから、平尾さんは、本格的に作曲家の道を歩もうとします。

 ところがそんな折も折、1968(昭和43)年3月に、平尾昌晃さんの肺の病気が悪化して結核になり、長野県岡谷市の「岡谷塩嶺(おかや・えんれい)病院」に入院しました。
 そこでは、肋骨6本を取るなど、2回の手術を行いました。

 結局、1969(昭和44)年の暮れまで、2年近く、平尾さんは療養生活を余儀なくされました。
 しかし、平尾昌晃さんは、「この経験が、その後の音楽活動の原点となった」と語っています。


 その言葉どおり、1970年代に入ると、平尾昌晃さんの作曲活動は充実の一途をたどります。
 1971年から1973年に作曲した、主な作品を紹介します。

・1971(昭和46)年 五木ひろしさん「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子さん「私の城下町」
・1972(昭和47)年 小柳ルミ子さん「瀬戸の花嫁」<日本歌謡大賞を受賞>
             天地真理さん「二人の日曜日」
・1973(昭和48)年 アグネス・チャンさん「草原の輝き」
             五木ひろしさん「夜空」<日本レコード大賞受賞>

 平尾さんはほかにも、伊東ゆかりさん、沢田研二さんなど、多くの人気歌手の歌を作曲しました。

 それでは、これらの中から、日本歌謡大賞を受賞し、2017年10月30日の平尾昌晃さんの葬儀でも歌われた、「瀬戸の花嫁♪」の歌詞を紹介します。

 この曲は、「私は嫁にいかずに、歌と結婚します。」という小柳ルミ子さんの言葉に、「それなら、歌の中で嫁に行かせてあげるよ。」と平尾昌晃さんが応え、広島県尾道市から四国へ行く「フェリーの風景」をイメージして、作った曲だと言われています。


♪「瀬戸の花嫁」(作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃、歌・小柳ルミ子)


瀬戸は日暮れて 夕波小波
あなたの島へ お嫁にゆくの
若いと誰もが 心配するけれど
愛があるから 大丈夫なの

だんだん畑と さよならするのよ
幼い弟 行くなと泣いた
男だったら 泣いたりせずに
父さん母さん 大事にしてね♪

<写真:瀬戸内海の夕焼け(広島県尾道市)>




 1974(昭和49)年、平尾昌晃さんは、「平尾昌晃音楽学校(のちの「平尾昌晃ミュージックスクール<HMS>)」を設立し、東京本校のほか、札幌、名古屋、大阪、福岡などにも地方校をおき、若手歌手の育成に力を入れました。
 
 HMSからは、狩人、石野真子、松田聖子、森口博子、倖田來未、後藤真希など、多くの若い人材が育っています。

 また、この学校の生徒の一人だった畑中葉子さんと平尾昌晃さんがデュエットした「カナダからの手紙」が、1978(昭和53)年に大ヒットし、この年の紅白歌合戦に、平尾昌晃さんは16年ぶり4回目の出場を決めています。

 1980年代には、平尾昌晃さんは、NHKの若者向け歌番組「レッツゴーヤング」の司会も務めています。

 ほかにも、香港の歌手だったアグネス・チャンさんが日本デビューをするきっかけを作ったり、テレビドラマの「必殺シリーズ」や「熱中時代」、アニメ「銀河鉄道999」などのテーマ曲も、作曲しています。

 2006(平成18)年から2016(平成28)年までは、NHK紅白歌合戦の最後に歌われる「蛍の光」の指揮も担当されました。

 それでは、1974年以降の主な作曲した作品を紹介します。

・1974(昭和49)年 中条きよしさん「うそ」
             アン・ルイスさん「グッドバイ・マイ・ラブ」
・1977(昭和52)年 山口百恵さん「赤い絆」(ドラマ「赤い」シリーズのテーマ)
             木ノ内みどりさん「走れ風のように」(刑事犬カールのテーマ)
・1978(昭和53)年 平尾昌晃さん・畑中葉子さん「カナダからの手紙」
             原田潤さん「ぼくの先生はフィーバー」(熱中時代のテーマ)
                                      ささきいさおさん「銀河鉄道999」
・1979(昭和54)年 水谷豊さん「カリフォルニア・コネクション」
            (熱中時代・刑事編のテーマ)
・1980(昭和55)年 松田聖子さん「Eighteen」


 1970年代の有名歌手がずらりと並んでいますね。
 この中から、私は、テレビドラマの「刑事犬カール」のテーマ曲「走れ風のように」を紹介したいと思います。

 この曲は、オリコンの最高順位は71位で売れていませんが、松本隆さんの詞と平尾昌晃さんの曲が絶妙で、「生涯青春」と話されていた平尾昌晃さんに、ピッタリの勇気の出る名曲だと思います。
 

♪「走れ風のように」(作詞:松本隆、作曲:平尾昌晃、歌:木之内みどり)♪


朝陽を追って 旅立つ君は何故
石ころの道を選ぶの
かかとがすりきれるまで
走って ゆきなさい
心の奥で何かきっと 弾けるわ
立ち止まる時 青春も終わるの
だからカール 走れ風のように

埃(ほこり)だらけの 坂道を見上げて
君は何故 やすまないの
どうして唇かんで 青空見るのよ
何処へと続く道か 誰も知らないわ
額の汗が 生きてるしるしなの
だからカール 走れ風のように

昨日はもう昔だし 明日はまだ先
大事なことは 今日が二度と来ないこと
立ち止まる時 青春も終わるの
だからカール 走れ風のように
走れ風のように♪


<写真 平尾昌晃さんが療養していた長野県岡谷市と諏訪湖>






 最後は、平尾昌晃さんが、1968(昭和43)年~1969(昭和44)年まで、2年近く、結核の療養のために入院していた長野県岡谷市の「岡谷塩嶺(おかや・えんれい)病院」があった岡谷市と、岡谷市民に、お礼をした話です。

 2014(平成26)年9月、平尾昌晃さんは、岡谷市立岡谷病院の「病院祭」での講演会の講師を引き受け、「私の作曲家人生の原点となった岡谷に恩返しをしたい。」と話しました。

 さらに、翌2015(平成27)年には、「岡谷市看護専門学校」の校歌を、自分で作詞・作曲してプレゼントしました。

 平尾昌晃さんが、思いを込めて作った校歌を、おしまいに紹介します。


♪岡谷市看護専門学校校歌「未来に向かって」(作詞・作曲 平尾昌晃)♪


晴れ渡る青空と 緑あふれる山々
諏訪湖見下ろす ここに集いし友たち
けわしい道も 夢にあふれて
希望の光 看護の道を歩き出す
心ひとつ みんなのために 未来のために
岡谷市看護専門学校

こだまする丘の上 さえずる小鳥のやさしさ
塩嶺の風 命を守る誓いを
水面に浮かぶ 青い輝き
看護のほこり 友と手をとり しなやかに
心ひとつ みんなのために 笑顔のために
岡谷市看護専門学校

凍てつく朝も 芽吹き信じて
学びし我ら 看護の夢に飛び立とう
心ひとつ みんなのために 未来のために
岡谷市看護専門学校♪