日本の歌で初めて全米1位になった「上を向いて歩こう」をはじめ、「見上げてごらん夜の星を」、「女ひとり」、「おさななじみ」、「いい湯だな」、「黒い花びら」、「黄昏のビギン」、「遠くへ行きたい」、「こんにちは赤ちゃん」などなど、数多くの名曲を作詞した永六輔(えい ろくすけ)さんが、2016(平成28)年7月7日に、肺炎のために83歳で亡くなられました。
今回は、永さんの名曲を紹介しながら、その人生をふりかえります。
永六輔(本名 永孝雄)さんは、1933(昭和8)年4月10日、東京府東京市(現在の東京都台東区)浅草で、最尊寺の住職を勤めていた家の子供として生まれました。
永さんは、江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称していたそうで、父や祖父は「永」という姓を「ヨン」と名乗っていました。
<永六輔さんの実家「最尊寺」(東京都台東区)>
永さんは東京・浅草の国民学校に通っていましたが、1944(昭和19)年に戦争が激しくなって、 長野県南大井村の国民学校に転学し、そこで終戦を向かえました。
長野では、東京の言葉を使うので、いじめられたそうです。
それでも、永さんは例の「江戸っ子なまり」をやめなかったそうです。
1946(昭和21)年、13歳になる年に長野県立(旧制)上田中学に入学します。
この頃は太平洋戦争の敗戦直後で、「教師たちは、戦争中に嘘を教えてきた」と怒った生徒たちは、先生たちにリンチを加え、ほとんどの生徒が参加しました。
たまりかねた学校側は警察に通報し全校集会を開催して、教師へのリンチに加わった者に起立するよう命じました。
この時、1年生で起立したのは、永さんともう一人だけでした。
集会のあと、教室に帰った永さんは、「君たちは卑怯だ。みんなあそこにいたじゃないか」と泣き叫びました。永さんの正義感がわかるエピソードですね。
翌1947年、永さんは東京へ帰り、早稲田中学2年に編入し、その後、早稲田高校に進学・卒業します。
早稲田中学時代はバイトに精を出し、終戦直後の秋葉原などで拾った鉄屑を売りました。
この鉄屑を引き取ってくれる業者の中に、後に俳優になる渥美清さんがいました。
永さんは、この貯めたバイト代で「鉱石ラジオ」の部品を購入し組み立て、NHKラジオの人気番組
「日曜娯楽版」(1947年~1952年)に葉書を投稿し、それがきっかけで番組スタッフになり、やがて放送作家への道が開けていきます。
<永さんの母校 早稲田中学・早稲田高校(東京都新宿区)>
ここまで、永六輔さんの少年時代を紹介しましたが、永六輔さんの数多い名曲の中でも、少年時代をテーマにした歌といえば「おさななじみ」(永六輔作詞、中村八大作曲)です。
その1番と3番を紹介します。
<🎵1番>
おさななじみの思い出は
青いレモンの味がする
閉じるまぶたのその裏に
幼い姿の君と僕
<🎵3番>
小学校の運動会
君は一等 僕はビリ
泣きたい気持ちでゴールイン
そのまま家まで駆けたっけ
この「おさななじみ」という歌は、1963(昭和38)年に永六輔が構成作家を務めていたNHKテレビの番組「夢であいましょう」の中で紹介され、デューク・エイセスが歌いました。
でも、永さん自身の長野での苦い少年時代を考えると、おさななじみの思い出は、本当は「青いレモン」の味ではなく、「青いリンゴ」の味なのかもしれませね。
<小学校の運動会>
永六輔さんは早稲田高校を卒業すると、1952(昭和27)年に早稲田大学第二文学部へ入学します。
在学中に、三木鶏郎(みきとりろう 1914年~1994年、NHKラジオ『日曜娯楽版』の発案者)さんに投稿した内容のおもしろさからスカウトされ、「トリローグループ」のメンバーとして放送作家、司会者としてデビューします。
永さんは、早稲田大学第二文学部を1952年に中退しますが、この早稲田大学で学んだことが後に活きてきます。同じ早稲田大学出身の作曲家・中村八大さんとの出会いです。
永さんは「八大さんあっての私です」と言っていました。
当時、「ビッグフォー」というジャズバンドの天才ピアニストだった中村八大さんから声をかけられ、永さんは初めて、作詞をするように勧められました。
それまでほとんど作詞をしていなかった永さんは、自分で考えてもいなかった才能を引き出してくれた大恩人が中村八大さんでした。
八大さんは、どう書いたらいいかわからない永さんに、「ぜったい書けるから」「とにかくやってみろ」と言って、歌の付録が付いていた雑誌「平凡」を参考にって渡してくれました。
そこで、1959(昭和34)年、永さん26歳の時に書いたのが『黒い花びら』でした。
これが、中村八大さん作曲、水原弘さんの歌でレコード化さて、みごと「第1回のレコード大賞」のグランプリを受賞しました。
永さんは「ぼくはおしゃべりをするように、日常会話で詞を書いてたんですけど、八大さんは、詞のムダな部分を一切削ぎ落とし、見事な歌に仕上げてくれました。」と語っています。
歴史の先生にでもなろうかと思っていた永さんが、作詞という才能を見い出だした瞬間でした。
永六輔さんと中村八大さんは、「六・八コンビ」と呼ばれ、この後も「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」など多くの名曲を作り出します。
それでは、第1回日本レコード大賞を受賞した「黒い花びら」の1番の歌詞を紹介します。
🎵「黒い花びら」 (作詞:永六輔 作曲:中村八大)
黒い花びら 静かに散った
あの人は帰らぬ 遠い夢
俺は知ってる
恋の悲しさ 恋の苦しさ
だから だから
もう恋なんか したくない
したくないのさ
20代の永六輔さんの詩は、「黒い花びら 静かに散った あの人は帰らぬ 遠い夢」と、まるで83歳の自分の死を追悼するような内容に思えます。
<永六輔さんが逝った2016年7月のレコード盤のような(?)夕焼け>
次回は、世界的ヒット曲の「上を向いて歩こう」などを中心に、永さんの作詞家人生を紹介したいと思っています。
1回目の最後に、永六輔さんの名言を、いくつか紹介します。
「人間、今が一番若いんだよ」
「生きているということは、誰かに借りをつくること。生きてゆくということは、その借りを返してゆくこと」「若いうちは貧乏がいいです。貧乏は歳をとってから経験するものではありません」
<マイ一句>
・永さんが 七夕の夜 星になる
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