♪悲しい時が来ると 開く革の表紙
卒業写真のあの人は やさしい目をしてる♪
3月になるとよく
ユーミンの「卒業写真」の歌詞とメロディーを耳にします。
この曲を聞くと、誰もがセピア色のあの頃と、
やさしい目をした初恋の「あの人」を、思い出すのではないでしょうか。
今回はこの歌詞に出てくる「あの人」の秘密と「卒業アルバムの思い出」について、紹介します。
<写真 「卒業アルバム」セピア色のクラス写真>
まず、名曲「卒業写真」の1番を紹介します。
♪「卒業写真」(歌:ハイ・ファイ・セット、歌・作詞・作曲:荒井由実(愛称ユーミン 1975年)
♪(1番)
悲しい時が来ると 開く革の表紙
卒業写真のあの人は やさしい目をしてる
町で見かけたとき 何も言えなかった
卒業写真の面影が そのままだったから
人混みに流されて 変わってゆく私を
あなたは ときどき 遠くで しかって♪
この曲を聞いて、悲しい時がくる度に卒業アルバムをめくり、
初恋のあの人の写真を見て、
癒された経験をした人も多いのではないでしょうか。
私自身も、高校時代の初恋のあの人の写真を、
何度も見ては「がんばろう」と思ったものです。
ところが、
この歌の作詞者の荒井由実(後に結婚して松任谷由実)さんが書いた、
「あの人」は、
初恋の人でも、憧れの異性でも、なかったそうです。
それでは、「あの人は誰?」ということになりますね。
その以外な「あの人」のことは、後半にお話します。
<卒業アルバム>
さて、日本の「卒業アルバムの歴史」は、諸説あって始まりを特定は難しいのです。
一説には、あの「桜田門外の変」があった、万延元(1860)年生まれの
写真家・小川一真(おがわいっしん)さんが作ったのが最初だと言われています。
小川一心(1860年~1929(昭和4)年)さんは、
現在の埼玉県行田市出身の写真家で、アメリカへ留学しました。
再婚相手は、あの板垣退助の三女・えんさんだったと言われています。
明治31(1898)年には、日本初の「鉄道写真集」を作ったことでも有名です。
この小川一心さんが、日露戦争が始まった明治37(1904)年に、東京帝国大学の「卒業写真帖」を作ったのが、日本初の「卒業アルバム」だと言われています。
当時の値段は、1冊45円(現在の値段で100万円近く)でした。
その後、「卒業アルバム」は、
全国の大学、高校、中学、そして幼稚園などに広まったということですので、
その歴史は100年以上ということになります。
名曲「卒業写真」が発表された、昭和50年頃は、
「卒業アルバム」全盛の時代でしたが、
最近ではデジタル化や個人情報の問題などで、
「卒業アルバム」も曲がり道にきているとも言われています。
ただ、1冊の単価は、今も1万円以上しています。
さて、人によって、思い入れのある「卒業写真・アルバム」は、
小学校から大学・専門時代まで、いろいろあると思います。
私の場合は、やっぱり高校の卒業アルバムが一番の思い出です。
勉強は大変だったけど、思春期で違うクラスの異性にキュンキュン・ドキドキした
「初恋のあの人」が「卒業アルバム」の中で、
今も「青春そのもの」の象徴として、やさしい目をしています。
その人の消息は、風の噂でしか知りませんが、
名曲「卒業写真♪」の歌詞のとおり、
辛い時、苦しい時、今も、あのページを何度となくめくって見ています。
最近になって、「卒業アルバム」は、もう一つの役割をもつようになりました。
それは、若くして亡くなった友達の写真の思い出です。
毎朝、一緒に高校へ自転車と列車で通っていた同級生は、小学校の先生をしていました。
ところが、突然、白血病になり、半年後に他界しました。
その人の卒業写真を見ると、「この友の分まで、一生懸命に生きよう」と、
いつも勇気をもらっています。
<写真 体育祭のフォークダンス>
それでは、「卒業写真♪」の2番をご覧ください。
♪(2番)
話かけるように ゆれる柳の下を
通った道さえ 今はもう 電車から 見るだけ
あの頃の生き方を あなたは忘れないで
あなたは 私の青春 そのもの
人ごみに流されて 変わってゆく私を
あなたは ときどき 遠くでしかって
あなたは 私の青春 そのもの♪
さて、そろそろ宿題をしましょうか
ユーミンの「卒業写真♪」の「あの人」は誰かというと、
荒井(松任谷)由実さんが、卒業された立教女学院高等学校に伝わる伝説によると
この歌の「あの人」とは、「初恋の人」ではなく、
高校時代の女性の先生のことだそうです。
そう聞いて、この歌の歌詞を、もう一度、読みなおして見ると
全然、違う意味になりそうですね。
2番の
「人ごみに流されて 変わってく私を
あなたは ときどき 遠くでしかって」
という歌詞は、先生に自分の生き方を「しかってください」と言っているのですね。
なるほどね。
でも、私は、やっぱり
「初恋の人=やさしい目をしたあの人」であってほしいと思います。
<写真 制服>
最後は、「卒業文集」の言葉を2つ紹介します。
1つは、大リーガーとして、数々の記録を作ったあのイチロー(1973年 愛知県生まれ)選手の「小学校の卒業の言葉」です。
「ぼくの夢」 鈴木一朗
ぼくの夢は 一流のプロ野球選手になることです。
そのためには、中学、高校でも、全国大会に出て 活躍しなけばなりません。
活躍できるようになるには、練習が必要です。
ぼくはその練習には、自信があります。
ぼくは3才の時から、練習をはじめています。
3才から7才ぐらいまでは、(1年のうち)半年くらい練習をしていましたが、
3年生の時から今までは、365日中360日は、はげしい練習をやっています。
だから1週間中、友だちと遊べる時間は、5時間から6時間のあいだです。
そんなに練習しているんだから、必ずプロ野球の選手になれると思います。
そして、中学、高校で活躍して、高校を卒業してから、プロに入団するつもりです。
そして、その球団は、中日ドラゴンズか西武ライオンズが夢です。
ドラフト入団で、けいやく金は1億円以上が、目標です。
ぼくがじしんがあるのは、投手と打げきです。
去年の夏、ぼくたちは全国大会へ行きました。
そしてほとんどの投手をみてきましたが、
自分が大会ナンバー1投手と、かくしんできるほどです。
打げきでは、県大会4試合のうちで、ホームランを3本打ちました。
そして、全体をとおして、打りつは、5わり8ぶ3りんでした。
このように、自分でもなっとくのいく、せいせきでした。
そして、ぼくたちは1年間、まけしらずで野球ができました。
だから、このちょうしで、これからもがんばります。
そして、ぼくが一流の選手になって、しあいに出れるようになったら、
お世話になった人たちに、招待券をくばって、応援してもらうのも一つです。
とにかく、一番大きな夢は、プロ野球選手になることです。
イチロー選手は、小学校の時から具体的な夢ですね。
その夢を実現し、いや、それ以上になっているのは、すごいですね。
もう一つの「卒業」の言葉は、「いつも笑顔で」です。
卒業の寄せ書きの中にあった「あの人」のこの言葉を、
私はずっと胸に閉まって生きています。
笑顔の苦手で、すぐに悲観的になる私ですが、
心の底では「いつも笑顔で」ボジティブにと信じています。
「努力と勇気と心の笑顔」
これが、私が卒業アルバムからもらった言葉です。
2017年3月20日月曜日
2017年3月12日日曜日
6年めの3.11 崖っぷち日本に「奇跡の花」は咲く?
2017(平成29)年3月11日、2万人近い死者・行方不明者を出した「東日本大震災」から6年が経ちました。
地震・津波からの復興は、少しずつ進んでいますが、「福島原発」からの復興は正直、進んでいないと思います。
むき出しのまままの原子炉、
正体さえみえない核燃料、
100万トンを超える汚染水
29兆円以上の復校予算、
21兆円以上の廃炉費用、
そして、原発避難民いじめ
♪
現場は崖っぷち
女も崖っぷち
日本の崖っぷち
3度のメシより 崖っぷち♪
(タイセン工業のCM)
妙にこのCMソングが、耳から離れません。
「原発避難民いじめ」や
「原発廃炉の実態」の話は、別の回に詳しくしたいと思います。
「6年目の3月11日」がテーマの今回は
崖ぶっちの「福島原発」の話はではなく、
あえて
「崖っぷち日本」のミラクルを信じて、
3つの「奇跡の花」の話をします。
<写真 竹林>
まず1つめの奇跡の花は「竹の花」です。
竹はイネ科の植物ですが、「竹の七不思議」と言われるほどよくわからないことの多い植物です。
たとえば、竹は1日1m、3ヶ月で竹藪ができるほど成長しますが、その後はピタッと止まり、高くも太くもなりません。
この話を、ある竹細工の職人さんから聞いた時は、半信半疑でしたが、どうやら事実らしいです。
そんな竹は、ほとんど花を咲かせませんが、
モウソウチクは67年に1回、マダケは約120年に1度だけ一斉に咲いて、
そして、その花が散る時、あたり一帯の竹が一斉に枯れてしまいます。
モウソウチクは、1912年→1979年に咲いた記録と、1930年→1997年に咲いたという2つの記録があります。
マダケは、1970(昭和45)年に日本だけでなく、世界の各国で一斉に花が咲いた記録があります。
120年後だと、次は、2090年頃ですね。
その頃、日本や世界はどうなっているのでしょうか?
それにしても、不思議な奇跡の花「竹」ですね。
<写真 竹の花>
2つめの奇跡の花は「蓮(はす)」の花です。
蓮の根は泥の中で育ちます。
汚い泥の中で育った花ですが、泥に染まらない「泥くさくない美しい花」を咲かせます。
お釈迦様が座っておられるのは実は「蓮の花」の台座です。
芥川龍之介の名作「蜘蛛の糸」で、お釈迦様のおられる極楽の池に咲いているのも「蓮の花」です。
被災地の津波の泥の中から、復興のシンボルとして咲くのに、
蓮の花ほどふさわしい花はないと思います。
♪「男はつらいよ」♪
♪(2番)
どぶに落ちても 根のあるやつは
いつかは 蓮(はちす)の花と咲く
意地は張っても 心の中じゃ 泣いているんだ 兄さんは
目方で男が売れるなら
こんな苦労も こんな苦労も
かけまいに かけまいに
男とゆうもの つらいもの
顔で笑って 顔で笑って
腹で泣く 腹で泣く♪
(映画「男はつらいよ」のテーマ(歌:渥美清、作詞:星野哲郎、作曲:山本直純)
<写真 蓮(はす)の花>
最後、3つめの奇跡の花は「名曲 花は咲く♪」(作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)です。
東日本大震災の「復興支援ソング」として、
震災の翌年、2012(平成24)年に作られました。
「この歌は、震災で亡くなられた方の目線で作りました。」
と語る作詞者の岩井俊二さんは、1963(昭和38)年に宮城県仙台市、
つまり、東日本大震災の被災地の出身です。
映画「Love Letter」(1993年)や「スワロウテイル」(1996年)などの監督として知られていますが、他に作家、作曲家、脚本家としても知られています。
一方、作曲をした菅野よう子さんも、宮城県仙台市出身の作曲家で、1967(昭和42)年生まれです。
奇跡の震災応援ソング「花は咲く」は、
宮城県出身の2人が作詞・作曲し、
「花は咲くプロジェクト」という名前で、東日本大震災被災地の岩手県、宮城県、福島県の出身、ゆかりの有名人が歌っています。
主な参加者は、千昌夫さん(歌手・岩手県陸前高田市出身)、新沼謙二さん(歌手・岩手県大船渡市出身)、荒川静香さん(アイススケートのオリンピック金メダリスト・宮城県仙台市出身)、中村雅俊さん(俳優・宮城県女川町出身)、西田敏行さん(俳優、歌手・福島県郡山市出身)、秋吉久美子さん(女優・福島県いわき市出身)などです。
他にも多くの有名人が参加し、「花は咲く」の作詞・作曲家への印税は、全額がNHK放送文化事業団を通じて被災地の「自治体に義援金」として寄付されています。
被災地でとったアンケートでは、「元気をもらった歌」のナンバー1になったのが、「花は咲く」でした。
2017(平成29)年3月11日、東京都千代田区の国立劇場で行われた「政府主催の東日本大震災追悼式」で、岩手県の遺族代表の千葉陽さんはこう話されました。
「あの時から、もう6年でもあり、まだ6年でもあります。
(中略)
その災害から、何とか生き残った者として、精いっぱいに生きることを全うすること、
そして、様々なことで起きる「つらさ」を「幸せ」に変えられるように、
いまの自分が持てる力が役立つのならば、少しでもできることをしていきたいと思います。」
「つらさを幸せに変える」のは簡単ではありませんが、
生き残った我々が努力しないと、震災犠牲者の祈りを無駄にしてしまいます。
改めて、2011年3月11日の教訓を少し紹介します。
地震発生直後の発表では、
マグニチュード7.9(後に9.0に訂正)
予想津波貴は3~6m(実際には10m以上、最大40m)
原発は「調査中、メルトダウンはしていない」(実際は爆発、メルトダウン)
と、過少評価していました。
最初の情報で安心せず、
「最悪」を考え、命を守るためにベストを尽くしましょう。
今すぐできる備えを1つ紹介します。
交通遮断に備えて、
「会社、学校、避難所から自宅までの地図をもち、歩いてみる。」
「車をお持ちの方は、いつもガソリンを半分以上、入れておく。(自衛隊ではやっています。)」
<写真 桜の花>
最後に「崖っぶち日本」の復興を願って、奇跡の名曲「花は咲く♪」の歌詞を紹介します。
♪「花は咲く」(歌:花は咲くプロジェクト 作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)♪
♪
真っ白な 雪道に 春風香る
わたしは 懐かしい あの街を思い出す
叶えたい 夢もあった 変わりたい 自分もいた
今はただ 懐かしい あの人を思い出す
誰かの歌が聞こえる 誰かを励ましてる
誰かの笑顔が見える 悲しみの向こう側に
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう
夜空の 向こうの 朝の気配に
わたしは 懐かしい あの日々を思い出す
傷ついて 傷つけて 報われず泣いたりして
今はただ 愛おしい あの日々を思い出す
誰かの想いが見える 誰かと結ばれてる
誰かの未来が見える 悲しみの向こう側に
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろ
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く いつか恋する君のために♪
日本の 「3つの奇跡の花」が、日本の奇跡の復興を支えてくれると、信じていたいですね。
地震・津波からの復興は、少しずつ進んでいますが、「福島原発」からの復興は正直、進んでいないと思います。
むき出しのまままの原子炉、
正体さえみえない核燃料、
100万トンを超える汚染水
29兆円以上の復校予算、
21兆円以上の廃炉費用、
そして、原発避難民いじめ
♪
現場は崖っぷち
女も崖っぷち
日本の崖っぷち
3度のメシより 崖っぷち♪
(タイセン工業のCM)
妙にこのCMソングが、耳から離れません。
「原発避難民いじめ」や
「原発廃炉の実態」の話は、別の回に詳しくしたいと思います。
「6年目の3月11日」がテーマの今回は
崖ぶっちの「福島原発」の話はではなく、
あえて
「崖っぷち日本」のミラクルを信じて、
3つの「奇跡の花」の話をします。
<写真 竹林>
まず1つめの奇跡の花は「竹の花」です。
竹はイネ科の植物ですが、「竹の七不思議」と言われるほどよくわからないことの多い植物です。
たとえば、竹は1日1m、3ヶ月で竹藪ができるほど成長しますが、その後はピタッと止まり、高くも太くもなりません。
この話を、ある竹細工の職人さんから聞いた時は、半信半疑でしたが、どうやら事実らしいです。
そんな竹は、ほとんど花を咲かせませんが、
モウソウチクは67年に1回、マダケは約120年に1度だけ一斉に咲いて、
そして、その花が散る時、あたり一帯の竹が一斉に枯れてしまいます。
モウソウチクは、1912年→1979年に咲いた記録と、1930年→1997年に咲いたという2つの記録があります。
マダケは、1970(昭和45)年に日本だけでなく、世界の各国で一斉に花が咲いた記録があります。
120年後だと、次は、2090年頃ですね。
その頃、日本や世界はどうなっているのでしょうか?
それにしても、不思議な奇跡の花「竹」ですね。
<写真 竹の花>
2つめの奇跡の花は「蓮(はす)」の花です。
蓮の根は泥の中で育ちます。
汚い泥の中で育った花ですが、泥に染まらない「泥くさくない美しい花」を咲かせます。
お釈迦様が座っておられるのは実は「蓮の花」の台座です。
芥川龍之介の名作「蜘蛛の糸」で、お釈迦様のおられる極楽の池に咲いているのも「蓮の花」です。
被災地の津波の泥の中から、復興のシンボルとして咲くのに、
蓮の花ほどふさわしい花はないと思います。
♪「男はつらいよ」♪
♪(2番)
どぶに落ちても 根のあるやつは
いつかは 蓮(はちす)の花と咲く
意地は張っても 心の中じゃ 泣いているんだ 兄さんは
目方で男が売れるなら
こんな苦労も こんな苦労も
かけまいに かけまいに
男とゆうもの つらいもの
顔で笑って 顔で笑って
腹で泣く 腹で泣く♪
(映画「男はつらいよ」のテーマ(歌:渥美清、作詞:星野哲郎、作曲:山本直純)
<写真 蓮(はす)の花>
最後、3つめの奇跡の花は「名曲 花は咲く♪」(作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)です。
東日本大震災の「復興支援ソング」として、
震災の翌年、2012(平成24)年に作られました。
「この歌は、震災で亡くなられた方の目線で作りました。」
と語る作詞者の岩井俊二さんは、1963(昭和38)年に宮城県仙台市、
つまり、東日本大震災の被災地の出身です。
映画「Love Letter」(1993年)や「スワロウテイル」(1996年)などの監督として知られていますが、他に作家、作曲家、脚本家としても知られています。
一方、作曲をした菅野よう子さんも、宮城県仙台市出身の作曲家で、1967(昭和42)年生まれです。
奇跡の震災応援ソング「花は咲く」は、
宮城県出身の2人が作詞・作曲し、
「花は咲くプロジェクト」という名前で、東日本大震災被災地の岩手県、宮城県、福島県の出身、ゆかりの有名人が歌っています。
主な参加者は、千昌夫さん(歌手・岩手県陸前高田市出身)、新沼謙二さん(歌手・岩手県大船渡市出身)、荒川静香さん(アイススケートのオリンピック金メダリスト・宮城県仙台市出身)、中村雅俊さん(俳優・宮城県女川町出身)、西田敏行さん(俳優、歌手・福島県郡山市出身)、秋吉久美子さん(女優・福島県いわき市出身)などです。
他にも多くの有名人が参加し、「花は咲く」の作詞・作曲家への印税は、全額がNHK放送文化事業団を通じて被災地の「自治体に義援金」として寄付されています。
被災地でとったアンケートでは、「元気をもらった歌」のナンバー1になったのが、「花は咲く」でした。
2017(平成29)年3月11日、東京都千代田区の国立劇場で行われた「政府主催の東日本大震災追悼式」で、岩手県の遺族代表の千葉陽さんはこう話されました。
「あの時から、もう6年でもあり、まだ6年でもあります。
(中略)
その災害から、何とか生き残った者として、精いっぱいに生きることを全うすること、
そして、様々なことで起きる「つらさ」を「幸せ」に変えられるように、
いまの自分が持てる力が役立つのならば、少しでもできることをしていきたいと思います。」
「つらさを幸せに変える」のは簡単ではありませんが、
生き残った我々が努力しないと、震災犠牲者の祈りを無駄にしてしまいます。
改めて、2011年3月11日の教訓を少し紹介します。
地震発生直後の発表では、
マグニチュード7.9(後に9.0に訂正)
予想津波貴は3~6m(実際には10m以上、最大40m)
原発は「調査中、メルトダウンはしていない」(実際は爆発、メルトダウン)
と、過少評価していました。
最初の情報で安心せず、
「最悪」を考え、命を守るためにベストを尽くしましょう。
今すぐできる備えを1つ紹介します。
交通遮断に備えて、
「会社、学校、避難所から自宅までの地図をもち、歩いてみる。」
「車をお持ちの方は、いつもガソリンを半分以上、入れておく。(自衛隊ではやっています。)」
<写真 桜の花>
最後に「崖っぶち日本」の復興を願って、奇跡の名曲「花は咲く♪」の歌詞を紹介します。
♪「花は咲く」(歌:花は咲くプロジェクト 作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)♪
♪
真っ白な 雪道に 春風香る
わたしは 懐かしい あの街を思い出す
叶えたい 夢もあった 変わりたい 自分もいた
今はただ 懐かしい あの人を思い出す
誰かの歌が聞こえる 誰かを励ましてる
誰かの笑顔が見える 悲しみの向こう側に
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう
夜空の 向こうの 朝の気配に
わたしは 懐かしい あの日々を思い出す
傷ついて 傷つけて 報われず泣いたりして
今はただ 愛おしい あの日々を思い出す
誰かの想いが見える 誰かと結ばれてる
誰かの未来が見える 悲しみの向こう側に
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろ
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く いつか恋する君のために♪
日本の 「3つの奇跡の花」が、日本の奇跡の復興を支えてくれると、信じていたいですね。
2017年3月6日月曜日
アイドルの坂道(4)18歳で星になった私立恵比寿中学・松野莉奈さん
2017(平成29)年2月8日、女性アイドルグループ「私立恵比寿中学」のメンバー、松野莉奈(まつのりな)さんが、「致死性不整脈」の疑いで急死しました。
松野莉奈さんは、この春、高校を卒業予定の18歳でした。
2月25日に、神奈川県横浜市の「パシフィコ横浜」で行われた行われた「松野莉奈さんお別れ会」には、私立恵比寿中学メンバーやお姉さんグループの「ももいろクローバーZ」のメンバーをはじめ、ファンや関係者など2万人が参列しました。
<写真 「松野莉奈さんお別れ会」で飾られた遺影>
これまでに「アイドルの坂道」で紹介した乃木坂46の西野七瀬さんや橋本奈々未さん、女優の新垣結衣さんは、「アイドル戦国時代」の頂点に立つ成功したアイドルでした。
もちろん、そんなアイドルたちがどうやって頂点まで坂道を登ってきたかは、「伝記」を読んでいるようで楽しく興味深いものですのですので、これからも、紹介していこうと思っています。
一方で、ほとんどのアイドルは、「アイドルの坂道」の途中で諦めたり、倒れたり、転げ落ちたりしています。
当然、こちらのアイドルたちの生き様も、紹介していきたいと思っています。
今回の松野莉奈さんは、女性アイドルの頂点に立つグループの一つ「ももいろクローバーZ」の、妹分「私立恵比寿中学」のメンバーの一人として活躍していましたので、アイドルとしてはかなり人気のある方でしたが、「アイドルの坂道の途中」で急逝しました。
松野莉奈(まつのりな)さんは、1998(平成10)年7月16日、東京都内で生まれました。
莉奈さんは一人っ子で、お父さんはイタリア料理のシェフ、お母さんはパティシエです。
彼女自身も「お菓子作り」が大好きでした。
莉奈さんは、小学1年生の時、東京・表参道でスカウトされて芸能界入りしました。
以後、スターダストプロモ-ションに所属し子役として活躍します。
テレビドラマでは、小学2年(8歳)の時、「下北サンディーズ」(2006年、テレビ朝日)や「役者魂」(2006年、フジテレビ)などに出演しました。
映画では「1303号室」(及川中監督、スリージー・コミニケーションズ、2007年)などに出演し、日本マクドナルドや住友生命のCMにも出演し活躍しました。
2010(平成22)年5月、「ももクロ」の妹分のアイドルグループ「私立恵比寿中学」のメンバーになりました。
松野さんの愛称は「りななん」、出席番号は9番で、イメージカラーは青でした。
このため、2017年2月25日の「お別れ会」では、青い花で祭壇が埋め尽くされ、ファンの多くが青い服を着たり、ブルーの花をもって参列しました。
松野莉奈さんが所属していたアイドルグループ「私立恵比寿中学(しりつえびすちゅうがく)」は、所属する「スターダスト・プロモーション」が東京都渋谷区恵比寿にあることから、この名前がつけられました。(乃木坂46と似ていますね。でも「恵比寿中学」の先にできています。)
私立恵比寿中学は、「キレのないダンスと不安定な歌唱力?」をキャッチフレーズに、2009年に5人で結成されました。
「永遠の中学生」がコンセプトのため、メンバーは、15歳で中学を卒業しても、中学4年(16歳=高校1年)、中学5年(17歳)とずっと中学生でカウントされます。
さしずめ、18歳の松野莉奈さんは、「永遠の中学6年生」ということになりますね。
「私立恵比寿中学」のメンバーは、変遷を重ねますが、2017年2月に松野莉奈さんが亡くなった時には、メンバーは8人でした。(現在は7人ということになります。)
<写真 JR恵比寿駅(東京都渋谷区)>
東京都内の中学、高校に通いながら芸能活動を続けていた松野莉奈さんですが、実は小さい頃から、病弱でした。
幼い頃から入退院を繰り返し、3歳の時にはけいれんを起こして、あと3分遅ければ危なかったそうです。
高校に入っても、毎年、健康診断のたびに「不整脈」と言われていたのですが、持ち前の明るさと根性で周りには、不安を感じさせませんでした。
身長も、どんどん伸び、女子アイドルとしては非常に高身長の170cmになり、大人びて見えました。
「りななん」というニックネーム以外に、「エッフェル塔」とも呼ばれていましたが、おかげでモデルの仕事もするようになりました。
自己紹介でも、「あたし、ま・つ・の(♪ここまで、あみんの「待つわ」の節で♪)、りなです。見た目は大人、中身は子供。出席番号9番、松野莉奈です。」と言っていました。
松野莉奈さんは、メンバーにもファンにも愛されていました。
公式ブログに掲載された、松野莉奈さんの死を悼んだ私立恵比寿中学のメンバーの言葉を、少し紹介します。
「絶対に言えることは、皆様と一緒でりなを愛しているということ。
りなが残してくれた思い出や教えてくれたことを大切にしていきたい! ということです。
最強の8人!!
気持ちはりなと一緒に、
前を向いて
エビ中は未来に進みます。」
(私立恵比寿中学 出席番号5番 安本彩花)
この写真、よく見ると、松野莉奈さんの左手に数珠を持っています。 天国(極楽)へ旅立ち、りななんは「永久に夜空に輝くアイドル星になった」と信じたいですね。
松野莉奈さんのインスタグラムに寄せられたファンの声も、少し紹介します。
「私にとってりななんは憧れの存在。
これからりななんを見れないのは、凄く悲しいけれど、
りななんは空から見守ってくれてるから、頑張れるよ。
沢山の笑顔をありがとう。ゆっくり休んでね。
永遠にエビ中ファミリーです。大好きです。」
(aya ebihina0329さん)
「りななん、ずっとずっと大好きです。
一生の推しです。また、どこかで会おうね。
アイドルになってくれて、エビ中にいてくれて本当にありがとう!
アイドルも女優もモデルもしてるところ、全部キラキラしてて、
いつの間にか私の生きるモチベーションになってました。」
(miiiii0319さん)
ファンの気持ちって、本当にありがたくすごいですね。
最後は、松野莉奈さんのソロ曲の歌詞の一部を紹介します。
♪「できるかな?」(歌:松野莉奈、作詞・作曲:大内正徳)♪
♪
いつか私も 逆上がりできるかな?
泣きながら練習してたら あなたが教えてくれたから
いつか あなたと仲直り できるかな?
優しかったり 冷たかったり 男の子分かんないから
いつか 勉強頑張って できるかな?
行きたい学校があるの あなたも志望しているから
いつか 私も恋人が できるかな?
女の子から言わせないで 私、ずっと待ってるから
(中略)
いつか 上手にお別れできるかな?
誰にも迷惑かけないで あなたの所 行きたいから
また 二人で暮らしたいから
ラララ ♪
18歳の松野莉奈さんには、本当に残念な死だったでしょうが、
みんなに愛され、2万人に見送られ、
「誰にも迷惑かけないで、上手にお別れ」できたと思います。
アイドルの坂道も、人生の坂道も、大変ですね。
ファイト!
松野莉奈さんは、この春、高校を卒業予定の18歳でした。
2月25日に、神奈川県横浜市の「パシフィコ横浜」で行われた行われた「松野莉奈さんお別れ会」には、私立恵比寿中学メンバーやお姉さんグループの「ももいろクローバーZ」のメンバーをはじめ、ファンや関係者など2万人が参列しました。
<写真 「松野莉奈さんお別れ会」で飾られた遺影>
これまでに「アイドルの坂道」で紹介した乃木坂46の西野七瀬さんや橋本奈々未さん、女優の新垣結衣さんは、「アイドル戦国時代」の頂点に立つ成功したアイドルでした。
もちろん、そんなアイドルたちがどうやって頂点まで坂道を登ってきたかは、「伝記」を読んでいるようで楽しく興味深いものですのですので、これからも、紹介していこうと思っています。
一方で、ほとんどのアイドルは、「アイドルの坂道」の途中で諦めたり、倒れたり、転げ落ちたりしています。
当然、こちらのアイドルたちの生き様も、紹介していきたいと思っています。
今回の松野莉奈さんは、女性アイドルの頂点に立つグループの一つ「ももいろクローバーZ」の、妹分「私立恵比寿中学」のメンバーの一人として活躍していましたので、アイドルとしてはかなり人気のある方でしたが、「アイドルの坂道の途中」で急逝しました。
松野莉奈(まつのりな)さんは、1998(平成10)年7月16日、東京都内で生まれました。
莉奈さんは一人っ子で、お父さんはイタリア料理のシェフ、お母さんはパティシエです。
彼女自身も「お菓子作り」が大好きでした。
莉奈さんは、小学1年生の時、東京・表参道でスカウトされて芸能界入りしました。
以後、スターダストプロモ-ションに所属し子役として活躍します。
テレビドラマでは、小学2年(8歳)の時、「下北サンディーズ」(2006年、テレビ朝日)や「役者魂」(2006年、フジテレビ)などに出演しました。
映画では「1303号室」(及川中監督、スリージー・コミニケーションズ、2007年)などに出演し、日本マクドナルドや住友生命のCMにも出演し活躍しました。
2010(平成22)年5月、「ももクロ」の妹分のアイドルグループ「私立恵比寿中学」のメンバーになりました。
松野さんの愛称は「りななん」、出席番号は9番で、イメージカラーは青でした。
このため、2017年2月25日の「お別れ会」では、青い花で祭壇が埋め尽くされ、ファンの多くが青い服を着たり、ブルーの花をもって参列しました。
松野莉奈さんが所属していたアイドルグループ「私立恵比寿中学(しりつえびすちゅうがく)」は、所属する「スターダスト・プロモーション」が東京都渋谷区恵比寿にあることから、この名前がつけられました。(乃木坂46と似ていますね。でも「恵比寿中学」の先にできています。)
私立恵比寿中学は、「キレのないダンスと不安定な歌唱力?」をキャッチフレーズに、2009年に5人で結成されました。
「永遠の中学生」がコンセプトのため、メンバーは、15歳で中学を卒業しても、中学4年(16歳=高校1年)、中学5年(17歳)とずっと中学生でカウントされます。
さしずめ、18歳の松野莉奈さんは、「永遠の中学6年生」ということになりますね。
「私立恵比寿中学」のメンバーは、変遷を重ねますが、2017年2月に松野莉奈さんが亡くなった時には、メンバーは8人でした。(現在は7人ということになります。)
<写真 JR恵比寿駅(東京都渋谷区)>
東京都内の中学、高校に通いながら芸能活動を続けていた松野莉奈さんですが、実は小さい頃から、病弱でした。
幼い頃から入退院を繰り返し、3歳の時にはけいれんを起こして、あと3分遅ければ危なかったそうです。
高校に入っても、毎年、健康診断のたびに「不整脈」と言われていたのですが、持ち前の明るさと根性で周りには、不安を感じさせませんでした。
身長も、どんどん伸び、女子アイドルとしては非常に高身長の170cmになり、大人びて見えました。
「りななん」というニックネーム以外に、「エッフェル塔」とも呼ばれていましたが、おかげでモデルの仕事もするようになりました。
自己紹介でも、「あたし、ま・つ・の(♪ここまで、あみんの「待つわ」の節で♪)、りなです。見た目は大人、中身は子供。出席番号9番、松野莉奈です。」と言っていました。
松野莉奈さんは、メンバーにもファンにも愛されていました。
公式ブログに掲載された、松野莉奈さんの死を悼んだ私立恵比寿中学のメンバーの言葉を、少し紹介します。
「絶対に言えることは、皆様と一緒でりなを愛しているということ。
りなが残してくれた思い出や教えてくれたことを大切にしていきたい! ということです。
最強の8人!!
気持ちはりなと一緒に、
前を向いて
エビ中は未来に進みます。」
(私立恵比寿中学 出席番号5番 安本彩花)
「りな、これからも凛としたお花の様に、私達、そしてエビ中ファミリーの皆さんの心の中で、美しく生き続けてください。そして、りなを大切に大切に育て、守ってくださった御両親を、今度はりなが守ってください。
まだまだ伝えたい思いは山ほどあるけれど、そっと心にしまいたい思います。
『りなの分もこれからも頑張ってね。』と言われた御両親のお言葉を胸に、
今後とも思いは8人で、私立恵比寿中学頑張ります。
まだまだすっと前を向くことはできませんが、
ファミリー(ファン)の皆様の支えが、メンバーの励みになっていると思います。
今後とも応援宜しくお願いします。」
(私立恵比寿中学 出席番号7番 星名美怜)
「出席番号も自己紹介も
前に進まないと
今後とも思いは8人で、私立恵比寿中学頑張ります。
まだまだすっと前を向くことはできませんが、
ファミリー(ファン)の皆様の支えが、メンバーの励みになっていると思います。
今後とも応援宜しくお願いします。」
(私立恵比寿中学 出席番号7番 星名美怜)
「出席番号も自己紹介も
いつもりなが隣にいてくれました。
7人になったけれど
私の隣にはずっと
松野莉奈がいます。
そして
心は8人のエビ中です。
前に進まないと
りなに叱られる気がするので
これからも一緒に笑って
一緒に泣こうとおもいます。
私はひなた。
青い空があるから生きていける。
私はずっと
ひなたでまつの。
ひなたとまつの。」
(私立恵比寿中学 出席番号10番 柏木ひなた)
松野莉奈さんは両親とも仲がよく、亡くなる直前の2月4日から5日まで、神奈川県箱根に家族旅行に行き、その時の写真を載せたインスタグラムが、最後になってしまいました。
<写真 松野莉奈さんがインスタグラムに掲載した最後の写真と記事「箱根にて」)
松野莉奈さんは両親とも仲がよく、亡くなる直前の2月4日から5日まで、神奈川県箱根に家族旅行に行き、その時の写真を載せたインスタグラムが、最後になってしまいました。
<写真 松野莉奈さんがインスタグラムに掲載した最後の写真と記事「箱根にて」)
この写真、よく見ると、松野莉奈さんの左手に数珠を持っています。 天国(極楽)へ旅立ち、りななんは「永久に夜空に輝くアイドル星になった」と信じたいですね。
松野莉奈さんのインスタグラムに寄せられたファンの声も、少し紹介します。
「私にとってりななんは憧れの存在。
これからりななんを見れないのは、凄く悲しいけれど、
りななんは空から見守ってくれてるから、頑張れるよ。
沢山の笑顔をありがとう。ゆっくり休んでね。
永遠にエビ中ファミリーです。大好きです。」
(aya ebihina0329さん)
「りななん、ずっとずっと大好きです。
一生の推しです。また、どこかで会おうね。
アイドルになってくれて、エビ中にいてくれて本当にありがとう!
アイドルも女優もモデルもしてるところ、全部キラキラしてて、
いつの間にか私の生きるモチベーションになってました。」
(miiiii0319さん)
ファンの気持ちって、本当にありがたくすごいですね。
最後は、松野莉奈さんのソロ曲の歌詞の一部を紹介します。
♪「できるかな?」(歌:松野莉奈、作詞・作曲:大内正徳)♪
♪
いつか私も 逆上がりできるかな?
泣きながら練習してたら あなたが教えてくれたから
いつか あなたと仲直り できるかな?
優しかったり 冷たかったり 男の子分かんないから
いつか 勉強頑張って できるかな?
行きたい学校があるの あなたも志望しているから
いつか 私も恋人が できるかな?
女の子から言わせないで 私、ずっと待ってるから
(中略)
いつか 上手にお別れできるかな?
誰にも迷惑かけないで あなたの所 行きたいから
また 二人で暮らしたいから
ラララ ♪
18歳の松野莉奈さんには、本当に残念な死だったでしょうが、
みんなに愛され、2万人に見送られ、
「誰にも迷惑かけないで、上手にお別れ」できたと思います。
アイドルの坂道も、人生の坂道も、大変ですね。
ファイト!
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